無差別曲線とは何か
無差別曲線分析は、ミクロ経済学の教科書の定番であるが、同時に「役に立たないミクロ経済学」の象徴でもある。無差別曲線にはどのような問題があるのか。そして、無差別曲線を有益にするには、どのような解釈が必要か。

無差別曲線の通常の説明
まずは、無差別曲線の通常の解説から始めよう。無差別曲線とは、同一の効用を与えるような諸財の組み合わせである。無差別(indifference 無関心)とは、選択肢の間に選好上の《差異が-ない in-difference》状態である。だから、無差別曲線とは、わかりやすく言えば、「どちらでも良い曲線」なのだ。
例えば、今あなたは、りんご(第一財)1個とみかん(第二財)11個を持っているとする。みかんを欲しがるりんごの売り手に対して、みかん3個を手放して、りんごをもう1個手に入れたとしよう。交換は、当事者の同意のもとに行われるのだから、この時、りんごとみかんの組み合わせは、(1,11)でも(2,8)でも、どちらでも良いということになる。
さらにりんごとみかんとの交換を求められた時のことを考えてみよう。以前と比べて、りんごは過剰に、みかんは希少になっている。そこで、今度は、みかんを2個手放してりんごを1個手に入れるというように交換比率を変更する必要が出てくる。このように、限界効用逓減の法則に従って、限界代替率(減らした第二財/増やした第一財)の絶対値も逓減する。もし、限界代替率が一定なら、第一財と第二財の関数のグラフは、右下がりの直線となるが、限界代替率(曲線の傾きに相当する)の絶対値が逓減するなら、原点に凸な曲線となる。
無差別曲線のモデル
日本で最もよく読まれているミクロ経済学の教科書『ミクロ経済学』では、無差別曲線が、第一財と第二財の座標を底面に配し、効用の高さを座標軸の高さで表して描かれている[1]。以下のグラフは、無差別曲線を例示するためにしばしば使われるコブ・ダグラス型効用関数[2]を3Dで描いたものである。

このコブ・ダグラス型効用関数には、二つの問題がある。一つは初期値の問題で、一方の財がゼロなら、もう一方の財がいくらあっても、全体の効用がゼロというのは不都合である。バイオリンと弓のような補完財の場合を除けば、1種類の財だけでも、それ相応の効用があるように描かなければならない。
もう一つの、より本質的な問題は、「効用を測ることはできるか」で主張したように効用は、それが否定する複雑性ではなくて、複雑性の対数であるエントロピーに比例するということである。序数効用説なら、どちらでも良いことだが、基数効用説なら、この違いは重要である。したがって、効用関数のグラフは、以下のようなものでなければならない(対数につく定数は、簡略化のために1にしてある)。

この3Dのグラフを上から眺めると、次のような2Dのグラフになる。

見られるとおり、色の違いによって、原点に凸な曲線が多数描かれている。この曲線を使って、例えば、一定の予算制約下で、第一財と第二財をそれぞれいくら買えば、効用が最大になるかという問題を解くことができる。予算制約を表す右下がりの直線のうち、最も高い地点(グラフでは、黄色とオレンジ色の間の4.262)を選べばよいのだ。
物々交換モデルから貨幣交換モデルへ
しかし、ここで自分の消費生活を振り返って考えてみて欲しいのだが、私たちは、はたして、一定の予算を使って、効用が最大になるように二つの財の組み合わせを考えるなどという、予算使いきり型の消費を行っているだろうか。公務員ならあるかもしれないが、一般の民間人はそのようなタイプの消費を行っていない。民間人は、必要性があるから商品を買うのだが、公務員は、お金を使うために必要性を考え出さなければならない。役所に無駄遣いが多い原因としては、当事者意識の欠落によるモラルの低さだけでなく、予算使いきり型消費の不自然さも挙げなければならない。このような不自然で特殊な消費の形態を消費行動分析の基礎にすることはできない。
もう一つのよく指摘される無差別曲線の問題は、なぜ二つの財だけを扱うのかという問題である。私たちが購入する商品の数は無数にある。しかし、私たちが直観的に表象できる空間は3次元が限界である。だから、効用最大化問題の幾何学的解決には、限界があるのではないかというわけである。だが実は、これは、無差別曲線の限界というよりも、物々交換の限界なのだ。物々交換は、交換される商品が二種類しかない時には、うまくいく。しかし、交換される商品の数が増えるにしたがって、物々交換は難しくなる。
私は、予算使いきり型の消費が不自然であると言ったが、無差別曲線による効用最大化問題は、物々交換における効用最大化問題だと考えれば、少しも不自然ではなくなる。みかんだけを作っている人がりんごだけ作っている人と物々交換をするとき、自分が作った生産物をどれだけを交換用に手渡して、どれだけを自分で消費すれば、効用が最大になるかという問題である。この場合、制約となる所得Iは、自分の労働で作った生産物の合計ということになる。
私たち市場経済に住む人間は、貨幣が、物々交換がもたらす不便さを克服してくれるということを知っている。無差別曲線を市場経済における消費行動の分析に役立てようとするならば、第二財として、商品ではなくて、貨幣を指定すればよい。
私たちは、スーパーマーケットやデパートなどで、一度にたくさんのものを買うことがある。しかし、その時の消費行動を反省してみると、瞬間的には、「この商品を買うか否か」という単独の二項図式でしか考えていない。これは、私たちの思惟の本質が否定だからである。私たちは、否定によって地平化された有限な選択肢のもとでしか選択できない。「私は多くのものを買った」と言う時でも、その「多」の多様な内容は失われ、「多くのものを買った/買わなかった」という単純な二項図式のもとでしか考えていない。
このように、私たちの瞬間的な消費の判断が有限であるのなら、効用関数も3次元の単純なモデルで十分である。第1財として今関心を寄せている商品を、第2財として貨幣を配置し、消費者は、商品の限界効用が貨幣の限界効用の大きさを下回るまで、その商品を買うと分析すればよい。
無差別曲線の主観的性格
無差別曲線は、人によって、そして時間によって異なる。もしも無差別曲線が、間主観的に、そして超時間的に同じなら、交換をする必要がない。商品が交換者の合意の下で交換されるには、交換される商品の価値は等しくなければならないが、本質的に同じ価値の二つの商品を交換し合う人はいない。だから、交換されるためには、二つの商品の価値は、同じでなければならないと同時に同じであってはならない。
この価値の二義性を明確にするために、価値を主観的価値(効用)と間主観的価値(価格)とを区別しなければならない。ある商品を1万円で売買する時、売り手と買い手はその商品に1万円の価格があることで間主観的な合意に達しているが、1万円札と1万円札を交換しあう人々がいないことからわかるように、これだけでは、交換は成立しない。買い手はその商品に1万円を超える効用を主観的に期待しているからこそ買うのであり、売り手はその商品に1万円未満の効用しかないと判断しているからこそ売るのである。
消費者が、商品を入手することによって得られる限界効用の大きさが貨幣を手放すことによって失われる限界効用の大きさを上回る限り商品を購入し続けるということは、逆に言えば、交換によって、消費者の効用は増えることはあっても減ることはないということである。
もちろん、ここで言う効用とは期待された効用であって、必ずしも実際の効用とは一致しない。商品を入手することによって得られた実際の限界効用の大きさが貨幣を手放すことによって失われた限界効用の大きさを下回ることに気が付いた時、消費者は「買って損した」と嘆く。しかしこれは例外的な場合であって、商品を入手することによって得られた実際の効用の合計が貨幣を手放すことによって失われた効用の合計を上回るからこそ、時々失敗しても、それに懲りずに人々は交換を続けるのだ。
ところで、これまで、買い手の視点から無差別曲線を考察してきたが、貨幣交換では、買い手だけでなく、売り手も必要である。売り手(生産者や投資家)にとっての無差別曲線がどのようなものになるのかを、最後に考えてみよう。
生産者にとっての無差別曲線
「消費は生産と異なるのか」で、私はエントロピーという観点からすれば、消費も生産も、環境におけるエントロピーを増大させることによってシステムのエントロピーを減少させるという点で同じであると主張した。消費と生産が本質的に変わらないのなら、消費について当てはまる議論は生産についても当てはまるはずである。例えば、消費関数のみならず、生産関数に関しても無差別曲線を描くことができる。
通常、生産関数は、生産要素(財・機械・土地・労働・知的資源など)の投入量と生産量の関係として規定される。そして、同じ生産量を生む生産要素の組み合わせの集合を等量曲線と言うが、これは消費関数における無差別曲線に相当する。等量曲線を曲線として描こうとすると、生産要素の種類は二つに限定される。このことは、無差別曲線が効用を一定にする二種類の財の組み合わせしか分析できないこと同様に、不完全な印象を与える。
この不完全さは、「効用を最大化するりんごとみかんの個数の組み合わせ」とか「収穫を最大にする投入労働量と投入農薬量」というように、特殊と特殊の関係を考えることから起きる。特殊の数は無数にある。特殊の数をnとすると、特殊間の関係の数(複雑性)は、n(n-1)/2 で、nの数が増えるにしたがって急速に増え、私たちの思惟の地平的有限性を超えてしまう。だから、ここで普遍的な存在者であるコミュニケーション・メディアを導入して、この複雑性を縮減しなければならない。すなわち、普遍はその定義により一つしかないから、どのような特殊も、普遍との間に一つの関係しか持たず、その関数をグラフに描いて解析することができる。
消費関数における普遍と特殊は、貨幣と商品である。では、生産関数における普遍と特殊は何であろうか。私たちは、商品を買おうとする時、その商品が価格以上の効用をもたらすかどうかを吟味して判断する。同様に、ある事業に投資しようとする時、その投資が投資に必要な費用以上の収穫(リターン)をもたらすかどうかを吟味して判断する。その際、「投資に必要な費用」には、利子のような機会費用も含まれている。利子は、平均化された普遍的な利益率を代表象しているので、投資家が、自分の資金をある特殊な事業に投資するか、それとも銀行に預けるかという決断をする時、普遍と特殊を比較していることになる。
自分の資産をどれだけ貯蓄し、どれだけ投資に回すかを考える時、貯蓄の割合が多すぎると投資しないリスクが増え、貯蓄の割合が少なすぎると投資のリスクが増えてしまう。したがって、貯蓄も投資も収穫逓減の対数関数となり、その合計を描いたグラフは、無差別曲線と似たものとなる。
投資家は、投資することによって得られる収穫の大きさが貨幣を手放すことによって失われる費用の大きさを上回る限り投資し続ける。逆に言えば、投資によって、投資家の資金は増えることはあっても減ることはない。
もちろん、ここで言う収穫とは期待された収穫であって、必ずしも実際の収穫とは一致しない。投資によって得られた実際の収穫の大きさが貨幣を手放すことによって失われた費用の大きさを下回ることに気が付いた時、投資家は「投資して損した」と嘆く。しかしこれは例外的な場合であって、投資することによって得られた実際の収穫の合計が貨幣を手放すことによって失われた費用の合計を上回るからこそ、時々失敗しても、それに懲りずに人々は投資を続けるのだ。
関連著作
- 西村 和雄『ミクロ経済学入門』
- 西村 和雄, おやまだ 祥子『まんがDE入門経済数学』
- 伊藤 元重『ミクロ経済学』
ディスカッション
コメント一覧
についてはよくわかりませんでした。
無差別曲線の意味するところは、ある個人が、X種類ある財のおおくの組み合わせのうちから、完全に財のあいだで優劣を付けられるという仮定のもと、あるひとつの組み合わせAと、他の組み合わせ、B,C,…と効用が変わらなかったとき、A,B,C,…はそれぞれ無差別であり、その諸点を曲線で結ぶと無差別曲線になる、ということでした。つまり、無差別曲線は、あくまでその個人の心のうちでの効用のことを言っているのであって、他者との交換は無関係のはずではないでしょうか。りんごとみかんでいえば、その人がいくつのりんごを≪手に入れ≫そしていくつのみかんを ≪手に入れ≫るのか、ということだけが問題なのであり、自分の持っているみかんをどうこうするということではありません。みかんが減るように見えるのは、 ≪手に入れる≫みかんの数が減ってその分りんごを≪手に入れる≫だけの話でしょう。つまりこのひとはみかん売りではなく、みかんとりんごとの≪消費者≫であります。
一定の予算を使って効用が最大になるように計算するのは不自然だ、というご説明ですが、おっしゃるとおりだと思います。それは、≪一定の予算≫が先にあって、そのもとで≪効用を最大化する≫と考えるから不自然となるわけですね。じっさいには、消費者は、できるだけ効用を最大化させようとします。しかし無限に効用を最大化することはできません。自分の消費能力には限界があり、つまり欲しいものが買えないという ≪予算制約≫がストッパーとしてかかり、ある一定限度で財を選ぶことになります。つまり≪効用最大化≫が先にあって、そのストッパーとして≪予算制約≫があるということです。だから、無差別曲線の話は、かならずしも≪予算使い切り型≫ではないと思います。(ただし数学的な厳密さよりも現実性に目を向ければ。)むしろ消費を抑制する要因という意味合いのほうが、本来強い、ということではないでしょうか。必要性があるから商品を買うとありますが、その必要品でもピンからキリまであります。食料も高いのから安いのまであり、手持ちのお金の範囲内でできるだけおいしいものを食べようとしますね。無差別曲線の言うところは、必要性の中身にこそ目を向けます。だから、ここでの「公務員の無駄遣い」は無関係と言えるでしょう。かれらの予算使い切り型の行動はまったく不自然ですが、それを無差別曲線分析のせいにすることは正当でしょうか。
いうまでもなく無差別曲線の幾何学的分析は3次元までです。が、この分析の基礎が微分方程式にあることを考えれば、≪グラフに書けないからこの分析は無効だ≫という批判は不当ではないでしょうか。
これ以降については、はじめに指摘いたしましたように、永井さんが、無差別曲線分析を、他者との交換と混同したことに原因しています。くり返すつもりはありません。とはいえ、たしかに数理経済学の諸仮定のうち、じっさいの人間の行動としては不自然なところもあるかもしれません。ホモ・エコノミクスなどはそうです。数学を導入しようとしたため、その論理の厳密さにじっさいの人間がついてこられなくなっている、というのは言いすぎでしょうか。
ここでのテーマは、冒頭に書いた通り、無差別曲線の批判ではなく、無差別曲線を有用なものにするための解釈でした。りんごとみかんの交換の話は、あくまでも無差別曲線を説明する上での一つの具体例であって、無差別曲線の本質を定義するものではありません。
難しすぎるので、ラグランジュ乗数法を取り上げませんでしたが、ラグランジュ乗数法に対しては、「取り扱える消費財の種類が二つまでしかない」とか「予算使いきり型消費を前提にしている」といった批判はあたりません。ラグランジュ乗数(所得の限界効用)を一定と想定するのはいかがなものかと思いますが、私の無差別曲線の解釈は、ラグランジュの方法に近いものです。
無差別曲線が取り扱える財の種類は二つまでで、三種類の財を取り扱おうとすれば、無差別曲線は無差別曲面となってしまい、四種類以上となるとグラフを用いた幾何学的理解は不可能となり、ラグランジュ関数を偏微分して効用の極大値を求めるという非直観的な方法しかなくなってしまうというのが、従来の経済学者の説明です。
これに対して、私の問題提起は、私たちが購入する財の種類が三種類以上あるからといって、狭義の(つまりグラフに曲線として描くことができる)無差別曲線を捨ててしまう必要があるのかということでした。私たちは、あらかじめ生涯の所得の全額と購入する全商品の種類と価格がわかっていて、効用を最大にするためにどの商品をどれだけ買うかというようなことを考えることはありません。生涯にわたってどころか、今日一日に買う商品の全種類すらあらかじめわからないのが普通です。
このように、「一寸先は闇」が個人消費の現状です。だとするならば、たとえ結果として複数の種類の財を買うことになるにしても、購入決断の一連の問題を、一種類の財をいくつ買うかの問題に分割し、その問題の解決を、第一財としてその特定種類の商品を、第二財としてその他の財を代表象する貨幣を配した無差別曲線を用いて分析する方が、より現実の消費活動に即した分析となるのではないでしょうか。