上品さとは何か
上品さとは、欲望充足の直接性と効率性を否定することであり、上品さにおいて文化が自然から区別される。上品さは、上流階級の人々が富を衒示的に浪費することで示されるステータスシンボルである。
1. テーブルマナー
上品さとは何かをテーブルマナーを例にとって考えてみよう。スープを飲むとき、口を皿に直接付けて飲むことは、マナー違反である。スプーンという媒介を使って、動物的な直接性を否定しなければならない。しかも、スプーンでスープを飲むときは、手前から向こうへとスプーンを動かさなければならない。向こうから手前にすくって、口に運ぶ方が効率的なのだが、そうした効率性はあえて犠牲にされる。またスプーンを口に運ぶ時、猫背になってはいけない。背筋を伸ばした超然とした態度で、自分から欲望の対象に近づくのではなく、近づいてくるスープを待つかのようにして摂取する方が、優雅である。
パンを食べる時も、直接丸かじりしてはいけない。一口分の大きさにちぎって食べなければならない。また、バタークーラー(バターボール)に盛られているバターを直接パンにつけてはいけない。まずバタークーラーからバターナイフでバターをパン皿にとり、それから皿の上で一口大にちぎったパンに自分のバタースプレッダーでその都度バターをつけ、口に運ぶのがマナーである。あらかじめパンをすべてちぎって、まとめてバターを塗るほうが効率的だが、そうした効率的な食べ方は、見苦しい食べ方として軽蔑される。
このように、上品であるためには、直接性と効率性が否定されなければならないが、それはテーブルマナーに限ったことではない。洗練されたコミュニケーションについても同じことが言える。
2. 洗練されたコミュニケーション
私たちは、動物にある振る舞いをさせるように命令する時、鞭で打ったり餌で誘導したりする。相手が人間ならば、こうした直接的な行動に訴えなくても、言語によって間接的に相手を動かすことができる。上流階級の人々同士となれば、自分の気持ちを相手に言葉でストレートに表すということすらしなくなる。平安貴族は、花鳥風月を優美な和歌に詠いながら、縁語や掛詞で自分の感情を間接的に伝えた。相手が教養人なら、それで十分意思疎通ができたのである。
現代の上流階級の人々も、和歌を詠わないまでも、露骨であからさまな表現を野暮と感じて慎むことが多い。例えば、相手がモーツァルトの愛好家ならば、相手を直接褒めずに、モーツァルトの作品を褒めることによって間接的に相手を褒めるという具合に、である。
相手を非難する時には、さらに入念に直接性が否定される。なぜならば、非難するという行為は、褒めるという行為に比べて下劣な行為だからだ。動物が敵にほえるように、相手を直接ののしることは、相手の品格を下げるという意図とは逆に、自分の品格を下げることになる。そこで、直接相手Aを非難する代わりに、Aに聞こえるような声で、近くにいるライバルBのAにはない長所を褒めるという二重の否定によって、自分の品格を維持したまま自分の意図を実現するという巧妙な手段がとられることになる。
3. 謙虚さのパラドックス
直接性は、欲望を剥き出しにするがゆえに、下品である。上流階級の人といえども、否、上流階級の人ほど、権力、名誉、金、性などに対して強い欲望を持つのだが、あたかもそうした欲望を持たないかのように振る舞うことが、上品であるための条件である。
例えば、平安時代、藤原氏は、天皇から関白に命じられても、いったん辞退することを慣わしとしていた。実際には、藤原氏は権力の亡者であったにもかかわらず、そうした儀式が行われた。自分から欲望の対象に近づくのではなく、超然とした態度で、近づいてくる名誉を待つかのようにして受け入れる方が、優雅なのだ。
今でも、エリートは、自分が賞賛されるとそれを否定し、あたかも名誉を望まないかのように振る舞う。謙遜すれば、自分の名声と人望が高まることを計算に入れているのだ。このように、謙遜には、名誉を否定することによって肯定するという屈折した構造がある。
4. 非営利と非効率
直接性の否定は、非効率、すなわち資源の浪費を帰結する。だが、たんに浪費されるわけではない。経済資本が蕩尽されることにより、上品さという文化資本と人望という政治資本が生産されるのだ。社交界での舞踏、乗馬や狩猟やテニスといった洗練されたスポーツ、弱者に哀れみの手を差し伸べる慈善活動、趣味としての芸術や文学など、有閑階級の人々が行う非生産的な活動は、彼らが、生産的活動に直接従事しなくてもよいほどに富があることを周囲に誇示するがゆえに、彼らの高貴さにいっそうの輝きを与える。
現代日本における高級官僚たちは、かつての貴族に相当する。マスコミは、官庁や高級官僚が天下った特殊法人や公益法人の非効率性をしばしば批判するが、彼らは、民間企業の経営者のように、収益をあげることができないことに対して、何らの劣等感も持っていない。むしろ、彼らは、自分たちが、利潤の増減に一喜一憂する商人的な世俗性から超然としていられることに貴族的な優越感を持っているのだ。
ボランティア慈善活動も、営利活動に対する蔑視に基づいている。「ボランティア活動は公益になるか」で、ボランティア活動は非効率だといったが、非効率であるにもかかわらずというよりも、非効率であるがゆえに、慈善的なボランティア活動は、高貴で崇高な行為として人々の尊敬を集めることができるのである。
5. 貴族趣味
もしもすべての人が上品でいられるならば、上品さはエリートたちの貴族的な欲望を満たしてくれないだろう。しかし、すべての人が上品であろうとするならば、社会全体の効率性が著しく下がり、あまりにも資源が浪費されるので、社会が成り立たなくなる。だから、上品であることは、富裕階級にのみ許される特権である。
もっとも、たとえ一部とはいえ、非生産的な階級が存在することは、経済にとっては重荷である。寄生虫的有閑階級がはびこると、その国は滅びる。かつて世界一の帝国であった清王朝は、アヘン戦争以降、新興工業国イギリスの半植民地となったが、それを予感させるこんなエピソードがある。中国の高官は、従者にドアを開けさせて部屋に入り、召し使いに椅子を引かせてテーブルについた。典型的な直接性の否定である。ところが、イギリスから来た大使は、自分の手で椅子を引いてテーブルについた。それを見た中国の高官は、自分の手で椅子を引くような身分の低い人間と話はできないといって会談を拒否した。椅子ぐらい自分で引けばよいという合理主義が理解できなかったのだ。
合理主義的なイギリス人も、日本では、一流の理工系大学を卒業したエリートが作業服を着て工場で働くとか、経営者が労働者と同じ食堂で同じようなメニューの昼食を食べるという話を聞くと驚く。しかしここに、戦後の日本が先輩工業国であるイギリスを追い抜くことができた秘密がある。
日本の本社からアジアの途上国に派遣された工場長が、現地の作業員に範を垂れようと、自ら作業服を着て工場で作業を行ったところ、現地の人は、「こんな肉体労働をするなんて、この人はきっと賤しい身分の人に違いない」と考えて、その工場長の言うことを聞かなくなったというエピソードがある。
現場で直接働く労働者よりも、オフィスで間接的に働く中間管理職の方が、そして中間管理職よりも、一切の労働から解放されて、非生産的活動に時間を浪費する上流有閑階級のほうが高貴である、つまり直接性が否定されればされるほど身分が上になるというのが貴族趣味的な価値観である。戦後の日本の製造業が、世界のトップに登りつめることができたのは、こうした貴族趣味的な価値観を放棄し、エリートが現場と一体となって効率性の向上に努めたからである。
かつては勤勉だった日本人も、80年代のバブルの時には、富の衒示的浪費である成金趣味に走った。貴族趣味は、見た目は華やかだが、衰退する経済の花道を飾る徒花に過ぎない。上品さには、憧れの対象であると同時に、呪われた部分であるという両義性がある。
ディスカッション
コメント一覧
他の性質と同様、中間的な形態は存在し得るのですが、典型的な事例を示した方がわかりやすいだろうと考えて、「上流階級が骨の髄まで染み込んだおほほ笑いをするおばさま」のような事例を挙げた次第です。
この説…完全に間違いです。
先ずテーブルマナーは国によって違う。韓国人やインド人は欧米人より合理的なのだろうか?
マックでハンバーガーをちまちまちぎって食べてる人が上品に見えるだろうか?
上品、下品はその場に応じた他人が気分を害さない様配慮する行動である。
更にマウンティングや権威付け行動と品格と言う物を区別出来ず同列に語っている。
マウンティング、権威付け行動はブランド品で身の回りの物を固めつつ、他人の持ち物と自分のブランド品の値打ちを比べ、それによって他人の人格まで決め付ける様な行為、価値観である。
この記事で上品さの例として挙げられている行為、
官僚の天下り云々、アヘン戦争時の中国の高官云々、工場長云々、記事中の非生産的な貴族趣味、更には成金趣味等々、一切が下品な行為であり、寧ろマウンティング、権威付け行動或いはそれに近い上品さとは真逆の行動である。
平均的な日本人であるならばこれらの行為を上品と感じる事はない。
何故なら思い遣り、配慮とは真逆だからである。
上品、下品はその場に応じた他人が気分を害さない様配慮する行動である。
訂正
上品さは、その場に応じた他人が気分を害さない様配慮する行動である。
でした(^◇^;)
富の衒示的浪費は、マウンティングなので、気分を害する人もいるでしょうが、上品か下品かという問題は、相手の気分を害するか否かという問題とは区別して考える必要がああります。
マウンティングこそ上品さと真逆の区別すべき行動だと思いますが?
>> 相手の気分を害するか否かという問題とは区別して考える必要がああります。
僕が説明した上品さ、品格とは他人に対する配慮であり、実際の相手の受け止め方ではありません。
マクドナルドのようなファーストフード店に行く段階で、貴族的ではありません。ファーストフード店は、早さと安さを売りにしていますが、上流階級が好んで行く高級料亭は、早さと安さという経済合理性を否定しています。
真逆に見えるものが同居しているからこそパラドックスなのです。3の「謙虚さのパラドックス」を読み直してください。
相手がどう受け止めるかがどうでもよいのなら、「他人に対する配慮」があるとは言えません。だから「その場に応じた他人が気分を害さない様配慮する行動」と書いたのですよね。
それはともかくとして、他人に配慮する人は「思いやりがある」とは言えるけれども、必ずしも「上品」とは限りません。下品な人でも他人に配慮することがあることからもわかるとおり、両者は概念的に別です。したがって「上品さは、その場に応じた他人が気分を害さない様配慮する行動である」は、定義に求められる必要十分条件を満たしていません。
本記事の主題は「上品さとは何か」であって、「上品さはどうあるべきか」ではありません。もしも本記事の主題が後者なら、「上品さには他人に対する配慮がなければならない」といった主張には意味があるし、私もそれには賛成ですが、そうした主張は、本記事の趣旨に副うものではありません。本記事は、上流階級の特徴である上品さが社会においてどう機能するかを社会学的に分析するものであって、価値語としての上品さを理念的に語っているものではないことを理解してください。
他人の著作物を批評する時、相手がどういう趣旨で書いているかを相手の立場になって理解することが重要です。そうした「他人に対する配慮」なしで、自分の主張を外的にぶつけても、議論はすれ違いになるし、不毛な水掛け論になるだけです。もしも「他人に対する配慮」が重要だと思っているのなら、ここでもその「他人に対する配慮」を実践してくださるようお願いします。
上流階級と言う身分がよく分かりませんが…
仮に上流階級たる身分があったとして、上品階級だから上品だ!とは必ずしも言えませんし、マック云々は直接、間接と下品、上品さは必ずしも=ではないと言う例えに過ぎません。
>>下品な人でも他人に配慮することがあることからもわかるとおり、両者は概念的に別です。
普段下品な人が常に下品であるとは限りません。
他人に配慮しているその時はその人は上品に振る舞っていると考えられます。
>>上流階級の特徴である上品さが社会においてどう機能するかを社会学的に分析するものであって、価値語としての上品さを理念的に語っているものではない
本当にこの通りなら「上品さとは何か」と言う題名は改題して「マウンティングの社会における役割」と言った様にすべきです。
上品さとは富の衒示的浪費つまりマウンティングだ!と言うのが貴方の主張です。
しかし僕の知る限りでは…辞書を引いても、検索してもそうではない。
つまり貴方が「上品さが社会においてどう機能するかを社会学的に分析した記事だ!」と言うなら上品さの誤用であるし、「上品さの新しい定義を定める事を主張する記事」ならば「上品さが社会においてどう機能するかを社会学的に分析した記事」ではないと言う事になり破綻している。
これは正確な理解ではありません。3の「謙虚さのパラドックス」をちゃんと読みましたか。上品な人は、露骨にマウンティングとわかるマウンティングはしません。むしろマウンティングを否定します。マウンティングを否定することで肯定するのです。この直接性の否定が上品さなのです。私は冒頭で「上品さとは、欲望充足の直接性と効率性を否定すること」と書きました。マウンティングは結果として生じることであって、これと本質とを混同してはいけません。
あなたは、上品さとは他人に対する配慮と考えているようですが、これも私の定義で解釈できなくもありません。人間には利己主義的な欲望がありますが、これを直接満たすことは下品です。「情けは人の為ならず」という諺にあるとおり、利己主義を否定し、利他的にふるまうことが、最終的に自己の利益になります。利己主義の否定による利己主義の肯定という直接性の否定を上品と形容することは可能です。ただし、他人に対する配慮は上品であるとは言えても、これを上品の本質とみなすことはできません。
3の「謙虚さのパラドックス」を読んだからこそ、マウンティングや権威付け行動と品格と言う物を区別出来ず同列に語っている。と思わずにいられませんでした。
何故なら3に書かれてる謙虚、謙遜とは配慮であり、マウンティング行為ではないからです。
本心がどうであれ、他人にも判る行動の結果名声と人望が高まるのは周りに配慮し、敬意を持って振る舞った者に対する周りの評価であり、マウンティングを否定することで肯定している訳ではありません。
マウンティングとは自画自賛です。
謙遜、謙虚と言うのは欲望に対する自制であり、富や権力に対する欲望を剥き出しにした人物は自制の出来ない私利私欲の為に何をするのか判らないと言う不安を周りに抱かせるのです。
藤原氏の儀式は本人の内心がどうであれ周りに不安を抱かせない様な表面上の配慮であり、その表面だけを見れば配慮であり上品であると言えるでしょう。
しかし本人の圧力で儀式を行わせている事が判る者にとっては強力なマウンティングに他なりません。
つまり見る面によっては配慮でありマウンティングでもあるが、単に周りくどさゆえにマウンティングも上品な物になると思うのは両者を混同した間違いです。
例えば中国の高官の例の様に如何に周りくどく間接的マウンティングを行おうとも、それが純粋にマウンティングを目的とした行動の場合、どの面から見ても上品とは言えません。
本質と結果として生じる偶有性との違いが判らないということですか。