ボランティア活動は公益になるか
ここで問題にするボランティア活動とは、他者のために、無報酬で(あるいは少なくとも非営利で)、自発的に、非専門的な労働をすることである。趣味で行う非営利の労働は、その外部経済がいかに大きくても、ボランティア活動とは言わない。このように定義されたボランティア活動が、はたして公益に貢献するのかどうかを考えてみよう。

1. ボランティアに依存する行政
国も地方も財政難のためなのか、近年、従来公共の機関が行ってきたサービスを一般市民のボランティアに任せようとする傾向が目に付く。奉仕活動と称して、満18歳のすべての子供を強制的に徴集し、一年間無償労働をさせ、介護労働の人手不足を解消しようとする「教育改革」は、その中でも最悪のもので、多くの批判を浴びた結果、この擬似徴兵制は、実現されないこととなった。しかし内申点を餌にして、学生に介護労働をさせる準強制的ボランティア活動は、今後も推進していくとのことである。また、97年以降、小中学校の教職免許を取得するには、盲・ろう・養護学校か社会福祉施設で7日間介護や介助をしなければならないこととなった。
こうした「強制的ボランティア活動」は形容矛盾だと言って批判する人でも、ボランティア一般を望ましいと考える人は多い。阪神大震災では、多くのボランティア活動家が神戸に集結した。昨年末に起きた新潟県中越地震の時にも、多くのボランティアが被災者支援のために活躍した。メディアがボランティア活動を好意的に報道するので、余計な出費を避けたい行政府としては、こうした世論の風潮に便乗して、どうしてもボランティア活動に依存してしまうのである。
2. ボランティア錯覚
「ボランティアはタダだから、ありがたい」という行政府の思い込みを、財政錯覚という言葉になぞらえてボランティア錯覚と名付けることにしよう。財政錯覚(fiscal illusion)とは、「公共サービスはタダだから、ありがたい」という納税者の思い込みである。例えば、公立の小学校や中学校が、学級崩壊で機能不全に陥っていても、保護者は「公教育はタダだから仕方がない」と思ってしまう。しかし実際にはタダではない。子供一人当たり年間80万円ほどの税金が使われているのである。年間80万円のお金を有効に活用していないのだから、子供とその保護者である納税者は、実際には損しているのである。しかし直接学校にお金を支払っているわけではないので、自分たちが損をしていることに気がつかないことが多い。これが財政錯覚である。
ボランティア錯覚は、方向が逆だが、財政錯覚と同じ構造を持っている。ボランティア活動家は素人だから、プロフェッショナルより効率が悪い。阪神大震災のときも、気持ちだけのボランティア活動家が多数馳せ参じたが、かえって被災者の救助の邪魔になったということがあった。しかしボランティア・サービスは無償なのだから、サービスを受ける側も行政側も文句は言えない。
では、本当に行政は、ボランティア活動に仕事の一部を任せることによって得をしているのだろうか。そうではない。ボランティア活動家が、本職の労働時間を削って、非営利活動をすると、営利活動が減少するから、政府の税収が減る。しかもボランティア活動は、有料で同じサービスを提供していた業者から仕事を奪うので、失業者を増やすことになり、政府は失業対策のために余計な支出をしなければならなくなる[1]。
財政錯覚とボランティア錯覚に共通するのは、非営利に対する幻想である。私たちは、金儲けという行為を蔑視し、反対に、非営利活動を崇高なものと考えがちである。しかし全労働に占める非営利活動の割合が増えれば増えるほど、経済全体の生産性が低下し、税収が減り、人的物的資源が浪費され、失業者が増えるのである。ボランティア活動は、非営利であるがゆえに世のため人のためになるという考えは間違っている。慣れないボランティア活動をするよりも、自分の本職に専念し、多くの税金を納めた方が公共の利益になるのである。
3. 本当に必要なボランティア活動とは
このように、素人的なボランティアをやめて、専門的分業を進めるならば、政治も政治のプロに任せたらよいのであって、素人の国民に選挙などさせるべきでないということになるのではないのかと反論する人もいるに違いない。たしかに、一般市民の参加という民主主義の理想と分業による効率性の追求にはディレンマがあるが、一般市民の参加は、あくまでも意思決定プロセスへの参加にとどめるべきだ。逆に言えば、すべての一般市民がするべき唯一の有意義なボランティア活動は、国家権力の監視なのである。
4. 追記(2006年)ボランティアの強制
次期首相の安倍晋三が、国立大学に入学する学生にボランティア活動を強制する案を検討しているようだ。以前は、教育改革国民会議が、18歳以上全員にボランティアを強制させる案を出していたが、それと比べると、強制力は弱くなったけれども、不公平さはよりひどくなった改訂版といったところだ。
安倍晋三官房長官は30日、首相に就任した場合に政権公約の柱として掲げる「教育再生」の一環として、国公立大学の入学時期を現在の4月から9月に変更し、高校卒業から大学入学までの間にボランティア活動に携わることを義務付ける教育改革案の検討を始めた。若者の社会貢献を促すとともに、入学時期を欧米と同様に9月として学生が留学したり、留学生が国公立大学に入復学しやすい環境を整備する狙いがある。
安倍氏は、首相の私的諮問機関として「教育改革推進会議(仮称)」を10月にも設置。同会議メンバーの関係閣僚や有識者に具体案の取りまとめを求める考えだ。教育担当の首相補佐官も任命し、半年以内に改革案骨子や実施スケジュールを固めたい意向。[2]
5. 参照情報
- ↑多分、日本最大のボランティア活動は、専業主婦がやっている育児や家事労働だろう。今でも多くの才能ある女性が、結婚や出産を機に離職しているが、これは人的資源の浪費というものだ。これまでどおり、仕事を続け、稼いだ金で育児や家事労働をアウトソーシングした方が、新たな雇用が生まれるし、託児所に預けられる子供も他の子供と一緒に遊べるから、経済的にも、教育的にも好ましい。専業主婦を甘やかす税制度や保険制度は廃止するべきだ。
- ↑『東京新聞』2006年08月31日.
ディスカッション
コメント一覧
『ボランティア』における定義について、伺わざるを得ない処があります。そもそも、『ボランティア』において、『非専門的な労働をすることである』という意味は持ち合わせますか。
皆さんは、中の文のことにおいて自身の考えと比べながら論じていますが、論理学の立場で言うと、前件が破綻していれば、どれほど緻密な論法で言おうとも、後件においても破綻します。というより、常識的に考えればお分かりでしょう。
言葉をどう定義するかは、その人の自由です。もしも私の定義が気に入らないならば、文中に出てくる「ボランティア」という言葉を「他者のために、無報酬で(あるいは少なくとも非営利で)、自発的に、非専門的な労働をすること」と置き換えて読んでください。
論理学においては、p→q という条件法命題は、pが真で、qが偽のときのみ、偽となります。つまり、前件が偽なら、後件は真でも偽でも、真ということです。
ボランティアについてですが、そもそも経済的評価手法の確立していない公共財についての分野(代替・直接法、支払意思額等はありますが、評価が直接的に経済に影響を及ぼしていないという観点で)や、経済的に弱者である農林等の一次産業を中心とした分野、また、責任を明確にすることできない破壊からの復興の分野において、国や地方自治体が補完すべきところを出来てないことから必要性が発生するのだと思います。
またこれらの分野では、ボランティアでなく労働者を用いてその分野で何らかの行動を起こした場合、経済的に破綻すると考えられます。つまり、ボランティアは本人たちの自主性から能動的であることに加えて、受け入れ側の需要という面で受動的であるとも考えられると思います。
くわえて、強制的なボランティアは避けるべき事態だとは思いますが、ある分野で本職として生活をしていた人は、その需要が支払うことの出来る賃金に対しての供給を満たしていなかったことで、その分野での地位を素人と呼ばれる自発的なボランティアに奪われたのではと思います。これはいいかたで、逆に提供される賃金が本職の要求するものを満たすことが出来ないといえるとも思いますが。
つまり、必要性から発生したボランティアで、経済的にも労働を投下できない分野での活動をする人たちに対して、その活動を否定し経済的に強者の分野への労働力として推し進めるのは、あまり合理的ではないと思いますし、意味のある行動とは思えません。
後、個人的な質問で、言葉の裏を取るようで申し訳ないのですが、経済的に成り立たない=つまりボランティアを必要としてる活動に対して、ボランティアを否定するということは、それらの活動を行なわなくても良いということでしょうか?
大学の間零細の林業を手伝ってきていまして、ボランティアも投下されています。実際、あれは経済的に成り立たないと思うのですが、そういう言い方をすると、林業は行なわなくても良いということになりませんか?
続けてすいません。論旨がボランティアと部活動の方では違うと感じましたもので。
部活動を受けた立場からすると、自分にとってあの時間は非常に貴重で有意義であったと記憶しています。ですので、教師の部活動のためのサービス残業には感謝しております。
で、3についてですが、部活動を有料化した場合、家計への経済的負担に耐えられない家庭が発生することが憂慮されます。つまり、家庭の所得の大小で児童の部活が出来るか出来ないかの選別がされることになりませんか?それが教育であるか疑問です(つまり今の私立至上主義もどうかと思いますが)。
なお、金銭的に余裕であれば学外でのスポーツ少年団などの活動方法はあるので、そこと部活動はすみわけされるべきではとも思います。
そこで、教師に対して部活動の残業に対して特別手当を導入するなどの策の方が、現実的であり、且つ教育としても問題のない形ではないかと思います。
収益性が低いなら、それを高めることを考えるべきです。林業に関しては、間伐材などの廃棄物をバイオマス燃料として活用するなどの工夫が必要だと思います。
そうした手当てを支給すれば、増税につながるので、結局は「家計への経済的負担」となります。
小論文のテーマがこの問題でした
このページを読んで、この問題がとてもよく理解できました。
ありがとうございます
「しかし全労働に占める非営利活動の割合が増えれば増えるほど、経済全体の生産性が低下し、税収が減り、人的物的資源が浪費され、失業者が増え、政府の税収が減るのである。」
上記の文中で、「税収が減る」という記述が、Wっています。
御指摘ありがとうございます。重複箇所を削除しました。
なら懲罰としてのボランティアはどうですか
本末転倒の拝金主義者の子供の人格が固定化する前に対処する
所謂モンスターボランティア等ボランティアのジレンマについてとりとめなく考察をさせて頂きます。
ボランティア錯覚の定義の通り、ボランティア活動は経済的に合理性はないものと私も思っております。ボランティアのジレンマはミクロ的には情緒的なものと認識しております。
ボランティア活動家のいう、ボランティアの構成要素に、無償性や先駆性があるそうです。先駆性は聞きなれませんが、実際に発災時には行政に先んじてボランティア的な手法が成果をあげる事象が発生すると思われます。災害救助におけるSNSの情報の活用も一例かと思います。
この先駆性についての自意識は、とどのつまり民主主義における政治参加方法である「表現」の一形態と言えるのではないかと思います。無償性の帰結としての禁欲への共感の欲求も、表現と言えるでしょう。
ボランティア行為が承認欲求や自己実現の欲求の充足にあくまで余暇の趣味として作用したなら、経済的には無価値と考えられますが、民主主義における表現として作用するなら、政治学的に取り扱い注意な代物となるのではないでしょうか。ボランティア行為を表現と解釈すると、公共の福祉や自力救済の禁止の原則に反しない限り、憲法に定める表現の自由として最大限に尊重されるべきものかと思います。しかしながら、権力の監視を著しく超えた政治参加は最大的には革命権であり、為政者の側からボランティアを推奨する昨今の風潮は、為政者自身の自己否定についての無意識が伺えます。
ボランティア行為を表現手段と自覚するに至ったボランティア参加者は、やがてボランティア行為依存症に陥り、ボランティアの着地点を見失っているのではと思います。
小林よしのり氏は薬害エイズの学生活動家に日常に帰れと言いましたが、ボランティア行為依存者も、日常的なバランス感覚を失し、内心的に新たな災害の発生や災害の長期化を渇望しているのではと思うところがあります。