7月 082003
 

超越論的哲学とは、現象的世界の存在条件を、物自体ではなくて、物自体を認識しようとする主体に求める哲学である。認識が他のようでありうるならば、世界もまた他のようでありうるということである。もしも物自体が、現象的世界とは別の世界ではなく、現象的世界の総体だとするならば、不確定性の自己反省は、不確定性の存在論を帰結する。

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1. 機械論的決定論の破綻

ガリレオの物理学やデカルトの哲学を嚆矢とする近代の知は、機械論的決定論に基づいていた。19世紀のフランスの数学者ラプラスは、自然界は全てニュートン力学的運動をする粒子から構成され、厳密な因果法則によって縛られていて、現在の初期条件と束縛法則を全て認識する悪魔的能力があれば、未来の任意の時点における全ての粒子の状態を予測できると考えた。人間が未来を正確に予測できないのは、そうしたラプラスの悪魔ほどの認識能力がないからで、全てはあらかじめ決定されているというわけである。こうした機械論的決定論は、20世紀になって、量子力学によって批判されるようになる。

量子力学によれば、ミクロの粒子は、複数の可能的状態が重なった波動関数としてしか記述できない。例えば、電子は、太陽の周りを廻る地球のように原子核の周りを廻っている確定的存在ではなく、原子核を雲のように取り巻いている不確定的存在の重ね合わせである。この不確定的存在を重ね合わせた状態を直接観測することはできない。観測しようと光を当てると、波動が収縮し(つまり複雑性が縮減され)、電子は1つの粒子としてその位置が確定されてしまう。

ここから、コペンハーゲン学派の人々は、確定的なものは観測されている時にだけ存在し、観測されていない時には、不確定であるという結論を出した。量子力学のコペンハーゲン解釈は、従来の「客観的=確定的」対「主観的=不確定的」という関係を逆転させ、客観的には不確定で主観的には確定的という新しい存在論を生み出した。

2. シュレディンガーの猫

この新しい存在論は、伝統的なパラダイムの信奉者から攻撃を受けることになる。有名な「シュレディンガーの猫」と呼ばれる思考実験は、コペンハーゲン解釈のパラドキシカルな性格を指摘するために考案されたものだ。箱の中に、確率2分の1で崩壊する微量の放射性原子核の入ったガイガー計数管と生きた猫を入れ、ガイガー計数管が放射性崩壊を感知すると、一連の装置が作動して、ハンマーが青酸ガス入りのビンを割るようにしておくならば、箱の中には、中を覗いて確認するまでは、生きた猫と死んだ猫が重ね合わさって存在するのかというわけである。

同じ猫が生きていると同時に死んでいるという重ね合わせは、誰にでも分かる明白な矛盾である。しかし、ミクロな粒子が波束であるということも、それと同じぐらい矛盾している。もし矛盾律を否定するなら、いかなる判断も許されるから、矛盾律だけは守らなければならない。論理学的な用語を使うならば、矛盾を解消するには、条件法導入という手法がある。すなわち、生きた猫を観測した認識者と死んだ猫を観測した認識者を別の世界へと割り振れば、矛盾を解消することができる。

3. 多世界解釈

こうして登場した、コペンハーゲン解釈の有力な代替案が、多世界解釈である。コペンハーゲン解釈が1つの世界に複数の状態を重ね合わせるのに対して、多世界解釈は複数の世界のそれぞれを1つの状態にする。多世界解釈を受け入れるなら、私たちは、認識という複雑性の縮減を通じて、絶えず分岐する複数の世界をそのつど1つ選び取って、そこで生きていることになる。今こうして本書を読んでいるあなたも、別の世界では恋人とデートしているかもしれないし、また別の世界では戦場をさまよっているかもしれないのである。

多世界解釈は、しばしばSF的だと言われるが、その主張は決して荒唐無稽なものではない。多世界解釈をメタファーで説明しよう。例えば、今あなたは電光掲示板を見ているとする。電光掲示板では、近付いて見ると、固定された各表示素子である発光ダイオードがついたり消えたりしているだけなのだが、離れて見ると、電光掲示板上を文字や絵があたかも動いているかのように見える。

このメタファーは、ミクロな量子が不連続的であるにもかかわらず、マクロな現象が連続的に見えることを説明する時によく使われるのだが、さらに続けて、各表示素子が、光以外にも超音波で別の情報を発信しているという想定を付け加えてみよう。すると、コウモリのような生き物は、光の情報は受信できないが、超音波の情報は受信できるので、同じ電光掲示板から、超音波を受信することができない人間とはまったく違う認識を得ていることになる。2つの相反する認識のどちらか一方が真理というわけではない。人間とこうもりは、同じ電光掲示板を見ながら、別の世界を生きているということになる。

日本人はもともと、黒澤映画の『羅生門』に描かれているような「ストーリーの数だけヒストリーがある」という多元的世界観に抵抗を示さないのかもしれない。近代西洋哲学では、1つしかない世界に複数の認識があることが、神ならぬ人間の認識の有限性であるとされてきたが、多世界解釈に従うならば、世界が複数存在するにもかかわらず、世界は1つしかないと考えている、あるいはそう考えなければ生きていけないことが人間の有限性だということになる。

私は、人間存在が、無限に多くある可能的世界の総体である物自体と一体になって、エントロピーを最大にすることもできなければ、神と一体になって、複雑性を縮減する必要のない1つの世界に住み、エントロピーを最小にすることもできないという2つの意味で、無限性を否定している、すなわち有限であると考える。この意味で、人間という意識システムは、中間的存在なのだ。

読書案内
書名シュレディンガーの猫がいっぱい―「多世界解釈」がひらく量子力学の新しい世界観
媒体単行本(ソフトカバー)
著者和田 純夫
出版社と出版時期河出書房新社, 1998/09
書名宇宙はわれわれの宇宙だけではなかった
媒体文庫
著者佐藤 勝彦
出版社と出版時期PHP研究所, 2001/11
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  2 コメント

  1. 「平成の黙示録」という表題の私説を公開しています。
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  2. 「世界は一つしか存在しないのか」 はいわゆる、哲学の存在論に関係する課題である。 存在論は主観と客観の狭間で訳のわからない状況に追い込まれているのが現状である。
     存在論に関して長々と論じても仕方がないので、以下結論のみを記述する。
    1.存在論を展開することは、先ず認識論を明確にする必要がある。
    2.「認識」とは人間のみが享受する能力ではない。
    3.「認識の形式」とは物理学現象の全てが個々の形式として扱わねばならない。
    4.人間の認識能力は極めて高度あることは自明である。
    5.Aの粒子が空間上に存在することは、次の認識要素が存在する。
     a)空間上にものがある
     b)空間上にAの粒子がある
    6.A粒子が運動しており、別のB粒子に衝突する場合
     c)A粒子はB粒子の存在を認識する:運動エネルギーが減少する認識要素
     d)B粒子はA粒子の存在を認識する:運動エネルギーの増加する認識要素
    認識とはかくのごとく、個物と個物の相互関係として定義する。 結果、人間の認識は[客体に光が当たり→光は人間の視神経を刺激→神経→脳]
    のごとく外界を認識する一物理現象として捉える。
    「存在とは認識の一形態である」
    存在の分類
    1.総合的存在:位置要素を持つ完全個性にして、相互の認識は不可
    2.複合的存在:位置要素を持たない、認識要素が時間的、空間的に複合形態をなし、汎用性のため、相互認識が可能、人間の目、音 、匂い、触感、身体内機能群(理性、夢、想像、倫理、美学、数学、その他学術創造)
    3.単位的存在:位置要素を持たない、単一認識要素、汎用性のため、相互認識が可 能、数学、科学
    4.零位的存在:有に対応する無そのもの、完全汎用性のため、どのような次元でも相 互認識可能。 すなわち存在の基準となる。
    これによって、量子力学の不確定性、フェルミ粒子、ボーズ粒子の個性等存在論の範疇で記述することが可能と考えられる。

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