なぜ都会には犯罪が多いのか
農村と都市との間には、人口密度が低いか否か、農業に従事しているか否かという以上の違いがある。両者の違いの本質はどこにあるのか、それがなぜ犯罪発生率の違いに結びつくのかといった問題をシステム論的観点から考えてみたい。

1. 犯罪発生率は都会的なところほど高い
アメリカは、日本と比べると人口あたりの犯罪発生率が高く、1998年の統計によると、日米格差は、殺人で5.7倍、強姦で22.9倍、傷害で23.4倍、強盗では61.2倍である。同じ日本でも、農村よりも都会の方が、犯罪発生率が高い。1999年における犯罪発生率の統計によると、都道府県別では、高い方から順に見ると、福岡県、千葉県、大阪府、愛知県、東京都、逆に低い方から順に見ると、長崎県、青森県、佐賀県、島根県、山形県となっており、その傾向を確かめることができる。
社会学者は、様々な調査から、出入りが激しい地域ほど犯罪の発生率は高いという結論を出している。出入りの激しい匿名的な社会を都会的社会、そうでない社会を農村的社会と呼ぶことにしよう。日本は、アメリカと比べて移民が少ないので、その限りでは農村的社会の性格が強いと言える。顔見知りの等質的なメンバーからなる農村的社会でほど、犯罪は発生しにくくなる。
私は、かつて周囲を田と山で囲まれている(山から校庭に鹿が迷い込むこともあった)田舎の高校に在籍していたので、一つエピソードを紹介しよう。高校の近くにある郵便局で、締め切りの日に大学受験の願書を出そうとしたところ、所持金では受験料が支払えないことに気付いた。営業時間は終わりに近づいていて、自宅に帰って郵便局まで戻ってくることもできず、途方に暮れていると、郵便局員が自分のポケットから財布を取り出し、不足分のお金は貸してあげるから、それで出願しなさいと言ってくれた。
都会の銀行員なら、担保もなく、身元の確認もできない人間に自分の金を貸すことはまずない。あの郵便局のおじさんは、私が金を借りたまま行方をくらますというリスクを意識していなかったのだろうか。おそらくそうした可能性を考えていなかったのだろう。私の方も、当時、返さなくてもばれないのではないだろうか、などという他の選択肢は全く考えもしなかった。翌日登校の際、郵便局に立ち寄って、借りたお金はすべて返した。いかにも田舎らしい牧歌的風景である。
2. 都会はエントロピーが高い
システム論では、他のようでもありうる可能性の数を複雑性、その対数をエントロピーと呼んでいる。都会的社会は農村的社会と比べて、以下の二つの意味で社会のエントロピーが大きい。
- 都会的社会のメンバーは、様々な文化圏から集まってきているので、異質性が強い。何でもありの世界である。ある文化圏の人にとっては自明で、《他の》ようではありえないことも、《他の》文化圏の人にとってはそうではない。アメリカの都市には、「逆立ちして道路を横断してはいけない」とか「劇場にライオンを連れて入ってはいけない」といった条例があるが、日本にはない。それは、こうした行為が日本では許されるからではなく、誰もそのような行為を思いつくことさえしないからである。農村的社会では「常識で考えろ」で済まされる暗黙知の了解事項も、都会的社会では法で明示的に禁止しなければならない。
- 「旅の恥は掻き捨て」という諺があるように、人間の出入りが激しい都会的社会では、規範遵守の意識が薄くなる。逆にスキャンダルが後世まで語り継がれる農村的社会では、規範遵守へのインセンティブが強く働く。農村的社会が定数項の関係を規定する関数だとするならば、都会的社会は変数項の関係を規定する、よりエントロピーの高い関数であると言うことができる。対面コミュニケーションでは上品な会話をする紳士淑女も、2ちゃんねる掲示板のような、匿名性が保証され、やばくなればいつでも逃げられるサイバースペースでは、罵倒と中傷の鬼になるところに、都会的犯罪のモデルを観て取ることができる。
Aの意味でのエントロピーの高さは無自覚的犯罪の、Bの意味でのエントロピーの高さは自覚的犯罪の原因となる。エントロピーの高い社会では犯罪発生率が高いが、犯罪発生率が高くなると社会のエントロピーも高くなる。治安の悪い社会では、人々は相互に、規範とは他のように行為する可能性が高いからである。
都会は農村と比べて、社会的エントロピーが高いだけでなく、物質的エントロピーも高い。絶えず新陳代謝をする人間と工業が密集しているのだから当然である。四大文明以来、都市は大きな河のほとりに造られているが、これは都市で発生したエントロピーを流れる河に捨てるためである。太陽エネルギーが惹き起こす水と空気の循環が、都市の物質的エントロピーを縮減している。熱力学的な意味で都市のエントロピーを縮減しているネゲントロピーが太陽だとするならば、社会学的な意味での都市のエントロピーを縮減しているネゲントロピーは、何であろうか。
3. 都会ほど明文法が必要である
その答えは、実際に規範に違反する行為をすれば、すぐ分かる。農村的社会では、伝統的習慣という過去における規則性が行為のエントロピーを縮減している。伝統的習慣を破ってコミュニティのエントロピーを増大させるメンバーが現れると、農村的社会はそのメンバーを村八分にして、システムの低エントロピー性を維持する。社会が都会化して、伝統的習慣という暗黙知の了解が機能しなくなると、国家権力は規範を成文法で明示し、違反者に対しては制度化された村八分である刑罰を科す。社会が都会化すればするほど、社会のエントロピーは増大するので、それだけエントロピーを縮減する国家権力も大きくならざるを得ない。
ディスカッション
コメント一覧
たしかに、沖縄県の人口10万人当たりの殺人発生率は、他の都道府県に対して際立って高いが、これは、沖縄には米軍基地が多数あり、米国人が多数居住していることと関係があるでしょう。ちなみに、米国における殺人発生率は5.6ですから、これと比べたら、ずっと低いと言うことができます[殺人発生率都道府県別ランキング(平成18年、平成17年) ]。
日本では、殺人の件数が少ないので、殺人発生率は偶然に左右されることが多く、これで犯罪発生率一般の傾向を語ることはできません。統計学的に妥当な判断を下そうとするならば、もっと件数の多い事象で考察するべきです。「国内統計 – 犯罪率統計(2003年)」を見てください。都市部の方が農村よりも犯罪発生率が高いことを見て取ることができます。
>>囚人にふさわしい職業は、情報機密を要求される仕事です
北朝鮮の諜報能力が(日本と比較して)高い要因の一つは、北朝鮮の国家体制自体の刑務所的構造にあるという事でしょうか。
脱北者が北朝鮮の内情を暴露しているので、北朝鮮の情報機密が高いとは言えません。
“システム論では、他のようでもありうる可能性の数を複雑性、その対数をエントロピーと呼んでいる。都会的社会は農村的社会と比べて、以下の二つの意味で社会のエントロピーが大きい。”
アメリカの大都市に長期間滞在してから帰国すると、日本社会の等質性の高さを痛感します。「他のようでもありうる可能性の少なさ」から国際的に比較すれば、現代の日本全体がまれにみる農村的社会だと感じます。
日本のこうした等質性による低エントロピーが、勤勉で規格大量生産には優秀な労働力や、均質で大規模な国内市場をもたらし、戦後の高度経済成長を可能にした一因となったと考えています。
しかし今後については、引き続き等質性を国家としての個性や強みとして維持しようとする考えと、個性の尊重や移民受け入れなど異質性を伸ばし、それを日本の新たな強みにしようとする考えとの間で、私には迷いがあります。
それは、都会型社会に変容する難しさを予感していることと、せっかくの稀にみる均質的社会を競争優位性として活かせないのだろうか、という思いがあるからです。均質性の高さは工業社会では有利でしたが、個性が重要な情報社会では不利になるという判断は正しいと思いますが、均質性の高さそのものが国の個性となり得る可能性はないのだろうか、と考えてしまいます。
ゆとりの教育が始まる以前の日本人の能力は等質的に高く、それが日本の国際競争力を高めていましたが、「能力が等質的に高い」ということと「社会が等質的」ということは分けて考える必要があります。改革開放以前の中国は、人民全員が同じような人民服を着ている、貧富の格差があまりない等質的な社会でしたが、それが中国の競争力の優位をもたらすことはありませんでした。むしろ、そうした等質性が失われる中で、中国は経済発展を遂げました。
小学6年生の私としてはとても難しかったけれど凄く参考になりました。凄く興味深い内容でした。ついコメントしちゃいました。将来の為になったのでありがとうございました。
言葉が難しくてよくわからない
田舎と都会ではどちらが多い?
本文に書いたとおりです。