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『縦横無尽の知的冒険』を出版しました

2003年8月15日

縦横無尽の知的冒険』は、メールマガジンのバックナンバー150本余りのうちから40本のコンテンツを厳選し、加筆と修正を行って、プレスプラン社から出版したもので、私が出版した初めての紙の本です。エントロピー、複雑性の縮減、コミュニケーション・メディアといった難解な用語を使うことなく、誰もが気楽に読むことができる内容に仕上げました。メールマガジン『縦横無尽の知的冒険』の入門書として御利用ください。

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1. 販売場所

この本は、オンライン上では、以下の書店でお買い求めいただけます。但し、一部の店では、取り寄せとなっています。

2. 表紙画像

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縦横無尽の知的冒険』の表紙。実際の商品には緑色の帯紙が付いています。

3. 書誌情報

  • 発売日: 2003年08月
  • 著者: 永井俊哉
  • 発行元: プレスプラン
  • 発売元: サンクチュアリ出版
  • 発行形態: 単行本
  • ページ数: 274p
  • ISBN-10 : 4921132860
  • ISBN-13 : 978-4921132866

4. 書評情報

2003年10月現在、以下のような書評が公開されています。

  • 2003年09月 『教員養成セミナー』(時事通信社)2003年10月号
  • 2003年09月 金子遊氏(Amazon.co.jp)レビュー
  • 2003年10月 『産経新聞』(10月21日号)朝刊28ページ

これ以外にも、一般の読者によるレビューが、Amazon.co.jp のカスタマーレビュー読書メーターなどで掲載されています。ここでは、そのうちいくつかを取り上げ、コメントしたいと思います。

4.1. 「愛とは何か」について

愛とはナルシシズムなのか、それともナルシシズムを超える崇高な自己犠牲なのかについての higashine090 さんのコメント「許容量オーバーなのでは?」について:

それで、筆者はこうまとめる。一見利他的な行為は、自分がお礼を言ってもらうための自己目的的行為であり、無償の愛(アガペー)はエロス(ナルシスティックな自己愛)と同じことになる(嫌だなあ、この考え方)。

まあポリシーは自由だけど、スタイルは論文風なのに、勝手な仮定を持ち込んでるのが気になる。エッセイならいいという問題じゃないよ。論証が間違ってるんじゃなくて、反証もできなければ証明もできないことを論証のように書いているところが随所にあって、どうも・・・と思う。一応パブリックな影響力をもつメディアには、その言論の質について、自覚をもってもらいたいです。その意味では結構、許容量オーバーだと思うよ、この本。[1]

このhigashine090さんは、私の本を読んではいないようです。と言いますのも、このレビューに出てくる「アガペー」や「エロス」といった言葉は、メルマガ/ウェッブ版の「愛とは何か」に登場するけれども、本の中には出てこないからです。このレビュアーは、本を読まずに、ウェッブ・コンテンツだけを読んでレビューを書いたのでしょう。この本を出版するにあたって、元の原稿にかなりの加筆と修正を施したので、そういうことをやってもすぐにばれてしまいます。

もっとも、このレビューは、メルマガ/ウェッブ版の「愛とは何か」に対するレビューとしても不適切です。例えば、私は、本でもウェッブでも、「お礼を言ってもらいたいから人は良いことをする」などという「結論」を下したことはありません。人が良いことをする動機としては、道徳的義務意識やペナルティに対する恐れなど様々あるでしょう。愛を動機としない道徳的行為がある一方で、愛が不倫の原因となることもあるので、愛と道徳は、別の現象として考えなければなりません。

このレビュアーは、さらに「人助けをしたらお礼を言ってもらえないと悲しいのは、お礼を言ってもらいたいから、という。これが、すでに証明できてなくて、筆者の私見」と言ってますが、この命題は、証明不可能な私見ではなくて、その対偶「お礼を言ってもらいたくない人は、お礼を言ってもらえなくても悲しくない」を考えれば明らかなように、論理的に真な命題です。

私が推測するに、このレビュアーが言いたかったことは、世の中には、誰からも感謝されなくても、愛を動機として利他的行為をする人がいるということで、その例としてナイチンゲールを挙げたのでしょう。しかし、それは私が否定していることではなく、だから本では、「例外的な聖人を除けば」と断っておきました。ただ、ウェッブには書かなかったので、本を読んでいないこのレビュアーは、ナイチンゲールの話をしたのでしょう。

では、誰に対しても無償の利他的行為をすることができる聖人の愛は、ナルシシズムではないのでしょうか。そうではありません。むしろ、これは、他者の中に自己を見出す典型的な場合です。利他的な愛は、他者における自己愛であって、自己愛の否定ではありません。その証拠に、自分の家族や恋人→友人や知人→人間一般→動物→植物→物一般というように、自己同一が難しい対象ほど、哀れみとしての愛の対象になりにくくなります。

このレビュアーは、私が「一見利他的な行為は、自分がお礼を言ってもらうための自己目的的行為であり、無償の愛(アガペー)はエロス(ナルシスティックな自己愛)と同じことになる」とまとめたと言っています。永井は、崇高な利他的愛を卑俗な利己主義に還元するけしからんやつだとでも言いたいのでしょうか。

「愛とは何か」は、たんに利他主義を利己主義に還元しようとしたわけではありません。自己を愛することが他者を愛することであり、他者を愛することは自己を愛することであるという鏡像的反転構造を示そうとしたのです。それは、利己主義の肯定であると同時に否定でもあるのです。そのことを示すために、「愛とは何か」の最後を私が実際にはどのようにまとめたのかを正確に引用することにします。

愛とは何かという問いに対して、愛とはナルシシズムであると答えることができる。ナルシシズムを性的倒錯と考える人は、ナルシシズムをたんなるエゴイズムだと考えている。しかしナルシストは、たんに他者の中に自己を見出すだけでなく、自己の中に他者を見出す。そこには、他者を愛することが自己を愛することになるという鏡の反転現象がある。この間主観的な反照関係において、利己主義か利他主義かという対立地平は止揚される。

このレビューには、もともと引用符らしき「」記号が12対あったのですが、本文に該当する引用文が一つもないので、Amazon.co.jp に頼んで、「」記号をすべて削除してもらいました。「」記号を使って引用する時には、正確に引用するべきであって、自分で勝手に作文してはいけません。また、それ以前の問題として、本を読まずに書評を書くべきではありません。

追記:引用したレビューは削除され、代わりに、同じレビュアーの名で、「自分の愚かさが見えました」というレビューが2004年1月21日に掲載されました。

難しいですが、良く読めば著者のいわんとすることがわかります。以前、私や、私の周囲の友人たちはこの本にとても批判的でした。どうも一方的な議論の展開にみえたからです。しかし、色々考えてみたり、この本の著者の永井サンがご自身のHP上で展開されている議論をみるかぎり、一方的な決め付けを行っているのは私だと気付きました。永井サンには、批判してしまって申し訳ない。良い本ですが、多分皆さんが知的好奇心の塊のような人なら、私のようにこの本に食ってかかる人もあるかもしれない。でもそれも著者の提供する「知的冒険」の一つなのでしょう。自分の愚かさが良く見えました。[2]

4.2. 「論点先取の虚偽」は虚偽か

先に証明しておくべき命題を前提とする論点先取は虚偽なのか、それとも不可避的でやむをえないことなのかについて:

先に証明しておくべき命題を前提としてしまっている議論がちらほらと見受けられます。こういうのを「論点先取の虚偽 assumptio non probata」というのだと思いますが。内容は面白いです。ただ論理的に厳密でないと思います。[3]

他の著作物で説明したことを省略した箇所があるので、「先に証明しておくべき命題を前提としてしまっている」と感じる読者もいることでしょう。論証上の厳密さを重んじる読者には、本書を読んだ後、『エントロピーの理論』を読むことをお薦めします。

とはいえ、前提となる命題を先にすべて証明しておくなどということは不可能です。例えば、このレビュアー自身、「論点先取は虚偽だ」という「先に証明しておくべき命題を前提としてしまっている」ではないですか。しかし、この前提は疑ってみるべきでしょう。

すべての証明には、証明の前提があり、その前提をさらに証明する無限後退を阻止しようとするならば、前提と結論の連鎖を円環で閉じるしかありません。この円環状の証明は、循環論法と呼ばれ、しばしば「論点先取の虚偽」として非難されます。だが、すべての正しい証明が、究極的には循環論法に基づくとするならば、この非難は当たらないことになります。

「循環論法」だとか「論点先取の虚偽」というと、聞こえは悪いですけれども、議論が整合的であることは真理の基準であり、むしろ、矛盾を孕んでいる「証明」こそ虚偽として非難されるべきです。そもそも真理とは何かという哲学的問題に関しては、本書には収めなかった私の論考「真理とは何か」を参照してください。

ところで、真理の証明が、究極的には循環論法にならざるをえないにもかかわらず、多くの人は、循環論法に陥らずに証明ができると思い込んでいるのはなぜでしょうか。それは、その人たちが、常識や定説を疑わず、そこからの演繹が証明だと信じているからでしょう。そういう人たちからすると、私がよくやるような、新説に基づいて新説を唱えるという行為が、論点先取の虚偽にみえるに違いありません。

このレビュアーが“assumptio non probata”とわざわざラテン語表記を併記したのは、伝統的権威に訴えれば、みんな納得してくれると期待したからでしょう。しかし、権威ある定説も、時代とともにめまぐるしく変わることからも明らかなように、真理として無条件に信用できるものではありません。常識や定説を疑う姿勢がなければ、「知的冒険」はできません。「知的冒険」が嫌な人は、私が書いたものなど読まずに、権威ある先生が執筆した教科書でも読んでください。

追記:このレビューは、後にレビューワーによって削除されました。

4.3. 「冒険か日常か」について

在野の学者による知的冒険は無意味なのか、普通の社会人は、常識的な日常を生きていればそれでよいのかについて:

これはどこかのHPで連載していて、なんだあ?と思って気になったが、著者の経歴もまあよくわからんし、インターネットってこんなもんかな、こんなの読んでたら苦しいよな、と常識的な社会人の私は思った、その後偶然あのネットが本になったものを手にとってやはり同じ感想が抜けずやっぱり、なんだこりゃあと思ったらどうも自費出版みたいだ。それも一度書いたもの使いまわしてセコイやつめ、と思いそうになったがどうも推薦文など読むと意図的にやったんだなあと思って、なら成功してよかった。

要は自分の言いたいこと、やりたい事をやればいいんだ、なんて自分に言い聞かせて読んで、分かったが著者はそのとおりのことをやっている、これが。テツガク「など」とか言ってる奴はその「など」の部分ばっか肥大して当の部分はからっきし、そんなのばっかと思ったけど、再確認させられたなあ。日本の何かが悪いのかな。今はそうは思わないけど、よく言われているし自分も言っていたことがあるが大学せいなのかな。そんなことないと思う、だから今の若い衆、要は学生とか、元学生で今はヨクワカラン輩とかだが、人のせいにしたら、いかん。いずれにせよ今はもう、思想は単なるハッタリの道具かって、言い過ぎだが実際、そんなのばっかりだ、まさしく。今の世、黙って生きていくようなそんな、ニーチェのいう超人は、死んだ。[4]

『縦横無尽の知的冒険』は、自費出版物ではありません。この本は、プレスプラン社が編集制作費、印刷、流通に関わる諸費用を全額負担し、印税契約に基づいて出版している企画出版物です。

私の経歴については、本でもウェッブでも公開しています。私は、以前、自分の経歴は、自分の著作を評価してもらう上で参考にはならないと思い、公開していませんでした。しかし、よくメールとかで読者から質問されるので、本の出版をきっかけに、公開することにしました。

ただし、本を評価するにあたって重要なのは中身であって、その本が自費出版物か企画出版物かとか、著者の経歴に権威があるかどうかで判断する人は、権威主義者と言わなければなりません。

この「ムカシ、いた、超人」氏は、権威ある哲学者、ニーチェの言葉を引用して、私の著作をハッタリと評しているようです。でも、もしもこのレビュアーがニーチェと同時代に生きていたならば、きっと「元員外教授で今はヨクワカラン輩」であるニーチェの本を手にとって、ハッタリと評したことでしょう。なぜなら、今では偉大な哲学の古典とされるニーチェの哲学書も、当時は、せいぜい10部しか売れない自費出版物だったからです。実際、当時ニーチェを評価した人はほとんどいませんでした。

権威主義者たちが、偉大な哲学者として崇拝する哲学者には、生涯、大学教授にはならなかった人がたくさんいます。哲学者として優れているかどうかと大学で職を得たか否かとは次元の異なる話です。

このレビュアーは、さらに「テツガク「など」とか言ってる奴はその「など」の部分ばっか肥大して当の部分はからっきし、そんなのばっかと思ったけど、再確認させられたなあ」と言っています。大学行政がそうするように、哲学を、言語学や文学や心理学などと並存する一つの専門領域と見なすなら、そういう感想を持っても不思議ではありません。しかし、哲学は、古代ギリシャで発生した頃は、学問全体を意味していました。学問の専門分化が進んだのは、後の時代になってからで、歴史的に見て、哲学は肥大化してきたのではなく、やせ細ってきたと言うべきでしょう。

「哲学とは何か」という問いに対する答えは、哲学者の数だけあります。ただ、私は、哲学で一番重要なことは、常識や先入観や権威にとらわれることなく、自らの頭で考えることだと思います。官僚的な縦割り行政の産物である専門領域に自らを限定し、そこから出て行こうとしないことも先入観にとらわれていることの一つです。お上から与えられた制約に甘んじて「黙って生きていく」だけの人が哲学者だとは思えません。もちろん、ニーチェが謂う所の超人はそのような人ではありません。

このレビュアーは、「日本の何かが悪い」と感じながらも、「人のせいにしたら、いかん」と言っているが、それはそのとおりです。思考停止状態の人が減らない限り、日本は良くならないでしょう。よく「日本が良くならないのは、日本の政治家が悪いからだ」と他人事のように言う人がいますが、その政治家を選んだのは、自分たち有権者だということを自覚しなければなりません。自らの頭でよく考えて投票することなく、お上にすべてを任せている人に、日本がいっこうに良くならないことを嘆く資格はありません。

学問に関しても同じことが言えます。人々が、学術研究を大学教授の仕事と決めつけ、お上にすべてを任せ、権威に盲従し、「黙って生きていく」だけになったならば、哲学は、そして学問は死にます。哲学(日本の大学で行われている哲学の訓詁学的研究とは違う)がどれだけ盛んであるかは、知の民主主義がどれだけ浸透しているかを測定するバロメータなのです。

追記:このレビューは、後にレビューワーによって削除されました。

5. 追記(2021年)電子書籍版の発行

単行本が長らく品切れとなっていましたが、この度(2021年9月)、プレスプランの後継出版社であるリーダーズノートが、『縦横無尽の知的冒険』の電子書籍版を出版することになりました。電子書籍版は、電子書籍取次店のメディア・ドゥを通じて以下の書店で販売されます。

  • アマゾンジャパン/Kindle
  • 楽天グループ/楽天Kobo
  • 紀伊國屋書店/kinoppy(Android)
  • NTTドコモ/dブック
  • BookLive/ブックライブ
  • イーブックイニシアティブジャパン/ebookjapan
  • iTunes/Apple Books
  • ブックリスタ/ブックパス(Android)
  • ブックリスタ/Readerstore(Android)
  • NTTソルマーレ/コミックシーモア
  • U-NEXT

なお、この電子書籍は、私が直接出版している電子書籍とは異なり、縦書きです。

6. 参照情報

  1. higashine090「許容量オーバーなのでは?」Amazon.co.jp カスタマーレビュー.
  2. higashine090「自分の愚かさが見えました。」Amazon.co.jp カスタマーレビュー.
  3. カスタマー「面白いが」Amazon.co.jp カスタマーレビュー.
  4. ムカシ、いた、超人「冒険も良い。けど日常、しっかり生きろと、ニーチェは言った。」Amazon.co.jp カスタマーレビュー.