エントロピーの理論(09)他我は本当に存在するのか

2003年7月9日

自我に意識があるということは確実な事実である。では他我にも同様の意識があるということをどうやって証明したらよいのであろうか。この証明に行き詰まる時、ひょっとしたら、意識がある存在者は自分だけではないだろうかという独我論が頭をもたげて来る。

image

1. 哲学者を悩ませる独我論

今あなたは、アニメ映画を見ているとしよう。あなたは映画の主人公と自己同一し、主人公とともに恋人の死に涙する。だがふと我に返ると、映画の登場人物はすべて架空の存在者であり、自分が見ていたものは、たんにブラウン管に映し出された映像にすぎないことに気が付く。

これと同じことを現実の(とこれまで考えていた)世界にも応用してみよう。そして、自分が今楽しくおしゃべりをしている友人も、実は幻ではないだろうかと疑ってみよう。友人は、テレビの登場人物と違って、自分の質問に答えてくれる。しかしインタラクティヴTVが登場すれば、画面の背後に、本当の人間がスタンバイしているのか、たんにできの良いコンピュータと会話しているだけなのかわからなくなる。

疑惑はどんどん広がる。この本を書いている永井俊哉もひょっとすると意識のない作文マシーンではないだろうか。自分に他我の経験を伝えるマスコミは、すべて自分を騙してきたのではないかというように。そして最後は、「存在するのは自分一人だけなのか」という所にまで行き着く。

普通の人は誰もまじめにこんなことを考えない。しかし世の中には哲学者と呼ばれる奇妙な人種がいて、この問題で真剣に悩み続ける人もいるのである。かつて、近代哲学の開祖であるデカルトは、自分が人間だと思っている動く物体は、本当は人間ではなく、帽子と着物の下には自動機械が隠されているのではないかという懐疑を試みている。

2. 類推説批判

独我論を否定するためによく持ち出されるのが、次のような類推説である。例えば、他我の歯の痛みを理解することは、次のような類推から可能だとされる。

私は歯の痛みを感じる。

私は歯が痛い時、一定の振る舞いBを行う。

他者が一定の振る舞いBを行う。

その人は私と同じような歯の痛みを感じているに違いない。

このように、類推説は、1:3=2:xという比例式からx=6を推論するように、他我の心を類推する。この類推説に対して、二つの疑問を抱かざるをえない。

第一に、自我の存在が自明であるのに対して、他我の存在は数学の問題を解くような形でしか理解できないほど自明ではないのか。

第二に、他我の存在を認識することは、他我と同じ経験、同じ思考、同じ振る舞いをすることなのか。

私の答えはともに否である。私が他我の歯痛を直接感じることは、生理的にというよりは論理的に不可能である。もちろん類推説はそのようなことを主張していない。自我が感じるのと同じような歯痛を他我も感じるであろうと類推することはできると言っているだけである。だがそれにしても、自分と同じような経験をし、同じようなことを考え、同じような行為をする存在者は他我の名に値するだろうか。

忠実な部下のことを「右腕」と呼ぶことがある。肉体の一部としての私の右腕は、自分の脳が命令した通りにしか動かないから、他我として意識されないし、忠実な部下も上司が命令した通りにしか動かないから、組織という拡大身体の一部としてしか意識されない。

私がある行為者を他我として意識するのは、その行為者が、私の予期に反した行為をする、すなわち私が選択するのとは他のように選択しうるからだ。忠実だった部下に裏切りの兆しが見えた時、初めてその部下は私にとって他我になりうる。通常身体においても、拡大身体においてと事情は同じである。脳梁離断手術を施されると、右脳と左脳がそれぞれ管轄下の身体を勝手に動かすため、二つの人格が一つの身体に共存することになる。

意識ある存在者は、迷った挙げ句、何もしないこともある。しかし何もしないことも一つの決断だから、常に何らかの選択が行われていることになる。その際、選択肢の複数性ゆえに、私が選ぶのとは他のようにも選ぶことが可能だ。この可能的な他の私こそ、自我という明白な事実と共に、等根源的に明白に与えられる他我なのである。

3. 認識の他者性から他者性の認識へ

もちろん可能的他我と現実的他我は同じではない。また他我の存在の認識と他我の(動機などの)認識も同じではない。そこで、次の四つの認識が区別される。

  1. 可能的他我の存在の認識
  2. 可能的他我の認識
  3. 現実的他我の認識
  4. 現実的他我の存在の認識

Aから出発して、Bを目指すことにしよう。

  1. 認識が常に他のようでもありうるということは、私の認識と他の認識が可能的に存在するということであり、可能的他我が自我とともに与えられているということは明白である。
  2. 可能的他我が存在するのであれば、可能的他我についての認識も成り立つ。可能的他我の認識では、例えば、小説家が自分で創作した登場人物の動機や心理を認識する場合、犯人がどういう動機で殺人に踏み切ったかは、小説家に決める権利があり、したがって、可能的他我は、自我とは違った世界を選ぶにもかかわらず、自我は、可能的他我を意のままに認識できる。
  3. ところが、現実の他我を認識する時は、このようにうまくいかない。私の予期はしばしば裏切られる。このことは、可能的他我の認識とは別の現実的他我の認識が存在するということを意味している。
  4. 現実的他我の認識が存在するのであれば、現実的他我が存在しなければならない。ゆえに、可能的他我という明白な与件から、現実的他我を推論することができる。

近代の哲学者たちがこれまで試みてきたように、独我論を否定するために他我の存在を証明しようとすることは、よく考えると、滑稽なことである。証明するということは、必然的である、つまりこうであって他ではないということを主張することであり、そして「他のようには考えられない」ということは、「他のように考える他我がいない」ということを帰結するからだ。逆説的な言い方をするならば、私たちは、他我を完全に認識することが不可能ということに気が付いた時に、他我を認識するのだ。

読書案内
書名 省察・情念論
著者 デカルト 他
出版社と出版時期 中央公論新社, 2002/06
書名 世界の共同主観的存在構造
著者 広松 渉
出版社と出版時期 講談社, 1991/11