11月 032001
 

アンデルセンの童話に『マッチ売りの少女』という話がある。あの物語に出てくる少女がなぜ死んだかをめぐって、物理学者たちが、10年にわたって熱い論争を繰り広げたことがあった。はたして、少女は、エネルギーが足りなくて死んだのか、それともエントロピーが増大して死んだのか。

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1. 少女はエントロピーが捨てられなくて死んだのか

1944年に、シュレーディンガーは生命とは何か―物理的にみた生細胞という本の中で、生物は、体内で増大するエントロピーを体外に捨てることで熱力学的平衡状態である死(熱的死)へ向かうのを遅らせていると主張した。日本でも、エントロピーを外部に捨てることができなくなる時、生物や文明という定常開放系は死ぬという説が、公害問題が深刻になった70年代に流行した。

これに対しては、「マッチ売りの少女が凍え死んだのは、熱エントロピーを捨てることができなかったからではなくて、熱エントロピーを捨てすぎたからではないのか。熱エントロピーは、生物にとって必要なエネルギーだ」という反論が出された。その後、この「マッチ売りの少女はなぜ死んだのか」という問題をめぐって、エントロピー派とエネルギー派の間で10年間にわたって延々と論争が繰り広げられた。

この問いで問題としなければならないことは、熱エントロピーが生命にとって必要かどうかではなくて、生物が捨てなければならないエントロピーは熱エントロピーだけなのかということである。生体反応で生じる廃熱を捨てることができなければ、生物は熱的死を迎えることになる。しかしすべての死が熱的死とは限らない。

2. 少女は低エントロピー資源不足で死んだ

結論から言うと、アンデルセン物語に登場するマッチ売りの少女が死んだのは、彼女が熱エントロピーを捨てたからではなくて、彼女が空腹で、酸化の原料となる低エントロピー資源が不足したことと低温で循環器系が機能停止となり、呼吸の結果生じる物エントロピーを捨てることができなかったからだ。熱エントロピーは、循環器系が機能停止になっても捨てることができたはずだ。

激しく変化する外部環境に対して、内部環境のホメオスタシス(例えば、温度や浸透圧や血糖量の恒常性)を維持するのは、脳を中心とした神経系である。脳が、運動系を通じて、不確定性という情報エントロピーを捨てることができなくなると、代謝が正常に行われなくなり、その結果マッチ売りの少女は死ぬ。

人の死を脳死とするか、心臓死とするかは、人間を情報システムとみなすか、それともたんなる物質システムとみなすかという問題である。心臓を中心とする血液循環は、食物や酸素といった低エントロピー資源を取り込み、それを異化する際に生じる熱エントロピー(廃熱)や物エントロピー(二酸化炭素やアンモニアなど)を排出する上で、大きな役割を果たしている。しかしこうしたネゲントロピー機能は、原始的な生物でも見られるし、それどころか多くの機械システムでも見られる。むしろ人間に特徴的なことは、情報システムとして、こうした循環を可能にする条件を自発的に維持するところにある。

3. 物理学を超えて考える

もっともマッチ売りの少女の場合、本人の尽力ではどうしようもない限界状況に置かれていた。だから、彼女の神経系は、苦痛というネガティヴ・フィードバックで彼女にエントロピーを捨てることを促進する代わりに、幸福な幻想で逆に苦痛を和らげた。

マッチをもう一本、壁でこすりました。すると再び明るくなり、その光輝の中におばあさんが立っていました。とても明るく光を放ち、とても柔和で、愛にあふれた表情をしていました。「おばあちゃん!」と小さな子は大きな声をあげました。「お願い、わたしを連れてって!マッチが燃えつきたら、おばあちゃんも行ってしまう。あったかいストーブみたいに、おいしそうな鵞鳥みたいに、それから、あの大きなクリスマスツリーみたいに、おばあちゃんも消えてしまう!」少女は急いで、一たばのマッチをありったけ壁にこすりつけました。おばあさんに、しっかりそばにいてほしかったからです。マッチのたばはとてもまばゆい光を放ち、昼の光よりも明るいほどです。このときほどおばあさんが美しく、大きく見えたことはありません。おばあさんは、少女をその腕の中に抱きました。二人は、輝く光と喜びに包まれて、高く、とても高く飛び、やがて、もはや寒くもなく、空腹もなく、心配もないところへ――神さまのみもとにいたのです。

[ハンス・クリスチャン・アンデルセン(結城浩訳):マッチ売りの少女]

人々の生命が不確実性に晒される時、社会システムのエントロピーが増大し、社会システムが死に近づく。社会保障制度等によって、このようなエントロピーを減らすことは、社会システムというメタレベルの情報システムの役割である。

読書案内
書名マッチ売りの少女・雪の女王
媒体大型本
著者与田 準一 他
出版社と出版時期世界文化社, 2001/06
書名生命とは何か―物理的にみた生細胞
媒体新書
著者E.シュレーディンガー 他
出版社と出版時期岩波書店, 1951/08
書名熱学外論―生命・環境を含む開放系の熱理論
媒体単行本
著者槌田 敦
出版社と出版時期朝倉書店, 1992/10
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  8 コメント

  1. マッチ売りの少女は死んだ。マッチの灯りの幻影の為に。

  2. おばあさんが,暖かい所へ,連れていってくれたんだ.

  3.  物理学者は変なことを考えるもんだね。ややこしいことは抜きにしてこれは単なる凍死。体温を保つだけのエネルギーが無くなったから、恒常性(負のエントロピー)を保てなくなっただけ。

  4. なぜ体温を保つ必要があるのかをさらに考えてください。恒常性イコール負のエントロピーというよりも、「負のエントロピーを食べる」(シュレディンガーの表現)すなわち正のエントロピーを捨てることによって、生命システムの構造が維持されるという方が正確な表現です。

  5.  体温を保つ必要があるのは、生体が酵素というタンパク質の機能によって維持されているからである。酵素には至適温度、至適pH、至適浸透圧などがあり、高い選択性と高反応性を有する替わりに機能できる領域が狭いのです。ですから体温は33度でも42度でも困る。これは一部の酵素反応の働きが悪くなって酵素反応の調節がうまくいかなくなって細胞の機能が破綻する。莫大な数の酵素反応が一定の調節機構の下に機能している状態、これが生体というか恒常性と呼ばれるものです。その熱力学的な部分のみに着目したのがシュレーディンガーのいう負のエントロピーという言葉です。その後50年の生化学の進歩により分子レベルにおける意味が解明されて来たことはご承知の通りです。その破綻が起こるということで、これが化学的な説明です。

  6. マッチ売りの少女はとてもいい思いをして死んだと思う
    なぜならマッチをするといろんな物が見えたから

  7. そんなに「マッチ売りの少女」って深かったんだ           

  8. 私の疑問は、雪の日に流れ星が見えたのであろうかということです。
    童話の世界ですから、心の中で見えればよいのかとも思われます。
    それにしても、悲しい話です。

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