エントロピーの理論(20)三位一体はいかにして一体となるのか

2003年7月20日

なぜ一神教であるはずのキリスト教の神には、父・子・聖霊という異なった3つの位格があるのか。この謎を解くには、イエス・キリストのスケープゴート的性格と特殊を普遍へと止揚する弁証法的論理の認識が必要である。

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1. 三位一体論争

三位一体とは、キリスト教の奥義の一つで、神には、父・子・聖霊という異なった三つの位格(persona)があるが、神は実体(substantia)としては同一であるという考えである。聖書によれば、イエス・キリストは、神が受肉した、つまり人の姿をして現れた、神の子である。では、イエスは、人間ではなくて神なのか。さらに、イエスが昇天した10日後のペンテコステ(収穫感謝祭)に、弟子たちに聖霊が降臨したことになっているが、この聖霊も神なのか。父なるヤハウェ、子なるイエス、聖霊を同格の神と認めることは、多神教的であり、一神教の大前提に矛盾するのではないのだろうか。こうした問題から、三位一体論争が起きた。

その中でも最大の論争点は、イエスは神なのか、それとも人間なのかという問題であった。325年のニケーア公会議では、イエスの神性を認めないアリウス派が異端として排除され、451年のカルケドン公会議では、イエスの人性を認めない単性論派が異端として排除された。その結果、イエスは人であると同時に神でもあるとするアタナシウス派(カトリック教会)がヨーロッパで正統派としての地位を得た。

イエスが神性と人性を兼ね備えた両義的存在であったことは、イエスの処刑をスケープゴート現象として認識する上で重要である。復習になるが、スケープゴート現象とは、境界上の両義的な、つまりエントロピーが高くて穢れた存在者を排除することにより、システムに低エントロピーな秩序を回復する儀式である。イエスもまた、その両義性ゆえに、穢れた罪人として十字架で屠られた。しかし、屠られることを通して、イエスは神聖な存在者として、いったんはイエスを見捨てた信者たちから再び崇拝されたのであり、これを聖霊降臨と解釈することができる。

2. 弁証法的論理学

三位一体の教義は、静止的な形式論理学にとっては矛盾以外の何ものでもないが、弁証法的論理学は、この矛盾を動的に止揚することができる。父・子・聖霊が、それぞれ普遍・特殊・個体に相当すると解釈して、三位一体の教義を論理的に理解しよう。

弁証法的論理学とは、プロセスの論理学である。例えば、ある子供が「パンダ」という言葉を覚えるプロセスをたどってみよう。動物園で子供にパンダを見せて、「ほら、あれがパンダだよ」と言っても、その子供がパンダの本質を理解するとは限らない。子供が最初に見たパンダは、たまたま昼寝中で動いていないかもしれないし、たまたま痩せているかもしれない。その結果、その子供は、おにぎりを指差して「パンダ!」と言うかもしれないし、白と黒のぶち犬を見て「パンダ!」と叫ぶかもしれない。

イエス・キリストが布教活動をした時にも、人々はキリスト教を正しく理解しなかった。イエスのもとに集まった人たちは、彼が、病気を治したり、水をぶどう酒にしたりといった奇蹟により、自分たちの世俗的な欲望を満たしてくれることをもっぱら期待した。イエスが処刑され、受肉した特殊な存在様態を抹殺してはじめて、人々はキリスト教の本質を理解した。つまり聖霊が降臨した。

同様に、子供がパンダの本質を理解するには、つまり、おにぎりやぶち犬をパンダと誤解しないようにするためには、初めて見たパンダから非本質的な特殊性を抹殺しなければならない。この抹殺を通してはじめて、全パンダの個体にパンダの本質が降臨する、つまり、パンダの本質は真に普遍的となる。

3. コミュニケーション・メディア

私たちは、有限な存在者であるから、普遍的本質を即自的に(無媒介に)我が物とすることはできない。したがって、普遍的本質は特殊として対自的に(自己を否定して)現出する。ところが、特殊は、まさに特殊であるがゆえに、普遍的であると同時に普遍的でないという矛盾した存在である。この矛盾を止揚するには、特殊を抹殺し、それを普遍性へと高めなければならない。特殊の抹殺という苦痛に満ちた道(ヴィア・ドロローサ)を通ってはじめて、即かつ対自的に(媒介的に)普遍のもとへと個物を包摂することができる。

これが、排除されたスケープゴートが、コミュニケーション・メディアとして社会システムのエントロピーを縮減する論理的プロセスである。コミュニケーション・メディアの一つである貨幣でこのことを説明しよう。貨幣は、商品価値の普遍的尺度であり、商品交換の普遍的交換媒体である。貝や牛や貴金属のような、それ自体が商品価値を持つ物品貨幣は特殊な商品であって、貨幣として普遍的であると同時に普遍的でもないという矛盾した存在である。この矛盾を止揚するには、自らが持つ特殊な商品価値を抹殺しなければならない。かくして即かつ対自的に普遍的な貨幣が生まれる。

一般にメディアは、それ自体情報を持たないからこそ情報を伝えることができる。白いキャンバスはそれ自体絵ではないからこそ、そこに絵が描ける。空気がカチカチという音を立てないがゆえにこそ、我々は時計のカチカチという音を聞くことができる。

同じことは、第1章第4節で列挙した社会システムのコミュニケーション・メディアについても当てはまる。言語は、それ自体意味を持たないからこそ、意味を普遍的に代表象できる。貨幣は、それ自体商品価値を持たないからこそ、商品価値を普遍的に代表象できる。刑罰は、それ自体は犯罪ではないからこそ、犯罪の重さを普遍的に代表象できる。票は、それ自体は有権者の支持でないからこそ、有権者の支持の大きさを普遍的に代表象できる。

三位一体の論理はスケープゴートが社会の統合原理となる論理である。私は、キリスト教の開祖であるイエス・キリストに適用されたのと同じ論理が、天皇の祖先である天照大神にも適用できると考えている。つまり、私は、天皇の起源がスケープゴートだったと推測している。これが次の節のテーマである。

読書案内
書名 アウグスティヌス著作集〈28〉三位一体
媒体 単行本
著者 泉 治典
出版社と出版時期 教文館, 2004/04
書名 宗教哲学 (上巻)(中巻)(下巻)
媒体 単行本
著者 ヘーゲル 他
出版社と出版時期 岩波書店, 2003/01