金本位制は平和に貢献したか
著名な経済人類学者カール・ポランニーは、1816年から1914年までの金本位制の時代を国際協調と平和の100年として懐かしんでいた。確かにナポレオン戦争が終結した1815年以降、第一次世界大戦が起きるまでの約100年間、あまり大きな戦争が起きていない。はたして、金本位制は、世界に平和と安定をもたらす、すばらしい制度であったのだろうか。

1. 平和な100年と金本位制
カール・ポランニーの著作『大転換』(原著:The Great Transformation: The Political and Economic Origins of Our Time)によれば、平和な百年は、勢力均衡(the balance-of-power system)、国際的金本位制(the international gold standard)、自己規制的な市場(the self-regulating market)、自由国家(the liberal state)という四つの制度に基づいていた。
これらの制度の中で、金本位制が重要であることがわかった。金本位制の崩壊が破局の直接の原因である。金本位制が崩壊するまでに、他の制度の大半を犠牲にしてでも金本位制を救おうとしたが、無駄だった。[1]
平和な100年は、コンドラチェフ・サイクルの第一波動の金利の山から第三波動の金利の山にいたるまでの期間に相当する。途中の第二波動における金利の山(1870年)を形成する過程で、1853-56年にクリミア戦争、1861-65年に南北戦争、1866年に普墺戦争、1870-71年に普仏戦争が起き、物価と金利が上昇している。しかしこれらの一連の戦争は、他のサイクルの金利上昇=インフレ局面で見られる戦争と比べれば、規模が小さい。なにより、金本位制の時代は、物価も金利も安定していた。
2. 金本位制はインフレを抑制する
金本位制には、物価と金利を安定させる効果がある。そもそも、金本位制とは、中央銀行が、発行した紙幣と同額の金を常時保管し、金と紙幣との兌換を保証する堅実な制度なのである。それ以前は、金と並んで銀も本位通貨とされていたが、金本位制を採用すると、銀を本位貨幣から外すために、ベースマネーが減少する。すると、実質金利が上昇するので、貸し出しが控えられ、マネーサプライが減少する。つまり金本位制度導入には、金融引き締めの効果があるわけだ。
1816年にイギリスは、ナポレオン戦争によって生じたインフレを抑えるべく、世界に先駆けて金本位制を導入する。その後、最初に述べたとおり、1870年前後に再びインフレが生じると、ドイツ、オランダ、ベルキー、フランス、イタリア、スイス、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、日本といった先進国が次々と金本位制を導入し、1870年代に国際金本位制が確立された[2]。
当時銀貨の価値が下がっていたので、銀を本位通貨としてインフレを煽ることにならないよう、金本位制を導入した(その結果銀貨はさらに暴落する)ことは正しい判断だったといえる。
3. 金本位制はデフレを長引かせる

問題は、デフレになった時である。1873年にイギリス、アメリカ、ドイツ、フランス、オーストラリアで鉄道バブルが崩壊し、以後19世紀の末まで世界経済は長く深刻な不況に苦しむことになる。例えば、英国の場合、1873~96年の年平均で小売物価が1.7%下落し、1900年までには最大手10行にイギリスの銀行預金の40%以上が集中した。アメリカとドイツでも同様の集中が起きたが、特にドイツでは、カルテルとシンジケートが成長した[3]。
この世界大恐慌は、1929年の暗黒の木曜日から始まった世界大恐慌に匹敵する大規模なデフレだった。そして、金本位制の導入は、このデフレの原因の一つだった。
デフレになると、物価が下落し、貨幣価値が上昇する。物価が下落すると、企業の収益が悪化し、また貨幣価値が上昇すると、貸し渋りにより資金調達が難しくなるので、投資と生産が抑制される。その結果失業者が増えるか賃金が低下する。すると消費が減退し、物が売れなくなるので、値下げによる物価の下落がさらに続く。デフレが新たなデフレを呼ぶデフレスパイラルである。
4. デフレから脱却するための方法
デフレスパイラルから脱却するには、貨幣価値を下げるか、物価を上げるか、どちらかまたは両方を政策的に行わなければならない。
貨幣価値を下げる最も簡単な方法は、ベースマネーの量を増やすこと(量的金融緩和)である。しかし金本位制のもとでは、ベースマネーを増やすには、金の物理的量を増やさなければならない。イギリスでは、当時イギリスの植民地であったオーストラリアや南アフリカでのゴールドラッシュのおかげである程度金の保有量を増やすことができた。しかしドイツやアメリカといった他の新興工業国は、この手段をとることができなかった。
貨幣価値を下げることができないなら、物価を上げるしかない。物価を上げる最も簡単な方法は、戦争で資源を浪費して物不足状態を作ることである。ところが、1873年の大恐慌以降、第一次世界大戦が勃発するまで、デフレを解消するような大きな戦争は起きなかった。これは、大英帝国の軍事力が圧倒的で、どの国もパクス・ブリタニカに挑戦しようとしなかったからではない。19世紀の末になると、アメリカとドイツが、工業生産力という点でも、軍事力という点でも、イギリスを凌駕するようになっていた。だから、実際よりももっと早く、アメリカとドイツのどちらかが大英帝国の世界制覇に挑む戦争をしてもおかしくはなかったのだが、政治的な理由、すなわち、アメリカは孤立主義により、ドイツはビスマルク外交により、大規模な世界戦争は1914年まで延期となった。
戦争という手段を選ばなかった列強諸国は、別の手段で、物価を引き上げた。すなわち、大産業資本がカルテル・トラスト・コンツェルンなどを形成し市場を独占/寡占して、価格を引き上げることを容認したのである。いわゆる独占資本主義の始まりである。時を同じくして、労働組合も結成されるようになった。これは組合が労働市場を独占して、賃金(労働者の価格)を引き上げることを意味している。だからこの当時の社会主義運動の高まり[4]は、独占資本主義に対抗する運動というよりも、これに同調する運動だったのである。
こうして物価下落という意味でのデフレは阻止されたが、独占/寡占による供給サイド主導の価格の引き上げは、需要の減退をもたらすので、先進工業国は、国外に新たな市場を見つけなければならなくなった。その結果、レーニンが帝国主義と名付けた植民地獲得競争が起きる。ドイツは、もはやビスマルク外交を続けることができなくなり、1890年にビスマルクが失脚すると、ヴィルヘルム2世は積極的な世界政策を展開し、これがやがて第一次世界大戦を惹き起こすことになる。こうして、1873年以来の長期のデフレは完全に解消される。
5. 金本位制は戦争の遠因となる
このように、金本位制は、ヨーロッパに平和をもたらしたのではなく、むしろ戦争を惹き起こすデフレの原因となっていたのである。もし、1873年のバブル崩壊後に、大規模なベースマネーの供給が行われていたら、第一次世界大戦は回避できたかもしれない。
言語が世界の情報を代表象するように、貨幣は全商品の価値を代表象する。金の価値の総額は、市場経済で売買される商品の価値と比べると圧倒的に少ない。本位貨幣を金に限ると、市場経済の成長とともに増大する資金需要を満たすことができなくなる。したがって、纏足を続けると、成長する女性の足が屈折していびつになるように、金本位制度を続けると、成長する資本主義が屈折していびつになる。しかし、纏足が女性の足の必然的発展形態ではないのと同様に、独占資本主義は、マルクス主義者がそう誤解しているような資本主義の必然的発展形態ではない。
実際、金本位制度が最終的に放棄された第二次世界大戦以後、特にニクソンが1971年にドルと金の交換を停止して以来、先進国は国内における独占/寡占を容認しなくなったし、植民地獲得のための帝国主義戦争を行わなくなった。
6. 参照情報
- カール・ポランニー『大転換』東洋経済新報社 (2009/6/19).
- Karl Polanyi. The Great Transformation: The Political and Economic Origins of Our Time. Beacon Press; 2版 (2001/3/28).
- 高橋是清, 井上準之助, 大正・昭和史研究会『高橋是清・井上準之助 論争 昭和恐慌 金解禁・金輸出再禁止: 付・Q&A よくわかる金本位制 歴史に学ぶ金融と経済』2015/12/5.
- 宮崎 正弘『世界は金本位制に向かっている (扶桑社BOOKS新書)』扶桑社 (2013/3/1).
- ↑“Of these institutions the gold standard proved crucial; its fall was the proximate cause of the catastrophe. By the time it failed most of the other instituitons had been sacrificed in a vain effort to save it.” Karl Polanyi. The Great Transformation: The Political and Economic Origins of Our Time. Beacon Press; 2版 (2001/3/28). p.3
- ↑年代順に並べると、1854年 ポルトガル、1871年 ドイツ、1871年 日本、1874年 オランダ、1878年 イタリア、1878年 フランス、1878年 ベルキー、1881年 アルゼンチン、1885年 エジプト、1892年 オーストリア、1892年 ハンガリー、1897年 ロシア、1899年 インド、1900年 アメリカという順序で金本位制が導入された。日本は日清戦争によって得た賠償金を準備金にして1897年に金本位制に加わった。
- ↑ゾンバルトは、自由放任のもとでは独占が自動的に成立すると考えていたが、実際にはドイツの独占資本主義は、上からの産業の意図的な組織化と統制の産物であった。
- ↑ドイツでは1879年に、イギリスでは1880年と1897年に、オーストリアでは1887年に、フランスでは1899年に社会保障制度ができ、工場の視察も、イギリスでは1833年に、ドイツでは1853年に、オーストリアでは1883年に、フランスでは1874年と1883年に行われるようになった。
ディスカッション
コメント一覧
再び、Google+でのコメントに対する返答。
中央銀行が分散型台帳技術を用いて発行するのは、仮想通貨とは言わずに、デジタル通貨と言います。また、中央銀行がデジタル通貨を発行するときのビットコインがやっているようなプルーフ・オブ・ワークではなくて、リップルがやっているようなプルーフ・オブ・コンセンサスで十分です。
量子コンピューターの時代になる前に、ポスト量子暗号による防御策が採用されていることでしょう。
ケインズ学派対マネタリスト対オーストリア学派という対立構図ですか。
現在の法定通貨は民間の貨幣とは異なり、もはや兌換性を失っているため自由市場では価値が認められることのない貨幣を、法律によって無理やり通用させているのが実態です。ご指摘の通り、国民が強制されている納税の、唯一の手段と法律で定めることによって需要を創出しています。つまり、国民は価値が無いものを求めるように強制させられているということです。現代向けに高度化された奴隷制度と言えるでしょう。私は通貨は自発的な貨幣間の競争によって選択されるべきで、命令によって一方的に決められるべきではないと思います。
また、私は国家内で貨幣間の競争を妨げるべきでないと主張しているので、国家間で競争があることは反論になりません。
「人々がマイナスのインフレ期待を持っているとき、穏やかなインフレなら投融資の対象となる優良事業ですら、資金を集められないことがある」として、何が問題なのでしょうか。物価の下落が予想されていても「優良な事業であれば高い利回りを提示することで資金を集められる」という主張に反論がないのであれば、政府の介入の必要性は認められません。競争で選ばれる事業が優良なのであって、優良とされる事業のために競争に介入するのは本末転倒ではないでしょうか。
ところで、私が正常だと思っているのは「長期的にデフレが続くこと」ではなく「消費者が継続的な物価の下落を予想している」状態です。永井さんからのご指摘通り、デフレと物価下落を区別しています。デフレ不況と物価下落が重なった大恐慌などの印象から混同されがちですが、真に対策すべきは物価の下落ではなくデフレであり、デフレの原因療法として信用創造を禁止すべきであると私は主張しています。
また、初歩的な質問で恐縮ですが、なぜ富がどんどん増えていくと貨幣価値は下落しなければならないのでしょうか。貨幣自体がどんどん増えていくとそうなるのはわかるのですが。富が増えていくとむしろ貨幣需要が高まるため、貨幣価値は上昇するのではないでしょうか。
リフレ政策に反対しているというより、貨幣を中央に運営させようとする発想全般に異を唱えていることをご理解いただきたいです。国営貨幣を特別扱いする法律さえなければ、わざわざ国から推奨や促進されるまでもなく、国民は民営貨幣を利用します。
リフレ政策に反対する理由は、購買力の低下と資源の誤配分をもたらすことです。ヘリコプターマネー方式であれば資源の誤配分は回避できますが、リフレ政策として機能するには購買力の低下が必要条件であるはずなのでやはり賛同できません。しかし、本質的には購買力の低下自体ではなく、そのような貨幣を持たなければならないことが問題なので、「貨幣間の公平な競争が妨げられず、100%準備が義務付けられているのであれば、各貨幣の運営がどのようなポリシーで行われていても構いません」と総括しています。
改めて述べますが、自由市場で通貨を保有する方法であれば、「知識や手数料・取引コスト」不要で分散投資していることになり、確実に購買力を増やすことができます。「高額の」ではなく「一定の」資力が必要になると述べているように、問題はコストの大きさではなく存在です。租税回避地の利用は誰にでも可能でありながら、一定の費用がかかるため、一部の富裕層しか割に合わないのと同じ論理です。インフレ税は保有通貨に対する一律税であり、資産構成で預貯金の割合が高い人々にとって負担が大きいため、消費税と同様に本来国民からは支持されないはずですが、租税法律主義に反して議会の承認なく徴収されています。憲法第30条違反の疑いすらある悪質な租税方法です。
私の立場は、100%の準備さえあれば貨幣は自由市場に任せるべきである、という条件付きの肯定です。永井さんはなぜ不当と思われるのでしょうか。
法的・倫理的観点から考えると、貨幣代用物は本来の貨幣と兌換する約束の下で発行されているのですから、本来の貨幣の準備量を超えて貨幣代用物を発行させないのは財産権制度として至極正当であると思います。自由主義者でも政府が詐欺を禁じるのを不当な自由の制限とは言わないのと同じです。実際に銀行を公的資金で救済してきた事実から考えても、不当なのは放縦を認めてきた従来の部分準備制度の方であると思います。
経済的観点から考えても、資源の誤配分や金融危機を未然に防ぐことができる100%準備制度を不当とは言えないでしょう。実際に、これまで信用創造を放置してきたおかげで金融危機が繰り返され、その度に政府は介入しています。今後も何らかの介入が避けられない以上は、事前に危機を防ぎ資源の誤配分ももたらさない100%準備制度が最も望ましい介入であると思います。
デフレはインフレ(通貨膨張)の過程で増発された流通信用の減少です。100%準備制ではインフレ自体が制限されているため、事実上デフレは発生しないということです。
貨幣制度が変われば通貨も変わるため、通貨収縮になるという表現には意味がなくなります。実際、移行後はあらゆる商品が潜在的に通貨と見なされます。
私が提案する制度では信用創造は行われなくなりますが、その影響で生産活動が壊滅的に落ち込む事業やその関係者の損失だけに着目するのは不公平ではないでしょうか。信用創造とは言わば政府からライセンスを与えられた一部の民間銀行だけが行える通貨偽造事業です。もしノンバンクが同じように「創造」した通貨を他人に貸し付けたら通貨偽造罪が適用され、最大で無期懲役に処されます。たしかに、銀行をはじめとして信用創造のおかげで利益を得てきた事業者は、信用創造が禁止されると利益率が下がり、リストラも行われるかもしれません。しかし、そうした調整はむしろ経済の健全化に向けた望ましい変化と言えます。そのような利権集団の代わりに、「創造」された信用ではなく貯蓄に基づいた本物の貨幣の供給者とそれに応える事業者が繁栄できるようになるからです。
実は移行を円滑に進めるためのプランを考えていたのですが、まずは貨幣制度自体の議論に集中したいので、そちらの提案は保留します。
民間が発行している通貨もどきも、通常は正貨との兌換性はありません。価値あるもの一般との兌換性という広い意味で言っているなら、法定通貨にも兌換性があります。それは行政サービスの対価との兌換性です。江戸時代以前では、納税は基本的に租庸調とか年貢米とか商品で行われていましたが、それでは不便だから、法定通貨が発行されました。つまり、法定通貨とは、商品による納税を行うための債券ということです。政府が行政サービスを提供するために税金を使って購入する財とサービスに価値がある以上、法定通貨には価値があると言わなければなりません。
なお、法律がなければ無効になるのは民間が発行する有価証券も同じことです。詐欺を処罰する人がいないなら、だれもたんなる紙切れを信用しません。法律が通用を保護しているという点で官と民との違いはありません。
北朝鮮みたいに、国民に何の参政権もなく、死を覚悟しなければ国外に脱出することすらできない国なら、国民が奴隷であると言えますが、日本のような民主主義政治の国で奴隷制度というのはおかしい。日本国憲法が前文で宣言している通り、主権在民などだから、日本国民は日本国の主人であって、奴隷ではありません。もしも国民が法定通貨の廃止を望むなら、そうするはずです。そうしないのは、国民が望んでいないからです。
既に述べたことの繰り返しになりますが、謂う所の優遇やら強制通用力やらは、民間の通貨もどきでも見られることです。例えば、楽天で買い物をすれば、楽天ポイントが付き、楽天で買い物をするときには楽天ポイントを使うことができますが、それはアマゾン・ギフト券ではやってもらえません。発行者が自分のプラットフォームで自分の通貨もどきを優遇するのは当然なのです。楽天ポイントが嫌なら、アマゾンとかヤフーとか他のECサイトに行けばよいことであって、消費者に選択の自由がないとは言えません。
同様に、日本円が気に入らないなら、外国に行くという自由が日本国民にあります。もしもプロパタリアンさんが法定通貨が嫌いというのであれば、内乱で無政府状態になっている国に行けばよい。そういう国では、法定通貨は事実上無効で、物々交換が行われていることでしょう。プロパタリアンさんにとってはそういう国が理想郷なのですよね。
改めて反論するまでもなく、もうすでに「時間軸上に生じる不公平さを減らす」ためというようにその理由を書いています。プロパタリアンさんは通貨競争の公平さを重視しておきながら、こちらの公平さはどうでもよいと思っているようなので、もう少し詳しく説明しましょう。
今甲が乙よりも優れた事業であるとします。デフレであろうがインフレであろうが、甲と乙が同時に起業するなら、甲が乙よりも投融資の対象として優先されます(実際に投融資するかどうかは別として)。だからリフレやディスインフレをしても、民間が行う投融資の判断を歪めることにはなりません。次に、甲が不況の時に起業し、乙がバブルの時に起業したと仮定しましょう。この場合、甲は資金を集められず、優れた事業を実現できなくなり、他方で、乙は資金を集めてくだらない事業を実現してしまうということはありえます。こういうことは、優勝劣敗という理想からすれば好ましくないということです。
またこれもすでに述べたことの繰り返しになりますが、デフレになるとポジティブ・フィードバックが働き、デフレ・スパイラルを帰結するので、政府と中央銀行がこれを放置すると、さらに生産が落ち込んでしまいます。もしも民間発行の通貨もどきがネガティブ・フィードバックをしてくれるのであるなら、政府と中央銀行による介入は不要になります。しかし、実際には、民間に任せておくとポジティブ・フィードバックが作動するのです。
銀行の貸し出しは、銀行による通貨もどきの発行であると言うことができますが、よく「銀行は雨の日に傘を取り上げ、晴れの日に傘を貸す」と言われます。デフレになると、銀行は貸し渋り・貸し剥がしを行って、貸し出しを圧縮しようとします。その結果デフレが加速されます。このデフレスパイラルを阻止し、雨の日に傘を貸し、晴れの日に傘を取り上げるという理想的な状態に近づけることが政府と中央銀行の責任なのです。
富がどんどん増えていくという資本主義の理想を実現するには、貨幣の単位当たりの価値は下落しなければならないという意味です。
貨幣一単位の購買力と貨幣を所有する個人単位の購買力を混同しているようですが、重要なのは、後者であって、前者ではありません。
仮想通貨の取引であれ、社債の取引であれ、ゼロの「知識や手数料・取引コスト」ではできません。自分の富がどうなってもよいと思うなら、知識ゼロで適当にすることもできるでしょうが、同じことは株式投資にも当てはまります。
財政法第5条に「すべて、公債の発行については、日本銀行にこれを引き受けさせ、又、借入金の借入については、日本銀行からこれを借り入れてはならない。但し、特別の事由がある場合において、国会の議決を経た金額の範囲内では、この限りでない」とあり、日本銀行が国債の引受けを行おうとするときには国会による承認が必要となります。
アベノミクスがやっている金融緩和はそこまで大胆ではないのですが、それでも選挙と国会での承認という洗礼を受けています。2012年の第46回衆議院議員総選挙の時から安倍自民党総裁(当時)は、インフレターゲット設定による大胆な金融緩和措置を公約に掲げ、勝利し、総理大臣になりました。その後も国政選挙では勝ち続けているので、安倍総理のリフレ政策は国民のから支持されているということができます。また日銀総裁と副総裁は就任と再任に際して国会での承認が必要ですが、安倍総理が選んだリフレ派の総裁と副総裁の就任と再任が可決されています。だから、インフレ税の徴収は選挙と国会承認を通じてオーソライズされていると言うことができます。
デフレがインフレの反動という形でしか起きないというのは正しくありません。経済が成長して、資金需要が増えているのにもかかわらず、金本位制を採用するなどして資金供給を制限するなら、デフレになります。
もしも金本位制ではなくて、全商品本位制にするなら、今ある通貨制度と近いものになりますが、依然として同じではありません。なぜなら投資や融資は、今ある価値だけではなくて、将来創造されるであろう価値をも見込んで行われるからです。プロパタリアンさんはそれを不健全と考えているようですが、実現されていない価値に対するアニマル・スピリットがなければ画期的なイノベーションは起きにくくなってしまいます。人類の進歩が大きく阻害されることになります。
法定通貨を偽造したら、ノンバンクだけでなくて、銀行も同じように罪に問われます。プロパタリアンさんは信用創造を誤解していませんか。信用創造とは「銀行などの金融機関が本源的な預金を貸し出し、その貸出金が再び預金されてもとの預金の数倍もの預金通貨を創造すること」[百科事典マイペディア]で、銀行が法定通貨を発行するのではありません。
わかりにくい文になっていて申し訳ありません。「民間の貨幣とは異なり」は、「兌換性を失っている」ではなく「法律によって無理やり通用させている」に係っています。
私は政府が行政サービスを提供するために必要とする財やサービスを購入する貨幣には価値が無いと主張しているわけではありません。価値が無いものを法定通貨にするなと主張しています。要するに、法定通貨であるかに関わらず通貨として受け入れられるような貨幣を法定通貨にすることはできるし、そうすべきであるということです。
私は日本国民として廃止を望んでいます。法律が廃止されたら、廃止を望む国民が一定数存在したとは言えると思いますが、逆の命題は必ずしも正しくないはずです。
私が支持する100%準備制度も法律を要するように、民営貨幣であれば無法状態でも通用すると主張しているのではありません。一般的な法律が必要であるのは当然として、国営貨幣はさらにそれを優遇する法律が存在しない限り通用できないという相違点を指摘しています。
こちらは「国家内で貨幣間の競争を妨げるべきでない」という主張への反論なのでしょうか。私としてはこれだけでは競争を妨げていないことにはなりません。永井さんは「至上原理としての市場原理」で「政府が経済で果たす役割は、スポーツ試合の審判に喩えられる。審判が監督やプレーヤーの役割を担うと、審判の役割に期待される公平さが失われてしまう。だから審判は審判の役に徹しなければならない」と仰っていました。現行の制度で貨幣の競争に関して政府が審判の役に徹していないのは明らかではないでしょうか。
まるで国家主義者のような煽り方をしないでください。私は日本がよりよくなるような貨幣制度を提案しています。日本円が無くなると、無政府状態や物々交換になるとは全く考えておらず、またそのような状況を選好していません。
永井さんは元々「不況の時」ではなく「人々がマイナスのインフレ期待を持っているとき」と書いていました。両者は大恐慌などでは重なっていましたが本質的には別の現象であるため、私は後者の場合の政府の介入の必要性が示されていないと主張していただけです。「時間軸上に生じる不公平さ」は私も問題だと思っているので100%準備制度という原因療法を提示しています。平等より公平を重視するのであれば、対症療法ではなく原因療法を講ずるべきです。
日銀の解説ビデオでは、値段を下げる→お店や会社の売り上げが減る→お給料が下がる→モノを買わなくなる→モノが売れなくなる→値段を下げる、とデフレ・スパイラルを説明しています(1:04~)。この循環が永井さんの謂うポジティブ・フィードバックであり、民間では脱却できないと考えられている理由であると思います。そこで、日銀は金融政策で金利を下げて、お金を借りやすくすることで、モノを買う人を増やして景気回復・物価安定に導けると自身の役割を正当化しています。これに対して私は自由市場ではネガティブ・フィードバックが働くのではなく、そもそもポジティブ・フィードバックが働かないと考えています。具体的には、お給料が下がる→モノを買わなくなるの接続がありません。なぜなら「値段を下げる」が先行していることから購買力は変わらないからです。自由市場における物価下落は、より安く消費者を満足させる供給の結果であり、信用収縮ではなく経済発展の成果です。インフレ支持者はよく物価下落が続く経済では、モノよりもカネが選好されるからカネが退蔵されるといった議論をしますが、実際はあるモノよりもカネを貯めて買える別のモノを選好していると解釈すべきであり、介入は正当化できません。むしろインフレによって物価下落が遅れると、購入できるようになるまでより退蔵しなければなりません。
それはあくまでも対症療法であり、私は雨が降らないようにする原因療法を講ずるべきと主張しています。雨が降らなければ銀行が慌てて傘を回収する必要はありません。デフレの結果であるデフレスパイラル(物価下落)に対処しても、原因が無くならない限りデフレは延長されるだけです。信用創造で歪められた資源配分を再調整するためのデフレスパイラルが始まると、ポジティブ・フィードバックの作用で「創造」された信用が消滅するまで止まりません。この調整は必要な過程ですが痛みを伴います。したがって、私は信用創造を未然に防ぐ100%準備制度を提案しています。
なぜ富がどんどん増えていくためには貨幣価値が下落する必要があるのですか。
すみません。ここで述べた購買力は個人単位の購買力です。コメント8で「貨幣購買力が下がっても、その分だけ確実に保有量が増えるのであれば購買力は下がらないですね」と述べた後で、結局個人購買力が下がらなければ、「デフレでは、人々は投資や融資をせずに、価値が高まると期待される法定通貨を持とうとします。それを止めさせ、民間発行の通貨もどきである株や社債を持たせるように動機付ける」というリフレ政策の狙いは達成できないと思いました。個人購買力が下がらないのに株や社債を持つのであれば、リフレ政策がなくてもそうしたと思います。つまり、リフレ政策にとって同量の通貨を持つ人の個人購買力を下げることは必要条件であり、そうである以上、私は賛同できないということです。そもそも望んでいない人に投資や融資をさせようとする政策の狙い自体が正当化できないと思います。
自由通貨制度であれば購買力を保つのに通貨を持つ以上の費用がかからないということです。
もちろん直接引受は建前上禁じられていますが、民間の金融機関を通して事実上の直接引受が実施されているのは周知の事実です。せっせと「当面の長期国債等の買入れの運営について」を発表しては相場より高い価格で買い入れています。
100%準備派の私にとっては金融緩和自体が大胆です。
また、選挙結果は精々総合的な判断として当選者が他の候補より人気があったということを意味しているだけで、必ずしもリフレ政策という特定の政策が支持されていることを示すものではありません。
私から議会の承認云々を切り出しておいて恐縮ですが、経済というより政治の問題に論点が逸れてしまうのでこの話題はこれ以上発展させないで構いません。
「デフレとは通貨収縮」と仰っていたので、その定義に従って議論していたのですが、結局物価下落を意味しているのでしょうか。 通貨収縮とは、「信用創造が弱まり、預金通貨を含めた通貨供給量が減少すること」(大辞林)が一般的な解釈だと思います。収縮と言うからには減少が伴うはずです。改めて永井さんのデフレ・インフレ・リフレの定義を示していただけませんか。また、何か貨幣需要ではなく資金需要という表現を好む理由があるのでしょうか。
全商品本位制で「今ある価値だけではなくて、将来創造されるであろう価値をも見込んで」投資や融資することを阻む要素は全くありません。敢えて言えば、銀行のtoo big to failな立場を利用したモラルハザードな運用は抑制されるでしょうが、それは望ましいことだと思います。
本源的な預金を貸し出しているだけなら100%準備です。さらに派生的な預金を貸し出している、というより銀行は特にそのような区別をしていないから信用創造は問題なのです。それはさておき、たしかに預金通貨は法律上の通貨ではないので通貨偽造罪には問われないかもしれません。しかし、ノンバンクが信用創造したら何かしらの罪が適用されること、すなわち銀行が特権を有していることは明白です。私が言いたかったのは特権のおかげで利益を得てきた集団が特権を失うことでもたらされる損失だけに着目するのは不公平ということです。
価値があるのに、価値がないというのは矛盾です。
現在すでに通貨としてすべての国民に受け入れられる貨幣(行政サービス債券・納税債券)が法定通貨になっています。国民には行政サービスを受ける権利があり、かつ納税の義務があります。それゆえ、すべての国民が行政サービス債券・納税債券に価値を認めることができるのです。
逆の命題とは「廃止を望む国民が一定数存在するなら、法律は廃止される」ということですか。議員の過半数が廃止に賛成するような選挙結果になる民意があるなら、廃止になるでしょうけれども、現状はそうではないということです。
ECサイトには電子マネーの使用を定めた利用規約があり、これは国家における法律に相当します。サイトの利用者は、利用規約に同意の上サイトを利用しているのだから、利用規約の命令に従わなければなりません。利用規約の強制力は、その会社のプラットフォーム内に限定されますが、国家の法の強制力も国内に限定されます。この点で官と民に違いはありません。どちらの場合でも、不満があるなら、改善するように要望を出すことができきるし、どうしても不満で我慢できないなら、別のプラットフォームに行けばよいのです。
「民主主義はどうあるべきか」で書いたように、自由な民主主義社会には、「手による投票」と「足による投票」があります。これは国家主義ではなくて、自由主義の二大原理です。
アフリカの一部の国のように、法定通貨が機能していない国では、仮想通貨が決済目的で使われているそうです。彼らにとっては、仮想通貨は通貨なのでしょうが、先進国は、仮想通貨をコモディティ扱いしています。つまり物々交換ということです。もとより、超国家的な視点からすれば、行政サービス債券・納税債券を使った売買も物々交換ということになるのでしょうけれども。
株券も持っているだけなら費用は掛かりません。売買するときには費用がかかりますが、通貨も両替には費用がかかるから、同じことです。
違います。そういう通俗的なデフレ・スパイラル論が間違いであることは、最初に書きました。
デフレ/インフレあるいは物価下落/上昇それ自体は経済にとって益にも害にもなりません。問題は、それに基づいて人々が将来を予想し、経済活動を変更することなのです。
人々がマイナスのインフレ期待を持つと、不況になります。だから元の文で「不況」の代わりに「デフレ」と書いても同じことです。そう書き替えれば、同意するということですか。
人々がデフレ期待を抱いていると、生産の縮小が起きるからです。
プロパタリアンさんは購買力を考える上で、ストックにばかり注目して、フローは軽視しているようです。でも実際には、個人が消費を増やすかどうかに関しては、ストックよりも、フロー、特に将来のフローに対する期待が重要な役割を果たします。実質賃金が減り続け、将来を悲観している日本人が貯蓄が多くても消費を増やさないのに対して、実質賃金が増え続け、将来を楽観している米国人が貯蓄が少ないのにもかかわらず旺盛な消費をするのは、そのためです(1997年の実質賃金を100とすると、2016年の実質賃金は、日本が89.7であるのに対して、米国は115.3)。アベノミクスは、構造改革が不十分であるため、労働生産性や実質賃金が上がりませんでしたが、金融緩和に加えて、構造改革を行っていれば、労働生産性や実質賃金が上がり、失われた二十年から本当に脱却することができたでしょう。
プロパタリアンさんの提案は、原因治療でもなければ対処療法でもなく、かえって症状を悪化させる民間療法といったところですね。再発防止策にもなりません。
貨幣需要でも資金需要でもおなじことです。引用した定義には「預金通貨を含めた通貨供給量が減少する」とあるのだから、収縮という言葉も理解できるはずです。いずれにせよ、信用創造による預金通貨の増大が通貨偽造罪に問われるような違法行為でないことを理解できたなら、言葉の問題などどうでもよいことです。
信用創造とはみなされませんが、銀行以外も又貸しはできます。また、銀行は新規参入が禁止されておらず、資本力があれば、参入できます。
それなら信用創造も認めるべきです。融資する人は、融資した以上の価値が将来作られると考えて、融資しています。将来実現される価値が担保としてあるなら、いくら貸し出しを増やしても全商品本位制下で問題はないということになります。
プロパタリアンさんは、リフレ政策で潤うのは金融業界だけと考えているようですが、デフレ・スパイラルの被害は、社会全体に及ぶのだから、社会全体の利益のための政策と考えるべきです。
審判は、プレーヤー同士では解決できない問題が起きた時には、介入します。同様に、政府と中央銀行は、民間だけで解決できない問題が起きた時には介入をするのです。
私の主張は矛盾していません。政府が行政サービスを提供するために必要とする財やサービスを購入する貨幣には価値が無いとは言えません。無ければ購入できないからです。しかし、現在の通貨に価値があるのは法定通貨にされているからであり、そうでなければ価値が無いものであることもまた事実です。どんなものでも法定通貨になれば納税手段としての価値は認められるのですから、比較衡量する上で重要なのは納税手段ではなく市場における交換手段としての価値すなわち貨幣価値であり、その基準からは現在の法定通貨が自由通貨制度の通貨に優ることはないはずです。
すみません、逆ではなく裏でした。つまり、「法定通貨が廃止されないのは、国民が望んでいないから」は必ずしも正しくないということです。おそらく多くの人は望むか望まぬか以前に、法定通貨を廃止するという選択肢自体をあまり検討してきていないと思います。したがって、潜在的に望んでいる可能性があると考えています。
国家における法律はそれに同意していない「国民」にも適用されますが、アマゾンの利用規約はそれに同意せず楽天を利用している「国民」には適用されません。この違いこそ「国民」にとって民営貨幣の方が望ましいと考える根拠です。
国営貨幣を拒否するなら外国に行かねばならないのであれば、国内では「足による投票」ができないということなので、自由主義的ではありません。
物々交換を法定通貨を用いない取引と定義するのであれば、日本の市場取引がそうなってもいいと思います。
我々は大部分の取引の対価を最も流動性が高い通貨で受け取ります。株券が通貨でなければで受け取ることは稀です。インフレヘッジしようとした場合に、受け取った通貨で株券を買う際に費用がかかる点で、現行制度は、受け取った通貨をそのまま保持していればいい自由通貨制度に劣ります。
その議論は中央が貨幣供給量を操作して経済循環を引き起こしている状況には妥当ですが、私が提案している制度下では「デフレが原因で全般的な物価下落が始まる」ことはなく、戦争や大災害などの甚大なショックがない限り経済発展につれて物価は下落し続けるため、物価下落を予想した経済活動を行うのは「変更」ではなく日常です。したがって、購入が延期されているではなく需要が無い、投資や融資が控えられているではなく提示している利回りが低い、と供給者は理解して自分の事業を見直すべきであり、市場への介入は正当化されません。
「不況あるいはデフレのとき、穏やかなインフレなら投融資の対象となる優良事業ですら、資金を集められないことがある」であれば反論はありません。
永井さんの謂うデフレがどのような意味かわからないままなので場合分けします。
通貨収縮の意であれば、私が提案する制度下では起こり得ず、人々がデフレ期待を抱かないため、生産の縮小は起きず、富がどんどん増えていくことができます。
物価下落の意であれば、私が提案する制度下では日常なので、生産の縮小は起きず、富がどんどん増えていくことができます。
ストックは貯金、フローは所得のことを意味しているのだと思いますが、私は貯金にばかり注目しているわけではなく、貯金の購買力を減らすことなく実質所得を増やせる貨幣制度を提案しているだけです。
また、国際比較は気風の差などがだいぶ影響するのであまり信頼できません。
リンク先にあった以下の文に同意します。
インフレ政策は麻酔であり、病気が治ったわけではありません。私が提案しているような形で通貨供給の民営化という手術が必要です。つまり、貨幣産業も構造改革すべきと主張しています。
なぜ私の提案は原因治療でもなければ対処療法でもないのでしょうか。移行のプロセスには課題があると認識していますが、移行後も何か問題があるのでしょうか。100%準備制度下で再発するとはどういうことでしょうか。
どれだけの人になしうるかと信用創造の犯罪性は関係ありません。
担保は弁済を確実にするための手段なので未実現の価値は向かないと思いますが、自分でリスクを負える範囲であれば自由にすればいいでしょう。問題は財産権を多重に割り当てることです。信用創造の影響は第三者にも及ぶため、融資する人とされる人が同意していても不可です。たとえば、100万円の利益を得られるという事業計画を信用して、乙が甲に自分の100万円を貸し出した場合、甲の事業が失敗しても損するのは乙だけです。しかし、乙が丙から預かっている100万円を甲に貸し出せば、甲の事業が失敗したとき、損するのは丙です。このとき、丙が乙を仲介に甲の事業に融資していただけ、すなわち乙が貸し出したのが本源的預金であれば問題ありません。しかし、信用創造とは派生的預金を貸し出すことであり、丙が文字通り預けていただけで融資するつもりがなかった100万円を流用することです。よって、甲と乙が同意していても丙の財産権保護の観点から信用創造は認められません。
私が提案している制度こそ、社会全体に及ぶデフレ・スパイラルの被害を未然に防ぎ、信用創造が禁止されることで銀行以外も公平に利益を得られるようになるので、社会全体のための政策と言えます。
では、介入の仕方の問題になりますが、永井さんは同論稿内で「ポジティブに生産活動にコミットするのではなく、ネガティブにルール違反にペナルティを科すことが小さな政府の役割である」と仰っています。100%準備制度は後者にあたりますが、現行制度では政府・中央銀行が通貨を生産しているので前者にあたるはずです。
行政サービス債券・納税債券は法定通貨だから価値があるのではありません。仮に強制通用力がなくても、行政サービス債券・納税債券は価値を失わずに、現在と同様の価値尺度、交換手段、価値貯蔵の機能を果たし続けることでしょう。日本国民に行政サービスを受ける権利があり、かつ納税の義務がある以上、これほど日本国民にとって普遍的価値を持つ債券は他にないからです。
それなら、法定通貨に強制通用力を認める必要はないと思うかもしれません。日本銀行法第四十六条に「日本銀行が発行する銀行券(以下「日本銀行券」という。)は、法貨として無制限に通用する」とあり、日本銀行券に強制通用力があることが法律で定められています。しかし、この規定は、価値がない債券に価値を持たせるために設けられたのではなくて、受領遅滞(債権者遅滞)を債務不履行と区別するという民法上の課題を解決するために設けられています。
もしも強制通用力の規定がないと仮定しましょう。企業が損害賠償をしようとすると、「現金ではなくて国宝のXXで賠償して、誠意を見せろ」と無理難題を吹っ掛けるモンスター被害者が出てくるかもしれません。あるいは、債権者が古銭収集家で、債務者が借金を返そうとすると、現金での受け取りを拒否して、見つけることが困難な古銭での支払いを求めるといったこともありうるでしょう。この場合、債務者は、債務返済するだけの資力があるにもかかわらず、債務不履行に陥ってしまう可能性が高くなります。
こうした事態を防ぐために民法第413条は「債権者が債務の履行を受けることを拒み、又は受けることができないときは、その債権者は、履行の提供があった時から遅滞の責任を負う」として、債権者の受領遅滞を規定しています。つまり、債権者が、強制通用力のある日本銀行券による受け取りを拒否した場合は、債務不履行ではなくて、受領遅滞とみなされ、利息や目的物の保管コストなど債務不履行で発生する追加費用負担の義務を免除されるのです。
強制通用力に関しては、「通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律」の第7条にもう一つ「貨幣は、額面価格の二十倍までを限り、法貨として通用する」という規定があります。この規定も、価値のない日本銀行券に価値を持たせるために貨幣(造幣局が製造する通貨)の使用に制限を設けているのではありません。大量の硬貨で支払われると、カウントしたり、保管場所を作ったりするのが大変だからです。千円札の代わりに一円玉千枚で支払おうとするモンスター客に来られると、店側としては人件費が割に合わなくなってしまいます。
要するに、日本銀行券に強制通用力を与えているのは、価値のない日本銀行券に価値を与えるためではなくて、理不尽な嫌がらせを防ぐためであって、そうした法の趣旨ゆえに、この規制の撤廃を望む国民はほとんどいないのです。もしも金本位制に基づいて兌換紙幣を発行するなら、こうした問題は起きないでしょうが、全商品本位制で無限の発行者が無限の種類の通貨を発行するなら、こうした問題は起きるでしょう。
人類は物々交換の時代から法定通貨の時代へと、自由放任経済の時代から混合経済の時代へと、ケインズ的な介入の時代からマネタリスト的な介入の時代へと進化を遂げてきました。人類は試行錯誤を繰り返しながら、望ましい社会を作ってきたのです。そうした歴史を無視して、無知ゆえの同意と断ずることは、むしろプロパタリアンさん自身の無知によるものと言わざるをえません。
もちろん、今のシステムで完成ということではなくて、人類は今後も試行錯誤を続けていくべきでしょう。仮想通貨という試みもその一つだったのですが、これは失敗に終わりそうです。おそらく次のステージは、分散型台帳技術を用いたデジタル法定通貨の発行やIoTと人工知能を用いたインフレ率制御の自動化などでしょう。
北朝鮮ではないのに、なぜ国外脱出の自由を認めないのですか。
「もしも通貨もどきの流動性を高くしたら、流動性が高くなる」というのは無意味なトートロジーです。現状では、社債などの通貨もどきによる決済は株式による決済と同様にまれです。
ところで、この議論は、もともと「引退した労働者に貯金しかない場合などを考えると、どんな人でも経済発展の恩恵にあずかれる物価の下落の方がどちらかといえば好ましい」に私が反論したのがきっかけでした。引退した労働者であっても、貯金で株を買えば、インフレの時代でも購買力を落とさないことができるという事実を認めれば、それで終わる話です。長期的に保有した場合、株の方が債権よりも、手数料や取引コストなど問題にならないぐらいはるかに儲かるということが歴史的に実証されているのに、なぜそれを認めないのですか。
プロパタリアンさんは「信用創造とは言わば政府からライセンスを与えられた一部の民間銀行だけが行える通貨偽造事業です」と書きましたね。「通貨偽造」という言葉は刑法第16章で定められた犯罪の名称です。現在の法律において犯罪ではない行為を犯罪であるかのような書き方はするべきではありません。それを認めれば済む話なのです。
返済されないとわかっていて貸す人はいません。つまり、又貸しの場合も含めて、貸し手は借り手が借りた価値以上の価値を創造すると期待して(あるいはすでに保有していると信じて)貸すのです。もしも提案している全商品本位制が今ある価値だけではなくて、将来創造されるであろう価値をも正貨として扱うなら、ベースマネー(ハイパワードマネー)とマネーサプライ( マネーストック)、本源的預金と派生的預金との区別はなくなります。どれだけ貸し出しが増えようが、すべて正貨による裏付けがあるから、詐欺の場合を除けば問題なしということになってしまいます。
将来作られると期待される商品をも含めた全商品本位制の場合、現状とあまり変わりがないので、これまでと同様に、インフレ/デフレ、物価上昇/下落、景気/不景気などの波動が起きます。強制通用力を否定することで、すでに指摘した問題が起きるでしょうが、経済全体に与える影響は大きくはありません。
金本位制にすると、そうでない場合よりもデフレ圧力がかかりますが、金本位制を採用していた時代の実際の歴史を見ればわかるとおり、インフレ/デフレ、物価上昇/下落、景気/不景気などの波動がなくなることはありません。つまり、どちらの場合でも、再発防止策にはなりません。
政府や中央銀行が何もしなければ、通貨価値が安定するはずだと考えている人は、外部環境の変動を考慮に入れていません。「太陽活動の変動はどのような影響を及ぼすのか」で書いたように、太陽活動の変動が惹き起こす自然環境の変動が経済の波動に影響を与えています。特にインフレ/デフレの波動は、コンドラチェフ循環と関係があります。詳しくはリンク先をご覧ください。
外部環境の変動に対して経済を安定させようとする政府や中央銀行の試みは、生命体によるホメオスタシスの維持に喩えることができます。人間は、暑くなったら汗をかき、寒くなったら体を震わせて、体温を一定に保とうとします。汗をかいたり、体を震わせたりといった介入をやめれば、体温が安定するという主張は正しくありません。同様に、政府や中央銀行が、金融政策による介入をやめれば、経済が安定するという考えも正しくないのです。
構造改革はデフレ圧力になるので、その弊害を取り除くためのリフレ政策は、手術に対する麻酔の関係と似ているという比喩です。プロパタリアンさんは、手術を受けるときに「麻酔を打っても病気が治るわけではないので、麻酔なしで手術してください」と医者に頼みますか。
「至上原理としての市場原理」では、好ましい(と政府が勝手に考えている)事業に補助金を出すよりも、好ましくない行為に罰金的な税金を課すほうが良いという意味で書きました。インフレ税も同じ発想による提案です。デフレ局面では、人々は法定通貨を死蔵しようとします。この好ましくない行為に対して、罰金的な税金としてインフレ税を課せばよいということです。
議論の途中で大変失礼ながら、用事が立て込んでおり、なかなか次のコメントができません。
一時中断とさせていただけると幸いです。
永井様
初めてコメントをさせて頂きます。いくつかの記事を拝見し、恐れながら生まれて初めて現代において哲学をやっておられる方の文章を読むことができたと、個人的に大変感銘を受けております。若輩ながら、現代人には本来の意味での哲学者と呼べる人間はおらず、哲学史研究者のみ存在すると10代の頃から決め打ち、よく世の中を見渡さずにおりました事を、反省したいと感じております。これから少しずつ拝読していきたいと思っています。
さておき、一つご意見をいただいてみたい事がございます。
“金本位制のもとでは、ベースマネーを増やすには、金の物理的量を増やさなければならない”
このようにありますが、思考実験として「もしもどこまでも細かく金の量を細分化する事ができて、それをデジタルデータのようにお互いに送金しあう事が可能」であれば、金本位制の姿はどのようになるとお考えになりますか?
このような切り上げデノミではデフレは解決せず、やはり量的緩和によって価値を下げる必要があるのでしょうか。例として、ザンビア、ニュージーランドでは過去に2倍の切り上げデノミを敢行したようです。
哲学的ではなくて、常識的な回答なのですが、金本位制度においては、1オンス(約31g)あたりいくらというように交換比率は質量で決めていたので、「どこまでも細かく金の量を細分化」しても、全体の質量が変わらない限り、ベースマネーの総額も変わりません。ただし、「それをデジタルデータのようにお互いに送金しあう事が可能」なように取引の利便性を改善すれば、取引が増えて、マネーサプライが増えることはありえます。要するに、金本位制度に留まる限り、御提案の方法では、マネーサプライ(マネーストック)が増えることはあっても、ベースマネー(マネタリーベース)は増えないということです。
デノミは、日常的な売買で非日常的な数字の通貨を使わなくても済むように行う通貨単位の変更で、ディスインフレ効果あるいはリフレ効果を狙った政策ではありません。