なぜ売買春してはいけないのか
現在日本では、売買春は法律で禁止されている。そして、多くの男たちは、「買春は悪だ」と、少なくとも頭では理解している。体が言うことを聞くかどうかは別として。では、この長く信じられてきた価値観に根拠はあるのか。はたして、「誰にも迷惑をかけずに、お互い自由意志で合意してやっているのだから、なーんにも悪くないじゃん」と開き直る売買春肯定論者の主張を、説得力ある理由を挙げて論破することは可能だろうか。いくつか候補を挙げて、その妥当性を検討してみよう。

1. 性病防止説
売買春は、性病を蔓延させ、非嫡出子を産み出すので悪い。
この説によると、売買春というよりも、売買春を含めたフリーセックス一般が好ましくないということになる。もしも、セックスが夫婦間でしか行われないのであれば、性病は配偶者にしか感染せず、それ以上広がらない。これに対して、売買春がオープンに行われる場合、不特定多数の客を相手にする売春婦がスーパー・スプレッダーとなって、性病を蔓延させることがしばしばある。また、未婚女性が売春をする場合、避妊に失敗して非嫡出子(婚外子)を産むリスクがある。最初に思いつく「合理的な」理由はこんなところだ。
だが、こうした理由で売買春を法的に禁止することはできない。法律で売買春を禁止しても、アングラマーケットで売買春がはびこるだけである。それならば、公的機関が売春宿を経営した方が、性病予防や避妊用具の着用などが徹底されるので望ましいということになる。少なくとも、性病や避妊についての知識のない女子高生が、ふらふらと路上で援交オヤジを探す場合よりも安全である。また、暴力団などに流れていた金を、公共の利益のために使うことができるというメリットもある。

戦前の日本では、こうした理由から、公娼制度が作られた。にもかかわらず、戦後、公娼制度が廃止され、売春防止法が施行され、今日に至るまで「公営吉原」を作ろうという動きが政府に出てこないほどに売買春が忌み嫌われているのはなぜなのか。将来、着用を感じさせないほど薄くて、しかも絶対に破れることがない究極のコンドームが発明されて普及し、性病問題と妊娠問題が解決されたとしても、たぶん売買春が悪だという価値観が変わることはないだろう。それはなぜか。
ここで、「買春」という言葉を聞いただけで、目をつり上げるフェミニストに登場してもらって、御説を拝聴しよう。まずは、いかにもフェミニスト的な理由から見ていこう。
2. 経済的暴力規制説
買春は、男の女に対する経済的優位の象徴だから許せない。
たしかに、男が女より平均的に収入が高いからこそ、男は高値で女を買うことができる。ただ、売買春で男女間の経済格差が広がるわけではなくて、むしろ逆に小さくなるのだから、この命題からは、男女の経済格差を是正すべしという当為が帰結しても、買春を禁止すべしという当為は帰結しない。
3. 性的奴隷解放説
買春は、女を男へと隷従させる性的奴隷制度だからけしからん。
「性的奴隷」というのも、フェミニストたちがよく使うレトリックであるが、売春婦を奴隷扱いすることは奴隷制度に対する根本的な誤解である。奴隷は、24時間365日自由を持たないが、売春婦が自由を持たないのは、勤務時間中だけである。発展途上国には、性的奴隷に近い女たちがいるが、これは売買春というよりも人身売買であるから、別の問題である。ともあれ、日本の売春婦のように、生活のためにやむをえずではなくて、ブランド物を買うためとかプチ家出のためとかの理由で、時間の一部を売春に当てて金を稼ぐことは、いかなる意味でも奴隷的ではない。もしも日本の売春婦が奴隷なら、すべての労働者は、勤務時間中自由を失っているのだから、顧客の奴隷ということになってしまう。
結局のところ、フェミニストたちの攻撃の矛先は、買春の原因となっている男女の経済格差に向けられていて、女の売春行為そのものに対しては、フェミニストは意外と寛容であったりもする。実際、あるフェミニストは、女は売春してもよいが、男の買春は悪だなどと言っている。これは、「片手で拍手しろ」と言っているのも同然ではないのか。買い手を否定して、どうやって売れと言うのか。
ここで、フェミニストよりも、もっとピュアに売春を憎むロマンチストに登場してもらって、御説を拝聴しよう。
4. 愛情欠如説
売春は、愛がない金目当てのセックスだから卑劣だ
なるほどロマンチックだ。では、若い美人が、遺産目当てに、本当は愛していない年寄りの金持ちと結婚することは、卑劣な売買春として法的に禁止すべきなのか。これは極端な例だが、それにしても、経済的なことを考えずに、愛だけで結婚するカップルがどれだけいるだろうか。専業主婦志望の女性は、相手がハンサムかどうかよりも、収入が多いかどうか、あるいは学歴が高くて将来出世しそうかどうかということを重視するのではないのか。売春婦の中にも、趣味と実益を兼ねている人がいて、相手が好みのタイプだと、「ラッキー!」とか言って、愛のこもったセックスをすることもあるのではないのか。こうしたことを考えると、専業主婦は終身雇用の専属社員で、売春婦はパートタイムの派遣社員という就業形態の違いはあっても、ともに「セックスでメシを食う」という点では変わりがないということになる。いずれにせよ、愛があるかないかでは、合法的な専業主婦と非合法の売春婦を区別することはできない。
5. 人身売買防止説
売春は、体を物のように売るので、非人間的な職業だ
これもロマンチストがよく口にするせりふだ。性的奴隷解放説と似ているように見えるが、人身売買防止説が性と人格の分離を批判しているのに対して、性的奴隷解放説は人格までが性とともに売られることを批判しているのだから、立場が違う。では人身売買防止説は正しいか。答えは否だ。人身売買防止説を主張する人は、「商品=財」という誤解をしている。サービス業を考えればわかるように、物の移譲がなくても交換は成り立つ。しばしば売春のことを「体を売る」と表現するが、臓器売買のように、文字通り肉体の切り売りをしているわけではない。たんに肉体を用いたサービスを売っているだけである。そして、言うまでもなく、肉体労働自体は悪くない。では、売春は、客の肉体に触るから、汚らわしい肉体労働なのか。そうではない。マッサージ師は、売春婦と同様に、客の体に手で触れて、客に肉体的な快楽を与え、それで金を稼いでいるが、売春業のように「醜業」扱いされていない。マッサージ業との違いを強調するならば、人身売買防止説は次の段階に移行する。
6. 触穢防止説
売春は、客の性器と接触する肉体労働なので、猥褻で穢れた職業だ
なにやら中世の頃を髣髴とさせる差別的言説だが、もしもこうした触穢思想を応用するならば、医師や看護士も「猥褻で穢れた職業」ということになってしまう。例えば、女性看護士が、盲腸切除手術を受ける男性患者の秘部の剃毛をしたり、乳がんの検査と称して男性の医師が女性患者の乳房をもんだり、産婦人科の医師がヴァギナに手で触れたりなど、医療現場では、風俗店もどきの接触行為が行われている。私は行ったことがないのでよく知らないが、イメクラのメニューに「剃毛プレー」とか「乳がん診断プレー」とかあっても不思議ではない。にもかかわらず、誰も医師や看護士を「猥褻で穢れた職業」とは言わない。だから、売春と医療行為を区別するためには、触穢防止説は、「売春は、性的快楽を与えるために客の性器と接触する肉体労働なので、猥褻で穢れた職業だ」と書き換えられなければならないが、これは、「売春は、売春なので、猥褻で穢れた職業だ」というのも同然で、なんら理由を示したことにならない。
以上、売買春を悪とみなす様々な根拠を検討したが、いずれも説得力に欠けている。売春婦をすると経歴に汚点を残すとか、周囲から白い目で見られて精神的な傷を負うなど、世間が売春を悪とみなすことによる二次的な弊害を指摘する人もいるが、もちろん、それらは、売春が悪であることの一次的な理由にはならない。たまねぎの皮をむくように、一枚一枚見せかけの理由を剥いでいった結果、最後に残るコア、売買春に対する抵抗の最後の砦は何なのか。私がたどり着いた結論は、こうである。
7. 希少価値維持説
売買春の合法化は、セックスの希少価値を損なうので問題がある。
売買春の報酬は、他の職業で素人の女性が受け取る賃金よりも破格に高い。これは、セックスの希少価値が高いからであって、有用性価値が高いからではない。その証拠に、援助交際がブームになった時、素人の女子高生の方がベテラン売春婦よりも高値で売れた。なぜ、ベテラン売春婦とは違って、セックス・テクニックが皆無で、ただマグロやっているだけの、しかも体が未熟でおいしくない素人の女子高生が高く売れるかといえば、それは多くのオヤジが、「素人の女子高生は処女だ」と信じているからである。現在、オヤジたちは、これが幻想に過ぎないことに気がつき、「本当の処女」を求めて女子中学生を漁り始めている。オヤジが、これだけ処女にこだわるのは、言うまでもなく、経験者よりも処女の方が、希少価値が高いからだ。
もしも売買春が合法化され、売春婦になることが経歴上のスティグマでなくなると、現在よりも多くの女性が売買春市場に参入して供給過剰となり、売春料金は、通常のマッサージ料金と同じ水準にまで暴落するだろう。これは、麻薬を合法化すると、麻薬の価格が通常の薬の水準にまで暴落するのと同じことである。将来、性病防止説から触穢防止説で指摘した問題が解決されたとしても、すなわち、コンドームの技術革新のおかげで、性病が蔓延したり、非嫡出子が続出したりしなくなったとしても、男女の経済格差が縮まって、フェミニストたちがおとなしくなったとしても、売春婦に対する社会的偏見がなくなったとしても、否、むしろこうした売買春へのあらゆる障害がなくなればなくなるほど、そして素人が気軽に売春できるようになればなるほど、セックスの希少価値がなくなるので、希少価値維持説の問題は深刻になる。
規制緩和による価格破壊で打撃を受けるのは、売春婦だけではない。同じく「セックスでメシを食っている」専業主婦もデフレの危機に晒される。いつでも、安く、簡単に女を買うことができるようになれば、男たちは、もはや性的快楽のためだけに結婚する必要はなくなる。そうなれば、専業主婦志願の女性たちは大量に売れ残ることになる。では、女性たちが買春合法化反対を叫ぶのは、日本の稲作農家が、米の輸入自由化に反対する場合と同じで、規制緩和によって業界の既得権益が侵されることを恐れているからなのだろうか。
規制緩和で専業主婦が減るだけなら、何も問題はないし、むしろ女性の自立という観点からは望ましいと考える人もいるだろう。だが、セックスの希少価値が下がることによる弊害はこれだけにとどまらない。売買春を合法化しても、婚外交渉を肯定しない限り、既婚の男女は売買春ができない。結婚してしまうと、未婚の時のように、いつでも、安く、簡単に女を買う「セックス・オン・デマンド」が享受できなくなるということになれば、「子供も欲しいが、それ以上にいろいろな女と一生遊び続けたい」という選好を持つ男たちは、結婚しなくなる。そうすれば、そうした男が作るであろう子供の分だけ人口が減少する。戦前の日本では、妻が夫の買春を容認したために、公娼制度を作っても、あまり独身者を増やすことにはならなかったが、現在のように、妻が夫の不倫に寛容でなくなると、そういうわけにはいかない。
キリスト教徒が、売春だけでなく、オナニーや避妊や同性愛を禁止するのは、生殖を目的としない、性的快楽だけを求めた非本来的な性行為は、「産めよ、殖えよ、地に満てよ」という神の人間に対する祝福に違反するからだと考えることができる。キリスト教に限らず、性道徳の背景には、人口増加を善とする思想がある。婚前交渉を肯定して、結婚しなくても愛があればセックスができるようになれば、あるいは、売買春を肯定して、結婚しなくても金さえあればセックスができるようになれば、結婚するカップルが減り、それは結果として少子化を促進してしまう。
では、売買春がお金を媒介としない婚前交渉よりも嫌われるのはなぜか。それは、相思相愛の婚前交渉は、物々交換一般と同様に、「私が欲望する商品の所有者が、私が所有する商品を欲望している」という欲望の偶然的な二重の一致を必要とするために、成立が困難であるが、貨幣というコミュニケーション・メディアが媒介すれば、片想いでも簡単に交換が成立する、つまり、売買春は、婚前交渉よりも成立が簡単で、それだけセックスの希少価値をより大きく下げるからだ。
私の結論は、売買春の合法化は人口増加を抑制し、種の存続を危うくする(あるいは少なくともそう信じられている)から非難されるというものだ。もちろん、私たちは、本当に人口の減少が望ましくないのかどうかを疑わなければならない。日本をはじめとする先進国では、少子化が社会問題となっているが、発展途上国では、人口増加は悩みの種である。そうした国々に対しては、人口抑制政策の一環として、売買春を未婚の男女に限り合法化してみてはどうだろうかと提案したくなるが、発展途上国ほど、性病予防や避妊が不徹底なので、売買春の合法化は、性病の蔓延や意図せざる出産の増加をもたらしてしまう。ここに売買春合法化が直面するディレンマがある。
8. 読書案内
- 『買売春解体新書―近代の性規範からいかに抜け出すか』の前半は、援助交際をめぐる上野千鶴子と宮台真司との対談。コミュニケーション・スキルがなくて、買春によってしかセックスできない男を「性的弱者」と位置づける宮台に対して、上野は、性欲を満たしたければ、マスターベーションしろと言う。後半では、藤井誠二のレポートが面白い。
- 『性の商品化―フェミニズムの主張〈2〉』は、性の商品化に対するフェミニストたちの批判。疎外論や搾取論など、古臭いマルクス主義のイデオロギーをそのままフェミニズムに適用したような議論が目立つ。
- 『売る売らないはワタシが決める―売春肯定宣言』では、売買春肯定論者たちが、「売春は良いけれどもし、買春はダメ」と主張する上野千鶴子や「タイの女性は強制的に売春させられている」と主張する松井やよりや「売買春で他者が他者でなくなる」と主張する立岩真也など、著名人たちの浅薄な売買春否定論を批判する。
ディスカッション
コメント一覧
永井さんは売買春合法化によって、素人の売春が増える為、価格が落ちると言う論旨の事を言っていませんでしたか?私は個人レベルでの売春の話をしていたのですが・・・。
「戦前の日本では、妻が夫の買春を容認したために、公娼制度を作っても、あまり独身者を増やすことにはならなかったが、現在のように、妻が夫の不倫に寛容でなくなると、そういうわけにはいかない」。
ここは良く読んだ場所です。ですが、何故戦前の妻達が買春を容認したか?と言う部分が欠落していると考えます。その理由によっては現在にも適用できるのでは?と思います。つまり、妻達が不寛容になった理由を見つけ、それを否定する事で戦前と同じ状況を作り出せるのでは?
「責任持って育てる親がいない子供ができると、資源を浪費する分だけ人口の増加を抑制します。」
資源が足りず(栄養失調等)、死んでいく子供に売春によって余計な子供が増えない為、資源が回ると言う論理も成り立つのでは?出生率は下がりますが、生存率が上がると言う事です。
「なんでも禁欲すれば、尊敬されるというような「心情倫理」は支持できません。特に、法を定める時には、結果を考慮した「責任倫理」が必要です。」
私が言いたかったのは人々の根源にそのような思想があり、それによって悪であると定められていると言いたかったのです。法律と道徳は一致するとは限りません。法律はあくまで手続きの話ですから。
保険は、企業だけでなく、個人も入ることができます。
戦前、妻が夫の買春に寛容だったのは、当時はまだ恋愛結婚が普及していなかったからです。親に言われて嫁に行くというケースがほとんどでした。現在の妻が夫の婚外交渉に寛容でないのは、恋愛結婚が普及したからです。少なくとも建前上は、結婚は愛の結合となり、愛は排他的だから、婚外交渉は認められないのです。
「売春によって余計な子供が増えないため、資源が回るという論理」は、多産多死の発展途上国では有効です。しかし、発展途上国ほど、性病予防や避妊が不徹底なので、売買春の合法化は、性病の蔓延や意図せざる出産の増加、すなわち資源の浪費をもたらしてしまいます。
道徳のレベルでも、禁欲としての自己抑制は必ずしも美徳ではありません。親が、子供への愛を表現したいという自然な欲望を抑制し、その結果、子供が親から愛されていないと感じて非行に走る時、人々は親の禁欲を非難します。欲望を満たすことは、道徳上でも必ずしも悪いことではありません。
「保険は、企業だけでなく、個人も入ることができます。」
個人ももちろん入れますがそれでどのようにリスクを補填するのかが疑問です。企業の場合、娼婦がどのような事になろうと「損失」で済みますし、保険金による補填も可能です。ですが、個人の場合被害を受けるのは当事者である娼婦になります。例えば、切り裂きジャックのような娼婦を狙った連続殺人犯に襲われたり、誘拐(アジアや発展途上国では珍しくありません)、不合意の行為の強要等の被害にあった場合、保険がどのような形でリスクを減らすのでしょうか?企業であるならば、例えば監視人(怖いお兄さん)を置く事が出来ますが個人ではコストの面で行っても無理です。自然、安全に(かつ利益を出すには)売春をする為には企業に所属する他無く、個人レベルでの娼婦の増加は無いと思われます。以前、場所の問題を出した時、永井さんは「男の家で」とおっしゃいましたが、見知らぬ男の家に行く事がどれだけのリスクを伴うか?を見落としていらっしゃいます。実際、店舗型の風俗よりも出前型の風俗の方が料金が1.5~2倍近く割り増しになっています。部屋代等のコストを削減しているにもかかわらず料金が増していると言うのはつまり、男性の家に出向く事が娼婦にとってどれだけリスクが高いかを示しています。
「親に言われて嫁に行くというケースがほとんどでした」
これは武士や貴族等の上流階級のみで、庶民の方ではむしろ「夜這い」などをして相手を自由に見つける事が出来たと思われます。また時代によっては貴族でも相手の家に「逢瀬」しに行くというのが一般的であった時代もあります。現代よりも恋愛に関して奔放であったのです。親が結婚相手を決めると言うのは政治的に皇族に近づき権威を得ようとするか、戦国時代のように相手国との関係のために血縁を結ぼうとするなどです。どちらも一般市民にはあまり関係の無い話です。親が絶対的な権威を持つ家父長制度が固まったのは武家社会、しかも平和が続き武士の意義が問われた江戸時代中期あたりからで、それ以前は親の許可は必要でも相手を決めると言うことは(一般レベルでは)無かったはずです。
「少なくとも建前上は、結婚は愛の結合となり、愛は排他的だから、婚外交渉は認められないのです。」
恋愛結婚が愛の結合なら、親が決める結婚は家の結合です。仮に永井さんが仰る通りに妻が黙認しても親戚一同が文句を言うでしょう。個人レベルの恋愛ではなく、「家」と言う集団レベルでの契約ですから、それだけさまざまな圧力がかかるわけです。
「道徳のレベルでも、禁欲としての自己抑制は必ずしも美徳ではありません。親が、子供への愛を表現したいという自然な欲望を抑制し、その結果、子供が親から愛されていないと感じて非行に走る時、人々は親の禁欲を非難します。欲望を満たすことは、道徳上でも必ずしも悪いことではありません。」
親が子供を愛さないと言う道義的理由が見当たりません。親が子供のために尽くすと言うのは欲望ではなく、「献身」・「自己犠牲」です。一歩譲り、欲望であったとします、思う存分愛情を注ぎ子供を甘やかして育て、わがままな人間に育った場合もやはり非難されるはずです。「量」の問題ではなく「質」の問題です。
保険がリスクの分散になるのは個人でも法人でも同じことです。また通勤途中に襲われるなどのリスクがあるのは、派遣される女性マッサージ師でも同じことです。ゆえに、売買春が合法化されると、売春料金は、通常のマッサージ料金と同じ水準にまで落ちるという命題に変更はありません。
戦前の話がいつの間にか江戸時代以前にまで広がりましたね。江戸時代の農村で行われていた夜這いでは、重婚が当たり前だったから、浮気や不倫に寛容だったというよりも、そうした発想すらなかったといえるでしょう。明治維新以降、結婚制度が確立しても、男たちは、妾を囲うことを「男の甲斐性」と称して自慢していたというのですから、恋愛結婚が主流の今とは大違いです。
禁欲の道徳に、「道義的理由」を付加しましたね。これを付け加えたら、論点先取になります。ただ、「禁欲が必ずしも道徳的に善ではない」ということは理解してもらえたようですね。
リスクを分散させる事は出来ても、回避・抑制は出来ないと言う事です。誘拐・殺害されそうな場合、保険金でどのようにリスクを回避出来るのか?と聞いたつもりなのですが・・・。マッサージの場合、男性が来る場合があります(選べる場合もありますが)が、風俗の場合女性のみです。自然、女性を狙った犯罪の標的にされやすくなります。逆に見知らぬ女性を家に呼ぶ事で美人局の被害の増加も考えられます。これも個人売春の需要を下げ得る要素かと思われます。
また、マッサージの場合でも派遣と店舗ではやはり派遣の方が割高です。マッサージ・風俗の別なく価格は上がります。マッサージに同意の上では無い行為が起きた場合、それは全て強姦で犯罪になりますが、個人売春の場合、元々が性交と言う目的で行われる為、同意・不同意の線引きが曖昧になりやすくまた、線引きしたとしても女性側に抗う術が無いと言うリスクが生じます。結論「価格が高く、犯罪の温床となり易い個人売春には、男性・女性ともに近づき難く、今までどおりの企業型売春がメインとなる」
また、個人売春と企業売春の違いとしては、個人は特に時間・人数のノルマ等はありませんが企業型の場合は、勤務時間内は客がついたら、如何に疲れていようと相手をしなくてはならないと言う条件が付きます。永井さんは、一日十人でも捌けると仰っていましたが、可能であるのとそれが楽であるのとは話が違います。やはり重労働である事に変わりは有りません。
江戸時代まで話が飛んだのはそれまでは、日本において不倫・売春等に抵抗が無かったと言うのを説明する為だったのですが、江戸時代の農村は共同体内で男女を共有すると言う考え方があり、夫婦と言う制度自体がなかったと言うのは私の勉強不足でした。申し訳ありません。
ここで一つ疑問が出来たのですが、不倫=売春は成り立つでしょうか?不倫の場合、両者には恋愛関係が成り立ち、恋愛によって成立する結婚(恋愛結婚の場合)を脅かすと言うのは疑う余地が有りません。ですが売春の場合、両者に有るのは「金銭のやり取り」であって、恋愛関係は成立していません。であるならば、結婚に影響を与えるものではないと思われるのですが。(民法において、既婚者の他の異性との性交を禁ずるとの旨の条文がありますが、ここではない物としてください。「既婚者の売春が違法なのは、民法で条文があるからだ」つまり「違法なのは違法だからだ」と言う無限循環になりますので。)
わかりました。「道義的理由」抜きに説明しましょう。「道徳のレベルでも、禁欲としての自己抑制は必ずしも美徳ではありません。親が、子供への愛を表現したいという自然な欲望を抑制し、その結果、子供が親から愛されていないと感じて非行に走る時、人々は親の禁欲を非難します。欲望を満たすことは、道徳上でも必ずしも悪いことではありません。」人々が非難したのは、愛情を注がなかった禁欲についてではなく、子供を立派な成人にすると言う「親の義務」を怠ったからです。欲望の定義についてですが、私は「利己的な行為・考え」と考えます。この場合は、親は子供を育てると言う社会的義務よりも個人的な考えを優先した為、欲望を満たしたと考えられ非難されます。
「売買春が合法化されると、売春料金は、通常のマッサージ料金と同じ水準にまで落ちる」という私の主張にようやく合意してくれましたね。買春が不倫なのかどうか、つまり愛の排他性を原則とする恋愛結婚の理念を損なうことがないのかどうかは、自分の(将来の?)奥さんを実験材料にして試してみてください(なお、この実験から損害が発生しても、補償しませんので悪しからず)。行為は、利己的か利他的かの二つに単純に分割できません。買春は、貧しい少女を飢餓から救うのだから、利他的行為でもあるという理屈も成り立ちます。さらに、市場経済では、利己的行為が社会を繁栄させ、利他的行為は社会を破滅させるという逆説が成り立ちます。詳しくは、マンドヴィルの『蜜蜂物語』をお読みください。
最終的な結論として、永井さんはセックスの希少価値を問題にしていらっしゃいますね。これは人の実感と差があるのではないでしょうか。(ちょっと下品な表現を書かなくてはいけないかもしれません。すみません)私は一年以上ほぼ毎日彼女とセックスをしていますが、セックスに飽きがくることはありません。オナニーもよくします。多くの男性はもしセックスを好きなだけできる状況になったとしてもセックスに魅力を感じなくなることはないでしょう。
永井さんのお考えは、単純に「性欲は本能である」ことを無視、または軽視していると思います。男性が処女を欲するのは単なる希少価値からではなく、その女性が自分としかセックスをしたことがないという征服感に近い感覚からでしょう。セックスをしたことのない男性(いわゆる童貞)とセックスをするのが好きな女性がいますが、これもやはり相手を独占できるからですよね。
男性の多くは自発的にオナニーを始めますが、女性はかなり少ないです。女性のオナニー経験者の多くはセックスを経験したあとです。これらのことから、男性と女性でセックスに対する態度が本能的に違うことは明らかではないでしょうか。それらのことを無視して「売買春はセックスの希少価値を損なうから問題がある」というのは無理があると私は思います。
私は売買春が禁止されるのには主に二つの理由があるのではないかと考えます。それは、
1)本能的な理由 男性は女性を従属させようとする本能があると思います。女性が売春をすることは、一時的に女性を従属させられるように見えますが、結局その女性は他の男性にも売春を行うわけですからその意味での本当の満足は得られません。それが買春の背徳感を生むのではないでしょうか。
2)社会的な理由 男性の方が女性より性欲が強く、その解消に風俗へ行こうとするのは市場化した社会では自然です。ところが一般的にお金を払った側はサービスを受けるのですから本当は客と店は対等な立場のはずが、客の方が優位になります。それは風俗でも同じで、女性は女性であることを売ってお金にしているのですから、当然買い手の男性は女性を低く見ます。つまり、男性は女性より偉いと勘違いします。それは客が店より偉いと思い込むくらい自然な勘違いでしょう。
私は風俗業に従事する人(男性も女性も)は、人間性の中心に近いところにある性を売ってるわけですから、低く見られること、もっとはっきり言えば軽蔑されることが仕事なのだと思っています。ですが公的な機関は軽蔑される(されざるをえない)仕事を公に認めるわけにもいかないので、禁止するのだと思います。もちろん逆にそれが本能に根ざしている部分があることをわかっているからこそ、完全な禁止もできないのでしょう。
私は、セックスの価値は希少価値だけだとは言っていません。一般的に言って、有用性価値がなければ、どんなに希少でも価格はゼロになります。しかし、希少でなければ、どんなに有用でも価格は付きません。私たちは、本能的に空気を吸います。「もう空気は飽きた。もうこれ以上吸うのは止めだ」などという人はいません。にもかかわらず、簡単に入手できる空気には市場価格が付きません。空気をセックスで置き換えて考えてみてください。
OMさんは、売買春が禁止される理由を二つ挙げていますが、両者は矛盾しています。売買春で買い手と売り手のどちらが上だと言いたいのでしょうか。性病防止説については、法は欲望の対象しか禁止しないとコメントしておきましょう。満足が得られず、誰もしないことをどうして法がわざわざ禁止しなければならないのでしょうか。経済的暴力規制説は「人間性の中心に近いところにある」という表現が抽象的であいまいです。小説家は、「人間性の中心に近いところにある」感動を売っているから、軽蔑すべき、禁止すべき職業なのでしょうか。
お金と言うもののやり取りととうして、男性側・女性側のニーズが満たせるのであればまったく、否定もできないように思ったりもするんです。レイプは絶対ダメなことで、レイプとの違いは・・・男性・女性も同意した上でのやりとりであると考えるからです。人間・・・動物として、体の欲求があっても当然だろうと思うし・・・。もし、決まってる相手がいたとしても、何らかの事情で・・・この欲求が満たされずにいる人もいるのだろうし。体をモノとして考えるって事とは、ちょっと違っていて純粋に、誰かと触れ合いたいと思って、そうなる場合もあるように思うんです。あの、よく女性に使われるのですが、男性と何人も関係をもつと、その女性は尻軽女だとか、やらせる女とか女性ばかり非難される事って多いように思うのですが、体の関係をもつ基準値って、あるのでしょうか?
もしも「誰にも迷惑をかけずに、お互い自由意志で合意できるのなら、何をやっても良い」という理屈を認めるならば、麻薬だって合法化すればよいということになります。頭では悪いとわかっていても、体がいうことを聞かないような事柄については、法で禁止するべきでしょう。女性が性欲旺盛であることは、健康であることの証拠です。多くの男たちは、「女は男ほど性欲が強くない」というビクトリア朝時代の神話を信じています。性欲を持たない、セックスするのが難しい女ほど、男のやる気をかきたてます。逆に「尻軽女」ほど、そのセックスには希少価値がないので、男には嫌われます。でも、女性は、野郎どもの勝手な空想に自分を合わせる必要はないと思います。