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社会主義の国はなぜ貧しいのか

2002年3月8日

「社会主義の国はなぜ貧しいのか」という問いは倒錯していると思うかもしれない。実際、多くの社会主義諸国は、社会主義を選んだから貧しいのではなく、貧しいから社会主義を選んだ。しかし、他方、社会主義諸国が、社会主義経済を維持したまま、市場経済を採用している日米欧先進諸国並に豊かになったという話は聞いたことがない。現代の中国がそうしているように、国民1人当たりの所得を増やすためには、社会主義経済から市場経済に移行しなければならない。それは、なぜなのか。

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社会主義経済にも競争はある

この問いに対する常識的な答えは「社会主義の国では、悪平等な賃金体系のゆえに、生産者間に競争がなく、労働者は怠慢で、経済が成長しないから」というものである。しかし、社会主義経済に競争がないわけではない。市場原理が機能しない霞ヶ関でも、事務次官のポストをめぐる熾烈な出世競争が繰り広げられていることから推測できるように、社会主義経済にも、市場経済とは別種の競争がある。実際、多くの社会主義諸国は、中央計画機関が定めたノルマ(生産高、販売高、納入率、原価率などの計画課題)の遂行率に応じて国営企業の労働者に賞与を与えたりするなど、生産性向上のためのインセンティブを与えている。これは、「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という共産主義の本来の理念に反しているようにも見えるが、「大躍進」のような実験的共産主義はともかくとして、現実に存在する社会主義諸国の原則は、「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」である。

「平等でないなら社会主義ではない」と反論する人のために、社会主義経済とは何かを改めて私なりに定義したい。国家権力が、全てのまたは主要な生産手段を独占している、あるいは生産者と癒着している政治形態を大きな政府と名付けよう。大きな政府には、世界経済に対してオープンな外需依存型とクローズドな内需依存型がある。前者は、今日の発展途上国によく見られ、開発独裁と呼ばれている。後者は、1930年代によく見られた、ファシズムや社会主義である。ファシズムは、領土拡張のための戦争を通して内需を増やそうとし、社会主義は平和的な手法で内需を増やそうとする。もっとも、現実の社会主義諸国には好戦的な国も多かったから、両者の違いはあまり大きくない。

商品の画一化は経済を萎縮させる

内需依存型の大きな政府が、内需に依存しているにもかかわらず、内需を増やすことができない理由を、単純化されたモデルを使って検証してみよう。今、外国と交流のない、食品と衣服しか生産していない1000人の国民からなる小国があるとする。1000人の国民のうち、半数の500人は、服装には無頓着で、美味・珍味を堪能することにのみ生きる喜びを感じる大阪型の食い倒れ消費者で、残りの500人は、きらびやかな衣装に身を包むことが三度の食事よりも好きな京都型の着倒れ消費者とする。収入は全員毎月10万円で、毎月の支出の内訳は、

  • 大阪型:食費 7万円,衣料費 3万円
  • 京都型:食費 3万円,衣料費 7万円

であるとしよう。この時、この国の総支出=総生産=総収入は毎月1億円である。

ところがある時、ある革命家が権力を掌握し、

食道楽や華美な衣装はブルジョア趣味でよろしくない。今後、我が国で生産する衣服は全て安価な人民服で統一し、食べ物も公共食堂で提供する安価な食事に限る。

と宣言したとしよう。全員が買ってくれる画一的商品を生産しようとするなら、衣服は大阪型消費者が買ってくれる水準まで、食品は京都型消費者が買ってくれる水準まで品質と価格を引き下げなければならない。その結果、大阪型消費者も京都型消費者も食費と衣料費を3万円まで引き下げてしまう。

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人民公社の公共食堂。1959年に撮影。

消費者がある商品を購入するに際して、実は支払ってもよいと考える最大の金額から実際に支払った金額を差し引いた金額を消費者余剰と言う。革命前に消費者余剰がなかったと仮定すると、革命後、衣服でも食品でも、500×(70000-30000)=20000000 円の消費者余剰が生じることになる。その結果、国民総支出は毎月6千万円にまで縮小してしまい、収入も1人当たり6万円にまで減ってしまうので、もはや最低限の食品と衣服しか買えなくなってしまう。クローズドな内需依存型経済では、支出の減少は直ちに収入の減少をもたらす。そこには、消費者余剰を増やそうとすると消費者余剰が減ってしまうという逆説がある。

選択の自由は二重の豊かさをもたらす

中央集権的な生産活動を行っている限り、個々の消費者の特殊な需要に適合した商品を生産することはできない。それどころか、極端な共産主義経済では、全く需要がない生産が行われることもある。大躍進の時、毛沢東は、全人民に鉄増産のノルマを課したが、このノルマをこなしても、前近代的な小型土法炉を用いたため、何の役にも立たない屑鉄の山ができるだけだった。一般的に言って、社会主義的な経済では、企業は、消費者のためではなく、中央の権力のために競争する。消費者主権でないところが社会主義経済の根本的な問題である。

安価で画一的な商品を大量生産する経済も、人口が増加する限り成長することができる。だが、資源的環境的制約でそれができなくなると、1人当たりの支出と収入を増やさなければ、経済は成長しなくなる。1970年代以降、大きな政府が機能しなくなり、規制緩和の必要性が指摘され始めたのは、このためである。

規制緩和をめぐっては、賛成派と反対派で次のような議論が行われることが多い。

賛成派:規制緩和が行われれば、企業は値下げ競争を行い、物価が下落して、消費者の実質所得が増える。
反対派:値下げ競争が激化すると、競争力のない中小企業が淘汰され、大企業が市場を独占するので弊害が大きい。

賛成派も反対派も、規制緩和の目的を値下げ競争としているところが問題である。通常、規制緩和の賛成者には反社会主義者が多く、反対者には社会主義者が多いのだが、もしも、この賛成派が主張するように、商品の価格が下がることが望ましいのなら、物価水準が低い社会主義の方が望ましいということになるし、もしも、反対派が主張するように、市場の独占が好ましくないなら、政府による市場の独占(市場の消滅)はもっと望ましくないことになる。議論が逆転している。

規制緩和が、企業の値下げ競争を促進することがあるのは確かである。しかし企業は、単純な値下げ競争を続けることは、自分で自分の首を絞めるに等しいことぐらいはわかっているので、商品を差別化し、価格だけでは比較できないようにする。中小企業も、競争の激化で必ずしも淘汰されるわけではなく、大企業が手をつけられないニッチを見つけて、そこへ特化していく。規制緩和が目指す効果は、値下げ競争による生産者の共倒れではなくて、多様化による生産者どうしの棲み分けであり、消費者余剰を増やすことによって減らすことではなく、消費者余剰を減らすことによって増やすことなのだ。

高級品というと、金持ちのために奢侈品と誤解されやすい。しかし、大阪型消費者と京都型消費者のモデルを見るとわかるように、全ての消費者の収入が同じであったとしても、高級品を作ることは必要なのである。私たちは、関心のない分野では節約し、自分の人生にとって本質的な分野には大金を投じる。自分にぴったりの商品を見つけることができて、しかも所得水準が高い経済は、二重の意味で豊かな社会と言うことができる。

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