煩悩からの解脱は可能か
一つ禅問答をしよう。絶対に蚊に刺されないようにするにはどうすればよいだろうか。蚊取りせんこうをたいたり、虫よけスプレーをまいたりしても根本的な解決にはならない。絶対に蚊に刺されないようにするには、蚊を絶滅させなければならない。では、そのためにはどうすればよいか。

1. 欲求不満から解放される究極の方法
こうした解決策を探る方向は世俗的なもので、禅問答が期待していることではない。禅問答で重要なことは、公案にたいして答えを出すことではなく、答えを出すことを通じて修行中の僧が悟りを開くことである。絶対に蚊に刺されないようにするには、良寛がやったように、こちらから腕や足を差し出し、蚊に刺させてやればよい。刺されまいとするから、蚊に刺されるという被害に遭うのであって、そうした欲望を捨てれば、被害に遭わなくてすむ。
織田信長が武田信玄の菩提寺である恵林寺を焼き討ちにした時、快川禅師は「心頭を滅却すれは火も自ら涼し」という名言を吐いた。火の熱さから逃れるには、火を消したり、火から遠ざかったりするのではなく、火は熱いという思いを捨てたらよいというわけだ。ここに、仏教の根本思想を見ることができる。
2. 涅槃寂静の境地に達することができるのか
仏教の根本思想とは、こうである。私たちの人生は苦に満ちていて、そして私たちは苦から逃れたいと思っている。苦は欲望が満たされない時に生じるのだから、世俗の人々は、苦を完全に滅却するために、欲望を完全に満たそうとする。しかし欲望には限度がないから、欲望を完全に満たすことは不可能である。課長になれば部長に、部長になれば取締役になりたいと思うのが人間である。だが、欲望が無限に広がるからこそ、苦の原因も無限に増大する。したがって、苦から完全に自由になる(解脱する)には、苦の原因である欲望(煩悩)を滅却しなければならない。
仏教が理想とする自由は、私たちが通常望む自由とは、次元の違う自由である。私たちは、例えば、「好きな食べ物を自由に食べたい」という欲望を持つが、このような自由を望むことは、食欲という煩悩の奴隷になることを意味している。つまり、私たちが求める自由とは、欲望のための自由であって、欲望からの自由ではない。欲望のための自由は欲望からの不自由であるから、二つの自由は対立する。
では、私たちは、欲望から完全に自由になって、涅槃寂静の境地に達することができるのだろうか。答えは、否である。生きている限り、欲望から自由になることは、不可能である。涅槃とは死のことで、死ねば、欲望から完全に自由になれると思うかもしれないが、死ぬと自由である主体・涅槃寂静を感じる主体自体が消えてしまうので、自由と安らぎを手に入れることができない。実際、仏教は自殺を奨励する宗教ではない。仏教が否定しているのは、苦の原因となる煩悩であって、全ての欲望を否定しているわけではない。少なくとも、真理を求める欲望までは否定していない。問題は、真理を求める欲望が煩悩ではないのかどうかということである。
3. 仏陀は本当に煩悩から解脱したのか
仏教の開祖、仏陀(ゴータマ・シッダールタ)には、真理を求める欲望があった。仏陀が、快楽と苦行という両極端を否定し、中道を説いたことは中途半端に思えるかもしれないが、真理への欲望を満たすという点では徹底している。他の欲望を満たそうとすれば、真理への欲望は薄れてしまう。逆に全ての欲望を捨て、苦行と称して肉体を極限状態に追い込むと、意識が朦朧として、真理から遠ざかってしまう。彼も当時の慣習に従って、出家後苦行を試みたが、やがてそれを放棄し、後に菩提樹と呼ばれる樹の下で禅定に入る。
仏教徒が後に編纂した『仏伝』によると、仏陀は、菩提樹の下で悟りを開くまで、魔と戦い続けたとのことである。魔(マーラ)とは、心の内に潜む煩悩である。魔は「君は世界を統一する大帝王になれる」と誘惑した。しかし、仏陀は権力への欲望を克服した。魔はさらに、三人の娘を半裸の姿で踊らせ、仏陀を誘惑した。しかし、仏陀は官能的快楽への欲望を克服した。
権力欲と性欲を克服した仏陀は、悟りがもたらす心の安らぎを一人で楽しみ、このまま涅槃に入ろうとした。この時、『仏伝』によると、梵天(ブラフマー神)が驚いて、真理を独り占めせずに、説法を通じて、人類に仏陀の教えを広めて欲しいと勧請した。その結果、仏陀は、説法をして信者(弟子)を作ることを決意する。
一体、この時登場する梵天の正体は何なのだろうか。私は、それらは、魔が化けた天子魔だと考える。魔が「君は全人類から尊敬される聖者になることができる」と誘惑したのだ。そして、権力欲と性欲を捨てた仏陀も、名誉欲、すなわち他者から認められたいという欲望を捨てることはできなかった。仏陀は真理を欲望したが、真理は普遍的でなければならないので、自分の悟りが真理であることを示すために、多くの人にそれを認めてもらわなければならなかった。
こうした解釈をすると、仏教徒の読者から「釈尊は、無知蒙昧な衆生を哀れみになって説法をされたのだ。名誉欲のためではない」とお叱りを受けるかもしれない。しかし、仏陀が説法という布教活動をすることは、かなり矛盾を孕んだ行為である。仏陀自身が言うように、法を説いて、他の人々に理解されないとしたら、それは苦である。そして、苦の原因となる欲望は煩悩である。したがって、苦の原因となる煩悩を否定せよという説法自体が、苦の原因となる煩悩の肯定になっている。
仏陀をこの矛盾から救うのは、煩悩即菩提という考えである。煩悩は苦をもたらすが、煩悩から解脱すればそれは心の安らぎをもたらす。このことは、もしはじめから煩悩がなければ、煩悩から解脱する喜びもないということである。権力欲や性欲が否定された後で肯定されるべき煩悩であるとするならば、真理への欲望は肯定された後で否定されるべき煩悩である。もし、仏陀が最初から名誉欲を持たなければ、仏教は存在しなかっただろう。しかし、仏教は名誉欲もまた煩悩として否定しなければならない。
4. 追記(2004年)
この文章を書いたのは、2002年5月である。私の仏陀に対する最近の解釈に関しては、「仏教はなぜ女性を差別するのか」を参照されたい。仏陀が、名誉欲から布教活動をしたという表現は、評判が悪いので、取り下げたい。ただ、仏陀は、名誉を求めたわけではないにしても、「自ら思いを制し、よく注意して、教えを聞く人々を広く導きながら、国から国へと遍歴しよう」『スッタニパータ 』(No.114)と語っており、布教への意欲はあったようだ。その布教への欲望が、仏陀に新たな苦悩をもたらしたかどうかは、今となっては知る由もない。
ディスカッション
コメント一覧
ご指摘有り難う御座います。<「適者生存」は内容空虚なトートロジー>という事は、20年前に長谷部恭男教授(憲法)がまだ私大で助教授をしていた頃に教えて貰い、それ以来、よく使っていたのですが、うかつでした。
ところで、我々の議論で扱っているのは、「宗教の真理」についてです。よって、前提として、まず、「宗教」概念について定義しておく必要がありましょう。無神論の立場からの「宗教」の定義は、神など無いのに「有る」と強弁する、その虚偽性を指摘する、否定的なものになるでしょう。但し、その中で、倫理的な規範を含む部分だけは、肯定的な評価を与える、という内容になりましょうか。
一方、有神論の立場では、「超越神という主体」と「人間という主体」という「2主体」の相互関係を前提にしますから、ここから洞察される宗教の定義は、永井先生風に表現すると、「(分裂的な)神と人との状態のエントロピーを縮減するための教え」と表現できる、と思います。よって、「宗教規範」とは、それを選択すると、その選択者と神との相互関係性のエントロピーがそれなりに縮減される、ファンクショナルな恒常性の原理ということになります。この私の定義に、ご異議ありますでしょうか。これをもとに議論を進めても宜しいでしょうか?
宗教は、信仰の目的で定義されるべきでしょう。宗教を信じる人の目的は、死後を含めた(ここが科学技術とは異なる)魂の救済だと思います。神とか仏とかは手段です。たとえ教義上第一の存在であっても。
次の3点を前提にしつつ、永井先生の意見を尊重する形で、先の私の宗教の定義に、一部修正を施してみます。
1.これまでの議論で明らかになった事として、もしも、超越神が存在しないとしたならば、永井先生の結論通りに、「煩悩からの解脱は不可能」という帰結になるしかないでしょう。この場合、サルトルの戯曲じゃないですが、まさに「出口なし」の状態になります。この悲劇的実存状況にありながら、ニーチェのようにもならず、バタイユのようにもならず、カミュのようにもならず、精神の平衡を保つのは、よほど強靭な精神力が必要だと思います。故に、これができる人を私は本当に心から尊敬するのです。
2.「宗教の定義」を立てるに当たり、私は、無神論と有神論両方の立場で、ケース分けしました。これは、両方の立場を含むような、広くて曖昧な定義をすると、定義をする意味が無くなってしまうからです。よって、この議論においては、「宗教の定義」は、有神論の立場からのものに限定する必要があります。それに、無神論の立場から、宗教の定義をすると、それは、「宗教の真理」を巡る認定論の、その土台の否定になります。よって、やはり、有神論の立場に限るべきことが導かれます。∵無神論に立脚すれば、結局、「救いは無い」「解脱も不可能」となり、「魂の救済」は有り得ず、「魂の救済」など「嘘っ八」になるだけです。
3.有神論に立脚した場合でも、超越神が、人間とは何の関係も持たないというケースを想定すると、この場合も無神論の場合と同様に、「魂の救いは無い」ことになります。というか、正確に言うと、このケースで「救いが有る」という教義を立てても、それは「真理の論理性を欠いたもの」でしかなくなるので、「宗教の真理」を扱うこの議論からは、除外する必要が有る、ということです。よって、有神論の立場の中でも、超越神と人間、相互のかかわりの中での、人間の閉塞的実存状況からの「超越」の可能性が論じられなければなりませんし、救いを信じる宗教では、それがまさに可能だと信じる、こういう信仰を持つことが、合理性を内包した真理の一候補としての「宗教」ということになります。
以上の3点を踏まえると、リヴィジョン・アップした「宗教」の定義、即ち、(合理的な、真理の一候補を内包した)「宗教」とは「魂の救済を目的にして、(分裂的な)神と人との状態のエントロピーを縮減するための教え」このようになります。これなら、永井先生のご意見も、ちゃんと取り込んでいますから、異論は出ないと思いますが、いかがでしょうか?
「神と人との状態のエントロピーを縮減する」というのは、何のことなのかよくわかりません。「様々な宗教や神様を手当たり次第に信じた結果、どれが一番良いのかわからなくなったという不確定性を減らす」ということなのでしょうか。
宗教を信じるか否かは別として、私たちは、選択の不確定性にさらされています。この不確定性を縮減するための手段はたくさんありますが、神や死後の世界の信仰もそうした手段の一つです。神や死後の世界など、検証不可能な形而上的存在の想定による不確定性の縮減が宗教だと定義することができます。
もし、宗教をこのように定義するならば、仏陀の教えは宗教ではありません。仏陀は無神論者であり、魂の実体性を否定しました(無我の思想)。神とか魂といった有への信仰は、有への執着をもたらし、煩悩からの解脱を不可能にします。仏陀の教えは、無への信仰です。つまり信仰はないということです。
不確定性の縮減がさらなる不確定性の増大をもたらすとするならば、初めから縮減しなければよいという考えもまた、一つの縮減方法です。だから、魂の実体性の否定も、結果的には魂の救済のための一つの方法ということになります。
「煩悩からの解脱は可能か」で私が言いたかったことは、「解脱は不可能だ」ではなくて、「解脱は不必要だ」ということです。解脱は決して不可能なことではなく、誰でも、死ぬか植物状態になるかすれば、解脱することができます。
先生の宗教の定義、及び、仏陀と仏教の解釈を明確に提示して戴き、有り難う御座います。いくつか問題点を指摘したいのですが、それは次の投稿に譲ることにします。議論もいよいよ佳境に入って来た感が有りますね。
ただ、先生の仏教・仏陀解釈を論じる準備として、1点確認しておきたいことが有ります。先生は仏陀がサマディーに入ったと言われることを肯定なさいますか?それとも認めない立場、つまり、「仏陀=ただのおっさん」説でしょうか?
さて、この投稿では、私の宗教の定義についてもう少し論じさせて下さい。エントロピー概念の達人である永井先生に伝わらないなら、誰にも伝わらないでしょう。私の言葉不足です。お詫び申し上げます。
私が表現したかったことを以下、説明してみます。大きなプールに、二人の人間(主体)が制約なく自由に泳いでいたとします。この場合、2主体はバラバラな動きをしているので、2主体の行動の不確定性は高い状態と言えましょう。ここで、一方の者が「やるわよー」と大声をかけたなら、もう一方の者は「はーい」と言って、共に「東方向」に泳ぎだす、という約束事を決めたとするなら、これを実行している時は、以前の無秩序状態よりも、2主体の行動の不確定性は減っていると言えましょう。こうした2主体の打ち合わせを密にして行くことで、最終的には、<一糸乱れぬシンクロナイズド・スイミングの演技>をやるならば、2主体の行動のエントロピーはものすごく縮減された状態と言えると思います。
宗教の場合も、超越神を想定した場合、神の主体と人間の主体2者の行動はバラバラで独自の状態で、不確定性は高い状態が想定されますが(これが2者の分裂的状況)、人間が超越神の意向に沿った行動を取るように努めて行くならば、両者の行動は統合的な方向にまとまって行き、両者の行動に関するエントロピーは縮減されて行きます。このことを言いたかったのです。
超越神が己れの超越性を人間に無条件に付与することは、両者の行動に関する相関的なエントロピーを増大させる行為になるので、自己保存的秩序維持システムの基では、この選択は取られない、と言えます。創世記でも、人間にこのままの状態で永遠の命を付与したら大変だ、ということで、命の樹の実を渡さないようにするシーンが有ります。というわけで、超越神が己れの超越性を人間に分与する条件が有るとしたなら、神の行動と統合・一体化の方向で、人間の行動に関するエントロピーを縮減して行くことしか、考えられません。
以上の考察から、再度、宗教の定義を表現しなおしてみます。
宗教とは「人間が(魂の救い会得のために)、神の意思・行動に合わせる方向で、人間の意思・行動に関する選択のエントロピーを縮減して行く(ための)教え」このように言えると思うのです。表現の不備があれば、指摘して下さい。
この定義について、深く検討すると、これまでの仏教論議における、永井先生にとっての「謎」の部分や、私が先生に伝達したいと思う大乗仏教の奥義が垣間見える、と思います。(アートマンの解釈においては、永井先生は多分通説的立場でしょう。しかし、私は原始仏教と大乗仏教の間に「無神論と有神論」の大転換が有ったとは見ず、本質的には連続している、と見る点では、通説的立場と言えましょう。この両者の矛盾について深く検討すると、どちらか一方が間違って誤解している、という結論が導き出されます。)
真理の候補で有り続けるには、宗教は以上のように定義されなくてはならない、と考えます。いかがでしょうか?仏陀理解・原始仏教理解で、この宗教定義に、仏陀のそれが該当しないとしたならば、「原始仏教は宗教ではない」と言うしかありません。
「仏陀がサマディーに入ったと言われることを肯定なさいますか?それとも認めない立場、つまり、仏陀=ただのおっさん説でしょうか?」という問いに対しては、「サマディーに入らなければ、ただのおっさんなのですか」と逆に問い返したいです。同時代のソクラテスやプラトンは、サマディーに入ったわけではありませんが、偉大な哲学者であることには変わりがありません。
「人間が(魂の救い会得のために)、神の意思・行動に合わせる方向で、人間の意思・行動に関する選択のエントロピーを縮減して行く(ための)教え」という定義は、理解できますが、宗教を他の理論から区別するためには、死後の世界についても言及するべきではないでしょうか。
エントロピーという言葉を使うなら、エントロピーの法則が宗教でどのような役割を果たしているかについても考えましょう。エントロピーの法則とは、「システムが構造のエントロピーを減らすためには、それ以上のエントロピーを環境で増やさなければならない」というものでした。仏教に応用するならば、この法則は、「煩悩からの解脱をありがたく思うには、人は煩悩のとりこでなければならない」ということになります。
これまでの議論では、哲学的なディアロゴスにふさわしく?「言葉の(意味の)示差性」が問題になっていますね。
1.煩悩の定義
宗教に対する「内在、又は外在」的立場の差
2.「ただのおっさん」の意味合い
無神論の立場では、偉大な哲学者は、ただのおっさんではないでしょう。(無神論に限らず一般的通説?)しかし有神論の立場では、その人が礼拝の対象となるかならぬか、という場合、「神の化身(聖者)か、ただのおっさんか」、という二分法は、あまりにも重要です。(笑)永井先生は「サマディーに入らなければ、ただのおっさんなのですか」と逆に問い返したいです。と仰いましたが、これに対する答えは、礼拝の対象問題における二分法からすると、「はい。サマディーに入らなければ、ただのおっさんです」となります。神との合一を果たしていない者を信仰の対象として崇拝・礼拝するのは、宗教に対する内在的立場からすると邪道だからです。あとは、認定論の問題になります。
(無神論の立場では「サマディーも否定されるのか。なるほど」、とあらためて確認できた事は、新鮮な発見でした。ただ、サマディー否定論で原始仏典を解釈すると、解釈に困る部分が沢山出てきて、真剣に議論すると、この立場では勝ち目はないのでは?ともちらっと思いました。「彼岸」は何を意味するのか?等等です。まあ、我々の議論の中ではどうでも良い事ですが。)
3、アートマンの解釈の差異 仏教解釈については、普通に議論すれば、無神論と有神論では平行線になるだけの公算が高いです。例えば、イエズス・キリストを「受肉した神」と見るか、ただのおっさんと見るか議論しても実りがないのと同じでしょう。しかし、永井先生も「仏陀の言葉」と認めておられる「アナートマン」の解釈について論じるならば、これで「仏教奥義」を永井先生に伝達することはできる、と私は感じています。「宗教」の定義の議論が片付いたら、これに取り組めれば幸いです。
さて、宗教の定義について、あと一歩、詰めの議論をさせて下さい。エントロピーという言葉を使うなら、エントロピーの法則が宗教でどのような役割を果たしているかについても考えましょう。お言葉を受けて、検討して、答えが出ました。私の定義からすると、神と人の2主体を前提にします。「選択のエントロピー」に関して見ると、自由度が高ければエントロピーが高く、自由度が低ければエントロピーも低いということになりましょう。
神の意思・行動の合わせる方向で人間の選択のエントロピーを縮減すると、その人間の自由度は狭まり、どんどんと従属的になって行きます。そして、それに正確に反比例する形で、神の自由度(選択のエントロピー)は高まります。何故なら、神に従属的になる人を神はその従属性に応じて自分の意志通りに動かせるようになる、即ち、道具化することができ、その意味で、神の意思・行動の選択肢は増大するからです。
また、「人間が(魂の救い会得のために)、神の意思・行動に合わせる方向で、人間の意思・行動に関する選択のエントロピーを縮減して行く(ための)教え」という定義は、理解できますが、宗教を他の理論から区別するためには、死後の世界についても言及するべきではないでしょうか。
というご指摘についても検討しました。そして、「永遠の命」をいう文言を追加することにしました。即ち、宗教とは、「魂の救いと永遠の命の会得のために、神の意思・行動に合わせる方向で、人が自分の意思・行動に関する選択のエントロピーを縮減して行く、こうした道を示す教え」これでどうでしょう?何か不備・瑕疵がありますでしょうか?かなり良いように思いますが。
おわりに、仏教に応用するならば、この法則は、「煩悩からの解脱をありがたく思うには、人は煩悩のとりこでなければならない」ということになりますについてですが、これについては「認識の相対性」という点では首肯しますが、厳密に検討すると少々違う可能性があると思います。中学生の時、哲学者三木清の「人生論ノート」を読んだ時、「健康は病気になって初めて認識できる」とか何とかの一節がありましたが、ハタ・ヨーガをやると、健康でも健康の喜びが実感できました。それに「煩悩・解脱」ではシステムと環境の区別もないといえるような気がするのですが?尤も、これについて深く議論するのは止めた方がいいような気がしています。もっと重要なことに精力を注ぎましょう。
インド人の中には、「サマディーに入らなければ、ただのおっさん」と考えていた人もたくさんいたことでしょう。だからこそ、仏教はインドで定着しなかったのではないのですか。インド人が仏教よりもヒンドゥー教やイスラム教やキリスト教を好んだのは、仏教が、神を信仰したいという民衆の宗教的欲望を満たすことができなかったからでしょう。もっとも今でも仏教は、ヒンドゥー教の一部へと変質して、インド人の心の中に残存しているらしいですけれども。
人間が神の道具になるというのは、キリスト教の説明としては良いとしても、仏教の説明としてはいかがなものでしょうか。大空照明さんは、仏典に精通していると思うので、聞きますが、仏陀が
という文献上の証拠はあるのですか。もし仏陀本人が、こうしたことを言っていたとするならば、仏教は、キリスト教と同じ宗教ということになります。
2者の異同を論じる時には、異同のものさしたる価値基準が前提として問題になりますね。
永井先生が挙げた3つの点について、仏陀本人が命令や禁止をしたという事は勿論、有りません。しかし、「だから」<仏教とキリスト教は完全に異質のものだ>という論理になるかといえば、そうとは限りません。
有神論を前提にした場合、超越神を複数認めるか否か、という論点が発生しますが、この問題を深く検討すると、複数は認められない、という結論になるでしょう。多分、永井先生が有神論に万が一、転向した場合も、この立場を採ると思います。
そうすると、結論的には「万教帰一思想」にならざるを得ません。私の立場も「万教帰一思想」です。空海も同様です。真言密教における「一大曼荼羅観」も「帰一思想」(或いはその展開形)です。空海には「三教指帰」という著書があり、仏教・儒教・道教の三者の究極的な帰一を想定しています。(但し、三者の優劣は有るとしていますが)ヒンドゥー教の多神教とウパニシャッド哲学も「帰一思想」です。
「帰一思想」は「山頂は一つ、しかしそれを目指す登山道は色々有る」と、表現されます。インドの各種のヨーガの中には、バクティー(信愛)ヨーガと呼ばれる「特定の対象を神(の化身)として崇拝し、この化身に対して信愛のセルフレス・サーヴィスをして行く修行法」が有ります。キリスト教はこのヨーガに分類されます。
一方、ジュニャーナ(叡智)ヨーガと呼ばれるものは、外的なすべての特定対象を崇拝する「偶像礼拝」を忌避して、自己の内側をひたすら脚下照顧して行く修行法です。仏教はこのヨーガに分類されます。
一見、正反対のヨーガですが、どちらのヨーガでも神を悟れると言われます。南面の登山道と北面の登山道、陽と陰ほどの差異がありますが、この差異は本質的なものではありません。
私の宗教定義について永井先生は「キリスト教の説明としては良いとしても…」と条件付きで容認して下さいました。キリスト教の説明として良ければ、ユダヤ教の説明としても良いはずですし、ユダヤ教から派生したイスラム教の説明としても良いと言えるでしょう。ヒンドゥー教の説明としてもOKでしょう。
というわけで、残ったものとして、私の宗教定義が「仏教の説明としても妥当するか否か」この問題について、思索を深めて行きましょう。私の宗教定義「魂の救いと永遠の命の会得のために、神の意思・行動に合わせる方向で、人が自分の意思・行動に関する選択のエントロピーを縮減して行く、こうした道を示す教え」これは、便宜上粗雑に表現するなら(神に統合する方向で)「人のエゴを縮減すること」、一言で言えば「エゴの縮減」です。「邪心滅却の道」ともいえます。(神意に反する人心を邪心と定義します)
さて、そうすると、イエズス・キリストの十字架は、彼が身をもって示した、血染めの「エゴの縮減(・滅却・献上)の教え」(の象徴)と見ることができます。一方、仏陀の「無我(アナートマン)」の教えも<エゴの縮減・滅却の教え>と見ることができます。このように見るなら、キリスト教と仏教の差異は登山道の差であり、表面的なものに過ぎない、と言えます。
ここで、「仏陀が有神論者か無神論者か」という論点を思い出して下さい。永井先生に一つ質問してみます。仏陀が「超越神」の存在に関しては無記を貫いたことは、先生の「仏陀=無神論者説」の根拠でもありますが、さて、一切の、超越神を指し示す言葉や記号を用いずに、それを「否定」することが論理学的に可能でしょうか?
これが不可能ならば、仏陀の「無我(アナートマン)」の教えは「超越神に関する無我」を意味しないことが明らかになり、畢竟、超越神以外の「形而下的な存在に関する無我」を意味する、と確定します。つまり、超越神以外のものを斬り捨て否定し排除して、真の超越神を瞑想する手法であった、と確定します。
尚、永井先生のように、アートマンを「(個体的な)魂」の意味に解するのは、後世の派生的用法と推察できますし、仏陀がこの意味でアートマンの語を使ったと解する事は、仏教教義上、無理が有りすぎます。何故なら、「(個体的な)魂」を人間の「根本動因(=アートマン)」と見るのは、大乗仏教では「我見」に当たり、「無我見」を説く仏教からすれば「外道」に当たるからです。ちなみに、『岩波仏教辞典』の「我(アートマン)」の項には「原語の<アートマン>は、ドイツ語のatmenと同じく、もと気息、呼吸の息を意味し、生気、本体、霊魂、自我などを表す。云々」と有ります。
それから、永井先生の理解のように、「仏教がインドで定着しなかった」というわけではなく、不幸にして「大乗仏教はイスラム教勢力に駆逐されてしまった」というのが歴史の事実のようです。イスラム教勢力が無ければ、大乗仏教はかなりの勢力に成長して繁栄したことでしょう。(既に、ヒンドゥー教的に変容していたのですから)
私の立場は、一神教的ではなくて、多神教的です。こうやって、意見交換しているうちに、私と大空照明さんの意見がいつか一致するだろうとも期待していないし、たぶん平行線をたどり続けるだけだろうと思います。でもそれで良いと思います。私と意見が一致しないからこそ、他者は他者なのだというのが私の哲学ですから。
どこから登っていっても同じ頂点に達するはずだという信念のもと、異なる見解の持ち主を折伏しようとすることは、仏陀的な方法ではありません。仏陀は次のように言っています。
「自己の見解に執し、固く捉え、捨てがたい人にとって、自己の見解に執しない、固く捉えない、捨てやすさが涅槃のためになります」(中部経典第8経)
仏陀が、世界や魂についての形而上学的な問いに答えないのは、本人が言うように、それが悟りを開く上で必要がないという消極的な理由からだけではありません。形而上学的な仮説を立てると、その仮説への執着が生じ、「私の説は論争で守ってやらなければならない」という煩悩が増大するので、解脱の障害になるという積極的な理由からです。
毒矢の喩えを使うならば、毒矢を射られた者が、毒矢を射た者が誰なのかとか、どのような弓で射られたのかとかを問うことは、たんに不必要なだけでなく、傷を治療する上で有害ですらあります。なぜなら、そのような非本質的なことを考えている間に、どんどん毒が体に回って、取り返しの付かないことになるからです。
先ほど引用した『中部経典第8経』で、仏陀は次のように言っています。
ここからもわかるように、仏陀は、形而上学的な問題に執着しないために、無我を説いているのです。
もとより、『中部経典』をはじめとする最古の仏典ですら、仏陀の死後400年以上経って編纂されたものですから、それらを手がかりに、仏陀の本当の思想が何であるかを確定することはできないでしょう。だから、仏陀が本当はどういう人物で、どういう思想の持ち主だったのかというようなことは、議論しても意味がないのかもしれません。
ですから、大空照明さんが独自の仏教解釈を打ち出して、新しい宗教を作るとしても、私は何も反対しません。宗教は、宗教を信じる人の心を満たせばそれでよいのではないでしょうか。