7月 312003
 

文化(culture)が、「土地を耕す」、「栽培する」を意味するラテン語《colere》に由来するのに対して、文明(civilization)は、「市民」を意味するラテン語《civis》に由来する。文化が農村的であるのに対して、文明は都会的である。前節で農業文化の誕生を論じたのに続いて、本節では、都市文明の誕生を論じることにしよう。

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1. 都市文明の成立

人類最初の都市文明は、紀元前3500~2300年の時期に出来した、メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、中国文明のいわゆる四大文明だと考えられている。紀元前3500年頃から、メソポタミアでシュメール人の都市国家がおこり、紀元前3000年頃には、メネスが上下エジプトを統一し、紀元前2300年頃になると、シュメール人と交易があったインダス川流域に高い完成度の都市が突然出現した。中国でも、黄河文明に先立って、紀元前3000年頃に長江流域に都市文明が発生したことが近年の発掘で明らかになっている。

現在、文明の誕生は次のように説明されている。約2500年間続いた気候最適期の間、人々は比較的平和で豊かな地方分散型の生活を送っていた。ところが、紀元前3500年頃から、気温が低下し始め、北緯35度以南の北半球は、同時に乾燥化し始めた。そのため、人々は水を求めて大河に集まり、都市を造った。

多様な文化と習慣を持った地方から人々が一箇所に集まって来て都市を造ると、物質的にも社会的にもエントロピーが高くなる。都市文明以来、都市は大きな河のほとりに造られているが、これは都市で発生した物質的なエントロピーを流れる河に捨てるためである。太陽エネルギーが惹き起こす水と空気の循環が、都市から発生する物質的なエントロピーを縮減している。

都市から発生する物質的なエントロピーの縮減者が太陽だとするならば、都市から発生する社会的なエントロピーの縮減者は、何であろうか。それは高資本所有者、すなわち権力者である。蓋し、権力者が太陽に喩えられる所以である。邪馬台国で、台与の即位が太陽の再生として神話の中で描かれていたことを思いだそう。もう少し最近の例を挙げると、近代小氷期の最盛期(マウンダー極小期)に、太陽王と呼ばれたルイ14世が、フランスを絶対的な権力で統治した。ルイ14世は「朕は国家なり」と称したが、太陽の威力が衰え、エントロピーが増加する時代だからこそ、太陽に代わって、太陽のように低エントロピーな秩序を与える国家権力の権化のような国王が必要とされたのである。

文明の特徴である巨石建造物や城壁都市は、それを造成させた強い権力者の存在を示している。様々な文化と習慣を背負った人々の集結により増大する社会的なエントロピーを縮減するには、労働集約的な経済の組織化による生産性の向上、城壁都市の建設による境界の再設定、貨幣や刑罰等のコミュニケーション・メディアの発行による公共性の創設などが必要である。

インダス文明の都市遺跡には、他の文明の都市遺跡におけるように、強大な権力の存在を示す大宮殿や大神殿などの遺跡がないが、このことは、インダス文明に指導者がいなかったことを意味するわけではない。高官の邸宅、高僧の学問所、集会所とおぼしき公共性の高い建物跡ならある。モヘンジョ・ダロには、階段つきの大浴場の遺構がある。現在でも南インドの寺院には、沐浴のための施設が付属しているので、宗教的な用途のために使われた可能性が高い。インダス都市文明において指導者としての機能を担ったのは、軍事力はないものの、メソポタミアやアラブ湾岸の先進文明の知識を持ち、かつ宗教的カリスマ性のある人物であったと推測される。

2. 都市文明はなぜ消滅したのか

四つの都市文明は、紀元前2500年頃に最盛期を迎えた後、徐々に衰えていき、紀元前1800年頃には、四つとも消滅するか、あるいは少なくとも中断して、暗黒時代を迎えている。この巨石文明の闕史時代には、北方遊牧民族が南下する現象が世界的に見られる。紀元前1670年にはエジプトにヒクソスが侵入し、紀元前1600年頃に、南の長江文明の衰退と交代するかのように黄河文明が誕生し、紀元前1595年頃には、バビロニアにヒッタイトが侵入し、紀元前1500年頃には、パンジャブ地方にアーリア人が侵入する。

こうした北方の民族が、都市文明を破壊したのではないのかとかつて言われたことがあった。例えば、アーリヤ民族がインダス文明を滅ぼしたといった説がその典型である。しかし、インダス文明が消滅したのは、紀元前1800年から紀元前1700年にかけてで、他の三つの文明の場合と同様に年代的に無理がある。また、インダス文明の都市遺跡からは、アーリヤ人の来襲を証拠立てる遺物が全く見つかっていない。インダス文明の都市遺跡の屋外部分から人間の遺体が見つかっていないので、外敵の攻撃や突然の自然災害で破壊されたのではなく、むしろ住民自身が都市を見捨てたと判断できる。

では、都市文明はなぜ滅びたのだろうか。エコロジストたちのお好みの仮説は、都市住民が自然を破壊した結果、都市文明が維持できなくなったという環境破壊説である。例えば、インダス文明の都市遺跡では、城砦の築壇や城壁の芯以外はみな焼きレンガを使っていたが、膨大な焼きレンガを製造するためには膨大な木材が燃料として必要なので、過剰に森林が伐採され、砂漠化が進んだとかといったことが根拠として挙げられている。

こうした環境破壊説は極めて疑わしい。インダス文明が消滅した後、インダス川流域が無人の荒野と化したわけではないからだ。インダス都市文明は紀元前2000年ごろから徐々に衰えていくが、それに代わって、後期ハラッパー文化と呼ばれる豊かな農耕文化がこの地に現れる。また、もしメソポタミア文明が、チグリス・ユーフラテス川流域の土地を人が住めないほど破壊したとするならば、なぜその後、今日に至るまでこの地で文明が栄えているのかが説明できない。

3. 温暖化が都市文明を不要にする

私は、環境破壊説とは全く逆の説、すなわち、都市文明は環境が好転したがゆえに放棄されたという環境好転説を主張したい。パラドキシカルに聞こえるかもしれないが、都市文明が、寒冷化と乾燥化すなわち環境の悪化によって同時に成立したとするならば、温暖化と湿潤化すなわち環境の好転によって、都市への集結が不必要になり、都市住民たちが自主的に地方へと戻って行き、その結果、都市文明は消滅したと考えなければ、論理が一貫しない。

温暖化によって、それまで都市に集結していた古代の人たちが地方へと戻って行ったというプロセスは、温暖化によって、それまで農業牧畜をしていた先史時代の人々がかつての狩猟採取生活へと、一時的にとはいえ、戻って行ったプロセスとよく似ている。先史時代の人にとって、長時間労働を必要とする農業牧畜生活よりも労働時間が短い狩猟採取生活の方が魅力的だったように、古代人にとって、中央集権的な都市文明よりも地方分散的な農耕文化の方が魅力的だったのである。

読者の中には、地球温暖化は環境破壊だから、温暖化は環境の悪化ではないのかと反論する人もいるかもしれない。実際「このまま二酸化炭素濃度が増えていけば、地球温暖化により文明は滅びる」と予言する人がたくさんいる。この予言は、「温暖化は環境の悪化である」という間違いと「環境の悪化が文明を滅ぼす」という2つの間違いを犯すことにより、結論は表面的に正しくなっている。

後者の間違いは既に説明したので、前者の間違いを説明しよう。二酸化炭素濃度が高くなり、気温が上昇し、湿度が高くなれば、地球全体としては、植物は光合成をより活発に行うようになるので、食物連鎖に従って、草食動物も肉食動物も繁栄する。実際、ジュラ紀の中頃では、現在よりも二酸化炭素濃度が20倍も高く、気温も10度高かったが、それによって生物が大量に絶滅したというわけではない。むしろそれとは全く逆に、当時は、裸子植物と恐竜が大繁栄した時代だった。地球温暖化と二酸化炭素濃度の上昇は、地球を生命の楽園にする。

現在、急激な地球温暖化が懸念されているのは、それが、かつてのヤンガードリアス事件(前節参照)の再現、すなわち、急激な寒冷化をもたらすかもしれないからであって、温暖化そのものが問題なのではない。逆説的に言えば、急激な温暖化が望ましくないのは、温暖化が望ましいからだ。

読書案内
書名都市と文明
媒体単行本
編者金関 恕 他
出版社と出版時期朝倉書店, 1996/08
書名Early Hydraulic Civilization in Egypt
媒体ハードカバー
著者Karl W Butzer
出版社と出版時期Univ. Chicago P, 1976/11
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