エントロピーの理論(03)意識とはどのようなシステムか

2003年7月3日

生物の中には、意識を持つものもいる。さらには、記号を用いて、指示対象を抽象化し、他者とコミュニケーションするものもいる。意識を持つシステムは、どのような点で特殊な情報システムなのかを考えよう。

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1. 情報システムのエントロピー

意識の志向的対象は、意味である。物が直接認識されていると思われる場合でも、物が記号として意味を持つ限りで、認識が成り立っている。そして、記号が意味を持つのは、それが一定の地平において、他の記号と示差的な意味関係を持つことによってである。例えば、「晴れ」という語は、天気という地平において、「雨」や「曇り」や「雪」といった他の語を否定するがゆえに意味を持つ。

命題は、語とは異なって、真であったり偽であったりする事態を代表象するのだが、その真偽が意味、すなわち情報としての価値を持つためには、他の命題と示差的な意味関係を持たなければならない。例えば、「明日は、晴れるかそうでないかのどちらかでしょう」という天気予報は、何の情報も伝えていない。「明日は雨」、「明日は曇り」、「明日は雪」など、他の可能性を否定して初めて、「明日は晴れ」という命題は情報価値を持つ。

このように、システムが意味を表現するには、表現する以上に多くの可能性を作った上で、それらを否定しなければならない。だから、ここでもまたエントロピーの法則が成り立つ。すなわち、情報エントロピーを減少させて、意味構造を作るには、システムは、環境においてより多くの情報エントロピーを増やさなければならない。

物理学者の中には、エントロピーの法則を、意識や社会などの非物理学的な現象に適用することに対して、「たんなるアナロジーに過ぎない」と批判する人がいる。しかし、熱エントロピーを含めて、全てのエントロピーは情報エントロピーとして解釈できるのだから、あらゆる情報システムに、エントロピーの法則を当てはめることは、決して不当な拡張ではない。

2. 唯物論的実在論か唯心論的観念論か

ちょうど、コンピュータが、低エントロピー資源である電気を消費し、環境へと高エントロピーな廃熱を散逸させることによって、情報処理を行うように、人間は、食物という低エントロピー資源を消費し、高エントロピーの廃棄物を捨てることによって、情報エントロピーを減らしている。他方で、病は気からという諺にあるように、判断に自信を失い、増大する意味の不確定性を縮減できなくなった人が、体調を崩して病気になり、死に至ることもある。ここから、物質システムと情報システムの間には相互的な因果関係があるなどと結論してはいけない。私たちは、こうしたナイーブな相互作用論を生み出す物心二元論を克服しなければならない。

近代の意識哲学は、世界から意味を剥ぎ取り、それを主観の意識作用の産物にしてしまった。意識哲学に対する反動である唯物論も、世界から意味を奪ったまま、物質を実体化してしまった点で、意識哲学と同じ地平内にある。私たちは、エントロピーという、物質やエネルギーに還元不可能な新たな物理的概念を手がかりに、唯物論的実在論と唯心論的観念論の対立地平を越えなければならない。

意識や生命を持たない、たんなる物であっても、それがシステムである以上、構造と環境との間にある複雑性の落差によって、何らかの意味を表現している。私が物システムまでをも他者の範疇に入れたのは、物には、意味を理解する能力はないが、意味を表現する能力はあるからだ。意味は、唯心論的観念論者が考えるように、主観が作り出す意識の産物でもなければ、唯物論的実在論者が考えるように、脳内の幻想でもない。

観念論の哲学者たちは、「エントロピーは、将来主観によってその有効性が否定されるかもしれない経験科学の概念の一つだ。超越論的意識は、全ての経験科学の概念を超越している。だから、エントロピーを含め、全ての概念は意識の産物にすぎない」と反論するかもしれない。私は、エントロピーをたんなる経験科学の概念としてだけではなく、不確定性あるいは選択可能性という哲学的な概念としても捉えているので、この問題を哲学的に考えてみよう。

もしも、観念論が正しいとするならば、すなわち、意識が全ての観念を産出し、そして実体が物ではなくて観念だとするならば、主観は、世界を意のままに創造することができるはずである。しかし実際には、私たちは、個別主観的にはもちろんのこと、共同主観的にも、世界の認識に苦労している。このことは、客観が、主観によって受動的に意味付与されるだけの存在ではなくて、自ら能動的に意味を表現するシステムであることを、しかも、主観が「意のままに」縮減するのとは他のように複雑性を縮減する他者であることを示している。

しかしながら、認識とは、表現された情報を受動的に受け取ることではない。認識は、生命システムの営みの一つであるから、複雑性縮減の再生産、すなわち自己保存を目的としている。ゆえに、表現された全ての情報を受け取ることは不必要である。この宇宙に存在する全ての情報は、私たちの脳の容量制限を超えているので、それを全て認識するということは、不必要という以前に不可能でもある。私たちが必要としている情報は、将来にわたって、システムの自己保存に役立つ情報である。

このことは、私たちが、将来どうなるかという未来予測の知識だけを求めているということを意味しない。例えば、明日晴れるか否かという未来予測に関して、気象学者Aは、一つの過ちを犯すことによって、間違った予測をし、気象学者Bは、2つの過ちを犯すことによって、たまたま正しい予測をしたとしよう。この場合、正しい予測をしたからといって、BをA以上に信用するというわけにはいかない。偶然性というエントロピーを縮減するためには、たんに正しい予測をするだけではなく、正しい予測をするための普遍的な理論を築かなければならない。

3. 意識システムの本質

「今ここでは、私には、…のように見える」といった受動的で個別的情報なら、間違えることはないが、同時に情報としての価値はきわめて低い。そこで、意識システムは、個別的情報を超えて、普遍的理論を能動的に構成しようとするが、能動的であればあるほど、間違えるリスクも増えるし、選択に迷いが生じる。そして、この選択の迷いが、意識システムの本質なのである。

あるシステムに意識があるかどうかは、そのシステムが選択に際して迷うかどうかによって決まる。私たちは、食事のメニューを選ぶ時に迷うけれども、食べたものを消化する時、胃から胃液を出そうかどうか迷うことはない。だから食事のメニューを選ぶ行為は意識に上がるが、胃液を出す行為は意識に上がらない。

本能にのみ支配されている下等動物には意識がない。入力に対して出力が一意的に決定されていているならば、意識とか迷いといった贅沢品は不要である。私たちは、睡眠中、夢をみている場合を除けば、意識を失う。しかし意識がないときでも、身体は新陳代謝を続け、脳は体温調節などの情報処理を行っている。睡眠中の疑似体験から、意識のない生物の情報活動をある程度理解することができる。

選択の自由がない行為者には意識がない。しかし行為の選択が不確定だからといって、ただちに行為者に意識があると結論付けることはできない。行為の決定を量子的不確定性に依存しているロボットを作ったとしよう。このロボットの行為はランダムで、予測不可能である。しかしロボットはたんに偶然性に身を委ねているだけで、ロボット自体は迷うことはない。だから、そのロボットには意識がない。

もし人間が、神のような迷わない全能者なら、意識を持つことは不必要であり、もしロボットのような自由を持たない下等な存在者ならば、意識を持つことは不可能である。私たちは、不可能性と不必要性の中間に位置する不確定的存在者であるからこそ意識を持つのである。

読書案内
書名 ユーザーイリュージョン―意識という幻想
媒体 単行本
著者 トール ノーレットランダーシュ 他
出版社と出版時期 紀伊国屋書店, 2002/09
書名 「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤
著者 下條 信輔
出版社と出版時期 講談社, 1999/02