金本位制は平和に貢献したか
著名な経済人類学者カール・ポランニーは、1816年から1914年までの金本位制の時代を国際協調と平和の100年として懐かしんでいた。確かにナポレオン戦争が終結した1815年以降、第一次世界大戦が起きるまでの約100年間、あまり大きな戦争が起きていない。はたして、金本位制は、世界に平和と安定をもたらす、すばらしい制度であったのだろうか。

1. 平和な100年と金本位制
カール・ポランニーの著作『大転換』(原著:The Great Transformation: The Political and Economic Origins of Our Time)によれば、平和な百年は、勢力均衡(the balance-of-power system)、国際的金本位制(the international gold standard)、自己規制的な市場(the self-regulating market)、自由国家(the liberal state)という四つの制度に基づいていた。
これらの制度の中で、金本位制が重要であることがわかった。金本位制の崩壊が破局の直接の原因である。金本位制が崩壊するまでに、他の制度の大半を犠牲にしてでも金本位制を救おうとしたが、無駄だった。[1]
平和な100年は、コンドラチェフ・サイクルの第一波動の金利の山から第三波動の金利の山にいたるまでの期間に相当する。途中の第二波動における金利の山(1870年)を形成する過程で、1853-56年にクリミア戦争、1861-65年に南北戦争、1866年に普墺戦争、1870-71年に普仏戦争が起き、物価と金利が上昇している。しかしこれらの一連の戦争は、他のサイクルの金利上昇=インフレ局面で見られる戦争と比べれば、規模が小さい。なにより、金本位制の時代は、物価も金利も安定していた。
2. 金本位制はインフレを抑制する
金本位制には、物価と金利を安定させる効果がある。そもそも、金本位制とは、中央銀行が、発行した紙幣と同額の金を常時保管し、金と紙幣との兌換を保証する堅実な制度なのである。それ以前は、金と並んで銀も本位通貨とされていたが、金本位制を採用すると、銀を本位貨幣から外すために、ベースマネーが減少する。すると、実質金利が上昇するので、貸し出しが控えられ、マネーサプライが減少する。つまり金本位制度導入には、金融引き締めの効果があるわけだ。
1816年にイギリスは、ナポレオン戦争によって生じたインフレを抑えるべく、世界に先駆けて金本位制を導入する。その後、最初に述べたとおり、1870年前後に再びインフレが生じると、ドイツ、オランダ、ベルキー、フランス、イタリア、スイス、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、日本といった先進国が次々と金本位制を導入し、1870年代に国際金本位制が確立された[2]。
当時銀貨の価値が下がっていたので、銀を本位通貨としてインフレを煽ることにならないよう、金本位制を導入した(その結果銀貨はさらに暴落する)ことは正しい判断だったといえる。
3. 金本位制はデフレを長引かせる

問題は、デフレになった時である。1873年にイギリス、アメリカ、ドイツ、フランス、オーストラリアで鉄道バブルが崩壊し、以後19世紀の末まで世界経済は長く深刻な不況に苦しむことになる。例えば、英国の場合、1873~96年の年平均で小売物価が1.7%下落し、1900年までには最大手10行にイギリスの銀行預金の40%以上が集中した。アメリカとドイツでも同様の集中が起きたが、特にドイツでは、カルテルとシンジケートが成長した[3]。
この世界大恐慌は、1929年の暗黒の木曜日から始まった世界大恐慌に匹敵する大規模なデフレだった。そして、金本位制の導入は、このデフレの原因の一つだった。
デフレになると、物価が下落し、貨幣価値が上昇する。物価が下落すると、企業の収益が悪化し、また貨幣価値が上昇すると、貸し渋りにより資金調達が難しくなるので、投資と生産が抑制される。その結果失業者が増えるか賃金が低下する。すると消費が減退し、物が売れなくなるので、値下げによる物価の下落がさらに続く。デフレが新たなデフレを呼ぶデフレスパイラルである。
4. デフレから脱却するための方法
デフレスパイラルから脱却するには、貨幣価値を下げるか、物価を上げるか、どちらかまたは両方を政策的に行わなければならない。
貨幣価値を下げる最も簡単な方法は、ベースマネーの量を増やすこと(量的金融緩和)である。しかし金本位制のもとでは、ベースマネーを増やすには、金の物理的量を増やさなければならない。イギリスでは、当時イギリスの植民地であったオーストラリアや南アフリカでのゴールドラッシュのおかげである程度金の保有量を増やすことができた。しかしドイツやアメリカといった他の新興工業国は、この手段をとることができなかった。
貨幣価値を下げることができないなら、物価を上げるしかない。物価を上げる最も簡単な方法は、戦争で資源を浪費して物不足状態を作ることである。ところが、1873年の大恐慌以降、第一次世界大戦が勃発するまで、デフレを解消するような大きな戦争は起きなかった。これは、大英帝国の軍事力が圧倒的で、どの国もパクス・ブリタニカに挑戦しようとしなかったからではない。19世紀の末になると、アメリカとドイツが、工業生産力という点でも、軍事力という点でも、イギリスを凌駕するようになっていた。だから、実際よりももっと早く、アメリカとドイツのどちらかが大英帝国の世界制覇に挑む戦争をしてもおかしくはなかったのだが、政治的な理由、すなわち、アメリカは孤立主義により、ドイツはビスマルク外交により、大規模な世界戦争は1914年まで延期となった。
戦争という手段を選ばなかった列強諸国は、別の手段で、物価を引き上げた。すなわち、大産業資本がカルテル・トラスト・コンツェルンなどを形成し市場を独占/寡占して、価格を引き上げることを容認したのである。いわゆる独占資本主義の始まりである。時を同じくして、労働組合も結成されるようになった。これは組合が労働市場を独占して、賃金(労働者の価格)を引き上げることを意味している。だからこの当時の社会主義運動の高まり[4]は、独占資本主義に対抗する運動というよりも、これに同調する運動だったのである。
こうして物価下落という意味でのデフレは阻止されたが、独占/寡占による供給サイド主導の価格の引き上げは、需要の減退をもたらすので、先進工業国は、国外に新たな市場を見つけなければならなくなった。その結果、レーニンが帝国主義と名付けた植民地獲得競争が起きる。ドイツは、もはやビスマルク外交を続けることができなくなり、1890年にビスマルクが失脚すると、ヴィルヘルム2世は積極的な世界政策を展開し、これがやがて第一次世界大戦を惹き起こすことになる。こうして、1873年以来の長期のデフレは完全に解消される。
5. 金本位制は戦争の遠因となる
このように、金本位制は、ヨーロッパに平和をもたらしたのではなく、むしろ戦争を惹き起こすデフレの原因となっていたのである。もし、1873年のバブル崩壊後に、大規模なベースマネーの供給が行われていたら、第一次世界大戦は回避できたかもしれない。
言語が世界の情報を代表象するように、貨幣は全商品の価値を代表象する。金の価値の総額は、市場経済で売買される商品の価値と比べると圧倒的に少ない。本位貨幣を金に限ると、市場経済の成長とともに増大する資金需要を満たすことができなくなる。したがって、纏足を続けると、成長する女性の足が屈折していびつになるように、金本位制度を続けると、成長する資本主義が屈折していびつになる。しかし、纏足が女性の足の必然的発展形態ではないのと同様に、独占資本主義は、マルクス主義者がそう誤解しているような資本主義の必然的発展形態ではない。
実際、金本位制度が最終的に放棄された第二次世界大戦以後、特にニクソンが1971年にドルと金の交換を停止して以来、先進国は国内における独占/寡占を容認しなくなったし、植民地獲得のための帝国主義戦争を行わなくなった。
6. 参照情報
- カール・ポランニー『大転換』東洋経済新報社 (2009/6/19).
- Karl Polanyi. The Great Transformation: The Political and Economic Origins of Our Time. Beacon Press; 2版 (2001/3/28).
- 高橋是清, 井上準之助, 大正・昭和史研究会『高橋是清・井上準之助 論争 昭和恐慌 金解禁・金輸出再禁止: 付・Q&A よくわかる金本位制 歴史に学ぶ金融と経済』2015/12/5.
- 宮崎 正弘『世界は金本位制に向かっている (扶桑社BOOKS新書)』扶桑社 (2013/3/1).
- ↑“Of these institutions the gold standard proved crucial; its fall was the proximate cause of the catastrophe. By the time it failed most of the other instituitons had been sacrificed in a vain effort to save it.” Karl Polanyi. The Great Transformation: The Political and Economic Origins of Our Time. Beacon Press; 2版 (2001/3/28). p.3
- ↑年代順に並べると、1854年 ポルトガル、1871年 ドイツ、1871年 日本、1874年 オランダ、1878年 イタリア、1878年 フランス、1878年 ベルキー、1881年 アルゼンチン、1885年 エジプト、1892年 オーストリア、1892年 ハンガリー、1897年 ロシア、1899年 インド、1900年 アメリカという順序で金本位制が導入された。日本は日清戦争によって得た賠償金を準備金にして1897年に金本位制に加わった。
- ↑ゾンバルトは、自由放任のもとでは独占が自動的に成立すると考えていたが、実際にはドイツの独占資本主義は、上からの産業の意図的な組織化と統制の産物であった。
- ↑ドイツでは1879年に、イギリスでは1880年と1897年に、オーストリアでは1887年に、フランスでは1899年に社会保障制度ができ、工場の視察も、イギリスでは1833年に、ドイツでは1853年に、オーストリアでは1883年に、フランスでは1874年と1883年に行われるようになった。
ディスカッション
コメント一覧
永井さま
ご返答ありがとうございます。大変参考になりました。
細かな単位での流動性と取引量が拡大すれば、市場で動く貨幣を少しは活発にする可能性はあるかもしれないということですね。
確かに、これは貨幣の価値自体を下げる対策ではないですが、実質的な生活上の弊害として何が考えうるのでしょうか?
やはり、格差拡大が起きやすいとか、公平性に問題があるということでしょうか?
取引の利便性を改善すれば、信用創造によりマネーサプライが増えることが可能になるということです。
マネーサプライの増加についての質問なのか、デノミについての質問なのか、どちらでしょうか。
永井さま
ありがとうございます。マネタリーベースを増やさなくても、利便性向上による流動性拡大と信用創造でマネーサプライが増える可能性があるのであれば、それによって解決する問題と、逆に解決しない問題は何なのか?というのが自分の考えてみたいポイントです。
利便性がいくら高くなったところで、ベースマネーを増やすことができないのであるなら、マネーサプライを増やすことも、実際には難しいでしょう。信用通貨のように、ベースマネーを増やすことができる場合、その政策により、人々にインフレ期待を抱かせることができます。インフレ期待は、貸し出しを増やすので、信用創造によりマネーサプライが増えます。
それがなぜであるかは、反対のデフレの時を考えればわかります。デフレにおいては、貨幣価値は時間とともに増えます。すると人々は負のインフレ期待を持ちます。投資や融資をしなくても、持っているだけで価値が高まるのなら、金庫に死蔵させておこうという気になります。すると貸し出しが増えないので、マネーサプライも伸び悩むということです。
人々が正のインフレ期待を持つ場合では、金庫に死蔵させておくと貨幣価値は目減りするので、人々は投資や融資を行い、価値の目減りを防ごうとします。そして、インフレ期待を人為的に持たせるようにする最も効果的な方法は、ベースマネーを増やすと中央銀行が宣言し、実際にそれをやることです。
つまり、結局は貸し出しが増えないと市場が活性化せず、金融危機を脱する事ができないということですね。マネーサプライが枯渇した場合、大企業や地方分権が各々のクーポンや地域通貨を発行して、各々少しずつ流動性を拡大していくという解決方法はどうでしょうか。「将来の仕事見込み」が信用を担保するわけですから、各人がサービスごとに特化したクーポンを発行して、それに応じて仕事を返すということをすれば中央銀行がベースマネーを増やさずとも経済活動の潤滑油として機能しないでしょうか。
クーポンや地域通貨の発行は、原理的には社債や地方債の発行と同じです。社債や地方債の発行を増やす、つまり信用創造を促すには、インフレ期待を高めることが必要で、そのためにも、政府/中央銀行が政策的にベースマネーを増やすことができる通貨管理制の方が、そうではない金本位制よりも好ましいということです。
永井様
なるほど腑に落ちました。実際的個別的な経済の活性化よりも先に、まずは景気というか「雰囲気」とでも言いましょうか、契機とも言えるかもしれません。契機を先に指導する立場の者が与える必要があるという考えで良いでしょうか。
期待の自己実現と呼ぶのがふさわしいかと思います。