エントロピーの理論(22)価値の本質は何か

2003年7月22日

価値とは低エントロピーである。近代経済学系の限界効用価値説とマルクス経済学系の労働価値説をエントロピー理論の視点から再検討し、さらに経済的価値論と道徳的価値論の統合を目指す。

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1. 価値は低エントロピーである

商品に価値を与えるのは、商品の有用性と希少性であると言われてきた。空気は有用だが、誰でも簡単に入手できるから価値がない。ごみは、世界に1つしかない珍しいものであっても、有用性がないから価値がない。そして、有用性と希少性をシステム論の用語で表現するなら、ともに低エントロピー性だということになる。

有用性とは、欲望された目的の実現に対する貢献度のことである。システムの目的は、自己のシステムの維持・発展であるが、システムのエントロピーを減らすためには、それ以上のエントロピーを環境において増やさなければならない。そのために有用な低エントロピー資源には、当のシステムにとって、価値がある。

希少性とは、市場においては需要に対する供給の不足であり、獲得困難性である。商品が希少であればあるほど、獲得の不確定性は増大する。逆に言えば、この不確定性の否定である商品の獲得、労働者の観点からすれば生産には、減少するエントロピーの大きさに応じた価値があることになる。

2. 従来の価値学説

価値が何によって規定されるかを論じる学説を価値学説という。経済学における価値学説には、近代経済学系の限界効用価値説とマルクス経済学系の労働価値説という2つの立場がある。2つの説をシステム論の立場から分析し、価値の本質が低エントロピーであることを確認しよう。

2.1. 限界効用価値説

限界効用価値説とは、商品の価値をその商品の限界効用で説明しようとする価値学説である。ビールを飲む時、喉の渇きを癒す1杯目のビールが1番おいしく、2杯目・3杯目となると次第にビール1杯のありがたみが減っていく。このように、消費量の増加にともなって、追加1単位あたりの効用の増加量(限界効用)が次第に減少していくことを限界効用逓減の法則という。

通常この法則は、主観的な有用性に関する法則だとされているが、そう解釈してしまうと、主観的な満足度は数量化できないから、効用関数を数式化することはできないし、中には、酔えば酔うほどビールはうまくなると言って、限界効用逓増を主張する人も出てくるであろう。

限界効用逓減と類似の現象は、卸売市場でも見られる。個人的にはビールに興味のないビールの卸売業者にとって、ビールの主観的効用は常にゼロである。そのような卸売業者も、市場でのビールの供給量が増えるにつれて、ビールの卸売価格を引き下げる。

限界効用が逓減する時、主観的有用性の限界値が逓減しても、客観的有用性の限界値はそうではないということは、飲む直前に1杯目と2杯目を入れ替えても、何も変わらないことから明らかである。だから、限界効用が逓減する時、逓減しているのは希少性であって、有用性ではないと解釈するべきである。ビールの消費量が増えるにしたがって、1杯分の「ありがたみ」は減っていくと書いたが、よく考えてみると、「有り難い」は、本来「入手困難」という意味である。

限界効用が逓減するのは、供給が増えるにつれて、希少性がなくなっていくからである。消費者側からすれば、希少性がなくなればなくなるほど、獲得の不確定性が減少するので、それだけその否定には価値がなくなる。生産者側からすれば、商品の数が増えれば増えるほど、売れ残るリスクが増えるので、その商品の価値は、その確率をかけた分だけ減る。どちらから見ても、価値は、不確定性=エントロピーによって決定されるのである。

2.2. 労働価値説

労働価値説とは、商品の価値はその商品を生産するために必要とされた労働によって規定されるという価値学説である。商品がサービスの場合、労働が価値の源泉であることは、はっきりしている。商品が財の場合でも、私たちが対価を支払っているのは、実は物に対してではなくて、その物を生産し、運搬してきた労働に対してであると考えることができる。

労働がなぜ価値を生み出すかを論じる前に、労働が、それ以外の活動、例えば遊びとどう異なるのかを考えてみよう。遊びでゴルフをする人が、物理的にプロゴルファーと同じようなすばらしいプレーをしても、後者が労働としてお金が支払われるのに対して、前者が遊びとして逆にお金を支払わなければならないのは、いかなる違いに基づくのか。

遊びでゴルフをするときは、ゲームに勝つ必要はないし、つまらなくなればいつでもやめることができる。また、プレーを見ている人が感動するかどうかはどうでもよいことだ。しかし、プロゴルファーの場合は、そうした恣意的行為は、マイナスの報酬なしにはありえない。遊びには、労働の時よりも「他のようでもありうる」自由がある。逆に言えば、労働は遊びよりもエントロピーが低い。そして労働は、エントロピーを減らすがゆえに価値を生み出す。もっと分かりやすく言うと、労働の賃金とは、失われた自由に対する代償である。

では、マルクスが主張したように、全ての価値の源泉は労働だとか、商品の価値は、社会的必要労働時間によって規定されると言えるだろうか。答えは否である。宝くじで大金を当てた人は、はずれた人に比べてより多く努力したわけではない。宝くじは極端な例だけれども、偶然が価値を生み出すことはしばしばある。

労働価値説は、職業による単位時間あたりの賃金格差を、その職業に就くまでの教育期間の機会費用によって、つまり最終的には労働商品を生産するための労働時間によって説明しようとする。だが、同じ条件下で同じ時間訓練を受けたからといって、同じ能力の人材ができるとは限らない。産まれたときから自分にある分野の才能があるかどうかは、宝くじと同様に、偶然が支配する。

マルクス主義の経済学者は、必然性の哲学を信奉しているので、経済現象における不確定性の役割を正しく認識できない。これに対して、エントロピーの経済学は、宝くじの価値を簡単に説明できる。宝くじ当選の価値は、宝くじが当たる不確定性の否定にある。だから、当たる確率が低ければ低いほど、当選の価値は大きくなる。

3. 道徳的価値と経済的価値

以上の限界効用価値説と労働価値説の検討から、商品の価値とは商品が持つ低エントロピー性であることが結論として導くことができる。この価値論は、経済的価値にしか当てはまらず、それ以外のもっと「高尚な」価値には適用できないのだろうか。実際、多くの倫理学者は、経済的価値と道徳的価値は、異質であると考えている。はたしてそうだろうか。

確かに「正直者はばかを見る」という諺があるように、道徳的正義と経済的利益は必ずしも両立しない。例えば、自分の会社が組織ぐるみの違法行為を行っていることに気が付いたとしよう。あなたならどうするか。「社会正義のために、内部告発をするべきだろうか。しかしそうすれば、自社の業績が悪化し、自分の収入を減らすことになる。密告の事実がばれて、解雇されるかもしれない。他の会社で職を見つけることもできそうにないから、ここは見て見ぬふりをしようか」というように、正義かそれとも保身かという選択に悩むのではないだろうか。もちろん、一般的には、社会正義が守られている社会の方が、そうでない社会よりも経済的に繁栄する。しかし個人の短期的な利益が社会正義と対立することはしばしばある。

両者が異なるかどうかを検討する前に、道徳とは何かを概念規定しよう。カントが主張したように、道徳的に悪しき行為は、その格率(主観的な行為の規則)を普遍化すると、概念的な矛盾に陥る。例えば、他人の利益を尊重せず、自分の利益のみを考えるエゴイストが、その格率を言語で表現する(普遍化する)と、周囲の人も、その人の利益を尊重しなくなるから、「自分の利益のみを考える」という当初の格率に矛盾してしまう。功利主義的計算は、アポステリオリな経験的事実に基づくが、道徳法則はアプリオリな理性の法則であり、この点で、両者は全く異質である。これが道徳を功利主義的計算から区別する古典的な議論である。

では、格率はなぜ普遍的でなければならないのか。もし社会規範が矛盾を含んでいるならば、私たちはどのように行為してよいのか分からなくなる。つまり行為決定の不確定性が増大する。逆に言えば、道徳や法といった社会規範は、不確定性の相互依存から生じる社会的エントロピーを縮減するがゆえに、価値がある。

具体的な例で、説明しよう。嘘をつくことは、たとえそれが直接には誰の利益をも損なわない場合であっても、道徳に反する。それは、全ての人が嘘をつき始めると、情報の不確定性が増大するからである。他者の所有物を盗むことは、ほとんどの国で法律違反である。それは、窃盗を容認すると、所有権の不確定性が増大するからである。

経済的価値の必要十分条件である有用性と希少性が、両方とも低エントロピーで説明できるように、社会規範にも低エントロピーとしての有用性と希少性がある。つまり、労働が商品という低エントロピーを生み出す選択行為であるように、道徳的あるいは合法的行為は、社会秩序という低エントロピーを生み出す選択行為である。

個人の社会規範の遵守が、社会秩序という低エントロピーを作り出す上で「有用」であることは言うまでもない。では、希少性の方はどうだろうか。「心の欲するところに従って矩をこえない」聖人にとって、道徳的に正しく振る舞うことは、ちょうど私たちにとって二足歩行することがそうであるように、他のようではありえないので、何の価値もない。しかし、それまで四つん這いであった赤ちゃんが二足歩行できるようになることが感動的であり、希少価値があるように、悪人が罪を悔い改め、道徳的に正しい行為を行うようになることも感動的であり、光り輝く価値がある。悪への誘惑に負ける可能性が私たちにあるからこそ、その否定である道徳的行為に希少価値があるのである。

道徳的価値の本質が、経済的価値と同様の低エントロピー性であるとするならば、前者を後者から超越した異次元の価値とみなす必要はなくなってくる。「世界が滅びても、正義をなすべし」といった考えは、あまりにも経済学的なバランス感覚を失っているがゆえに、支持できない。「正義かそれとも保身か」という最初の問題に戻るならば、この道徳的価値と経済的価値の選択の問題は、「株を買おうかそれとも債権を買おうか」という純粋な経済的選択の場合と同様に、その都度の状況に応じて答えは変わってくる。要は、どちらの方が、より多くのエントロピーを減らすと予想するかに依存しているのである。

読書案内
書名 価値論
著者 宇野 弘蔵 他
出版社と出版時期 こぶし書房, 1996/12
書名 An Introduction to the Principles of Morals and Legislation
媒体 デジタル
著者 Jeremy Bentham
出版社と出版時期 Digireads.com,
書名 Utilitarianism
媒体 デジタル
著者 John Stuart Mill
出版社と出版時期 Kessinger Publishing, LLC,