エントロピーの理論(05)なぜ自殺をしてはいけないのか

2003年7月5日

オートポイエーシスとは、《正当化の権力》と《権力の正当化》が相互に産出しあう自己準拠的再生産である。個人であれ、社会であれ、生命システムには、オートポイエーシスゆえのポジティブフィードバックが働く。そのことを、自殺の禁止という現象を手掛かりに探ってみよう。

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1. 不公平な多数決

「自殺は悪だ」という価値観は、自明であると同時に、他の全ての価値を基礎付けるという意味で、きわめて基礎的でもある。例えば、「人を殺してはいけない」という当為も、この価値から導出される。「他人を殺してもかまわない」と明言すると、他人の他人に相当する自分の命を危うくすることになるから、他人を殺してはいけないのだ。もしも生命に価値がないとするならば、何をやってもかまわないことになる。はたして、私たちは、自殺が悪であることを根拠付けることができるだろうか。

生き続けることを選んでいる私たちが、いくら「生きることはすばらしいことだ」、「自殺などもってのほかだ」と言っても、それは、オウム真理教の信者が「オウム真理教を信じることはすばらしいことだ」、「脱会などもってのほかだ」と言う場合と同様に、トートロジカルで説得力がない。オウム真理教の信者は、まさにそう思っているからこそ教団に残っているのであり、「脱会は悪か」に対する答えは、尋ねる前からわかっている。

教団脱会の是非を問う時、脱会を拒んで、教団を賞賛する信者の話だけでなく、脱会した元信者の話も聞かなければ、公平とは言い難い。この方法は、しかしながら、自殺、すなわちこの世から脱退することの是非を判断する時には使えない。自殺経験者が「自殺はすばらしい」、「自殺したおかげで、これまでの苦しい重荷から逃れることができた」などと反論することはできない。自殺の是非の決定は、反対する野党議員を全て議場から追放して行う多数決のようなもので、公平とは言い難い。

もっとも、まだ自殺していないが、自殺したいと思っている人なら、話ができる状態で存在している。しかし、今私が問題にしているのは、自殺は悪か否かという規範のレベルの問題であって、自殺したいかどうかという欲望のレベルの問題ではない。もし、自殺に伴う苦痛よりも、生き延びて味わう苦痛の方がはるかに大きいのならば、自殺したいと思うのは自然なことである。だが、自殺したいから自殺してもよいと判断することには論理的な飛躍がある。したいことがしてはいけないことだということはよくある。規範は欲望と必ずしも一致しないし、必ずしも一致しないからこそ規範は規範なのである。多くの自殺志願者は、一方で自殺したいと思いながらも、他方で自殺は良くないことだと考えて、決断までに悩むものなのだ。

規範は、社会の多数派によって、そして多数派に有利なように形成される。生きている人間の集団の中では、当然生きていることに価値が置かれる。オウム真理教の信者が教祖の説教によって洗脳されているように、私たちは、幼い頃から「命の尊さ」を教え込まれている。オウムの信者にとって脱会がタブーであるように、私たちにとって自殺はタブーである。教団の内部で信者が脱退を呼びかければ、リンチの憂き目に会うように、私たちが「自殺は悪ではない」と言えば、社会的制裁を受ける。このため「自殺をしてはいけない」という規範は、自明な真理として受け入れられる。

もっとも、一見すると社会が自殺を推奨しているかのように見える場合もある。例えば、太平洋戦争中の神風特攻隊の場合がそうである。しかし、特攻隊の志願者を募集した大日本帝国の軍人たちは、「帝国臣民全員が玉砕することがないように、戦争に勝たなければならない」と考えていたわけで、多数の生命を維持するために少数の生命を犠牲にしたと解釈できる。イスラム特攻隊の場合も事情は同じことである。問題は、なぜ生命一般に価値があるのかということである。

2. 価値基準の価値の測定

生命に価値があるのか否か、自殺が悪か否かを論じる前に、そもそも善悪という価値は何によって決まるのかを考えてみよう。私たち生命体は、個人レベルであれ、社会レベルであれ、エントロピーを縮減するシステムであり、そして全ての価値は私(たち)のエントロピー縮減への貢献によって決定される。私たちは、富や名声や権力などの低エントロピー資源を欲望するが、それらが価値を持つのは、それらが私(たち)のシステムのエントロピーを縮減する限りにおいてである。ものさしが長さの基準であるように、私たちのエントロピーの縮減は私たちの価値の基準である。

自殺は悪かと問うことは、私たちの生命に価値があるのかと問うことと同じである。そして私たちはここで困難にぶつかる。ちょうどものさしが自分自身の長さを測ることができないように、価値基準は価値基準自身の価値を決めることはできない。メートルの基準となる長さをメートル原器と言い、今日、光が真空中で299792458分の1秒間に進む距離と定義されている。こう定義すると、「メートル原器の長さは、ちょうど1メートルだ」などと言っても、それは同語反復(トートロジー)に過ぎない。同様に「生命には価値がある」という命題は「生き延びるという目的にとって生き延びることは価値がある」という意味であり、トートロジーである。

「自殺は悪だ」とするどのような説明も、最終的にはこのトートロジーの円環を超えるものではない。生活に疲れて自殺しようとする母子家庭の母親に対して、「あなたが死んだら、子供たちの将来はどうなるの」と断念を促す時、この説得者は、子供という生命の存在が善であることを前提している。つまり、「生命を守ることは善である。ゆえに生命を守ることは善である」というトートロジーを繰り返しているのである。

トートロジーの円環から抜け出すために、神のような超越的存在を想定し、「命は神から預かったものだから、自分勝手に捨ててはいけない」と説く人もいるかもしれない。しかし、ここでも同じような問題が起きてくる。神が全ての価値の基準であるとするならば、この価値基準自身の価値を保証するものは何なのかという問題である。神がいくら自分を絶対化しても、神という基準自体を否定すれば、神の全ての教えは無効になってしまう。

3. 生命のオートポイエーシス

「自殺は悪だ」という命題は、生きている人間にとって分析的に真であるが、トートロジーの円環の外部に何も根拠を持たない。もし自殺してしまえば、自分の命とともに、自殺は悪か否かという問題も、善悪の彼岸に消えてしまう。重さとは、引力という物体間の相互関係であって、物体の総体には重さがないように、価値とは、目的に対する有用性という生の間の相互関係であって、生の総体には価値がない。

「生き延びることには価値がない」という価値観は、その価値観を持っている人が消滅することで、ともに消滅する。「生き延びることには価値がある」という価値観は、その価値観を持っている人が生き延びることで、ともに生き延びる。

「生き延びる価値観」と「価値観が生き延びること」が相互産出されるポジティブ・フィードバックの円環は、価値的に基礎付けられることなく、ただ事実として存続している。これは、生命システムのオートポイエーシスである。社会システムも生命システムの一種だから、生命システムに当てはまることは、社会システムにも当てはまるはずだ。そこで、次節では、政治/法システムのオートポイエーシスを、第3節では、経済/文化システムのオートポイエーシスを取り上げることにしよう。

読書案内
書名 オートポイエーシス―生命システムとはなにか
著者 H.R. マトゥラーナ 他
出版社と出版時期 国文社, 1991/01
書名 Autopoiesis and Cognition: The Realization of the Living (Amsterdam Studies in the Theory and History of Linguistic Sc)
著者 Humberto R. Maturana 他
出版社と出版時期 D Reidel Pub Co, 1980/04/01