7月 182003
 

第5章では、エントロピーという観点からスケープゴート排除現象を考察しよう。ルーマンは、社会学者でありながら、社会学の重要テーマであるスケープゴートを扱わない。しかし、スケープゴート排除現象は、コミュニケーション・メディアの生成を考える上できわめて重要である。

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1. カタルシスとしてのスケープゴート排除

スケープゴートという言葉は、古代ユダヤ人の贖罪の儀式に起源を持つのだが、本書では、他人の罪の身代わりとなる生贄という意味で使うことにする。そして、スケープゴートを排除する現象をカタルシスと名付けよう。カタルシスとは、アリストテレスによれば、悲劇を見ることによる精神の浄化で、精神分析学の用語としては、鬱積した感情や体験を言葉や行動で外部に表出して精神を浄化することという意味で使われる。

システム論の用語を使うならば、エントロピーは直感的には汚れであるから、浄化はエントロピーの縮減ということになる。第1章で、構造と環境の境界を維持することが、システムの自己保存につながると書いた。システムは、自己の構造内のエントロピーが増大し、自らの存立の危機に直面すると、どちらに属するのか不確定な境界上の両義的存在者をスケープゴートとして排除することで、境界を再び明確にして、自己を維持しようとする。このように、生贄を「外部に表出する」という「悲劇」によってシステムを「浄化」することがカタルシスである。

本節では、カタルシスを理解してもらうために、以下、スケープゴートの排除により、システムのエントロピーが縮減される具体例を見ていくことにする。

2. カタルシスとしてのいじめ

日本の学校などで問題とされているいじめも、カタルシスである。いじめ問題は決して個人レヴェルの情緒の問題ではない。「いじめは、クラスの秩序を作り上げるために必要な過程であり、それ自体が学級という集団の生産の方式、あるいはスタイルである」という菅野盾樹の指摘は正しい。だが、「秩序は曖昧さの創出をつうじてもたらされる」というのはいかがなものか。

菅野は、曖昧なもの、例えば「生ぬるいもの」が2項対立、「温かいもの/冷たいもの」を媒介するとみなす「構造主義的」解釈を採用する。

白/黒の対立を作るために、白でも黒でもない、曖昧な灰色のものを両者の中間に立てる-ことがらは、このようにすすむのではない。灰色がどっちつかずであるということこそが、対立の意味なのである。いいかえれば、二項分割と曖昧さの産出とは一挙におこなわれる一つの事態の二側面にすぎない。

[菅野 盾樹:いじめ―学級の人間学, p.43]

いじめられる生徒には、転校生、外国人、混血児、身体障害児、知的障害児など、学級の他のメンバーとは異質なところがある子供が多い。勉強ができるとか先生にかわいがられているなど、価値的に上の子供であっても、クラスから浮き上がると、「ガリ勉」とか「ぶりっ子」などの烙印を押され、いじめられる。学級内の異質なメンバーは、同じメンバーでありながら、同じメンバーでない、内にして外という、どっちつかずの両義性、曖昧さを帯びている。

いじめとは、学級の秩序を創るために、こうした曖昧さを保存する活動なのだろうか。もしそうなら、いじめる側は、いじめられっ子が登校拒否になったり、転校したり、自殺したりして、いなくなることを阻止しなければならないことになるが、これは事実に反する。いじめの目的は、曖昧な両義的存在者を創り出すことではなくて、それを抹殺することにある。

3. カタルシスとしての不可触賎民の差別

癩病と呼ばれたハンセン病患者や穢多・非人と呼ばれた被差別部落の人々を隔離し差別してきたことも、日本で長い間行われてきたカタルシスである[d]。密教を媒介にして、ヒンドゥー教の影響を受けた触穢思想が輸入された中世に、癩者は最も穢れた存在として、家族を含めた一般共同社会から排除され、長吏(非人の頭)の支配下に置かれた。非人は、犯罪者の処刑を行うなど、「穢れた人間」を扱う職人とみなされていたからだ。これに対し、動物の死体処理を行う職人は穢多と呼ばれた。

[d] 以下、「癩」、「穢多」、「非人」など、差別語と呼ばれる使用禁止表現を使うが、これは歴史学的考察のためであって、差別を助長するためではないことをあらかじめお断りします。

では、穢れとは何か。柳田国男は、聖と俗をハレとケという言葉で区別した。ケとは、人間の生命力である気(ケ)が維持されている日常性のことで、病気(気止み)などで気が枯れ、死に近づくとケガレとなる。つまりケガレとは、生と死、ケとハレの境界上に存在し、かつそれを曖昧にする両義的存在なのである。システムにとって、公衆衛生上の汚染であれ、精神衛生上のケガレであれ、システムと環境を区別する境界を曖昧にすることは全てエントロピーの増大なのである。そしてシステムは、境界上の両義的存在者を排除することによって、エントロピーを縮減しようとする。

なぜ、境界上の両義的存在者が、ケガレとして嫌悪されるのかと不思議に思う人は、完全な生と完全な死の中間状態を想像してみて欲しい。博物館などに展示されている完全に白骨化した骸骨なら直視できる人でも、半ば腐って悪臭を放ち、蛆虫がわいている死体を見ていると、嘔吐を催すのではないだろうか。同様に、成仏せずに地上をさまよう亡霊が写った心霊写真を見て、ぞっとしない人は少ない。

癩病に限らず、どんな病気も、生と死の境界上に位置付けられる。一般に身体障害者は差別の対象になりやすいのだが、癩病は、皮膚にただれをもたらすので、触穢思想の格好の標的となってしまった。さらに中世では、被差別部落民や癩病者とともに、女性もケガレた存在と考えられた。これは、出産もまた生と非生の境界上の両義的出来事だからである。人間や家畜等の死体に接することが黒不浄と呼ばれたのに対して、出産の際の出血は赤不浄と呼ばれ忌避された。

ケガレは、キヨメられると、ハレ(晴)と呼ばれる聖なる祝祭空間へと移行する。だから、生死の境界上に留まる職業である穢多や非人が、嫌悪され、蔑視されたのとは対照的に、魂を完全に彼岸へと移行させる聖職者は、病人という生死の境界線上をさまよう存在者を完全に生へと回復させる医者と同様に、崇高な職業として尊敬された。

4. カタルシスとしての節分の豆まき

身近な行事の中に、カタルシスの例を見つけよう。毎年節分の日になると、年男あるいは1家の主人が「鬼は外、福は内」と言いながら、炒った大豆をまく追儺の習慣が日本にある。なぜ炒った豆をまくのだろうか。なぜ節分に鬼を退治するのだろうか。

節分とは、立春・立夏・立秋・立冬の前日のことだが、節分の豆まきは、特に立春に行われる。立春は、太陽暦では2月4日ごろに相当し、1年で最も寒い時期から春に向けての出発点にあたる。最も寒いということは、太陽が最も衰退している時期と感じられるわけで、追儺を太陽再生の儀式と見ることもできる。

もし招かれる「福」が太陽の暖かさだとするならば、追い払われる「鬼」はその逆であるはずだ。実際、鬼は「おに」と訓読みされるが、これは、陰(おぬ)が訛ったものと言われている。では、陽に対する陰である鬼は、生に対する死と位置付けてよいだろうか。実はそう単純ではない。中国では「鬼」は、人間の霊魂あるいは亡霊を意味する。古代の日本では、鬼を「もの」と読んだこともあり、霊的な存在一般を表すのに使用したようだ。このことは、鬼が、生に対する死なのではなくて、生と死の境界上の存在であることを示している。

では、なぜ鬼を退治するために豆をまくのか。実は、豆も鬼と同様に、境界上の存在なのである。古代の人々は、一般の穀物を直火で炒って食べたが、豆は茹でて食べていた。古代人にとって、茹でることは腐ることのカテゴリーに属し、生と死の中間を意味したのである。豆を炒る、すなわち火で水分を追い出すことは、亡霊を追い出すことを意味している。死者の霊が蘇らないように、豆を炒って芽を出さないようにする。だから、豆を炒る段階で、既に鬼退治が行われているのである。

節分の追儺と似た儀式は世界各地で見られる。古代ローマでは、ソラマメは、一方でジュピターの祭司が食べることもその名を口にすることもできないほどタブー視されていたが、他方で先祖祭、追善供養祭、死霊祭では、神々や死者に供えられ、神聖視される両義性を持っていた。プリニウスによると、エジプト・ギリシャ以来、ソラマメは死者の霊が宿ると考えられていた。日本の節分と同様に、ローマの死霊祭でも、一家の父親が黒豆を口一杯に含んで、亡霊が家を去るように念じて、豆を吐き出すという儀式を行う。

この他、豆をまく祭祀は、豆に生者と死者を媒介する役割を与えているアメリカインディアンにも見られる。奄美諸島にも、死者の霊を呼び、次いで霊が彼岸から絶対に戻ることがないように喪中の家の内外に炒った大豆をまくシャーマンの祭祀がある。

節分の追儺における境界上の両義的存在者は、豆であり鬼であるのだが、節分という時期自体が、冬と春という節を分ける境界であることにも注目すべきだ。つまり立春を迎えること自体が、陰を追放し、陽を迎えることになるのだ。

節分で、私たちは、「鬼は外」と言いながら、豆を外に投げ捨てるが、「福は内」と言いながら、豆を家の中にもまく。両方に豆をまくことは、家の内と外の境界をあいまいにすることにはならない。家の中にまかれた豆は全て食べられるわけだから、亡霊は全てスケープゴートとして退治され、境界が再確認されるからだ。

5. カタルシスとしての魔女狩り

もう一つ、海外からもカタルシスの例を取り上げよう。中世ヨーロッパにおける魔女狩りである。魔女が迫害されたのは、キリスト教/非キリスト教、あるいは善/悪の境界を設定するためだけではなかった。

キリスト教が普及する以前、人々は地母神を崇拝していた。この母性崇拝の宗教に対して、ユダヤ・キリスト教は父性崇拝の宗教であった。モーゼの宗教改革以降、ユダヤ教は純粋な父権的宗教になった。旧約聖書には、「女呪術師を生かしておいてはならない」 [聖書―新共同訳 旧約聖書続編つき, 出エジプト記, 22:17] とあるが、これが魔女狩りの原点である。

キリスト教も、ユダヤ教に基づいているために、父権的であり、母権的なアニミズムを克服した。キリスト教がヨーロッパで普及していく過程で、キリスト教は、一方で、マリア信仰を取り入れることで原住民と妥協しながら、他方で、原住民が信仰する女神を魔女として迫害していくことになる。

魔女を表す英語《witch》は、魔法と関係があり、フランス語の《sorciere》もまた魔術師を意味するだけだが、ドイツ語の《Hexe》は「垣根」を意味する《Hag》や《Hecke》 から由来している。《hag》は、魔女を表すもう一つの英単語である。ラテン語の《striga》やイタリア語の《strega》も垣根から由来している。魔女とは、「垣根=境界」を越える女性のことなのである。

魔女は、体に特殊な軟膏を塗り、箒にまたがって空中を飛び、サバト(宴会)に加わると信じられていた。軟膏は催淫薬、箒はペニス、空中を飛ぶことはオルガズム、サバトは性的オルギーを意味していると解釈すると、当時の人々が、魔女を、女の「分」をわきまえずに、性的規範の矩を超え、キリスト教的な禁欲的秩序を崩壊させていると空想したがっていたことがわかる。火炙り刑という形で、魔女を、男性原理である火で抹殺することは、魔女狩りが、男性原理/女性原理の境界の再設定でもあることを示している。

スケープゴートとなった人々の中には、男性もいたが、大部分は女性であった。その理由は2つある。第一に、女性は当時周縁的な地位しか持たなかった。第二に、不妊の女性は凶作を連想させた。不妊の女性が魔女の有力な候補となったのは、このためである。魔女狩りは、中世温暖期から近代小氷河期にかけて、気温が低下する中で起こった。気温が低下し、不作がひどくなった時に、最も激しい迫害の嵐が起きた。

読書案内
書名魔女とキリスト教―ヨーロッパ学再考
媒体文庫
著者上山 安敏
出版社と出版時期講談社, 1998/01
書名The Scapegoat
媒体ペーパーバック
著者Rene Girard 他
出版社と出版時期Johns Hopkins Univ Pr, 1989/08/01
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  3 コメント

  1. 訂正箇所
    5. カタルシスとしての魔女狩り
    出エジプト記, 23:17の参照聖句は間違いでは?
    出エジプト記, 22:17が正しい聖句です。

  2. 訂正しました。御指摘ありがとうございます。

  3. 現代のスケープゴート
    業界の仕事のうち、社員さんのやりたくない仕事、きつい仕事・汚い仕事だけに生計など立つはずもない低賃金で従事させるためのパート労働者の存在、敬意も感謝もしめされず、どちらかといえば、社員さんのストレスを解消するための侮蔑と愚弄の対象にされる。一度時間給労働者になると、二度と人間には戻れない。
    働くことを拒絶すると、社会から抹殺される。定職を与えられず、「誰かがやらなければならない仕事」であるとか、「社会に貢献しよう」などと、口先だけの甘言で、ボランティアを強要される。ワーキングプア、社会保険にも加入していない者には労災なども申請されない。すべては世帯負担、そのわずかな報酬によって、年金暮し等の住民税非課税世帯は、しっかり課税される。
    そのわずかな報酬では、社会保険料(国民年金保険料・国民健康保険料・介護保険料)さえ支払えない。そして、持ち出しの生活で従事する労働の報酬として、侮蔑と愚弄による虐待の他に、生涯にわたる健康被害が存在する。現在支払っている国民健康保険は、将来の治療には使えない。厚生年金に加入してない就労は、「働いていなかったのだから」と、評価されない。夫の年金は妻にも支給されるが、親の年金は子供には支給されない。
    すでに現在でもそのように評価されています。パソコンや電話ぐらいは私でも使えます。この点に関しては、現在の中学生となら意見があいやすいかもしれません。
    私は派遣会社は必要としません。というより、存在しない方がいいです。彼らは高卒以上・40歳未満の人間しか扱わないので、私の役には立たないからです。ときどきあて馬として、手弁当で参加させられたりしますが、書類選考後の面接後に不採用になれば、普通の人でもその会社を良くは思いません。「当選おめでとう」の大企業のおいしすぎる話ならば別ですが、頭数の揃わない人気のない仕事ばかりです。
    そして、パートの使い方も知らない社員さんの人格などは評価できない。会社に出勤だけしてくれば、煙草を1日2箱空けるだけの仕事で高給を得ている管理職の指導下にある限り、日本の国際競争力は低下し続けます。日本の技術力に対する政府見解は、戦前の日本の軍事力に対するものと同じかもしれません。
    社会学者は、歴史の解釈からの机上の論理のサングラスで、何を観察していますか。

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