煩悩からの解脱は可能か
一つ禅問答をしよう。絶対に蚊に刺されないようにするにはどうすればよいだろうか。蚊取りせんこうをたいたり、虫よけスプレーをまいたりしても根本的な解決にはならない。絶対に蚊に刺されないようにするには、蚊を絶滅させなければならない。では、そのためにはどうすればよいか。

1. 欲求不満から解放される究極の方法
こうした解決策を探る方向は世俗的なもので、禅問答が期待していることではない。禅問答で重要なことは、公案にたいして答えを出すことではなく、答えを出すことを通じて修行中の僧が悟りを開くことである。絶対に蚊に刺されないようにするには、良寛がやったように、こちらから腕や足を差し出し、蚊に刺させてやればよい。刺されまいとするから、蚊に刺されるという被害に遭うのであって、そうした欲望を捨てれば、被害に遭わなくてすむ。
織田信長が武田信玄の菩提寺である恵林寺を焼き討ちにした時、快川禅師は「心頭を滅却すれは火も自ら涼し」という名言を吐いた。火の熱さから逃れるには、火を消したり、火から遠ざかったりするのではなく、火は熱いという思いを捨てたらよいというわけだ。ここに、仏教の根本思想を見ることができる。
2. 涅槃寂静の境地に達することができるのか
仏教の根本思想とは、こうである。私たちの人生は苦に満ちていて、そして私たちは苦から逃れたいと思っている。苦は欲望が満たされない時に生じるのだから、世俗の人々は、苦を完全に滅却するために、欲望を完全に満たそうとする。しかし欲望には限度がないから、欲望を完全に満たすことは不可能である。課長になれば部長に、部長になれば取締役になりたいと思うのが人間である。だが、欲望が無限に広がるからこそ、苦の原因も無限に増大する。したがって、苦から完全に自由になる(解脱する)には、苦の原因である欲望(煩悩)を滅却しなければならない。
仏教が理想とする自由は、私たちが通常望む自由とは、次元の違う自由である。私たちは、例えば、「好きな食べ物を自由に食べたい」という欲望を持つが、このような自由を望むことは、食欲という煩悩の奴隷になることを意味している。つまり、私たちが求める自由とは、欲望のための自由であって、欲望からの自由ではない。欲望のための自由は欲望からの不自由であるから、二つの自由は対立する。
では、私たちは、欲望から完全に自由になって、涅槃寂静の境地に達することができるのだろうか。答えは、否である。生きている限り、欲望から自由になることは、不可能である。涅槃とは死のことで、死ねば、欲望から完全に自由になれると思うかもしれないが、死ぬと自由である主体・涅槃寂静を感じる主体自体が消えてしまうので、自由と安らぎを手に入れることができない。実際、仏教は自殺を奨励する宗教ではない。仏教が否定しているのは、苦の原因となる煩悩であって、全ての欲望を否定しているわけではない。少なくとも、真理を求める欲望までは否定していない。問題は、真理を求める欲望が煩悩ではないのかどうかということである。
3. 仏陀は本当に煩悩から解脱したのか
仏教の開祖、仏陀(ゴータマ・シッダールタ)には、真理を求める欲望があった。仏陀が、快楽と苦行という両極端を否定し、中道を説いたことは中途半端に思えるかもしれないが、真理への欲望を満たすという点では徹底している。他の欲望を満たそうとすれば、真理への欲望は薄れてしまう。逆に全ての欲望を捨て、苦行と称して肉体を極限状態に追い込むと、意識が朦朧として、真理から遠ざかってしまう。彼も当時の慣習に従って、出家後苦行を試みたが、やがてそれを放棄し、後に菩提樹と呼ばれる樹の下で禅定に入る。
仏教徒が後に編纂した『仏伝』によると、仏陀は、菩提樹の下で悟りを開くまで、魔と戦い続けたとのことである。魔(マーラ)とは、心の内に潜む煩悩である。魔は「君は世界を統一する大帝王になれる」と誘惑した。しかし、仏陀は権力への欲望を克服した。魔はさらに、三人の娘を半裸の姿で踊らせ、仏陀を誘惑した。しかし、仏陀は官能的快楽への欲望を克服した。
権力欲と性欲を克服した仏陀は、悟りがもたらす心の安らぎを一人で楽しみ、このまま涅槃に入ろうとした。この時、『仏伝』によると、梵天(ブラフマー神)が驚いて、真理を独り占めせずに、説法を通じて、人類に仏陀の教えを広めて欲しいと勧請した。その結果、仏陀は、説法をして信者(弟子)を作ることを決意する。
一体、この時登場する梵天の正体は何なのだろうか。私は、それらは、魔が化けた天子魔だと考える。魔が「君は全人類から尊敬される聖者になることができる」と誘惑したのだ。そして、権力欲と性欲を捨てた仏陀も、名誉欲、すなわち他者から認められたいという欲望を捨てることはできなかった。仏陀は真理を欲望したが、真理は普遍的でなければならないので、自分の悟りが真理であることを示すために、多くの人にそれを認めてもらわなければならなかった。
こうした解釈をすると、仏教徒の読者から「釈尊は、無知蒙昧な衆生を哀れみになって説法をされたのだ。名誉欲のためではない」とお叱りを受けるかもしれない。しかし、仏陀が説法という布教活動をすることは、かなり矛盾を孕んだ行為である。仏陀自身が言うように、法を説いて、他の人々に理解されないとしたら、それは苦である。そして、苦の原因となる欲望は煩悩である。したがって、苦の原因となる煩悩を否定せよという説法自体が、苦の原因となる煩悩の肯定になっている。
仏陀をこの矛盾から救うのは、煩悩即菩提という考えである。煩悩は苦をもたらすが、煩悩から解脱すればそれは心の安らぎをもたらす。このことは、もしはじめから煩悩がなければ、煩悩から解脱する喜びもないということである。権力欲や性欲が否定された後で肯定されるべき煩悩であるとするならば、真理への欲望は肯定された後で否定されるべき煩悩である。もし、仏陀が最初から名誉欲を持たなければ、仏教は存在しなかっただろう。しかし、仏教は名誉欲もまた煩悩として否定しなければならない。
4. 追記(2004年)
この文章を書いたのは、2002年5月である。私の仏陀に対する最近の解釈に関しては、「仏教はなぜ女性を差別するのか」を参照されたい。仏陀が、名誉欲から布教活動をしたという表現は、評判が悪いので、取り下げたい。ただ、仏陀は、名誉を求めたわけではないにしても、「自ら思いを制し、よく注意して、教えを聞く人々を広く導きながら、国から国へと遍歴しよう」『スッタニパータ 』(No.114)と語っており、布教への意欲はあったようだ。その布教への欲望が、仏陀に新たな苦悩をもたらしたかどうかは、今となっては知る由もない。
ディスカッション
コメント一覧
今生きている人物が「解脱したい」、「仏門に入って悟りたい」と考えて、僧侶になって仏道修行したとしても、本当に悟りができるのかと言うと案外そうでもないと最近感じる。
「個人的な仮説」として、今生きている人物が「悟りを開いたのか?」、「解脱できたのか」はその人が死んで、100年以上経過しないと判断できないのでしょうか?生きているうちに「あなたは解脱しました。おめでとう」と、自動車免許証取得や昭和プロ野球名球会入会の様に、「誰かに認定」されるものではないと思います。
そもそも今の日本の宗教界(特に仏教界)で「悟りを開いた人間」などいるのでしょうか?「仏教の故郷」のインドでも今生きている「名のある高僧」の中でさえ、悟りを開いた人などいないのではないのでしょうか?
個人的な比喩な表現として、私事ですが高校生時代に「私は英語(英文法)解脱ができればテストで80点は楽に取れる」、「数学の方程式解脱さえできたら、赤点を取る事などはありえない」と、「くだらない事ばかり」10年前に考えていた私。
30歳近くになった今でも時々こういう「くだらない事」ばかり考える私。こういう事を考えるうちは「煩悩」が消えないのでしょうか?しかし、最近になって以前は全くできなかった野球のスィング(ミートポイントをつかむ)が上達しました。右利きの私は左打ちの方が打球をしっかりと見える事に気がついたのです。これはある意味の「打撃解脱」とも言えます。以上で質問を終えます。このご質問を拝見なされた先生のご回答をお願いします。
日本の僧侶は、妻帯肉食をしている人もいるぐらいですから、解脱とは無縁の職業でしょう。
煩悩即菩提でしょ。ならば、なぜ私たちは煩悩苦を通らなければならないの?人生60年くらいしかないのに。その前に今を見失うか死んでしまう。
一般人は多分ほとんどが「悟りを開く」や「解脱する」の意味を、「超能力を身につける」や「不可能を皆無にする」と解釈していると思うんですが、仏教的な意味合いでは全くちがうんです。なぜこのような「誤解」が生じるのでしょうか?1995年のオウム事件の影響でしょうか?また、ブッダが「悟りを開いた」と正式に認定されたのは、いつごろでしょうか?もしかすると「後世の創作」の可能性もあるんですが。
ただ、キリスト教やイスラム教、神道では「悟り」が存在しないといわれます。
それは、原始仏教が、出家信者には本来の教理を教え、在家信者には、お布施をもらうために、俗受けしやすい方便を説いたという二重構造に由来していると思います。だから、後世の創作というよりも、仏陀の時代から、仏陀自らが誤解の種を蒔いていたと考えることができます。実際、かなり古い時代の仏典にも、通俗的でいかがわしい話が載っていたりしますから。
この質問はテーマとは関係ないと思います。
「若者の出家(得度)が良くない」と社会的にとかく言われる理由は何ですか?
経済的に損失が生じる、失業した若者の「就職目的」のやましい発想(ただしこれは、はるか昔からも指摘される)、と言うのが最大の理由でしょうか?1990年代後半以降によく聞きます。それだけなら特別と声高に非難する人(経済学者や保守的な思想の人)がいても、説得力に欠けるというのではないか?
それは「お寺に生まれて跡を継ぐ立場の青少年」を無視している事ですから。確か空海が18歳、親鸞聖人は9歳、釈迦でさえ20代で出家したのですから。俗に「出家行為=世間を捨てる(「仏門への帰依は自殺行為と同等」と言う偏った思想も存在する)」と言う考えがまかり通るからでしょうか?
また、「仏門に入る=年寄りか身寄りのいない人か犯罪者のやる事」と言う間違った(偏った)思想もあるのでしょうか?(犯罪には入らない)不祥事をした人が坊主頭にする事で、周囲に反省の意を現すと言われるという事もあるのでしょうか。
そういえば(古い寺の)坊さんが一般人を寺に勧誘する事はしないですね。勧誘行為をしても法律違反になりませんが。
あくまでもこれは経済的観点ですが、仏教の寺院は、キリスト教の修道院などと異なって、自給自足でないところが問題視されているのでしょう。
本来仏教においては「悟りを開く」、「煩悩を捨て去る」ための修行は存在しないと思いますが、仏教は古代に中国に入った時点で、「本来の姿ではなくなった」と指摘する人もいます。僧階・戒名・戒律・経典・法要・葬儀形態は中国や日本(「葬儀」の形式は日本独特)で確立されたもので、本来は釈迦の弟子らに称号や墓すらないと聞きます。忠実に仏教の形態を維持している(それでも「古代仏教」とはちがうが)国はタイやネパール、チベットくらいです。
これらの国と日本では根本的に仏教に対する見方が違うと感じます。僧侶の心がけ1つでもそうです。タイの僧侶が街中で托鉢をしますが、日本では「物乞い」とみなされ軽蔑される行為です。本来、僧侶に托鉢をする事はいい事です。今日の日本の僧侶はほとんど托鉢行脚をしていません。お布施を集める行脚は行いますが。「悟りを開く」や「煩悩を捨てる」はほぼ不可能であるのに、それを求める発想が消えないのは何故でしょうか?
中国の仏教は、大乗仏教ですから、もちろん、本来のブッダの教えとは異なります。とはいえ、煩悩を棄てることを棄ててしまうと、それはもはや仏教とはいえませんから、本質的なところは受け継いでいます。
を修行してください。成仏法です。仏教は日常における観察の実践です。そこから得られる智慧により解脱が得られます。修行法を実践しないと仏教を正しく理解することは困難です。凡夫の頭脳で理解できる世界ではありません。実践あるのみ。成仏する日常実践法を広めて、より多くの人が生活の中で成仏の修行をし、煩悩を乗り越え、安らかな執着心に囚われない人生を送る。このように考えれば、根本仏教を小乗とした大乗仏教の考え方の人も納得できるのではないでしょうか。修行法は個人の実践ですが、多くの人が実践していけば、みんな幸せになれるのです。