煩悩からの解脱は可能か
一つ禅問答をしよう。絶対に蚊に刺されないようにするにはどうすればよいだろうか。蚊取りせんこうをたいたり、虫よけスプレーをまいたりしても根本的な解決にはならない。絶対に蚊に刺されないようにするには、蚊を絶滅させなければならない。では、そのためにはどうすればよいか。

1. 欲求不満から解放される究極の方法
こうした解決策を探る方向は世俗的なもので、禅問答が期待していることではない。禅問答で重要なことは、公案にたいして答えを出すことではなく、答えを出すことを通じて修行中の僧が悟りを開くことである。絶対に蚊に刺されないようにするには、良寛がやったように、こちらから腕や足を差し出し、蚊に刺させてやればよい。刺されまいとするから、蚊に刺されるという被害に遭うのであって、そうした欲望を捨てれば、被害に遭わなくてすむ。
織田信長が武田信玄の菩提寺である恵林寺を焼き討ちにした時、快川禅師は「心頭を滅却すれは火も自ら涼し」という名言を吐いた。火の熱さから逃れるには、火を消したり、火から遠ざかったりするのではなく、火は熱いという思いを捨てたらよいというわけだ。ここに、仏教の根本思想を見ることができる。
2. 涅槃寂静の境地に達することができるのか
仏教の根本思想とは、こうである。私たちの人生は苦に満ちていて、そして私たちは苦から逃れたいと思っている。苦は欲望が満たされない時に生じるのだから、世俗の人々は、苦を完全に滅却するために、欲望を完全に満たそうとする。しかし欲望には限度がないから、欲望を完全に満たすことは不可能である。課長になれば部長に、部長になれば取締役になりたいと思うのが人間である。だが、欲望が無限に広がるからこそ、苦の原因も無限に増大する。したがって、苦から完全に自由になる(解脱する)には、苦の原因である欲望(煩悩)を滅却しなければならない。
仏教が理想とする自由は、私たちが通常望む自由とは、次元の違う自由である。私たちは、例えば、「好きな食べ物を自由に食べたい」という欲望を持つが、このような自由を望むことは、食欲という煩悩の奴隷になることを意味している。つまり、私たちが求める自由とは、欲望のための自由であって、欲望からの自由ではない。欲望のための自由は欲望からの不自由であるから、二つの自由は対立する。
では、私たちは、欲望から完全に自由になって、涅槃寂静の境地に達することができるのだろうか。答えは、否である。生きている限り、欲望から自由になることは、不可能である。涅槃とは死のことで、死ねば、欲望から完全に自由になれると思うかもしれないが、死ぬと自由である主体・涅槃寂静を感じる主体自体が消えてしまうので、自由と安らぎを手に入れることができない。実際、仏教は自殺を奨励する宗教ではない。仏教が否定しているのは、苦の原因となる煩悩であって、全ての欲望を否定しているわけではない。少なくとも、真理を求める欲望までは否定していない。問題は、真理を求める欲望が煩悩ではないのかどうかということである。
3. 仏陀は本当に煩悩から解脱したのか
仏教の開祖、仏陀(ゴータマ・シッダールタ)には、真理を求める欲望があった。仏陀が、快楽と苦行という両極端を否定し、中道を説いたことは中途半端に思えるかもしれないが、真理への欲望を満たすという点では徹底している。他の欲望を満たそうとすれば、真理への欲望は薄れてしまう。逆に全ての欲望を捨て、苦行と称して肉体を極限状態に追い込むと、意識が朦朧として、真理から遠ざかってしまう。彼も当時の慣習に従って、出家後苦行を試みたが、やがてそれを放棄し、後に菩提樹と呼ばれる樹の下で禅定に入る。
仏教徒が後に編纂した『仏伝』によると、仏陀は、菩提樹の下で悟りを開くまで、魔と戦い続けたとのことである。魔(マーラ)とは、心の内に潜む煩悩である。魔は「君は世界を統一する大帝王になれる」と誘惑した。しかし、仏陀は権力への欲望を克服した。魔はさらに、三人の娘を半裸の姿で踊らせ、仏陀を誘惑した。しかし、仏陀は官能的快楽への欲望を克服した。
権力欲と性欲を克服した仏陀は、悟りがもたらす心の安らぎを一人で楽しみ、このまま涅槃に入ろうとした。この時、『仏伝』によると、梵天(ブラフマー神)が驚いて、真理を独り占めせずに、説法を通じて、人類に仏陀の教えを広めて欲しいと勧請した。その結果、仏陀は、説法をして信者(弟子)を作ることを決意する。
一体、この時登場する梵天の正体は何なのだろうか。私は、それらは、魔が化けた天子魔だと考える。魔が「君は全人類から尊敬される聖者になることができる」と誘惑したのだ。そして、権力欲と性欲を捨てた仏陀も、名誉欲、すなわち他者から認められたいという欲望を捨てることはできなかった。仏陀は真理を欲望したが、真理は普遍的でなければならないので、自分の悟りが真理であることを示すために、多くの人にそれを認めてもらわなければならなかった。
こうした解釈をすると、仏教徒の読者から「釈尊は、無知蒙昧な衆生を哀れみになって説法をされたのだ。名誉欲のためではない」とお叱りを受けるかもしれない。しかし、仏陀が説法という布教活動をすることは、かなり矛盾を孕んだ行為である。仏陀自身が言うように、法を説いて、他の人々に理解されないとしたら、それは苦である。そして、苦の原因となる欲望は煩悩である。したがって、苦の原因となる煩悩を否定せよという説法自体が、苦の原因となる煩悩の肯定になっている。
仏陀をこの矛盾から救うのは、煩悩即菩提という考えである。煩悩は苦をもたらすが、煩悩から解脱すればそれは心の安らぎをもたらす。このことは、もしはじめから煩悩がなければ、煩悩から解脱する喜びもないということである。権力欲や性欲が否定された後で肯定されるべき煩悩であるとするならば、真理への欲望は肯定された後で否定されるべき煩悩である。もし、仏陀が最初から名誉欲を持たなければ、仏教は存在しなかっただろう。しかし、仏教は名誉欲もまた煩悩として否定しなければならない。
4. 追記(2004年)
この文章を書いたのは、2002年5月である。私の仏陀に対する最近の解釈に関しては、「仏教はなぜ女性を差別するのか」を参照されたい。仏陀が、名誉欲から布教活動をしたという表現は、評判が悪いので、取り下げたい。ただ、仏陀は、名誉を求めたわけではないにしても、「自ら思いを制し、よく注意して、教えを聞く人々を広く導きながら、国から国へと遍歴しよう」『スッタニパータ 』(No.114)と語っており、布教への意欲はあったようだ。その布教への欲望が、仏陀に新たな苦悩をもたらしたかどうかは、今となっては知る由もない。
ディスカッション
コメント一覧
「煩悩からの解脱は可能か」について、お伝えしておきたいことがあり、投稿しました。「またぞろ、仏教かぶれ野郎のクレームか」と思わないで下さい。
1.仏陀にも「真理を求める欲望があった」との指摘について
勿論、ご指摘の通りですが、「真理を求める『煩悩』があった」とまでは、永井先生も書けなかった事と思います。半意識的に良識感覚が作動した結果でしょう。結論から言いますと、宗教では「真理を求める欲望」は煩悩に含めないのです。寧ろ、これを基準として、「真理を求める欲望」を妨げる内的要素を煩悩と位置付け、定義付ける事になります。仏教で「真理を求める欲望」を菩提心などと呼ぶのはご存知の通りです。よく、「愛情と憎悪は同じコインの裏表」とか「同じ棒の右端と左端」などと申します。精神分析学でもそう言いませんでしょうか?煩悩と菩提心は、これと同様の関係にあります。(反転関係)煩悩と菩提心は、同じコインの裏表、同じ棒の右端と左端です。従って、「煩悩即菩提」の命題は、極めて粗雑な表現命題であり、正しくは煩悩は菩提心が反転したに過ぎないものであるという意味で、両者は同じもの、と表現すべきことになります。(向けられるベクトルが反対なだけ)
2.「梵天勧請の話」の扱いについて
梵天を仏陀自身の名誉欲の化身と解釈するあたり、仏教徒には無い発想で、とても面白く興味深い切り口だと思いました。御蔭さまで、「梵天勧請の話」について考察でき、「これは後世の作り話」との結論を得ることができました。『仏伝』の記述を100%信用した上に「永井説を構築した」のは、永井先生らしからぬケアレスミス、弘法も筆の誤りと申せましょう。確かに、ヨーガでは、サマディーに入ると、鈍重な物質界に戻りたくなくなり、そのまま捨身したくなる、と言われます。しかし、釈尊が真の大聖者であったなら、真理をこの世に伝道するためにこそこの世に生まれた、という「大使命」の認識も会得しているはずなので、梵天の勧請は無用どころか、それこそ「釈迦に説法」になります。
3.「釈尊の伝道は名誉欲、説」の当否について
永井先生は「仏陀の布教活動はかなり矛盾を孕んだ行為である」と分析し、それ故、仏教徒からの叱責を覚悟の上で、あえて名誉欲説を提出しています。一般的通説よりも、自分の分析力こそ信じて発言する、これぞ、日本人に必要なものです。日本の仏教徒や仏教学者にも、是非見習ってもらいたいものです。あやまちを恐れては、学問の発展はありません。
ただ、この永井説は、西洋哲学的、個人主義的な思考パターンに基づく分析である点に、分析の限界があります。いきなり「奥義」に触れますがインド哲学、ヴェーダのウパニシャッド、不二一元哲学、ひいては、その影響を受容してきている東洋哲学では、イデア(形而上的なもの)を「本地」、リアル(形而下的なもの)を「垂迹」と見ます。仏教が神道を包摂統合する日本の「本地垂迹説」はその特殊版と言えます。逆にいうなら、日本の「本地垂迹説」の適用範囲を一般化したもの、即ち、「一般本地垂迹論」こそがインドの不二一元哲学の本質です。誤解を恐れず、もっと簡略に表現するなら、イデア的な唯一の神霊たる大生命こそが「本地」、形而下的・物質的な万物はその「垂迹」にして「投射」もっと簡略に表現するなら、唯一の大生命以外、一体何処に生命があるのか?何処にも無い。粗雑に言えば個体生命も「電気なければただの箱」という事です。
『金剛般若経』(岩波文庫版)の第25款には、「というような考えが、如来に起こるだろうか。スブーティよ。しかし、このようにみなしてはならないのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、如来が救ったというような生きものはなにもないからである」と記されています。これに対しては、「原始仏教と後世の大乗仏教は違う」との反論もできましょうが、般若経群は、仏陀のヴィジョンに近づき、悟りの空の境地を伝えようとして出来たお経であり、不二一元哲学と一致する点や、「ヴェーダの達人」と釈尊が自称したと原始仏典スッタニパータが記している点からも、仏陀の境地を般若経群から推察する事は許されることでしょう。
衆生を生きものとして見ないで伝道する。これは西洋的な個人重視思考の人々にはショックなことでしょう。しかし、イエズスも伝道行為を「葡萄作りの農作業」に喩えています。人を葡萄と見るなんて、と感じる人もいるでしょうが。インドでは、伝道行為を「畑を耕す行為」に喩えます。(ギータなど)もっと言えば、「衆生を生きものとして見ないで伝道する」とは楽器の修理や調律・調弦作業に喩えることができます。こうした作業は淡々とやるもので、毀誉褒貶する個人を生きものと見ず、無視するので、名誉欲から伝道するのではない、と言えます。真理の響きを増やす意味で、この調弦作業は菩提心の一種と位置付ることができます。これが本来の仏陀の立場と言えます。
また、別角度からの説明もできます。インドの諸スートラ(スッタニパータも然り)には、ある種のサマディーに没入すると、諸煩悩は焼き尽くされ、二度と煩悩に悩まされることはなくなる、との教えがあります。よって、「煩悩からの解脱は可能か」という問いは、「煩悩解脱のサマディーは本当にあり、本当にこれに没入することはできるのか」と言い換えられます。
これについては、近代の聖者として評価が固まりつつある、2聖者をあげることで、極々、僅かの超人的に強烈な瞑想力を持つに至った「信心の天才」に限り、解脱は可能、との結論を得ることができるでしょう。(でなければ、宗教はインチキという事になります。)その2聖者とは、ラーマクリシュナとラマナ・マハリシです。ラーマクリシュナについては『ラーマクリシュナの福音』という、この聖者の生活ぶりを記録した書が有り、ここから、サマディーに入った聖者とはどんなものか、うかがい知ることができます。
まず、梵天勧請の話ですが、もちろん、私も、梵天(ブラフマー神)が本当に仏陀の前に現れたとは思っていません。そもそも私はいかなる神の存在も信じていませんから。あくまでも神話の解釈をしているだけです。
真理を求め、悟り、それを教え広めたいという欲望が、煩悩かどうかですが、これは、仏教に対して内在的な立場をとるか外在的な立場をとるかで、違ってきます。仏教の信者は、「真理を求め、悟り、それを教え広めたいという欲求は煩悩ではなく、煩悩とは悟りを妨害する欲望だ」と言われれば、納得するでしょう。
しかし、仏教を信じない人から見れば、仏教の真理とは、たくさんある真理の候補のうちの一つです。仏陀を聖人として理想化する伝説ではともかくも、実際には、仏陀は伝道に苦労したと思います。後に、仏教がインドに定着しなかったことから判断しても、当時の人々が、仏陀の教えを素直に受け入れたとはとても思えません。
もし、煩悩を、「それを満たそうとすることが苦をもたらす欲望」と定義するならば、自分の教えを広めたいという欲望もまた煩悩でしょう。真理の候補は他にたくさんあります。自分の教えを広めようとすることは、承認をめぐる戦いに参加することですから、大変な苦痛です。
ところで、「衆生を生きものとして見ないで伝道する」とは、どういうことでしょうか。生命がなければ、意識もないはずで、そうした物同然の大衆に対して、布教活動ができるでしょうか。
例えば、今私が「白きものは救われる」という教えを説く新興宗教を創設し、森に生えている木の枝やら幹やらに白い布をかぶせたとしても、それを布教とか伝道とか言うことはできません。木を口説いて、彼らに自発的に白い布で身を覆わせることに成功すれば、布教あるいは伝道に成功したということになるでしょうが、ただ木に白い布を巻きつけることは、たんなる宗教的実践であって、布教あるいは伝道と言うことはできません。
「煩悩」を巡る解釈問題について以下、論じてみます。永井先生は、仏教に対する、非信徒としての外在的立場から、「煩悩」に対する新たな定義をお立てになり、煩悩を、「それを満たそうとすることが苦をもたらす欲望」と定義するなら釈尊もこの種の煩悩からは自由ではなかったと、ご指摘です。これは多分、一仏教を外在的立場から鳥瞰し、仏教よりも一般的・大局的立場からの普遍的な、「哲学的な新定義」なのでありましょう。しかし、哲学的な永井説の「煩悩」の定義の中の「苦」という言葉は、「楽」に対する相対的な概念である上に、「苦」は(バタイユではないですが)「エクスペリアンス・アンテリユール(内的体験)」に属するものです。苦が内的体験であるとすれば、以下のような考察が出来ます。
<肉体的な苦(=身苦)の場合>医者に外科手術を施されている患者を第三者が目撃して、「痛そう!苦しそう!」という見解を目撃者が持ったとしても、その手術部分に局所麻酔をかけられていたなら、当の患者本人は「痛くも苦しくもありません!」と、笑って答えるでしょう。インドの瞑想法は、幽体離脱に近い方法(但し、厳密には違う現象です)で、肉体の感受意識から離脱する、又は、他(=神)に強烈な集中力をする事で、肉的感受(感覚)を全く意識せず忘れてしまう技法です。この状態に入るサマディーを「苦の断滅」と定義します。そして、この状態の一特徴を涅槃と呼んだのですが、後世、涅槃が死の状態と混同されてしまいました。しかし、本来、サマディーと死は、別個の現象です。
永井先生は、「火の熱さから逃れるには、火を消したり、火から遠ざかったりするのではなく、火は熱いという思いを捨てたらよいというわけだ。ここに、仏教の根本思想を見ることができる。」と書いておられ、正解ですが、この「思いを捨てる」の中には、「肉体の感受」を捨て、それから離脱することが含まれます。尤も、「そんな離脱は有り得ない!幻想だ!」と言われたら、どう答えましょうか。有神論と無神論との間には、越えられない深い河が有る、としか、答えようがありません。現在の科学では、神や心霊問題は証明不能の問題ですから、保留事項扱いで、「真理の候補としての仮説群」として双方の見解を尊重すべきでしょう。但し、アナロジーとしての「麻酔現象」や、強度の集中時にも「痛苦感覚」が麻痺する現象については、一考して戴くべき問題と言えるでしょう。
<精神的な苦(=心苦)の場合>最高度の集中の結果もたらされるサマディーに見事入定すると、大歓喜・大法悦を(肉体ではなく個的霊体が)体験すると言われます。この場合、その時には既に一切の心苦は、大歓喜の故に、吹き飛んでいます。ところで、永井説は、煩悩を「それを満たそうとすることが苦をもたらす欲望」と定義しますが、「それを満たそうとする」衝動から自由である場合、即ち、それを満たさない選択をすることが可能であり、それを満たさない選択をしても苦を感じず、平気である場合には、どうなのでしょう?
しかし、永井先生は、133号講義の中で、「では、私たちは、欲望から完全に自由になって、涅槃寂静の境地に達することができるのだろうか。答えは、否である。生きている限り、欲望から自由になることは、不可能である。」と断じておられます。つまり、これを哲学的な「真の命題」として提示しておられます。そして、この命題を「真」とする根拠は、「煩悩」に関する永井定義です。煩悩を「それを満たそうとすることが苦をもたらす欲望」と定義することで、「妨げられると苦と感じる内的衝動全般」を「煩悩」に指定して、一切の例外を許さない「網」を張っているからです。よって、この定義の一帰結として「真理を求める欲望も煩悩である」という判断になります。何故なら、「真理を求める欲望を持つ者が真理に接近するのを妨げられれば、当然、心苦を感じるであろう」と考えられるからです。確かに、この解釈で行けば、修行中の釈尊にも、一般仏道修行者にも煩悩がある、と言えますし、悟りを求める菩提心も煩悩の一種と評価されます。(よって、この見方に異論を唱えることは無意味ですね。ちゃんと筋が通った一見解ですから。これぞ、外在的立場からの広義の「煩悩」解釈ですね。)
しかし、遂にサマディーに入ることを得て「悟った釈尊」は、苦を超脱した、と言われます。この場合、求める真理との一体化を既に成就してしまったわけですから、「真理を求める欲望はもはや無い」と言えます。一切の苦が吹き飛んでしまった大歓喜・大法悦の境地にあっては、「他者から認められたい」という名誉欲など、混入の余地がありません。この状態は、誤解を恐れずに言えば、「全欲望」が満たされた状態です。或いは、最高の大歓喜大満足状態の故に、他の欲望が消滅してしまった状態と言えば良いでしょうか。アナロジーとして、セックスの絶頂恍惚体験がよく引き合いに出されますが、内的エクスタシーに圧倒されている時、名誉欲など湧く余地はありません。
セックスの絶頂の場合も、神を悟ったと言えるサマディー(これを、ニルヴィカルパ・サマディーと言います)の場合も、共に肉体の行動意識は働きません。ただただ、<エクスタシーを味わう(茫然自失の)意識>が有るのみです。この状態は、主体的選択が不能の状態なので、バタイユの言う「プティ・モール(小さな死)」ではないですが、「こいつは死んでいる!」と永井先生なら評価するかもしれません。もしかして、永井哲学の限界がここにあるかも?!(笑)
鋭い冗談はさておきまして、但し、例外的に、内的に大法悦エクスタシーを保持したまま、肉体活動ができるサマディーが有ります。これを、サハジャ・サマディーと申します。これは、極々少数の<大聖者>のみが達成できるサマディーですが、釈尊の場合も、これに当たると見ることが出来ます。(諸特徴の分析から言って)さて、このように、サハジャ・サマディー状態の内的エクスタシーがメインの意識体にありましては、(圧倒的なエクスタシーに浸るところにこそ主な意識が有るので)、この者にとって、肉体的諸活動は、はっきり言って、やってもやらなくても、どうでも良いというレベルのものになっております。そして、こういう状態で行なう行為こそが、<行為に執着の無い行為>(超行為)と呼ばれ、これが、カルマ(行為)・ヨーガの理想とする状態だと説かれます。
ですから、はっきり言って、サハジャ・サマディー達成の大聖者の場合伝道・布教活動など、やってもやらなくても、どうでも良いのです。ただ、無為自然に、無我の状態で、誤解を恐れずアナロジーで言えば、夢遊病者のように、語り、歩むのです。人為的な努力も皆無です。説得する気持ちもなく承認されたいとも思わず、承認を巡る戦いをしている意識もない。こういう状態で法を説く。これが仏陀の行為です。はたから見れば伝道行為だと評価できる、しかし本人にとっては、やってもやらなくてもどうでも良いものであり、とはいえ人々から「教えて」と求められる以上、それに応じてやっている、そういう説法行為に過ぎないわけです。(この意味で「布教に当たっての戦略性」はゼロです。)そして、この場合、老荘思想との共通性を見ても大過ないので、「無為自然の行為」これがキーワードと言えば、分かりやすいかもしれません。従って、以上のような「釈尊の内的状態」を前提にすれば、「煩悩」の意味に関する(水も漏らさぬ)永井定義からしても、悟った後の釈尊に関しては、「煩悩から自由であった」と見る解釈が成立する余地が出て来ます。そして、この見解こそ、恐らく、大多数の仏教徒やヒンドゥー教徒からも支持され(得)る見解と言えましょう。(真理の候補の中の、最有力候補として強く推奨するものです。)
仏陀は有神論者か?永井先生は「仏陀の十四無記の教え」を引用して、「そもそも、仏陀本人は、超越神や死後の世界を語らなかったのですから、厳密な意味では宗教家とは言えません。」と仰っておられますが、これは、実は、一般に流布している皮相な誤解群の一つと言えます。何故なら、「言わない事」は「認めない事」を必ずしも意味しないからです。(ハートからハートへの無言の伝達にこそインド文化の奥義が有ります。)そもそも、仏陀はジュニャーナ(叡智)・ヨーガの厳格な実践者でありまして、真の神、又は、真の実在、又は、無常にあらざる真なるもの、を求めて、「これでもない、これでもない」と思惟力によって「非真」を否定をして行く事で、真実に迫る手法を取った、と推察されます。(大乗仏教で花開くその流れから)
そして、非真の代表は、言葉や名称であるので、神という呼称を使用することで生じる既成の概念や偏見を断つために、超越神について無言を貫いたのです。つまり、「偶像的な神」概念を全部否定してこそ「真の神」に到達できる、という「叡智のヨガ」の方法論が根底にあるわけです。その証拠といっては何ですが、超越神の名称を忌避する立場を貫くと、伝道上うまく伝達できない不都合が生じます。そこで、後世になると、超越神のことを、真如とか法身とか大日如来とか、本居とか本地(!)などと、呼ぶようになります。また、大乗仏教で、方広道人(ほうこうどうじん)と言えば、無神論的・虚無的な見解の保持者を指し、外道とされることからも、仏教自体は、超越神自体を否定するものではないと、充分に推測できるはずです。
私が、以前から仏教に対して抱いている疑問は、「仏教の理想は、人間が植物になることなのか」というものです。
植物には神経がありません。ですから、一切の苦から解放されています。欲望もありません。外から観察している者は、「植物は太陽の光を望んで、枝を窓に向けて伸ばしている」などと言いますが、当の本人には、少なくとも欲望の意識はありません。それでいて死んでいるわけではありませんし、動きが非常に遅いとはいえ、静止しているわけでもありません。
植物は、意図的に他の生物を殺すことはありません。逆に殺される時には、叫び声を上げたり、逃げ去ろうとしたりもしません。現世への執着を微塵も見せずに、従容として死に就きます。まさに、仏教の理想ではないでしょうか。
にもかかわらず、植物は、自分たちが偉大だとうぬぼれていません。うぬぼれる意識がないから当然なのですが、他方で意識を持つ私たちも、植物を尊敬する気にはなれません。植物が「最高度の集中の結果もたらされるサマディーに見事入定」して涅槃の境地に入ったわけではなく、生まれつき苦労せずしてそうだからです。
もしも「一切の苦が吹き飛んでしまった」なら、もはやそれは「大歓喜・大法悦の境地」ではありません。欲望を持ち、欲望の挫折から苦悩するからこそ、私たちは大歓喜・大法悦の境地に達することができるのです。
もしも、仏陀が、尊敬に値しない植物ではなくて、尊敬に値する聖人であるとするならば、仏陀もまた煩悩に支配された人間でなければなりません。
もう一つの話題「仏陀は有神論者か」についてですが、確かに、言わなかったから認めなかったとは限らないにしても、言わなかったから認めていたとも限りませんね。今日の仏教が宗教であることは間違いありませんが、仏陀本人が宗教家であろうとしていたかどうかは、解釈の問題だと思います。
誤解を恐れず<一言で>答えようとしつつ、同時に、正確性をも保持しようとするならば、「空海なら、この質問にどう答えただろう」と、空海の解答を推察する手法が良いように思います。空海なら恐らく、「まあ、9割がたは、植物のようになることと考えて宜しい。しかし、残りの1割にこそ、奥義が有る」と解答したかもしれません。
というのも、空海全集に入っていますが、彼の「秘密十住心論」という著作の中で、彼は人間の精神の発展段階を10段階に分け、最高の第10段階をゴールとし、これを「悟りの意識」とし、その一つ前の第9住心を「極無自性心」としているからです。「無自性を極めた心」=これは、主体性ゼロの、植物の如き「受動性」に徹した心の状態を意味します。
因みに、木石禅と言えば、座禅中、自らを木や石の如きものとする瞑想法を指します。仏陀は菩提樹の下で悟ったと言われますが、一説には、菩提樹を背にして、木の如くなる瞑想法を実践したのだ、と言われます。
以上の点から、「仏教の理想は、人間が植物になることなのか」と問われれば、答えは「いいえ、違います」になります。喩えで言えば、マンゴーの木が有って、思いっきりジャンプしたら手の届く位置に、マンゴーの果実がぶる下がっていたとします。
すると、第9段階の心「極無自性心=主体性の無い、植物の如き受動に徹した境地」この段階は、最高の飛躍をするために「最も低くかがむ」という、ジャンプの準備段階に相当します。従って、この段階にとどまっていては話になりませんし、この状態のままでは、人としての「価値」を疑われても仕方ありません!!!この点は永井先生のご指摘の通りです。
空海はこの段階の「卑」を捨てて、第10段階の「尊」を取れ、と言います。まことに、仏教の理想、そして、密教の、そして、一般的な宗教の理想は、「神の意識」という「マンゴーの果実」を手に入れる処にあります。この「マンゴーの果実」が極上・無上である故に、その一かけらでも食べたいと望む人々から、聖者は尊敬を受けるのです。
以上の回答に対して、「的はずれの回答をしてくれるな。私が言いたかったのは、植物には選択の自由も選択の能力も無いから意識も認識もなく、従って、苦も楽もない。もしも、人間が植物のように選択の自由も選択の能力も無く、よって意識も認識もなく、従って、苦も楽もない、という状態になったら、大歓喜も認識できないはずだし、人としての価値もないだろう、ということだ」という感想を永井先生がお持ちになったとしたならば、この論理の中には、微妙な「誤解」が混入している、と申し上げます。
宗教の話ですから、信じる・信じない、受け入れる・受け入れない、は別にして、プラトンのイデア・モデルを想定するのと同様の心持ちで、仏教的な、そして、インド不二一元哲学的な「有神論の世界観」について、真理の一つの候補として、そのモデルを「想像」して戴く必要が有ります。
つまり、「主体」の問題です。無神論なら、超越神を否定しますから、この立場に固執したまま、仏教を見るなら、「仏教の理想は植物になることか?」となります。しかし、有神論の立場から、超越神という「アナダー・ワンの主体」を想定するなら、「主体の明渡し=大政奉還=主導権の交代」の問題になります。
すなわち、「極無自性心=主体性ゼロの、植物の如き受動的な心」は、<神に主導権を渡すための最高の準備>ということになる、と分かって戴けることと思います。
永井先生は、もしも「一切の苦が吹き飛んでしまった」なら、もはやそれは「大歓喜・大法悦の境地」ではありません。欲望を持ち、欲望の挫折から苦悩するからこそ、私たちは大歓喜・大法悦の境地に達することができるのです。と、認識の相対性の問題を指摘なさいます。
確かに、主体が一つの場合には、このような論理になるかもしれません。しかし、主体が二つ有る場合には、「与えるもの」と「受けるもの」の相対性が成立し、先生の論理は全く成り立たなくなるはずです。いかがでしょうか。あくまでも、一モデルとして、お考え下さい。
尚、仏陀が有神論者か否かは14無記からだけでは判別不能ですが、原始仏典スッタニパータには仏陀が自分のことを「ヴェーダの達人」と自称している記録が有ります。「ヴェーダ」は有神論聖典であり、これに精通しているとの言明は、仏陀=有神論者説に有利でしょう。仏陀=無神論者説と仏陀=有神論者説双方で、間接証拠・提出合戦をしたなら、後者の説が大分有利でしょう。
大空照明さんの言いたいことがわかりました。幽体離脱で抜け殻となった身体は植物同然だけれども、幽体離脱する精神はそうではないということですね。
その通りです。但し、3点ほど、注意点が有ります。
1.無神論的ヴィジョンでは、「物質の脳味噌が精神を作る」と見ます。しかし、有神論的ヴィジョンでは、「霊体が肉体を纏う」と見ます。イエズズも肉体を「新しい着物」に喩えていますし、同様の見方はインドの「バガヴァッド・ギータ」にも有ります。インドの輪廻転生説も霊体の同一性が基本になります。仏陀が霊魂肯定論者か否かは、有神論か否かと同様の議論になってしましますが、仏陀の「ヴェーダの達人」発言は、仏陀が「ヴェーダの体現者」と自称したのと、ほぼ同義とみて良いでしょうから、霊魂肯定論者と見ることが出来ます。実際,瞑想力が一定以上になると、霊界や霊魂のことが分かるようになります。ソクラテスも霊魂肯定論者だったと聞いています。また、白隠禅師の書いたものには、幽体離脱体験が記されています。特に、三重苦のヘレン・ケラーのケースは注目に値します。彼女は大学首席卒業したほどの(努力と)頭脳の持ち主ですが、その頭脳をどうして手にいれたのでしょう。盲目状態で、諸概念をどうやって構築できたのでしょう?「光の中へ」という彼女の自伝の中に、小学校の時、図書館で点字図書を読んでいるとき、幽体離脱してお花畑で蝶々を見た、と記しています。肉体の目では「蝶々」を見たことがなく、蝶の様子は想像すらできないはずなのに、彼女は霊体の目で見て、蝶概念を正確に把握したのでした。
2.幽体離脱とサマディーは別の現象です。幽体離脱は、肉体からの霊体の離脱ですが、(但し、魂の緒のようなものでは繋がっていると一応想定して下さい)サマディーは、霊体の更なる「核」の部分である「アートマン」への没入を意味します。アートマンが「神の意識」であり、もう一つの主体です。
3.密教には「入我我入(にゅうががにゅう)」という言葉があります。この二つの「我」は二つの「主体」を表しています。神が人のエゴの入るのが「入我」、人のエゴが神の意識の没入するのが「我入」です。神の意識という大海の表面に、エゴの浮き玉が浮き沈みしている様子をイメージして戴ければ宜しいかと思います。
仏陀が有神論者か否かの問題を含め、大空照明さんは、仏教をウパニシャッド哲学と結び付けすぎているような印象を受けました。仏教は反バラモン教であり、梵我一如が仏陀の悟りの境地だとは思いませんが、そうした解釈の問題は措くとして、宗教に関するもっと普遍的な問題で議論を続けましょう。
オウム真理教のいかがわしい「空中浮遊」などとは違って、解脱は内的体験であって、外部から観察可能な体験ではありません。要は、本人が解脱したと主観的に感じるかどうかにかかっています。
したがって、たとえ本人が最終解脱を体験したとしても、周囲から、解脱したと認められなければ、その人は信仰の対象にはならないでしょうし、逆に内的な体験を欠いていても、周囲を説得することさえできれば、その人は信仰の対象となるでしょう。
もっと重大な問題は、神か否か、仏か否かを決める基準を誰がいかなる権利で決めるのかということです。もし神や仏を自称する人が決めるのなら、その教説はトートロジーの域を出なくなります。
「我は神なり」あるいは「我は仏なり」と言い出すことなら、誰でもできます。問題は、人々にそう認めてもらえるかどうかにかかっています。したがって、布教や伝道は、どうでもよいことではありません。
それとも大空照明さんは、「たとえ認める者が自分一人しかいなくても、真理は真理だ」と思いますか。
真理の認定と布教の問題を論じる前に、1点確認しておきたいことが有ります。いわゆる「思想の自由市場」の中での「自然淘汰」説、つまり、邪説はやがて敗れ、真理は最後に勝利する、このような「市場原理」が働くとする、一つの「信仰」を永井先生は肯定なさいますか?つまり、思想についても、「市場原理は至上原理」とお考えでしょうか?
自然淘汰説は、「正しい理論は必ず生き延びる」という真理についての信仰ではなくて、「生き延びている理論だから正しい」と判断する真理の判定基準です。正確に言えば、メタ基準なのですが。一応、次のように整理しておきます。