社会主義の国はなぜ貧しいのか
「社会主義の国はなぜ貧しいのか」という問いは倒錯していると思うかもしれない。実際、多くの社会主義諸国は、社会主義を選んだから貧しいのではなく、貧しいから社会主義を選んだ。しかし、他方、社会主義諸国が、社会主義経済を維持したまま、市場経済を採用している日米欧先進諸国並に豊かになったという話は聞いたことがない。現代の中国がそうしているように、国民1人当たりの所得を増やすためには、社会主義経済から市場経済に移行しなければならない。それは、なぜなのか。

社会主義経済にも競争はある
この問いに対する常識的な答えは「社会主義の国では、悪平等な賃金体系のゆえに、生産者間に競争がなく、労働者は怠慢で、経済が成長しないから」というものである。しかし、社会主義経済に競争がないわけではない。市場原理が機能しない霞ヶ関でも、事務次官のポストをめぐる熾烈な出世競争が繰り広げられていることから推測できるように、社会主義経済にも、市場経済とは別種の競争がある。実際、多くの社会主義諸国は、中央計画機関が定めたノルマ(生産高、販売高、納入率、原価率などの計画課題)の遂行率に応じて国営企業の労働者に賞与を与えたりするなど、生産性向上のためのインセンティブを与えている。これは、「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という共産主義の本来の理念に反しているようにも見えるが、「大躍進」のような実験的共産主義はともかくとして、現実に存在する社会主義諸国の原則は、「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」である。
「平等でないなら社会主義ではない」と反論する人のために、社会主義経済とは何かを改めて私なりに定義したい。国家権力が、全てのまたは主要な生産手段を独占している、あるいは生産者と癒着している政治形態を大きな政府と名付けよう。大きな政府には、世界経済に対してオープンな外需依存型とクローズドな内需依存型がある。前者は、今日の発展途上国によく見られ、開発独裁と呼ばれている。後者は、1930年代によく見られた、ファシズムや社会主義である。ファシズムは、領土拡張のための戦争を通して内需を増やそうとし、社会主義は平和的な手法で内需を増やそうとする。もっとも、現実の社会主義諸国には好戦的な国も多かったから、両者の違いはあまり大きくない。
商品の画一化は経済を萎縮させる
内需依存型の大きな政府が、内需に依存しているにもかかわらず、内需を増やすことができない理由を、単純化されたモデルを使って検証してみよう。今、外国と交流のない、食品と衣服しか生産していない1000人の国民からなる小国があるとする。1000人の国民のうち、半数の500人は、服装には無頓着で、美味・珍味を堪能することにのみ生きる喜びを感じる大阪型の食い倒れ消費者で、残りの500人は、きらびやかな衣装に身を包むことが三度の食事よりも好きな京都型の着倒れ消費者とする。収入は全員毎月10万円で、毎月の支出の内訳は、
- 大阪型:食費 7万円,衣料費 3万円
- 京都型:食費 3万円,衣料費 7万円
であるとしよう。この時、この国の総支出=総生産=総収入は毎月1億円である。
ところがある時、ある革命家が権力を掌握し、
と宣言したとしよう。全員が買ってくれる画一的商品を生産しようとするなら、衣服は大阪型消費者が買ってくれる水準まで、食品は京都型消費者が買ってくれる水準まで品質と価格を引き下げなければならない。その結果、大阪型消費者も京都型消費者も食費と衣料費を3万円まで引き下げてしまう。

消費者がある商品を購入するに際して、実は支払ってもよいと考える最大の金額から実際に支払った金額を差し引いた金額を消費者余剰と言う。革命前に消費者余剰がなかったと仮定すると、革命後、衣服でも食品でも、500×(70000-30000)=20000000 円の消費者余剰が生じることになる。その結果、国民総支出は毎月6千万円にまで縮小してしまい、収入も1人当たり6万円にまで減ってしまうので、もはや最低限の食品と衣服しか買えなくなってしまう。クローズドな内需依存型経済では、支出の減少は直ちに収入の減少をもたらす。そこには、消費者余剰を増やそうとすると消費者余剰が減ってしまうという逆説がある。
選択の自由は二重の豊かさをもたらす
中央集権的な生産活動を行っている限り、個々の消費者の特殊な需要に適合した商品を生産することはできない。それどころか、極端な共産主義経済では、全く需要がない生産が行われることもある。大躍進の時、毛沢東は、全人民に鉄増産のノルマを課したが、このノルマをこなしても、前近代的な小型土法炉を用いたため、何の役にも立たない屑鉄の山ができるだけだった。一般的に言って、社会主義的な経済では、企業は、消費者のためではなく、中央の権力のために競争する。消費者主権でないところが社会主義経済の根本的な問題である。
安価で画一的な商品を大量生産する経済も、人口が増加する限り成長することができる。だが、資源的環境的制約でそれができなくなると、1人当たりの支出と収入を増やさなければ、経済は成長しなくなる。1970年代以降、大きな政府が機能しなくなり、規制緩和の必要性が指摘され始めたのは、このためである。
規制緩和をめぐっては、賛成派と反対派で次のような議論が行われることが多い。
反対派:値下げ競争が激化すると、競争力のない中小企業が淘汰され、大企業が市場を独占するので弊害が大きい。
賛成派も反対派も、規制緩和の目的を値下げ競争としているところが問題である。通常、規制緩和の賛成者には反社会主義者が多く、反対者には社会主義者が多いのだが、もしも、この賛成派が主張するように、商品の価格が下がることが望ましいのなら、物価水準が低い社会主義の方が望ましいということになるし、もしも、反対派が主張するように、市場の独占が好ましくないなら、政府による市場の独占(市場の消滅)はもっと望ましくないことになる。議論が逆転している。
規制緩和が、企業の値下げ競争を促進することがあるのは確かである。しかし企業は、単純な値下げ競争を続けることは、自分で自分の首を絞めるに等しいことぐらいはわかっているので、商品を差別化し、価格だけでは比較できないようにする。中小企業も、競争の激化で必ずしも淘汰されるわけではなく、大企業が手をつけられないニッチを見つけて、そこへ特化していく。規制緩和が目指す効果は、値下げ競争による生産者の共倒れではなくて、多様化による生産者どうしの棲み分けであり、消費者余剰を増やすことによって減らすことではなく、消費者余剰を減らすことによって増やすことなのだ。
高級品というと、金持ちのために奢侈品と誤解されやすい。しかし、大阪型消費者と京都型消費者のモデルを見るとわかるように、全ての消費者の収入が同じであったとしても、高級品を作ることは必要なのである。私たちは、関心のない分野では節約し、自分の人生にとって本質的な分野には大金を投じる。自分にぴったりの商品を見つけることができて、しかも所得水準が高い経済は、二重の意味で豊かな社会と言うことができる。
関連著作
- フランク ディケーター『文庫 毛沢東の大飢饉: 史上最も悲惨で破壊的な人災 1958-1962』
- ユン・チアン『ワイルド・スワン 上下巻合本版』
- 横手 慎二『スターリン – 「非道の独裁者」の実像』
ディスカッション
コメント一覧
選択の自由は二重の豊かさをもたらす。二重どころではなく、三重、四重にもなりえる。
人身掌握術の天才ナポレオン=ボナパルトは次のような言葉を残したといわれる。
「自由はそれを行使できる能力がある者に与えられる」
この反語は「能力がない者に自由はない。むしろ彼らは不自由で満足する」というメッセージを発していないか?
自由を行使できる能力には最低3つの条件が必要と思われる。
1. 学習活動で獲得できるできるだけ多くの知識
2. 得た知識を自らの環境に合わせて再構築する力
3. 選択した自由が社会に与える影響力を予測する力
上記1.についてはこのサイトの管理者である永井氏のような文理混交、高尚下衆を問わない不断の努力が求められる。幸いにして東京大学大学院薬学研究科講師の池谷裕二氏の脳科学の一連の書物に見られるように、使えば使うほど発達する理論から考えて、そもそも文系理系を学校で分けることじたいがナンセンスで、単なる大学受験科目の負担軽減以外の何ものでもない。文系専門者にはやはり数学と理科を、理系専門者には思想・宗教・哲学・歴史を学んでもらいたい。テレビを見なければ時間は確保できる。芸能人やプロスポーツに通じてもよいが、彼らはシナリオどおりもしくはシナリオを作りながら演じているというアミューズメント要素を心得ていなければならない。お笑いもドラマもドキュメンタリーですら確信犯である。
上記2.については自分自身ではなく、同じ知識レベルの人々との意見の交換の機会が必要である。再構築であるのだから柔軟性が必要であるし、それはアウフヘーベンであり、ブレイクスルーであり、アハ体験である。できれば権威バイアスを取り外したいが、やはり日本の学術の権威は東京大学であり、個性派の京都大学でもある。その道の専門家の意見は無視できない。
また、自らの無知や過ちを受け入れる余裕もほしい。
上記3.についてはやはり価値観といえるであろう。サルトルはアンガーシュマンといい、資産家にはノブレス=オブリージュ、戦士には騎士道や武士道が必要となる。
和辻哲郎が唱えた「人と人との間柄」「世間と人との間柄」は日本人の専売特許ではない。
マルクス共産主義は資本主義から革命によってなされる理想社会であると説いた。
しかし、人間は平等よりも自由に惹かれるものらしい。「自由の女神」はニューヨーク・パリ・お台場にあるが、平等の女神はどこにいるのか、私は知らない。
この世の中、つまり宗教家の言うところの現世では、時間と空間のそれぞれの軸から成り立っており、これらの平等的存在は無い、つまりいつどこで生まれることができるかの選択ができないし、そもそもいつどこでの平等などありえない。だから生物は不平等を受け入れるべきDNAを持った存在であることから、かえって平等を希求するジレンマを持って生まれてきているのだと思います。
中国は社会主義(共産主義)の政治体制のまま、市場経済を導入したので、21世紀の繁栄につながったと言えますね。中国は「社会主義国家としての経済成長」の成功例ですね。中国が今後も社会主義であり現在の経済政策を維持し続ければ安定成長は磐石でしょうか?それとも近い将来に今の日本のような低成長時代が来るのでしょうか?最後に一言。人口が13億人いる中国で「人材流出」と言うリスクは今後ありえるのでしょうか?ただそれ以上の「人材輸入」を行えば支障がないと思うのですが。
「社会主義市場経済」という言い方をするからパラドキシカルで特殊な感じがするだけで、中国の現在政治システムは、他のアジアの高度成長期の政治システムと同様、たんなる開発独裁体制です。日本だって、自民党が事実上一党独裁をする開発独裁的な政治システムのもとで、工業化に成功しました。その意味では、中国の経済発展も平凡なのですが、規模が空前に大きいから、世界の特異な関心を惹き付けているだけです。
開発独裁体制は、労働集約的な前近代社会を資本集約的な近代社会に転換する上で有効ですが、これをさらに知識集約的なポスト近代社会に変換する上では、逆に障害になります。だから、中国の民主化が将来可能かどうかが問題なわけですが、今のところ、見通しは明るくありません。
問題は人材の量ではなくて、質です。中国のトップエリートは米国に留学しており、彼らが帰国しないことは、中国にとっては、深刻な人材流出ということになります。
但し、リーマンショック後は、帰国する中国人留学生が増えているそうです。
なお、安価な労働力なら、まだ内陸部に残っているので、輸入する必要はないでしょう。
社会主義と経済発展の関係についてむかしからいろいろと議論がありますが、社会主義社会あるいは共産主義社会をスターリン以降のソ連型国家社会主義ととらえると上記のような結論になるのは当然かと思います。しかし、最近つぎつぎと政権についた南米の社会主義政党や自らの過ちに気付いて市場原理の導入をしている中国・ベトナム共産党、ヨーロッパの社会民主主義政党、1950年以降の日本共産党のように、社会主義と市場原理を対立する概念と考えず、資本主義社会における生産手段の少数資本家による私的独占と搾取の自由が資本主義の本質ととらえ、それらの引き起こすさまざまな社会矛盾を民主的に是正していくことで社会主義に段階的に近づいていけるとする21世紀の社会主義の潮流では、市場原理と社会主義は全く対立する概念ではなく、国民生活の向上に資する開発競争は善、利潤追求加熱による労働分配率の低下や福祉の後退、環境破壊(かつては公害、近年では原発事故のような)は悪というように、是々非々で、支援と規制を民主的にコントロールしながら公正な社会(社会主義社会)を目指すとしています。私は個人的には、社会主義・共産主義というのは、19世紀のヨーロッパで当時過酷な労働条件で働いていた下層労働者を救済する目的で生まれた思想で、旧ソ連のように国民を抑圧する国家独占社会主義(国家独占資本主義?)(戦時下の日本やドイツもそうです)とは無縁な人道的な思想だと思っています。インセンティブの面で試行錯誤の余地は十分ありますが、少数の資本家に独占された大資本による搾取のない自由な市場の社会は実現可能であると思います。
「資本とは何か」でのコメントの続きですね。「社会主義と市場原理を対立する概念と考えず、資本主義社会における生産手段の少数資本家による私的独占と搾取の自由が資本主義の本質ととらえ、それらの引き起こすさまざまな社会矛盾を民主的に是正していくことで社会主義に段階的に近づいていける」とありますが、「社会主義」と「資本主義」を入れ替えて、「資本主義と市場原理を対立する概念と考えず、社会主義社会における生産手段の少数の党幹部による私的独占と搾取の自由が社会主義の本質ととらえ、それらの引き起こすさまざまな社会矛盾を民主的に是正していくことで理想的な資本主義に段階的に近づいていける」とするべきではないでしょうか。
資本主義社会は、資本の拡大再生産を目指す社会であり、市場経済の採用か、それとも非市場経済(社会主義、共産主義、開発独裁等々)の採用かは、その目的を達成するための手段を選択する問題です。鄧小平が「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」と言ったのは、生産力の増大という資本主義の理想を実現することができるのなら、そのための手段は社会主義経済でも市場経済でもどっちでもよいと考えたからでしょう。中国は、自分たちの体制を社会主義市場経済と呼んでいますが、その内実を正確に表現するならば、社会主義経済と市場経済が混合した資本主義社会ということになるでしょう。所謂「混合経済」における「混合」は、「資本主義と社会主義の混合」ではなくて、「市場経済と社会主義経済の混合」と理解するべきだと私は思います。
同一テーマのコメントを2カ所に書いてすみません。どちらにも関係のあるテーマでしたので。
上記「社会主義社会における生産手段の少数の党幹部による私的独占と搾取の自由が社会主義の本質」は現在の北朝鮮労働党やスターリン独裁下の旧ソ連、文化大革命当時の中国共産党などはそれに近い状態ですが、国家社会主義、戦時共産主義を社会主義の一形態とみなせば、本質的かどうかは別として、その結論は正しいでしょう。しかし、私はそのような社会は「封建社会」と呼ぶのが正しいのではないかと思います。日本の戦国時代や江戸時代のように軍隊の上層部が国の経済や軍事の決定権と生産物の分配率を掌握し、大多数の国民は国の為に奉仕するのを強要され、反旗を翻せば、弾圧される。まさに封建社会です。あるいは、経済学的には、「国家独占資本主義」の形態であるとみなせると思います。事実、京大系のある経済学者はそう評していました。私は、それらの社会は「資本主義」の名付け親であるマルクスがその内的矛盾を発展的に解消した社会であるする「社会主義社会」であるとはとうてい思えません。
本論にもどりますが、「社会主義を搾取のない社会あるいはそれを目指す社会」とする私と、「北朝鮮は社会主義」と考える永井さんでは、なかなか話がかみ合ってきませんが、「搾取のない自由な市場の社会」が近未来の進歩的社会であるという点では一致しているのではないかと思います。
「搾取のない自由な市場の社会」が望ましいということに異議を申し立てるつもりはありませんが、「搾取」という言葉で以って何を念頭においているかが気がかりです。ムッキーさんは「利潤追求加熱による労働分配率の低下」は悪と書きましたが、これは、資本家の利潤を労働者の搾取の結果とみなすマルクス主義的な考えを表明しているということでしょうか。労働者の賃金は、労働者が自分の身体という資本を活用して得た利潤であり、資本家が資本金や自分の頭脳という資本を活用して得た利潤と本質的に異なるところはなく、前者の利潤追求は善で後者の利潤追求は悪とみなすことには根拠がありません。
話がかみあってきました。さすがですね。まさに、そのことが、社会主義と資本主義の考え方のちがいで、社会主義経済の対立概念は市場主義経済ではなく、搾取があるかないかで、判断すべきという私の最初のコメントの意味です。その本質的考え方および現実利害の差が、近代史を動かす原動力となっていることは、いうまでもないことです。
私は、現代の社会のような混合経済のもとでは資本家及び追随する人々の利潤の源泉は、搾取によるものと自ら労働によるものの双方が含まれていると考えています。誤解されるとこまるのは、社会主義経済では、頭脳労働を労働とみとめないとか、資本家の投資判断や管理職の知的労働が生み出す利潤を、搾取によるとは考えていないことです。また、公開市場で取引される投資が生み出す利潤(配当や売買差益)も投資の機会均等が保証された市場なら、搾取ではなく適正な利潤と考えています。(その場合、市場がうまく機能していれば、その国全体の配当利子率+売買損益の平均値は公定歩合や経済成長率に近づいていくはずで、その市場で売買している投資家が自らの判断で行った利潤には搾取は含まれていません。)しかし、現実の世の中は政治家や財界との癒着が、差別人事や公正な市場の形成を阻害しており、また、スケールメリットのある市場では、独占が生み出す搾取を財界全体が共有することができ、そこには、投資市場に参加する機会が均等に存在するとはいえません。また、病気や遺伝、資産相続、女性と男性の役割分担など個人の努力によるものでない理由での経済活動に参加できない人のハンディーを労働市場がどう評価するか(福祉の基準)も資本家に対する適正な課税が行われていれば搾取ではありません。(混合経済社会における累進課税や相続税による搾取の是正が民主的に決められ実行されている国では資本家の国内投資によって得た利潤に搾取はありません。その社会は、私は社会主義に近い混合経済社会と考えます。)
「資本家が資本金や自分の頭脳という資本を活用して得た利潤と本質的に異なるところはなく、前者の利潤追求は善で後者の利潤追求は悪とみなすことには根拠がありません。」この根拠を十分とはいえないまでも解明したのがまさに永井さんがおっしゃるマルクスの「資本論」です。上記の理由で、私は「搾取のない自由な市場の社会」は可能だと考えます。
1.政治家や財界との癒着が、差別人事や公正な市場の形成を阻害している。
これは、間接民主主義の弊害です。この問題を解決するには、民主主義にさらなる市場原理を導入する必要があります。詳しくは、「民主主義はどうあるべきか」をご覧ください。
2.スケールメリットのある市場では、独占が生み出す搾取を財界全体が共有することができ、そこには、投資市場に参加する機会が均等に存在するとはいえない。
規模の経済と同時に規模の不経済もあることに留意してください。資本集約型経済においては、規模の経済が働くことが多かったが、現在のような知識集約型経済では、むしろ規模の不経済が働くことが多いのではないでしょうか。もちろん現在の市場経済でも、ある企業が大きなシェアを持つ場合が出てきますが、その弊害が顕在化すると、他の企業が挑戦者となって出てくるものです。独占や寡占の弊害が顕在化しても修正されないままになるのは、むしろ、その独占や寡占が法的規制によって守られている場合が大半だと思います。
3.病気や遺伝、資産相続、女性と男性の役割分担など個人の努力によるものでない理由での経済活動に参加できない人のハンディーを労働市場がどう評価するか(福祉の基準)も資本家に対する適正な課税が行われていれば搾取ではありません。
これに関しては、「世代を超えた格差の固定化を防ぐ方法」や「ワークシェアリングはどうあるべきか」を参照してください。
以上、いずれも市場原理によって解決するべき問題であると私は思っています。