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情けは人のためならず

2001年11月17日

「情けは人のためならず」という諺の意味の解釈が、日本人の間で変化しつつある。これは、福祉国家の理念が破綻し、新自由主義(実際には古典的な自由主義)が台頭するという時代の流れを反映したものである。つまり、若い世代の日本人は、自助自立・自己責任・受益者負担といった新自由主義的原則を当然視しているということである。

Image by Sasin Tipchai from Pixabay

1. 諺の意味は時代によって変わる

文化庁が2001年1月に行った「国語に関する世論調査」に、「情けは人のためならず」という諺の意味を問う二者択一の設問があった。

(ア)人に情けをかけておくと,巡り巡って結局は自分のためになる

(イ)人に情けをかけて助けてやることは,結局はその人のためにならない

どちらが正しいか。

正解はアである。正解率は47.2%だった。60歳以上の回答者の正解率は65.2%で、年齢が下がるにつれて正解率は下がる傾向にある。こういう結果が出ると、とかく年配の国語学者たちは「近頃の若者は…」と眉をひそめるものだが、言語一般がそうであるように、諺も時代や文化によって意味が変わることがある。

例えば、“A rolling stone gathers no moss”(転石苔むさず)という諺は、もともと「転職ばかりしていると成功しない」という意味で使われていたのだが、最近では「常に活動している人は新鮮で沈滞しない」という意味で使われることが多い。古い伝統を尊重するイギリスとフロンティア精神を尊重するアメリカとの文化の違いもあるが、終身(定年)雇用制の崩壊というグローバルな規模で起きている現代の雇用革命を反映している。

2. 利他主義と利己主義の逆転

「情けは人のためならず」の旧解釈(ア)に対して新解釈(イ)が台頭しているのは、どのような時代的背景によるものだろうか。「人に情けをかけておくと、巡り巡って結局は自分のためになるから、情けをかけなさい」という旧解釈と「人に情けをかけて助けてやることは、結局はその人のためにならないから、情けをかけてはいけない」という新解釈は、結論こそ逆だが、「人に情けをかけることは、利他的行為ではない」という認識で一致している。では、なぜ情けをかけることは利他的行為ではないのか。

ネガティブな交換の貨幣は何か」で、苦痛に対して苦痛をお返しするネガティブな交換について説明した。復讐は不等価交換を等価交換にする。損害を受けたにもかかわらず、復讐したり、補償を求めたりしなければ、それは不等価交換であるように見える。しかし、もし加害者の罪を恩着せがましく許してやって、周囲から「あの人は寛大で慈悲深い人だ」という評価を受けるようになれば、その人は経済的損失と交換に人望という政治的資本を手に入れたこととなる。経済的損失が大きければ大きいほど、入手できる政治的資本は大きくなるから、これは等価交換である。もしその政治資本を元本にして、失った経済的損失以上の利益を手にすることができるとするならば、情けをかけることは、高利回りの投資ということになる。

では、なぜ、情けをかけることは、情けをかけられた本人のためにならないのか。情けをかけられたほうは、A.負い目を感じるか、B.そうでないかのどちらかであるので、場合分けして考えよう。

  1. 恩を売られたほうは、借りができるので、恩人に頭が上がらなくなる。だから情けをかけられた人は、経済的利益と交換に自由を売ったことになる。仮に恩を返したとしても、負い目の一部は残る。それは、元本とは別に支払わなければならない利子である。だから、情けをかけられたほうは、決して得をしているわけではないのである。
  2. 人によっては、情けをかけられても、当然であるかのように何食わぬ顔をしているものもいる。そうした人は自分の行為に対する反省がないので、悪行を繰り返すことになり、いつかは手痛い仕打ちを受けることになるだろう。この場合、情けをかけることは、教育的観点から言って、本人のためにはならない。

以上、AとBより、情けをかけることは、相手の利益を考えた利他的行為ではなく、利己的な戦略であることがわかる。情けをかけるという一見利他的な行為が実は利己的で、情けをかけないという一見利己的な行為が実は利他的なのである。

3. 福祉国家の破綻と新自由主義の台頭

「情けは人のためならず」を互酬的モデルではなく、再分配的モデルで解釈する方法もある。経済的弱者に仕事や補助金を与え、所得の再分配を行えば、すべての労働資源が活用され、有効需要が増大し、経済全体が活性化するから、経済的強者のためにもなるというケインズ的解釈である。

ケインズ的なマクロ政策は、福祉国家の破綻によって現在有効性を失っている。「弱きを助け、強きを挫く」という理念は、構造的弱者を作り出す。構造的弱者とは、弱いがゆえに援助されるというよりも、援助されるがゆえに弱くなった、いわば福祉国家や社会主義によって構造的に作られた弱者である。「情けは人のためならず」の新解釈台頭の背景には、こうした構造的弱者の弊害が顕在化したことがある。

互酬的な限定交換では、情けをかける/かけられるの関係がはっきりしているが、再分配的な富の補填では、この関係がはっきりしないことも問題である。

日本の財政は、都市や優良企業から吸い上げた税金を過疎地や衰退産業にばらまいているのだが、財政受益者は財政負担者に感謝することはない。むしろ「あの福祉会館は、うちの先生のおかげで建った」というような過疎地の住民の表現から明らかなように、贈与との交換で与えられる威信や人望といった政治的資本は、贈与を媒介しているだけの政治家が手にする。これは、自動的な源泉徴収など、納税が不可視的に行われるのに対して、支出の方は、選挙などでその「実績」が政治家によって鳴り物入りで宣伝され、可視的であるからである。

財政受益者にとって、経済資本の蓄積にも政治資本の蓄積にもならない再分配は、怒りの対象になっても仕方がない。福祉国家的再配分は、財政受益者のためにも財政負担者のためにもならない。

現在の先進国の経済は、前近代的互酬経済でも社会主義的あるいは福祉国家的再配分経済でもなく、市場経済である。市場経済のルールは、自助自立である。だから、「人に情けをかけて助けてやることは、結局はその人のためにならないから、情けをかけてはいけない」という新自由主義的解釈が支持されるのである。