煩悩からの解脱は可能か
一つ禅問答をしよう。絶対に蚊に刺されないようにするにはどうすればよいだろうか。蚊取りせんこうをたいたり、虫よけスプレーをまいたりしても根本的な解決にはならない。絶対に蚊に刺されないようにするには、蚊を絶滅させなければならない。では、そのためにはどうすればよいか。

1. 欲求不満から解放される究極の方法
こうした解決策を探る方向は世俗的なもので、禅問答が期待していることではない。禅問答で重要なことは、公案にたいして答えを出すことではなく、答えを出すことを通じて修行中の僧が悟りを開くことである。絶対に蚊に刺されないようにするには、良寛がやったように、こちらから腕や足を差し出し、蚊に刺させてやればよい。刺されまいとするから、蚊に刺されるという被害に遭うのであって、そうした欲望を捨てれば、被害に遭わなくてすむ。
織田信長が武田信玄の菩提寺である恵林寺を焼き討ちにした時、快川禅師は「心頭を滅却すれは火も自ら涼し」という名言を吐いた。火の熱さから逃れるには、火を消したり、火から遠ざかったりするのではなく、火は熱いという思いを捨てたらよいというわけだ。ここに、仏教の根本思想を見ることができる。
2. 涅槃寂静の境地に達することができるのか
仏教の根本思想とは、こうである。私たちの人生は苦に満ちていて、そして私たちは苦から逃れたいと思っている。苦は欲望が満たされない時に生じるのだから、世俗の人々は、苦を完全に滅却するために、欲望を完全に満たそうとする。しかし欲望には限度がないから、欲望を完全に満たすことは不可能である。課長になれば部長に、部長になれば取締役になりたいと思うのが人間である。だが、欲望が無限に広がるからこそ、苦の原因も無限に増大する。したがって、苦から完全に自由になる(解脱する)には、苦の原因である欲望(煩悩)を滅却しなければならない。
仏教が理想とする自由は、私たちが通常望む自由とは、次元の違う自由である。私たちは、例えば、「好きな食べ物を自由に食べたい」という欲望を持つが、このような自由を望むことは、食欲という煩悩の奴隷になることを意味している。つまり、私たちが求める自由とは、欲望のための自由であって、欲望からの自由ではない。欲望のための自由は欲望からの不自由であるから、二つの自由は対立する。
では、私たちは、欲望から完全に自由になって、涅槃寂静の境地に達することができるのだろうか。答えは、否である。生きている限り、欲望から自由になることは、不可能である。涅槃とは死のことで、死ねば、欲望から完全に自由になれると思うかもしれないが、死ぬと自由である主体・涅槃寂静を感じる主体自体が消えてしまうので、自由と安らぎを手に入れることができない。実際、仏教は自殺を奨励する宗教ではない。仏教が否定しているのは、苦の原因となる煩悩であって、全ての欲望を否定しているわけではない。少なくとも、真理を求める欲望までは否定していない。問題は、真理を求める欲望が煩悩ではないのかどうかということである。
3. 仏陀は本当に煩悩から解脱したのか
仏教の開祖、仏陀(ゴータマ・シッダールタ)には、真理を求める欲望があった。仏陀が、快楽と苦行という両極端を否定し、中道を説いたことは中途半端に思えるかもしれないが、真理への欲望を満たすという点では徹底している。他の欲望を満たそうとすれば、真理への欲望は薄れてしまう。逆に全ての欲望を捨て、苦行と称して肉体を極限状態に追い込むと、意識が朦朧として、真理から遠ざかってしまう。彼も当時の慣習に従って、出家後苦行を試みたが、やがてそれを放棄し、後に菩提樹と呼ばれる樹の下で禅定に入る。
仏教徒が後に編纂した『仏伝』によると、仏陀は、菩提樹の下で悟りを開くまで、魔と戦い続けたとのことである。魔(マーラ)とは、心の内に潜む煩悩である。魔は「君は世界を統一する大帝王になれる」と誘惑した。しかし、仏陀は権力への欲望を克服した。魔はさらに、三人の娘を半裸の姿で踊らせ、仏陀を誘惑した。しかし、仏陀は官能的快楽への欲望を克服した。
権力欲と性欲を克服した仏陀は、悟りがもたらす心の安らぎを一人で楽しみ、このまま涅槃に入ろうとした。この時、『仏伝』によると、梵天(ブラフマー神)が驚いて、真理を独り占めせずに、説法を通じて、人類に仏陀の教えを広めて欲しいと勧請した。その結果、仏陀は、説法をして信者(弟子)を作ることを決意する。
一体、この時登場する梵天の正体は何なのだろうか。私は、それらは、魔が化けた天子魔だと考える。魔が「君は全人類から尊敬される聖者になることができる」と誘惑したのだ。そして、権力欲と性欲を捨てた仏陀も、名誉欲、すなわち他者から認められたいという欲望を捨てることはできなかった。仏陀は真理を欲望したが、真理は普遍的でなければならないので、自分の悟りが真理であることを示すために、多くの人にそれを認めてもらわなければならなかった。
こうした解釈をすると、仏教徒の読者から「釈尊は、無知蒙昧な衆生を哀れみになって説法をされたのだ。名誉欲のためではない」とお叱りを受けるかもしれない。しかし、仏陀が説法という布教活動をすることは、かなり矛盾を孕んだ行為である。仏陀自身が言うように、法を説いて、他の人々に理解されないとしたら、それは苦である。そして、苦の原因となる欲望は煩悩である。したがって、苦の原因となる煩悩を否定せよという説法自体が、苦の原因となる煩悩の肯定になっている。
仏陀をこの矛盾から救うのは、煩悩即菩提という考えである。煩悩は苦をもたらすが、煩悩から解脱すればそれは心の安らぎをもたらす。このことは、もしはじめから煩悩がなければ、煩悩から解脱する喜びもないということである。権力欲や性欲が否定された後で肯定されるべき煩悩であるとするならば、真理への欲望は肯定された後で否定されるべき煩悩である。もし、仏陀が最初から名誉欲を持たなければ、仏教は存在しなかっただろう。しかし、仏教は名誉欲もまた煩悩として否定しなければならない。
4. 追記(2004年)
この文章を書いたのは、2002年5月である。私の仏陀に対する最近の解釈に関しては、「仏教はなぜ女性を差別するのか」を参照されたい。仏陀が、名誉欲から布教活動をしたという表現は、評判が悪いので、取り下げたい。ただ、仏陀は、名誉を求めたわけではないにしても、「自ら思いを制し、よく注意して、教えを聞く人々を広く導きながら、国から国へと遍歴しよう」『スッタニパータ 』(No.114)と語っており、布教への意欲はあったようだ。その布教への欲望が、仏陀に新たな苦悩をもたらしたかどうかは、今となっては知る由もない。
ディスカッション
コメント一覧
私は永井先生を折伏するつもりはゼロです。折伏という昔の創価学会みたいな活動には、大反対です。ただ、金剛般若経のような意識のトランスフォーメーションが対談の中で起これば…、とは少々期待していました。対談のはじめに述べた通り、永井先生に東洋哲学の奥義を伝達できるならしてみたい、というのが、私の動機だからです。 私は永井哲学が好きで、永井先生の思索力が好きなのです。
宗教奥義哲学では、他者を純粋な他者とは見ません。右手と左手は異なる動きをしますが、両者は他者ではありません。これと同様で、私は他人をも私と同一主体(神)の一部分と見ます。よって、私と永井先生の意見が永遠に平行線ということは無いと考えています。(真の主体の力を信頼している、という意味です。)
「仏陀が有神論者か無神論者か」という議論は平行線になるだけの不毛なものだと、永井先生はご判断されたのだと思いますが、私もそれはある程度承知の上で、敢えて、ひと押ししてみたのです。というのも、それが殻を破る布石になると思ったからです。殻とは、永井先生が東洋哲学においても達人になるための殻です。
私は新しい宗教を作ろうとしているわけではありません。この対談で私が主張して来た宗教思想は、インドのウパニシャッド哲学を肯定するヒンドゥー教のスタンダードな考え方です。ラーマクリシュナもヴィヴェーカーナンダもオーロビンドも私の主張と寸分も違わないことでしょう。シャンカラやサイババの見解とも同様とさえ言えます。「仏教とヒンドゥー教が本質的に異なる」と見るのは、堕落・形骸化した仏教アカデミズムの産物です。形骸化したアカデミズムに批判的な、そういう気骨、反骨精神の持ち主という意味では、私と永井先生は共通すると思います。永井先生はいつまでも堕落した仏教アカデミズムに騙されているべきお人ではありません。きっと、私の主張が異端ではなく、真理であるが故にユニヴァーサル・スタンダードであると、気付く時が来ると思います。そして、それがこの投稿であれば…と願っています。
「先生に有神論的説明をして、有神論者にひきずり込もうとした」とか「(私の手法は)仏陀的な方法ではありません」と思われましたなら、それは誤解です。インドは宗教の国ですから、これまでの議論は、仏陀のおかれた当時の文化環境がそうだったという点を確認する意味も有った、とご理解下さい。(いわば、外堀を埋める作業でした。)
では、いよいよ、その「仏陀的な方法」=「神を使わないで、思索的・哲学的に真理を瞑想して行く、思い込みレベルの信仰など全く無用な叡智のヨーガ」を以下で実践してみましょう。「金剛般若経」のスブーティーのような意識の変性が、あわよくば起こることを少しだけ期待しながら。(いざ、本陣へ)
永井先生は、次のように仰いました。「仏陀は無神論者であり、魂の実体性を否定しました(無我の思想)。神とか魂といった有への信仰は云々」と。しかし、ここで「実体性の否定」の意味をわかって発言しておられますでしょうか?多分、違うでしょう。「実体性の否定」が「存在性の否定」と同義なら、「存在性の否定」と言えば良いだけです。実際、般若心経の翻訳でも「五蘊には実体性がない」と訳され、物質にも実体性がない、と言われますが、五蘊も物質も存在はしています。その意味で、「実体性の否定」は「存在性の否定」とは同義ではありません。
永井先生が「仏陀の思想は無我の思想」と理解するのは正しいですが、肝心の「無我」の意味を誤解しておられるようですね。 「無我」とは「我の否定」であり、その「我」とは「アートマン」のことです。アートマンと呼ばれる「我」の元々の意味は「主体・本体」の意味です。「根本動因としての主体・本体」と言っても良いでしょうし、「主体・本体としての根本動因」と言う事もできましょう。<個体的魂>を人間の「根本動因としての主体・本体」だと感じた人が、アートマンに「魂」という意味を後から付着させたに過ぎません。 私も仏陀も現在の仏教も、個体的魂を「根本動因としての主体・本体」だとは寸毫も考えません。たとえ魂が存在したとしても、です。
「実体性」は仏教ジャーゴンで「自性(じしょう)」とも言われ、両者は同義異語です。つまり、「実体性が無い」とか「自性が無い」とは、「根本動因としての本体性が無い」ということです。「真の主体」を縮めて「真主体」と呼ぶなら、「真主体性が無い」という表現でもしっくり来ます。 ここで質問します。永井哲学では「主体」とはなんですか? 「真の主体」といえるためには何が必要ですか?
さあ、では、大急ぎで「抜かなければならない<毒矢>」を今抜きましょう。そのために伝家の宝刀、文殊菩薩の鋭利な剣を、今こそふるいましょう。
永井先生の右手は主体と言えますか? ノーでしょう。では、手の根っこの胴体は主体と言えますか? 命令伝達媒体に過ぎないのでしたら、主体ではないでしょう。では、脳味噌は主体ですか? 脳味噌のどの細胞に主体があるのでしょう。永井氏を永井氏として動かしている「根本の動因」は何ですか?永井氏の五蘊のどこに「根本の動因としての本体」がありますか?永井氏が「私の意識こそが主体だ」というのなら、その意識を作動させている根本の動因は何ですか? 例えば、数時間前に食べたお米と鳥のから揚げが先生の意識の根本動因ですか?
煩悩に悩まされることが有るなら、その煩悩を煩悩たらしめている根本の動因は何でしょうか?喜怒哀楽の心の動きの根本の動因は何ですか?意識こそ主体というのなら、あなたの意識は心臓に「鼓動せよ」とか「鼓動をやめよ」と一度でも命令してそれを選択・実行したことがありますか?血液を濾過・浄化して尿にして膀胱に溜めるよう、意識的な選択をしたことが一度でもありますか?
DNAの二重螺旋構造を形成しようと一度でも意思した事がありますか?ATGCの4種の塩基配列による遺伝子プログラムは、永井先生の頭脳をも遥かに超えた「設計」ではありませんか。これを人間がいつ意識で選択・形成したというのでしょう? 超高層ビルディングの造形を目の前にして、「これは偶然の産物だ」と強弁し続ける人がいたら、その人をどう評価しますか?一連のシステムが主体だというのなら、そのシステムをシステムたらしめている根本動因は何なのでしょう?
目を転じて「風」について見てみます。風を風たらしめている「根本の動因」は何ですか? 地球の自転でしょうか? 太陽の光熱でしょうか?では、地球の自転の根本の動因は何ですか?太陽の光熱の根本の動因は何ですか?重力や核力など4つの力の根本動因は何ですか?宇宙のビッグバンを起こさせたその根本動因は何ですか?
あらためてつぶさにクローズ・アップして検証すると、これが根本動因としての本体だというものが全然見当たらないでしょう。(これを仏教では「諸法無我」と言います)。根本動因としての本体が無いのに、森羅万象は見事なまでに深い法則と秩序を内奥に孕みながら、美しく活動しています。これを老子は「無為自然」と評したのでしょう。「無我の中の無為なる活動」です。一方、永井先生は自分を主体だと思って思考したり活動しているでしょう。ここに「主体に関する錯覚」が有ります。
ヒンドゥー教では、象徴的に「縄を蛇と勘違いする」と表現します。真の主体でない(=無我な)のなら、小ざかしい作為を巡らして作為的に動くべきではありません。それが自分の本分なのですから。そうすれば、やがて、その人の意識を媒体にして、無為なる働きが顕れます。(媒体の個性に応じて)ところが、自分を真の主体だと錯覚すると、「自分は自分の肉体の王様」のような気分になってしまいます。そして好き勝手な、倫理に反する行動を取り始めます。
<河童型ソーラーパネル付きアンドロイドの喩え>を出します。人間そっくりのアンドロイドができたと仮定します。このアンドロイドは、頭のてっぺんに河童型のソーラーパネルが付いていて、太陽光を受けて発電し、そうしてニューロ・コンピューターを作動させ、人間のように思考して活動するものとします。このアンドロイドを「カッパくん」と名づけましょう。カッパ君には充電システムが装備されていません。よって、太陽光が遮られると、瞬時に糸の切れた操り人形のように、地に崩れ倒れて、屍同然となります。しかし、カッパ君は、太陽光を浴びているときは、自力で意識し、自力で活動している気持ちになっています。こういうカッパ君には何と言いましょうか。「いい気なもんだね、カッパ君。君は自己存在の根本的な<依存性>について全く意識していないんだからね。自己存在に関する最重要事項について失念したまま、君は活動しているわけだ。それが存在に関する<根本の無知>というやつなのだよ。」
では、準備ができたので、永井先生の最初の質問、即ち、「ところで、「衆生を生きものとして見ないで伝道する」とは、どういうことでしょうか。生命がなければ、意識もないはずで、そうした物同然の大衆に対して、布教活動ができるでしょうか」について、回答します。
正確には、<衆生を1個の独立した「生命主体」と見ないで伝道する>と表現すべきでしょう。衆生の五蘊のどの部分にも、「根本の動因たる真主体性」は有りません。よって、主体でないものは、腕と同じ、道具としての器官に過ぎません。つまり、衆生を、「真主体の道具としての器官(又は媒体)」と見ながら伝道するのです。足が痒ければそこを右手で掻くでしょう。それと同じ行為なのです。つまり、<足の痒みが衆生の求道心、右手で掻くのが仏陀の伝道活動> ということになります。ここにこそ、仏教の奥義、そして宗教の奥義が隠されています。
最後に、永井先生は、複雑系の思考パターンを重視するからでしょうか、自らを「多神教的」と仰いましたが、これは永井先生らしくありません。お伽話的に「多数の神々」を想定なさっておられるのでしょうが、確かに、「仮の主体、かりそめの主体」であれば、無数に認めても問題有りません。相対的レベルの神なら、いくらでも想像して戴いて結構です。
しかし、「神」というからには「永遠不滅性・常恒性」が不可欠です。自己の存在の存続条件を他の存在に依存しない、独立した主体であり、なおかつ、「永遠不滅性・常恒性」が有るような「主体」が、本当に複数、ありえるでしょうか?<永遠不滅性・常恒性を具備した真の主体>について真剣に思索するなら、軽軽しく、「多神教的」とは言えなくなってくるはずです。絶対界と相対界の区別を大乗仏教ではします。前者を勝義諦、後者の諸法(諸存在)を世俗諦と呼びます。絶対的な超越神を複数想定するのは、論理的に無理が有ります。それに多神のどの神にも「自性が有る」と見るのは、「自性概念」に精通した人から見れば、洞察不足、ということになります。「中論」のナーガルジュナ(龍樹)も他性(=Another 自性)を否定しています。ジョークの世界ではなく、哲学として、「真理の候補」について真面目に思索し、探究するなら、どうして「自性有る神」を複数認められるでしょうか。絶対界を複数認め、それを同一次元で交差させるのですか?
以上のようなことにつき、真剣に洞察してゆくのが、叡智のヨーガです。このような「根本の動因としての主体」について強く深く洞察している最中には、煩悩は停止しています。真理を求める菩提心が働いているからです。つまり、毒矢の毒が回らないで止まっている状態になります。こうした状態を続けて行き、それが深まって行くと、毒矢も抜けます。
では、最後に、私からのこの対談の<結論>を述べましょう。「真主体性が無い」(無我)という構造的な特徴を持つ人間が、自分には「実体性=自性=真主体性」が有ると錯覚して意識活動をするから、邪な動きをするのであって、そうした主体についての錯覚を正し、「まやかしの主体性を放棄」して、「真主体性が無い」状態を意識し、それに戻り、とどまるならば、「煩悩からの解脱は可能である」と。そして、解脱は必要でもあると。何故なら、悪業ゆえの応報罰の苦を回避するには、最終的には悪業の根本たる「まやかしの主体性に基づく自由」を放棄する必要があるからです。
この結論を正面から打破するには、「仏教の無我の思想」自体を打破する必要があるでしょう。果たして、永井先生にそれができるでしょうか?仏陀の無我の思想は人間存在の深奥を射抜いた<真理命題>ですから、この偉大な洞察を覆すことは、さすがのゴウリキの永井先生でも無理ではないでしょうか。
勿論、「仏陀の無我の思想は大空照明さんが解説したようなものではない」と反論して、永井先生独自の「無我解釈」をすることも不可能ではないでしょう。しかし、私が提示した「無我解釈」だけが唯一、首尾一貫した深遠な世界観を表す「無我の哲学」と言えるもの、であるはずです。従って、他の無我解釈を無理にすると、その解釈は「ちゃんとした世界観を表す哲学」にならないので、片(手)落ちで「価値のない無我思想」になってしまうことでしょう。「ヒビの入った骨董品」の如く価値のない、そのような「無我解釈」を前提にして「仏陀は偉大な哲学者だった」と評しても、それは単なる社交辞令のように空しく響くばかりでしょう。 (事実、永井先生は釈尊の事を「本当は偉大な哲学者とは全然思わない」というのが、偽らざる本心なのではないでしょうか?)
ではここで、<無神論無我説>の致命的な欠点を指摘致しましょう。「一切が無我(主体なし)」であるならば、「無我であることも認識できない事」になってしまします。「無我」や「空」を認識・照見する「主体」は何ですか?これすら否定する「無の哲学」に何の意味があり、思想としてどんな偉大な点があると言うのでしょうか? これすら否定する「無の思想」など、クズでしかないでしょう。違いますか?多分、この指摘には永井先生も、渋々ながら同意して下さるのでは?
意識は物ではなくて、機能なので、意識を身体のどの空間的一部分とも同一視できないからといって、意識の存在を否定することはできません。意識とは、身体の不確定な選択の主体であり、身体全体ではないにしても、身体を離れては存在しません。
ここで言う身体とは、皮膚によって画された常識的な意味の身体ではありません。私の身体のエントロピーを縮減する選択とは他のようではない限りで、それは身体であり、例えば、忠実な部下は、私の「右腕」であり、私の身体の一部です。全体主義の独裁者は、国民全体を自分の身体にしています。
大空照明さんによれば、仏陀は、衆生を真主体の道具としての器官と見ながら伝道したとのことですが、そうすると、その限りでは、仏陀という人は、ヒットラーやスターリンや金正日と変わらないということになってしまいます。
話を身体論に戻します。心臓や膀胱は、その働きが他のようではありえないから、意識にすら上りません。意識に上る行為ほど、不確定性が高く、他のようでありえますが、その他者性を否定する限りにおいて、私の身体に属します。だから意識に上る選択は、私の身体の周縁に属します(といっても、必ずしも空間的な意味でではありませんが)。不確定性が高く、私の選択とは他の選択である領域に到達した時、身体は環境との境界に達します。
システムが不確定性の縮減を放棄する時、すなわち構造と環境との差異化を放棄する時、システムは死にます。たとえ肉体的に死ななくても、無我の境地に入るということは、意識システムとしては、死ぬのも同然です。さらに、生理的な選択を放棄すれば、それは肉体的な死までも、もたらすことでしょう。
倫理が生の肯定の上に立脚しているのですから、無我論のように死を肯定すると、倫理を基礎付けることができなくなります。
という主張は、倫理学的にみてナィーブです。無我論が主張するように、他者が他者の肉体の王様ではないとするならば、ちょうど、誰の所有物でもない石を金槌で粉々にしても誰からも非難されないように、他者の肉体にいかなる危害を加えてもかまわないということになります。
価値的認識の究極的な根拠は人間の生です。では、認識一般の究極的な根拠、大空照明さんの言葉を使うならば、「根本動因」は何でしょうか。西洋の近代哲学の答えは、自己意識です。現代の物理学も、人間原理で、宇宙を説明しようとします。例えば「なぜ地球は自転するのか」と問われれば、「もし地球が自転していなければ、我々人間が存在することが不可能だったから」と答えます。つまり、人間がいるから、この宇宙は存在するというわけです。
ただ、私は、近代の意識哲学のように、意識を絶対化しません。無我論でも独我論でもないのが、不確定性の哲学の立場です。人間が住むこの宇宙は、唯一の宇宙ではないし、この宇宙においても、私の選択が唯一の選択ではありません。私が「多神教的」という言葉を使ったのは、この意味においてです。確定的という様相は対象レベルでしか存在せず、メタレベルは常に不確定的です。そしてこの不確定性を自覚することが、他者を尊重することになるのです。
無我論と独我論は、一見対立するように見えますが、不確定性を否定する確定性の哲学として、表裏一体の関係にあります。無為自然を説く老荘思想が、愚民政策を進める法家に利用されたり、近代的自我を否定したハイデガーがナチに協力したり、主客未分の境地から出発した西田哲学が、日本のファシズムの正当化に使われるなど、宗教的な神秘主義が独裁体制のイデオロギーとなった例はたくさんあります。
他者に対して、無我を説きながら、自分が我を捨てない時、それは独我論的全体主義となります。こうした危険性があるからこそ、私は、煩悩からの解脱を他者に説くこと自体が自らを煩悩のとりこにするのではないのかと問題提起したわけです。
「そして、権力欲と性欲を捨てた仏陀も、名誉欲、すなわち他者から認められたいという欲望を捨てることはできなかった。仏陀は真理を欲望したが、真理は普遍的でなければならないので、自分の悟りが真理であることを示すために、多くの人にそれを認めてもらわなければならなかった」と書いてありますが、原始仏典の『スッタニパータ』には、
と書いてあるので、仏陀は自分の教えもたくさんある真理の候補のうちの一つだと思っていただろうし、普遍的な真理は求めていなかったと思います。
と書いてあり、信仰自体を否定したわけだから、信者を増やしたり、崇拝させたり、自分の悟りが真理であることを多くの人に認めさせる気もなかったのではないかと思います。つまり、仏陀は真理を求める事や他人に認められる事に執着するのも権力を持つことや食べる事に執着するのと同様に煩悩だと捉えていたと思います。欲望を満たすことにも捨てることにも執着しないという「中道」ならば、解脱できるという事を言いたかったのだと思います。
私は、普遍性のない真理は真理ではないと考えています。人類が今日に至るまで、滅びずに生き延びているのは、人類の圧倒的多数が、煩悩の虜になっているからです。もしもすべての人が、仏陀のように煩悩を捨て去り、托鉢だけで生きようとすれば、人類は滅びるでしょう。それでは、自殺肯定のジャイナ教と大差ありません。普遍化不可能な仏陀の生き方は、個人的な処世術あるいは趣味の域を出るものではないと考えます。「煩悩からの解脱は可能か」が問題にしているのは、仏教解釈ではなくて、自殺することなく、煩悩から解脱することは可能なのかという純論理的な問題であり、それに対する私の答えは否です。
レベルの低い投稿ですいませんが・・・仮に何かを悟っていたとしてもそれを自分のみに実行し、死に埋もれていく人が一番尊いのではと、若いとき良く思っていました。いわゆる本当に尊い方はこの世には知られずに死んでいくのだと。仏陀の意思とは関係なしに信仰が広まったという解釈であれば以上のことが解決するのでしょうか?また、それはありえないのでしょうか。そうであって欲しいですね。キリストにしろ、仏陀にしろ、本人に問題があるというより伝える人間が優れているとは思えません。必ずしも学がある人間ばかりが話を聞いたとは限らないからです。私も普遍性の無い真理を真理とは考えていませんが、今の私は普遍性のある真理が無いことに自分が生かされている様でしかたがありません。
キリスト教の修道院とかは、自給自足ですから、在家信者からお布施をもらわないとやっていけない仏教の出家修行僧たちとは違って、普遍化可能です。
話を一度もとに戻して「煩悩の解脱は可能か」については人間の欲求も含め全て欲望とするかということはさて置くことにしておいて、全ての欲を欲望としてそれを無くす究極の形は生を否定する事をもって解決するほかに(前述の植物にでもならない限り)私の浅はかなる知識においてそれを見出せません。いわゆる人間として与えられたものをうまく生かすことが出来ません。植物に生まれ出でなかった事はそこに何かしらの理があると考えます。あくまでもこの議題においての煩悩の解脱は可能でないと思います。私も反対意見は思い浮かびません。気になるのはその否定論を仏陀と一緒に否定されるように受け取られかねないところにあります。それでも人間は死んではならないというところに意味があるような、惹かれるようなものを感じますが今の私にはそれはまだ見出せません。
それについては、「自殺はなぜ悪なのか」でコメントしてください。
「煩悩からの解脱は可能か」について、私は心(意識)を修養する事によって可能ではないかと思っています。(知識として理解するだけでなく、実践することによってのみ可能なことと理解しています)
まず心(意識)の定義ですが、詳細には神智学の分類(7種類)と思います。
しかし、すべてを感知できていない私としては、大きく二種類として考えて対応するのが実用的かなと思っています。
一つは、霊魂に属する意識で、神や仏とつながる慈悲心・愛と智慧に属する意識であり、自分は何のために生きているのだろうというような疑問が湧いてくるのはここの部分での働きではないかと、
二つ目は、肉体的存在としての意識で、「わがもの」という認識が生れる五感、受・想・行・識の働きから来る意識に分類して考えると理解しやすいと思っています。
「言霊(ホツマ)」という本の中で、人(ひと)とは(霊・止)であり、肉体に霊が宿っているが故に、ひとと言う、云い伝えがあるとありました。
苦の原因としての煩悩は、獣性を持った肉体的存在としての意識の働きから生じていると思います。
このため、肉体的存在としての意識の働きに眼を向け、執着しない囚われないことを説いたと理解しています。
それは、tanha(渇愛)の働きであり、それによる喜び・楽しみと共に、愛別離苦・求不得苦・怨憎会苦という苦しみが生じると
毒矢の喩えの矢はtanhaであり、毒とはtanhaから生ずる煩悩であろうと理解しています。
(tanha)渇愛の説明文として、もと喉の渇き(thirst)を云う言葉で、水を飲むまで、欲望が叶うまで、喉の渇きの苦しみが続くようなものであり、持たない方が良いものとしている。
三種類あって、①欲愛(kamatanha)性欲の激情である。性的快楽に対する渇愛。人間の自己拡大の激情 ②有愛(bhavatanha)生存欲の激情である。生存に対する渇愛。人間の自己延長の渇愛である。 ③無有愛(vibhavatanha)自己優越の欲望の激情である。権勢・繁栄・富などに対する渇愛である。人間の名誉欲などの昂りがそれである。
弱肉強触の世界を生き残った肉体意識にある、肉体的存在としてより良い状態を求める・維持のために必然の欲求が含まれています。しかし、我がものという意識に基づく過剰な欲求から、離れる・囚われないことによって、霊魂に属する意識(正念・正智)に住することによって、煩悩から解脱することが可能ではないかと考えています。
そして、煩悩から解脱した時には正念・正智等を捨てる。それは、ざわついてうるさい時に「静かに」というのは良いですが、シーンとして静かな時に「静かに」なんて言わない思わないように、と説いたのではないでしょうか?
また、何のために生きているかについて、いろいろな体験を通して、煩悩から解脱することと、そのためになる霊魂に属する意識を育て身に付けることと理解しています。
一般的にいわれる、仏性があるとかないとかでなく、仏性に属する慈悲心・愛・智慧を育て身に付ける為に生きていると、そのために四無量心・八正道・四念処法等いろいろな観察をする念ずる修行法を説いていると理解しています。
故に、永井さんの言う○○先生の名著「○○」を読んで、でなく自分の頭で考え主張するということは大事なことと同感します。
スッタニパータ等によると、(慈悲心を育てる方法として)四無量心を修することを薦めています。(慈悲心の定義として、感謝の心を起点に育った外に向かう思いやりの心である)
四無量の説明文
①慈ーmetta
「一切の生きとし生けるものどもは、安楽であれかし」と念ずることなどの仕方によって、利益と安楽をもたらすことを願うことである。
②悲ーkaruna
「一切の生きとし生けるものどもが、この苦しみから脱れられますように」と念ずるなどの仕方によって、不利益や苦しみを除去しようと願うことである。
③喜ーmudita ④捨ーupekha ・・・略
永井さんは釈尊の布教伝道について、疑問に思っていると感じますが、四無量心に基づいて行ったと理解して、自己優越・名誉心に基づいたものでないと理解すれば認められることではないでしょうか?
釈尊の心の推測であり、証明できるものではありませんが。
ここで書いた私の釈尊理解はもう古いものになっています。私のもっと新しい見解については、「仏教はなぜ女性を差別するのか」をご覧ください。