7月 112003
 

古来、哲学者たちは、時間とは何かと問い続けてきた。時間の定義はともかく、その性質は明白である。時間を特徴付けているのは不可逆性であり、そして孤立したシステムであるこの宇宙のエントロピーも、不可逆的に増大する。ここから、一部の物理学者は、エントロピーの法則を、時間の自然法則ではなく、時間の定義と捉えている。つまり、時間とともにエントロピーが増大するのではなくて、時間とはエントロピーの増大以外の何物でもないというわけである。

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1. 時間そのものと時間意識は異なる

もとより、哲学者が問題としている、そして普通の人が興味を持つ時間は、そうした物理的時間ではなく、意識の流れとしての時間である。熱力学的な熱のエントロピーだけでなく、意識システムの縮減対象である意味のエントロピーも時間とともに増大していくのだろうか。

意識システムは、意味に対する無意味、真理に対する誤謬などを排除することで、自らを維持する。時間の経過とともに、経験と思索は量的に増大し、意味のエントロピー、すなわち解釈における他の可能性も増えていく。この点では、意味のエントロピーも不可逆的に増大していくように見える。

だが、増大する意味の過剰は、忘却によって減少するから、意識においてはエントロピーが常に増大し続けるとは言えない。そもそもエントロピーの法則は、孤立したシステムにおいてしか成り立たないので、孤立していないシステムである意識システムにまで、この法則が適用できなくても、当然なのである。

2. 時間意識は抵抗の産物である

では、私たちの時間意識を分析する上で、エントロピー概念は不要なのか。そうではない。私は、意識においてはエントロピー増大の法則が成り立たないということに、むしろ逆に積極的な意味を見出したいと考えている。すなわち、エントロピーの増大が時間であるのに対して、時間意識とは、増大するエントロピーに対する抵抗であると考えることによって、時間意識を時間そのものから区別したい。

時間はしばしば川の流れに喩えられる。川は時間と同様に、一方向に不可逆的にしか流れないからだ。今、この川に橋が架かっていて、その橋脚に、1匹のカエルが、川の流れに逆らってしがみついているとしよう。カエルが、川の流れを肌で感じることができるのは、カエルが川の流れに逆らっているからで、橋脚にしがみつくという努力を放棄し、川の流れに身を委ねるならば、カエルは、川の水と動きを共にするから、もはや肌で川の流れを感じることはない。

私たちが時間意識を持つのは、カエルが川の流れを肌で感じることと類比的である。私たちは、生命システムとして、あるいは意識システムとして、環境におけるエントロピーの増大に逆らう努力を続けている。この努力を放棄することは、システムの消滅、すなわち死を意味し、そして死んでしまえば、私たちは、時間意識をもはや持つことはない。

もっとも、エントロピーの増大に抵抗している全てのシステムに時間意識があるわけではない。迷わない存在者には意識がないから、当然時間意識もない。川のメタファーで言うならば、川の流れに抵抗しているが、その抵抗の仕方に不確定性がない橋脚がこれに相当する。橋脚は、カエルとは違って、川の流れを感じていない。また、川を完全に超越している橋の本体も、当然のことながら、川の流れを感じない。

3. 時間意識は超越と埋没の間で生じる

時間意識を持つ存在者は、エントロピーの増大に対する不必要性と不可能性(無能力)の中間に位置する存在者だと位置づけることができる。遺伝子によってあらかじめ選択がプログラムされている存在者や偶然に身を委ねる刹那的存在には時間意識はない。また、神のような全知全能の存在者は、時間を完全に超越しているので、時間意識を持たない。時間意識を持つシステムは、生き残る必要があり、かつ生き残るために、過去の経験をもとに未来の予測を行う、つまり学習する能力がある存在者である。

学習する存在者は、なんらかの失敗をすると、未来においてその失敗を繰り返さないために、その原因を突き止めようとして、現在から過去へ遡って思索する。この現在から過去に因果連鎖を遡り、「理由」を求める思惟の運動こそ、「推論する」能力を持った「理性」的存在者に特有な、エントロピー増大に対する抵抗である。ここで、英語の《reason》には、「理由」、「推論する」、「理性」という意味があることを思い出そう。

風邪をひいた経験のある人が、なぜ風邪をひいたのだろうかと過去に原因を探し、窓を開けたままにして寝たからだと推論して、窓を閉めて寝たところ、風邪をひかなかったとしよう。このように、私たちは、たんに過去に遡って原因/結果関係を推論するのみならず、この過去/未来関係を未来/過去関係へと逆転させ、目的/手段関係を設定する。すなわち、「窓を閉める」→「風邪をひかない」という流れを逆にして、「風邪をひきたくない」→「窓を閉める」という実践を行う。時間の流れに身を任せる刹那的存在者は、決して、目的合理的行為を行わない。目的設定は、推論と同様に、理性的存在者による時間の流れへの抵抗である。

理性的存在者は、時間の流れに抵抗するが、時間の流れを変えることはできない。赤インクを水槽に落とすと、インクの分子が拡散し、やがて水槽が薄いピンクになることを観察することをできても、その逆の現象を観察することはできないが、映写機を逆回転させれば、バーチャルな世界で、エントロピーの法則に違反する現象を観察することができる。もちろんそれはバーチャルな世界での話であって、現実の世界では、映写機が電気を消費するため、映写機の逆回転はエントロピーを増大させている。だからエントロピーの法則は決して破られることはない。それは、カエルが水流に抵抗しても、川の流れの向きが逆になるわけでないのと同じことである。

私たちは、時間的に有限な存在者であるにもかかわらず、過去と未来に向かって、今という時間的限界を超越しようとする。完全に時間を超越しているわけでもなく、また完全に時間に埋没しているわけでもない中間的な超越論的存在者だけが時間を意識することができる。

読書案内
書名時間とは何か
媒体単行本
著者チャールズ・H. ホランド 他
出版社と出版時期青土社, 2002/11
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私が書いた本

  6 コメント

  1. エントロピーの増大が、縮減された認識であるというようなことはあるのでしょうか?

  2. 質問の意味がわかりません。認識によって情報のエントロピーを減らすためには、それ以上のエントロピーを認識システムの外部で増やさなければいけないという意味なら、正しいです。

  3. エントロピーという一つの切り口で時間を語ろうという試みだと思うので、質問が不適格とは思いますが…
    3.時間意識は、超越と埋没の間で生じるにおいて、急に、時間区分である、現在・過去・未来、および「今」が用いられていますが、それらは、どのように時間意識のなかで与えられているのですか?

  4. 現在・過去・未来というのは、「今」という特異点で区切られた区分ですが、「今」は、「ここ」や「私」と同様、意識主体の存在の特異性に依拠した概念です。だから、時間意識の中で、「今」は、意識する主体の存在が意識されることで与えられるのです。それは、空間意識の中で、「ここ」が、意識する主体の存在が意識されることで与えられ、社会意識の中で、「私」が、意識する主体の存在が意識されることで与えられるのと同じことです。

  5. ありがとうございます。
    「今」-「ここ」-「私」が存在それ自体に意識が積極的に働くことで現れてくる。そこで現れた「今」を反省することで、再認的に過去・現在・未来が構成されるということですね。

  6. 時間は、総合的存在の時間においては不可逆であるが、複合的存在の時間は可逆である。 我々はいつでも歴史の旅が出来る。
    時間は我々には認識できない総合的存在の空間では進むことも、遅れることもない。
    しかし、特殊相対性理論上の時間は実在の空間を断片した、複合的存在、または、単位的存在(数学の空間)にて展開することから、相対運動している慣性空間の時間軸がずれる。 ただ観測上のズレであり、実世界はなにもズレていないのである。

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