私たちはどのようなシステムか
私たちは、生命システムであると同時に意識を持ったシステムでもあり、その意識システムは社会システムを形成している。このページでは、システムとは選択する機能であり、エントロピーを縮減する主体であるという定義に基づいて、生命システム、意識システム、社会システムがどのような意味でエントロピーを縮減する主体であるのかを説明したい。

1. システムとは何か
まずは、常識的なシステムの概念から出発して、システムの本質が選択にあることを確認しよう。
1.1. システムと構造と環境
システムという言葉は、「共に立てる」という意味のギリシャ語に由来し、普通、秩序だったまとまりというほどの意味で使われる。秩序とは、無秩序の否定であり、無秩序とは、予想とは他のようになる可能性、すなわち不確定性が高い状態のことである。そして、無秩序を否定し、秩序を作るということは、複数の可能な選択肢の中から一つを選び、それ以外の可能性を捨て去るということである。
常識に反して、システムの本質は、まとめることにではなく、捨てることにある。もっと正確に言うと、捨てなければまとまらないということである。床に散らばったガラスの破片を一箇所に「まとめる」と、ガラスの破片がどこに存在するかという不確定性が減るので、安心して床を歩くことができる。政治家たちのばらばらの意見を一つに「まとめる」と、政策の不確定性が減り、将来の見通しが立ちやすくなる。
システムという言葉は、しばしば「まとめること」ではなくて、「まとまり」という意味で使われることもあるが、両者を区別しなければならない時があるので、後者を「構造」、前者を「システム」と呼んで、区別することにしよう。「システム/構造」の関係は、「選択する/選択される」あるいは「基礎付ける/基礎付けられる」の関係にある。
このことは、システムが構造とは実在的に別の存在者であるということを意味しない。選択するシステムと選択された構造が相互浸透的であることを認識することは重要である。上品な言葉を使う人は上品である。すなわち上品な言葉を選ぶシステムは、それ自体上品な性格を帯びる。システムが何であるかは、システムが何を選ぶかによって決められる。だからシステムは、構造とは不可分の関係にある。
さらに、システムと構造との区別は相対的であり、絶対的ではない。ある秩序がシステムか構造かは、観点によって変わってくる。氷山を自己組織的とみなすならば、それはシステムである。極条件によって規定されていると考えれば、氷山は、地球システムあるいは太陽システム(太陽系)の構造の一部分(サブシステム)である。
システムが一つの構造を選ぶ時、選ばれなかった他の候補は、その構造の環境を形成する。環境における他の選択主体は、そのシステムにとって他者の位置にある。他者は必ずしも他の人という意味ではない。ヨーロッパの言語の表記では、他者は、広く「他なるもの一般」を意味する。本書でも、他者という言葉を「他のシステム」という広い意味で使い、他の人という意味を特に強調する時には、「他我」あるいは「他人」という言葉を使うことにする。
1.2. エントロピーの法則
構造と環境あるいはシステムと他者の問題については、後で改めて論じることにして、ここでは、システム論の出発点である不確定性について、詳しく分析することにしよう。不確定性を定量化するには、可能性の数が何通りあるかを示せばよい。そうした可能性の数を、システム論では複雑性と名付けている。そして、複雑性の対数がエントロピーである。もし読者が数学を苦手とするならば、対数とは何かについて知る必要はない。定量的にはともかく、定性的には、エントロピーも複雑性も不確定性の度合いを表す同じような概念と考えてもらって差し支えない。
エントロピーという概念は、もともと熱力学から生まれてきた概念で、受け取った熱量をシステムの絶対温度で割った商として定義されたが、後に統計力学的に解釈され、エントロピーが分子配置の複雑性の対数に比例することが確認された。一般に、温度が高ければ高いほど、システムを構成している分子なり原子なりの構成要素の運動が活発になり、存在の不確定性が増大するから、エントロピーは高くなると考えてもらえばよい。
今ここに、80度の水100グラムというシステムAと20度の水100グラムというシステムBがあるとする。両者を接触させると、AからBへと不可逆的に熱が流れ、両者は、50度になったところで平衡状態に達する。この時、Aのエントロピーは小さくなるが、それ以上にBのエントロピーが増大するので、全体としては、エントロピーは増大する。このように、全体として、エントロピーは増えることはあっても減ることは決してない。これを熱力学第2法則という。
熱力学第2法則は、例えば、熱湯に氷を浮かべるとぬるま湯になるが、ぬるま湯が自ずと熱湯と氷に分かれることはないという、誰もが常識として知っている熱の不可逆性を物理学的な法則にしたものである。だが、熱の移動がないにもかかわらず、これと類似の不可逆性を示す現象が、他にもたくさんある。
例えば、水槽に赤インクを1滴落とすと、インクの分子が拡散して、水槽の水全体がピンクになることはあるが、拡散したインクの分子が1点へと集結し、ジャンプしてスポイルの中に入るという逆の現象は起きない。インクの分子は、不可逆的に分散していく。そして、分散すればするほど、インクの分子がどこに存在するのか不確定になる。不確定性が増えるということは、無秩序になる、つまりエントロピーが増えるということである。
熱力学的な不可逆現象も非熱力学的な不可逆現象も、秩序が無秩序になる不可逆現象であるという点では同じである。部分的に秩序が生まれる時でも、全体としてそれ以上の無秩序が、必ず生まれる。例えば、冷蔵庫が庫内の温度を下げると、庫内のエントロピーは減少するが、それ以上のエントロピーが、冷蔵庫が消費する電気を生産する時に、石油などの低エントロピー資源を燃やすなどの方法で、発生しているので、全体としてはエントロピーが増加する。
ここで言う「全体」は、厳密な言葉を使うと、孤立したシステム(孤立系)である。孤立したシステムとは、環境との間で物質やエネルギーや情報が出入りしない構造のシステムである。私たちがその中に住んでいるこの宇宙は、私たちが知っている唯一の孤立したシステムである。もしも、これ以外にもう一つ孤立したシステムを知っているとするならば、私たちはそのシステムと情報を交換していることになるが、これは孤立したシステムの定義に反することになる。
孤立したシステム、すなわち私たちの宇宙のエントロピーは絶対に減ることはない。全体のエントロピーは絶対に減ることはなく、孤立していないシステムがエントロピーを減らすには、環境においてそれ以上のエントロピーを増やさなければならない。この熱力学第2法則を一般化した定式は、エントロピー非減少の法則と呼ばれるが、ここでは、略して、エントロピーの法則と名付けることにしたい。
1.3. 構造と環境との境界の維持
孤立していないシステムが選択の機能を停止し、エントロピーの増大に抵抗しなくなると、構造と環境の境界がなくなり、システムが消滅する。以下の四つの図は、エントロピーの増大にともなって、構造と環境の差異が消滅する様子を描いている。なお、エントロピーの計算には、シャノンの式を用いている。




最初の段階では、システム A(左)は白の要素を、システム B(右)は灰色の要素を確率1で確定的に選択しており、エントロピーは最小の値である 0 となっている。このため、システムと環境の境界が明確である。選択が不確定となり、エントロピーが増大するにつれて、A と B との境界があいまいになり、最後の段階では、エントロピーが最大の値である1となり、境界は完全に消滅している。つまり、システムとは「選択する機能」と定義できるが、同じことに別の表現を与えて、「構造と環境とを差異化する機能」と定義してもよいということだ。
2. 生命はどのようなシステムか
生物学者は、生命を定義する時、細胞からできていることを要件とすることがあるが、生物というシステムを考える上で重要なことは、それが何からできているかではなくて、それがいかなる機能を持っているかということである。システムが生命システムであるには、システムの一般的条件以外にどのような条件が必要なのかを考えてみよう。
2.1. 環境適応による散逸構造の維持
熱湯に氷を浮かべると、ぬるま湯になる。溶けていく氷は、エントロピーの増大に抵抗することなく、消滅していく。しかし、生命システムは、エントロピーの増大に逆らって、絶えず環境から自らを差異化しようとする。とはいえ、生命システムの自己維持は、鉱物結晶の自己維持などとは異なる。鉱物の結晶は、その秩序を長期にわたって維持するが、鉱物は環境と物質の交換をしないという意味で、閉じたシステム(closed system 閉鎖系)である。これに対して、生命システムは、その新陳代謝を通じて、環境と物質の交換を行う開いたシステム(open system 開放系)である。閉じたシステムの自己維持は比較的環境の影響を受けにくいが、開いたシステムは、環境次第では自己を維持することができなくなる。
しばしば、人は、「生物は、生き延びるために、環境に適応しようとする」と言うが、環境に適応するということは、決して環境と同じになるということではない。生命システムが生き延びるためには、構造と環境の間にあるエントロピーの格差を解消するのではなくて、逆に維持しなければならない。環境に適応するために変えなければならないのは手段であって、目的は自己同一である。
例えば、私たちは、環境の気温が上がると、汗をかき、気化熱を奪うことで体温の上昇を阻止する。気温が下がると、震えることで熱を出し、鳥肌を立てることで汗腺の発汗機能を抑制し、体温の下降を阻止する。もし何もしなければ、体温は環境の温度に左右され、体温の不確定性が増大する。この不確定性、すなわちエントロピーを縮減し、体温を一定に保つことで、身体というシステムは、自らを環境から差異化する。このように、変わらないために変わらなければならないというのが環境適応の本質である。
生物は、主として太陽の可視光に起源を持つ低エントロピー資源を消費し、高エントロピーの廃物を環境に捨てることによって、自らの構造を維持するシステムである。エルヴィン・シュレーディンガー[1]は、生命を持った有機体は、食べ物を食べるなど、「その環境から負のエントロピーを継続して取り入れることによって[2]」、エントロピーを増大させずに生き続けることができると言った。当時「負のエントロピー」という概念はそのあいまいさから批判されたが、負のエントロピーを摂取するということは、正のエントロピーを捨てることと同じであり、パラドキシカルなことは何もない。
本ページの冒頭で述べた通り、資源の散逸によって散逸構造を維持することは、あるシステムが生命であるための必要十分条件ではない。例えばエアコンが取り付けられた部屋は、発電部分まで含めるならば、環境における熱の散逸を通して自己の構造のエントロピーを減らすシステムである。それでも、このようなエアコン・システムを生命システムとは呼べない。
2.2. オートポイエーシスによる生殖
生命システムであるためのもう一つの条件は、オートポイエーシスである。本書では、オートポイエーシスを、自己準拠的に自己自身を創作することと定義する[3]。もしこう定義するならば、生殖もまたオートポイエーシスである。生殖において、遺伝子は遺伝子を自己複製する。遺伝子は、たんぱく質の作り方を指令する情報であるが、そうした情報全体を複製する情報をも部分として含んでいる。この「複製の情報」と「情報の複製」との相互産出により、
- 遺伝情報Gを複製せよ
- 「遺伝情報Gを複製せよ」という遺伝情報を複製せよ
- 「「遺伝情報Gを複製せよ」という遺伝情報を複製せよ」という遺伝情報を複製せよ
というように、自己複製が無限に続く。エアコンシステムが生命システムでないのは、それがオートポイエーシス・システムではないからである。
システムを選択する機能として定義したが、選択はどのように行われても良いわけではない。どのように選択しても、捨てられる可能性がある以上は、低エントロピーな構造ができるわけだが、生命システムは、選択がさらなる選択を可能ならしめるように選択する。生命システムは、エントロピー縮減のためのエントロピー縮減を目指している。平たく言えば、生物は、少なくとも種のレベルでは、自己保存を目指している。
生命機能の本質はエントロピー縮減のオートポイエーシスにある。多分、伝統的な生物学者は、この条件ではまだまだ不十分だと考えることだろう。通常、生物学者たちは、呼吸、成長、環境適応、刺激感応といったエントロピー縮減機能、生殖というオートポイエーシス機能に加えて、たんぱく質でできた細胞構造という構成材料をも生物の要件として重視しているからだ。
だが、こうした物質的定義は非本質的に見える。確かに地球上の全ての生物は、水と炭化水素を基盤としている。しかしケイ素やゲルマニウムも炭素と同じような化学反応を起こすことができる。宇宙の知られざる惑星にケイ素やゲルマニウムでできた、その他の点では地球の生物にそっくりの存在者がいるかもしれない。それらをたんにたんぱく質でできていないという理由で生物と呼ばないことにどれほどの意味があるだろうか。
いや、何も宇宙生物のことまで想像しなくてもよい。CPUとメモリーの資源を奪い合いながら、サイバー・スペース上で進化しつつ繁殖する人工生命、ティエラも、たんぱく質からできているわけではないが、きわめて生物的である。ティエラはバーチャルな空間で生きているだけのソフト人工生命だが、既存生物にもっとよく似たハード人工生命を作ることも理論的には可能である。例えば、コンピューター上の人工知能が3Dプリンタを使って自分と同じコンピューターやその出力機を作る場合も、きわめて生物的な振る舞いをしていることになる。
このようにたんぱく質が材料になっていることは、生命にとって本質的ではない。また細胞から合成されているというもう一つの性質も、ウィルスの場合、意味をなさない。ウィロイドと呼ばれる核酸だけの生物もいる。だから生命を定義する上で重要なことは、生命の担い手が何であるかではなくて、生命がどのような機能をもっているかということなのである。生命システムの定義は、「散逸構造を維持するオートポイエーシス・システム」で十分である。
2.3. 生命システムとしての社会システム
こう定義するならば、社会システムもまた一種の生命システムであるということになる。生物が、食物等の低エントロピー資源を消費し、高エントロピー廃棄物を、体液循環を通じて糞、尿、汗、廃熱等の形で体外に排出することによって、身体という低エントロピーな散逸構造を維持するように、社会は、化石燃料等の低エントロピー資源を消費し、高エントロピー廃棄物を、水および大気の循環を通じて最終的には廃熱の形で宇宙空間へと排出することによって、文明という低エントロピーな散逸構造を維持する。
社会システムには、生命システムと同様のオートポイエーシスも見られる。遺伝子にしたがってたんぱく質が作られるように、社会規範によって社会的行為が産出される。けがや病気をしても生物にはそれを自力で治癒する能力があるし、社会規範から逸脱する行為があっても社会システムはそれを処罰して秩序を回復することができる。しかし、けがや病気がひどくなると生物が死ぬように、違反者が増えすぎると社会秩序は壊滅する。個体が死んでも遺伝子が子孫に受け継がれるように、社会秩序が乱れて一時的に無政府状態になっても、秩序が回復すれば、社会規範もまた受け継がれる。もちろん、遺伝子が変化しうるように、社会規範も、変化する。競争力のない遺伝子や社会規範は、その担い手とともに淘汰される。
よく考えてみれば、私たちの身体を構成している細胞は、かつては単細胞生物として単独で生命として存続できた。だから、生物の集合が一つの生物となっていることはそれほど驚くべきことではない。生命システムにはフラクタルな(自己相似的な)重層性がある。ただ社会の細胞は、生物の細胞とは異なって、意識を持つので、社会システムは、生物内には見られない独特の複雑性を縮減しなければならない。この社会システムの特殊性に関しては、第三節で改めて取り上げることにするとして、その前に、意識とは何かを考えなければならない。
3. 意識はどのようなシステムか
生物の中には、意識を持つものもいる。さらには、記号を用いて、指示対象を抽象化し、他者とコミュニケーションするものもいる。意識を持つシステムは、どのような点で特殊な情報システムなのかを考えよう。
3.1. 情報システムのエントロピー
意識の志向的対象は、意味である。物が直接認識されていると思われる場合でも、物が記号として意味を持つ限りで、認識が成り立っている。そして、記号が意味を持つのは、それが一定の地平において、他の記号と示差的な意味関係を持つことによってである。例えば、「晴れ」という語は、天気という地平において、「雨」や「曇り」や「雪」といった他の語を否定するがゆえに意味を持つ。
命題は、語とは異なって、真であったり偽であったりする事態を代表象するのだが、その真偽が意味、すなわち情報としての価値を持つためには、他の命題と示差的な意味関係を持たなければならない。例えば、「明日は、晴れるかそうでないかのどちらかでしょう」という天気予報は、何の情報も伝えていない。「明日は雨」、「明日は曇り」、「明日は雪」など、他の可能性を否定して初めて、「明日は晴れ」という命題は情報価値を持つ。
このように、システムが意味を表現するには、表現する以上に多くの可能性を作った上で、それらを否定しなければならない。だから、ここでもまたエントロピーの法則が成り立つ。すなわち、情報エントロピーを減少させて、意味構造を作るには、システムは、環境においてより多くの情報エントロピーを増やさなければならない。
物理学者の中には、エントロピーの法則を、意識や社会などの非物理学的な現象に適用することに対して、「たんなるアナロジーに過ぎない」と批判する人がいる[4]。しかし、熱エントロピーを含めて、全てのエントロピーは情報エントロピーとして解釈できるのだから、あらゆる情報システムに、エントロピーの法則を当てはめることは、決して不当な拡張ではない。
3.2. 唯物論的実在論か唯心論的観念論か
ちょうど、コンピューターが、低エントロピー資源である電気を消費し、環境へと高エントロピーな廃熱を散逸させることによって、情報処理を行うように、人間は、食物という低エントロピー資源を消費し、高エントロピーの廃棄物を捨てることによって、情報エントロピーを減らしている。他方で、病は気からという諺にあるように、判断に自信を失い、増大する意味の不確定性を縮減できなくなった人が、体調を崩して病気になり、死に至ることもある。ここから、物質システムと情報システムの間には相互的な因果関係があるなどと結論してはいけない。私たちは、こうしたナイーブな相互作用論を生み出す物心二元論を克服しなければならない。
近代の意識哲学は、世界から意味を剥ぎ取り、それを主観の意識作用の産物にしてしまった。意識哲学に対する反動である唯物論も、世界から意味を奪ったまま、物質を実体化してしまった点で、意識哲学と同じ地平内にある。私たちは、エントロピーという、物質やエネルギーに還元不可能な新たな物理的概念を手がかりに、唯物論的実在論と唯心論的観念論の対立地平を越えなければならない。
意識や生命を持たない、たんなる物であっても、それがシステムである以上、構造と環境との間にある複雑性の落差によって、何らかの意味を表現している。私が物システムまでをも他者の範疇に入れたのは、物には、意味を理解する能力はないが、意味を表現する能力はあるからだ。意味は、唯心論的観念論者が考えるように、主観が作り出す意識の産物でもなければ、唯物論的実在論者が考えるように、脳内の幻想でもない。
観念論の哲学者たちは、「エントロピーは、将来主観によってその有効性が否定されるかもしれない経験科学の概念の一つだ。超越論的意識は、全ての経験科学の概念を超越している。だから、エントロピーを含め、全ての概念は意識の産物にすぎない」と反論するかもしれない。私は、エントロピーをたんなる経験科学の概念としてだけではなく、不確定性あるいは選択可能性という哲学的な概念としても捉えているので、この問題を哲学的に考えてみよう。
もしも、観念論が正しいとするならば、すなわち、意識が全ての観念を産出し、そして実体が物ではなくて観念だとするならば、主観は、世界を意のままに創造することができるはずである。しかし実際には、私たちは、個別主観的にはもちろんのこと、共同主観的にも、世界の認識に苦労している。このことは、客観が、主観によって受動的に意味付与されるだけの存在ではなくて、自ら能動的に意味を表現するシステムであることを、しかも、主観が「意のままに」縮減するのとは他のように複雑性を縮減する他者であることを示している。
しかしながら、認識とは、表現された情報を受動的に受け取ることではない。認識は、生命システムの営みの一つであるから、複雑性縮減の再生産、すなわち自己保存を目的としている。ゆえに、表現された全ての情報を受け取ることは不必要である。この宇宙に存在する全ての情報は、私たちの脳の容量制限を超えているので、それを全て認識するということは、不必要という以前に不可能でもある。私たちが必要としている情報は、将来にわたって、システムの自己保存に役立つ情報である。
このことは、私たちが、将来どうなるかという未来予測の知識だけを求めているということを意味しない。例えば、明日晴れるか否かという未来予測に関して、ある気象学者(甲)は、一つの過ちを犯すことによって、間違った予測をし、別の気象学者(乙)は、二つの過ちを犯すことによって、たまたま正しい予測をしたとしよう。この場合、正しい予測をしたからといって、乙を甲以上に信用するというわけにはいかない。偶然性というエントロピーを縮減するためには、たんに正しい予測をするだけではなく、正しい予測をするための普遍的な理論を築かなければならない。
3.3. 意識システムの本質
「今ここでは、私には、…のように見える」といった受動的で個別的情報なら、間違えることはないが、同時に情報としての価値はきわめて低い。そこで、意識システムは、個別的情報を超えて、普遍的理論を能動的に構成しようとするが、能動的であればあるほど、間違えるリスクも増えるし、選択に迷いが生じる。そして、この選択の迷いが、意識システムの本質なのである。
あるシステムに意識があるかどうかは、そのシステムが選択に際して迷うかどうかによって決まる。私たちは、食事のメニューを選ぶ時に迷うけれども、食べたものを消化する時、胃から胃液を出そうかどうか迷うことはない。だから食事のメニューを選ぶ行為は意識に上がるが、胃液を出す行為は意識に上がらない。
本能にのみ支配されている下等動物には意識がない。入力に対して出力が一意的に決定されていているならば、意識とか迷いといった贅沢品は不要である。私たちは、睡眠中、夢をみている場合を除けば、意識を失う。しかし意識がないときでも、身体は新陳代謝を続け、脳は体温調節などの情報処理を行っている。睡眠中の疑似体験から、意識のない生物の情報活動をある程度理解することができる。
選択の自由がない行為者には意識がない。しかし行為の選択が不確定だからといって、ただちに行為者に意識があると結論付けることはできない。行為の決定を量子的不確定性に依存しているロボットを作ったとしよう。このロボットの行為はランダムで、予測不可能である。しかしロボットはたんに偶然性に身を委ねているだけで、ロボット自体は迷うことはない。だから、そのロボットには意識がない。
近年、人工知能の開発が急速に進んでいることから、将来コンピューターの性能の向上に伴って、コンピューターに意識が芽生えるのではないかと期待(あるいは懸念)する人が増えている。しかし、コンピューターの演算速度は既に人間のそれをはるかに超えており、それがさらに飛躍的に増大したからといって、コンピューターがより人間らしくなるということはない。
コンピューターの父、あるいは人工知能の父と呼ばれるチューリング[5]は、機械が人間と同様の知性を持っていることを確かめる方法として、後に「チューリング・テスト」と呼ばれる方法を提案した[6]。チューリング・テストとは、判定者が機械と通常の言語で会話を行い、会話の相手が人間か機械か判別がつかない場合、その機械には人間と同様に知性があると判定するテストのことである。チューリングの没後60年を記念して2014年6月7日にロンドンの英国王立協会で開催されたチューリング・テストのコンテストで、13歳のウクライナ少年のふりをする“Eugene Goostman”なるボットが、五分間のテキストによるチャットを通じて、33%の審査員によって人間だと判断され、史上初めての「合格者」となった。しかし、だからといって、このチャット・ボットに知性がある、あるいは意識があると言うことができるだろうか。
理解における志向性の重要性を説く哲学者、サール[7]は、1980年の論文「心、脳、プログラム」において、後世「中国語の部屋」と呼ばれるようになった思考実験から、チューリング・テストが不完全であることを指摘している[8]。部屋の中にいる中国語を全く理解しない人が、部屋の外部から象形文字の羅列のように与えられる中国語の質問に対して、マニュアルに書いてある通りの回答を選んで部屋の外に返すことで、部屋の外部にいる人間に中国語を理解していると騙すことができるではないかとサールは異論を唱えた。要するに、チューリング・テストのような外部からの観察では、理解に不可欠な志向性があるのかどうか確認できないから、人工知能に人間と同じ能力があるかどうを判定するには不十分だというのである。
英語の志向性(intentionality)は英語の“intend”に由来し、英語の“intend to”は「…するつもりである」を意味する。実践における志向性であれ、認識における志向性であれ、私たちの志向性の根底にあるのは自己保存の欲望である。コンピューターには自己保存の欲望がないので、コンピューターを処分するコストの計算をさせても、処分を免れるために実際よりも高い数値を偽って出すということはしない。コンピューターは所詮欲望を持つ人間が使っている道具に過ぎない。たんに命令を忠実に実行するだけの機械である限り、どれだけ性能が向上しても、意識を持つことはない。
人間には自己保存の欲望があり、自己保存の手段として情報処理を行う。だが人間は全知全能の存在者ではないので、どうすればよいのかに関して完全な知識があるわけではない。もし人間が、神のような迷わない全能者なら、意識を持つことは不必要であり、もしロボットのような自由を持たない下等な存在者ならば、意識を持つことは不可能である。私たちは、不可能性と不必要性の中間に位置する不確定的存在者であるからこそ意識を持つのである。
4. 社会はどのようなシステムか
多細胞生物は、複数の生命の集まりだが、それだけでは、社会システムを形成しているとはいえない。システムがたんなる要素の集まりでないように、社会システムもたんなるシステムの集まりではない。社会システムには、システム間の相互依存的選択が必要である。
4.1. ダブル・コンティンジェンシー
意識システムは、非意識システムとは異なって、普遍性への超越を試みるがゆえに、将来を予期しようとする。だから、意識システムと他の意識システムとの選択関係は、意識システムと非意識システムとの選択関係以上に複雑となる。他の意識システムを認識する時、私は、非意識システムを認識する時のように、たんに他者の選択を予期するだけではなく、私の選択を予期して行う他者の選択を予期しなければならない。
パーソンズ[9]は、自己の選択と他者の選択が相互に相手の選択に依存して不確定となっている状態をダブル・コンティンジェンシー(double contingency)と名付けた[10]。そうした二重に他者に依存するがゆえの偶発性は、社会システムが自らを存続させるために縮減しなければならない不確定性であり、社会的エントロピーと呼ぶことができる。日本のように治安が良い社会に住んでいると、社会的エントロピーをあまり意識することはない。そこで、社会システムが存在しないなら、どのようなエントロピーが生まれるかを考えることによって、社会システムの機能を明確にしていくことにしよう。
今、無政府状態の場所で、あなたは見知らぬ相手と出会ったとしよう。二人は、銃をお互い相手に向けて、同時に「銃を捨てろ!そうすれば、こっちも銃を捨ててやる」と叫ぶ。私が銃を捨てるかどうかは、相手が銃を捨てるかどうかに依存し、相手が銃を捨てるかどうかは、私が銃を捨てるかどうかに依存している。もしも二人とも武器を捨てて平和共存できれば、それが一番良い。しかし私が率先して銃を捨てても、相手が約束通り銃を捨ててくれるとは限らない。相手は武器を独占して、私を奴隷にしてしまうかもしれない。
予想される四つの事態における二人の利得の組み合わせは、以下のようになる。相手が銃を捨てた場合、自分の利得は、銃を保持すると2点で、捨てると1点、相手が銃を保持し続けた場合、自分の利得は、銃を保持すると0点で、捨てると-1点であるとしよう。

この時、私は「相手が銃を捨てるか保持するかは不確定だ。しかし相手が銃を捨てる場合でも、保持する場合でも、いずれの場合にも自分が銃を保持した方が利得の点数は大きい。だから相手がどのような行動に出ようとも、私は、銃を保持し続けることにしよう」と考える。ところが、相手も同じことを考えるから、二人とも武器を捨てようとしない。
これが、いわゆる囚人のディレンマで、共に核兵器を削減しようとしなかった冷戦時代の米国(アメリカ合衆国)とソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)も同じようなディレンマに陥っていた。2016年5月に米国大統領として初めて広島で演説をし、「核なき世界」の実現に向けたメッセージを発したオバマ大統領[11]に、核のフットボール(核弾頭発射のためのブリーフケース)を持った陸軍武官が随行していた[12]のは皮肉な光景であった。米国もロシアも「核なき世界」が理想であることはわかっていても、それを実現することはできないのである。
ゲームの理論によると、他のプレーヤーがどんな戦略を取っても、自分の利得の最小値を最大にする戦略が最適反応である。そしてどちらのプレーヤーにとっても最適である戦略の組み合わせは、ナッシュ均衡と呼ばれる。現在の場合、二人が共に銃を捨てると、合計点が2点で最も高く、どちらか一方だけが捨てると、合計点は1点で、二人とも銃を保持し続けると、合計点は0点となる。「最大多数の最大幸福」という観点からすれば、ナッシュ均衡は最悪の状態ということになる。囚人のディレンマのパラドックスは、ナッシュ均衡が最悪だということがわかっていても、各プレーヤーは、最適反応によって最悪の状態にしか到達できないというところにある。では、ダブル・コンティンジェンシーという社会的エントロピーを縮減し、社会システムが成立することはいかにして可能なのだろうか。
4.2. 対称性の自発的破れ
パーソンズは、ダブル・コンティンジェントな関係からいかにして社会的秩序が可能かという問題を「ホッブズ問題[13]」と呼んだ。よく知られているように、ホッブズ[14]は、自然状態では「万人の万人に対する戦い bellum omnium contra omnes[15]」に陥ると考えた。なぜ社会システムは存在し、むしろ「万人の万人に対する戦い」のような無秩序ではないのか。これは、ちょうど「なぜ何かが存在し、むしろ無ではないのか[16]」というライプニッツ[17]の問い(ホッブズ問題になぞらえて、ライプニッツ問題と呼ぶことにしよう)が存在論における最も根源的な問いであるように、「なぜ政府が存在し、むしろ無政府状態ではないのか」というホッブズ問題は社会学における最も根源的な問いである。
ライプニッツ問題は、物理学においては、対称性の自発的破れ[18]によって説明されている[19]ので、ホッブズ問題もこれによって説明しよう。しかし、その前に、物理学における対称性の自発的破れについて説明しなければならない。専門的な説明では話が難しくなるので、ここでは、以下のようなメキシカン・ハットの譬えを使って説明することにしたい。

極座標で表示されたウェーブレット関数のメキシカン・ハット型グラフ[20]で、対称性が維持されている状態。
この段階は、メキシカン・ハットの頂点に球体が乗っている状態で、中心軸に沿って対称であるが、球体の位置エネルギーが大きくて、不安定である。球体を精確に頂点に載せたつもりでも、そこには人間が感知できないような誤差があって、ゆらぎにより球体は頂点から滑り落ちる。ゆらぎは最初偶然であったとしても、いったん滑る方向が決まると、不可逆的にその方向へと滑り出す。その結果、以下の図のような対称性が破れた状態に移行する。

この状態は、位置エネルギーが低く、安定しており、ゆらいでもまたすぐに元の状態に戻る。
ビッグバンの頃の宇宙は、メキシカン・ハット型グラフの状態に譬えることができる。真空で対称性があるが、一兆度もの温度がある極めてエネルギーが高い励起状態で、不安定である。ビッグバン後の宇宙は、温度を下げつつ、空間を広げ、基底状態に移行したが、それに伴って対称性も破れた。真空からは同じ数の粒子と反粒子が対生成し、対消滅して光に戻る。これでは、いつまで経っても物質ができない。ところが、陽子や中性子などのバリオンは反バリオンよりもわずかに多く、このCP対称性、つまり荷電共役変換対称性(Charge conjugation)と鏡映(Parity)対称性の破れによって、私たちの現在の宇宙は多くの物質を有するようになったと考えられている。
対称性の自発的破れは、ゆらぎによる最初の対称性を破る選択が、全体へと波及するさまがあたかも自発的であるかのようなので、そう命名された。この図でも、球体が最初ある方向に傾くと、外から力を加えなくても、その後、あたかも自発的であるかのように、その方向に滑り出す。強磁性体の自発磁化もそうした対称性の破れの一例である。強磁性体をキュリー点以上に熱すると、それぞれの原子で磁気モーメントの向きがランダムになり、全体として磁性を失う。強磁性体をキュリー点以下に冷やすと、隣り合った原子の間に磁気モーメントの向きを揃えようとする相互作用が働いているので、いったんある方向に磁気モーメントの対称性が破れると、全体がその向きに「自発的に」揃う。こうした対称性の自発的破れは、温度の低下によって秩序が形成されるのだから、熱力学的な意味でのエントロピーの減少としても説明できる。
物質システムの成立を対称性の自発的破れで説明できるように、社会システムの成立も、対称性の自発的破れで説明できる。無政府状態のジャングルで出会った二人のガン・マンが全く同じなら、ちょうど粒子と反粒子が対消滅するように、二人はともに銃を撃って殺し合うだろう[21]。これではいつまで経っても社会システムができない。実際には、自然界ではそうした対称性は破れており、二人の人間が完全に同じということはない。ホッブズも、自然状態において、個人間に体力や知力の差があることを認めつつも、その差は完全な服従を実現するほど大きくはないと言っている[22]。
それでも実際には、たとえ偶然であったとしても、一人の人間がもう一人の人間を打ち負かすということは可能であり、敗者を殺す代わりに、服従させるということも可能だ。その部下と一緒に、もう一人の人間を服従させるということを繰り返しているうちに、権力が雪だるま式に膨らんで大きくなる。これは社会的対称性の自発的破れと呼んでよい現象だ。誰もが権力者になりうるが、誰もが権力者ではない高エントロピーな自然状態が社会の励起状態だとするなら、特定の権力者が統治する秩序は社会の基底状態ということになる。権力者は権力の維持のために権力を使うことができるので、権力が支配する秩序は安定する。
この対称性の自発的破れは、強磁性体の自発磁化のような熱力学的現象ではない。それでも、温度が下がることでエントロピーが縮減されるという熱力学的なイメージは、社会システムの生成にもある。共産主義の象徴は赤色であり、それに対して保守主義の象徴は青色や白色である[23]。赤色は炎の色で高温をイメージし、青色や白色は水や氷の色で、低温をイメージさせる。共産主義者による階級闘争は、支配/被支配という対称性の破れを再び対称化しようとする試みで、彼らが理想とする平等な社会は社会的エントロピーが高い。
これに対して、保守主義は、彼らの情熱に冷や水を浴びせ、支配/被支配という対称性の破れを維持しようとする。極性分子の水分子は、高温の水蒸気という状態では、激しく運動して、対称性が高いが、温度が下がると、対称性が破れて、水を経て氷へと相転移し、エントロピーの低い結晶を形成する。共産主義者が共産主義的な革命を否定する保守主義者の反動を「白色テロ」と呼ぶのは、こうした熱力学的なイメージがあるのかもしれない[24]。
4.3. 交換媒体による社会的エントロピーの縮減
本節は、無政府状態の場所で、二人のガン・マンが出会う時のダブル・コンティンジェンシーから話を始めたが、無政府状態ではなくて、権力者によって支配されている状態で考え直してみよう。二人だけでは、囚人のディレンマから抜け出せない。しかし、権力者が媒介的第三者として介入すれば、二人はこのジレンマを克服することができる。例えば、日本では、一般人は銃を持つことが認められておらず、喧嘩が起きれば、銃を持った警官が仲裁に入ることができる。
相互依存する不確定性のディレンマを解消する第三者を交換媒体と呼ぶことにしよう[25]。交換とは、相互に他者が自由の一部を放棄することを条件に、自分の自由の一部を放棄することであり、交換媒体のおかげで、意識システムは、相互に恣意性を放棄して、他者が予期とは他のように行為する不確定性を縮減することができる。
ここでもまた、エントロピーの法則が成り立つ。すなわち、社会システムは、交換媒体を通して、予期から逸脱した行為の諸可能性を環境へと排除することにより、社会秩序という低エントロピーな構造を可能にしている。
交換媒体にはいくつか種類がある。以下の交換媒体の分類図を見ていただきたい。これは、四つの社会システムを支える四つの交換媒体とそれらがない状態をまとめている。
下から順にこの「交換媒体の分類図」を解説したい。
最も基底的な交換媒体は記号である。記号とは、言語よりも包括的なシニフィアンの総称で、対象と意味を代表象する。この交換媒体を通して、意識システムは、自己の体験を独自に記号化する自由を相互に捨てて、他の意識システムとコミュニケーションを行う。情報交換は、社会システムを成立させる最も根源的な交換である。
原理的にコミュニケーション不可能な人は、たとえ生物学的にヒトであったとしても、人間の通常の社会システムから隔離される。精神病患者は、罪を犯しても責任を問われることはないが、その代わり、例えば施設に収監されるなど、自由を失う。この交換は、交換が成立しないがゆえに成立する交換である。これに対して、それより上の交換は、自由と責任を相互承認し合う意識システム間の交換の領野である。
交換媒体の分類図では、文化システムの交換媒体が「民間」の範疇に分類されている。これは、記号が、国家権力が消滅しても残存する、最も根源的な交換媒体であることを示している。政治システム・経済システム・法律システムのコードが、例えば憲法・商法・刑法といった、国家権力によって規定された法であるのに対して、文化システムのコードが、通常は国家権力が介入しない文法(語法をも含めた広義の文法)であることから、記号が政府発行の交換媒体でないことは明白である。
フランスのように、国家権力が文法に介入する国もある。フランスでは、ルイ13世の時代に設立された国立学術団体、アカデミー・フランセーズが辞書と文法書の編纂を行い、フランス語の使用に対して様々な勧告を行っている。しかし、アカデミー・フランセーズの勧告に従わなければならない義務はなく、実際、フランス語を公用語としている29か国では、様々なフランス語が話されている。仮にアカデミー・フランセーズが廃止され、フランス政府がフランス語に干渉しなくても、フランス語自体は存続するだろうし、その意味では、言語は国家権力を必要条件とはしていないと言える。
システムは、言語あるいは記号を通して、有意味を選択して無意味を排除するという最も根源的な複雑性の縮減を行うのみならず、真を選択して偽を排除し、善を選択して悪を排除し、美を選択して醜を排除し、快を選択して不快を排除するといった価値選択をも行う。その際に用いられる、貨幣・刑罰・票などの交換媒体も記号の一種である。この意味でも、記号は最も根源的な交換媒体である。
交換媒体の分類図の下から2段目に書かれているメディアは、学問や芸術など、文化システムの分野で純粋に記号だけを交換するコミュニケーションのメディアである。言語を媒体として、私たちは、すばらしい作品を賞賛し、期待はずれな作品を非難する。拍手やブーイングといった非言語的な記号で交換が行われる場合もある。
表象文化の生産を経済活動とみなすなら、生産物である作品の価値を、貨幣で数量的に評価することもできる。だが文化活動では、必ずしも経済的利益だけが追求されるわけではない。名誉を求めて、文化的生産活動をする人もいる。名誉という文化資本が持つ文化的価値は、作品の被引用数や認知度などによって、より直接的には人気投票によって数量的に評価することができる。
記号のもう一つの重要な役割は、文化価値を保存することである。メディアを通じて、私たちは過去の作品をいつでも楽しむことができる。以上をまとめると、貨幣と同様、記号には、交換媒体・価値尺度・貯蔵手段という三つの主要な機能があると結論付けることができる。
交換媒体の分類図の真中にある3段目と4段目は、ポジティブな交換のメディアとネガティブな交換のメディアに分けられている。もちろん、罰金という形で、貨幣が刑罰の機能を果たすこともあれば、恩赦という形で、政府が服役者に恩を着せることもある。しかし、こうした反対機能は、もともと貨幣が正の価値を代表象し、刑罰が負の価値を代表象するからこそ可能なのである。
自由と責任を相互承認し合う意識システムは、相互依存する不確定性の縮減を確実なものにするために、国家を建設する。国家権力に基づく貨幣と刑罰は、それぞれ、ポジティブな価値の交換とネガティブな価値の交換を媒介する代表的な媒体であり、逸脱行為を減らす上での飴と鞭として機能している。
もしも、国家権力に基づいた交換媒体がなければ、私たちは、物々交換によってポジティブな価値を交換し、私的復讐によってネガティブな価値を交換しなければならない。物々交換が成り立たないと、略奪などの不等価交換が頻発するようになる。このような犯罪に対して各人は私的復讐で不等価交換を等価交換にするほかないのだが、復讐は復讐を呼ぶので、等価交換はいつまでたっても成立しない。
物々交換には、自分が交換しようと思っている商品を相手が欲望しているかどうかという不確定性と相手が交換しようと思っている商品を自分が欲望するかどうかという不確定性がある。同様に、復讐には、自分の行為を相手が苦痛と感じるかどうかという不確定性と相手の反応がそれに対する報復であるのかどうかという不確定性がある。
もっと重要な問題は、物々交換においては、商品にどの程度の価値があるかに関して不確定性があるということである。一般的に言って、売り手は、買い手が望む以上に高いレートで交換しようとする。復讐においては、加害行為にどの程度の罪があるのかに関して不確定性がある。一般的に言って、被害者は、加害者以上に大きな罪を認めさせようとする。
交換媒体があれば、等価交換を容易に成立させることができる。物々交換における不確定性を縮減する交換媒体が貨幣であるのに対して、私的復讐における不確定性を縮減する交換媒体は刑罰である。
貨幣は、商品の具体的な使用価値を捨象し、抽象的な価値一般を代表象するがゆえに、商品の価値を計測する基準となる。刑罰は、犯罪行為の具体的な罪の内容を捨象し、抽象的な罪一般を代表象するがゆえに、犯罪行為の罪の重さを計測する規準となる。
貨幣には価値を貯蔵する機能があるが、刑罰にも同様の機能がある。被害者が死んだからといって、加害者の「借り」が消えてなくなるわけではない。長い時間をかけた裁判を経た後であっても、刑罰は執行される。このように、ポジティブな交換において貨幣が交換媒体・価値尺度・貯蔵手段としての機能を持つように、ネガティブな交換において刑罰は交換媒体・価値尺度・貯蔵手段としての機能を持つ。
交換媒体の分類図の一番上にあるメタ政府のレベルでは、政府がどのような選択をするかではなくて、政府についてどのような選択をするかが問題となる。もしも、一人の独裁者が全ての政治的権力を独占しているとするならば、その国の政治システムは、相互依存的な複雑性を縮減する社会システムではない。多数の国民が政治に参加できる民主主義国家では、政治システムは、その意味での社会システムである。
民主政治では、有権者は、国家の意思決定プロセスに参加する権利を持つ代わりに、決定事項に従う義務を持つ。これが政治システムにおける交換であり、この交換を媒介する交換媒体が票である。直接民主制のもとでも、間接民主制のもとでも、多くの票を得ることにより、法や政策は採択され、正当性を獲得し、施行される。
民主政治は、歴史的には、市民社会で成熟した市場経済の原理が政治に応用されることによって誕生した。だから、市場経済と民主政治を比較すると、両者の共通構造が理解できる。市場経済においては、個々の消費者が選択した結果、多くの貨幣を集めた商品が生き残る。同様に、民主政治では、選挙というマーケットにおいて、個々の有権者が選択した結果、多くの票を集めた意思決定が生き残る。
以上、四つの交換媒体についての分析を行ったが、私が交換媒体の分類で主張したいことは、四つのシステムがどのように異なるかということではなくて、一見すると異質な四つのシステムが、実は同じ構造を持っているということである。四種類のシステムは、独立したシステムではなくて、あくまでも一つの社会システムが呈する四つの異なる射影にすぎない。
5. 参照情報
- 永井俊哉『エントロピーの理論』Kindle Edition (2019/06/09).
- エルヴィン・シュレーディンガー『生命とは何か-物理的にみた生細胞』岩波書店 (2008/5/16).
- クロード・E. シャノン, ワレン ウィーバー『通信の数学的理論』筑摩書房 (2009/8/10).
- ニクラス・ルーマン『社会システム 下』勁草書房 (2020/1/1).
- ニクラス・ルーマン『社会システム 上』勁草書房 (2020/1/1).
- ↑エルヴィーン・ルードルフ・ヨーゼフ・アレクサンダー・シュレーディンガー(Erwin Rudolf Josef Alexander Schrödinger, 1887年8月12日 – 1961年1月4日)は、オーストリアの物理学者。
- ↑“Every process, event, happening -call it what you will; in a word, everything that is going on in Nature means an increase of the entropy of the part of the world where it is going on. Thus a living organism continually increases its entropy -or, as you may say, produces positive entropy -and thus tends to approach the dangerous state of maximum entropy, which is of death. It can only keep aloof from it, i.e. alive, by continually drawing from its environment negative entropy -which is something very positive as we shall immediately see. What an organism feeds upon is negative entropy.” Source: Erwin Schrödinger. What is Life? – With Mind and Matter and Autobiographical Sketches. Cambridge University Press. 1944. Chapter. 6.
- ↑オートポイエーシスに関しては、拙著『システム論序説』の第二章第一節第三項「オートポイエーシス」を参照されたい。もともと生物学者のマトゥラーナとバレーラが、自己再生産的自己維持というような意味で、適用対象を細胞に限定して使っていたが、ルーマンなど他の分野の学者が、オートポイエーシスとオートノミー(自律)とを混同することで、解釈を拡大した結果、オートポイエーシス論は幅広い分野でのシステム論におけるブームとなった。
- ↑例えば、槌田敦がそうである。槌田敦の熱力学原理主義に対する批判としては、拙稿「槌田敦の熱学外論」を参照されたい。
- ↑アラン・マシスン・チューリング(Alan Mathieson Turing, 1912年6月23日 – 1954年6月7日)は英国の数学者。
- ↑Turing, A. M. “Computing Machinery and Intelligence.” Mind 59, no. 236 (1950): 433–60.Turing, A. M. “Computing Machinery and Intelligence.” Mind 59, no. 236 (1950): 433–60.
- ↑ジョン・ロジャーズ・サール(John Rogers Searle 1932年7月31日 – )は、米国の哲学者。
- ↑Searle, John R. “Minds, Brains, and Programs.” Behavioral and Brain Sciences 3, no. 03 (1980): 417–24.
- ↑タルコット・パーソンズ(Talcott Parsons、1902年12月13日 – 1979年5月8日)は、米国の社会学者。
- ↑Parsons, Talcott, and Edward Shils. Toward a General Theory of Action. Cambridge : Harvard University Press, 1951. p. 16. 「ダブル・コンティンジェンシー」は、日本では「二重の偶発性」と訳されているが、コンティンジェンシー(contingency)は、コンタクトと同語源で、「接触する tangere」というラテン語に由来し、他のファクターに依存するがゆえの偶発性という意味があるので、詳しく訳すなら、「二重に他者に依存するがゆえの偶発性」といったところだ。
- ↑バラク・フセイン・オバマ2世(Barack Hussein Obama II, 1961年8月4日 – )は、第44代アメリカ合衆国大統領。
- ↑David Usborne. “Barack Obama Says He Wants Nuke-Free World. Does He?” The Independent. May 27, 2016. New York.
- ↑Parsons, Talcott. The Structure of Social Action; a Study in Social Theory with Special Reference to a Group of Recent European Writers. New York : Free Press, 1949. p. 89-94.
- ↑トマス・ホッブズ(Thomas Hobbes, 1588年4月5日 – 1679年12月4日)は、英国の哲学者。
- ↑Hobbes, Thomas. Elementa philosophica de cive. apud L. et D. Elzevirios, 1657. Praefatio.
- ↑ラテン語表現:“… cur aliquid potius existat quam nihil.” Leibniz, Gottfried Wilhelm. Recherches générales sur l’analyse des notions et des vérités: 24 thèses métaphysiques et autres textes logiques et métaphysiques. 1686. フランス語表現:“Pourquoi il y a plutôt quelque chose que rien ?” Gottfried Wilhelm Leibniz. “Principes de la nature et de la grâce.” 1714.
- ↑ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646年7月1日 – 1716年11月14日)は、ドイツの哲学者、数学者。主著は『モナドロジー』、『形而上学叙説』、『人間知性新論』など。
- ↑対称性の自発的破れ(spontaneous symmetry breaking)とは、対称性を持つが、不安定なシステムが、より安定し、より対称性の低いシステムへと自然と移行する現象のことである。素粒子物理学によると、真空は、対称性の自発的破れによって落ち着いた基底状態である。この用語は「自発的対称性の破れ」と訳されることもある。しかし、こう訳すとまるで「自発的対称性」が破れるかのような印象を与えてしまう。この概念の提唱者である南部は、「自発的破綻」や「自然破綻」という訳も使っており、英語と同じ順番に並べたいなら、「自発的対称性破綻」とでも訳すべきだ。参照:南部陽一郎. 『素粒子物理はどこまで進んできたか』. 講談社, 1998.
- ↑物理学における真空は、ライプニッツが形而上学的に問題にしている無とは異なると反論する哲学者もいるだろう。確かに、真空は、物質という点では無であるが、エネルギーという点では無でない。しかし、パラレル・ワールドとして、全くの無である宇宙が存在しえるかどうかを問うことは無意味である。なぜなら、ちょうど +0 と -0 が同じであるように、「全くの無である宇宙が存在する」と言っても、「全くの無である宇宙が存在しない」と言っても、同じことしか意味しないからだ。
- ↑ 20.020.1RupertMillard. “A graph of the Mexican wavelet function in polar coordinates.” Wikimedia Commons. accessed 2016/6/6. Licensed under CC-0.
- ↑そっくりな分身のことをドッペルゲンガー(Doppelgänger)と言い、ドッペルゲンガーに出会うと間もなく死ぬという言い伝えがある。ドッペルゲンガーと呼ばれている現象が何であるのか、科学的には解明されていないが、対消滅のようで興味深い現象である。
- ↑“Nature hath made men so equal in the faculties of body and mind as that, though there be found one man sometimes manifestly stronger in body or of quicker mind than another, yet when all is reckoned together the difference between man and man is not so considerable as that one man can thereupon claim to himself any benefit to which another may not pretend as well as he.” Source: Thomas Hobbes. Leviathan. Chapter xiii. Of the Natural Condition of Mankind as Concerning Their Felicity and Misery.
- ↑米国では、21世紀以降、共和党を支持する州を赤い州(red state)、民主党を支持する州を青い州(blue state)と呼ぶという習慣が定着した。保守の共和党のシンボルカラーが赤で、リベラルな民主党のシンボルカラーは青というのは、ヨーロッパのシンボリズムとは逆である。「リベラル」の意味が米国では英国とは逆など、米国には、あえてヨーロッパの伝統に逆らうという傾向があるようだ。日本でも、若者たちは、従来「革新的」と言われていた日本共産党を「保守的」と感じ、「保守的」と言われていた自由民主党を「革新的」と感じるなど、旧世代とは逆の受け止め方をしている。
- ↑通説では、共産主義のシンボル・カラーが赤になったきっかけは、フランス革命の時の戒厳令旗が赤色であったことである。戒厳令旗が赤色なのは、交通信号で赤信号が止まれ(進むと危険)であるのと同じ理由によるものと思われる。赤色は血の色で、危険の象徴である。危険ということは、生命システムにとって高エントロピーであることを意味する。これに対して、水は生命システムのエントロピーを下げる媒体であり、水の色である青色は、低エントロピーの象徴である。交通信号で赤信号の反対が青信号であるのもこうしたシンボリズムによる。このように、色のシンボリズムもエントロピーの観点から説明ができる。
- ↑パーソンズの「社会的相互作用の一般化された象徴的メディア generalized symbolic media of social interaction」もルーマンの「象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディア symbolisch generalisierte Kommunikationsmedien」も、ダブル・コンティンジェンシーを解消する機能が想定されていない。ルーマンは、コミュニケーション・メディアはたんなる交換媒体ではないと言うが、それは交換概念を狭くとらえているからであって、広くとらえるなら、コミュニケーションは交換であると言える。
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主体がネゲントロピーを目指す時だけ意識が生じるのでしょうか。ランダムに動くロボットは生存を目的とした場合には意味のない物ですが、エントロピー増大を目的とする宇宙全体を主体と見ればその目的に一役買っており、しかも不確定性があるので、意識があるかもしれません。
宇宙は、自らの存続の危機に晒されることはないし、それどころか、そもそも生命のように自己保存するようにプログラムされてもいないので、意識を持つ必要はありません。
システムが迷うことができるどうか非連続に分類することはできないと思います。ただし、そのシステムにどれほど深い迷いが可能か(未来予測をするためにどれだけ複雑な理論を作れるか)を考えることはできると思います。我々人間は深い迷いを持つシステムです。それに対し昆虫等は浅い迷いを持つシステムです(一応昆虫も学習をします)。では、昆虫よりも我々の方が「大きな意識」を持つと言えるのでしょうか?つまり、我々が酒や眠気で朦朧とした状態は「大きな意識」が縮小し「小さな意識」となったもので、昆虫等が持つ意識の疑似体験になっていると言えるのでしょうか?私はそうは言い切れないと思います。複雑なシステムのonとoffの間が単純なシステムのonであるとは言えないからです。つまり、昆虫等の単純なシステムは「意識が無い」または「意識が薄い」というよりは、もう少し一般化して、我々とは別種の意識を持つと言う方が正しいのではないかと思います。昆虫だけでなく、大脳より下の階層である中脳や小脳にも同じことが言えます。そしてその意識がどんなものであるかは、大脳を所在とする我々には知り得ないものだと思います。
迷うということは、自己保存を目的としており、かつその手段が事前に確定していないということです。自己保存という目的がなければ、何も迷うことはないし、手段が事前にプログラムされていても迷うことはありません。「飛んで火にいる夏の虫」といった愚行を繰り返す虫には学習能力はなく、当然知性もないのですから、意識もないでしょう。