7月 222003
 

価値とは低エントロピーである。近代経済学系の限界効用価値説とマルクス経済学系の労働価値説をエントロピー理論の視点から再検討し、さらに経済的価値論と道徳的価値論の統合を目指す。

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1. 価値は低エントロピーである

商品に価値を与えるのは、商品の有用性と希少性であると言われてきた。空気は有用だが、誰でも簡単に入手できるから価値がない。ごみは、世界に1つしかない珍しいものであっても、有用性がないから価値がない。そして、有用性と希少性をシステム論の用語で表現するなら、ともに低エントロピー性だということになる。

有用性とは、欲望された目的の実現に対する貢献度のことである。システムの目的は、自己のシステムの維持・発展であるが、システムのエントロピーを減らすためには、それ以上のエントロピーを環境において増やさなければならない。そのために有用な低エントロピー資源には、当のシステムにとって、価値がある。

希少性とは、市場においては需要に対する供給の不足であり、獲得困難性である。商品が希少であればあるほど、獲得の不確定性は増大する。逆に言えば、この不確定性の否定である商品の獲得、労働者の観点からすれば生産には、減少するエントロピーの大きさに応じた価値があることになる。

2. 従来の価値学説

価値が何によって規定されるかを論じる学説を価値学説という。経済学における価値学説には、近代経済学系の限界効用価値説とマルクス経済学系の労働価値説という2つの立場がある。2つの説をシステム論の立場から分析し、価値の本質が低エントロピーであることを確認しよう。

2.1. 限界効用価値説

限界効用価値説とは、商品の価値をその商品の限界効用で説明しようとする価値学説である。ビールを飲む時、喉の渇きを癒す1杯目のビールが1番おいしく、2杯目・3杯目となると次第にビール1杯のありがたみが減っていく。このように、消費量の増加にともなって、追加1単位あたりの効用の増加量(限界効用)が次第に減少していくことを限界効用逓減の法則という。

通常この法則は、主観的な有用性に関する法則だとされているが、そう解釈してしまうと、主観的な満足度は数量化できないから、効用関数を数式化することはできないし、中には、酔えば酔うほどビールはうまくなると言って、限界効用逓増を主張する人も出てくるであろう。

限界効用逓減と類似の現象は、卸売市場でも見られる。個人的にはビールに興味のないビールの卸売業者にとって、ビールの主観的効用は常にゼロである。そのような卸売業者も、市場でのビールの供給量が増えるにつれて、ビールの卸売価格を引き下げる。

限界効用が逓減する時、主観的有用性の限界値が逓減しても、客観的有用性の限界値はそうではないということは、飲む直前に1杯目と2杯目を入れ替えても、何も変わらないことから明らかである。だから、限界効用が逓減する時、逓減しているのは希少性であって、有用性ではないと解釈するべきである。ビールの消費量が増えるにしたがって、1杯分の「ありがたみ」は減っていくと書いたが、よく考えてみると、「有り難い」は、本来「入手困難」という意味である。

限界効用が逓減するのは、供給が増えるにつれて、希少性がなくなっていくからである。消費者側からすれば、希少性がなくなればなくなるほど、獲得の不確定性が減少するので、それだけその否定には価値がなくなる。生産者側からすれば、商品の数が増えれば増えるほど、売れ残るリスクが増えるので、その商品の価値は、その確率をかけた分だけ減る。どちらから見ても、価値は、不確定性=エントロピーによって決定されるのである。

2.2. 労働価値説

労働価値説とは、商品の価値はその商品を生産するために必要とされた労働によって規定されるという価値学説である。商品がサービスの場合、労働が価値の源泉であることは、はっきりしている。商品が財の場合でも、私たちが対価を支払っているのは、実は物に対してではなくて、その物を生産し、運搬してきた労働に対してであると考えることができる。

労働がなぜ価値を生み出すかを論じる前に、労働が、それ以外の活動、例えば遊びとどう異なるのかを考えてみよう。遊びでゴルフをする人が、物理的にプロゴルファーと同じようなすばらしいプレーをしても、後者が労働としてお金が支払われるのに対して、前者が遊びとして逆にお金を支払わなければならないのは、いかなる違いに基づくのか。

遊びでゴルフをするときは、ゲームに勝つ必要はないし、つまらなくなればいつでもやめることができる。また、プレーを見ている人が感動するかどうかはどうでもよいことだ。しかし、プロゴルファーの場合は、そうした恣意的行為は、マイナスの報酬なしにはありえない。遊びには、労働の時よりも「他のようでもありうる」自由がある。逆に言えば、労働は遊びよりもエントロピーが低い。そして労働は、エントロピーを減らすがゆえに価値を生み出す。もっと分かりやすく言うと、労働の賃金とは、失われた自由に対する代償である。

では、マルクスが主張したように、全ての価値の源泉は労働だとか、商品の価値は、社会的必要労働時間によって規定されると言えるだろうか。答えは否である。宝くじで大金を当てた人は、はずれた人に比べてより多く努力したわけではない。宝くじは極端な例だけれども、偶然が価値を生み出すことはしばしばある。

労働価値説は、職業による単位時間あたりの賃金格差を、その職業に就くまでの教育期間の機会費用によって、つまり最終的には労働商品を生産するための労働時間によって説明しようとする。だが、同じ条件下で同じ時間訓練を受けたからといって、同じ能力の人材ができるとは限らない。産まれたときから自分にある分野の才能があるかどうかは、宝くじと同様に、偶然が支配する。

マルクス主義の経済学者は、必然性の哲学を信奉しているので、経済現象における不確定性の役割を正しく認識できない。これに対して、エントロピーの経済学は、宝くじの価値を簡単に説明できる。宝くじ当選の価値は、宝くじが当たる不確定性の否定にある。だから、当たる確率が低ければ低いほど、当選の価値は大きくなる。

3. 道徳的価値と経済的価値

以上の限界効用価値説と労働価値説の検討から、商品の価値とは商品が持つ低エントロピー性であることが結論として導くことができる。この価値論は、経済的価値にしか当てはまらず、それ以外のもっと「高尚な」価値には適用できないのだろうか。実際、多くの倫理学者は、経済的価値と道徳的価値は、異質であると考えている。はたしてそうだろうか。

確かに「正直者はばかを見る」という諺があるように、道徳的正義と経済的利益は必ずしも両立しない。例えば、自分の会社が組織ぐるみの違法行為を行っていることに気が付いたとしよう。あなたならどうするか。「社会正義のために、内部告発をするべきだろうか。しかしそうすれば、自社の業績が悪化し、自分の収入を減らすことになる。密告の事実がばれて、解雇されるかもしれない。他の会社で職を見つけることもできそうにないから、ここは見て見ぬふりをしようか」というように、正義かそれとも保身かという選択に悩むのではないだろうか。もちろん、一般的には、社会正義が守られている社会の方が、そうでない社会よりも経済的に繁栄する。しかし個人の短期的な利益が社会正義と対立することはしばしばある。

両者が異なるかどうかを検討する前に、道徳とは何かを概念規定しよう。カントが主張したように、道徳的に悪しき行為は、その格率(主観的な行為の規則)を普遍化すると、概念的な矛盾に陥る。例えば、他人の利益を尊重せず、自分の利益のみを考えるエゴイストが、その格率を言語で表現する(普遍化する)と、周囲の人も、その人の利益を尊重しなくなるから、「自分の利益のみを考える」という当初の格率に矛盾してしまう。功利主義的計算は、アポステリオリな経験的事実に基づくが、道徳法則はアプリオリな理性の法則であり、この点で、両者は全く異質である。これが道徳を功利主義的計算から区別する古典的な議論である。

では、格率はなぜ普遍的でなければならないのか。もし社会規範が矛盾を含んでいるならば、私たちはどのように行為してよいのか分からなくなる。つまり行為決定の不確定性が増大する。逆に言えば、道徳や法といった社会規範は、不確定性の相互依存から生じる社会的エントロピーを縮減するがゆえに、価値がある。

具体的な例で、説明しよう。嘘をつくことは、たとえそれが直接には誰の利益をも損なわない場合であっても、道徳に反する。それは、全ての人が嘘をつき始めると、情報の不確定性が増大するからである。他者の所有物を盗むことは、ほとんどの国で法律違反である。それは、窃盗を容認すると、所有権の不確定性が増大するからである。

経済的価値の必要十分条件である有用性と希少性が、両方とも低エントロピーで説明できるように、社会規範にも低エントロピーとしての有用性と希少性がある。つまり、労働が商品という低エントロピーを生み出す選択行為であるように、道徳的あるいは合法的行為は、社会秩序という低エントロピーを生み出す選択行為である。

個人の社会規範の遵守が、社会秩序という低エントロピーを作り出す上で「有用」であることは言うまでもない。では、希少性の方はどうだろうか。「心の欲するところに従って矩をこえない」聖人にとって、道徳的に正しく振る舞うことは、ちょうど私たちにとって二足歩行することがそうであるように、他のようではありえないので、何の価値もない。しかし、それまで四つん這いであった赤ちゃんが二足歩行できるようになることが感動的であり、希少価値があるように、悪人が罪を悔い改め、道徳的に正しい行為を行うようになることも感動的であり、光り輝く価値がある。悪への誘惑に負ける可能性が私たちにあるからこそ、その否定である道徳的行為に希少価値があるのである。

道徳的価値の本質が、経済的価値と同様の低エントロピー性であるとするならば、前者を後者から超越した異次元の価値とみなす必要はなくなってくる。「世界が滅びても、正義をなすべし」といった考えは、あまりにも経済学的なバランス感覚を失っているがゆえに、支持できない。「正義かそれとも保身か」という最初の問題に戻るならば、この道徳的価値と経済的価値の選択の問題は、「株を買おうかそれとも債権を買おうか」という純粋な経済的選択の場合と同様に、その都度の状況に応じて答えは変わってくる。要は、どちらの方が、より多くのエントロピーを減らすと予想するかに依存しているのである。

読書案内
書名価値論
著者宇野 弘蔵 他
出版社と出版時期こぶし書房, 1996/12
書名An Introduction to the Principles of Morals and Legislation
媒体デジタル
著者Jeremy Bentham
出版社と出版時期Digireads.com,
書名Utilitarianism
媒体デジタル
著者John Stuart Mill
出版社と出版時期Kessinger Publishing, LLC,
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私が書いた本

  4 コメント

  1. 社会主義の国はなぜ貧しいのか」における永井さんとの討論のなかで、「市場原理が理想の共産主義社会を導くとする」私と、「市場原理が理想の資本主義を導く」とする永井さんの主張の差が、「資本義的生産様式における搾取」の有無の問題になったので、ここで、市場で取引される「価値」の中身についての共通認識がないと、どこまでいっても議論がかみあいませんので、こちらでにもコメントを書かせてただきます。
    古典経済学において、アダムスミス、リカード、マルクスと受け継がれた労働価値説と、近代経済学の限界効用学説は、矛盾した学説ではありません。限界効用学説は労働価値説を補完したものです。
    まず、永井さんがマルクス経済学における「価値」を誤解しているので、ここを説明します。マルクス経済学においての「価値」は「肉体的であれ、精神的であれ、人間の欲求を満たすなにものか。」(資本論)という定義です。それが「資本主義的生産様式において、商品という外的対象に使用価値として添加されるのですがその中身は抽象的人間労働である。」というのがマルクス経済学における経済的価値論です。その価値が自己満足であるような「労働」からは「使用価値」は生まれますが「交換価値」は生じません。石を右から左に移動して、また左から右に移動する行動は、本人にとっては何らかの意味があれば、労働といえますが、他人にとって意味のない行動であれば「交換価値」を生み出すことはできません。労働価値説は単純にすべての人間行動=労働=価値といっているわけではありません。頭脳による思考であれ、肉体による行動であれ、他人のための使用価値を生み出す思考・行動すなわち労働のみが価値を生みます。これは、「交換価値(経済学でいうところの価値)」の定義であるとともに「労働(生産的行動)」の定義でもあります。また、「交換価値(経済学でいうところの価値)」だけがすべての価値ある外的対象といっているわけではありません。よくある例は、平地における空気です。使用価値のある外的対象ですが、交換価値はありません。
    貨幣は、物々交換による抽象的人間労働の交換を媒介します。ギャンブルや宝くじは、不労所得が確率的に得られる夢を売る商品で、期待値100%であれば、宝くじ事業の労働者の抽象的人間労働が当選者に搾取されたことになります。実際は、期待値40%ぐらいで、労働者の賃金を差し引いた剰余金は、福祉団体に寄付します。(ゆえに公営ギャンブルとして承認されているのです。)宝くじの当選者の収益は、負けた人からの単なる価値の所有権利書(紙幣)の移転で、労働価値説による生産活動による価値の「創造」の話しとはまったく関係ありません。偶然による価値所有権の移転は、お金を落としたり、拾ったりしてもおこりますし、泥棒に盗まれても起こります。労働価値説は、それを泥棒の労働によって「創造」された価値といっているわけではありません。労働価値説では、期待値100%、搾取がない社会の宝くじとして、「宝くじで負けた人が支払った紙幣を得るために消費した労働力の総量」と「宝くじで買った人がこれから購入する商品を生産するのに消費した労働力の総量」が等価であり、期待値80%でも宝くじが完売すれば、その収益は、宝くじ事業の労働によって生み出されたものです。
    希少価値は、よく、労働価値説の否定に出されますが、月並みな答えですが、地理的希少性(希少金属など)は、探査(肉体・頭脳)労働、商品化(肉体・頭脳)労働の困難さゆえに膨大な価値が生じます。目の前の石ころの形が世界唯一の希少性を持っていても、なんら、「人間の肉体的精神的欲求を満足させる」ことができなければ、価値はありません。また、古代の美術品や歴史文物は、そのものを生み出す労働の価値に加えて、保存労働の価値やそれを歴史的に読み解く学者の頭脳労働の価値も加わります。
    永井さんの価値ネゲントロピー説は、ひところはやった浅田彰氏の人間ネゲントロピー説と同じように面白いなと思いましたが、ネゲントロピー全般を価値と表現するには論理に飛躍がありすぎます。人間に近いネゲントロピーは、人間労働により商品化して初めて価値を持ちますが、ネゲントロピーのホロンの1つの12等星などは、何の人間の欲求を満たすものではありません。
    労働価値説の正しさは、狩猟採集民族による小規模な社会や、100人ぐらいの農耕社会を想像してみれば、わかります。自然物の持つ価値は、狩猟、採集、農耕、調理など人間労働によってのみ人間の欲求をみたせるようになり、他の社会と交換するためには、それを得るためにどれだけの労力を要するかでしか計りようのないものです。(市場原理)

  2. “「市場原理が理想の共産主義社会を導くとする」私と、「市場原理が理想の資本主義を導く」とする永井さんの主張の差が、「資本義的生産様式における搾取」の有無の問題になった”
    私とムッキーさんの違いは、市場経済を最適化するのは、自由かそれとも統制かというところにあると言うべきでしょう。
    “古典経済学において、アダムスミス、リカード、マルクスと受け継がれた労働価値説と、近代経済学の限界効用学説は、矛盾した学説ではありません。”
    矛盾しているとは言っていません。経済的価値という同じ対象に対する二つの異なるアプローチであると認識しています。
    “それが「資本主義的生産様式において、商品という外的対象に使用価値として添加されるのですがその中身は抽象的人間労働である。」というのがマルクス経済学における経済的価値論です”
    もう少し正確に言うと、マルクスは、使用価値と価値との区別と相即的に、具体的有用労働と抽象的人間労働を区別し、価値を社会的人間関係の反照的規定と捉え、商品の価値を独立自存のものとして扱うことの物神崇拝的な転倒を批判しましたました。
    “ギャンブルや宝くじは、不労所得が確率的に得られる夢を売る商品で、期待値100%であれば、宝くじ事業の労働者の抽象的人間労働が当選者に搾取されたことになります。実際は、期待値40%ぐらいで、労働者の賃金を差し引いた剰余金は、福祉団体に寄付します。”
    宝くじの場合、期待値の単位は円であって、パーセントではありません。パーセントということは、掛け金に対する期待値の割合のことですか。
    “宝くじの当選者の収益は、負けた人からの単なる価値の所有権利書(紙幣)の移転で、労働価値説による生産活動による価値の「創造」の話しとはまったく関係ありません。”
    だから、問題なのです。宝くじで当選して得た賞金も、価値がある以上、その価値がなぜ生じたのかを説明しなければいけません。労働価値説が説明できないのであれば、それは労働価値説が価値説として不十分であることを示しています。
    “偶然による価値所有権の移転は、お金を落としたり、拾ったりしてもおこりますし、泥棒に盗まれても起こります。”
    合法的な宝くじと違法な(つまり普遍化不可能な)泥棒を一緒にすることはできません。
    “その収益は、宝くじ事業の労働によって生み出されたものです。”
    私は、当選者が手にする価値が、当選者の労働によるものなのかどうかと聞いているのです。当選者は、落選者よりもより多くの労働をしたから、より多くの価値を手にしたのではないでしょう。
    “古代の美術品や歴史文物は、そのものを生み出す労働の価値に加えて、保存労働の価値やそれを歴史的に読み解く学者の頭脳労働の価値も加わります。”
    贋物の美術品や歴史文物は、たとえそれを生み出し、長期にわたって保存し、読み解くのに同様の困難な労働を要したとしても、本物とは比べ物にならないぐらい低い価値しか認められません。それはなぜでしょうか。
    “永井さんの価値ネゲントロピー説は、ひところはやった浅田彰氏の人間ネゲントロピー説と同じように面白いなと思いましたが、ネゲントロピー全般を価値と表現するには論理に飛躍がありすぎます。”
    ネゲントロピーが価値であるというのは正しい表現ではありません。価値は、ネゲントロピーによって作り出される低エントロピー性と言うべきでしょう。但し、低エントロピー性に比例して価値があるということではなくて、低エントロピーな資源が、どれだけ評価する側のシステムのエントロピーを縮減するかで、その価値が決定されます。
    “人間に近いネゲントロピーは、人間労働により商品化して初めて価値を持ちますが、ネゲントロピーのホロンの1つの12等星などは、何の人間の欲求を満たすものではありません。”
    「ネゲントロピーのホロン」とは何のことですか。私は、そもそも「ホロン」という言葉を使っていません。

  3. 「私とムッキーさんの違いは、市場経済を最適化するのは、自由かそれとも統制かというところにあると言うべきでしょう。」
    永井さんとは「市場」と「自由」の表現している実態の意味がちがいますよ。社会主義=統制経済ではないということは、「社会主義の国はなぜ貧しいのか」にて討論ずみなので、ここでは繰り返しませんが、すくなくとも他人の労働を利用して自分が豊かになる、いわゆる「搾取の自由を制限」することでは「自由」ではなく「規制(民主的)」すべきと考えています。、労働者の労働時間を短縮し、自由な時間を増やすあるいは、市場原理に従った適正な労働分配を獲得するのが、社会主義市場経済の目指す社会主義社会であるということです。また、その「搾取の自由の制限」を政治市場で市場原理によって行うのが民主的な社会主義市場経済への道だと考えることです。社会全体では、だれかがしかるべき労働(頭脳労働・肉体労働を含む)をしているから成り立っているわけです。その人が好きなことをやって行ける自由な時間や職業選択の自由や労働時間を決める自由は、その人の労働力の価値において適正に与えられるべきで、労働市場と資本市場の適正化が政治市場において達成される民主的な市場原理のプロセスで可能になると考えています。社会が個人の行動に規制を加えるのは、政治市場において、市場原理により民主的に行われるのが近代国家です。たとえば、日本において「殺人」や「略奪」の自由はありません。それは、政治市場で民主的(市場原理)により故人の行動にかけられた社会の規制です。完全に自由な状態は原始時代です。自由主義者が自由自由というのは「搾取の自由」のことで、社会主義者の私たちは、社会における「悪」とみなし、規制をかける運動をしますが、その規制が実現しても、大体数の国民や労働者の自由が奪われるものではありません。しかも、その倫理観は、国民が自ら望んで、政治市場で手に入れるもので、国民に押し付けるものではありません。
    「矛盾しているとは言っていません。経済的価値という同じ対象に対する二つの異なるアプローチであると認識しています。」
    この部分は賛同します。
    「もう少し正確に言うと、マルクスは、使用価値と価値との区別と相即的に、具体的有用労働と抽象的人間労働を区別し、価値を社会的人間関係の反照的規定と捉え、商品の価値を独立自存のものとして扱うことの物神崇拝的な転倒を批判しましたました。」
    ええ、そのとうりです。ご教示ありがとうございます。わかりやすい説明です。
    「宝くじの場合、期待値の単位は円であって、パーセントではありません。パーセントということは、掛け金に対する期待値の割合のことですか。」
    ええ、割合で示しました。200円の宝くじで期待値80円ということです。
    「私は、当選者が手にする価値が、当選者の労働によるものなのかどうかと聞いているのです。当選者は、落選者よりもより多くの労働をしたから、より多くの価値を手にしたのではないでしょう。」
    そうですよ、だからギャンブルは、「不労所得」として、法律で規制されています。拾得や泥棒でないにしても、等価交換によらない、すなわち市場原理によらない価値の交換や移転は、「社会悪」として、「搾取」同様一定の規制をかけるべきだと思います。「宝くじ」は、ゲームや小額で夢を買う、社会の許容範囲内です。やくざの富くじは、それを利用した商売で、本人が納得して買ったとしても規制されていて、事業としては認められません。パチンコのように、レジャー(消費活動)の景品(実際は換金できる)の範囲内で許容されているにすぎません。
    労働による価値の生産の裏づけのない紙幣の発行がインフレを招くのと同じで、広義の「搾取」にあたります。
    「贋物の美術品や歴史文物は、たとえそれを生み出し、長期にわたって保存し、読み解くのに同様の困難な労働を要したとしても、本物とは比べ物にならないぐらい低い価値しか認められません。それはなぜでしょうか。」
    そうは思いません。贋物や写本でもそれが正確な写しであれば「資料として」の歴史的価値は変わりません。その価値は、どれだけの人の欲求を満たせるかの市場で決まります。美術品は、その美術的価値がその芸術家の独創的能力による労働で作られた価値が世間に認められているからであり、たとえば、加藤唐九郎の永仁の壺事件にあるように、贋物でも、その芸術性が高ければ、高い値がつく場合もあります。人間国宝として失格であるという社会的道義を課されただけで、彼の作品はすべて、高い価格で市場に流通しています。労働価値説は、そすべての労働が等質の価値を生み出すとはいっていません。「抽象的人間労働が社会全体の欲求の満たす価値を生み出すように価値の生産が行われる」といっているのです。贋物の価値が低いのは、その本物を生み出すのに必要だった高度な意匠性労働を省いたからで、その分だけ価値は低いといえます。また、贋作を本物だと判断した頭脳労働や本物だと思って保存した、保存の労働力の価値は、他人の欲求を満たせない自己満足に終わったもので、労働密度(単位時間当たりに価値を生産できる労働能力の密度)は低いといえます。
    「ネゲントロピーが価値であるというのは正しい表現ではありません。価値は、ネゲントロピーによって作り出される低エントロピー性と言うべきでしょう。但し、低エントロピー性に比例して価値があるということではなくて、低エントロピーな資源が、どれだけ評価する側のシステムのエントロピーを縮減するかで、その価値が決定されます。」
    スプレーや攪拌のように高エントロピー性が価値のように思える現象もあるのですが、どうやって説明されるのですか。この説は学会でどのような評価を受けているのですか。私は、永井さんの説が初耳でしたので、論理の飛躍があるように思いましたが、興味がわきました。

  4. “永井さんとは「市場」と「自由」の表現している実態の意味がちがいますよ。”
    それ以外にも、「搾取」とか「資本主義」とか基本的な言葉の意味が違っています。
    “「搾取の自由の制限」を政治市場で市場原理によって行うのが民主的な社会主義市場経済への道だと考えることです。”
    ムッキーさんが謂う所の政治市場での市場原理の根本問題は、「手による投票」以外に「足による投票」があることを考慮していないところにあると思います。
    “贋物や写本でもそれが正確な写しであれば「資料として」の歴史的価値は変わりません。”
    写本は普通贋物とは言いません。私が言っている贋物は、詐欺目的で作られた創作物のことです。もちろん、歴史に残るような大詐欺事件なら、別の意味で贋物に史料価値はあるかもしれません。
    “加藤唐九郎の永仁の壺事件にあるように、贋物でも、その芸術性が高ければ、高い値がつく場合もあります。”
    永仁の壷は、贋物と発覚した後、いくらの値段で売れたのですか。
    “労働価値説は、そすべての労働が等質の価値を生み出すとはいっていません。「抽象的人間労働が社会全体の欲求の満たす価値を生み出すように価値の生産が行われる」といっているのです。”
    価値が労働時間あるいは労働に投入されたエネルギー等によって測定できないとするならば、それは労働価値説が価値説として不十分であることを認めていることになります。「欲求の満たす価値」というのは使用価値の説明であって、価値の説明ではありません。だから、欲求とか労働以外に、価値を規定する要因は何かを考えなければいけないのです。
    価値は労働によって作られると主張した後で、宝くじの賞金のように労働によって作られたのではない価値は搾取の結果だから、本当の価値ではないといった議論は、循環論法に陥っており、価値は労働によって作られるのではないと思っている人には、説得力がありません。
    宝くじは極端なケースですが、一般的なビジネスの成功要因には、本人の努力や才能以外に運の良さもあります。運の良さの結果得た価値は、労働による価値ではないのだから、不労所得であり、搾取だと言っても、労働だけが価値の源泉だと思っていない人の賛同を得られないでしょう。
    “スプレーや攪拌のように高エントロピー性が価値のように思える現象もあるのですが、どうやって説明されるのですか。”
    私のエントロピーの理論に興味があるなら、『エントロピーの理論』の第一章を読んでください。簡単に答えるなら、エントロピーの法則により、システムのエントロピーを縮減するには、それ以上のエントロピーを環境において増大させなければならず、したがって、その限りでは、エントロピーの増大は評価の対象になるということです。

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