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江戸時代の人口調整方法

2002年2月9日

江戸時代中期以降の日本の人口には、あまり変動がなかった。武士など特殊階級を除く全国の人口は、幕府が調査を始めた1721年で2600万人、最も少ない時で2489万人(1792年)、最も多い時で2720万人(1828年)で、きわめて安定的に推移した。もし何も制約がなければ、人口は等比数列的に増えるはずである。では、江戸時代の日本では、どのようなメカニズムが人口爆発を抑制したのか。

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1772年に起きた明和の大火では1万4700人が死亡した[1]。大都市では火災が起きやすく、それも大都市での死亡率の高さに寄与していた。

1. 間引きの役割は過大視してはいけない

多くの人が思いつくのは、以下の絵馬に描かれているような間引きによる口減らしにちがいない。江戸時代中期以降、領主の禁令や教諭にもかかわらず、飢饉時の農村などで、圧殺・絞殺・生き埋めなどの方法により、乳幼児の殺生が行われたことは事実である。当時7歳以下の子どもは神の子とされ、いつでも神にお返しする(つまり殺す)ことができるとされていた。一種のクーリングオフである。だから、間引きは「子返し」とも呼ばれていた。

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子返し絵馬[2]。障子の後ろに鬼の影が映っている。

子返しのような粗っぽい方法は、あくまでも緊急避難的で例外的な方法であって、その役割を過大に評価してはいけない。そもそも、生んですぐ殺すぐらいなら、はじめから生まなければよい。その意味で、子返しは、賢明な人口増加抑制方法とは言えない。実際、江戸時代の人口調整は、恒常的には、もっと巧妙な間引きによって行われていた。

2. 長男だけが必要な社会

江戸幕府は、農地の細分化・農民の零細化を防ぐため、1673年に分地制限令を出し、これに伴って、農民の間でも嫡子単独相続が定着していった。分家の余地がある富農の場合を除き、長男のみが家督を相続するわけだから、必要なのは、長男だけということになる。しかしだからといって、次男以下の男の子を直ちに「神に返す」わけにはいかない。長男は夭折するかもしれないので、次男以下の男の子も、リスクヘッジのために必要だし、男の子がいない場合の養子縁組みのために、女の子も必要だった。

嫡子単独相続制における子供の生産をコンピュータにおけるコンテンツの生産に喩えてみよう。コンテンツの製作に際して、不要になったファイルはゴミ箱に入れられる。しかし、ゴミ箱に捨てたファイルは、必要になれば、いつでも呼び戻すことができる。いきなり消去することはリスクが高いので、さしあたり不要でも、万一に備えてゴミ箱にしばらく保管しておくのである。そして、ゴミ箱のファイルが増えて、ディスクの容量を圧迫し始めると、優先的に消される。

鳥類の中にも、長子優遇の人口調節システムを持った種がある。えさが豊富な時には、すべての雛が育つが、えさが不足している時は、一番最初に育った、したがって一番体の大きい雛が、後から産まれてきた雛を巣から放り出して、えさを独占することで、雛が全部餓死するという最悪のケースが回避されている。アオツラカツオドリにいたっては、もともと一羽の雛しか育てられないのに、卵を二つ産む。第二の雛は、第一の雛が途中で死んだ時のためのたんなる保険にすぎない。

3. 余剰人口のゴミ箱としての都市

話を人間に戻そう。農村から絶えず産み出される、さしあたり不要だが、万一に備えて必要な余剰人員は、どのようなゴミ箱に捨てられたのか。答えは都市である。江戸時代の人口増加抑制が、主として堕胎や子返しによって行われていたと考えている人には、当時の農村を、ほとんど労働者の出入りがない閉鎖的なコミュニティと想定している人が多いが、これは偏見だ。現在の住民基本台帳に相当する宗門人別改帳を調べてみると、半数以上の子供が出稼ぎ奉公に出ており、しかも奉公先の大半は、江戸や大坂をはじめとする都市であることに気が付く。

江戸時代の都市では、死亡率の方が出生率よりも高く、逆に農村では、出生率のほうが死亡率よりも高かった。このことは、農村で生まれた余剰な子供が都市に送り込まれ、そこで命を落とすことにより、全体の人口が一定に保たれたことを意味する。奉公に出た子供たちは、後継ぎや結婚のために都会から村に戻ることもあったが、かなりの割合は奉公先で死亡している。

みなさんの中には、都会に住んでいることに優越感を持ち、農村に住んでいる人々を「田舎者」と軽蔑している人もいることであろう。しかし、こうした価値観は最近のものであって、江戸時代では、エリートである長男が農村に残り、どうでもよい子供ほど都市に飛ばされたのである。

各種インフラストラクチャー、公衆衛生、医学、病院などに近代科学技術が適用され、死亡率が低くなる以前は、都市のほうが農村より死亡率が高かったし、出生率は低かったので、人口を都市以外から吸い込む必要があった。そこで、経済的な発展があって都市に住む人口比率が高くなるとその地域全体の人口は減るという現象が見られた。だから、その地域の人口を維持するためには、外から大量に人口を流入させないといけないことになる。[3]

都市は農村よりも人口密度が高い。江戸の町地の人口密度は、1平方キロメートルあたり6万人にもなったと言われている。人口密度が高いということは、それだけ疫病が伝染しやすいということである。日本の人口が、食料供給の限度を超えて増えると、奉公人のような下層階級の人々は栄養不足になり、抵抗力が低下する。しかも、病原菌にしてみれば、人口が増えるということは、それだけ餌が増えるということであるから、人材の在庫が余剰になってくると、疫病の流行により、自動的に在庫一掃処分となるわけだ。

都市には、これ以外にも人口増加抑制機能があった。女の子の場合、都市で奉公をすると、村に帰って結婚する時期が遅れ、たくさん子供を産むことができなくなる。現代と同様に、江戸時代の後期にも、女性の晩婚化と少子化が進んだことが、様々な調査からわかっている。

4. 江戸時代の都市人口が多かった理由

人口爆発の抑制という都市の機能は、同時代のヨーロッパの都市にもあった。ただ、ヨーロッパ諸国には、戦争や新大陸発見に伴う海外移住等で過剰になった人口を減らすという手段があったが、鎖国をしていた平和な江戸時代の日本には、それらは使えない手段であった。1800年前後の江戸の人口は、100~120万人程度と推定され、同時代のロンドン(90万人)やパリ(60万人)よりも多い。江戸が世界一の大都市であった理由として、日本人の方が自然の循環を上手に利用していたからだという能力史観的説明が成されることが多いが、日本は、それほどまでに人口増加抑制機能を都市に依存しなければならなかったからという必要史観的説明もできる。

5. 参照情報

  1. Edo-Tokyo Museum. “The Big Fire of 1772, picture scroll from 1869.” Licensed under CC-0.
  2. 利根町徳満寺所蔵. 茨城県立歴史館. Accessed on 29 May 2011.
  3. 速水 融.『歴史人口学で見た日本』文藝春秋 (2001/10/19). p.65-66.