ファルスとしての貨幣
貨幣は、システム論的には、欲望の欲望というダブル・コンティンジェントな複雑性を縮減するコミュニケーション・メディアであるが、精神分析学的にはファルスに相当する。貨幣の歴史を精神分析学的に振り返りながら、システム論と精神分析学の接点を見出そう。[1]
1. 女性性器としての貨幣
世界最古の貨幣は、殷王朝(紀元前1600-1046年)で貨幣として使われたタカラガイだと言われている。タカラガイは、ヴァギナに形が似ているために、安産のお守りとしても使われ、子安貝とも呼ばれる。貝という漢字は、タカラガイの一種、キイロダカラガイの形から生まれた象形文字で、貝を部首とする漢字が貨幣にかかわりがあるのはこのためである。「生きがい」とか「働きがい」などの「かい」は、「価値」という意味だが、やはり貝を語源としている。タカラガイは、最近まで未開社会で貨幣として使われていて、英語でも、キイロダカラガイを“money cowry お金のタカラガイ”と呼んでいる。
なぜ、タカラガイ、すなわち子安貝が貨幣として使われたかに関しては、入手困難で希少価値があり、装飾品としての使用価値もあり、保存に適していて、運搬に便利といった理由が挙げられることが多い。しかし、この程度の条件を満たすだけでよいのなら、他にも貨幣の候補はたくさんある。子安貝が、貨幣として特に好まれたのは、ヴァギナとの類似ゆえに、女性を象徴していたからではないだろうか。
未開社会では、交叉従兄弟婚などの形態で、女の交換が行われている。古代の中国にもこのような風習があったに違いない。いや、それどころか、今でも中国には売買婚の習慣が残っている。文化人類学によれば、未開社会は、女の交換を原型としつつ、女を代表象する子安貝の交換を通して、商品交換を始めた。戦争とは別の手段をもってする貿易の継続である。戦争の時には、財宝と同様、女も戦利品として掠奪の対象となった。
貨幣が直接的な欲望の対象となりうる時、その貨幣を物品貨幣と呼ぶことにしたい。物品貨幣として機能したのは、子安貝だけではない。シベリアでは毛皮が、エチオピアでは塩が、日本や中国やアメリカでは穀物が、ギリシャや南アフリカでは家畜が貨幣として使われた。これら物品貨幣が流通している経済は、物々交換の経済と大差がないと考えることができる。
2. 個体発生は系統発生を繰り返す
物々交換が行われている前近代社会を幼児と比べてみよう。生後2-3年の肛門期で、幼児は、排尿・排便に快を感じるようになる。幼児は、母乳のお返しとして、便と尿を母親に与えていると意識する。フロイトによれば、金や銀が物品貨幣として流通したのは、尿が金色で、便が鋳潰した銀のような色をしているためであり、吝嗇、すなわち、資本主義の原動力となった蓄積への欲望は、便を貯めることによって得られる肛門の快楽に由来する。
こうしたフロイトの説明は、物品貨幣の説明としては適切である。肛門期の幼児は、母親との間に鏡像的でシンメトリカルな関係を持ち、そこで体験する取引は物々交換的である。しかし、生後3-5年の男根期になると、子供の関心は、ペニスへと向けられる。そしてシンメトリカルな母子関係に、父親という第三項が加わる。子供は、母親の欲望が、自分の糞尿ではなくて、父親のペニスに向けられていることに気が付く。そして男の子は母親のペニスになることを欲望しつつ、去勢に怯え、女の子はペニスがないことに劣等感を持ち、ペニスを羨望するようになる。こうした男根期の子供が持つ欲望を、ファルスへの欲望と呼ぶことができる。
ファルスとはペニスを意味するギリシャ語である。しかし精神分析では、ファルスは、母親の欲望の対象を意味する象徴的な言葉として使われる。ファルスは肉の塊としてのペニスではないし、現実に存在するみすぼらしい父親のことでもない。だから、「私の母は父親のペニスに欲情していなかった」とか「うちはかかあ天下で、父親に権勢はなかった」などと反論しても的外れである。
3. 男性性器としての貨幣
物品貨幣が純粋な貨幣へと脱皮していくプロセスは、肛門期から男根期への過程になぞらえることができる。このことを説明する前に、いったん中断した貨幣史の話を続けよう。
戦国時代、中国南方の楚では、貝殻を象った蟻鼻銭が使われていたが、斉や燕では、小刀を模した刀幣、韓・魏・趙では、農具を模した布幣が使われていた。紀元前221年、秦の始皇帝が中国を統一すると、丸い硬貨の中心に四角い穴を穿った円形方孔の貨幣を鋳造した。このスタイルは、その後2000年続いた、東アジアの典型的な貨幣形状である。方孔は、一定の枚数単位でひもを通した銭緡作成のために穿たれたと考えられているが、象徴的な意味もある。
紀元310年頃に魯褒が書いた『銭神論』によると、円形は「天」を、方孔は「地」をそれぞれ象徴している。円形は貨幣の形としてポジティブに与えられ、方形は穴としてネガティブに与えられているが、中国の易学によれば、もともと、天は、父や強い人など、堅くて動的なものを象徴する陽であり、地は、母や従順な人など、柔らかくて静的なものを象徴する陰である。中国に限らず、世界的に、地は「母なる大地」として表象され、ちょうど天が雨を降らせて大地に生命を育むように、男根も膣に精子の雨を降らせて生命を産み出すと考えられている。円形方孔貨幣は、男根の切断面の形に似ていて、ひもで通して集めると、男根そのもののように見える。しかし穴が貫かれているのだから、女陰に似ているとも言える。だから、円形方孔貨幣は、ペニスとヴァギナの合体を象徴していると見ることができる。
母権的な東洋社会がペニスとヴァギナの融合に安住したのに対して、父権的な西洋社会は貨幣のファルス化を進めた。西洋における最初の貨幣は、紀元前7世紀にリディア王国で造られた打刻貨幣で、紀元前600年頃発行された、スターテルと呼ばれる貨幣には、ライオンの頭が浮き彫りになっている。その後、ギリシャやローマでも、金属に支配者や神や動物の肖像を刻印した打刻貨幣が発行されたが、これらの貨幣は男性的性格を持っていた。近代、すなわちファルスが女性(自然)を支配する時代になると、男の権力者の肖像が描かれた紙幣が貨幣の世界標準となる。
貨幣が女性的性格を失って、ファルス化するということは何を意味しているのだろうか。男にとって、ヴァギナ(女)は直接的な欲望の対象である。それに対して、ファルスは欲望する対象(女)によって欲望される対象である。物品貨幣が、直接的な欲望の対象であるのに対して、管理通貨制度のもとにおける貨幣は、それ自体何の価値も持たない金属片や紙切れや電子パルスに過ぎず、もっぱら他者によって欲望される限りにおいて欲望される。
ラカン研究者の福原泰平は、ファルスと貨幣の類似を次のように説明している。
貨幣がその物質的素材である金や銀、そして銅やアルミニウムといったものの現実の使用価値を無化して、そこに等価的な交換への傾きを担わされているように、ファルスもその実体的な内容が問題とされるようなものではない。それはペニスが一方の性に欠如しており、その突出した形態から特権的なものとして選ばれたにしろ、脚でも親指でも何でもかまわなかったことをみれば理解される。
さらにいえば、貨幣の代表選手である金が、地上における現実的なものの次元を離れ、ある日突然、物々交換における価値の尺度へと高められて市場に介入してきたように、ペニスも現実の性的対象であることを離れ、突如あらゆる快を担う幻想的な運び手として世界に介入してくる。
こうした過程を経ることで性的な原器とでもいったものが成立すると、あらゆる性的対象は悦びに対して交換可能なものとなり、人々の間を流通しはじめる。母の欲望も父による禁止もすべてのものが性的等価物として市場に出回り、そこで値を付けて売り買いがなされるようになっていく。[3]
ファルスとはたんなるペニスではない。貨幣はファルスのように振舞うというよりも、むしろファルスそのものなのである[4]。
私は、これまで、コミュニケーション・メディアとして、経済システムにおける貨幣、文化システムにおける名声、政治システムにおける権力を取り上げてきた。野心的な男は、食欲のような直接満たされる、次元の低い欲望以外に、地位や名誉や富を獲得したいという、より次元の高い欲望を持つものだ。豪華なスポーツカーを乗り回して愛人の関心を惹こうとする成金、女性の観客の黄色い声援に応えようとパーフォーマンスをする俳優、内閣支持率に一喜一憂する総理大臣 … 彼らは、対象を欲望するのではなく、欲望の対象となることを欲望している。
男がファルスになろうと欲望するのに対して、女はファルスを所有することを欲望する。殺害した男友達の男根を切り取って逃走した女性が捕まって、警察に動機を尋ねられたところ、その女は「かわいいから」と供述したそうだが、こうした露骨な形ではないにしても、女性が小物や小動物を手にして「かわいい!」と喜ぶのは、ペニス羨望の現れである。女性がライバル関係にある女友達に、自分の彼氏が三高であることや高級ブランド品を持っていることをひけらかしたがるのも、ファルスへの欲望である。ハンドバックのブランドは、本来、ハンドバックの性能の良さを保証するためのものなのかもしれないが、ブランド物を買う女性にとっては、そのようなことはどうでもよいのであって、彼女がもっぱら求めていることは、他者の羨望の対象を所有すること、すなわちメタレベルの欲望を満たすことなのである。
4. 参照情報
- 永井俊哉『エントロピーの理論』Kindle Edition (2019/06/09).
- 栗本慎一郎『幻想としての経済』青土社; 〔新装版〕 (1990/3/1).
- 福原泰平『ラカン―鏡像段階』講談社; 新装版 (2005/4/13).
- ↑本稿の初出は、2002年3月22日のメルマガ記事「ファルスとしての貨幣」です。青木崇さんが、“MAERD’S HOMEPAGE”で当時の日本語原稿を中国語(台湾)に訳してくださいました。BIG-5のフォントと中国語の知識をお持ちの方は、「作為陽具(phallus)的貨幣」をお読み下さい。その後、本稿は改訂の上、拙著『エントロピーの理論』に収録されています。
- ↑“Monetaria moneta (Linné, 1758)” by H. Zell. Licensed under CC-BY-SA.
- ↑福原泰平.『ラカン―鏡像段階』講談社; 新装版 (2005/4/13). p.154-155.
- ↑栗本慎一郎も、『幻想としての経済』の中の論文「貨幣のエロティシズム」で、貨幣の起源は、女性性器ではなくて男性性器であると言っている。
ディスカッション
コメント一覧
貨幣は男か女か?
宝貝が象徴するものは明らかに女性だと思います。
分子生物学の福岡 伸一さんの「できそこないの男たち」によれば
太古は女性が支配する世界。男性は、遺伝子のバラエティを増やすための
道具に過ぎなかった..故に短命でもある。
文明とともに余剰の交換が生まれ、それを司る男族に支配権が
移って行ったとの説。
これによると、貨幣が生まれたときは女尊男卑、貨幣による余剰の
交換が盛んになると男尊女卑になった。
従って、貨幣の性格が女性から男性に変っていった、、とは
とれないでしょうか。
貨幣は女性器の象徴であるとして、女性の出産可能性を貨幣価値として交換している。賃金労働は他者に対する奉仕であり、出産・保育などの私的活動の中止、延期によって貨幣は得られる。経済の仮想的交換が上手くいかないと戦争によって人口調整をするしかなく、そこで剥き出しの自然状態が現れる。富裕層の奢侈品の見せびらかし競争は野生動物の示威行動と同じだ。奢侈品の生産は奢侈品の製造の労働的無駄に見合う浪費を相手に要求することだ。子安貝は女性の出産可能性を示している。アーミッシュ社会のように文明を忌避して質素な生活をしていれば出生率は上がるが、それが本当に平和的かどうかはわからない。素朴な社会は未開社会と同じで恒常的な戦争状態であると思う。
貯蓄は出生の先延ばしであり、負債は死亡の先延ばしである。経済は人口動態に依存しており、通貨供給量をちょっといじったくらいで人間の生死が左右されるわけがないのだ。債務を履行するとは死の約束を果たすことであり、死ぬことである。長期的には債務は必ず履行される。長期的には皆死んでいる。戦争の剥き出しの暴力無しに生と死の貸借計算を行うことは可能であり、それこそが経済学の目的であると思う。経済狂乱の生の延期としての投機が一夜にして死の負債に変化するのが経済の不思議だ。日本や韓国の低出生は消費の洗練を示しており、タナトス過剰の状態であると思われる。自由競争によって死すべき人々が債務によって生存しているわけでそこに死の価値があると思われる。マイナスの価値を高出生の国へ輸出するべきだ。
貨幣は長期間保存ができるが、貨幣によって測られる人間の労働力は不死ではない。貨幣によって死を表現するのは難しい。ニューギニアなどで今でも使われる貝貨は主に結婚と葬式で用いられる。出生と死亡の価値を同じ貨幣で表現するのはむずかしい。日本の赤字国債の増大は少子高齢化という生物学的現象を後追いするもので、債務は貨幣が老衰した形だと捉えることが出来る。僕は生に価値があると同時に死にも価値があると考える。ピラミッドは王様の墓だが、墓にも価値がある。死の神秘に労働を大量投入するだけの価値があるのだ。昨今の日本は古代エジプトと同様に巨大なピラミッド建設を始めているのかもしれない。古代エジプトの人々がピラミッド建設にとり憑かれている間は社会は平和だったのだろう。集団心理には生存を欲望する局面と死亡を欲望する局面の振り子の往復運動があるのだ。日本は人命第一主義で生を尊重してきたが、死をどう評価するかをおざなりにしてきた。死の欲求は倫理の原資であり、倫理問題に公共投資していくのは決して無駄ではない。国債を使って倫理問題を解決すればよいと思う。結婚の機会を失してまで大学の研究職に就こうとしている若い研究者がたくさんいるはずで、その人々へ投資していくのは死に投資をすることである。生存に有利であるからという理由で大学教育を売るのは逆効果である。出産を考えれば大学など行かない方が良い。労働生産性を高めるのも学問の仕事ではない。超越論的な議論をするところが大学だ。知的エリートが永遠にピラミッド建設をしていれば、あるいは何も建設しないで議論だけしていれば世の中平和だ。
子どもが経験する最初の母子分離の不安は保育所への入所だ。親密圏と公共圏の分離、シニフィアンとシニフィエ、音声中心主義と記号主義が分離するのは教育という権力装置の中なのである。父親は家父長で母子分離の義務、つまり教育の義務を負っている。ファルスは男根というより親密さの不在で、父親も母親もファリックになりうる。集落から国家への発展、文明の系統発生の歴史を家庭内で追体験するのだ。徴税が無ければ教育の必要もないし、去勢も存在しないだろう。家庭内で父親が嫌がられるのは納税の義務を主に父親が負っているからで、親密圏の人々から見た人間の再生産の時間を圧縮していく義務を負っているから嫌われる。子供を公共権力に取り上げられると誰でも怒る。権力装置への批判を家庭内の喧嘩に矮小化するのが精神分析だ。精神分析が制度であり、精神科医がまず権力のしもべである。精神科医の去勢について問題にしたい。問題のすり替えがある。
滑稽劇としてのファルスが芸術の最高形態だと坂口安吾は言ったが、内容空疎なドタバタ喜劇をフランス語のfarce(詰め物料理)に当てこすってファルス劇とヨーロッパ中世の人々は呼んだのだろう。詰め物の内容が牛でも豚でも何でもよいのである。空虚がファルスの本質だ。貨幣はソーセージの中身である。空である。空であるから切ない。貨幣経済の熱狂は結局空振りに終わる。切なく悲しい。バブルは弾けるものだと思えばよい。祭りである。商品経済が滑稽だ、バブルが幻想だとして反対に切実なるもの、真面目なもの、聖なるものとして宗教劇が出てくるのは嫌だ。戦争は聖なるものであった。ファシズムや全体主義には真面目さはあったが笑いは無かった。経済競争は敗北者を生む。経済的かつ性的に取り残された人々のリビドーが軍需資本に化身して死を欲求するのではないかと思う。生真面目な青年将校の性的問題を資本主義がどう包摂するのか?日本が人口減少をするというのは一つのシステムが閉じたということで現代的進歩だと思う。戦前は余剰労働力を海外輸出していた。現代は余剰人口の切ない性欲求を娯楽産業が吸収しているのではないかと思う。日本の性産業の発達は滑稽ではあるが、せつないおかしさだ。