自殺はなぜ悪なのか
「自殺は悪だ」が、私たちの常識である。多くの常識がそうであるように、この常識も、根拠が問われることなく信じられている。はたして、私たちは、自殺が悪であることを根拠付けることができるだろうか。

1. 不公平な多数決
生き続けることを選んでいる私たちが、いくら「生きることはすばらしいことだ」「自殺などもってのほかだ」と言っても、それは、オウム真理教の信者が「オウム真理教を信じることはすばらしいことだ」「脱会などもってのほかだ」と言う場合と同様に、トートロジカルで説得力がない。オウム真理教の信者は、まさにそう思っているからこそ教団に残っているのであり、「脱会は悪か」に対する答えは、尋ねる前からわかっている。教団脱会の是非を問う時、脱会を拒んで、教団を賞賛する信者の話だけでなく、脱会した元信者の話も聞かなければ、公平とは言いがたい。この方法は、しかしながら、自殺、すなわちこの世から脱退することの是非を判断する時には使えない。自殺経験者が「自殺はすばらしい」「自殺したおかげで、これまでの苦しい重荷から逃れることができた」などと反論することはできない。自殺の是非の決定は、反対する野党議員を全て議場から追放して行う多数決のようなもので、公平とは言いがたい。
もっとも、まだ自殺していないが、自殺したいと思っている人なら、話ができる状態で存在している。しかし、今私が問題にしているのは、自殺は悪か否かという規範のレベルの問題であって、自殺したいかどうかという欲望のレベルの問題ではない。もし、自殺に伴う苦痛よりも、生き延びて味わう苦痛の方がはるかに大きいのならば、自殺したいと思うのは自然なことである。だが、自殺したいから自殺してもよいと判断することには論理的な飛躍がある。したいことがしてはいけないことだということはよくある。規範は欲望と必ずしも一致しないし、必ずしも一致しないからこそ規範は規範なのである。多くの自殺志願者は、一方で自殺したいと思いながらも、他方で自殺は良くないことだと考えて、決断までに悩むものなのだ。
規範は、社会の多数派によって、そして多数派に有利なように形成される。生きている人間の集団の中では、当然生きていることに価値が置かれる。オウム真理教の信者が教祖の説教によって洗脳されているように、私たちは、幼い頃から「命の尊さ」を教え込まれている。オウムの信者にとって脱会がタブーであるように、私たちにとって自殺はタブーである。教団の内部で信者が脱退を呼びかければ、リンチの憂き目に会うように、私たちが「自殺は悪ではない」と言えば、社会的制裁を受ける。このため「自殺をしてはいけない」という規範は、自明な真理として受け入れられる。
自殺は、常に悪とされてきた。神風特攻隊の志願者を募集した大日本帝国の軍人たちは、一見自殺を奨励していたようにも見えるが、彼らは「帝国臣民全員が玉砕することがないように、戦争に勝たなければならない」と考えていたわけで、多数の生命を維持するために少数の生命を犠牲にしたと解釈できる。問題は、なぜ生命には一般に価値があるのかということである。
2. 善悪の基準は何か
生命に価値があるのか否か、自殺が悪か否かを論じる前に、そもそも善悪という価値は何によって決まるのかを考えてみよう。私たち生命体は、個人レベルであれ、社会レベルであれ、ネゲントロピーとしてのシステムであり、そしてすべての価値は私(たち)のネゲントロピーへの貢献によって決定される。私たちは、富や名声や権力といった低エントロピー資源を欲望するが、それらが価値を持つのは、それらが私(たち)のシステムのエントロピーを縮減する限りにおいてである。ものさしが長さの基準であるように、私たちのネゲントロピーは私たちの価値の基準である。
自殺は悪かと問うことは、私たちの生命に価値があるのかと問うことと同じである。そして私たちはここで困難にぶつかる。ちょうどものさしが自分自身の長さを測ることができないように、価値基準は価値基準自身の価値を決めることはできない。メートルの基準となる長さをメートル原器と言い、今日、光が真空中で1/299792458秒間に進む距離と定義されている。こう定義すると、「メートル原器の長さは、ちょうど1メートルだ」などと言っても、それは同語反復(トートロジー)に過ぎない。同様に「生命には価値がある」という命題は「生き延びるという目的にとって生き延びることは価値がある」という意味であり、トートロジーである。
3. 閉ざされたトートロジーのループ
「自殺は悪だ」とするどのような説明も、最終的にはこのトートロジーのループを超えるものではない。生活に疲れて自殺しようとする母子家庭の母親に対して、「あなたが死んだら、子供たちの将来はどうなるの」と断念を促す時、この説得者は、子供という生命の存在が善であることを前提している。つまり、「生命は善である。ゆえに生命は善である」というトートロジーを繰り返しているのである。
トートロジーのループから抜け出すために、神のような超越的存在を想定し、「命は神から預かったものだから、自分勝手に捨ててはいけない」と説く人もいるかもしれない。しかし、ここでも同じような問題が起きてくる。神が全ての価値の基準であるとするならば、この価値基準自身の価値を保証するものは何なのかという問題である。神がいくら自分を絶対化しても、神という基準自体を否定すれば、神の全ての教えは無効になってしまう。

石原慎太郎が、戦争放棄を放棄するには、憲法を改正するよりも破棄しろと言ったことがある。日本国憲法は、自らを最高法規と規定し、憲法を改正するには、衆参両議院での2/3以上の賛成と国民投票での1/2以上の賛成が必要と定めている。もし、日本国憲法を最高法規として認め、それに従うなら、面倒な国会対策や世論操作が必要になる。しかし、クーデターを起こして憲法それ自体を否定するならば、憲法第98条に記されている最高法規の条項は、たんなる紙の上にあるインクのしみになってしまう。
「自殺は悪だ」という命題は、生きている人間にとって分析的に真であるが、トートロジーのループの外部に何も根拠を持たない。もし自殺してしまえば、自分の命とともに、自殺は悪か否かという問題も、善悪の彼岸に消えてしまう。重さとは、引力という物体間の相互関係であって、物体の総体には重さがないように、価値とは、目的に対する有用性という生の間の相互関係であって、生の総体には価値がない。
もし、誰かが「自殺したい」と言い出すなら、私は、あらゆる手段を尽くして、その人に断念するように説得するだろう。しかし、それは、私が生きることを選んでいる人間だからであって、それ以上の理由はない。
ディスカッション
コメント一覧
「自殺は人間の特権である」。進化の臨界点を超えたホモ・サピエンスの大脳は、ついに自己破壊を命令してしまった。
これは 糞の意見‼️
生きるか 死ぬは人間の自由だぞ‼️
思慮が浅い事を承知の上で意見を残しておきます。
まず、私は自殺が善悪のどちらかと問われれば「結果的に」悪であるとする立場の人間です。しかし、あくまでその行為が行われてしまう状態を悪とするに留まり自殺者を悪呼ばわるする事は出来ないと思うのですが、そこを区別化して考える事は出来ないのでしょうか?何故そこが同一視されているのか疑問です。そして、自殺という行為自体に善悪をつけることは不可能です。そもそも判断を下す
場所が間違ってるというのが私の根本的な考えなので。
本題ですが、私は自殺について考えるなら自殺の原因を考察する事は避けて通れないと思っていて、そしてそこに真理があると思います。原因、それが全てなのではないかと。
人間本来誰しも自殺をするために生まれてきたわけではないですよね。もしそれを肯定するなら理性を持った時点でみんな自殺しているので今頃人間は滅んでいますよ。自殺を望む人間には必ず原因があります。私は、追求するべき論点はその原因であり、自殺という結果についてこれ以上論じてもなんの解決にもならないと思います。何らかの原因によって精神を追い込まれ正常な判断が出来ずに楽を求めて結果的に死を選ぶ、それだけの話なので。しかし、これはあくまで現象の実態の把握に過ぎず、精神に異常をきたしている人間の判断に正当性を見出して肯定することは出来ません。精神がおかしいのだから自殺してしまうのは納得できるけど、自殺は精神がおかしいから選択するのであって人間としての本来の姿からは肯定できないよねって事です。つまり、自殺は否定しなければならない、これが自殺という結果に対する私の中の結論です。
そうすると、やはり目を向けるべきは原因であり、私は自殺という結果を通してその原因を悪と呼びます。人間を精神異常に追いやるその原因が悪なのであると。そして、その原因を考えているうちに、またひとつの考えが生じました。自殺なんてものは無いのではないかと。自殺者を殺しているのは本人ではなく紛れもなくその原因であり、それが人に由来するのであればそれは殺人であり、社会であれば社会に殺されたという表現が正しく、自分が愚かである事が原因であるならば酷ではあるがただの自然淘汰では無いか。「自ら命を絶つという行為」という意味では否定出来ないが、「原因が人を精神的に追い込み、健全な判断力を奪い、自ら死に追いやる」これを自分の意思による命の諦めと見ることは絶対にあってはならないと思うのです。根源である原因に全ての悪は帰着し、それに殺される被害者が善悪を問われることはおかしくありませんか?つまり、自殺というのは原因による殺人という考え、及び人間は本来自ら命を絶たないという点を認め、それらを踏まえて自殺は否定されるべきである。というのが私の意見です。
自分の思ったように解釈を進めており、また、確証を持たせる検証を何も行っておらず、しかも抽象的かつ空想的な稚拙な考えかもしれません。しかし、私なりに意見を出してみることで誰かの考えに良い意味で影響を与えられる可能性もあると信じてコメントさせてもらいました。長文になってしまい申し訳ないのですが私の考えに対してどのような意見があるのか知りたいので返信お待ちしております。
本ページのタイトルは「自殺はなぜ悪なのか」ですが、この問いは、裏返すと「生きることはなぜ善なのか」でもあります。そして、後者の問いで問題となるのは、必ずしも自殺に限定されないことに注意してください。
不可抗力で命を落とす場合はともかく、回避できる原因で人が死ぬ時、私たちは「こうすれば、命を救うことができた」といったことを後になってよく言います。しかし、そうした主張は、「人はできるだけ生き続けるべきだ」という価値観を自明の前提としています。
私がこのページで問題としていることは、多くの人が疑うことすらしないその自明の前提の根拠です。自殺には原因があって、回避可能という主張では、本ページが提起する問いに答えたことにはなりません。
昆虫を含む様々な生物の中には同種の生命体の多数を生きながらえさせるために自らの個の命を投げ捨てたり、傷ついた他の個体を癒そうとする行動をとったりするようです。理性のない(と言っていいのかは分かりませんが)昆虫などがこういった行動を取るのは遺伝子レベルで同種の生命を助け、種全体の繁栄に寄与するようにプログラミングされているように感じます。
人間もこれと同じで、傷つき倒れている人がいれば助けたいという欲求が生まれやすく、また死のうとする他者についても、それは止めなければならないという感情が生まれるのかと思います。その遺伝子のプログラミングによる本能について反応し、言葉として顕在化した結果の一つが、自殺は悪である、とか命や生きることは素晴らしい、という考え方なのかもしれないと考えました。
ですので、これは単に生命としての本能を自殺は悪であるという表現にすり替えてあるだけで、自殺は倫理的な悪ではなく、結果の複雑さを度外視して、単純なその種の個体数が減るという繁栄の観点から見た損失だということだと思いました。
この損失が悪か否かということについては、人類など滅亡したほうが良いと思っている者には善であるし、人類は素晴らしく今後も繁栄していくべきだと考えるものにとっては悪であると思います。
自殺は人類を憎むものにとっては善であり、人類を愛する者にとっては悪である、という結論を考えました。
高齢者の自殺について。高齢者は信仰心が高い(=信心深い。主に仏教)と言われています。しかし、小さいころに当人の親や祖父母、あるいは寺の住職から「自殺をしてはいけない」、「命を粗末にするのは良くない」と繰り返し言われていたはず、かつ若い世代に「自殺をしてはいけない」と日ごろ言っているはずの信仰心の高い高齢者が、最近は介護心中(夫婦や兄弟・姉妹の2人)などで自殺する事例が多く起きています。信仰心が高い人は自殺をしないとは言い切れない事例です。これに関してどう思いますか?また、夏場以降に若い女性の自殺が増加しているにもかかわらず、自殺防止を呼び掛ける啓発CMが思っているほどTVで流れていません。また、仏教系の団体が「自殺の増加に大変強い懸念を抱いている」というメッセージも聞きません。これは自殺防止の観点で言うと「社会全体に危機意識が薄い」と言う意味で問題であると思います。誰かが公の場で「自殺をするのをやめましょう」と声高に今すぐ言うべきです。
仏教は、キリスト教とは異なり、自殺を明確に禁止していません。女性の自殺が増えたのは、コロナ禍で打撃を受けているサービス産業の担い手に女性が多いことが原因とされています。不況は自殺数を増やすことが経験的に知られており、重要なことは、啓発活動よりも、経済を成長させることです。
先ほどの投稿の前半に書いた高齢者の介護心中についてはどのように思われますか?
高齢者の自殺に関しては信仰心や信心は高い・低いが特別関係ない、が結論でしょうか?
老人性うつ病が原因の1つとよく言われます。
生活支援のために特に体の不自由な高齢者への金銭支給は必要と思います。
個人的には「金銭的に豊かになれば自殺は防げる」という単純な理屈が成立しにくい社会環境になっていると感じていますが、大人の場合は金銭が生死に影響されると思いますが、子供の場合は個人的な金銭問題が原因(大金を失う、あるいは突然大金の支払いが生じたといったこと)で自殺することがほぼありえない(学業や人間関係が原因の自殺が多い)ため、相談窓口の拡充が必要と思います。学校教育においては自殺防止啓発は一定頻度は必要と思います。
もしお金があるなら、介護を施設に委託することもできるでしょうが、それができないなら、大きな負担を抱えることになります。もちろん、自殺は経済的動機だけで起きるわけではありません。学校のいじめのようなスケープゴーティングで起きることもあります。これを防ぐために必要なことは、転校の自由やネットにおける忘れられる権利などです。行政は啓発活動をやりたがりますが、電通のような事業者が儲かるだけで、あまり効果は期待できません。
著名人の自殺後の後追い自殺をなくす方法として報道形式を変える方法があります。WHO指針は自殺報道に関して厳密な抑制基準を設けています。海外の人は「日本はこのWHO指針を守っていない」と嘆きます。例えばニュースを見ていて著名人が自宅、または滞在先のホテルで急逝した際に、ニュース文中で仔細に触れず病死の可能性が現時点でやや低い場合(ニュース文中に「ベッド(またはふとん)の上であおむけに横になったまま意識がない状態で見つかった」で、首を絞められた痕跡がなく、毒薬を飲んだ痕跡もないならば病死の可能性が高く、文末の方に「病院・警察によると病死とみられる可能性が高い」と記載するはず。この状況ではない現場状況から自殺の可能性が一定数あり、死因を記載したくない場合が後述の番号が出る。浴槽の中で意識不明の状態で見つかった場合は、首を絞められた痕跡がなく、切り傷もなければ入浴中に心不全になった。または一酸化炭素中毒の可能性と書かれるので自殺ではない)は、「いのちの電話」の番号を出しますが、これは「自殺をした可能性が高い」と言っているようなものです。かえって出さない方がいいです。病死であればこれは出しません。
著名人が自宅か滞在先のホテルで死亡したというニュースとして取り上げる際に、死因に関係なく単純に「自宅(ホテル)で亡くなられた」ではいけないのでしょうか?こう感じる理由に、著名人で長年闘病していた人が自宅で病没(当人の希望で「自宅で生涯を終えたい」という申し出があった時)して家族・主治医に看取られた場合は、当たり前ですがちゃんと報道でも「病死」として認定されます。