自殺はなぜ悪なのか
「自殺は悪だ」が、私たちの常識である。多くの常識がそうであるように、この常識も、根拠が問われることなく信じられている。はたして、私たちは、自殺が悪であることを根拠付けることができるだろうか。哲学的にこの問題を考えたい。[1]

1. 不公平な多数決
生き続けることを選んでいる私たちが、いくら「生きることはすばらしいことだ」「自殺などもってのほかだ」と言っても、それは、オウム真理教の信者が「オウム真理教を信じることはすばらしいことだ」「脱会などもってのほかだ」と言う場合と同様に、トートロジカルで説得力がない。オウム真理教の信者は、まさにそう思っているからこそ教団に残っているのであり、「脱会は悪か」に対する答えは、尋ねる前からわかっている。教団脱会の是非を問う時、脱会を拒んで、教団を賞賛する信者の話だけでなく、脱会した元信者の話も聞かなければ、公平とは言いがたい。この方法は、しかしながら、自殺、すなわちこの世から脱退することの是非を判断する時には使えない。自殺経験者が「自殺はすばらしい」「自殺したおかげで、これまでの苦しい重荷から逃れることができた」などと反論することはできない。自殺の是非の決定は、反対する野党議員を全て議場から追放して行う多数決のようなもので、公平とは言いがたい。
もっとも、まだ自殺していないが、自殺したいと思っている人なら、話ができる状態で存在している。しかし、今私が問題にしているのは、自殺は悪か否かという規範のレベルの問題であって、自殺したいかどうかという欲望のレベルの問題ではない。もし、自殺に伴う苦痛よりも、生き延びて味わう苦痛の方がはるかに大きいのならば、自殺したいと思うのは自然なことである。だが、自殺したいから自殺してもよいと判断することには論理的な飛躍がある。したいことがしてはいけないことだということはよくある。規範は欲望と必ずしも一致しないし、必ずしも一致しないからこそ規範は規範なのである。多くの自殺志願者は、一方で自殺したいと思いながらも、他方で自殺は良くないことだと考えて、決断までに悩むものなのだ。
規範は、社会の多数派によって、そして多数派に有利なように形成される。生きている人間の集団の中では、当然生きていることに価値が置かれる。オウム真理教の信者が教祖の説教によって洗脳されているように、私たちは、幼い頃から「命の尊さ」を教え込まれている。オウムの信者にとって脱会がタブーであるように、私たちにとって自殺はタブーである。教団の内部で信者が脱退を呼びかければ、リンチの憂き目に会うように、私たちが「自殺は悪ではない」と言えば、社会的制裁を受ける。このため「自殺をしてはいけない」という規範は、自明な真理として受け入れられる。
自殺は、常に悪とされてきた。神風特攻隊の志願者を募集した大日本帝国の軍人たちは、一見自殺を奨励していたようにも見えるが、彼らは「帝国臣民全員が玉砕することがないように、戦争に勝たなければならない」と考えていたわけで、多数の生命を維持するために少数の生命を犠牲にしたと解釈できる。問題は、なぜ生命には一般に価値があるのかということである。
2. 善悪の基準は何か
生命に価値があるのか否か、自殺が悪か否かを論じる前に、そもそも善悪という価値は何によって決まるのかを考えてみよう。私たち生命体は、個人レベルであれ、社会レベルであれ、ネゲントロピーとしてのシステムであり、そしてすべての価値は私(たち)のネゲントロピーへの貢献によって決定される。私たちは、富や名声や権力といった低エントロピー資源を欲望するが、それらが価値を持つのは、それらが私(たち)のシステムのエントロピーを縮減する限りにおいてである。ものさしが長さの基準であるように、私たちのネゲントロピーは私たちの価値の基準である。
自殺は悪かと問うことは、私たちの生命に価値があるのかと問うことと同じである。そして私たちはここで困難にぶつかる。ちょうどものさしが自分自身の長さを測ることができないように、価値基準は価値基準自身の価値を決めることはできない。メートルの基準となる長さをメートル原器と言い、今日、光が真空中で1/299792458秒間に進む距離と定義されている。こう定義すると、「メートル原器の長さは、ちょうど1メートルだ」などと言っても、それは同語反復(トートロジー)に過ぎない。同様に「生命には価値がある」という命題は「生き延びるという目的にとって生き延びることは価値がある」という意味であり、トートロジーである。
3. 閉ざされたトートロジーのループ
「自殺は悪だ」とするどのような説明も、最終的にはこのトートロジーのループを超えるものではない。生活に疲れて自殺しようとする母子家庭の母親に対して、「あなたが死んだら、子供たちの将来はどうなるの」と断念を促す時、この説得者は、子供という生命の存在が善であることを前提している。つまり、「生命は善である。ゆえに生命は善である」というトートロジーを繰り返しているのである。
トートロジーのループから抜け出すために、神のような超越的存在を想定し、「命は神から預かったものだから、自分勝手に捨ててはいけない」と説く人もいるかもしれない。しかし、ここでも同じような問題が起きてくる。神が全ての価値の基準であるとするならば、この価値基準自身の価値を保証するものは何なのかという問題である。神がいくら自分を絶対化しても、神という基準自体を否定すれば、神の全ての教えは無効になってしまう。

石原慎太郎が、戦争放棄を放棄するには、憲法を改正するよりも破棄しろと言ったことがある。日本国憲法は、自らを最高法規と規定し、憲法を改正するには、衆参両議院での2/3以上の賛成と国民投票での1/2以上の賛成が必要と定めている。もし、日本国憲法を最高法規として認め、それに従うなら、面倒な国会対策や世論操作が必要になる。しかし、クーデターを起こして憲法それ自体を否定するならば、憲法第98条に記されている最高法規の条項は、たんなる紙の上にあるインクのしみになってしまう。
「自殺は悪だ」という命題は、生きている人間にとって分析的に真であるが、トートロジーのループの外部に何も根拠を持たない。もし自殺してしまえば、自分の命とともに、自殺は悪か否かという問題も、善悪の彼岸に消えてしまう。重さとは、引力という物体間の相互関係であって、物体の総体には重さがないように、価値とは、目的に対する有用性という生の間の相互関係であって、生の総体には価値がない。
もし、誰かが「自殺したい」と言い出すなら、私は、あらゆる手段を尽くして、その人に断念するように説得するだろう。しかし、それは、私が生きることを選んでいる人間だからであって、それ以上の理由はない。
4. 議論(1)安楽死は認めるべきか
関連トピックとして、システム論フォーラムの「安楽死について」での議論を転載します。
永井さんは人類の究極目的は生きることだと、なにかの記事で読んだので、気になったので聞いて見ますが、安楽死について永井さんはどう考えているのでしょうか?
私は容認派です。というのも、確か永井さんは価値とは低エントロピーのことだとまた何かの記事で見ましたが、私自身は価値とは単にそれが自分及び人類を幸福にさせるものか不幸にさせるものかどうかという考えだからです。永井さんはシステムの存続に価値を見出しているようですが、私は単に幸福に価値を見出しています。最もこれは永井さんの説を否定させるものではありません。幸福であるためにはまず生きていることが必要条件だからです。死んだら幸福も不幸も価値も何もありません。
というわけで、私はそういう価値観を持っていますので、不幸であり続けるシステムが存続することを善いことだと思いません。ですので、他に解決策が何もない場合、安楽死は認められるべきものです。
あと、これも聞きたいのですが、意識を持ち、不幸な感情を強く持ち、だがシステムを存続させる意味においては達成している、そんなようなものがいたとしたら、永井さんはそれに対してどういう評価を下しますか?
例えば人類を未曾有の危機が襲って、生きることに対して極めて貪欲な人意外は全員自殺してしまったとか、生きていくだけでも辛い環境とか、そういうような状況などです。人類には多様性がありますし、割に合わない行為をする人は見渡せば大勢います。だから私はどんなに不幸な状況が続こうと、そういった割に合わない行為をする人がかならず、例え生きること自体が苦痛であるような世界になったとしても生きようとする人がいて、生き延び、文明は続いていく、つまりシステムは存続し続けるのではないかと前から思っているのですが。
あくまで理論上のものですが、そういうシステムがあった場合、永井さんはそんなにも頑張ってシステムを存続させて素晴らしいと思うのかそれとも不幸なのに生き続けるなんて馬鹿みたいだと思うのか聞いてみたいです。それとも特になんの感想もありませんか。
生命は、その誕生以来、自己保存が自己目的的にプログラムされていますが、重点は全体の保存に向けられており、部分の保存は、その手段として位置付けられています。例えば、多細胞生物では、癌化した細胞を取り除くなど、個体の自己保存のためにアポトーシス(apoptosis)と呼ばれる細胞の死が実行されます。全体の存続のために部分を犠牲にするという現象は、個体よりも上位の集団でも見られることがあります。戦時中の日本が特攻隊を奨励したのはその例の一つです。もちろん、現在の日本は、このような個体単位のアポトーシスを認めませんが、矯正不可能な殺人鬼を死刑にするといったことなら今でもやっていますし、これは癌化した細胞の除去に喩えることができます。
安楽死も、もしもそれを資源の浪費を防ぐという目的で行うなら、個体単位のアポトーシスと呼ぶことができるでしょう。その極端な例は、ナチス・ドイツが治癒不能な病人や身体障害者に対して組織的に行った「安楽死」です。現在安楽死を認めている国は、それとは別の理由で、すなわち自己決定権の尊重という観点から安楽死を容認しています。但し、大義名分と主観的な理由が何であれ、安楽死の容認は、結果的にはアポトーシスと同じような効果をもたらします。

日本は、安楽死を原則として認めていませんが、以下の判決に見られるように、厳しい条件付きで、安楽死の違法性を棄却しています。
いわゆる安楽死を認めるべきか否かについては、論議の存するところであるが、それはなんといつても、人為的に至尊なるべき人命を絶つのであるから、つぎのような厳しい要件のもとにのみ、これを是認しうるにとどまるであろう。
- 病者が現代医学の知識と技術からみて不治の病に冒され、しかもその死が目前に迫つていること、
- 病者の苦痛が甚しく、何人も真にこれを見るに忍びない程度のものなること、
- もつぱら病者の死苦の緩和の目的でなされたこと、
- 病者の意識がなお明瞭であつて意思を表明できる場合には、本人の真摯な嘱託又は承諾のあること、
- 医師の手によることを本則とし、これにより得ない場合には医師によりえない首肯するに足る特別な事情があること、
- その方法が倫理的にも妥当なものとして認容しうるものなること。
これらの要件がすべて充されるのでなければ、安楽死としてその行為の違法性までも否定しうるものではないと解すべきであろう。[3]
秋刀魚刺身さんは、私の意見を聞いているので、それに対しても答えなければいけませんね。現在の日本のような豊かな社会では、少数の生命を犠牲にしなければ、全体の生命が維持できないという極限状況はめったにないと想定することができます。そのような社会では、安楽死を安易に認めることによる生命資源の浪費の方をむしろ懸念するべきです。私は自由主義者として、個人の自由意思は最大限に尊重されるべきであるという考えを持っていますが、人は不完全な判断能力しか持たず、間違った判断で後悔することが多いということ、一度死んでしまえば元に戻すことが不可能であることを考えるならば、安楽死を含めた自殺行為に関する自由意思の尊重に対しては慎重にならざるをえません。安楽死を全面否定するつもりはありませんが、名古屋高等裁判所が提示したような厳格な条件を課すことが必要と考えます。
永井俊哉 さんが書きました:
生命は、その誕生以来、自己保存が自己目的的にプログラムされていますが、重点は全体の保存に向けられており、部分の保存は、その手段として位置付けられています。例えば、多細胞生物では、癌化した細胞を取り除くなど、個体の自己保存のためにアポトーシス(apoptosis)と呼ばれる細胞の死が実行されます。全体の存続のために部分を犠牲にするという現象は、個体よりも上位の集団でも見られることがあります。戦時中の日本が特攻隊を奨励したのはその例の一つです。もちろん、現在の日本は、このような個体単位のアポトーシスを認めませんが、矯正不可能な殺人鬼を死刑にするといったことなら今でもやっていますし、これは癌化した細胞の除去に喩えることができます。
これはつまり永井さんとしての意見では無く、生命システムにそれがプログラムとして自然淘汰によって組み込まれている以上、生命システムの存続が目的だと言っているわけで、つまり永井さんではなく生物として、そのような意見になる、及びならざるを得ないということでしょうか?永井さん特有の意見というより、極めて現象的な人という生命システムとしてかくあるべきだという理論に聞こえるのですが。つまり極限的には単なる自然現象である生命に自己保存が自己目的的にプログラムされているのだから人もそれに従うべきだと、率直にいえば自然淘汰によって獲得した生きたいという本能や感情(それが無い人は死ぬので遺伝子を残せない)に従えと、つまり生きたいというのは本能だから従えという感情論とたいして変らない主張に思えるのですが。
永井俊哉 さんが書きました:
安楽死も、もしもそれを資源の浪費を防ぐという目的で行うなら、個体単位のアポトーシスと呼ぶことができるでしょう。その極端な例は、ナチス・ドイツが治癒不能な病人や身体障害者に対して組織的に行った「安楽死」です。現在安楽死を認めている国は、それとは別の理由で、すなわち自己決定権の尊重という観点から安楽死を容認しています。但し、大義名分と主観的な理由が何であれ、安楽死の容認は、結果的にはアポトーシスと同じような効果をもたらします。
結果的にはアポトーシスと同じような効果をもたらす・・・ということであれば、永井さんは安楽死を否定はしないと捉えていいのですか?アポトーシスは生命システムの存続に貢献する行動ですから。
永井俊哉 さんが書きました:
秋刀魚刺身さんは、私の意見を聞いているので、それに対しても答えなければいけませんね。現在の日本のような豊かな社会では、少数の生命を犠牲にしなければ、全体の生命が維持できないという極限状況はめったにないと想定することができます。そのような社会では、安楽死を安易に認めることによる生命資源の浪費の方をむしろ懸念するべきです。私は自由主義者として、個人の自由意思は最大限に尊重されるべきであるという考えを持っていますが、人は不完全な判断能力しか持たず、間違った判断で後悔することが多いということ、一度死んでしまえば元に戻すことが不可能であることを考えるならば、安楽死を含めた自殺行為に関する自由意思の尊重に対しては慎重にならざるをえません。安楽死を全面否定するつもりはありませんが、名古屋高等裁判所が提示したような厳格な条件を課すことが必要と考えます。
と思ったら、今現在の日本としては厳格な判断が必要という意見なんですね。理由は生命資源の浪費ですか。生命資源の定義はどういったものですか?定義によってはそれによって安楽死していい人としてはいけない人に分かれてしまうように思えるのですが、例えば大学教授と一般人では大学教授のほうが社会に対する貢献率が高いので(あくまで傾向としてです)教授は死んじゃだめだけど一般人はひとりやふたり死んでもいくらでも替えが効くので安楽死してもいいですよとか。そういった世界を肯定できてしまうと思うのですが。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
これはつまり永井さんとしての意見では無く、生命システムにそれがプログラムとして自然淘汰によって組み込まれている以上、生命システムの存続が目的だと言っているわけで、つまり永井さんではなく生物として、そのような意見になる、及びならざるを得ないということでしょうか?
ここは倫理学フォーラムだから、倫理学の基本的な話、所謂メタ倫理学的議論から始めましょう。存在と当為、事実と価値は区別されるべきであり、前者から後者を無批判に導出することはできません。私の投稿の前半(最後のパラグラフを除く部分)はたんに事実を記述しただけで、どうするべきかに関する私の意見ではありません。一番目と二番目のパラグラフの文章は、生命が自己保存するようにプログラムされているという事実と安楽死を選ぶ個体が存在するという事実は矛盾するものではないということ示すために書いただけで、それが望ましいことだとは書いていません。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
例えば大学教授と一般人では大学教授のほうが社会に対する貢献率が高いので(あくまで傾向としてです)教授は死んじゃだめだけど一般人はひとりやふたり死んでもいくらでも替えが効くので安楽死してもいいですよとか。そういった世界を肯定できてしまうと思うのですが。
ナチス・ドイツの安楽死はそうした優生学的な思想に基づいて行われました。優生学的思想の根本的な問題は、「優れている」とか「劣っている」といった私たちの価値判断は必ずしも正しくないというところにあります。私たちの社会システムが、すべての生命を形式的には平等に扱い、多様性を肯定するのは、人間の認識能力が有限であるがゆえに理にかなったことなのです。今日の世界において、ナチス・ドイツを典型とする全体主義の多くは淘汰され、人権と多様性を尊重する国が繁栄していることからも、生命を形式的に平等に扱う戦略が生存戦略としても正しいと判断できます。
なお、私たちの社会システムは、生命を形式的に平等に扱っても、実質的な平等までは保証していません。車を運転中に不注意から人をはねて殺した場合、被害者が金持ちでもホームレスでも、刑事裁判では同じ自動車運転過失致死傷罪が適用されますが、民事裁判では、被害者の年収によって損害賠償の額は大幅に異なってきます。生命の価値が形式的には平等に扱われても、実質的には平等に扱われないのは、変化適応と環境適応という二つの生存戦略の結果だと解釈することができます。
永井俊哉 さんが書きました:
ここは倫理学フォーラムだから、倫理学の基本的な話、所謂メタ倫理学的議論から始めましょう。
面白そうだからトピックを立ててみたのですが、私にはすこしレベルが高かったようです。所謂メタ倫理学的議論とはなんですか?
永井俊哉 さんが書きました:
ナチス・ドイツの安楽死はそうした優生学的な思想に基づいて行われました。優生学的思想の根本的な問題は、「優れている」とか「劣っている」といった私たちの価値判断は必ずしも正しくないというところにあります。私たちの社会システムが、すべての生命を形式的には平等に扱い、多様性を肯定するのは、人間の認識能力が有限であるがゆえに理にかなったことなのです。今日の世界において、ナチス・ドイツを典型とする全体主義の多くは淘汰され、人権と多様性を尊重する国が繁栄していることからも、生命を形式的に平等に扱う戦略が生存戦略としても正しいと判断できます。
なお、私たちの社会システムは、生命を形式的に平等に扱っても、実質的な平等までは保証していません。車を運転中に不注意から人をはねて殺した場合、被害者が金持ちでもホームレスでも、刑事裁判では同じ自動車運転過失致死傷罪が適用されますが、民事裁判では、被害者の年収によって損害賠償の額は大幅に異なってきます。生命の価値が形式的には平等に扱われても、実質的には平等に扱われないのは、変化適応と環境適応という二つの生存戦略の結果だと解釈することができます。
この主張の要旨は多様性を肯定することが人類にとって重要なことであり、多様性を肯定することはすべての個を平等に扱うことであるからして、形式的には平等であるとすべき、ということでいいのでしょうか?
となると、この問題は多様性をどこまで尊重するかという線引きの話に帰着することになります。例えば癌細胞はDNAの変異などを理由として本来の細胞に求められる役割(多細胞生物の生存)を無視して無制限に増殖、結果その生物を死滅させることもありますが、無制限に多様性を尊重するとこういった癌細胞まで生存させるべきだという話になってしまいます。まあ、これは極論ですが。
人類は明らかに貢献している固体と明らかに貢献していない固体だけに分かれているのではなく、多様性を持ち、その度合いはグラデーション的に分かれています。その線引きを永井さんは、名古屋高等裁判所が提示したような厳格な条件であるべきだと思っている、ということでよろしいのでしょうか?ちょっと厳しすぎやしませんかね、あまり根拠になるとも思えませんが、毎年3万人が自殺する国(年間死亡者数は毎年120万人程度ですから、40人にひとりは自殺することになります。)で、最後くらい楽に死なせてやりたいと思うのですが。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
面白そうだからトピックを立ててみたのですが、私にはすこしレベルが高かったようです。所謂メタ倫理学的議論とはなんですか?
メタ倫理学に関しては、「自然主義的誤謬とは何か」以下のページを、「“である”から“べし”を導くことができない」というヒュームの法則に関しては、「ヒュームの懐疑論に対する懐疑論」をご覧ください。もとより、ヒューム本人は「“である”から“べし”を導くことができない」と断言しているわけではなく、「理由が与えられることが必要だ」と言っているだけです。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
となると、この問題は多様性をどこまで尊重するかという線引きの話に帰着することになります。
多様性をどこまで認めるかは、社会によってまちまちであり、どれが適切かは、自然淘汰によって結論が出ます。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
毎年3万人が自殺する国(年間死亡者数は毎年120万人程度ですから、40人にひとりは自殺することになります。)で、最後くらい楽に死なせてやりたいと思うのですが。
日本の自殺率が、諸外国と比べて高いことを勘案するなら、日本が取り組むべき課題は、自殺志願者が楽に死ぬことができる方法を見つけることではなくて、自殺志願者を減らす方法を見つけることです。自殺要因の半分を占めるのは、健康問題ですが、経済問題や人間関係など、それ以外の要因もあります。そうした自殺者を減らすために政府がするべきことは、「あなたもGKB47宣言!」といった意味不明の啓蒙活動をすることではなくて、デフレを解消することと社会の流動性を高めることでしょう。
永井俊哉 さんが書きました:
日本の自殺率が、諸外国と比べて高いことを勘案するなら、日本が取り組むべき課題は、自殺志願者が楽に死ぬことができる方法を見つけることではなくて、自殺志願者を減らす方法を見つけることです。自殺要因の半分を占めるのは、健康問題ですが、経済問題や人間関係など、それ以外の要因もあります。そうした自殺者を減らすために政府がするべきことは、「あなたもGKB47宣言!」といった意味不明の啓蒙活動をすることではなくて、デフレを解消することと社会の流動性を高めることでしょう。
それもそうですね、ちょっと書いている間に考えがぶれてきてしまったようです。
永井俊哉 さんが書きました:
「理由が与えられることが必要だ」
の一文を見て、私がどうして幸福に価値を見出したのか理由があることを書いておこうと思いましたので、一応書きます。
えーとですね、私は小学生のころ、教師か親かなにか本だったかもしれませんが、命の重さはどんな生物でも同じという文を見聞きしたことがあります。それを子供ごころに素直に受け取って、命の重さはみな等しい、だって同じく生きてるんだから!と信じていました。でも、ある時疑問に感じます。命の価値が等しいなら、なぜ人間は他の動物の命を奪って食事をしていいのか、という素朴なものです。でもそれを考えるほど頭が発達してなかったので、とりあえず食事はおいしいから別にいいやみたいなことを考えていました。しかし小学校高学年ぐらいになってくると、けっこう難しいことを考えるようになりました。その時は命の重さは等しいならば、俺が動物を食べようと逆に動物に食べられようと同じことじゃん!!だって命は等しいのだから。人間だけが一方的に動物を食べても、等しいなら問題ない!!と思って結論付けました。だけどしばらくして、今度は動物は植物より劣っている諸悪の根源なのではないかと思い始めました。他の命を奪うことでしか生きていけない動物は植物より劣っているのではないか、命の数を減らして命を保つ動物より、植物のほうがはるかにマシだと思うようになり、こんなに動物だらけの地球は嫌な世の中だなぁ、と思ったものです。
しかし、ある時ドラマやアニメや漫画などで「運命の出会い」だとか「私たちが出会ったのは必然だったんだ」みたいな文句を見たことがきっかけで、運命や必然、偶然について考えるようになりました。そしてこの世界は物理法則に支配されているのだから、どんな偶然もありえなく、全ては過去からの流れの中の必然であり、偶然というのは単にそれが予測できていないだけだという世界観を持つようになりました。そしてその中で、自分という個もまたただ自然法則に支配されたものであり、道端の植物も自然法則に支配された精巧な機械であり、自分自身もまたそうだという考えを膨らませました。
そして中学に入って、あることに気づきました、所詮ただの現象である精巧なロボットのような生命に、価値など何もない。例えば生物学というものがあるように、それには学術的に価値はあるが、世間一般が信じているような価値など生命には一切存在しない。なぜならばただの自然現象であるから。そう、命の価値は0だ。皆等しく0なのだ。「命の重さはどんな生物でも同じ」という文を勝手に命には価値があるという前提を付けて考えるのは間違いだったのだ。命の重さはどんな生物でも同じ、ただしどれも等しく0であると結論付けて、悩むことはなくなりました。
しかし多くの人は命の価値を疑わない、「生きてるだけで丸儲け」という言葉があるように、みんな生きてる価値を疑わない。しかし、よく考えれば命を粗末にしている人はいるではないか、そう自殺者です。そして自殺者に共通するのは唯ひとつみんな死にたいほど「不幸」であったということです。自らの命に価値があると思わない、むしろ-の価値を有すると思う人が自殺するのです。そしてその価値とは「不幸」という感情であり、生命としての命などまるで関係ないことなのです。生物の生存欲求に逆らうほど自殺者はただの生物学的な生命、精巧な機械とはまったく違う、関連性の無い-の価値を持ち続けていた、このことから、不幸=-の価値であり、そこから類推して幸福=+の価値を有すると結論付けたのです。
だから、価値とは単にそれが自分及び人類を幸福にさせるものか不幸にさせるものかどうかなのです。
そして具体的に私のいう幸福とは何かといいますと、クオリアです。クオリアとは質感のこと、例えば赤いろのあの赤い感じとかよく説明されますが、この質感は感情にも適応できます。なぜクオリアなどというものがあるのかさえ分からない、この正体がまるで掴めない、脳内で勝手に発生するクオリアがありとあらゆる価値の源泉です。感情もまたクオリアです。そしてこのクオリアにはクオリアごとに価値が存在し、それは+から-まであります。例えば痛みのクオリアは代表的な-のクオリアであり、笑いのクオリアは代表的な+のクオリアです。
自殺者は強い-のクオリアを浴び続けたために、そしてそれを改善できないために、相対的に幸福になるために死ぬのです。死ねばクオリアは発生しないと考えられるからです。クオリアが発生しないと考えられるのはクオリアは少なくとも脳から発生しているものだということは確かで、生命活動の停止は脳の停止を意味し、それはクオリアをまったくもたない生まれてくる前の0に戻るということだからです。
つまり自殺というのは当事者にとっては-から0に価値を増大させる生産的な活動であり、特にその中でも安楽死は死ぬ前にできるもっとも生産的な活動と言えるのです。それは未来の生産の可能性を全て放棄することですが、自殺する者というのは未来に希望が持てないと自己で判断したから死ぬのであって、やはり少なくともその当事者にとって、その時点では安楽死は生産的活動なのです。
問題は、安楽死を実行した場合と、安楽死を実行せず、ほかの要因(例えば老衰など)で死亡したときに、どちがらより総合的に+であったかです。つまり、安楽死が認められるか認められないかは、単に未来が明るいか暗いかという問題に帰着します。
・・・書いてある間に意見が変わってきました。私は収穫加速の法則により未来は明るいと考えているので、安楽死は現時点ではやはり厳正な審査のもと行われるべきだと思われます。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
私は小学生のころ、教師か親かなにか本だったかもしれませんが、命の重さはどんな生物でも同じという文を見聞きしたことがあります。それを子供ごころに素直に受け取って、命の重さはみな等しい、だって同じく生きてるんだから!と信じていました。でも、ある時疑問に感じます。命の価値が等しいなら、なぜ人間は他の動物の命を奪って食事をしていいのか、という素朴なものです。
生命の価値を論じる時、その価値が誰にとっての価値なのかということを考える必要があります。こうしている間にも世界ではおびただしい数の生命が消えていますが、それは、普通の人にとっては、ニュースになる価値すらない出来事です。生命は、その生命自身にとってかけがえのないもの、代替不可能なものですが、すべての生命が他の生命にとってそういう存在とは限りません。家族とか、親友とか、恋人とか、代替不可能な存在である自分と代替不可能な関係を結んでいる存在は、代替不可能な存在ですが、関係が薄くなるにしたがって、どうでもよい存在になります。
では、なぜ人は、自分の生命が代替不可能なものであるにもかかわらず、それを自ら奪うことがあるのかと言えば、自殺したくなるような苦痛もまた代替不可能だからです。病魔に襲われて感じる苦痛を他者に一時的に肩代わりしてもらうことで免れるということはできません。同情による部分的な移転ならあるかもしれませんが、基本的に苦痛を感じるのは当の本人なのです。幸福を感じている人は世界にいくらでもいますが、自分が感じている幸福にはそれらと代替不可能な意義が自分にはあります。だから、赤の他人の幸福には無関心な人も、自分の幸福は必死に守ろうとします。同じことは、マイナスの幸福である不幸に関しても言えます。赤の他人の不幸には無関心な人も、自分の不幸からは必死に逃れようとするし、場合によっては、周囲の悲しみを無視してまで自殺という極端な手段を取ろとうすることもあるということです。
そんなことは分かっています。
いや、わかっていないと思いますよ。わかっているなら、「Re: 多様性の肯定と自殺の防止」のようなことは書かないはずだから。
永井俊哉 さんが書きました:
いや、わかっていないと思いますよ。わかっているなら、「Re: 多様性の肯定と自殺の防止」のようなことは書かないはずだから。
「分かっている」の定義にすれ違いがあったようですね。私は
永井俊哉 さんが書きました:
生命は、その生命自身にとってかけがえのないもの、代替不可能なものですが、すべての生命が他の生命にとってそういう存在とは限りません。家族とか、親友とか、恋人とか、代替不可能な存在である自分と代替不可能な関係を結んでいる存在は、代替不可能な存在ですが、関係が薄くなるにしたがって、どうでもよい存在になります。
では、なぜ人は、自分の生命が代替不可能なものであるにもかかわらず、それを自ら奪うことがあるのかと言えば、自殺したくなるような苦痛もまた代替不可能だからです。
や
永井俊哉 さんが書きました:
赤の他人の不幸には無関心な人も、自分の不幸からは必死に逃れようとするし、場合によっては、周囲の悲しみを無視してまで自殺という極端な手段を取ろとうすることもあるということです。
というものを「事実」として分かっていると言ったつもりでした。前に永井さんは単に事実を述べただけだと「なぜ生命は形式的に平等に扱われなければならないのか」で返答したことがあったので、これもまた単に事実を述べられたものだと解釈しました。何か違う意図があったのですか?
書き忘れがあることに気づいたので追記します。「Re: 多様性の肯定と自殺の防止」で、ただの自然現象に価値は発生しないと書きましたが、この「自然現象」という言葉の範囲は限定的なもので、クオリアを含んでいません。「クオリアも脳という器官から発生する自然現象だ、よって全てに価値など無い」という論法が「自然現象」の範囲を極限まで拡大すると成立できてしまいます。クオリアは唯の自然現象とは違う、特異な性質を持っています。それを単なる物理的な事象と同一に扱うことは論理的にも正しくないように思われますので(将来クオリアも物理的に解明されることもあるかもしれませんが、あくまで現時点としては同一に扱うべきでは無い)勘違いする人がいないように追記しておきます。
私が「わかっていない」と言ったのは、価値は目的従属的で、目的が主観的である以上、主観的であり、客観的な属性と同一視することはできないということです。だから、他人の幸福が、私にとってマイナスの価値しか持たないということもあるのです。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
具体的に私のいう幸福とは何かといいますと、クオリアです。クオリアとは質感のこと、例えば赤いろのあの赤い感じとかよく説明されますが、この質感は感情にも適応できます。なぜクオリアなどというものがあるのかさえ分からない、この正体がまるで掴めない、脳内で勝手に発生するクオリアがありとあらゆる価値の源泉です。感情もまたクオリアです。そしてこのクオリアにはクオリアごとに価値が存在し、それは+から-まであります。例えば痛みのクオリアは代表的な-のクオリアであり、笑いのクオリアは代表的な+のクオリアです。
もしも「幸福」でもって主観的な感覚のことを考えているのであるなら、それと価値とを同一視することはできません。「幸福とは何か」で書いたことですが、求めている物か快楽だけなら、脳を身体から切り離し、それに快楽刺激を送り続ければそれでよいということになります。
永井俊哉 さんが書きました:
私が「わかっていない」と言ったのは、価値は目的従属的で、目的が主観的である以上、主観的であり、客観的な属性と同一視することはできないということです。だから、他人の幸福が、私にとってマイナスの価値しか持たないということもあるのです。
いやそれも分かっています。私が聞きたいのは、永井さんがそれを私に主張することで私にどういった意見を言いたいのかが分からないと言っているのです。価値が主観的というのは同意しますが、それで何か問題があるのでしょうか?価値は主観的というのはある人がいて、その人が価値があると思うものに、その人にとっての価値があるというだけの話でしょう。それはただの事実です。だからどうしたのですか?この事実は、あくまで「主観」であって、その人がその人の脳で判断したことであって、必ずしも正しいとは限らないでしょうに。価値があるのはあくまでその人がそう思っているからその人にとっては価値があるとその人が思っているというだけでしょう。
価値を客観的な属性と同一視することはできないというならば、例えば永井さんの目から見て、つまり永井さんの主観から見て、明らかに間違った価値基準をもっている人が居たとき、永井さんは何を根拠にしてその人を説得するというのですか?相手は間違っていると、客観的、つまり公正で論理的な属性を付けることができないとしたら、永井さんは自らの主観にもとづいてその人を説得するということですか?それは価値は主観的であるのだから、個人によって価値は決められるべきで、客観的に決めてはいけないという永井さんがおそらく言いたいことに、そういう主張に矛盾をきたさないのですか?だって永井さんが説得に成功したら相手の主観を永井さんの主観に変えたのだから、個人個人が主観によって価値を決めたとは最早いえないではないですか。
永井俊哉 さんが書きました:
もしも「幸福」でもって主観的な感覚のことを考えているのであるなら、それと価値とを同一視することはできません。「幸福とは何か」で書いたことですが、求めている物か快楽だけなら、脳を身体から切り離し、それに快楽刺激を送り続ければそれでよいということになります。
私自身それが理想だと思っているのですが・・・もちろんすぐに崩壊するシステムだとか、酷い副作用があるだとかでは話になりません。快楽刺激を送り続ければそれでよいというのも、人には慣れというものがありますのでそう上手くいくとは思いませんし。
そういった、どこかで聞いた名前ですが、幸福最大化装置というのを作るのが私の夢のひとつです。最も、私はそんなに頭がよい訳ではないし(IQはちょうど100くらいです)いやIQだけで頭の良さが計れるという訳ではありませんが、それでも幸福最大化装置を製作するとしたら、かなりの脳科学の発展を待たねばなりませんし、人類全員がその機械を使っても、進化は続けなければなりません。つまり、幸福最大化装置を作ってもそれに安住しては幸福最大化装置というシステムをより進歩、発展させること、保全さえできないので、その辺をなんとかせねばなりませんし、問題が山積みで余り期待はしていないのですが。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
いやそれも分かっています。私が聞きたいのは、永井さんがそれを私に主張することで私にどういった意見を言いたいのかが分からないと言っているのです。価値が主観的というのは同意しますが、それで何か問題があるのでしょうか?
私の問題提起が理解されていないようなので、もう少し詳しく書きましょう。「Re: 多様性の肯定と自殺の防止」に「不幸=-の価値であり、そこから類推して幸福=+の価値を有する」、「価値とは単にそれが自分及び人類を幸福にさせるものか不幸にさせるものかどうかなのです」とありますが、そうすると、「他人の幸福が、私にとってマイナスの価値しか持たない」場合、同じものに価値があり、かつ価値がないという矛盾が発生しますが、この矛盾をどのように回避するつもりなのかと聞いたつもりでしたが、いかがでしょうか。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
私自身それが理想だと思っているのですが・・・もちろんすぐに崩壊するシステムだとか、酷い副作用があるだとかでは話になりません。快楽刺激を送り続ければそれでよいというのも、人には慣れというものがありますのでそう上手くいくとは思いませんし。
慣れを防ぐには、いったん不幸にしておいてからハッピーエンドにするという方法があります。
「戦略論―間接的アプローチ」で書いたことですが、カルトはこの方法で信者を幸福と思わせます(周囲からの情報を遮断し、信者を不幸のどん底に陥れ、その後、救いの糸を垂れることで、信者に主観的な幸福感と盲信を持たせるというのがカルトの手口です)。カルトが実践している洗脳が秋刀魚刺身さんにとっての理想なのですか。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
そういった、どこかで聞いた名前ですが、幸福最大化装置というのを作るのが私の夢のひとつです。最も、私はそんなに頭がよい訳ではないし(IQはちょうど100くらいです)いやIQだけで頭の良さが計れるという訳ではありませんが、それでも幸福最大化装置を製作するとしたら、かなりの脳科学の発展を待たねばなりませんし、人類全員がその機械を使っても、進化は続けなければなりません。つまり、幸福最大化装置を作ってもそれに安住しては幸福最大化装置というシステムをより進歩、発展させること、保全さえできないので、その辺をなんとかせねばなりませんし、問題が山積みで余り期待はしていないのですが。
秋刀魚刺身さんは、自分で幸福価値説の問題点を指摘していますね。事実誤認に基づいて低い目標を立て、その実現に甘んじるといったことも、それが最高の幸福と主観的に感じてさえいれば、それで善いのですか。
永井俊哉 さんが書きました:
私の問題提起が理解されていないようなので、もう少し詳しく書きましょう。「Re: 多様性の肯定と自殺の防止」に「不幸=-の価値であり、そこから類推して幸福=+の価値を有する」、「価値とは単にそれが自分及び人類を幸福にさせるものか不幸にさせるものかどうかなのです」とありますが、そうすると、「他人の幸福が、私にとってマイナスの価値しか持たない」場合、同じものに価値があり、かつ価値がないという矛盾が発生しますが、この矛盾をどのように回避するつもりなのかと聞いたつもりでしたが、いかがでしょうか。
それはそもそも矛盾しているのですか?同じものに価値があり、かつ価値がないということにはなりません。クオリアが価値の源泉と書きましたが、クオリアは脳内で発生するものだから、クオリアは個人個人が持つものです。クオリアは人の脳ごとに独立しています。もちろん周囲の人が笑っていたら自分もおかしくなってくるだとか(よくお笑い番組で笑い声が入りますよね)周囲の人が涙を流していたら自分も悲しくなってくるようなこともありますが、それも結局は周囲の環境という入力が脳に届き、結果として脳内に似たようなクオリアが発生しただけで、他人のクオリアが流れ込んできた訳ではなく、あたらしく個人の脳から発生したものです。価値の源泉が個人ごとに独立したものである以上、他人と自分で幸、不幸が違っても矛盾は発生しません。それはそもそも違うものだからです。
永井俊哉 さんが書きました:
慣れを防ぐには、いったん不幸にしておいてからハッピーエンドにするという方法があります。「戦略論―間接的アプローチ」で書いたことですが、カルトはこの方法で信者を幸福と思わせます(周囲からの情報を遮断し、信者を不幸のどん底に陥れ、その後、救いの糸を垂れることで、信者に主観的な幸福感と盲信を持たせるというのがカルトの手口です)。カルトが実践している洗脳が秋刀魚刺身さんにとっての理想なのですか。
私はそんな行動を取るとは言っていません。不幸のどん底に陥れ、その後、救いの糸を垂れるというのであれば、単に幸、不幸に緩急を付けただけで、最初に不幸にしたのならば、それは総合的に+になると思えません。最初に-にし、次に0に戻しただけで、結局0です。最初の不幸が後の幸福によって帳消しされただけで、+になっていません。
永井俊哉 さんが書きました:
秋刀魚刺身さんは、自分で幸福価値説の問題点を指摘していますね。事実誤認に基づいて低い目標を立て、その実現に甘んじるといったことも、それが最高の幸福と主観的に感じてさえいれば、それで善いのですか。
事実誤認とはどういったことでしょうか?事実に反することを書いたつもりはありません。私の理想と、それが現実になることの難しさを書いただけです。現実になることの難しさは説明しなくても分かるくらいに事実でしょう。となると私の理想が事実誤認ということですか?理想という思想が事実として誤認とはどういうことでしょうか。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
不幸のどん底に陥れ、その後、救いの糸を垂れるというのであれば、単に幸、不幸に緩急を付けただけで、最初に不幸にしたのならば、それは総合的に+になると思えません。最初に-にし、次に0に戻しただけで、結局0です。最初の不幸が後の幸福によって帳消しされただけで、+になっていません。
客観的に見ればそうですが、主観的にはそうではありません。客観的に見てプラスの価値があるとは思えないようなものに主観的に大きなプラスの価値を見出す場合でも、それでよしとするのかと聞いているのです。秋刀魚刺身さんは「価値は主観的」と言っていたのに、いつの間に価値を客観的に見るようになったのでしょうか。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
それはそもそも矛盾しているのですか?同じものに価値があり、かつ価値がないということにはなりません。クオリアが価値の源泉と書きましたが、クオリアは脳内で発生するものだから、クオリアは個人個人が持つものです。クオリアは人の脳ごとに独立しています。
ここで矛盾とは何かを考えましょう。「価値は主観的であり、かつ主観的ではない」といった命題は矛盾と言われます。もしも秋刀魚刺身さんの脳内で起きた事象を時間配列によって分割し、2013年5月23日(木) 22:35 には「価値は主観的である」と考え、2013年5月24日(金) 20:26 には「価値は主観的ではない」と考えていたというように振り分ければ、矛盾ではないということはできます。ところが、言語は本質的に普遍的であり、超時間的、超人称的な同一性が要求されます。言葉の意味は、話者によって、また時間によって微妙に変わるものですが、それはあくまでも事実であって、それが事実だからこそ、超時間的、超人称的な同一性が規範として要求されるのです。
人が自己にかけがいのない価値を見出し、自己への近さに応じた価値を感じるのは、自然な事実であって、規範ではありません。人が全く見知らぬ他人に自己と同じかけがえのなさを規範として認めなければならないのは、言語が持つ普遍性のゆえです。規範は、自然な価値感情に基づきながらも、その規範性は言語の普遍性に基づいています。完全な権利が人間にしか認められないのも、人間という範囲が言語を用いたコミュニケーションの限界だからです。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
事実誤認とはどういったことでしょうか?
カルトが信者を洗脳する時、信者を出家させて周囲からの情報を遮断するか、あるいは、周囲の情報が信用できないということを吹き込みます。北朝鮮も、外部から一般人民に入る情報を遮断し、自分たちの国が地上の楽園であると信じ込ませます。外部からの情報を遮断し、間違った事実を教え込めば、低い目標の達成があたかも高い目標の達成であるかのように思わせることができるということです。
「不幸=-の価値であり、そこから類推して幸福=+の価値を有する」という主張は、幸福という主観的な感情が間違った事実認識の結果起きている場合を想定していません。もしも苦痛それ自体が悪ならば、身体を苦痛を感じないように手術すればよいということになります。しかし、そのような手術が可能であるとしても、私は決して自分に実行しようとは思いません。そんな手術を受けたら、体に異変が生じても、それを苦痛という形で教えてくれないから、私は、何の対策も取ることがないでしょうし、結果として、幸福を感じたまま突然死ぬということになるでしょう。苦痛は不快であり、不幸の原因ですが、それでもあえて苦痛という警報システムが必要であるのは、幸福よりも正しい事実認識に基づいて生き延びる方により大きな価値を認めているからです。
永井俊哉 さんが書きました:
客観的に見ればそうですが、主観的にはそうではありません。客観的に見てプラスの価値があるとは思えないようなものに主観的に大きなプラスの価値を見出す場合でも、それでよしとするのかと聞いているのです。秋刀魚刺身さんは「価値は主観的」と言っていたのに、いつの間に価値を客観的に見るようになったのでしょうか。
価値が主観的と書いたのは
秋刀魚刺身 さんが書きました:
価値が主観的というのは同意しますが、それで何か問題があるのでしょうか?価値は主観的というのはある人がいて、その人が価値があると思うものに、その人にとっての価値があるというだけの話でしょう。それはただの事実です。だからどうしたのですか?この事実は、あくまで「主観」であって、その人がその人の脳で判断したことであって、必ずしも正しいとは限らないでしょうに。価値があるのはあくまでその人がそう思っているからその人にとっては価値があるとその人が思っているというだけでしょう。
ですが、「それはただの事実です。だからどうしたのですか?この事実は、あくまで「主観」であって、その人がその人の脳で判断したことであって、必ずしも正しいとは限らないでしょうに。価値があるのはあくまでその人がそう思っているからその人にとっては価値があるとその人が思っているというだけでしょう。」という文から、価値は価値でも価値の定義が違うということが分かりませんか。私は事実としてその人が思っているならばその人にとってはそうであると思っているという事実を述べただけです。そしてそれが間違っている可能性を指摘しました。ここで言っているのは「多くの人が信じている間違っている可能性のある価値」のことであり、私がいう+のクオリアの価値とは定義が違います。文脈から読んでくれると思って説明しなかったのですが・・・。
永井俊哉 さんが書きました:
ここで矛盾とは何かを考えましょう。「価値は主観的であり、かつ主観的ではない」といった命題は矛盾と言われます。もしも秋刀魚刺身さんの脳内で起きた事象を時間配列によって分割し、2013年5月23日(木) 22:35 には「価値は主観的である」と考え、2013年5月24日(金) 20:26 には「価値は主観的ではない」と考えていたというように振り分ければ、矛盾ではないということはできます。ところが、言語は本質的に普遍的であり、超時間的、超人称的な同一性が要求されます。言葉の意味は、話者によって、また時間によって微妙に変わるものですが、それはあくまでも事実であって、それが事実だからこそ、超時間的、超人称的な同一性が規範として要求されるのです。
時間で分けるまでもなく、そもそも「価値」の定義が違うので問題になりません。同じ価値について話していたら矛盾していることになりますが、違う価値について話しているのなら矛盾にはなりません。
永井俊哉 さんが書きました:
人が自己にかけがいのない価値を見出し、自己への近さに応じた価値を感じるのは、自然な事実であって、規範ではありません。人が全く見知らぬ他人に自己と同じかけがえのなさを規範として認めなければならないのは、言語が持つ普遍性のゆえです。規範は、自然な価値感情に基づきながらも、その規範性は言語の普遍性に基づいています。完全な権利が人間にしか認められないのも、人間という範囲が言語を用いたコミュニケーションの限界だからです。
難解すぎて私には読解できません。あと、「人間という範囲」という語を見て思い出しましたが、私は「価値とは単にそれが自分及び人類を幸福にさせるものか不幸にさせるものかどうか」というのを最初に書きましたが、これは嘘です。本当は人類以外にも幸福というクオリアが発生させられるのなら、それにも価値があります。例えば猿なんかは人間に近しいから似たクオリアを持つかもしれません。なぜ嘘を付いたのかというと、こういったあまりに突飛すぎる思想を展開すると大概の人は拒絶反応を起こしてそもそも議論に参加してくれないからです。永井さんは議論に参加してくれるので嬉しいです。
永井俊哉 さんが書きました:
幸福という主観的な感情が間違った事実認識の結果起きている場合を想定していません。
永井さんはもしかしてクリスマスの時、子供にサンタクロースは居るんだよという嘘を付かないタイプの人間なのでしょうか。実際にはサンタクロースは居ませんから間違った事実認識となりますが、大抵の子供は目を光らせて楽しそうにします。必要悪というのがありますが、必要嘘というのがあっても良いと私は考えています。もちろん、それを行使するときは重大な嘘であればあるほど、嘘をついていいかを精査をせねばなりませんが。でも、それは精査の問題になるのですから、+のクオリアに対する反論にはなりません。
永井俊哉 さんが書きました:
もしも苦痛それ自体が悪ならば、身体を苦痛を感じないように手術すればよいということになります。しかし、そのような手術が可能であるとしても、私は決して自分に実行しようとは思いません。そんな手術を受けたら、体に異変が生じても、それを苦痛という形で教えてくれないから、私は、何の対策も取ることがないでしょうし、結果として、幸福を感じたまま突然死ぬということになるでしょう。苦痛は不快であり、不幸の原因ですが、それでもあえて苦痛という警報システムが必要であるのは、幸福よりも正しい事実認識に基づいて生き延びる方により大きな価値を認めているからです。
苦痛という警報システムが必要であるのは単に自然淘汰によってそういったものしか生き残れなかっただけです。つまりDNAにそういった遺伝形質を持つものが生き残っただけです。自然淘汰もただの自然現象ですから特に価値もありません。あなたはDNAに刻まれた生存本能やこのような警報システムなどをなぜ幸福を犠牲にしてでも保とうと思うのですか。DNAに刻まれた生物としての行動を意味なく正当化するのですか。それは生物としては正しいが理性としては正しくありません。理性を持つものならそんなものに惑わされてはいけません。もっとも、私もそのような「苦痛を失くすだけ」の手術は行いたくありませんが、私がしたいのは苦痛を失くすだけだというほど低い目標ではなく、実現可能な最大の幸福を手に入れることだからです。だから、そんな手術ははっきりいって中途半端で時間の無駄です。
ところで、「Re: 多様性の肯定と自殺の防止」は無駄に冗長で説明が雑なので書き直すことにします。
ヒトは自然淘汰により生存欲求を先天的に持つ。しかし、その生存欲求に逆らうものがいる。この者には生存欲求を越えるほどの理由があると思われる。そして不幸なものが自殺するというのは常識である。つまり他者の意識など覗くことができないがそれが常識として、誰も疑問に思っていない以上、不幸なものが自殺するというのは多くのヒトが同意する事項であり、演繹ではないがデータ量の多さから帰納として不幸なものが自殺するのは事実であると推測される。
不幸というのは即ち感情であり、感情というのは即ちクオリアであるから、不幸はクオリアである。クオリアは単独ではなく複数あるので、このことからクオリアの中には不幸を発生させる種類のクオリアがあると分かる。不幸を発生させるクオリアを-のクオリアと定義する。
上記から不幸=-のクオリアなのだから、そこから推論して幸福=+のクオリアとなる。この世に幸福を感じるヒトがいるのだから+のクオリアは実在し、クオリアには+から-まで個々のクオリアごとに価値を有するということができる。
そしてただの自然現象である生命に価値など存在しないのだから、すべての価値は生命という自然現象が発生し、さらにそこから例えばヒトのようにクオリアが発生することによってのみ、価値が発生することになる。価値の主体はクオリアであり、クオリアが全ての価値の源泉である。
一般的に言って、「価値とは幸福である」という幸福価値説は、次の二つのうちのどれかです。
- 「幸福」でもって、主観的に快楽を感じている状態を意味する場合→誤謬
- 「幸福」でもって、客観的に価値のある状態を意味する場合→トートロジー
1番目が間違いであることはこれまで指摘しました。幸福が2番目の意味なら、「価値とは幸福である」という命題は「価値とは価値である」という同語反復と同じで、倫理学的に何も言っていないに等しい。だから、「価値とは幸福である」という命題は、どちらの場合でも、「価値とは何か」という倫理学的問いに対する答えにはならないのです。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
価値は価値でも価値の定義が違うということが分かりませんか。私は事実としてその人が思っているならばその人にとってはそうであると思っているという事実を述べただけです。そしてそれが間違っている可能性を指摘しました。ここで言っているのは「多くの人が信じている間違っている可能性のある価値」のことであり、私がいう+のクオリアの価値とは定義が違います。文脈から読んでくれると思って説明しなかったのですが・・・。
要するに、1番目ではなくて、2番目ということですね。その場合、「価値の主体はクオリアであり、クオリアが全ての価値の源泉である」という命題は、「価値の主体は価値であり、価値が全ての価値の源泉である」という命題と同じで、内容のない空虚な文になります。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
永井さんはもしかしてクリスマスの時、子供にサンタクロースは居るんだよという嘘を付かないタイプの人間なのでしょうか。実際にはサンタクロースは居ませんから間違った事実認識となりますが、大抵の子供は目を光らせて楽しそうにします。必要悪というのがありますが、必要嘘というのがあっても良いと私は考えています。もちろん、それを行使するときは重大な嘘であればあるほど、嘘をついていいかを精査をせねばなりませんが。でも、それは精査の問題になるのですから、+のクオリアに対する反論にはなりません。
なぜ一般に嘘をついてはいけないのか、どういう嘘なら例外として許容できるのか、そういう問題を解決するのが倫理学の役割です。あなたのクオリア論は、その問題を解決するための基準を提供しているのですか。そうでないなら、「嘘をつくことはマイナスのクオリアだから悪だが、この嘘はプラスのクオリアだから許容できる」といった主張は、「嘘をつくことは悪だから悪だが、この嘘は許容できるから許容できる」という以上のことは何も言っていないことになります。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
あなたはDNAに刻まれた生存本能やこのような警報システムなどをなぜ幸福を犠牲にしてでも保とうと思うのですか。DNAに刻まれた生物としての行動を意味なく正当化するのですか。それは生物としては正しいが理性としては正しくありません。理性を持つものならそんなものに惑わされてはいけません。
この文では、価値基準として「理性」が新たに出てきました。あなたの規範の基準はクオリアではなくて理性なのですか。それともクオリアと理性を同一視しているのですか。クオリアは感情だと言っているから、多分そうではないと思いますが。
倫理の基礎を理性に求めた有名な哲学者がいます。イマニュエル・カントです。カントの「あなたの意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」という定言命法は、メタ倫理学の言葉を使って言うなら、義務の判定基準を普遍化可能性に求めています。自分の命はかけがえのないものであり、他人に殺されたくないというのは自然な欲望です。そして、そのような欲望に基づいて、「人を殺してはいけない」という規範に同意すると、その規範の普遍性により、自分が他人を殺したくなっても、その行為を欲望に逆らって阻止しなければならなくなります。「難解すぎて私には読解できません」とのことですが、「規範は、自然な価値感情に基づきながらも、その規範性は言語の普遍性に基づいています」と言ったのはそういうことです。
「殺してはいけない」という規範は、動物には必ずしも適用されません。現に私たちは、牛とか豚とか鶏とかを殺してその肉を食べています。「自分の利益のためには、他の人間を殺すことも厭わない」と公言する人は、その言語を理解する他の人から制裁を受けますが、人が「自分の空腹を満たすためには牛を殺すことも厭わない」と公言しても牛から制裁を受けることはありません。だから、言語の普遍化可能性に基づいた規範の適用範囲は、人間ということになります。「完全な権利が人間にしか認められないのも、人間という範囲が言語を用いたコミュニケーションの限界だからです」というのはそういうことです。
永井俊哉 さんが書きました:
要するに、1番目ではなくて、2番目ということですね。その場合、「価値の主体はクオリアであり、クオリアが全ての価値の源泉である」という命題は、「価値の主体は価値であり、価値が全ての価値の源泉である」という命題と同じで、内容のない空虚な文になります。
トートロジーだという事は気づいています。私は唯、幸福や不幸という人によってあまりに定義がまちまちで、論理の妨げとなるものを+のクオリアや-のクオリアという風に新たに定義をすることで論理的思考を妨げる定義の違いを失くし、意味を一元化するためにこのトートロジーを用いただけです。そういった意味で唯の空虚な文とは違います。
永井俊哉 さんが書きました:
なぜ一般に嘘をついてはいけないのか、どういう嘘なら例外として許容できるのか、そういう問題を解決するのが倫理学の役割です。あなたのクオリア論は、その問題を解決するための基準を提供しているのですか。そうでないなら、「嘘をつくことはマイナスのクオリアだから悪だが、この嘘はプラスのクオリアだから許容できる」といった主張は、「嘘をつくことは悪だから悪だが、この嘘は許容できるから許容できる」という以上のことは何も言っていないことになります。
私は安楽死は認められるべきかというトピックを立て、そこに参加しただけです。そして私は私の結論を「Re: 多様性の肯定と自殺の防止」の最後に、書きました。私がトピックを立てた理由は結論が出たことで既に喪失しています。それからも議論に参加しているのは永井さんから質問があるからですが、とうぜん、これは予期せぬことであり、私自信そんなところまで考えたものではありませんので、そんなに完成度の高い画期的な理論を求められても困ります。
永井俊哉 さんが書きました:
この文では、価値基準として「理性」が新たに出てきました。あなたの規範の基準はクオリアではなくて理性なのですか。それともクオリアと理性を同一視しているのですか。クオリアは感情だと言っているから、多分そうではないと思いますが。
価値基準として「理性」という語を出したのではありません。理性という語を出したのは永井さんに向けてより正しい理論を構築することを推進したかったからです。本質的にはただの現象的な生存欲求を意味なく正当化することをやめたほうが良いと書いたのです。文を読んでいますか?
永井俊哉 さんが書きました:
倫理の基礎を理性に求めた有名な哲学者がいます。イマニュエル・カントです。カントの「あなたの意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」という定言命法は、メタ倫理学の言葉を使って言うなら、義務の判定基準を普遍化可能性に求めています。自分の命はかけがえのないものであり、他人に殺されたくないというのは自然な欲望です。そして、そのような欲望に基づいて、「人を殺してはいけない」という規範に同意すると、その規範の普遍性により、自分が他人を殺したくなっても、その行為を欲望に逆らって阻止しなければならなくなります。「難解すぎて私には読解できません」とのことですが、「規範は、自然な価値感情に基づきながらも、その規範性は言語の普遍性に基づいています」と言ったのはそういうことです。
「殺してはいけない」という規範は、動物には必ずしも適用されません。現に私たちは、牛とか豚とか鶏とかを殺してその肉を食べています。「自分の利益のためには、他の人間を殺すことも厭わない」と公言する人は、その言語を理解する他の人から制裁を受けますが、人が「自分の空腹を満たすためには牛を殺すことも厭わない」と公言しても牛から制裁を受けることはありません。だから、言語の普遍化可能性に基づいた規範の適用範囲は、人間ということになります。「完全な権利が人間にしか認められないのも、人間という範囲が言語を用いたコミュニケーションの限界だからです」というのはそういうことです。
なるほど、良く理解できました。しかし、これは単に知という力を持つものが言語を行使して知が無いものより優位に立てるということしかいってないように思いますが。言語という武器を行使できるものとできないものが居て、とどのつまり言語を操るものが優位に立つというただの事実認識に過ぎないように感じます。しかし、わざわざ分かり易く書いて頂いてありがとうございました。
そろそろ議論を止めにしませんか、流れ的にこのまま平行線になりそうな気がするので。もちろん永井さん自身がこの議論は平行線ではなく、何か終着点を示す案があるならばそれにこしたことは無いので、永井さん自信も「あー、これは対立が深まるだけで不毛な争いになりそうだなあ・・・」などと感じていた場合のみ議論を終わらせることにしますが。どうでしょう。
秋刀魚刺身さんが納得されるまで議論が続くのは仕方ない事ではないのですか?
もし途中で議論を降りたら、秋刀魚刺身さんの自説を認めたと取られてしまいますよね。
それに不毛な議論だと仰いますが、傍から見てる限りだと永井先生は誠実に受け答えしつつ、秋刀魚刺身さんの矛盾を指摘して議論を発展させようとしている様に見えますよ。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
そろそろ議論を止めにしませんか、流れ的にこのまま平行線になりそうな気がするので。もちろん永井さん自身がこの議論は平行線ではなく、何か終着点を示す案があるならばそれにこしたことは無いので、永井さん自信も「あー、これは対立が深まるだけで不毛な争いになりそうだなあ・・・」などと感じていた場合のみ議論を終わらせることにしますが。どうでしょう。
秋刀魚刺身さんがこれ以上議論を望まないなら、止めましょう。実は、ここで書いたことは、過去に書いた同じような理論の繰り返しなので、私にとってはあまり生産的な活動ではありません。私にとっての「終着点」は本文で既に示されているし、将来的には書籍でもっとまとまった形でお示しできるかと思います。
まるこめのすけ さんが書きました:
秋刀魚刺身さんが納得されるまで議論が続くのは仕方ない事ではないのですか?もし途中で議論を降りたら、秋刀魚刺身さんの自説を認めたと取られてしまいますよね。
納得しなくても、議論が出尽くしたと感じたらそれで終わりでよいでしょう。論争で結論が出ることはめったになく、それよりもむしろ重要なことは、問題点を明確にし、問題意識を深めることだと思います。
永井俊哉 さんが書きました:
秋刀魚刺身 さんが書きました:
これはつまり永井さんとしての意見では無く、生命システムにそれがプログラムとして自然淘汰によって組み込まれている以上、生命システムの存続が目的だと言っているわけで、つまり永井さんではなく生物として、そのような意見になる、及びならざるを得ないということでしょうか?
ここは倫理学フォーラムだから、倫理学の基本的な話、所謂メタ倫理学的議論から始めましょう。存在と当為、事実と価値は区別されるべきであり、前者から後者を無批判に導出することはできません。私の投稿の前半(最後のパラグラフを除く部分)はたんに事実を記述しただけで、どうするべきかに関する私の意見ではありません。一番目と二番目のパラグラフの文章は、生命が自己保存するようにプログラムされているという事実と安楽死を選ぶ個体が存在するという事実は矛盾するものではないということ示すために書いただけで、それが望ましいことだとは書いていません。
ちょっと気になったことがあったので、横から失礼します。
いつか個体は死にますし、種も滅びますが、それどころでなく、地球は滅びて宇宙も縮爆して、生命はあとかたもなく消え去ると言われています。
なのになぜ、生命は自己保存しようとするのでしょうか?(存在・事実のあり方に関する疑問)
そして、人はそもそも、個体にせよ、種にせよ、生命一般にせよ、これを保存すべきなのでしょうか?(当為・価値に関する疑問)
特に当為に関する疑問を、秋刀魚刺身さんは発しているような気がしますが、それに対して永井さんは自分の意見を回答していないように思いました。
ちょっとニヒリスティックな発想を暗に含んだ疑問ですが、よろしくお願いします。
Kaname さんが書きました:
いつか個体は死にますし、種も滅びますが、それどころでなく、地球は滅びて宇宙も縮爆して、生命はあとかたもなく消え去ると言われています。
「宇宙の縮爆」とは何のことでしょうか。ビッグクランチ (Big Crunch) のことでしょうか。ビッグクランチは、現在の宇宙論では疑問視されています。宇宙と生命の未来に関しては様々な説があり、現時点では確定的なことは言えません。
Kaname さんが書きました:
なのになぜ、生命は自己保存しようとするのでしょうか?(存在・事実のあり方に関する疑問)そして、人はそもそも、個体にせよ、種にせよ、生命一般にせよ、これを保存すべきなのでしょうか?(当為・価値に関する疑問)特に当為に関する疑問を、秋刀魚刺身さんは発しているような気がしますが、それに対して永井さんは自分の意見を回答していないように思いました。
「存在と当為、事実と価値は区別されるべきであり、前者から後者を無批判に導出することはできない」ものの、批判的には導出できるというのが私の考えです。当為・価値に関する命題の妥当性は、目的に対する手段の有用性という事実命題の妥当性と等値できます。そして、目的-手段系列を遡ると、究極目的は生命の維持であることが判明します。これはあらゆる当為・価値の根拠である以上、究極目的にはいかなる根拠もありません。それは私たち自身の存在によって認めざるをえない事実です。
5. 議論(2)生きることにどのような意味があるのか
関連トピックとして、システム論フォーラムの「生きる意味について」での議論を転載します。
先ほど安楽死のトピックに書き込ませていただいた者ですが、新しくトピックを立てさせてください。
生命はいつかあとかたもなく消え去るのにもかかわらず、人は生を保存すべきなのか、という問いは、生が苦しみに満ちていて、いっそ死んで楽になりたい、と感じるほどになったときに、特に深刻なものとして問われるように思います。個体レベルでも、より広いレベルでもそうだと思います。
そのような、生が苦しみで耐えられないと思われるときに、自殺を思いとどまらせるものは、様々に言い表せるかもしれませんが、その一つが、この、生きる意味という言葉で表現されるもののように思います。
なにか、苦しみに耐えて生き延びることに、表面的な快苦とは別の、なんらかの意味が見いだせたとしたら、生きてもいいかもしれない、そう考えることがあると思います。
しかし、そのようなとき、いつか生あるものすべてが消え去る、ということは、もし生の目的がなんらかの意味での保存にあるのみだとしたら、その、生の目的であったり意味を、無に帰してしまうもののようにも思えるのです。
おそらく生きる意味という漠然とした言葉で言い表せるのは、そのような、保存によって見出されるものだけではないでしょう。誰かと共に生きること自体に、意味を見い出す可能性もあるかもしれません。
しかし、改めて問うとしたら、生にまつわる様々な苦しみにもかかわらず、生を肯定できるような、それを媒介として生を肯定できるような概念があるとすれば、それを媒介として生を肯定できるようななんらかの経験や事実があるとすれば、それはなんなのか、と言うことを問いたいです。
おそらく、生きる意味のようななにかが生にあるとしたら、それは、生き抜くことのみでなく、死んでいくことも、肯定したり、それに納得したりできるのではないか、とも思うのです。
生に意味を見い出すとしたら、それは、生き抜くためだけではなく、よく生きるためだけでなく、よく死ぬため、納得して死ぬためだと思います。
そんな意味での生きる意味は、存在するのでしょうか。存在・非存在に関して、根拠も含めて意見をお聞きしたいと思います。
よろしくお願いします。
まず、本当に「生命はいつかあとかたもなく消え去る」と断言できるのかどうかという所から疑ってください。レイ・カーツワイルのように、生命全体どころか、個人レベルですら不老不死が可能であると考えている未来学者もいます。もちろん、それが可能かどうかはわかりませんが、生命というのはあらゆる手段を用いて生き続けようとするものです。
次に苦しみですが、苦しみとは生きるための警報ですから、苦しみを理由に生命の存在を否定するのはおかしいと思います。もちろん、自分の生に意味を見いだせなくなって、自殺する人もいますが、それは生が究極目的であることと矛盾しません。
ここでそもそも意味とは何かということを考えてください。私たちにとっての意味は、私たちの生によって規定されています。生全体が消滅すれば、意味を理解する意識も同時に消滅してしまいます。個人が自分の死に意味を見出す場合でも、それは全体の生との関連で意味が与えられるのであって、生全体が消滅してもなおその意味が意味を持ち続けることはないでしょう。
すいませんが、「安楽死について」トピックの質問をこちらに統合させてください。
そちらで僕が出した疑問は、
① なぜ、生命は将来の滅亡にもかかわらず、自己保存しようとするのか?(存在・事実のあり方に関する疑問)
② 人はそもそも、個体にせよ、種にせよ、生命一般にせよ、これを保存すべきなのか?(当為・価値に関する疑問)
でした。
永井俊哉 さんが書きました:
Kaname さんが書きました:
いつか個体は死にますし、種も滅びますが、それどころでなく、地球は滅びて宇宙も縮爆して、生命はあとかたもなく消え去ると言われています。
「宇宙の縮爆」とは何のことでしょうか。ビッグクランチ (Big Crunch) のことでしょうか。ビッグクランチは、現在の宇宙論では疑問視されています。宇宙と生命の未来に関しては様々な説があり、現時点では確定的なことは言えません。
はい、ビッグクランチのことです。確かに今調べてみたら、今は定説ではないようですね。
永井俊哉 さんが書きました:
まず、本当に「生命はいつかあとかたもなく消え去る」と断言できるのかどうかという所から疑ってください。レイ・カーツワイルのように、生命全体どころか、個人レベルですら不老不死が可能であると考えている未来学者もいます。もちろん、それが可能かどうかはわかりませんが、生命というのはあらゆる手段を用いて生き続けようとするものです。
ただ、永井さんも、生命がいつかあとかたもなく消え去る可能性を考えてみてください。その可能性はかなり高いように思われます。
以下に挙げるのも説ではありますが、地球の生命は常に脅威にさらされています。
① 核の脅威がある
② 三十万年に一回、直径十キロ級の小惑星が地球に衝突する
③ 地球の海は、約十億年後に消滅する
④ 五十億年から百億年後に、銀河系と、隣のアンドロメダ銀河が衝突して、一個の楕円銀河になる
⑤ ビッグクランチの可能性がある
もしこれらをクリアしたとしても、生物が絶滅しないということは、生命は永遠に未来永劫生き続けることになりますが、その発想は難しいように思われます。
物理的な破壊が生命の死だとすれば、個体レベルでの不老不死は、ありえないように思います。
レイ・カーツワイルは、どのようにそれが可能だと言っているのですか?
上のことを踏まえても、それは可能なのでしょうか?
永井俊哉 さんが書きました:
「存在と当為、事実と価値は区別されるべきであり、前者から後者を無批判に導出することはできない」ものの、批判的には導出できるというのが私の考えです。当為・価値に関する命題の妥当性は、目的に対する手段の有用性という事実命題の妥当性と等値できます。
目的に対する手段の有用性が、当為や価値を規定するということですが、
① なぜ、ある目的をある存在者が目指しているという事実が、まさにそれが、その存在者のなすべきことなのだと言えるのでしょうか。
② ある存在者がある目的を目指しているとして、その目的がなんであるのかを確定する規準はなんでしょうか。(これは次のコメントとも関連します。)
永井俊哉 さんが書きました:
目的-手段系列を遡ると、究極目的は生命の維持であることが判明します。これはあらゆる当為・価値の根拠である以上、究極目的にはいかなる根拠もありません。それは私たち自身の存在によって認めざるをえない事実です。
究極目的に目的や根拠がないと言うことはよいのですが、しかし、その究極目的が、あらゆる当為と価値の根拠が、生命の維持だということの根拠はなんですか。
反証してみたいとも思うので、どのようにして、それが、私たち自身の存在によって確認されるのか、教えてください。
それに、生の究極目的が保存と延長だとしたら、それがもし成し遂げられなかったとしたら、それがどこかで途絶えたとしたら、それまでの生はすべて無駄になることにはなりませんか。それとも、そのときどきに生の延長という目的を達成しているのだから、それはそれでよいのでしょうか。
永井俊哉 さんが書きました:
次に苦しみですが、苦しみとは生きるための警報ですから、苦しみを理由に生命の存在を否定するのはおかしいと思います。もちろん、自分の生に意味を見いだせなくなって、自殺する人もいますが、それは生が究極目的であることと矛盾しません。
苦しみを理由に自殺する人は、それがおかしかろうが、事実いるように見えるのに対して、生をとにかく延長することが当為である場合、生の意味の不在の意識から自殺することは、当為にも目的にも反しているように思います。生を意図的に終わらせる行為の存在は、私たち自身の存在における、事実です。
それに関しては、個体レベルの死によって種の存続を守っている、というふうにつじつまを合わせるのでしょうか。
これらをどう説明しますか。
永井俊哉 さんが書きました:
ここでそもそも意味とは何かということを考えてください。私たちにとっての意味は、私たちの生によって規定されています。生全体が消滅すれば、意味を理解する意識も同時に消滅してしまいます。個人が自分の死に意味を見出す場合でも、それは全体の生との関連で意味が与えられるのであって、生全体が消滅してもなおその意味が意味を持ち続けることはないでしょう。
もし仮にそうだったとしても、僕自身にひきつけて言うならば、僕は、不可能に思われる自己保存よりもむしろ、意味のあることのために生きて死んでいきたいと思います。
しかし、これは、意味を理解する意識を、超越的存在に認めることで回避できます。もちろんこれは一つの宗教的で象徴的な話ですが、宗教的な根源はそもそも厳密には現実に事実として妥当しない物語を通して接近しうるものであり、最終的に言葉が尽きるところで出会われるものではないかとも思います。
意味という概念は、生の保存よりもよっぱどそれに接近するための道しるべとして有効なのではないかと思います。
Kaname さんが書きました:
永井さんも、生命がいつかあとかたもなく消え去る可能性を考えてみてください。その可能性はかなり高いように思われます。
可能性があるからこそ、その可能性をなくすための努力が当為としての意味を持つのです。そもそも不老不死が無条件で保証されているなら、当為が意識されることはないでしょう。
Kaname さんが書きました:
物理的な破壊が生命の死だとすれば、個体レベルでの不老不死は、ありえないように思います。レイ・カーツワイルは、どのようにそれが可能だと言っているのですか?
レイ・カーツワイルに関しては、リンク先の本『ポスト・ヒューマン誕生』を読んでください。簡単にまとめると、2045年ごろまでには、マインド・アップローディングが可能になる、つまり私たちはタンパク質の肉体を捨てて、意識をコンピュータ上に移転させることが可能になるという予測です。コンピュータが古くなっても、マインド・アップローディングを繰り返すことで、永遠に生きることができるというわけです。マインド・アップローディングが可能になれば、私たちは、今のたんぱく質の肉体が住めないような場所にも住むことができます。つまり広大な宇宙のいたるところに住むことができるようになるということです。だから、私たちは、地球が消滅しても生き続けることが可能というのです。
Kaname さんが書きました:
究極目的に目的や根拠がないと言うことはよいのですが、しかし、その究極目的が、あらゆる当為と価値の根拠が、生命の維持だということの根拠はなんですか。
私が『現象学的に根拠を問う』で提示した目的論的還元が、究極目的を見出すための方法です。簡単に言えば、私たちが持っている価値や当為の根拠を目的手段系列を逆方向にたどることで、究極目的へと還元する方法です。究極目的には根拠がない以上、それを選ぶ必然性はありません。しかし、生きるという究極目的を選ばない人は、存在しなくなるのだから、私たちの議論の相手として想定する必要はありません。「自殺は善である」という価値観は、その価値観を持っている人の自殺により消滅し、「自殺は悪である」という価値観だけが生き延びて、社会を支配するという次第です。
永井俊哉 さんが書きました:
可能性があるからこそ、その可能性をなくすための努力が当為としての意味を持つのです。そもそも不老不死が無条件で保証されているなら、当為が意識されることはないでしょう。
生命は、それが消え去ったときには、その目的を達せなかったことによって、目的を志向するひとつの試みとしては失敗ということになるので、それが不可能である可能性が逆にそれを可能にすることを要請している、という主張でよかったでしょうか。
感想としては、それが保存であれなんであれ、全体としての究極目的があり、その中に自分の生の位置があり、個体は、その、いわゆる計画の中で、一分子として生きて死んでいくのだ、という世界観は、自分の死にも、少なくとも、生が永生の達成に向かう物語の一部としての意味を与ええるという点で、ある意味人を安心させえると思いました。
僕は、事実を知りたいのと同時に、人が落ち着くことのできる知であったり、世界観を求めているという面があります。もちろん、「生の目的は自己保存にある」と言って不快になる人もいれば、「生の目的は自己保存以外にある」と言った方が不快になる人もいると思いますが、少なくとも僕は前者です。
なんだか人生相談のようですが、もしそうだとしたら、それ(僕が「生の保存が目的である」と聞いて不快になること)はなぜだと思いますか。それも、生を保存するという目的に奉仕する本能が、そうさせているのでしょうか。
永井俊哉 さんが書きました:
私が『現象学的に根拠を問う』で提示した目的論的還元が、究極目的を見出すための方法です。簡単に言えば、私たちが持っている価値や当為の根拠を目的手段系列を逆方向にたどることで、究極目的へと還元する方法です。究極目的には根拠がない以上、それを選ぶ必然性はありません。しかし、生きるという究極目的を選ばない人は、存在しなくなるのだから、私たちの議論の相手として想定する必要はありません。「自殺は善である」という価値観は、その価値観を持っている人の自殺により消滅し、「自殺は悪である」という価値観だけが生き延びて、社会を支配するという次第です。
価値や当為の根拠の目的論的還元によって現象学的に究極目的を問い、見出したものが生の保存だということで、「自殺は善である」という価値観を持った人は、その価値観自体が事実に反していると同時に、消滅に方向づけられていることによって、社会を支配する、生の保存を善とする正しい価値観が生き延び、目的に奉仕する、ということですね。
さしあたって、そう言われただけでは生の保存が究極目的だということが自分で確認できないので、『現象学的に根拠を問う』を読んでみたいと思います。ただ、僕はKindleを持っていないのです。もし紙媒体のものがあり、読む価値があるのならば、2000円ぐらいなら払えると思うので、もし入手の方法があれば教えてください。
ただ、もし、事実として生あるものが保存を究極目的としてすべての活動を行っていて、当為は事実上の目的に奉仕することであり、したがって保存が当為である、と言うとして、もしすべての活動が本当に保存に運命づけられているなら、そもそも当為を我々が意識する必要はないのではないでしょうか。というのも、意識しようがしまいが、我々は、我々の自由意志によってそうでない目的を志向するということができず、その、盲目的な生の保存欲求に従っているだけだとしたら、意識しても、それが自覚されたというだけで、同じことだからです。それとも、自覚することが、保存によりよく奉仕するのでしょうか。
ただそもそも、永井さんの立場は、自由意志によって保存以外のものを目指すことは、不可能だという立場に立っているように思いますが、そうですか。自由がなく、とにかく保存の衝動に従っているとしたら、当為はそもそも存在するでしょうか。また、仮に自由があり、当為があるとしたら、衝動に反して自由に行為するとき、それは、当為に反したことをする自由を行使することで、滅ぶという説明になるだけであって、むしろ、衝動に反したことをすることの中に当為があるという説明をするとしたら、それは間違っているのでしょうか。
そう考えると、自殺を善として選んだ人達は、保存の衝動に忠実に死んでいったのか、保存の衝動に反して死んでいったのか、と考えると、永井さんの立場としては、前者になるように思いますが、そうですか。
永井俊哉 さんが書きました:
レイ・カーツワイルに関しては、リンク先の本『ポスト・ヒューマン誕生』を読んでください。簡単にまとめると、2045年ごろまでには、マインド・アップローディングが可能になる、つまり私たちはタンパク質の肉体を捨てて、意識をコンピュータ上に移転させることが可能になるという予測です。コンピュータが古くなっても、マインド・アップローディングを繰り返すことで、永遠に生きることができるというわけです。マインド・アップローディングが可能になれば、私たちは、今のたんぱく質の肉体が住めないような場所にも住むことができます。つまり広大な宇宙のいたるところに住むことができるようになるということです。だから、私たちは、地球が消滅しても生き続けることが可能というのです。
レイ・カーツワイルに関しては、そのような説があるのですね。それは確かに、生の保存戦略としては有望な気がします。ただ、それを生命と呼べるかや、それが幸せなのかと言ったことに関しては、疑問ですが。永井さんは、幸せよりも保存が大事だとするという立場、もしくは、事実大事にしているのだという立場ですか。「幸せ」はあいまいすぎる表現なので、言い換えると、なにを犠牲にしても、とにかく生命を保存することが大事だという立場ですか。すべてのものごとの中で、一番に優先されるべきは、生の保存ですか。
Kaname さんが書きました:
なんだか人生相談のようですが、もしそうだとしたら、それ(僕が「生の保存が目的である」と聞いて不快になること)はなぜだと思いますか。それも、生を保存するという目的に奉仕する本能が、そうさせているのでしょうか。
生命が自己保存を目的としているからといって、その生命がそれを意識しているとは限りませんし、またその必要もありません。個人主義で、市場経済の国、米国が、なぜ全体主義のファシズムや共産主義との戦いに勝つことができたのか、その理由を考えてください。そこには、個人が全体の利益を意識していない方が、かえって全体の利益になるというパラドックスがあります。似たようなパラドックスに、有用性を無視した遊びもまた有用性に貢献するというものがあります。
Kaname さんが書きました:
さしあたって、そう言われただけでは生の保存が究極目的だということが自分で確認できないので、『現象学的に根拠を問う』を読んでみたいと思います。ただ、僕はKindleを持っていないのです。もし紙媒体のものがあり、読む価値があるのならば、2000円ぐらいなら払えると思うので、もし入手の方法があれば教えてください。
『現象学的に根拠を問う』は、Google Play Books で無料で読めます。「目的論的還元」に関しては、リンク先のページ以降に書かれています。
Kaname さんが書きました:
もし、事実として生あるものが保存を究極目的としてすべての活動を行っていて、当為は事実上の目的に奉仕することであり、したがって保存が当為である、と言うとして、もしすべての活動が本当に保存に運命づけられているなら、そもそも当為を我々が意識する必要はないのではないでしょうか。というのも、意識しようがしまいが、我々は、我々の自由意志によってそうでない目的を志向するということができず、その、盲目的な生の保存欲求に従っているだけだとしたら、意識しても、それが自覚されたというだけで、同じことだからです。それとも、自覚することが、保存によりよく奉仕するのでしょうか。
ただそもそも、永井さんの立場は、自由意志によって保存以外のものを目指すことは、不可能だという立場に立っているように思いますが、そうですか。自由がなく、とにかく保存の衝動に従っているとしたら、当為はそもそも存在するでしょうか。また、仮に自由があり、当為があるとしたら、衝動に反して自由に行為するとき、それは、当為に反したことをする自由を行使することで、滅ぶという説明になるだけであって、むしろ、衝動に反したことをすることの中に当為があるという説明をするとしたら、それは間違っているのでしょうか。
究極目的が自己保存であることが決定されていても、その目的を実現するための手段を選ぶ自由があります。有限な知的能力しか持たない私たちにとって、どの手段が最適かは不確定で、手段の選択を誤れば、身を滅ぼすことになります。だから、どの手段を選ぶかで人は悩むことになります。そして悩むほどの自由と知性があるからこそ、私たちには意識があるのです。
Kaname さんが書きました:
自殺を善として選んだ人達は、保存の衝動に忠実に死んでいったのか、保存の衝動に反して死んでいったのか、と考えると、永井さんの立場としては、前者になるように思いますが、そうですか。
ほとんどの場合、自殺は、個体単位で起きるアポトーシスとでも呼ぶべきもので、生命が、全体として自己保存を究極目的としているという命題と矛盾しません。もちろん、自己保存を否定するような自殺も理論的には考えられますが、そういう故障が起きることは確率的には低く、統計的には無視できる現象と言うことができます。
Kaname さんが書きました:
レイ・カーツワイルに関しては、そのような説があるのですね。それは確かに、生の保存戦略としては有望な気がします。ただ、それを生命と呼べるかや、それが幸せなのかと言ったことに関しては、疑問ですが。永井さんは、幸せよりも保存が大事だとするという立場、もしくは、事実大事にしているのだという立場ですか。
自己保存は幸せではないという人は、自己保存をしないことにより、「自己保存は幸せではない」という考え自体が自己保存されなくなります。幸せと考えている人は、マインドアップローディングであれ何であれ、あらゆる手段で生き延びようとするでしょう。その結果「自己保存は幸せだ」という考え自体が自己保存されるのです。
6. 議論(3)生きるとはどういうことなのか
関連トピックとして、システム論フォーラムの「生きるとは何か、生物とは何か、その定義」での議論を転載します。
生物の定義はあまりはっきりとしていないらしい。
代謝能力、自己複製能力、外界と自己を隔てる膜が必要だとか、散逸構造を持った開放系で遺伝子により進化を達成するだとか、色々言われているが、なんというかしっくり来ない。
というのも、結局のところこれらの定義は既存の生物を元に生物とは何かという定義をしているからなのではないかと思った。
既存の生物を見たら、どれも、代謝をしているし、自己を複製するし、細胞膜を持っている。だから生物とはそういった存在なのだと定義する。その方法自体は無難だが、それはどこまで行っても共通項の抜き出しであり、既存の生物という存在に対して定義することしか出来ない。しかし、それは既存の生物の定義であって生物そのものの定義では無い。既存の定義に当てはまらない生物が存在したらどうするのだろうか。現に、ウイルスなど、細胞膜を持たず、代謝をしないが、遺伝子を持っていて、他の生物の細胞を利用して増殖するだとか、生物的な振る舞いをするものだから、生物の括りに入れるかどうか未だに決着がついていないらしい。
それもこれも、生物の定義を目指すのでは無く、生物とされているものの共通項を定義としているからだ。これらは本末転倒である。生物と非生物の境界をしっかりと分けるために生物の定義をするのに、その生物の定義をするために生物の共通項を抜き出すのでは、その共通項を持った存在を識別するために生物の定義を使わなければならない。生物を定義するために生物の定義が必要なのである。つまるところ、代謝だとか自己複製だとか細胞膜だとかは生物の定義という名前を被った生物らしきものの定義である。
生物というのは、生きている物のことを指す。では、生きているとは一体どういうことなのかを考えるのが筋ではないだろうか、生きているとはどういうことなのかが分かれば、生物の定義はおのずと決定する。
では、生きているとはどういうことかを考えたが、生きていることの明確な定義はひとつしか思い浮かばなかった。すなわち、死んでいないことである。生きていることについていろいろと考えてみたのだが、明確に生きているとはどういうことかというものは見つからなかった。さまざまな生物を思い浮かべて、生きていることの特徴を掴もうとしたのだが、途中でこれでは上記の共通項の抜き出しと同じだと分かったのでやめた。生物は多種多様で、一口に生きているといってもその実態は様々であり、生きているというのがどういうことなのか理解するのは難しい。なので、死んでいないものが生物であるということをとっかかりに考えていくことにした。生きているものは死んでいないというのは、疑いようのない事実であるから。
では、死ぬとはどういう状態であろうかと考えた。そして、存在が消失することが死であると結論付けた。死んでいるものは生きていないのだから、生きているという存在の消失が死であると結論付けた。生という存在の消失が死ぬということである。生という存在がなんなのかについては分からないが、死とはなんらかの存在が消失することであると結論付けた。
存在が消失するといっても、それは一時的なものであってはならない。一時的に存在が消失したとしても、また復活するのだとしたらそれは死んでいたとは言えない。冷凍睡眠して生命活動を停止させ、のちに復活というようなSFはあるが、冷凍睡眠していた間、その存在が死んでいたかと言われればそうではないと思う。後に復活するのならば、通常その間は仮死だとか、冬眠だとか言われて、死んでいたとは言われない。逆に、死んだのならば生き返ることは無い。
存在の消失には二通りある、ひとつは存在そのものが消失すること、もうひとつはそれが別の存在になることである。存在そのものが消失した場合は、消失したのだから生き返ることは無い。しかし、存在そのものの消失というのは現実的にありえない。例えば生物Aという存在それ自体が消失するということは一体どういうことなのだろうか。生物Aが死体Aになること、つまり存在が変わることは理解できるが、生物Aという存在そのものが消失するならば、忽然と消えてなくなってしまうのだろうか。もし、生物Aと瓜二つな生物が後に偶然発生したとしたら、生物Aと同じ状態になった途端またしてもその存在は存在しないのだから、突然消失したりするのだろうか。それとも生物Aの存在というのは概念的な話で、瓜二つな生物が現れたとしたらその存在は存在しないのだから、その存在はありえないものとしてどんなに生物Aに似せようと思ってもいくらやっても生物Aにはならないだとか、そういう結果になるのだろうか。いずれにしても、存在の消失というのは物理的にありえないことだらけであり、死ぬことが存在そのものの消失とは考えにくい。
つまり、存在そのものが消失するのではなく、存在が変わることによって死ぬことになる。しかし、死んだものは生き返らない。すなわち、この変化は非可逆的なものである。
つまるところ、死ぬということは生物が持つなんらかの存在が非可逆的に変化することによって生じる現象であると結論付けられる。また、生きているということは生物が持つなんらかの存在が非可逆的に変化することを防いでいく行為ということになり、生物とはその様な行為をしている物のことを指すということになる。
また、非可逆的に変化することが死ぬことであり、それを防ぐことが生きていることなのだから、そもそも非可逆的な変化がありえないものはそのどちらの定義にも入らない。例えば物質が E=mc2 の法則によりエネルギーになったとしても、そのエネルギーは質量に転化することが出来る。つまり可逆変化可能であるから、唯の物質やエネルギーは生きているとは言えないし、死んでいるとも言えない。しかし非生物であることは確かなので、唯の物質及びエネルギーは非生物である。
唯の物質及びエネルギーという存在は非生物である。しかし、宇宙に物理的に存在するものは物質及びエネルギーしかないので、物質及びエネルギーに付随するなんらかの存在が生である。
物質及びエネルギーに付随する存在といえばおそらく情報しかありえないので、生とは情報であり、また非可逆的に変化するものである。
また、その情報、例えば生物Aの情報という存在そのものが消失したのでは無く、あくまで変わっただけなので、偶然物質やエネルギーがその情報と同じ状態を保持すれば、生物Aは復活することになる。しかし、簡単に復活するのならば非可逆とは言いにくいため、偶然元と同じ情報を保持する確率は極めて低いことになる。このことから、生の情報はランダムな物質の動きで簡単に再現されるような無秩序な情報では無く、なんらかの規則にそった秩序だった情報であることが分かる。
秩序だった情報だということは、その情報は無秩序な情報、つまりランダムな情報では無いということである。ランダムとはありとあらゆる値を乱雑に出すことであるから、ランダムな情報にはありとあらゆる結果を出す可能性がある。秩序とはその逆であるから、なんらかの結果を出す可能性を排除し、なんらかの結果を出す可能性に偏らせたものである。
生とは情報そのものであるから、もちろん死の情報も存在する。生の情報は非可逆的な変換を防ぐのでその情報を保持することが出来るが、死の情報は非可逆的な変換を防げないのでその情報を喪失する。結果として生の情報は保持されるが死の情報は保持されないため、次第に情報の割合の中で生の情報は増えていく。つまり、生の情報はその情報を保持するものが死ぬか死なないかという規則にそって、死なないものだけを選んで秩序さを増して行く。
結果として、生の情報は生の情報を保持するための情報の精度を進化という形で延々と上げ続けていくことになる。
結論として生物とは何かを説明すると。
非可逆的な変化を起こすなんからかの存在が非可逆的に変化することを防いでいく行為をする物であり、それがこの宇宙の場合、非可逆的な変化を起こす、自らを保持する秩序だった情報をもった物となった。
結果としてその現象には散逸構造だとかいう名や、情報を効率良く保持するために生まれた分子構造にDNA、内部の秩序を外部の無秩序に溶け込ませないためのものを細胞膜、情報の保持確率を上げるための自己の情報の複製を細胞分裂、活動のための化学反応に代謝などと言う様に名前を付けていったが、それらはあくまで「生きるための手段」であり、「生」そのものではない。生きるための手段は様々なものが考えられるのだから、そのさまざまな手段をもとに生物を区別しようとしても、生物ごとに手段が違うため、生物が定義出来ないのはあたりまえである。
また、この定義の場合ウイルスも生物である。非可逆的な変化を起こす、自らを保持する秩序だった情報をもった物であれば手段はなんでもいいため、細胞膜が無くても、代謝をしていなくても関係は無い。これもまた生物ごとに手段が違うことを示す好例である。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
ウイルスなど、細胞膜を持たず、代謝をしないが、遺伝子を持っていて、他の生物の細胞を利用して増殖するだとか、生物的な振る舞いをするものだから、生物の括りに入れるかどうか未だに決着がついていないらしい。
他の概念と同様に、生命という概念にもマージナルなケースがあり、その代表がウィルスです。ウィルスを生命とみなすかどうかは、生命の本質を DNA とみなすかどうかにかかっています。細胞なしの単独で代謝や増殖を行わないという点では、DNA もウィルスも同じです。RNA はかつては DNA の派生体のように思われていましたが、RNA ワールド仮説によればその順番は逆です。DNA や RNA を生命の本質と考えるなら、機能的に DNA や RNA と同じであるウィルスは生命ということになります。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
生物を定義するために生物の定義が必要なのである。
定義とは一般的にそういうものです。従来の伝統的な定義を継承し、それを尊重しつつ、より厳密な規定を試みることが、定義の見直しという作業に求められます。例えば、メートルという単位は、地球の赤道と北極点との間の子午線弧長の 1/10000000 の長さとして最初に定義され、現在では一秒の 1/299792458 の時間に光が真空中を伝わる距離としてより厳密に定義されています。もしも最初の定義を尊重しなくてもよいなら、1/299792458 などという覚えにくい分数が採用されることはなかったでしょう。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
死ぬということは生物が持つなんらかの存在が非可逆的に変化することによって生じる現象であると結論付けられる。また、生きているということは生物が持つなんらかの存在が非可逆的に変化することを防いでいく行為ということになり、生物とはその様な行為をしている物のことを指すということになる。
それは生命であるために必要条件の一つであって、十分条件ではありません。もしそれだけで生物というのなら、水を湛えているコップですら生物ということになります。コップは「覆水盆に返らず」という諺にもなっている非可逆的変化を防いでいるのですから。
秋刀魚刺身 さんが書きました:
非可逆的な変化を起こすなんからかの存在が非可逆的に変化することを防いでいく行為をする物であり、それがこの宇宙の場合、非可逆的な変化を起こす、自らを保持する秩序だった情報をもった物となった。
この結論の前半と後半は矛盾しているように見えます。「非可逆的に変化することを防いでいく行為をする物」が「非可逆的な変化を起こす、自らを保持する秩序だった情報をもった物」となるとはどういうことを念頭に置いて言っているのか、もう少し詳しく説明してくれないと、論評できません。熱力学的あるいは統計力学的には非可逆的な変化とはエントロピーの増大であり、これに対して、秩序や情報はその否定ですから、両者をどういう理由で結びつけているのかを説明してください。
7. 参照情報
- Bering, Jesse『ヒトはなぜ自殺するのか:死に向かう心の科学』化学同人 (2021/1/31).
- ショーペンハウエル『自殺について』KADOKAWA (2013/7/15).
- 末木新『自殺学入門』金剛出版 (2020/5/25).
- 雨宮処凛『自殺のコスト』太田出版 (2015/4/9).
- 茂木健一郎『クオリアと人工意識』講談社 (2020/7/15).
- ↑このページの初出は、2002年5月3日発行のメールマガジンの記事「自殺は悪か」である。関連議論として、システム論フォーラムから三つのスレッドを転載した。
- ↑“Euthanasia legal status 2009 world map" by Sémhur. Licensed under CC-BY-SA
- ↑“尊属殺人被告事件 昭和37年12月22日判決“『名古屋高等裁判所』高裁判例集第15巻9号674頁.
ディスカッション
コメント一覧
初めて投稿させていただきます。
この文章を読み、「親が自分より子供の命を守ろうとする」行動に疑問を持ちました。もし趣旨がずれていたら申し訳ありません。
親が子供のために己を偽性にすることは、価値の基準であるはずの自分の命よりも、社会を優先させる行為であり、「自殺はなぜ悪なのか」で述べられている内容と整合しないと思いました。
価値の基準である自分の命よりも、他のものを優先しているからです。
生きている者にとって、命が価値の基準である以上、自分の命を他の命よりも優先させると思います。あらゆる存在にとって、(種など関係なく)全ての生命の価値が同じであるならば、他の生命を糧として生きることはないと考えます。
自分の命を優先しているからこそ、他の生命を偽性にして、己のエントロピーを低減させることによって生き延びていると思います。
私はこの事実から、価値の基準は「自分の」命に限定されると考えました。
そして社会秩序や道徳については、
—————————————————-
カントが主張したように、道徳的に悪しき行為は、その格率(主観的な行為の規則)を普遍化すると、概念的な矛盾に陥る。例えば、他人の利益を尊重せず、自分の利益のみを考えるエゴイストが、その格率を言語で表現する(普遍化する)と、周囲の人も、その人の利益を尊重しなくなるから、「自分の利益のみを考える」という当初の格率に矛盾してしまう。
—————————————————-
(永井先生の「価値とは何か」より)
などから、「社会秩序や道徳は、各々自身の命のため」と考えていました。当人以外の命を尊重するのは、当人が命を尊重されたいからだという意味です。
種の保存は、その種が生きる社会にとっては有益と考えます。しかし善悪の基準が当人の命であるならば、「親は他人である子供よりも、自分の命を尊重すべき」という結論になる気がします。
価値の基準を「自分の」命に限定することがおかしいのか、あるいは親と子供は一体と捉えるべきなのか、いろいろ考えましたが、よくわかりませんでした。
永井先生はどのようにお考えでしょうか?
浅学のため、読みにくい文章で申し訳ありません。返答をお待ちしております。
「自分の」命と言うときの「自分」は、必ずしも皮膚によって境界付けられた生物的個体としての私ではありません。特に母にとっての子は、他人とは言いがたく、自分の一部と認識されていることが普通であると思います。極端な場合、特攻隊など、国のために命を捧げる愛国主義者のように、自分の概念を自民族にまで拡張する場合もあります。なお、カントの定言命法は、理性的な法則に基づいているので、直感的な感情に基づく、母の献身的な子供救済の説明には使えません。
色んなコメントがあるんですね。
そりゃそうだな~。皆生きてきた環境が違うんだからなぁ
どんな意見を言ったって必ず反対派はいる。
こう言う問題は話し合ったって結局は自殺者の判断でしょ?
という事はここで自殺は善だの悪だの話してもしょうがない
んだ。
別に俺は哲学とか否定するわけじゃないよ。
だけどなんかここのコメントを見ると自分が勉強したこと
の発表会みたいなきがすんだよね。
正直いって死にたい奴は死ねば善いんだよ。
だって生きてけないんだろ?
そりゃ目の前で飛び込もうとしてる人を見たらちょっと待て
よ!!くらいは言ったるけど、人間マジで考えてるときってだ
いたい正しい事を考えてるよ。
それでおかしい方向に行くやつは死ぬんだよ。
でもしょうがないよ。それがそいつの受けた教育であり生き
てきた環境だからさ。
所詮人間だ。
今哲学の発表会してる奴も所詮人間で結局は感情にコントロ
ールされるわけだよ。
永井さんだって行くところまで行ったらコロっていってしま
うかもしれない。ワラ でもそれはしょうがないんだよ。
俺らは自分が一番可愛い人間なんだから。
哲学の発表会をしたい奴はここで永遠としてればいい。
きっと自己満足は申し分なくしてるだろうけど、社会に何の
影響もないとおもうよ。。
イデオロギーね・・・ワラ
自殺って本人にとっては別に悪くも良くもなく
「今日はパンにしようか、ご飯にしようか」
なんて選択を、人生や命に置き換えただけなんじゃないかな。
そこにいたる経緯について、社会の問題・・・・と言う人が多いけど
生きていれば誰だってそれなりの悩みや苦悩はあるのだから
その自殺の責任の全てを、本人以外に持たせるのは変だね。
まぁイジメや迫害からの自殺は社会の問題だけどね。
ただ、自殺に善悪つけるのは、おかしいように思う。
そこに追い詰めた行為があるならば、その行為が悪かもしれないけど
その人の自殺を選択した行動につういては
ただそれを選択したってだけじゃないかな。
そして、それによって周囲の悲しみが生じたとしても
それは、周囲に悲しみを生じさせたことが悪いといえても
それで自殺を悪とするのは、間接的すぎるきがする。
いまさらですが、人間以外にも自殺する動物はいたはずです(レミングとか)。
レミングが集団自殺をするというのは嘘です。[Great Moments in Science – Lemmings Suicide Myth]
自殺は現住所があるから悪である。行旅死亡人は住所が無いから善である。
一読させて頂きました、貴君は自殺したことが有りますか。
もし有ったとしても、成功していればこんな事も書けないんだよね。
自殺もしたことの無い人に、自殺者の気持ちが分かるか。
権助は死んだ、ペー子は今教会に通ってる、そのうち死ぬ(自殺)。
資源問題と環境問題を解決するために人口を減少させる必要があるのだから、自殺は善ではないのですか。
私は、教育投資への増加が結果としてもたらす少子化を推奨しているのであって、すでに生まれた人々を殺すことで人口を減らすことには反対です。一人の人間を育てるのにどれだけ多くの資源が使われているかを考えてみてください。自殺したら、その人へのそれまでの投資が無駄になってしまいます。資源の有効利用という観点からしても、推奨できません。しかし、最初から産まないならば、無駄になる資源はありません。