7月 152003
 

1996年11月6日、東京都内のマンションの1室で、14才の息子(政彦)の家庭内暴力に悩む父親(加山健)が、息子を金属バットで殴り殺し、社会に大きな衝撃を与えた。事件発生当時よりも、家庭内暴力の詳細が明らかになった時の方が、世間の関心は高まった。息子に優しかった父が、なぜ息子を殺さなければならなくなったのだろうか。

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1. 家庭的背景

従来、こうした家庭内暴力の問題が起きると、「親による勉強の強制」や「学歴社会のゆがみ」が原因あるいは背景として好んで挙げられた。そして、この事件でも、当初そうしたことが疑われた。父親は、東京大学を卒業後、当時倍率百倍の難関であった老舗の青木書店の就職試験に合格し、有能な編集者として活躍したエリートだったからだ。

だが、娘の証言によると、この家庭では、両親が子供に勉強を強制することは全くなかった。加山健は、高校時代、日教組系の国語の教師に心酔して、大江健三郎の芽むしり仔撃ちを愛読する、共産主義的ユートピアの信奉者だった。左翼系書籍の出版で有名な青木書店で、加山健は、編集者として、障害者問題などの本を手がけた。「それまでは、能力主義的な考え方をしており、能力がある人が優れていると思っていたが、障害を持っている人も価値は同じであるという考え方に変わっていった」と後に本人は語っている。その背景には、自分自身が子供の頃、吃音という障害で悩んでいたことがあった。

東大紛争時代に、加山健と東大で知り合って結婚した妻も、同じような考えを持った全共闘世代の親で、東京のエリートの家庭がよくやるように、名門私立中学を受験させるために息子にプレッシャーをかけることはしなかった。息子は、小学校時代には塾に通わず、公立中学に進学する。教育評論家好みの表現を使うならば、息子は「偏差値教育に毒されることなく、自由にのびのびと育った」ことになる。

加山健は、戦後民主主義を象徴するようなきわめて温厚な性格の持ち主で、親から暴力を振るわれたことも、子供に暴力を振るったことも、事件までは皆無だった。ゲバルトが横行した東大紛争時代でも、何事も話し合いで解決しようとする非暴力の立場を貫いた。父親は息子のために一緒によく遊んでやったので、周囲からは「仲の良い親子」と思われていた。家庭内での意思疎通は、他の家庭よりもずっと充実していた。なぜ、この理想的に見える家庭で悲劇は起きたのか。

2. ファルスへの欲望

娘(政彦にとっての姉)は「マーちゃん(政彦)の暴力の原因は何だろうとずっとそれだけを考えてきました。でも、あれだけ生きている時にわからなかったのですから、死んでしまった今は、もういないのだから、わからないと思います。本人にしか絶対わからないだろうと思います」と言っているが、一見不可解な政彦の言行も、彼がファルスとの自己同一を試みていたと仮定すれば、明快に説明できる。

事件の遠因は、ゼロ歳保育にある。裁判での証言によると、加山夫婦は共働きだったために、息子は、生後3ヶ月で保育園に預けられることになったのだが、入園の時、見知らぬ建物に入るのを嫌がって泣いたとのことである。あまりにも長い間保育園に行くのを嫌がったために、保育園から「こういう子は初めてだ」と言われた。3歳の時、デパート側が風船をあげようとすると、政彦は、風船が飛んで行ったら怖いからと言ってもらおうとはしなかった。保育園での金魚すくいの時、もらって帰ると死ぬからいやだと言って、もらわないで帰ってきた。

政彦は、小学校へ行くことをも嫌がった。どこであれ、自分が知らない新しい所に入っていくことに対して強い拒否感を示した。ドアにしがみついて外に出ようとしない政彦を父と姉が引きずるように連れて行った。そうした状態が、数ヶ月続いた。だが、政彦は小学校自体が嫌だったわけではない。その証拠に、学校にいる時は、何も問題はなかった。母親のもとから引き離されるのが怖かっただけなのだ。

察するに、政彦は「母が僕を見知らぬ所に連れて行こうとするのは、母が僕を嫌って遠ざけようとしているからだ」と感じたようだ。もちろん、実際には、母は息子を愛していたのだが、息子はそう受け取らなかった。政彦は、母から切り離される不安を人1倍強く感じたようだ。飛んで行って見えなくなる風船、親元から切り離され死んでしまう金魚への拒絶は、母から切り離される不安を政彦なりに表現したものだ。政彦は、鏡像段階のコミュニケーションで躓いたのだ。

政彦は、母からの愛を十分に感じることができなかった。そこで、彼は、母ではなくて、友人たちの注意を惹き付けようとするようになる。前節の言葉を使うならば、ファルス同一化願望を実現するための他我を、母親ではなくて、同級生に求めたわけである。小学校・中学校時代の同級生によると、政彦は、ひょうきんな振る舞いで周りを明るく笑わせる、仲間内では中心的な役割をする生徒で、女子生徒からも人気があった。先生をからかったりもしたが、それはみんなが面白がって煽ったから、代表として言うという感じだった。元校長も、政彦がひょうきんな行為で周りのウケを狙っていたと回顧している。明らかに、政彦は愛に飢えていた。そして、周囲の欲望の対象であるファルスになろうとした。

3. 父親に対する幻滅

通常、子供たちは、欲望の対象である母の欲望の対象である父を自我理想とし、自我理想への自己同一を試みる。では、政彦にとって、父は模範でありえたのだろうか。政彦は、自分が学校での人気者になったように、自我理想である父が、周囲に自慢できる人物になることを望んだが、現実の父は、政彦の期待に添う器ではなかった。

父は、「政彦が(小学校)4年か5年の時、他のお父さんと比較しているという話を聞きました。『うちのお父さんは優しい』とかでした。今考えると弱いということだったのかもしれませんが、当時は『嬉しい、これでいいんだ』と思っていました」と証言している。政彦は、決して自慢して「うちのお父さんは優しい」と言ったわけではなかった。中学校の時、学校の部活の先生から、「お前の親父は甘すぎる」と言われて、「シュンとしていた」様子が目撃されている。

政彦の暴力は、94年11月に始まった。暴力は、当初、母親に向けられた。これには2つの狙いがあったと見ることができる。1つには、母を蹴って、突き飛ばすことにより、自分を突き放そうとした母に復讐しようとした。もう1つは、母に暴力を振るう息子に対して、父が、父としての威厳を見せるかどうかを試したのだ。母への暴力は、3日に1回の頻度で発生したが、父は息子を叱らなかった。実はこの頃、父は自分自身の挫折から抜け出すことで頭がいっぱいで、家庭内の出来事を良く覚えてさえいない。

共産主義的ユートピアを信じていた加山健は、1991年にソ連が崩壊した時、「だまされた」と出版社の同僚に言った。そして、社会主義的理想を理論から実践へ移すために、92年に出版社を退社して福祉の勉強を始め、94年の4月から、精神科クリニックでケースワーカーとして働くことになった。しかし慣れない仕事に適応できず、健は自信を失って、6月頃から顔が青白くなり、げっそりと痩せていき、やがて自殺したいと思うようになった。

ちょうど同じ94年の6月に、中学校という新しい環境に入った政彦は、授業態度の悪さから、教師にひどく叱られ、政彦は母親に自殺をほのめかした。父と息子は鏡像的分身ではないかと思われるぐらい境遇が似ていた。政彦が母に暴力を振るい、父の威厳を試した94年の11月は、父が最も無力で自信を失っていた時期なのだ。

95年1月、父が学術団体の事務局への転職を決意し、面接を受けに行った月、政彦は、初めて父に暴力を振るった。父は、息子の暴力を制止しようとしたが、暴れたことに対して叱ったり、体罰を与えたりすることはなかった。娘は傘を持ち出し、それで政彦を制止しようとしたが、後で、両親から「もうそんなことしないで」と諭された。両親の対応は甘かった。

やがて冷静になった息子は、父に一緒に散歩しようと言って、2人で夜遠くまで出かけた。父は、この時息子があまりにも落ち着いていたので、「何でさっき暴力振るったの」と聞くことができなかった。後の裁判で、父は「あの時、彼は怒られたかったのかもしれない」と言って、「暴力はいけない」という話をしなかったことを後悔している。

4. エスカレートする暴力と最悪の結末

息子の暴力はひどくなるばかりだった。ある日、息子は父親に、「土下座しろ」と命令した。土下座すると、息子は父親を足で蹴ったり、手で殴ったり、コタツの板を投げつけた。暴力を振るう息子を父親が見上げると、息子は涙を流して泣いていた。これを見て、父親は、「息子もつらいんだ、苦しんでいるのは息子だ」と確信して、暴力を受け止め、息子のするがままにまかせることにした。息子に無制限に優しくすれば、息子は親の愛を受け止めてくれると思ったのである。しかしこれは逆効果であった。

なぜ息子は、父親が命令に従って土下座したのに、暴力を振るって泣いたのか。息子の「土下座しろ」という命令は、父親に、息子の理不尽な命令を拒絶し、父親らしい毅然たる態度を求めていた。だから命令に文字通り従うことは、息子の欲望には反していた。ちょうどインポテンツに悩む男性が、立たないペニスを嘆き悲しむように、息子は、挑発的な言葉を投げかけても「立たない」父親を嘆き悲しんだのである。

息子は、自分の部屋で母親にも土下座させた。すると息子はひざまずく母の頭を足で踏みつけた。血しぶきとともに前歯が折れた。95年7月、母親は、エスカレートする息子の暴力に耐えられなくなり、家を出て、別居を始める。息子の暴力はもっぱら父親が1人で引き受けることになる。父親は、日常的に息子の暴力にさらされ、鼻の骨を折るなど生傷が絶えなかった。

息子は、父親に服やおにぎりやファミコンの攻略本などの買い物を命じる。そして父親が買ってくると、「てめえ、なめんなよ。何でこんなもの買ってきた。返してこい」と罵声を浴びせて父親を殴打する。息子は、買ってきたものが気にくわないから暴力を振るっているわけではない。もし気に入ったものを入手したいのであれば、あらかじめ細かく注文するはずである。しかし彼はわざとあいまいに買うものを指定する。暴力を振るうことが目的で、「気に入らないものを買ってきた」は口実に過ぎない。

父親の証言によると、95年の9月ごろ、無抵抗を勧めるK精神科クリニックの医者に「奴隷のようにこき使われて耐え難い」と訴えた。しかし医者は、「そういう対応するのも子供を良くするための一つの技術だと思ってください」とアドバイスしたとのことである[d]。父親は、「先生の言葉にほっと安心した。それ以降、暴力を受け入れることがおかしいことだとは思わなくなった。つらかったが、暴力を受け止めるための軸になったのが、この『技術』という言葉だった。」「私は暴力をほとんど体験しておらず、予想もしていなかった。だから驚き、本もたくさん読んだ。しかし、暴力を振るう子供を受け入れても、絶対に暴力自体は受け入れてはいけないという本や相談機関にはめぐり合わなかった」と回想している。

[d] この医師は、そのような発言はしていないと主張している。

父親は、TフリースクールやK病院で、同じ悩みを抱える親とグループカウンセリングを受けた。親たちはみんな、子供の暴力を無抵抗で受け入れるべきだと考えていた。皮肉な見方をするならば、家庭内暴力は、そうした考えを持つ親のもとで起きているということが言えそうである。

父親の自己犠牲的な息子への愛は、息子を幸せにはしなかった。96年1月、父親が職場から帰ると、息子が、裸同然でぐったりと倒れていた。精神科クリニックからもらった錠剤を8錠も飲んだのである。自殺未遂である。その時息子は、「おれなんか生きていたってしょうがない」とつぶやいた。

ところが96年4月、中学3年になると、息子に変化が見られるようになる。授業に出る頻度が高くなる。息子はこの頃からこの家で1番偉いのは自分であると口で言うようになる。以前とは異なり、暴力に理由がなくなる。「てめえ、最近調子に乗ってんじゃないか。この辺で締めてやる」などと言いがかりをつけて暴力を振るう。妻の衣類や本を全部父に捨てさせるなど暴君ぶりを発揮した。

自分の家庭には強い父親がいない。そこで、息子は当初、父親がファルスとなることを願った。前節の言葉を使うなら、息子はファルス所有願望を持ったわけである。ところが、その願望が満たされることはなかった。家庭にファルスが存在しない以上、息子には、自分がファルスとなること、自分が強い父親となること以外に残された道はなかった。

父は、96年8月から、再び自殺願望が強くなる。しかし、8月末から9月の上旬にかけて、自殺願望に代わって、息子への殺意の感情が生まれ始めた。このことは、自分を殺すことと息子を殺すことが、等値であることを意味している。逆に言えば、父が証言したように、「政彦にとっても、親を殴ることが彼自身にダメージを与えていた」。

父にとって息子は、そして息子にとって父は、鏡に映し出された自分自身なのだ。息子が、土下座する、不甲斐ない父を泣きながら殴ったのは、そこに不甲斐ない自分を見出したからだ。息子は、父を殴打している時、「防ぐな」、「痛そうな顔をするな」、「声を出すな」と命令した。だから、父は、腕などで顔を防御することなく、顔を歪めずに、叫び声も上げずに、暴行を受けていた。もし父が、痛そうに身を屈め、顔を歪め、悲鳴を上げたら、息子は、鏡に映し出された悲惨な自分を見て、嘆いたに違いない。

父にとっても、一向に希望の光が見えてこない息子の状態は、一向に希望の光が見えてこない自分の人生の象徴だった。父は、息子を再建することでしか、自分を再建できない関係に陥っていたのだ。多くの人は、「なぜ父は、これほどの暴力を受けながら、息子から離れなかったのか」と首をかしげるのだが、裁判での証言によれば、父は、そうしたことを考えすらしなかったとのことである。父は、「家に帰って、政彦のそばにいると落ち着く。」「頼みごとをされて、私が言うことを聞いてあげられるので、政彦が落ち着く」と言っている。父も息子も、お互いに、他者を媒介にしなければ、自己同一ができない。これは、ヘーゲルが謂う所の、主人と奴隷の弁証法である。

父は、鏡に映し出された、ますますひどくなっていく自分を見ることが耐えられなくなって、最後は、金属バットで鏡を叩き割った。出版社の元同僚は「加山君が金属バットで撃ち殺したのは、息子さんではなく、加山君自身だったのかもしれない」と言っているが、これは正確な表現だ。

5. この事件はどうすれば防げたのか

金属バット事件の検証番組を手がけたテレビ朝日のディレクター、後藤和夫は、次のように言う。

家族とは、理不尽な愛情による桎梏ではないのか。息子が欲しかったのは、仮面をかぶり続けた父親なんかではなく、邪悪であろうが、卑怯であろうが、理不尽であろうが、わがままであろうが、生身の存在としての人間としての父親ではなかったか[…]「優しい父親」は間違っていない。ただ「優しい父親」とは、普通に正直な人間であることだ

後藤和夫も含めて、全共闘世代の人々の中には、権力という桎梏の抑圧から解放すれば、人間を幸福にすることができると考える人が多い。ミシェル・フーコーは、これを「抑圧の仮説」と名付けた。旧文部省が、ゆとりの教育を推進し始めたのは、寺脇研のような全共闘世代の官僚が幹部になってからである。労働者を資本主義の桎梏から解放しなければ、あるいは子供を学歴社会の桎梏から解放しなければ、真の人間性を回復することはできないといった主張は、抑圧の仮説に基づいている。私が問題にしたいのは、こうした抑圧の仮説である。

後藤和夫が主張するように、息子は、弱みを正直にさらけ出す、人間味あふれる父を望んでいたのだろうか。そして、「理不尽な愛情による桎梏」からの解放を望んでいたのだろうか。そうではない。もしも息子が「仮面をかぶり続けた父親」を望んでいないとするならば、なぜ暴力を振るっている時、父に、防御もせずに、顔を歪めることもなく、悲鳴も上げない、ロボットのような冷たい父を演じることを求めたのか。息子が求めたのは、息子が力いっぱい殴っても、何でもないかのように「強い父」を演じることだったのではないのか。息子は、愛からの解放を望んだのではなくて、逆に愛に飢えていたのだ。

金属バット殺人事件は、共産主義のイデオロギーが、現実の社会主義政権とともに崩壊した直後に起きた象徴的な事件である。この事件は、子供たちを偏差値教育の桎梏から解放して、好きなことをさせれば、「自由にのびのびと」育つという、ゆとり教育の理念が幻想であることを示唆している。実際、80年代の後半から90年代にかけての時期ほど、いじめや少年犯罪の問題が社会を騒がせた時期はないのだが、そうした問題児が、全共闘世代の子供の世代と一致することに注目しなければならない。

私は、古い父権政治の復活を主張しているわけではない。ファルスは権力の象徴であるが、権力と暴力は似て非なるものだから区別しなければならない。金正日やフセインのような独裁者は倒さなければならない。暴力をこれ見よがしに振るう暴君は、一見すると権力がありそうだが、実はそうではなく、暴力を振るわないがゆえに権力が不可視となった民主主義的な統治こそ、史上最強の権力を持っている。これは、フーコーの権力論のパラドキシカルな結論である。

権力とは、「ゆとりの教育」の推進者が好きな言葉を使うのなら、「生きる力」である。権力がなければ、社会であれ、個人であれ、全ての生命システムは死ぬ。子供が、自我理想を体現している親を模範として持つことなく、ただ自由放任で「好きなことをしなさい」と言われても、「自由にのびのびと」成長しない。子供の教育には愛が必要だが、愛は、権力関係を廃絶することで育まれるわけではない。

読書案内
書名うちのお父さんは優しい―検証 金属バット殺人事件
媒体単行本
著者鳥越俊太郎,後藤和夫
出版社と出版時期明窓出版, 2000/03
書名父の殺意―金属バット事件を追って
媒体単行本(ソフトカバー)
著者前田 剛夫
出版社と出版時期毎日新聞社, 1998/08
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  9 コメント

  1. 救われた

  2. うちの父と全然ちがう
    良いおとうさんだなぁ

  3. 私の父は死ぬほど優しかった。
    わたしは父のように優しくはない。
    それが死にそうに辛い。

  4. 子供は自分のやっている事を良くないとわかっていて、やはり誰かに(親に)力ずくで 止めてもらいたいと心の片隅で思っているんですね。

  5. なら反対に両親ともにサイコパスで知的で異常な利己主義ならどうなりますか

  6. あなたの頭の中では、優しくなければサイコパスということなのですか。

  7. 私の中では共感性が一番低いのがサイコパス

  8. 「愛の鞭」という言葉があるように、愛ゆえの厳しさもあるでしょう。

  9. リバタリアンはどうですか
    実はリバタリアンの中には冷酷だが倫理を重んずる人が多い

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