エントロピーの理論(12)なぜ空間は三次元なのか

2016年5月17日

空間は、時間ほど謎めいていないように見える。そして、普通の人は、3次元の空間の中で生きていることを自明だと考えている。だが、空間の3次元性は、決して直接的に知覚されるわけではない。私たちが最も頼りとしている感覚は、視覚である。しかし視覚は2次元であって、3次元ではない。例えば、立方体は、斜めから見ると、正6角形に見える。そして本来直角であるはずの角は、120度や60度に見えてしまう。このことは、3次元の物体が2次元の網膜視野へと射影されていることを意味している。では、私たちはどのようにして2次元的に与えられた網膜像を3次元的に知覚するのだろうか。

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1. 空間は視覚によっては与えられない

心理学者は、3次元的知覚の要因として、網膜像的要因と網膜像以外の要因を区別する。網膜像的要因とは、網膜像の大きさ(大きいと近いように見える)、きめの密度の勾配(密度が濃いと遠くに見える)、重なり合い(重ねられると後ろに見える)、大気遠近法(遠くを薄く描く)、線遠近法、陰影などのことである。しかしこれらは、2次元の映像を3次元に見えるようにするためにアニメ産業が使っているテクニックであり、私たちの視覚が3次元であることの根拠にはならない非本質的な属性である。

では、網膜像以外の要因である、水晶体調節、両眼視差、輻輳はどうであろうか。眼が遠くを見るとき、水晶体はチン小帯に引かれて薄くなる。すると水晶体の屈折率が小さくなり、焦点距離が長くなる。だから単眼でも遠近を感じることができるのだが、私たちはさらに位置の異なる2つの目を持ち、左右でずれた網膜像を融合することにより、視覚を立体化しようとする。その際、輻輳角(凝視点で交叉する両視線のなす角)から対象の距離を判断することもできる。

もとより私たちは、実際の空間知覚でこうした計算をしているわけでもないし、光学的な推論をしているわけでもない。私たちの空間知覚はもっと直感的で体得的である。そもそも私たちは、水晶体が薄くなったり、輻輳角が小さくなったりすると遠くを見ているということをどのようにして学習したのか。

2. 視覚は能動的感覚と連合する

視覚的体験だけでは不十分と考えた近代の哲学者たちは、3次元の知覚は触覚的体験との連合により可能になると考えた。開眼手術を受けた成人は、健常者と物理的に同じ網膜像を見るにもかかわらず、それを3次元空間内に位置付けて解釈することができないのは、幼少期に視覚と触覚の連合が行われなかったためだというわけである。

では、視覚と触覚の有意味的な連合は、いかにして行われるのか。私は、この問題を考えるために、感覚を受動的感覚と能動的感覚とに分類してみたい。能動的感覚とは、現象学のジャーゴンで言えば、キネステーゼのことである。キネステーゼとは、運動を意味するギリシャ語「キネーシス」と、感覚を意味するギリシャ語「アイステーシス」の合成語で、運動感覚と訳される。しかしここでは、対比をはっきりさせるために能動的感覚と呼ぶことにしよう。

3. 自由意志の挫折が能動的感覚である

読者の中には、「静止している車に時速30キロで手を当てても、時速30キロで走っている車が静止している手に当たっても、物理的刺激は同じであり、したがって感覚を受動的/能動的に分類することには意味がない」と反論する人がいるかもしれない。しかし能動的感覚は、自由意志に基づいているという点で、受動的感覚とは質的に異なっている。自由意志に基づいて、身体を運動させれば、仮説→検証(反証)→確認(修正)という実験のプロセスを通じて、感覚を有意味に連合させることができる。

自由意志は、ある時は身体を動かすことができ、またある時は障害にぶつかって動かすことができない。もしも自由意志が、常に抵抗を受けることなく身体を動かすことができるのならば、あるいは逆に常に身体を動かすことができないのなら、私たちは決して空間を意識することはないだろう。それは、全ての物体が全ての波長の光を吸収する暗闇の世界も、全ての物体が全ての波長の光を反射する真白の世界も、私たちの視覚に何の情報も与えず、したがって私たちは視覚が全くない状態と区別できない状態になるのと同じことである。情報エントロピーが最大の1でも最小の0でも、情報価値は無になる。

2次元的に与えられた視覚の3次元性を確かめる一番原始的だけれどもそれだけに根源的な方法は、視覚平面に垂直に手を伸ばすことである。手は自由意志に基づいて、前へと伸び、抵抗を受けて自由は阻止される。手を伸ばす能動的感覚が、手に衝動を感じる受動的感覚を引き起こして、はじめて私は視覚対象との距離を知るのである。乳児は、目に入ったものを何でも手を伸ばしてつかもうとするが、あれは視覚の3次元性を確認する学習を行っているのだと解釈することもできる。

視覚における水晶体調節や両眼輻輳も一種の身体運動であり、能動的感覚と受動的感覚の議論は、視覚だけでも成り立つ。もちろん運動視差のような、眼以外の身体の運動が引き起こす視野の変化も空間構成に寄与していることは言うまでもない。3次元性の知覚には、身体運動によって媒介された能動的感覚と受動的感覚の両方が必要である。

4. 物自体は三次元空間ではない

私たちと同じ光学的刺激を受動的に感覚するが、自由意志では、2次元にしか能動的に身体を動かせない知的生物がいたとするならば、その生物は「空間は3次元だが、身体は2次元にしか動かせない」とは考えずに、「空間が2次元だから、身体も2次元にしか動かせない」と考えるだろう。私たちは「空間が3次元だから、身体も3次元にしか動かせない」と考えているが、実際には、私たちは、自由意志では、3次元にしか能動的に身体を動かせないからこそ、私たちにとって、空間は3次元なのだ。

アインシュタインは、4次元時空体を提唱したが、普通の人は、時間を空間の第4の軸とは考えていない。それは、空間の3方向が可逆的であるのに対して、時間の流れは不可逆的だからだ。理性は時間を現在から過去へとバーチャルに遡ることができるが、身体を現在から過去へと動かすことはできない。超ひも理論によると、時空は10次元なのだが、私たちは、既に知っている4次元以外の6次元の空間ベクトルを、概念的に理解できたとしても、直観的に理解することはできない。

5. 時間も空間も抵抗感覚だ

時間という概念が、不可逆性に抵抗する感覚から生まれるに対して、空間という概念は、自由意志による身体運動が受ける抵抗の感覚から生まれる。時間も空間も、外界にある物を意識が模写して得た観念ではない。時空は、自由が抵抗を感じる限界を超越論的に反省することで得られる限界概念なのである。

読書案内
書名 An Essay Towards a New Theory of Vision
著者 George Berkeley
出版社と出版時期 Kessinger Publishing,
書名 視覚新論
著者 George Berkeley, 下條 信輔 (翻訳), 植村 恒一郎 (翻訳), 一ノ瀬 正樹 (翻訳),
出版社と出版時期 勁草書房, 1990/11
書名 新視覚新論
著者 大森 荘蔵
出版社と出版時期 東京大学出版会, 1982/01