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マッチ売りの少女はなぜ死んだのか

2001年11月3日

アンデルセンの童話に『マッチ売りの少女』という話がある。あの物語に出てくる少女がなぜ死んだかをめぐって、物理学者たちが、10年にわたって熱い論争を繰り広げたことがあった。はたして、少女は、エネルギーが足りなくて死んだのか、それともエントロピーが増大して死んだのか。

Image by Olya Adamovich + Free-Photos from Pixabay and Photo by Annie Spratt + Gabriel Garcia Marengo on Unsplash modified by me
寒さに凍えるマッチ売りの少女が、暖を取ろうとマッチに火を付けると、七面鳥などのごちそうや飾られたクリスマスツリーや祖母の幻影が現れた。

1. 少女はエントロピーが捨てられなくて死んだのか

1944年に、シュレーディンガーは『生命とは何か―物理的にみた生細胞』という本の中で、生物は、体内で増大するエントロピーを体外に捨てることで熱力学的平衡状態である死(熱的死)へ向かうのを遅らせていると主張した。日本でも、エントロピーを外部に捨てることができなくなる時、生物や文明という定常開放系は死ぬという説が、公害問題が深刻になった70年代に流行した。

これに対しては、「マッチ売りの少女が凍え死んだのは、熱エントロピーを捨てることができなかったからではなくて、熱エントロピーを捨てすぎたからではないのか。熱エントロピーは、生物にとって必要なエネルギーだ」という反論が出された。その後、この「マッチ売りの少女はなぜ死んだのか」という問題をめぐって、エントロピー派とエネルギー派の間で10年間にわたって延々と論争が繰り広げられた。

この問いで問題としなければならないことは、熱エントロピーが生命にとって必要かどうかではなくて、生物が捨てなければならないエントロピーは熱エントロピーだけなのかということである。生体反応で生じる廃熱を捨てることができなければ、生物は熱的死を迎えることになる。しかしすべての死が熱的死とは限らない。

2. 少女は低エントロピー資源不足で死んだ

結論から言うと、アンデルセン物語に登場するマッチ売りの少女が死んだのは、彼女が熱エントロピーを捨てたからではなくて、彼女が空腹で、酸化の原料となる低エントロピー資源が不足したことと低温で循環器系が機能停止となり、呼吸の結果生じる物エントロピーを捨てることができなかったからだ。熱エントロピーは、循環器系が機能停止になっても捨てることができたはずだ。

激しく変化する外部環境に対して、内部環境のホメオスタシス(例えば、温度や浸透圧や血糖量の恒常性)を維持するのは、脳を中心とした神経系である。脳が、運動系を通じて、不確定性という情報エントロピーを捨てることができなくなると、代謝が正常に行われなくなり、その結果マッチ売りの少女は死ぬ。

人の死を脳死とするか、心臓死とするかは、人間を情報システムとみなすか、それともたんなる物質システムとみなすかという問題である。心臓を中心とする血液循環は、食物や酸素といった低エントロピー資源を取り込み、それを異化する際に生じる熱エントロピー(廃熱)や物エントロピー(二酸化炭素やアンモニアなど)を排出する上で、大きな役割を果たしている。しかしこうしたネゲントロピー機能は、原始的な生物でも見られるし、それどころか多くの機械システムでも見られる。むしろ人間に特徴的なことは、情報システムとして、こうした循環を可能にする条件を自発的に維持するところにある。

3. 物理学を超えて考える

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1889年のベイズによる『マッチ売りの少女』の挿絵[1]

もっともマッチ売りの少女の場合、本人の尽力ではどうしようもない限界状況に置かれていた。だから、彼女の神経系は、苦痛というネガティヴ・フィードバックで彼女にエントロピーを捨てることを促進する代わりに、幸福な幻想で逆に苦痛を和らげた。

マッチをもう一本、壁でこすりました。すると再び明るくなり、その光輝の中におばあさんが立っていました。とても明るく光を放ち、とても柔和で、愛にあふれた表情をしていました。「おばあちゃん!」と小さな子は大きな声をあげました。「お願い、わたしを連れてって!マッチが燃えつきたら、おばあちゃんも行ってしまう。あったかいストーブみたいに、おいしそうな鵞鳥みたいに、それから、あの大きなクリスマスツリーみたいに、おばあちゃんも消えてしまう!」少女は急いで、一たばのマッチをありったけ壁にこすりつけました。おばあさんに、しっかりそばにいてほしかったからです。マッチのたばはとてもまばゆい光を放ち、昼の光よりも明るいほどです。このときほどおばあさんが美しく、大きく見えたことはありません。おばあさんは、少女をその腕の中に抱きました。二人は、輝く光と喜びに包まれて、高く、とても高く飛び、やがて、もはや寒くもなく、空腹もなく、心配もないところへ――神さまのみもとにいたのです。[2]

人々の生命が不確実性に晒される時、社会システムのエントロピーが増大し、社会システムが死に近づく。社会保障制度等によって、このようなエントロピーを減らすことは、社会システムというメタレベルの情報システムの役割である。

4. 参照情報

  1. A.J. Bayes. “The Little Match Girl.” 1889. Licensed under CC-0.
  2. ハンス・クリスチャン・アンデルセン(結城浩訳)「マッチ売りの少女