なぜ売買春してはいけないのか
現在日本では、売買春は法律で禁止されている。そして、多くの男たちは、「買春は悪だ」と、少なくとも頭では理解している。体が言うことを聞くかどうかは別として。では、この長く信じられてきた価値観に根拠はあるのか。はたして、「誰にも迷惑をかけずに、お互い自由意志で合意してやっているのだから、なーんにも悪くないじゃん」と開き直る売買春肯定論者の主張を、説得力ある理由を挙げて論破することは可能だろうか。いくつか候補を挙げて、その妥当性を検討してみよう。

1. 性病防止説
売買春は、性病を蔓延させ、非嫡出子を産み出すので悪い。
この説によると、売買春というよりも、売買春を含めたフリーセックス一般が好ましくないということになる。もしも、セックスが夫婦間でしか行われないのであれば、性病は配偶者にしか感染せず、それ以上広がらない。これに対して、売買春がオープンに行われる場合、不特定多数の客を相手にする売春婦がスーパー・スプレッダーとなって、性病を蔓延させることがしばしばある。また、未婚女性が売春をする場合、避妊に失敗して非嫡出子(婚外子)を産むリスクがある。最初に思いつく「合理的な」理由はこんなところだ。
だが、こうした理由で売買春を法的に禁止することはできない。法律で売買春を禁止しても、アングラマーケットで売買春がはびこるだけである。それならば、公的機関が売春宿を経営した方が、性病予防や避妊用具の着用などが徹底されるので望ましいということになる。少なくとも、性病や避妊についての知識のない女子高生が、ふらふらと路上で援交オヤジを探す場合よりも安全である。また、暴力団などに流れていた金を、公共の利益のために使うことができるというメリットもある。

戦前の日本では、こうした理由から、公娼制度が作られた。にもかかわらず、戦後、公娼制度が廃止され、売春防止法が施行され、今日に至るまで「公営吉原」を作ろうという動きが政府に出てこないほどに売買春が忌み嫌われているのはなぜなのか。将来、着用を感じさせないほど薄くて、しかも絶対に破れることがない究極のコンドームが発明されて普及し、性病問題と妊娠問題が解決されたとしても、たぶん売買春が悪だという価値観が変わることはないだろう。それはなぜか。
ここで、「買春」という言葉を聞いただけで、目をつり上げるフェミニストに登場してもらって、御説を拝聴しよう。まずは、いかにもフェミニスト的な理由から見ていこう。
2. 経済的暴力規制説
買春は、男の女に対する経済的優位の象徴だから許せない。
たしかに、男が女より平均的に収入が高いからこそ、男は高値で女を買うことができる。ただ、売買春で男女間の経済格差が広がるわけではなくて、むしろ逆に小さくなるのだから、この命題からは、男女の経済格差を是正すべしという当為が帰結しても、買春を禁止すべしという当為は帰結しない。
3. 性的奴隷解放説
買春は、女を男へと隷従させる性的奴隷制度だからけしからん。
「性的奴隷」というのも、フェミニストたちがよく使うレトリックであるが、売春婦を奴隷扱いすることは奴隷制度に対する根本的な誤解である。奴隷は、24時間365日自由を持たないが、売春婦が自由を持たないのは、勤務時間中だけである。発展途上国には、性的奴隷に近い女たちがいるが、これは売買春というよりも人身売買であるから、別の問題である。ともあれ、日本の売春婦のように、生活のためにやむをえずではなくて、ブランド物を買うためとかプチ家出のためとかの理由で、時間の一部を売春に当てて金を稼ぐことは、いかなる意味でも奴隷的ではない。もしも日本の売春婦が奴隷なら、すべての労働者は、勤務時間中自由を失っているのだから、顧客の奴隷ということになってしまう。
結局のところ、フェミニストたちの攻撃の矛先は、買春の原因となっている男女の経済格差に向けられていて、女の売春行為そのものに対しては、フェミニストは意外と寛容であったりもする。実際、あるフェミニストは、女は売春してもよいが、男の買春は悪だなどと言っている。これは、「片手で拍手しろ」と言っているのも同然ではないのか。買い手を否定して、どうやって売れと言うのか。
ここで、フェミニストよりも、もっとピュアに売春を憎むロマンチストに登場してもらって、御説を拝聴しよう。
4. 愛情欠如説
売春は、愛がない金目当てのセックスだから卑劣だ
なるほどロマンチックだ。では、若い美人が、遺産目当てに、本当は愛していない年寄りの金持ちと結婚することは、卑劣な売買春として法的に禁止すべきなのか。これは極端な例だが、それにしても、経済的なことを考えずに、愛だけで結婚するカップルがどれだけいるだろうか。専業主婦志望の女性は、相手がハンサムかどうかよりも、収入が多いかどうか、あるいは学歴が高くて将来出世しそうかどうかということを重視するのではないのか。売春婦の中にも、趣味と実益を兼ねている人がいて、相手が好みのタイプだと、「ラッキー!」とか言って、愛のこもったセックスをすることもあるのではないのか。こうしたことを考えると、専業主婦は終身雇用の専属社員で、売春婦はパートタイムの派遣社員という就業形態の違いはあっても、ともに「セックスでメシを食う」という点では変わりがないということになる。いずれにせよ、愛があるかないかでは、合法的な専業主婦と非合法の売春婦を区別することはできない。
5. 人身売買防止説
売春は、体を物のように売るので、非人間的な職業だ
これもロマンチストがよく口にするせりふだ。性的奴隷解放説と似ているように見えるが、人身売買防止説が性と人格の分離を批判しているのに対して、性的奴隷解放説は人格までが性とともに売られることを批判しているのだから、立場が違う。では人身売買防止説は正しいか。答えは否だ。人身売買防止説を主張する人は、「商品=財」という誤解をしている。サービス業を考えればわかるように、物の移譲がなくても交換は成り立つ。しばしば売春のことを「体を売る」と表現するが、臓器売買のように、文字通り肉体の切り売りをしているわけではない。たんに肉体を用いたサービスを売っているだけである。そして、言うまでもなく、肉体労働自体は悪くない。では、売春は、客の肉体に触るから、汚らわしい肉体労働なのか。そうではない。マッサージ師は、売春婦と同様に、客の体に手で触れて、客に肉体的な快楽を与え、それで金を稼いでいるが、売春業のように「醜業」扱いされていない。マッサージ業との違いを強調するならば、人身売買防止説は次の段階に移行する。
6. 触穢防止説
売春は、客の性器と接触する肉体労働なので、猥褻で穢れた職業だ
なにやら中世の頃を髣髴とさせる差別的言説だが、もしもこうした触穢思想を応用するならば、医師や看護士も「猥褻で穢れた職業」ということになってしまう。例えば、女性看護士が、盲腸切除手術を受ける男性患者の秘部の剃毛をしたり、乳がんの検査と称して男性の医師が女性患者の乳房をもんだり、産婦人科の医師がヴァギナに手で触れたりなど、医療現場では、風俗店もどきの接触行為が行われている。私は行ったことがないのでよく知らないが、イメクラのメニューに「剃毛プレー」とか「乳がん診断プレー」とかあっても不思議ではない。にもかかわらず、誰も医師や看護士を「猥褻で穢れた職業」とは言わない。だから、売春と医療行為を区別するためには、触穢防止説は、「売春は、性的快楽を与えるために客の性器と接触する肉体労働なので、猥褻で穢れた職業だ」と書き換えられなければならないが、これは、「売春は、売春なので、猥褻で穢れた職業だ」というのも同然で、なんら理由を示したことにならない。
以上、売買春を悪とみなす様々な根拠を検討したが、いずれも説得力に欠けている。売春婦をすると経歴に汚点を残すとか、周囲から白い目で見られて精神的な傷を負うなど、世間が売春を悪とみなすことによる二次的な弊害を指摘する人もいるが、もちろん、それらは、売春が悪であることの一次的な理由にはならない。たまねぎの皮をむくように、一枚一枚見せかけの理由を剥いでいった結果、最後に残るコア、売買春に対する抵抗の最後の砦は何なのか。私がたどり着いた結論は、こうである。
7. 希少価値維持説
売買春の合法化は、セックスの希少価値を損なうので問題がある。
売買春の報酬は、他の職業で素人の女性が受け取る賃金よりも破格に高い。これは、セックスの希少価値が高いからであって、有用性価値が高いからではない。その証拠に、援助交際がブームになった時、素人の女子高生の方がベテラン売春婦よりも高値で売れた。なぜ、ベテラン売春婦とは違って、セックス・テクニックが皆無で、ただマグロやっているだけの、しかも体が未熟でおいしくない素人の女子高生が高く売れるかといえば、それは多くのオヤジが、「素人の女子高生は処女だ」と信じているからである。現在、オヤジたちは、これが幻想に過ぎないことに気がつき、「本当の処女」を求めて女子中学生を漁り始めている。オヤジが、これだけ処女にこだわるのは、言うまでもなく、経験者よりも処女の方が、希少価値が高いからだ。
もしも売買春が合法化され、売春婦になることが経歴上のスティグマでなくなると、現在よりも多くの女性が売買春市場に参入して供給過剰となり、売春料金は、通常のマッサージ料金と同じ水準にまで暴落するだろう。これは、麻薬を合法化すると、麻薬の価格が通常の薬の水準にまで暴落するのと同じことである。将来、性病防止説から触穢防止説で指摘した問題が解決されたとしても、すなわち、コンドームの技術革新のおかげで、性病が蔓延したり、非嫡出子が続出したりしなくなったとしても、男女の経済格差が縮まって、フェミニストたちがおとなしくなったとしても、売春婦に対する社会的偏見がなくなったとしても、否、むしろこうした売買春へのあらゆる障害がなくなればなくなるほど、そして素人が気軽に売春できるようになればなるほど、セックスの希少価値がなくなるので、希少価値維持説の問題は深刻になる。
規制緩和による価格破壊で打撃を受けるのは、売春婦だけではない。同じく「セックスでメシを食っている」専業主婦もデフレの危機に晒される。いつでも、安く、簡単に女を買うことができるようになれば、男たちは、もはや性的快楽のためだけに結婚する必要はなくなる。そうなれば、専業主婦志願の女性たちは大量に売れ残ることになる。では、女性たちが買春合法化反対を叫ぶのは、日本の稲作農家が、米の輸入自由化に反対する場合と同じで、規制緩和によって業界の既得権益が侵されることを恐れているからなのだろうか。
規制緩和で専業主婦が減るだけなら、何も問題はないし、むしろ女性の自立という観点からは望ましいと考える人もいるだろう。だが、セックスの希少価値が下がることによる弊害はこれだけにとどまらない。売買春を合法化しても、婚外交渉を肯定しない限り、既婚の男女は売買春ができない。結婚してしまうと、未婚の時のように、いつでも、安く、簡単に女を買う「セックス・オン・デマンド」が享受できなくなるということになれば、「子供も欲しいが、それ以上にいろいろな女と一生遊び続けたい」という選好を持つ男たちは、結婚しなくなる。そうすれば、そうした男が作るであろう子供の分だけ人口が減少する。戦前の日本では、妻が夫の買春を容認したために、公娼制度を作っても、あまり独身者を増やすことにはならなかったが、現在のように、妻が夫の不倫に寛容でなくなると、そういうわけにはいかない。
キリスト教徒が、売春だけでなく、オナニーや避妊や同性愛を禁止するのは、生殖を目的としない、性的快楽だけを求めた非本来的な性行為は、「産めよ、殖えよ、地に満てよ」という神の人間に対する祝福に違反するからだと考えることができる。キリスト教に限らず、性道徳の背景には、人口増加を善とする思想がある。婚前交渉を肯定して、結婚しなくても愛があればセックスができるようになれば、あるいは、売買春を肯定して、結婚しなくても金さえあればセックスができるようになれば、結婚するカップルが減り、それは結果として少子化を促進してしまう。
では、売買春がお金を媒介としない婚前交渉よりも嫌われるのはなぜか。それは、相思相愛の婚前交渉は、物々交換一般と同様に、「私が欲望する商品の所有者が、私が所有する商品を欲望している」という欲望の偶然的な二重の一致を必要とするために、成立が困難であるが、貨幣というコミュニケーション・メディアが媒介すれば、片想いでも簡単に交換が成立する、つまり、売買春は、婚前交渉よりも成立が簡単で、それだけセックスの希少価値をより大きく下げるからだ。
私の結論は、売買春の合法化は人口増加を抑制し、種の存続を危うくする(あるいは少なくともそう信じられている)から非難されるというものだ。もちろん、私たちは、本当に人口の減少が望ましくないのかどうかを疑わなければならない。日本をはじめとする先進国では、少子化が社会問題となっているが、発展途上国では、人口増加は悩みの種である。そうした国々に対しては、人口抑制政策の一環として、売買春を未婚の男女に限り合法化してみてはどうだろうかと提案したくなるが、発展途上国ほど、性病予防や避妊が不徹底なので、売買春の合法化は、性病の蔓延や意図せざる出産の増加をもたらしてしまう。ここに売買春合法化が直面するディレンマがある。
8. 読書案内
- 『買売春解体新書―近代の性規範からいかに抜け出すか』の前半は、援助交際をめぐる上野千鶴子と宮台真司との対談。コミュニケーション・スキルがなくて、買春によってしかセックスできない男を「性的弱者」と位置づける宮台に対して、上野は、性欲を満たしたければ、マスターベーションしろと言う。後半では、藤井誠二のレポートが面白い。
- 『性の商品化―フェミニズムの主張〈2〉』は、性の商品化に対するフェミニストたちの批判。疎外論や搾取論など、古臭いマルクス主義のイデオロギーをそのままフェミニズムに適用したような議論が目立つ。
- 『売る売らないはワタシが決める―売春肯定宣言』では、売買春肯定論者たちが、「売春は良いけれどもし、買春はダメ」と主張する上野千鶴子や「タイの女性は強制的に売春させられている」と主張する松井やよりや「売買春で他者が他者でなくなる」と主張する立岩真也など、著名人たちの浅薄な売買春否定論を批判する。
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永井さんの主張が、「なぜ売春が法規制されるのか」なのに対して、私の主張が「なぜ売春は卑しくて穢れたことだと非難されるのか」と、お互いの主張が異なってしまっているように思います。無論、「非難される理由」と「法規制される理由」が必ず同一であるわけではありません。
永井さんは、私の主張する「売春は目的によっては、卑しくて穢れたことである」ことには否定していませんが(肯定もしていませんが)、このことについてはどのように思われているのでしょうか?
例えばあなたに高校生の娘さん(姪や、その他親身に相談に乗る大切な人でも構いませんが)がいるとして、その娘さんが「¥10,000のコンサートチケットを買うために、前もってバイトでお金を貯めておくという方法もあったが、それは面倒だしもう時間も無いので、どうしても行きたいコンサートだし、嫌だったが仕方が無く、脂ぎって汚くて臭いハゲオヤジとラブホテルでセックスして¥10,000もらった」ということをしたらどのように対応するのでしょうか。
「売春はセックスの社会的希少価値を損なうから、やってはいけない事だ」と叱るのでしょうか。 それとも「売春は、法律で禁止されていることなのでやめなさい」と叱るのでしょうか。 それとも「売春は、セックスの社会的希少価値を損なうが、その効果は微々たるものであるし、世間で言われているように卑しくて穢れたことでは実は無いのだが、警察に捕まると面倒なので、捕まらないよう気をつけてやりなさい」と容認するのでしょうか。
わたしだったら以下のように対応します。「そんな奴とセックスをするのが嫌ではなかったのか?情けなくなかったのか?それをしなくて済む方法があるのに何故そうしないんだ?ろくにものも考えず短絡的に売春をするなんて、なんて愚かな奴だ!」と心の中で思い、
実際には“「自分が好きなことをし、嫌だと思うことは決してしようとせず、そのために前もってできる努力を最大限する」という生き方に比べて、「短絡的に醜いオヤジとのセックスして、もちろん嫌だったし、そんな嫌なことをしている自分が嫌いになるし、そんな「自分が嫌いな自分」が嫌いになってしまう」という自分の生き方は、情けなくなるし、嫌なことだらけだし、プライドなんてもちろん持てなくなるし、それを回避できたのにしなかった自分はなんて愚かなんだ”ということを戦略的に理解させると思います。
少々話がずれましたが、「非難される売春」の典型的なケースをイメージしていただきたかったのと、わたしの主張を論じていく上で必要であるのでご了承下さい。
売春が法律で禁止される理由は、「売春防止法 第一条 総則 この法律は、売春が人としての尊厳を害し、性道徳に反し、社会の善良の風俗をみだすものであることにかんがみ」です。
売春が「人としての尊厳を害」すのは、“「自分が嫌いな自分」が嫌いになってしまう”ような状態を招くからだと私は解釈します。 売春が「性道徳に反」する理由は、以前述べました。 売春が「社会の善良の風俗をみだすものである」のは、売春が合法であり、当たり前になると、さらなる短絡的な売春を招くからだと思います。
とはいえ、私がこの法律を解釈しても仕方ありませんし、法律は必ず悪を完璧に適切に裁く万能のものでもありませんし、そもそもこの文句は半分「建前」だと私は考えます。
確かに私は「お金のために「望まない相手」とセックスをすることは、猥褻で穢れた行為だ、という「性道徳」があるから、非難され、法規制されるのだと思います」と述べました。
この私の考えをもう少し詳しく述べると、「売春は非難され、非難されるが故、法規制される」です。これが残り半分の「本音」だと私は思います。 つまりは麻薬と同じです。麻薬が本質的に何故いけないのかは、ほとんど論じられません。 麻薬がなぜいけないのかは、しばしば「依存性があり」、「毒性があり」、「またその売上金は暴力団の資金源になる」と論じられます。「じゃあ依存性も毒性もほとんどないマリファナを、自宅で栽培して自己責任で吸うならいいのか?」という問いには、この論理では対抗できません。また、このような問いを発するように、「麻薬は本当にやってはいけないのか?」という疑問を持つことさえ、タブーであるかように学校では教えられます。腫れ物扱いです。つまり、「忌み嫌われるから、法で禁止される」のです。
永井さんは、売春が法律で禁止される理由に「セックスの希少価値を損なうから問題がある」と述べましたが、私はこれには以下のような疑問があります。(最初の投稿でも述べましたが)セックス産業が市場化され、より最適な資源配分がされるのではないか?(3回目の投稿でも述べましたが)性的サービスの価格を維持するための何らかの措置は可能なのではないか? セックス税を導入して、たばこのように3万円の料金うち2万円を税金で徴収して、国債返済にも貢献し、売買春万々歳!のように、公娼制度は日本社会にとってポジティブな響を多々及ぼすのではないか?
長々と述べた後で大変申し訳ないのですが、冒頭でも述べた通り、わたしの主たる主張は「なぜ売春は非難されるのか」であり、現代の日本社会において売春が合法化されることによって及ぼす影響(コインの裏表で、法規制されることによって及ぼす影響も)には、興味を持つところではありません。法が必ずしも「悪いこと」を取り締まるものだとは思えないからです。社会にとって有益か、有害か、よりも、そのことは普遍的に善い事か、悪い事か、のほうに興味があります。
以前にも述べたとおり、そもそも私は公娼制度に賛成です。先ほどの売春防止法には以下のような条項もあります。第四条 この法律の適用にあたつては、国民の権利を不当に侵害しないように留意しなければならない。 この「国民の権利に」、「憲法第十三条 自由、幸福を追求に対する権利」や、「憲法第二十二条 職業選択の自由」を当てはめても良いのではないかと個人的には思います。
私が「なぜ売買春が悪なのか」についての一次的理由を求めているのであって、二次的理由を求めているのではないということが、相変わらず、わかってもらえていないようです。
二次的理由を一次的理由にしようとすると、循環論法になります。ここで、ヒコさんの説明をまとめてみましょう。
1.道徳の説明
「 」が悪なのは、「 」に嫌悪を感じるからであり、
「 」に嫌悪を感じるのは、「 」が悪だからだ。
2.法律の説明
「 」が法律で禁止されているのは、「 」が嫌われているからであり、
「 」が嫌われているのは、「 」が法律で禁止されているからだ。
ヒコさんは、「 」に「売春」とか「嫌なことをすること」とか「嫌なことをする自分」とか、いろんな言葉を入れて議論を展開していますが、何を入れようが、これは循環論法であり、説明になっていません。1と2を合成して、
「 」が法律で禁止されているのは、「 」が嫌われているからであり、
「 」が嫌われているのは、「 」が悪だからであり、
「 」が悪なのは、「 」が嫌われているからだ
としても同じことです。
「 」が悪なのは、「 」に嫌悪を感じるからであり、
「 」に嫌悪を感じるのは、「 」にプライドをもてないからであり、
「 」にプライドをもてないのは、「 」が悪だからだ、
でも同じことです。無意味な循環論法を延々と繰り返すことで、何か意味がある議論をしているかのように見せかける「戦略」は、ヒコさんが言うように、子供だましにはなるかもしれませんが、学問的な説得力はありません。
私は、もうこれ以上、「なぜ売買春が悪なのか」についての議論をヒコさんと続けることはやめたいと思います。これ以上続けても、たぶん返ってくる答えは、これまで通り、無意味な循環論法の無限反復でしょうから。
次に、私の説に対する三つの疑問ですが、最初の反論は、私が主張していることとなんら対立しません。市場が透明で合理的になるからこそ、希少価値が下がるのです。そして、売買春の禁止で問題になっているのは、そうした経済的な効率性ではありません。
二番目と三番目は、セットになっているようなので、まとめて答えましょう。高率の税金は、罰金刑と同様に、社会的に望ましくない行為を抑制するための一種のペナルティです。タバコに高率の税金がかけられるのは、たとえ間接喫煙の回避が実現したとしても、タバコを吸うことが、マリファナを吸うことと同様に、吸う人の健康に害を与え、社会的なリスクを高めるからです。
もちろん、罰金を払う場合、税金を払う場合と比べて、経済的損失が同じであったとしても、精神的苦痛は異なります。罰金刑よりも、懲役刑の方が、経歴に汚点を残すので、お金では数えられない損失を受刑者に与えます。このように、国家権力が与えるペナルティには、高率の税金から死刑に至るまで段階があります。売買春を合法化して、高率の税金をかけることは、ペナルティの段階を一つ下げることを意味しており、一種の規制緩和です。それが希少価値をどれだけ下げるかは、規制緩和の程度によります。
「売買春を合法化して、高率の税金をかけることは、ペナルティの段階を一つ下げることを意味しており、一種の規制緩和です」なるほど。分かりやすい回答をありがとうございます。
分かりました。この議論に関する限り、永井さんへの投稿はこれで最後にします。ですが、永井さんは私の主張に対して、間違った解釈をされているので、最後に述べさせていただきます。
ですが、私が3回目、4回目の投稿で、売春が悪である一時的理由として主張したのは“「売春」が悪なのは、「不特定多数の人間との性交渉に」に多くの人間は嫌悪を感じるからであり、嫌悪を感じるのは、「ほとんど生理的、本能的」なことであり、「性が心と深く関わる」からだ”でした。決して「嫌悪を感じるのは……が悪だからだ、……にプライドを持てないからだ」とは述べていませし、そのような循環論法ではありません。“嫌悪を感じるのは、「ほとんど生理的、本能的」なことであり、「性が心と深く関わる」からだ”という主張に、学問的な説得力がないのは承知の上です。
ですが、「なぜ性的交渉には望む相手と望まない相手がいるのか?」「望まない相手による一方的な性干渉である性暴力が、精神的ダメージを受けるのはなぜか?」という問いに、わたしは“それは「ほとんど生理的、本能的」なことであり、「性が心と深く関わる」からだ”と答える以外の術を知りません。
「2.法律の説明」ですが、いえ説明といえるほどのものではなく、こちらはほとんど私が勝手気ままに思ったことなのですが、循環論法であるのはもちろん承知の上です。
売春が法律で禁止される理由は、売春防止法に明記されているような理由は本音の半分であり、「売春は悪だと非難される悪いものだ」のような循環論法の二次的な圧力が、日本社会で売春を忌み嫌われるものにし、法律で禁止させ、公娼制度の導入をタブー扱いするもう半分の理由ではないか、ということです。
しつこいと思われるかもしれませんが、私の主張をもう一度述べます。売春が悪であるのは、不特定多数の人間との性交渉に多くの人間は嫌悪を感じ、不特定多数の人間との性交渉によって性的快楽を与える性的サービスは、お金のために嫌なことをするという、プライドを売る行為であるからである。ただし、不特定多数の人間との性交渉に嫌悪を感じない人の場合、売春の目的が生命の存続、生命の質に関わる場合はこの限りではない。また、多くの人間が不特定多数の人間との性交渉に嫌悪を感じるのはほとんど生理的、本能的なことであり、また性が心と深く関わるからであり、それ故、性的サービスは、他の労働サービスとは異なるものである。
性病防止説~触穢防止説までは道徳に関する議論でしたが、永井さんの主張の希少価値維持説は法律に関するものでした。永井さんは売春が道徳的になぜしてはいけないのか、あるいはしてもよいのかに関しては一度も触れていません。わたしが「なぜ売春は法律で禁止されるのか」に対して、まともに答えていないのに、アンフェアだとは思いますが、永井さんは「なぜ売春はしてはいけないのか」(論文の題目はこれでした)と思いますか?あるいは「売春は社会的に有害で法律で禁止されているが、してはいけないことではない」と思うのでしょうか?
永井さんに高校生の娘さんがいるとして、前回の投稿で書いたような売春をしたならばどのように対応するのでしょうか?オランダでだったら許可しますか?
「無意味な循環論法を延々と繰り返すことで、何か意味がある議論をしているかのように見せかける「戦略」は、ヒコさんが言うように、子供だましにはなるかもしれませんが、学問的な説得力はありません。」ですが、わたしが確かに「戦略」という言葉を使いましたが、これは子供に循環論法で「麻薬は悪だ」ということを刷り込む戦略とは違います。
わたしは例に出したような短絡的な売春は愚かだと思うのですが、それを辞めさせるために、ただヒステリックに頭ごなしに叱るだけでは無意味であり、それより、冷静に、例えば比較させるモデルを用いるような様々なテクニックを使って、何故愚かなのかを教える、というような「戦略」です。
私は、一貫して法と道徳の両方に当てはまる議論をしています。売買春に関しては、道徳が先で、法は後から作られたわけですから、私の議論も道徳論が中心になっています。
道徳について何も論じていないのは、ヒコさんの方でしょう。道徳的命令というのは、「嫌いでも…をやれ」あるいは「好きでも…をするな」という形をとるのであって、「好きなことをしろ」という命題は、道徳論ではなくて、人生論に属します。
ヒコさんがこれまでと同じ議論を繰り返すので、私もこれまでと同じ議論を繰り返しましょう。
1.「不特定多数の人間との性交渉に多くの人間は嫌悪を感じる」というのは、生物学的事実に反しています。
2. 仮に「不特定多数の人間との性交渉に多くの人間は嫌悪を感じる」としても、「嫌悪を感じるから悪だ」という論理は成り立たちません。例えば、皮膚病患者の、吐き気を催すような皮膚を見て、「ほとんど生理的、本能的」に嫌悪を感じているにもかかわらず、その患者の世話をする看護婦は、非難されることはありません。
3. その看護婦が、実は金目的で仕事をしているだけ、つまり「お金のために嫌なことをしている」としても、そのような行為を誰も「プライドを売る行為」として非難しません。私なら、むしろ我慢強い娘として賞賛したいところです。
4. ゆえに、「生理的、本能的に嫌なことをする」あるいは「お金のために嫌なことをする」は、売買春が悪であることとは無関係です。「プライドを売る行為は悪だ」という命題なら常に真ですが、それはこの命題が、分析命題だからです。主語と述語に価値語が含まれているのですから、「悪い行為は悪い」という命題と同じく、何の証明にもなっていません。だから、ヒコさんの議論は、循環論法でしかないのです。
子供に、売買春を思いとどませるためには、二次的な理由だけで十分です。ですが、道徳の根拠を学問的に問うときには、一時的な理由を求めなければなりません。
なぜ売春をしてはいけないのかは正直言って分かりません。きっと社会がそういっているからそうなのでしょう。日本は売春には厳しいようですが、自由の国アメリカでも売春に関してはやたらと厳しいので驚いています。渡米するまで分からなかったのですが、アメリカはキリスト教が思ったよりとても強く、保守的です。少年とセックスした美人教師が容赦なく懲役刑を受けたのですから。私は「あの少年、なんてラッキーなやつだ」と受け止めていたのですが、マスメディアの風当たりはひどいものでした。売春などもってのほかのようです。どんなにリベラルな人でも売春に関してだけは厳しい態度をとるようです。またそういう言説がまかり通っているのでしょう。例外なのはネヴァダ州くらいです。
私自身は売春はかまわないと思っていますが、それを口にしたときはひどい非難にあいました。アメリカの大学の友人と話していたときで、とくに味方だと思っていた男たちからも「女性の人権を踏みにじるとは蛆虫以下だ」といわれ、それ以来、公に売春を肯定するようなことはいえなくなりました。「ガールフレンドを見つければいいだろう」とか、「恋人を見つければすむことだ」ともいわれました。あれ以来、とくに女の子たちが二度と私と話してくれなかったのでとてもつらい思いをしました。どうやらタブーを犯してしまったようです。
希少価値は面白い視点ですね。ピンプは逆に合法化されたら困るわけですか。売春が反道徳的であったほうが儲かるわけですね。日本の親父が処女とやりたいのは驚きました。ここではセックスはうまくないと商売にならないように思えますが。
キリスト自身はたしか売春婦を非難せず、祝福したので、当時のユダヤ世間から白い眼で見られたと思いますが。それに浮気をした女性が処刑される前に救い出したこともありましたし。たしか旧約聖書に売春がいけないと書かれており、理由は梅毒にかかるからみたいです。私がこう言っているのは、アメリカ人のクリスチャンと口論したときに、「キリストは売春に対して何も言ってはいないではないか」と言ったときに、「旧約聖書に売春はいけないと書いてある」と反論されたことがあったからです。
売春禁止道徳をここまでアカデミックに分析するのもすごいですね。こういうことを書いてネット上に公開するのも勇気がいると思います。
さらっと読んだ感じでは、永井さんが自ら答えを出されているような気がします。
>1.「不特定多数の人間との性交渉に多くの人間は嫌悪を感じる」というのは、
>生物学的事実に反しています。
>道徳的命令というのは、「嫌いでも…をやれ」あるいは「好きでも…をするな」
>という形をとるのであって、「好きなことをしろ」という命題は、
>道徳論ではなくて、人生論に属します。
つまり、
・人間の性欲というものは根本的な欲求で、なかなか抑えがたいものである。
・それを金銭の授受というビジネスに隠して発散しようというのは
道徳的命令の「好きでもSEXをするな」に反する。
ということではないのでしょうか。
物欲と金銭欲は同じ第二次欲求に属するため、交換することはやぶさかではないが、性欲のような第一次欲求を金銭欲と同等に扱うところに倫理観の違いが出るのだと思います。
簡単に言うと「金には代えられないもの」とか「お金では買えないもの」といった類の観念が売春を「忌み嫌うもの」とさせているのではないのでしょうか。
なぜセックスを「金には代えられないもの」「お金では買えないもの」にして、希少価値を持たせなければならないのかが問題です。
自分の身体を、性器を知らない男性におもちゃにされて精神的になんとも無い人というのは少ないと思います。男性は理論的で素晴らしいと思いますが理論的過ぎて、自分の身体を性的なおもちゃにされることがどんなに辛いか、ましてや親子ほど年齢の
離れた父親のような人に性的対象として見られることの悲しさ は男性には理解できないのかもしれませんね。
例えお金のために自発的にそういった職業に就いている人も、お金の為ならなんとも思わないという人がそんなに多く居るんでしょうか。また、自分の家族が性的に弄ばれる
職業に就いていることをなんとも思わず、悲しまずむしろ賞賛することが出来ますか?
理論的な男性は女性の感情論を嫌うのはよく理解できますが、感情とは人間として
切っても切れない存在です。感情の面から売春をしたくない、させたくない
そう思うことは悪いことでしょうか?
あなたのその主張に対して、「SASAさんの言っていることには感情的な嫌悪を感じる。なぜかと聞かれても、うまく説明できないが、とにかくむかつく…」と言う人が現れたなら、あなたはさらに何と言いますか。感情を持ち出すと、最終的には、「お互いの感情を尊重しましょう」で終わってしまいます。だから、「本人や家族が同意している場合であっても、なぜ売買春は悪とみなされるのか」を理論的に考察する必要があるのです。
女性の方の感情についても、ある程度は理解できます。しかし愛の表現である感情についても、大きい小さい深い浅いがあるはずです。個人や家族に限定した感情から、その地域そして社会までを範囲に入れたものまであります。
感情の快不快は、自分の置かれた環境や最初の経験に、大きく作用されると思います。その経験が自分にとって良い場合は求め、悪い場合は離れようとします。性に対しても同じだと思います。従って売春をしたくないさせたくない人もいれば、何かの理由でしたい人もいます。
厳格な家や社会で育つと、性に対する罪悪感が育ち容易に抜けなくなります。家庭の中で両親に良く思われたい、社会から良くみられたいとする気持ちが強ければ、階層的選民意識が強く働き、そうした職業に対して、同性としての自己同一性を嫌うのではないでしょうか。
この世は相対的にできており、能動的な男性を女性だけの価値判断で悪と決め付けるのも、女性のデリケートで受動的な感情の働きを、価値のないものと決め付けるのも良くないと思います。
聖書の中にはイエス様が売春婦の家へ行かれ、くつろがれる場面があります。決して売春が悪いと諌めてはおりません。まして「売春が人としての尊厳を害し、性道徳に反し、社会の善良の風俗をみだす」とも言っていないのです。教条主義に陥り、自己の理論をかばうために、旧約聖書の都合の良い所ばかりを取り出しても人は納得しません。大天使といわれる方は、その時代に生きた人の機根に合わせて、法を説いているはずです。
私をしてなぜ強力な「売春行為の条件付き合法化」論者になったかといえば、嫁をもらえない農家の青年が長年苦しむ様を見てきたことです、一年間まじめに働いてきて、年数回女性と和合する行為がなぜ法律違反になるのか、法律の方が間違っているのではないかと強く思ったからです。また女性がラブホテルでシャワーを浴びている最中に置き引きにあっても、売春は本来違法行為のため警察に届けられないケースもありました。
一方において今風の若者は、3P4Pなど当たり前といって性に対する秩序が崩壊し続ければ、離婚率は上昇し家庭の崩壊から社会の崩壊につながって行きます。なぜこうなったかといいますと、法により供給が長年止められているために、情報化社会とともに、一般女性に対象が広がってしまったためだといえます。
なぜ売買春は悪とみなされるのかについては、低次元では妻の独占欲や病気への恐怖心などで、高次元では精神性や一夫一婦制の破壊、しいては社会の崩壊につながると思い込んでいるからではないでしょうか。
一夫一婦制は人間の真実であり理想ですが、それに当てはまらない人もいます。独身者などに性サービスの場を設ける事がなぜいけないのでしょうか。それは一面において感情である社会愛の実践になるのではないでしょうか。
今必要な事は役に立たない何十年も前の法律を、お守り札のように奉るのではなく、現実を見据えて売春を条件付で合法化し、社会が秩序をコントロールする事ではないでしょうか。そうした運用の仕方が離婚率を減少させて社会を安定させ、やがて女性の不安を取り除く事になるのではないでしょうか。
※管理者様 余談ですが投稿に番号を入れてもらえないでしょうか。頭が悪いので前から読んでいると、どこまで読んだかわからなくなるのです。