7月 102003
 

認識という複雑性の縮減が、常に他のようにも縮減できるという可能性を持つことは、私たちの認識が有限で、限界を持つということである。そして、自分の認識に限界があると認識できる人は、実は自分の認識の限界を超越している。限界の内部にいる人には、限界が見えない。限界を超越して初めて、限界を認識することができる。認識の限界を認識することは、超越を論じることであり、超越論的である。

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1. 有限性の自覚

抽象的な言葉を使わずに、もっとわかりやすく説明すると、「自分は愚かな人間だ」と自覚している人は、本当に愚かな人とは言えない。本当に愚かな人は、自分が愚かだということすらわかっていない人である。「生兵法は大けがのもと」という諺が教えるとおり、自分の能力の限界を知らない人ほど、大失敗をするものだ。自分の限界を心得ている人は、無理をしないし、その限りでは利口なのである。超越論的哲学の創始者はカントなのだが、その起源は、ソクラテスの「無知の知」にまで遡る。

超越論的(transzendental)は、超越的(transzendent)から区別される。ドイツ語の接尾辞《-al》には、「…に関する」という意味があり、したがって、超越論的認識とは、超越に関する認識ということになる。全知全能の存在者が限界を持たず、したがって限界を認識することもないので、端的に超越的であるのに対して、有限な存在者は自己の限界を意識せざるをえず、その認識の様態は超越論的になる。

それにしても、私たちの認識に限界があるということの認識自体が、限界を超えているということはパラドキシカルだ。そこには、もし私たちの認識が有限であるとしたならば、私たちの認識が有限であるという認識自体も有限であり、したがって、私たちの認識は有限とは限らないという自己矛盾は存在しないだろうか。

答えは否である。私たちの認識は、常に正しいわけではないが、常に間違っているわけでもない。「私の発言は全て間違っている」という発言は自己矛盾で、いわゆる嘘つきのパラドックスを帰結するが、「私の発言は全て間違っているかもしれない」という発言は自己矛盾ではない。対象レベルでもメタレベルでも偽と断定しているわけではないからだ。

はたして私たちは、自分の認識が全て不確定であると言うことができるのだろうか。私たちが何かを疑う時、何かの信念を前提にしている。否、もっと正確に言うと、何かを信じているからこそ、それと矛盾することがらを疑うのだ。

確かに、全てを一度に疑うことはできない。しかし全てを個別的に疑うことならできる。例えば、今世界にA・B・Cという3つの命題しかないと仮定しよう。私は、A・B・C全てを同時に疑うことはできない。しかし、Aを前提にBを疑い、Bを前提にCを疑い、Cを前提にAを疑うことならできる。結果として、全ては疑いうるということになる。超越論的認識とは、不確定的存在者による不確定性の自己反省である。

不確定性とは、「他のようでもありうること」であり、この「認識の他者性」が「他者性の認識」の基礎になっていることは、前節で既に述べた。だから、超越論的認識の対象は、超越論的間主観性である。そして「自分の認識に限界があると認識できる人は、実は自分の認識の限界を超越している」という命題を「自分の有限性を自覚している人は、他者の立場に立った多元的な思考が可能である」と新たに解釈し直すことができる。私は他者ではないが、しかし他者を理解できるという微妙な立場は、限界があるにもかかわらず、その限界を超越しようとする、超越の中間性に由来する。

同じことは、「この世界における他者」だけでなく、「この世界の他者」についても言える。そこで、次に、超越論的観念論の物理学版である人間原理に、新たな光を当てることにしよう。

2. 人間原理

人間原理とは、「なぜこの宇宙に私たち人間のような理性的存在者がいるのか」、「人間は偶然この世に現れたのか、それとも現れるべくして現れたのか」、「人間が存在しない世界は可能だったのか」という宇宙論的な問いに答えるために科学者が考え出した仮説である。

人間のような理性的存在者が、否それどころか原始的な単細胞生物であっても、宇宙に生まれてきたことは必然的ではなかった。もしもビッグバン初期の膨張速度が実際よりほんの少し速ければ、重元素(水素やヘリウム以外の元素)や銀河が形成されず、低濃度の水素ガスが希薄になるだけの歴史しか展開しなかっただろう。逆にもし膨張速度が実際よりほんの少し遅ければ、宇宙は数分の1秒以内に崩壊しただろう。いずれの場合にも、生命の存在余地はない。生命を育む宇宙を初期の特異点が作る確率は10の1230乗分の1と試算されている。

宇宙開闢の段階で、生命誕生はもう既に十分偶然的と言えるが、生命が誕生する条件が整うためには、これ以外にも多くの偶然が重なっている。プランク定数、光速度、電子と陽子の質量比などが現在の値と異なっていても生命は存在しなかったはずだ。またこうした基本的な条件がそろっていても、もし太陽系の適正な惑星数、太陽と地球の間の適当な距離、地球の程よい重力、大気の温暖効果、太陽風や紫外線のカットなど様々な偶然のうち1つでも欠いていたら、地球上に人間は誕生していなかった。このように、宇宙に人間が現れたのは、奇蹟的な偶然である。

人間原理は、宇宙から人間存在を説明するのではなくて、逆に人間存在から宇宙を説明することによって、この偶然を説明しようとする。ビッグバンから人間の存在を導こうとすると、奇蹟のオンパレードになってしまうが、人間の存在から宇宙の現状を導こうとすると説明に必然性が出てくる。ただ多くの科学者は、原因から結果を説明する因果論的説明に慣れていて、結果から原因を説明する目的論的説明を受け入れることができない。

人間原理には弱い人間原理と強い人間原理がある。前者は、「主として重元素からできている太陽系や人間が存在するためには、宇宙の開闢当時存在しなかった重元素が星の内部で合成され、それが星の爆発によって外部に放出され、そこから太陽系ができるまでに100億年以上かかるから、宇宙の年齢は100億年以上である」といったもので、常識の範囲内である。

強い人間原理は、もっと過激である。宇宙の存在は、人間のような知的生命の認識に係っており、もし宇宙に知的生命がなかったとすると、その宇宙の存在は認識されないのだから、存在しないも同然であるとまで主張する。こうした「我思う、ゆえに宇宙は存在する」という主張は、自然科学者にとっては奇妙に思えるかもしれないが、哲学者にとってはおなじみの超越論的観念論である。

素朴実在論を信仰する人々は、超越論的観念論に非科学的というレッテルを貼ってきたが、現代科学は、超越論的観念論と親近性をむしろ強めている。宇宙の年齢にしても、観測できる最も遠くにある天体、クェーサーが150億光年の距離にあるので、ビッグバン以後、光が宇宙を進めるようになった宇宙の晴れ上がりは150億年前頃だろうと推定するのである。私たちの認識は光を通じて行われ、そして光の限界が宇宙の限界だとするならば、そこから認識の限界が世界の限界だという超越論的観念論のテーゼが帰結する。

3. 物自体の量子力学的解釈

超越論的観念論は、認識主体が存在しなくても存在する、限界のかなたの世界を物自体と名付ける。定義により、物自体を認識することはできないが、その存在を想定することならできる。物自体など存在しないという哲学者もいるが、量子力学の多世界解釈を使えば、物自体の物理学的対応物を見出すことができる。

量子力学の多世界解釈によれば、宇宙はミクロなレベルでの可能性の数だけ分岐し、結果として無数の宇宙が実在することになる。もしも宇宙が1つしか存在しないなら、10の1230乗分の1の確率でしか起きない出来事が起きることは奇蹟だが、もし10の1230乗個の宇宙が存在するなら、そのうちの1つに生命が存在しうる宇宙があったとしても驚くに値しない。

哲学の世界では、長らく因果論的機械的世界観と目的論的有機的世界観が対立してきた。多世界解釈に基づく人間原理はこの二律背反を止揚することができる。すなわち、宇宙開闢以来、あらゆる可能性が実在する宇宙として機械的に分岐し、そのうちの1つとして私たちが存在する宇宙が生まれたに過ぎない。しかし、その宇宙1つだけを取ってみるならば、現在の私たちの存在を前提に宇宙の過去を説明する目的論的説明が許される。

私たちは、認識という複雑性の縮減を通じて、私たちが存在するこの世界を選び取っているのだが、複雑性の縮減を通じて排除された他の世界は、私たちがその中に住んでいる宇宙という孤立したシステムの環境に属するがゆえに、それについては何もわからない。しかしそれを空想の産物として片付けるわけにはいかない。むしろ、認識の限界を超えた多世界の総体こそ物自体である。

読書案内
書名純粋理性批判 上
著者イマヌエル カント 他
出版社と出版時期以文社, 2004/04
書名純粋理性批判 下
著者イマヌエル カント 他
出版社と出版時期以文社, 2004/04
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  2 コメント

  1. いつもお世話になっています。次の諸点についてご教示頂けないでしょうか。
    1.『超越論的認識とは何か』でいう「複雑性の縮減が、常に他のようにも縮減できるという可能性を持つこと(後略)」と『一般システム学』『システムの基本概念』でいう「システムとは要素の選択性であり、その結合様式がシステムの構造となる。」の両文は同じ文脈と見て宜しいでしょうか。選択(可能性)から外れた領域が物自体や間主観性と捉えるのは妥当でしょうか。両文における認識と構造は対応関係にあるようですが。
    2.『2.人間原理』にある「生命を育む宇宙を初期の特異点が作る確率は10の1230乗分の1と試算されている」において特異点とはビッグバンを指すとして、この数字の根拠は何でしょうか。これは次にある量子力学の多世界解釈に基づく値でしょうか。
    3.『3.物自体の量子力学的解釈』において「認識の限界を超えた多世界の総体こそ物自体である。」とありますが、認識の内容や程度は人により異なりますので人間の数だけ世界があるとする方が現実的と思われます。それとも物自体とはダークマターやダークエネルギーを指すのでしょうか。

  2. まず、私の議論とカントの議論を区別して考えましょう。カントが言う「物自体」は、形而上学的(メタ物理学的)な概念で、経験科学としての物理学が想定する多世界をさらに超越した世界です。100年後、科学者たちは、多世界という概念を否定しているかもしれませんが、それでも科学者たちは、世界について何らかの概念で語っていることでしょう。カントが想定する「物自体」は、経験科学の理論がどうなろうが、科学者たちがそれについて語り続ける、前述定的な対象のことを言っているのであって、「物自体とはダークマターである」というように、何らかの述定を行ったとたん、それは物自体ではなくなって、現象になってしまいます。私は、カントが行った物自体/現象界の区別を現象界の内部で繰り返していますが、メタ物理学的な議論と物理学的な議論は、区別して考える必要があると思います。なお、10の1230乗分の1という数字は、どこかの本に書いてあった数字を参照したのですが、出典は失念しました。判明したら、追記します。

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