なぜ日本人は幼児的なのか
しばしば、日本の文化や日本人の精神構造は特殊だと言われる。しかしそれは、日本の文化や日本人の精神が特殊な発達を遂げたからではない。たんに発達が未熟であったからにすぎない。標準的な発展を遂げた他の文化圏の人々と比べると、日本人は、外観だけでなく性格が幼児的に見える。そして、この幼児性ゆえに、日本文化は、特殊であるように見えるだけなのだ。
1. 日本文化のネオテニー的性格
ウーパールーパーのように、幼生の特徴を残したまま成体になる個体を、生物学ではネオテニーと呼んでいる。日本という国は、経済的には大人になったが、文化的・精神的には幼児のままであり、その意味で、ネオテニー国家だということもできる[2]。
これまで、日本文化の特殊性について様々な議論がなされてきたが、以下、代表的な古典的見解を取り上げて、それらがすべて、ネオテニーの属性(幼児性)であることを確認しよう。
中根千枝は、『タテ社会の人間関係』の中で、日本の社会をタテ社会として特徴付け、欧米型のヨコ社会と対比した。「あなたの職業は?」と聞かれて、例えば「システム・エンジニアです」と答える社会はヨコ社会で、「松下の社員です」と答える社会はタテ社会である。日本では、スペシャリストが複数の会社を相手に才能を売り歩くという雇用形態よりも、一つの会社に定年まで所属して、様々なポジションをこなすという雇用形態のほうが主流である。少なくともこの本が出版された1977年ごろまでは、日本は完全なタテ社会だった。
中根が注意を促しているように、タテ社会にヨコの関係がないわけではない。「場」による集団内部に限定されたヨコの関係ならある。だから、中根が言う「タテ社会」とは、「ウチ」と「ソト」の区別にこだわる「ウチ社会」である。「ウチ社会」は、「ウチ」という言葉が示しているように、家をモデルにした社会である。
どの文化でも、家族という集団は、利益追求のための機能的集団(ゲゼルシャフト)ではなくて、愛の共同体(ゲマインシャフト)である。ただ、多くの文化では、子供たちは、ゲマインシャフトから追い出されて、ゲゼルシャフトの中で大人として成熟していくのに対して、日本人は、いつまでもゲマインシャフトの温情主義的なぬくもりの中に留まろうとする。戦前の日本政府は、国“家”を、天皇を家長とする家族に喩えた。戦後、国家のイデオロギーが崩壊すると、日本人は、会社に家庭的なゲマインシャフトを求めた。そして、人見知りする幼児のように、日本人は、共同体内部では親密な人間関係を築きながら、よそ者に対しては、引っ込み思案な態度を示す。
ルース・ベネディクトは、『菊と刀(The Chrysanthemum And the Sword)』で、恩を着せられることによる義理が、日本人の意識を強く制約していることを指摘した。こうした互酬性原理の優位は、日本に限らず、プリミティブな社会では広く見られる。個体発生と系統発生とを対応させるならば、互酬性社会は、母子の間の、水平的な交換関係を機軸とする鏡像段階に相当する。この段階は、父という超越的第三者(コミュニケーション・メディア)によって、垂直的に交換が媒介されていないという意味で、プリミティブなのである。
『菊と刀』は、日本の文化と欧米の文化の違いを「恥の文化」と「罪の文化」の違いとして説明したことでも有名である。日本の経営者が「世間をお騒がせして、まことに申し訳ありません」と言って辞職するのは、日本の文化が恥の文化だからである。罪の文化の視点からすれば、罪がないのなら辞職する必要はないということになるが、恥の文化の視点からすれば、世間を騒がせて恥ずかしいということが、引っ込む口実として認められる。
恥とは、他者という鏡に映し出された醜い自我に対する不安の感情である。その際、醜いかどうかに普遍的な基準はない。周りが色白のお嬢さんばかりなら、一人だけガングロ・ヤマンバでいることは恥ずかしいことだし、周りが不良少女ばかりならば、一人だけ良い子ぶりっ子でいることは恥ずかしい。このように、恥は、鏡像的な他者との相対的な関係で決まる、浮き上がることを恐れる感情に過ぎない。
これに対して、罪は、超越的で普遍的な規範に違反したときの意識である。罪の文化の人は、もし自分が正しいことをしていると確信しているならば、周囲から笑われても、恥ずかしいとは思わずに、むしろ周囲が無知なのだと考える。日本人には、唯一神から与えられた、超越的で普遍的な規範はない。だから、しばしば主義主張に節操がない。かつて鬼畜米英を叫んでいた日本人が、一転して親米的になったのを見て、マッカーサーは、日本人の精神年齢が12歳だと言ったが、このように、罪の文化から見れば、恥の文化は幼児的に見える。アリストテレスも、『ニコマコス倫理学』の中で、恥は「若年者にふさわしい感情」だと書いている。
2. 「甘え」の構造
日本文化の幼児性を、もっと直截に「甘え」という言葉で指摘したのが、土居健郎の『「甘え」の構造』である。もちろん、甘えるという現象は、日本人だけに見られるわけではない。どこの国でも、幼児は母親に甘えるものだ。だが、日本では、幼児がいつまでも母親に甘え続けることができるのに対して、多くの国では、子供たちは、父親によって、精神的な乳離れを強要される。では、なぜ日本人は、母親に甘え続けることが許されるのだろうか。なぜ、日本の文化は幼児的な段階に留まっているのか。
それは、日本では、母権社会から父権社会への転換である男性革命が、きわめて不十分であったからである。男性革命は、ギリシャ哲学やユダヤ教や仏教や儒教など、男性原理に基づく宗教や哲学が誕生した紀元前5世紀頃の「枢軸時代」がピークなのだが、その頃の日本はまだ縄文時代で、当時の日本人はプリミティブな地母神を崇拝していた。
6世紀になると、日本は、男性宗教の一つである仏教を輸入するが、当時の日本の為政者たちは、仏教を、自分が解脱するための宗教としてではなく、現世に対する執着を捨てない怨霊を成仏させる技術として導入した。無念の死を遂げた敗者が、怨霊となってたたりをなすという怨霊信仰は、日本だけでなく、世界中にある。しかし、怨霊を神として崇める伝統があるのは、少なくとも先進国では、日本だけである。世界の仏教圏においても、「誰でも死ねば仏になることができる」と信じているのは、日本の仏教信者だけである。
この怨霊崇拝とその仏教的変形も、「甘え」で説明できる。土居は、日本人が「甘えの葛藤の彼岸にある者を神と呼んでいる」と言うが、敗者となっても、怨霊としてたたりをなせば、神あるいは仏として崇めてもらえると期待することも、甘えの一つである。旧約聖書では、イスラエルの民が、出エジプトの後、カナンへ向かう途中、神が邪魔になる住民を大量に殺戮しているが、殺された人々が怨霊となって報復したり、イスラエルの民が鎮魂のために怨霊を神として崇拝したりするということはない。イスラエルの民にとって、ヤハウェは唯一絶対の神であり、他の神を崇拝することは許されない。
ユダヤ-キリスト教が父性の宗教だとするならば、日本の伝統宗教は母性の宗教である。母親が相手なら、幼児は、欲求不満のとき、泣きじゃくって駄々をこねれば、あやされて慰めてもらえる。だから、日本では、怨霊が「自分を神として崇めてくれ」と駄々をこねるのである。だが、父親に対しては、こうした甘えは許されない。父なる神は、絶対的な超越神であり、人間同士の恩讐の彼方にある。
世界で一番男性的な宗教は、イスラム教にちがいない。最近電車の中で、私は、イスラム文化圏から来た夫婦を目にした。妻は手ぶらで座席に座っているのに、夫は片手で重い荷物を持ちながら、もう片方の手で幼児を抱き、揺れる車内でバランスを取りながら立っているのを見て、「イスラムの男はたくましいな」と思ったものである。他方で、イスラムの男性が、日本の年配の女性に席を譲ったところ、その女性が、深々と頭を下げてお礼を言った後、彼女のいい年した息子を座らせたのを見て仰天したといった類の話もよく聞く。
外国から来た女たちは、日本の男を評して、「頼りない」「子供っぽい」「男らしくない」と言う。「男らしくない」あるいは同じことだが「父親らしくない」という評に対しては、「そんなことはない。戦前の日本の怖い父親を見よ。妻に対して威張っている亭主関白には、父親の威厳があるではないか」と反論したくなる人もいるかもしれない。確かに「メシ!」「フロ!」と妻に命令する亭主関白は、一見すると偉そうである。しかし、妻から見れば、亭主関白などは、自分一人では身の周りの世話が何もできない「大きな赤ちゃん」に過ぎない。
欧米では、夫が妻のために食事を運び、部屋に入るときには、自ら扉を開けて、妻を先に入れる。こうした「婦人への奉仕」という欧米に伝統的な騎士道精神を見て、「欧米では、女性は尊重されている」と思うかもしれない。実はこれは、「女は、オレたち男が守ってやらなければ生きていけない、か弱い動物だ」という男尊女卑の態度の表れである。日本の男にとって、妻が母親の代替物であるのに対して、欧米の男にとって、妻はペットなのである。
3. サムライは男らしいか
読者の中には、
と反論する向きもいるだろう。戦前の軍人や江戸時代の武士にとって、「死は鴻毛よりも軽し」だった。この「勇ましさ」は、日本の文化が母性的ではなくて、父性的であることを示しているのだろうか。
戦陣訓に「生きて虜囚の辱を受けず」とあるように、戦時中の日本兵は、捕虜になるよりも自決の道を選んだ。中には、戦闘中に意識を失って、不本意にも捕虜となった日本兵もいたが、彼らは、その恥ずべき事実が母国に知られないことを切望した。これに対して、捕虜となったアメリカの兵隊は、自分が捕虜となったことを祖国の家族に知らせて欲しいと願い出て、日本人を驚かせた。アメリカ兵も、命をかけて祖国を守ろうとした点では、日本兵と変わらなかったが、彼らには、家族を守る父親としての責任もあったので、無駄な死を避けて捕虜となることは、少しも恥ずかしいことではなかった。何よりも、彼らは、死が美しいとは思っていなかった。
日本には、長い間咲き続ける梅の花よりも、すぐに散ってしまう桜の花を愛する独特の美学がある。花となって散っていった特攻隊員や潔く腹を切った武士たちは、そうした死の美学に陶酔していた。「花は桜木、人は武士」である。特攻は、今では日本の専売特許ではなくなったが、自爆テロを行うイスラム原理主義者たちは、父なる神アッラーのために死ぬのであって、日本人のように、死そのものが美しいとは考えない。精神分析学では、死への欲動をタナトゥスと名付けているが、日本には、なぜタナトゥスの美学があるのか。
人は、死ねば土に帰る。死ぬということは、母なる大地の懐に戻るということを意味している。日本の特攻隊員が死ぬ直前に叫んだ言葉は、「天皇陛下万歳」ではなく、「お母さん」だった。勇ましい武士も、死ぬ直前に口にした言葉が「おっか(お母さまのこと)」だったりする。自ら死を選んだサムライは、その深層心理において、胎内回帰願望によって動機付けられていた。このように、一見すると勇ましそうな日本人の死の美学も、実はきわめて幼児的な欲動に基づいているのである。
4. 日本人の縮み志向
韓国の比較文化論者、李御寧は、「縮み」志向の日本人という本の中で、日本文化には縮み志向があることを指摘した。たしかに、縄文時代の屈葬から現代のカプセルホテルに至るまで、日本人が小さな箱の中に縮んで入りたがることを示す例は枚挙に暇がない。これは、日本では土地が不足しているからだと言う人もいるが、日本以上に人口密度が高いところに、必ず縮み志向の文化があるわけではない。日本人が縮み志向であるということは、日本人が大人になることを拒絶しているということである。そして、日本人が「小さな箱」の中に入りたがるのは、胎内回帰願望の現れである。
日本人は、縮むことだけでなく、縮めることも好きである。1980年代に、日本人は、欧米人が発明した製品の精巧な小型版を作り、世界の市場を席巻した。李御寧によると、初めて世界的にヒットした日本発の輸出品は、折りたたみ式の扇子だったそうだ。だから、先進国の製品を見て、それを縮めて模倣し、輸出するという伝統は、平安時代からあったことになる。このように、日本人は、先進国が作った物のミニチュアを作ることに熱心なのだが、これもまた、きわめて幼児的な現象である。幼児は、大人がしていることを見ては、「…ごっこ」という遊び心で、そのミニチュアを作りたがるからだ。
5. 日本人が幼児的であり続ける理由
日本文化が幼児的であるのは、日本では男性革命が不十分だったからだと私は説明した。ではなぜ日本では、男性革命が不完全燃焼を起こしたのか。なぜ、日本人は超越的な唯一神を信仰しないのか。なぜ、日本には、強いリーダーや強い父親が現れないのか。この問いに対して、二つの説明を試みたい。
一つは、自然環境説である。一般に、厳しい母親のもとで育つと、子供は早く自立するが、母親が甘やかしていると、子供はなかなか乳離れしない。同様に、イスラム文化圏のように、母なる大地が砂漠で、自然が苛酷なところでは、人々は早い時期に母なるものと袂を分かつ傾向にある。日本のように、母なる自然が人間に優しくしてくれる地域では、地母神崇拝からなかなか脱却できない。
キリスト教も、もともとイスラム教と同様に、砂漠の宗教であり、純粋な男性宗教だったのだが、豊かな森に恵まれたヨーロッパでは、女性宗教と妥協した。インドネシアも、イスラム教を受け入れたが、自然に恵まれていた地域なので、インドネシア人の信仰は、ちょうど日本人の仏教の信仰と同様に、表面的なレベルに留まっており、インドネシア人の意識の深層においては、相変わらず、原始的で
多神教的な信仰が残存している。
言うまでもなく、豊かな自然に恵まれた地域は、日本だけではない。それゆえ、自然環境説は、日本文化の幼児性を説明するには、不十分である。そこで、もう一つ、隷属経験説を提示しよう。
幼児的な民族は、嫉妬深くて、リーダーシップを発揮する強い権力者を指導者として仰ぎたがらない。しかしそれでも、戦争ともなれば、強いリーダーがどうしても必要になる。戦争に負けて、民族全体が異民族の奴隷となる悲惨な体験をした民族は、幼児的な嫉妬心を捨てて、強いリーダーを望むようになる。イスラエルの民が、世界初の男性宗教であるユダヤ教を信じたのは、彼らがエジプトの圧政やバビロン捕囚といった民族隷従の苦しみを味わったからである。
では、日本民族はどうだろうか。日本列島は、まるで羊水に守られている胎児のように、周囲を海で囲まれており、地理的に、異民族の侵入を受けにくい位置にある。日本民族が、異民族に支配されそうになった時は、白村江の戦いに敗れた後、蒙古襲来時、鎖国時代末期、太平洋戦争敗戦後と、過去に4回しかない。そして、いずれの時も、運命は日本人にやさしくしてくれた。
663年に、白村江で唐・新羅の連合軍に敗れた日本は、唐・新羅の連合軍に攻められる危機に直面した。天智天皇(中大兄皇子)は、侵略に備えて、近江大津京に遷都し、西日本各地に城を築いた。だがこの時、日本にとって幸いなことに、朝鮮半島の支配をめぐって唐と新羅が不和となり、日本は侵略される危機を免れた。
1274年と1281年の2回にわたって、日本は、元から攻撃を受けた。モンゴル人は、騎馬戦を得意としたが、海戦には弱かった。1281年の本格的な侵攻の時、よく知られているように、「神風」と日本人が呼ぶことになる大暴風雨により、フビライハンの野望は鷹島沖の藻屑となって消えた。
江戸時代の末期、日本は、他のアジア諸国と同様に、欧米列強の植民地となる危機に晒された。だが、イギリスやフランスは、地理的に極めて遠い日本を植民地化することに熱心ではなく、日本との通商に熱心だった、“隣国”アメリカは、日米修好通商条約締結に成功したものの、その3年後に起きた南北戦争で日本どころではなくなり、ロシアも、日本を植民地化できるほど、シベリア開拓を進めていなかった。こうした幸運に恵まれて、日本は独立を保つことができた。
第二次世界大戦に敗れた時、日本は、ドイツとは異なって、自民族による政府を存続させることができた。戦争中には、神風は吹かなかったが、戦後、冷戦という、日本にとってはありがたい神風が吹いてくれた。おかげで、アメリカは、日本を反共の砦にするべく、惜しみなく日本に物資を援助してくれた。日本にとって、アメリカの占領軍は、搾取する侵略者ではなくて、慈悲深い母親のような存在だったわけで、今日に至るまで、日本はアメリカから乳離れができないでいる。
運命の女神という言葉があるように、運命は女性として表象される。父性文化が成熟している国の民族は、運命という女を力で征服し、自分の支配下に置こうとする。ところが、日本人は、運命という偉大な母に、幼児のようにおすがりして、身を委ねようとする。これまでそれでうまく行ったのだから、これからも運命という母に甘え続けようというわけだ。「北朝鮮が攻めてくるかもしれない」と言われても、「いざとなれば、アメリカ軍が何とかしてくれるだろう」と、相変わらず神風が吹くことを期待して、のほほんとしているのは、このためである。
幼児的であることは、必ずしも悪いことばかりではない。世界的にヒットした小型製品や、世界的に高く評価されているアニメや漫画を作り出すことができるのは、日本人の幼児性のおかげである。しかし、政治や外交や安全保障の分野では、幼児的であることは、致命的な短所である。これまで、日本は、経済では一流だが、政治では二流だといわれてきた。政治や外交や安全保障の分野で一流でありたいと願うのであれば、日本人はもっと大人にならなければならない。
6. 読書案内
中根千枝の『タテ社会の人間関係』は、日本の社会の特殊性を文化人類学的に考察した一般向けのわかりやすい本である。著者によれば、「場」と呼ばれるゲマインシャフトの中でのタテの関係をゲゼルシャフトでのヨコの関係よりも重視する日本の社会は、欧米のみならず、アジアと比べても特異である。日本の会社の中でも、グローバルな競争に晒されている会社はもはやタテ社会ではないが、いわゆる保護産業や官庁では、相変わらず先輩後輩の区別にこだわるタテ社会が健在である。
太平洋戦争中、敵の行動パターンを調べる任務を受けて日本研究を行ったアメリカの文化人類学者、ルース・ベネディクトの『菊と刀』は、戦後盛んになる日本文化論の先駆的古典である。日本人は、恩を着せられると、それを返すことに異常なまでに義理を感じるが、ベネディクトは、日本でフィールドワークをしたわけでもないのに、こうした日本社会の互酬性原理をよく理解している。社会学的には、日本の「恥の文化」と欧米の「罪の文化」という対比が有名である。
土居健郎の『「甘え」の構造』は、日本人の心性の特異性を「甘え」という言葉で特徴付けた日本文化論として有名である。著者は、「甘え」という言葉は日本語にしかないというが、李御寧も指摘するように、韓国にもある。日本に特徴的なことは、「甘え」という言葉があることではなく、甘えが社会の中で極めて寛容に受け入れられていることではないだろうか。日本では、社会の上に立つものは、周囲に対して幼児的な依存性を持つということは、日本社会の無責任性を示すものとして、よく指摘されるが、そこから出てくる、日本で発達した敬語が、幼児に話しかける言葉とよく似ているという議論は、意外だったし面白いと思った。
ディスカッション
コメント一覧
先生は幼児的であることは政治や安全保証の面では致命的だと仰っていて、私も全く同感なのですけれど、そのためには日本人も父性原理を獲得しなければいけない、と言っているように思えるのですがどうでしょうか?もしそうだとしたら、日本人が父性原理を獲得して政治や安全保証の議論に強くなるためにはどうすればよい、とお考えでしょうか?
それともうひとつ、先生は仏教を「男性宗教の一つ」と述べていますが、私は仏教は絶対的に人を裁くのではなく慈悲と寛容で包み込むような宗教で、母性的だと感じているのですが、この点はどうでしょうか?
人類の歴史的発展段階を個人の精神発展段階に喩えると、母権社会は口唇期と肛門期に、父権社会は男根期と潜伏期にあたります。父権社会は父なる神の死とともに終わり(まだ神が死んでいない文化はたくさんありますが)、現在は、男女が対等に付き合う思春期といったところでしょうか。
私は、日本がプレモダンな父権社会になるべきだとは考えていませんし、またそのようなことは書いていません。「日本人はもっと大人にならなければならない」と書きました。アメリカへの甘えを捨て、もっと主体的に政治や外交や安全保障を行うべきだということです。
仏教に関しては、原始仏教と日本の仏教を区別して考えて下さい。仏陀は、一方で禁欲的で、女性原理である物質的なものを捨て、他方で男性原理である真理を悟ることを説きました。だから、男性宗教なのです。妻を娶り、肉を食べる日本の僧侶は、女性原理をかなり取り込んでいます。日本人は「仏教は絶対的に人を裁くのではなく慈悲と寛容で包み込むような宗教」だと考えていますが、私が問題にしているのは、仏教を母性的な宗教へと変質させた日本の文化のあり方なのです。
我々は、確かに甘えている。幼児的だと思います。イスラムのこともなるほどと思いました。ただ、ちょっと引っかかることがあります。確かに、縮み志向の典型である盆栽を単なるミニチュアあるいはごっこ遊びとしてみることが出来るのはわかります。しかし、通常盆栽をやっている人は、そうは思っていません。ミニチュアと盆栽は質的に違うと思っています。彼らは、「密度」を問題にしているはずです。つまり、小さな木と大きな木がある。しかし、盆栽は大きな密度をもつ小さな木です。いかなる大きな木であっても盆栽よりは小さいのです。密度が。盆栽は、水中花のように水を足せば、どんな大木より大木になるほどの密度をそなえているのです。
同じことは、特攻隊にもいえます。神風特攻隊がお母さんといったか天皇陛下といったか知りませんが、彼らも密度を問題にしていると思います。つまり、一人で敵一人を殺す。十万人で十万人を殺すのではなく、体当たりをして、一人で千人を殺すということです。一人の死が殺した兵士の数と同等の密度を持つわけです。残酷な等式です。効率といってもいい。我々は、胎内回帰ではなく、この割り算のもたらす魅惑あるいは快感に忠実なのではないでしょうか?
事実、割り算は全く新しいフロンテアを我々に見せてくれます。それは、盆栽と並び称される俳句についてもいえる気がします。少数の単語に宇宙を盛り込むためには、密度を無限にしなくてはなりません。最良の俳句は女性的な短歌と異なり、男性的な微分方程式に似ていると思います。変数の取り方や単純化に天才を必要とします。俳句も盆栽も特攻も日本の男の発明でしょう。永井さんのいう胎内回帰を否定する気はありません。ただ、密度の魅惑はまったく新しいフロンティアでもあるということです。胎内回帰には、外に繋がる穴が空いている場合もあるといいたいのです。
胎内回帰願望は、本文に書いたとおり、「深層心理」であって、表層の意識とは異なります。ミニチュア作りに関しても、本人に幼児的な「ごっこ」意識があるとは、考えていません。表層の意識において、効率を求めている場合であっても、深層はまた別ということがあるのです。
盆栽作りの価値が密度にあるというのは、いかがなものでしょうか。盆栽の木は天然の木よりも、物理学的に特に密度が高いわけではありません。また、盆栽を作っている人は、盆栽の木が大きくなることを望んでいるわけではなく、逆の動機を持っています。
太平洋戦争中の特攻は、そのほとんどが敵艦隊に命中しなかったために、効率はよくありませんでした。むしろ、アメリカ軍に精神的ショックを与えた点が大きかったと言われています。
盆栽の密度ということによって、言いたかったことは、盆栽の木としての密度が高いといいたいのではありません。盆栽は苗木では全くありません。盆栽を褒めるときに、大木の風格があるといったりします。盆栽を苗木から作る場合、まずされなりの幹の太さを追求します。太く大きくなって欲しいわけです。成長し、成熟して欲しいのです。ある程度大きくなると、太さは主要な関心事ではなくなります。むしろ、どの枝を残すか、どの枝をどう撓めるかが問題になります。なるべく、大木にみえるように枝を選択し、後は捨てます。小さく、かわいらしくするのではありません。さらに、葉っぱをこの盆栽に相応しい小さいものに仕立てるべく、葉の刈り込みをします。これも、大きく立派にみせるためです。そうして、太い幹、大木風の枝ぶり、それに見合う小さな葉により、盆栽は小さな大木になるのです。大きな木の風格を小さな空間に実現する。このことが盆栽の密度によっていいたかったことです。何となく、誤解されている気がしてちょっとフォローしました。
別な道から同じ山に登ってみます。例えば、桜が好きと同じ理由で、我々は花火も好きです。花火は、空全面をきわめて爆発的に美しく占領します。最小時間による最大の空間所有です。この、最小ものによる最大の成果が好きなのです。甘えるというのも、最小の努力による効率的な愛情獲得であるがゆえに選択されたものだと思います。我々日本の男にとって、胎内回帰は手段であって目的ではないのでは?
「大きな木の風格を小さな空間に実現する」ということは、要するに、大きな木のミニチュアを作ろうとしているということですね。ただ、盆栽の製作者は、単純に模倣しているわけではなくて、自然の木以上に屈折をつけようとします。これは、体を折り曲げて胎内に戻ろうとする欲望の現れです。盆栽が代表象しようとしているのは、幼児そのものではなくて、幼児の姿に戻りたがっている大人なのです。この点を誤解しているような気がします。
花火の起源は、宋代の中国や14世紀後半のフィレンツェにあるそうです。日本に伝わったのは江戸時代ですから、花火は日本特有の文化ではありません。また、日本人が、他の国民以上に花火が好きというわけでもありません。だから、花火の例は使えません。
なお、甘えについてですが、甘えの目的が愛情獲得であるという指摘も、私の議論に対する反論とはなっていません。
表層における目標とか目的とか見かけの成熟あるいは男らしさではなく、深層における欲動を永井さんが問題にしておられるのだと良く分かりました。深層における欲動が表層では、ほとんどの場合、逆に意識されたり、ずらされているということですね。盆栽をみながら、ほっとする瞬間なんかに深層の欲動が顔を覗かせている気がします。胎内回帰を表層の意図あるいは目的であるように誤解していたのだとわかりました。
ルース・ベネディクトの『菊と刀』は、鋭いところを突いているところもあるとは思いますが、いろいろな理由から批判されていて、最近の欧米の人類学ではあまり素晴らしいものとはみなされていないようです。彼女が批判されている理由の一つは、あまりにも reductionist 的(十把一絡げな、とでも言うのでしょうか)というものです。(ご参考まで)
「標準的な発展を遂げた他の文化圏」については、どういう発展が標準的であるかという基準がはっきりと示されていないように思います。日本が「標準的な発展」を遂げていないならば、「特殊な発展」をしたと言えませんか?私自身は、文化の変化に傾向があることは否定しませんが、何が標準的かは個人の持っている物差しによると思っています。故に、国際的な権力が標準の目安で無い限り、日本を含む全ての地域の文化が「特殊」な面を持っていて、どこが標準とは言えないと思っています。
「罪の文化の人は、もし自分が正しいことをしていると確信しているならば、周囲から笑われても、恥ずかしいとは思わずに、むしろ周囲が無知なのだと考える。」理論はそうなのですが、実際はそう思えないことが多々あります(少なくともカナダでは)。例えば、日本で頻繁に見られる酔っ払いはこっちではあまり見られません。でも、酔っ払うこと自体が罪だと思っているわけではないようです。なぜなら、人の家で行うパーティーでべろんべろんに酔っ払ったり、酔って喧嘩をしたりする人はかなりいるからです。しかし、べろんべろんに酔っ払って道を歩く人は日本と比べたら確かに少ないと言えます。なぜでしょうか?知り合いの人に「なぜ外で酔っ払わないか?」と質問したら、”It is socially stigmatized.” という返事が返ってきました。外で酔っ払うことはその人個人にとって「罪」なのではなく、社会が教えた「罪」ということです。それは「罪」というよりも、「恥」に近い気がします。私の配偶者(カナダ人、哲学専攻)に言わせると、「個人的な罪の意識によって行動をしている、と信じている人は多いけれども、罪と恥の境界線と言うのははっきりしているとは思えない。なぜなら、罪の意識は『社会の恥』から作り出されている場合も多いから」と言っていました。
結局のところ、どこの文化にも多かれ少なかれ「恥」と「罪」は存在するのだと思います。日本人が「恥」と言っている事を欧米人は「罪」と言っているだけということもあるのだと思います。ただ、日本人は「恥」を重んじる傾向があるというのは同感です。日本は個人よりも集団を重んじる社会であり、また日本人は単一民族だと信じている傾向があります。そういった中で、何が普通で何が異常か、また、何が恥で何がそうでないか、という範囲が狭く、そこにこだわってしまうのは理解できないことではありません(決して賛成しているわけではありません)。カナダやアメリカにはいろいろな文化から来た人達が住んでいます。島国イギリスでも、カナダやアメリカほどでないにしても、民族の交わりや対立は日本のそれをはるかに超えています。また、個人主義の発達によって人と人のつながりが希薄です。そういったこともあって、何が普通で何が普通でない、何が恥で何が恥でない、という範囲が広いのだと思います。
日本人が幼児的に見える理由がどこから来るのかは、私自身じっくり考えてみないと何とも言えませんが、「男性革命が不十分だったから」という説明には何かしっくりしないものを感じます。なぜなら、他にも男性革命が起こっていない文化もたくさんあるはずで、その文化の人達が幼児的かどうかは私にはわからないからです。なぜ欧米のようにならなかったか、という質問の答えに対してならそれでもいいかもしれません。
『なぜ日本人は幼児的なのか』では、reductionist 的な表現がとても気になりました。「欧米では、夫が妻のために食事を運び、部屋に入るときには、自ら扉を開けて、妻を先に入れる」そういう傾向はかなり減ってきているようです。おじいさんがドアを開けてあげたりするのは時々見ますが、若者はあんまり気にしていないようです。もともと男尊女卑の表れだったとしても、今現在それをする人は習慣でやっているだけのような気がします。
「そんなことはない。深層心理には男尊女卑があるのだ」と言われるかもしれません。その可能性はもちろんあるし、そう思っている人がいるだろうということも否定はしません。ただ、こちらの(カナダの)女性はかなり大きくて強い(身体的、性格的)人も多く、そういう人達を相手にして「女は、オレたち男が守ってやらなければ生きていけない、か弱い動物だ」という気持ちを持ち続けるのは簡単なことではないように思われますが、どうでしょうか。「(日本の)男は女よりも強くて賢くてえらいのだ」と再三言われ続けても、そういう人をあまり見ないためにそう思えないというのと似ている気がします。
「日本の男にとって、妻が母親の代替物であるのに対して、欧米の男にとって、妻はペットなのである」日本全国の全男性にとって妻は母親の代替物でしょうか?欧米の数十カ国の全男性にとって妻はペットでしょうか?違うと思います。永井さんがそういう意味で仰っているのではないということも想像がつきます。ただ、この表現は誤解を招くと思います。
罪の文化と恥の文化の本質的違いは、規範が絶対的か相対的か、普遍的なのかそれとも周り次第なのかというところにあります。たぶん今でも、否定疑問文に対する答え方は、日本とカナダでは異なると思います。日本では、自分と相手の意見が一致しているか否かで「はい/いいえ」が決まり、英語圏では、内容の是非で「Yes/No」が決まります。
私が言っている標準的な発展とは、最も権力と資本を持っている世界システムの中核(ウォーラーステイン)の歴史のことです。人類学者は周縁の文化を好んで研究するので、文化の多様性に目を奪われます。もし中核が標準でないとしたならば、なぜ半周縁の人々が中核を模倣しようとするのかが説明できません。だから、人類学者以外の学者は、周縁より中核を研究するわけです。
男性革命が不十分だった周縁地域として、日本以外にヒマラヤ山脈周辺を挙げることができます。日本と同様、天然の要塞に守られたこの地域では、日本とよく似た文化が残存しているそうです。また日本以上に女権社会なのだそうです。
ヨーロッパにも、かつてはディオニソス(バックス)的な陶酔を肯定する文化がありましたが、キリスト教の普及により、はめをはずすこと(エロティシズム)の許容範囲は、家の中のような私的な領域へと押し込められました。
人類社会は、現在、父権社会から、ジェンダーフリー社会へと移行しつつあり、またそうなるべきだと私はと思います。男たちが妻をペット扱いしなくなったことは、それを反映しています。
すべてに文章が日本人が幼児的であると言う前提においての文章であり、日本人と外国人の対比が際立っていない、「なぜ日本人は幼児的なのか?」ではなく、「日本人が幼児的であるという仮説に基づいたあれこれ」である。 ~「誰でも死ねば仏になることができる」と信じているのは、日本の仏教信者だけである。この怨霊崇拝とその仏教的変形も、「甘え」で説明できる~ のくだりは特にそれが顕著である、「甘え」で説明したいが為の強引さが浮き出ている。「mother fucker」と言ってアメリカ人が怒るのは「甘え」で説明できる・・・アラーの為に死ぬということはイスラム教信者の「幼児性」をあらわしている・・・このような強引な文章を作ることは誰にでも出来る。私ならそれに続く文章も作って見せる。文章中の言葉は陰にも陽にも使うことが出来るのである。「甘え」「幼児的」はこの程度の意味しか持たない。まるで当らない占い師の「曖昧な予言」と同義、つまり「何事もその言葉の範疇の内」という事である。この場合「何事」には日本人の行動、性格などが入る。 題材は良いのでもっと掘り下げた良い文章が出来るはず間違っても ~日本人が縮み志向であるということは、日本人が大人になることを拒絶しているということである~ というような投げやりな文章を書くべきではない。
「なぜ日本人は幼児的なのか」の1から4までは「日本人が幼児的であることの説明」で、5は「幼児的である理由の説明」です。量的には、前者の方が後者の倍以上もあり、「日本人が幼児的であることの説明」を省略して、それを仮説として前提した上で「幼児的である理由の説明」だけをしているという批判は、当たっていません。
私がここで「幼児的」と言っている発達段階は、精神分析学の用語を使うならば、エディプス・コンプレックス以前の精神段階のことです。フロイトによれば、生後3-5年の男根期になると、男の子は、父親による去勢の脅威に晒され、母子密着からの自立を迫られます。日本の精神文化は、この段階の前で止まっているので、母子密着という甘えが許されるのです。
KSさんが、私の説に対する反証として挙げている例は、私の説の証拠として使うことができます。“mother fucker”という罵倒の言葉は、アメリカ人が母との近親相姦を非常に軽蔑している、つまり男根期以前の甘えを許容しないということを示しています。イスラム教信者が、父なる神に対して絶対的に服従するということも、男根期の特徴をよく表しています。
こうした説明は、「なぜ日本人は幼児的なのか」以前の論文で何回かしているので、わざわざ書きませんでした。KSさんには、「なぜ日本人は幼児的なのか」だけ読んで論評する前に、まずは、「男社会はいかにして成立したのか」あたりを読んでもらいたいです。
僕は「そもそも日本人とは」という論を立てて多様性を切り捨てる思考方法そのものに疑問を感じますが、仮にそういうものがあることを認めるにせよ、古代から現代までの日本をすべて「幼児性」で説明しようとすることには、論理的な矛盾があると思います。一体日本の戦国時代や明治維新をどのように解釈するのでしょうか?
一般的に言って、日本人論は、日本の文化に見られる傾向を論じているのであって、日本人全体に当てはまる法則(そのようなものはない)を論じているわけではありません。
「そもそも日本人とはという論を立てて多様性を切り捨てる思考方法そのものに疑問を感じます」とありますが、民族文化間の差異を否定し、人類一般についてしか論じないならば、それは「多様性を切り捨てる思考方法」ということにならないでしょうか。具体的普遍の論理は、個と種の間であれ、種と類の間であれ、フラクタルに成り立つものだと考えます。
私は、日本の歴史が幼児性ですべて説明できるとは書いていません。私が歴史の解釈で最も重視しているのは、環境(特に気温)と経済との関係です。戦国時代から明治維新にかけての権力の集権化は、近代小氷期によって惹き起こされた世界的現象であり、日本にのみ特殊ではない以上、日本人論の対象ではありません。
ご指摘の点は御尤も思いますが、日本語の特質が根底にあるかのように思えるのですが。また古来より知識階級、宮中人は歌により、自分の考えなどを表す嗜好に重きを置いたのではないでしょうか?論理の展開ならば、漢文の方がより適切ではなかったのかと思える一方で、候文はその中間にあると拝察しますが。いずれも知性が翳ると、これらの特性は幼児性を容易に誘発するのではないでしょうか?
日本語の特徴として、主語を表示する必要がないこと、述語動詞を最後に置くことを挙げることができます。これらは、責任主体を不明確にし、結論を先送りにする民族特性に合致しているかのようです。「無責任の体系」や「問題の先送り」を続けているならば、日本の政治家は大人とは言えないでしょう。
叙情的に流されやすい我等の特質は、日本語の特質にあるのかとも考えますが、昔の知識人は漢文を得意とし、込み入った論理の話は漢文でやり取りをした感もあります。現代、我々は口語文一種より持ち合わせていない、文化的にはかなり低落した状況ではなかろうか、さりとて漢文や候文を操れる教養もないジレンマにあると思料しております。
父権社会の次の世の中はどんなしゃかいですか
別の表現を使うならば、父権社会のように権威が超越的で外的ではなく、内在化され、主体化されている個人主義の社会と言うことができます。
注意)「名前」には自分のペンネームを入れ、「永井俊哉」は避けてください。「自己紹介用URI」がない場合は省力してください。「投稿」は一回だけ押してください。
日本人は欧米人より初潮年齢が早く、
歯冠が大きいから幼児的ではありません。
日本女性の閉経年齢は欧米人と変わりません。
ネオテニーに人種差がない証拠です。
ネオテニー理論自体が穴だらけ、こじつけ、矛盾だらけだ。学業でもスポーツでも、日本人が早熟型で白人が大器晩成型という結果になっている。アメリカの子どもは平均的に8~9歳になって文章が読めるようになるというから、日本と比べるとずいぶん遅い文字の習得だ。実際に、9歳児の学力を調査すると日米で雲泥に差があるが、大学院までに追い上げられる。白人のほうが早熟なら、大学院のレベルは小学生よりずっと開いてなければならないはずだ。スポーツもしかりで、リトルリーグの世界大会では東アジア勢が圧倒的に強い。高校野球も日本が強いが、大学野球でアメリカに追いつかれプロ野球で逆転されるのがむかしからのパターンだ。結果的には、日本人のほうが早熟型になっている。松坂大輔は高卒で最多勝になっているが、MLBでは考えられないことだ。
ネオテニーとは、幼生形のまま成長することであって、成長しないことではありません。また、私は、冒頭で「日本という国は、経済的には大人になったが、文化的・精神的には幼児のままであり、その意味で、ネオテニー国家だということもできる」と書きました。ですから、私がここでネオテニーとして指摘しているのは、身体的・知能的発達のことではなくて(この点で発達が止まれば経済大国になれない)、文化的・精神的発達のことです。もっと具体的に言うと、日本人には、去勢体験が希薄であるということです。
私は、
1.親に依存している、子供時代(思春期まで)
2.自立する、青年期
3.他者と社会を正しく理解する、成人期
と理解しています。
ただし、現実には、社会性の成長が思春期や青年期で終わってしまう人は多いです。
> 現在は、男女が対等に付き合う思春期といったところでしょうか。
対等な男女とは、自立の発想ですし、青年期の終わりの発想だと思います。さらに、父権社会というのも、自立の発想だと思います。(日本はともかく)世界社会は青年期まで社会性を身につけていると思います。
> 父権社会の次の世の中はどんなしゃかいですか
に関しては、私は、成人期に進むと考えています。
「貨幣を使う」というのは、自立を表していますが、貨幣には、他者の理解は存在していません。
> 互酬性原理の優位は、日本に限らず、プリミティブな社会では広く見られる。
に関しては、「もらった人に返す」という「閉じた互酬性」(この単語の専門用語が分からなくてすいません。こう呼ばせてください。)は1の子供時代の発想ですが、「赤の他人であっても、相手をしっかり理解して贈与する。贈与した量と、頂いた量のバランスはとれていても、もらった人に返すわけではない。」という「開いた互酬性」に進むと思います。
単に、「相手の理解を伴わずに、貨幣で交換する」というのは、2の青年期の発想だと思います。
いかがでしょうか?
貨幣はファルス的存在であり、家庭内ではこれを父で置き換えることができます。プリミティブな社会における互酬性は、純粋な貨幣を媒介としない物々交換であり、父を媒介としない母子の想像的交換に対応します。私の反復説については、「リビドー発達段階史観」も御覧ください。
日本人は他の人がこうだからこうできなければだめなどと子供に教えたりしていますが、もしわが国にもイスラム教キリスト教仏教などの世界宗教が普及されたりしてたら子供の教育も変わっていましたか。
それに近所付き合いを大切にするのも日本人ですが。
他の文化圏ではそれほど近所付き合いは大切にしていまいのですか。
日本では、神と人との垂直的関係よりも、人と人との水平的関係が重視されるというよりも、神と人との関係までもが水平化されているというところが特徴的です。父権的文化が多神教的でないのは、神と人との関係を垂直的な、絶対的優劣の関係にするためと言ってよいでしょう。
本文では、「罪の文化から見れば、恥の文化は幼児的に見える」としていますが、これは、
恥の文化から見れば、罪の文化は幼児的に見える。
なぜなら、絶対的な善悪の存在など幼児しか信じないからである。
とも言い得てしまうのではないかと考えます。
罪の文化が幼児的に見えるか否かはさておき、上記言説の趣旨は、他文化から幼児的に見えることが、真にその文化が幼児的であることの証明にはならないのではないかということです。
「なぜ日本人は幼児的なのか」という本文のテーマに対し、「日本文化を幼児的と見る文化(本文の趣旨からは欧米文化と推察される)の視点からは幼児的に見えるからである」では説明にならないと考えます。
以下の分析も日本文化を幼児的と見る欧米文化の視点から検討しているように思えます。結局、本文は筆者が日本文化を幼児的と見る文化の視点に立脚していることを述べてるだけなのではないでしょうか。
それならば、本文のテーマは、「なぜ日本人は欧米文化から見ると幼児的に見えるのか」が正しいのではないでしょうか。
次に、「日本文化が幼児的であるのは、日本では男性革命が不十分だったからだ」とする本文の見解によれば、すべての文化について、男性革命が不十分な段階では幼児性があることになり、胎内回帰願望によって縮み志向があることになります。
とすれば、男性革命以前もしくは不十分な段階の文化は、すべて小さな箱の中に縮んで入りたがるとか、「…ごっこ」という遊び心でそのミニチュアを作りたがる傾向がなければならないことになってしまいます。
この点について根拠があるのでしょうか。
本テーマ全体について、何故か他のテーマのように分析が鋭くなく、証明も粗いように思えます。これは、読み手の側にも本テーマ特有のバイアスがかかってそのように感じる側面があるのでしょうが、筆者の側にも本テーマ特有のバイアスがあるのではないでしょうか。
本論で言っている「幼児」とは、前エディプス期の幼児のことです。
こう言う時の「幼児」とは、エディプス期(男根期)の幼児で、リビドーの発展史からすると、前エディプス期よりも後の段階です。エディプス期は、生後3-5年ですから、たしかに、慣用上「幼児」と言ってよいのですが、エディプス期から見ると、前エディプス期は、より幼児的に見えます。
例えば、エジプトでは、文明が成立する以前は、屈葬をしていました。母権宗教における偶像崇拝は、神のミニチュアを作ることに基づいていますが、これは父権宗教では禁止されています。世界中どこでも、かつては母権的文化があったという私の仮説は、仮説に過ぎませんが、『浦島伝説の謎を解く』は、この仮説の補強に役立っていると思いますので、興味があれば、お読みください。
集団主義は日本だけではありません。
伝統的に稲作をしているところは、土地当たりの扶養可能人口が高いので、集団主義になります。しかし、小麦を作っているところは、人口密度が低く、個人主義的になります。
>人類の歴史的発展段階を個人の精神発展段階に喩えると、母権社会は口唇期と肛門期に、父権社会は男根期と潜伏期にあたります。父権社会は父なる神の死とともに終わり(まだ神が死んでいない文化はたくさんありますが)、現在は、男女が対等に付き合う思春期といったところでしょうか。
この見通しは楽観に過ぎるように思います。人はその生育暦から宿命的に口唇期なり男根期なりにコンプレックスを持たざるを得ないのではないでしょうか?それでも何とか折り合いをつけて生きていくしかないのが現実ではないでしょうか。エディプスコンプレックスなりアジャセコンプレックスなりを抱くのは、程度の差こそあれ、人として免れない状況だと考える立場もありえましょう。
ジェンダーフリーというのは、キリスト教的父権社会が揺らいでいる過渡的な状況の中で出現したあだ花に過ぎないと見ることも可能でしょう。男女平等社会を推し進めてきた先進国では離婚の増大とか未婚化、晩婚化、少子化に苦しんでいるし、性の同一性・境界性が揺らぐという問題もあります。人口過剰な異民族の流入という問題もあるでしょう。情報化社会の要請という側面は否定できませんが、なんとか男女平等社会が安定したとしても、それはジェンダーフリーというより、男女の役割分担と社会機能の再編集という形に落ち着くでしょうから、結局は父権文化と母権文化が混在したような折衷文化という形が予想されます。むしろ、地球環境問題の方が深刻で、母権文化復活という流れになるんじゃないでしょうか。
フロイドやマルクスが考えたように、歴史は必ずしもキリスト教的な直線的進化の過程ではないと考えることもできます。そのような立場から見れば、人類史の中に現れた極めて父権的な一神教(ユダヤ・キリスト・イスラム)は、ユダヤ民族の危機的状況から端を発した病的な文化で、たとえば世界に多大な迷惑をかけた、かつてのナチスや共産主義のように強力な感染力をもって一時的に世界に拡大したと見ることも可能でしょう。特別なことがなければ、普通は母性の中にまどろんでいるのが人類の基本的姿だという視点もありうるでしょう。父権文化の人々から見ると母権文化の人々が幼児的に見えるというのは、相対的な問題に過ぎないんじゃないでしょうか、一種の文化的偏見に過ぎないと・・・。日本は父権文化に対抗するために、危機に際して戦前の天皇制みたいな擬似父権文化をつくらなければならなかっただけで、父権文化になる必然性を持ってないですね。もうチョッと大人になれというより、白人や中国人にどう対抗するかという問題だと思いますが。経済力だろうがなんだろうが、上手に対抗できればそれでいいわけでね。
また、原始仏教を父権的宗教と見るのは難しいと思いますよ。永井先生自身、むずかしいとおっしゃってますね。ガウタマは自発的虚勢によって母権を放棄し、同時に父権を拒絶したといってますね。それが後の仏教徒がブッダを神格化して父性宗教にしたのだと。ところが、後の仏教は必ずしも父性宗教じゃないですね。それは日本仏教だけじゃなくて、如来蔵思想などインド大乗からしてそうですね。そういえば、一見父権に見える阿弥陀仏も、住んでいるのは天でなくて、西方十万億土の彼方ですね。部派仏教だって母性を象徴する大地に根を張った菩提樹信仰もってますからね。初期の仏伝でもガウタマの悟りを証明して悪魔を追い払ったのは大地の神だとされてます。つまり父権も母権も混在しています。揺れ動いています。
法を信仰するから父権だという主張も、どこまで精密に論証できるかはなはだ疑問です。原始出家集団に限ってもガウタマは筏のたとえで究極的には法も捨て去るべきだといってますし、阿羅漢になれば戒律を守るという意識はなくなるそうですし。法自体、母なる大地でも、父なる天でもない、ニルヴァーナに到るためのものですしね。結局、ガウタマの時代に、太陽黒点のせいかどうかわかりませんが、一時的に母権社会が揺らいだくらいのことしか言えないのではないでしょうか。イスラム教徒をのぞけば、おそらくインドは今でも多神教的母権文化ですよ。
歴史的父権革命仮説は、マルクス主義史観と同様、一見いろんなことを説明でき、未来予測までできるように見えますが、実際の歴史はそうそう単純ではないと思います。それは、ジェンダーフリーの行く末を見れば、歴史が明らかにするでしょう・・・。
「見た目(経済)は大人だが中身(文化・精神)は幼児」というなら、その意味はネオテニーとは反対ではありませんか?
ネオテニーで例えるなら「幼稚っぽく見えるが実は成熟している」つまり「文化的・精神的な面で幼児的な特性を保持しているが、すでに文化としては成熟している状態」といった方が適切な気がします。
揚げ足取りみたいな指摘になりますが。
また、
とありますが、今日まで幼児性を保持しつづけた国家の例が日本のほかにないのであれば、十分「特殊な発達を遂げた」と言えるのではないでしょうか。特殊性を否定し、その幼児性を強調すればするほど、逆説的に特殊であると結論付けられているように感じました。
ネオテニーとは、生殖能力があるにもかかわらず、生殖能力がない子供のような要素を持っている幼態成熟のことです。日本人に生殖能力があるにもかかわらず、生殖能力がない子供のような要素を持っているなら、それをネオテニーと呼ぶことは、本来の意味から大きく逸脱しないはずです。
なお、私が特殊でないといったのは、かつて世界のどこにでもあったという意味で、今どこにでもあるという意味ではありません。「日本の文化や日本人の精神が精神が特殊な発達を遂げたからではない」という一文は、確かにミスリーディングですが、私としては、幼態成熟が特殊でも、幼態自体は特殊ではなく、どの生物も一度はその段階に発展するという意味で書きました。
はじめまして、突然お邪魔致します。私も20年前に大学の比較文化論の授業で勧められた「菊と刀」「甘えの構造」「タテ社会の人間関係」を読んだのを思い出しました。私自身はキリスト教徒(カトリック)で、2006年4月までの12年間を主にドイツやイギリスで過ごし、4年前から中世ドイツ語をヘブライ文字で書いたイディッシュ語の学習と平行してユダヤ教についても学んでいますが、改めて本帰国し日本企業に就職したものの「あれっ?」と戸惑う事が多い毎日です。実際に2006年12月には、たった3ヶ月間働いた会社でクビになってしまいましたからね(その原因は、私の性格がガイジンだから!)。それ以後も日本の社会について色々と考え、東京在住のドイツ人の知り合いなどと一緒に日本の社会について話し合いをしています。その際に、日本で暮らす外国人の為のカウンセリングをされているMatthias Kaemper氏からお教えして頂いたアドバイスを英語でまとめてサイトにしてみましたので宜しければご覧下さい!(欧米人の友人の為に英語で書きましたので、日本語で書きます。)
①どんな事があっても、無条件に「済みません」と言いなさい。ドイツ人のようにシリアスになって論理的に言い訳してはいけません。日本人はそんな真面目な人が大嫌いです。日本人と仲良くなりたければ、バカな話や
テレビの話をしなさい!ドイツ人のように哲学的なシリアスな話題は日本ではタブーです。
②出来れば、大袈裟に泣きなさい。ホリエモンも泣けば、皆さんから攻撃されなかったのです。そして、日本人は、何事でも泣けば赦してくれます。ドイツ人のように失敗の責任を感じずに済みます。
一般論として、ドイツ人にとって泣けない時に日本人は生まれ付き、すぐに泣けるようにインプットされているのですから。。。でも無理に日本人の真似をしなくてもいいよ♪w
③日本では、自分の功績は皆さんのお陰になりますが、失敗は連帯責任となるので、別にその失敗を深刻に悩む必要はないですよ。
④日本では、会社は人間関係の重要な鍵であるから、その会社を辞めた人とはもう交流しなくなるのが当然なのです。だから、貴女が○立ソフトでお付き合いしていた伊藤氏からメールがもう既に届かない状態になっていても我慢しなさい!彼にとって貴女との関係よりも、○立ソフトの会社の人達とのつながりの方が大切なのですから。。。(涙)
※日本人男性を好きになるのは止めなさい!どうせ、、ガイジン女と日本人男性のカップルなんて珍しいんですから。。。日本人男性は感情的で頭が空っぽで、結婚しても妻は単なる癒しであって、お互いに意見を交換したり、共に精神的な成長に励んだり、精神的なつながりなんてどうでも良いと思っているんですよ。だから、日本人男性は会社から遅く帰宅して妻との会話が無くても全く平気な人達なんですよ。でも、それが日本では普通だから、誰も何も文句を言わないのです(涙)。
⑤日本で働きたければ、日本人にしか分からない日本の社会の暗黙の了解を知りなさい!
・・・以上の5つでした。
一応、彼からのアドバイス通りに現在の職場では振舞っていますので、どうにか仕事は続けています。
それから、私からのちょっとユダヤ教とキリスト教について付け加えて頂きたいモノがあります。
>彼らには、家族を守る父親としての責任もあったので、無駄な死を避けて捕虜となることは、少しも恥ずかしいことではなかった
●あの・・・これについてですが、この意見も正しいと思います。しかし、「欧米人=キリスト教徒&ユダヤ教徒」と考える時には忘れてはならないルールがあるのです。それはキリスト教徒とユダヤ教徒は、「自殺」が禁止されていると言う事です。それでユダヤ教では「安楽死」でさえ厳しいルールがあり、「active & passive」,「active & active」,「passive & passive」のように安楽死を望む患者とその家族に対しても「自殺」は「罪」であるとの理念があるので安易にはユダヤ教のラビから安楽死の許可が出ません。これは東京シナゴーグのラビであるRabbi Henri Noachからお教えして頂きました。キリスト教でも同様ですね、神父からの許可が必要ではないにしても、「自殺」は「罪」ですから死後に天国へ行くと言う考え方はまずありません。だから、キリスト教徒の私から言わせると、日本人が何故にあれ程までに「お花見」が好きなのか理解出来ない状態です。春に咲く花ならば、マグノリアの方が美しいと思いますけど・・・。その「武士が桜のようにパッと散る」様が美しいと言う意味さえ知らない日本人も「お花見」に拘るなんて、その集団心理と言うか、「皆がキレイ!」と言えば多数派意見で「それじゃ~、僕もキレイと思うよ!」なんて簡単な理由から「お花見」をして騒ぐのも変だと思いました。
>「恥の文化」と「罪の文化」
● これは、ルース・ベネディクトが言い出したモノですが、確かに「罪の文化」には甘えがなく厳しい社会だと思います。例えば、ドイツ語で「eine falsche Schlange(蛇女)」と言う単語があります。これは「エデンの園でアダムとエバを騙した蛇のように、他人に嘘を吹聴して間違った道に導く根性の悪い女」を意味します。だから、欧米では「腹黒い人間」はキリスト教が意味する「罪人」です。それで相手に対して具合いの悪い事でも正直にストレートに話したり、嫌いな人に対しては全くコンタクトを取るのを止めます。でも、そんな時にでも私とほんの2、3回しか某サイトで会話した事のない日本人でも甘えなのか開き直りなのか、、、変な事を言い出すんですよね、「仲良しほど喧嘩する!」と。これは全くの誤解であって、私は相手に「貴方は失礼な人です!」とストレートに伝えたくて言ったにも関わらず、その男性は「僕と君は仲良し!」と誤って理解してしまったのでした。そして、オマケに仏教徒もキリスト教徒も同じ人間だから「情」で分かり合えると信じていたみたいでした。ヨーロッパ人である私が「貴方は失礼な人だから嫌いです!」と言った時には、嫌い以外の何モノでもないんです。サイトで会話しただけなのに、「仲良しほど喧嘩する!」はないだろう!本当に、仏教とかは全く関係ないと思いますが、日本人は相手が自分の思う通りに行動する事を無意識に期待しているし、何も言わなくても自分が思うように行動してくれるだろうと信じ込んでいるのも「甘え」だと思いました。別に、欧米人は個人主義だから、そんな相手に合わせて行動する義務があるなんて考えませんから。他人である私の行動をコントロールする権利なんて、親でもない「貴方」には全く無いのですから。私だって神から与えられた自由意志を持つ一人の人間なんです。私が「貴方」の期待通りに行動しなくても私は何でもないし、それは「貴方」の問題であって、私の問題ではありませんし。
ちょっと最近、日本で遭遇した問題についてのウップン晴らしをしたような意見になってしまい申し訳ありませんでした。
>>tomoching2さん
日本人って本当に甘ったれですよね。
私も最近、ある掲示板(「議論する掲示板」と利用規約に書かれています)で発言したら、私の発言を他の人が論理的にずれた解釈をしてしまったんです。
そうしたら、その話題に参加している人たちが、
「おまえの発言が言葉足らずだから、誤解させたおまえが悪い」
と言うんです!
私の発言が言葉足らずだったのではなく、私の発言を論理的にずれた解釈をした人が悪いと思うのですが、彼らに言わせると
「議論の場であっても、発言が誤解を招かないように配慮すべきだ」
ということなのだそうです。
これっておかしくないですか?
議論の場で他人の発言に不透明な部分があったなら、自分からその点について真意を確認するべきであって、他人が全てわかりやすく説明してくれるのを最初から期待しているのは、「甘え」以外の何物でもないと思います。
私も性格がガイジンなので(カトリックの高校に通って授業でキリスト教を学んだことが一因だと思っています)、日本人の「甘え」の精神構造には反吐が出ます。
>幼児的であることは、必ずしも悪いことばかりではない。世界的にヒットした小型製品や、世界的に高く評価されているアニメや漫画を作り出すことができるのは、日本人の幼児性のおかげである。しかし、政治や外交や安全保障の分野では、幼児的であることは、致命的な短所である。これまで、日本は、経済では一流だが、政治では二流だといわれてきた。政治や外交や安全保障の分野で一流でありたいと願うのであれば、日本人はもっと大人にならなければならない。
この結論についてですが、「政治や外交や安全保障の分野で一流」とは、どういった状態を言うのでしょうか?現在の主権国家の中で、外交や安全保障や政治が一流である国はどこですか?
現在日本人の生活水準や、物質的豊かさは世界屈指です。政治や外交や安全保障が他国よりも劣り、精神的に幼児的な国民により構成されている国家が、経済的にのみ豊かになるということが有り得るのでしょうか?もし有り得るのだとしたら、現在の世界は、多少国民が甘ったれていて幼児的であっても、十分豊かさを確保できる状況にあると考えれます。もっと言えば、その方が現在の世情に経済的には有利に作用しているのかもしれません。
比較的成熟した大人の精神性を持つ国民により構成された国で(欧米ですか?)、なぜ日本より政治的又は、安全保障において、より深刻な問題を抱えた国があるのでしょうか。
根本的にに幼児性を有すことで、その時代の世情に応じて、柔軟に変化できる可能性を常に確保している、そういったバランス感覚が日本人にある、とは考えられませんでしょうか。少なくとも大人よりも、子供の方が環境への順応力は上だと思います。
「強いものが生き残るのではなく、変化に対応できるものが生き残る」とよく言われますが、そういった意味では、多少幼児性があるほうがいいような気もします。
政治や経済において、全ての事項においてベストの選択は無理だと思います。要は、バランス感覚ではないでしょうか。国家の政治の目的は、国民が豊かに、安全に生活できることですから、今の日本は少なくともその水準は相対的に高いレベルで確保されていると思います。政治や外交に駄目出しをすれば、どんな国だっていくらでもあります。
大人になる必要があるのでしょうか?
>日本人の「甘え」の精神構造には反吐が出ます。
居住している国の、国民の精神構造に反吐が出るなんて言ってるほうが、甘ったれていると思います。違いを許容できない人は、大人とは言えないと思います。
日本が冷戦時代に経済的に成功できたのは、米国が、日本の親として、政治や外交や安全保障の分野でよく面倒を見てくれたからです。80年代後半以降、米国が日本を敵視し始めてから、日本経済は悪化の一途をたどっています。もしも、日銀が、ブラックマンデー以降の米国を助けるために低金利政策を維持していなかったならば、日本政府が、米国の助言を真に受けて、内需拡大のためと称して、リゾート開発に血道をあげていなければ、日本の経済は今頃こんなにひどくはならなかったでしょう。日本経済を立て直すためには、外国に言われるがままの政治しかできない現在の日本の政治のあり方を変える必要性があります。
当に筆者の仰る通りです。あまりにも知的な記事なので、びっくりしました。私は外国の者で、日本を外から見ていますので、ある程度客観的に観察のできると思います。確かに日本の方々にはある程度幼児的な性格の持ち主はいます。人はまちまちと言いましても、ある程度一般化しますとそう言えます。当に筆者の通りでございます。こんなに知的で、ちゃんとした記事は珍しいです。但し、こちらから伺いたいのですが、日本の方々は幼児的ではありますが、世界の一流の技術を持っている国のひとつである限り、そのままでも良いではないでしょうか。“大人”荷ならなくても良いではないでしょうか?
新しい技術を開発するには、幼児的な遊び心が必要ですが、それを実用化し、普及させていくには、リーダーシップのある大人の経営者と大人の政治家が必要です。日本のように、後者が弱いと、潜在的に有用な技術が死蔵されてしまいます。一流の技術を生かすことができないということは、日本にとってのみならず世界にとって不幸なことです。
ごもっともでございます。では、どうやって“大人”にさせるのでしょうか?。教育でしょうか?
ロバート スミスさん、よくも、悪くも日本は外国に依存していす。外国のなければ、今の日本は今のような発展を遂げなかったと思います。外国は日本製の高くて質のいい製品を買わなくなると、日本の企業はどうなさいますか?良くも悪くも、外国から離れません(ま、鎖国しない限りネ:ー)))。。確かに経済を立て直す必要はアルと思います。但し立て直すなら全世界の金融体系です。現実的にしなければならないのではないでしょうか?
大人の指導者を育てるには、企業なり国家なりの意思決定システムを変える必要があります。日本では、長老たちが密室で物事を決めるということが多いのですが、これだと責任の所在がはっきりしないし、戦略的な一貫性を欠くことになりかねません。ですから、民主的なプロセスで指導者を選び、そしてその指導者に権限と責任を持たせるようにするべきでしょう。例えば、首相公選制を導入するとか、株式の持合をやめて、株主民主主義を形骸化させないようにするといったことが必要だと思います。
菊と刀といえば、この随筆を思い出しました。
悪らつな書『菊と刀』
後一ついい加えたかったのは、あくまで、私の経験なんですけれども、日本の方の幼児的さはよく個人付き合いとかで現れます。仕事なら、他国とそんな違いはないな様なきがします。
What exactly do you mean by “gender free”?
The ideal of “gender-free” in Japanese is equivalent to “gender equality”. You can find similar strange English expressions in Japanese websites, such as “link-free”, which means, “You can freely link this website without my permission.”
>日本には、いつまでも咲き続ける梅の花よりも、すぐに散ってしまう桜の花を愛する独特の美学がある。
日本人の幼児性は理解しますが
梅の花は年中咲いてません
http://minabe.net/gaku/hana/kaikazensen.html
桜との対比でそう書いたのですが、たしかに、文字通り取れば、永遠に咲き続けるという意味になってしまうので、「長い間咲き続ける梅の花」と訂正しました。
土居健郎氏の訃報記事よりまいりました。
「日本人幼稚論」たいへん勉強になりました。
ただ、残念なことに論証における前提であるところの例文に
いささか難があるような気がいたします。
>イスラムの男性が、日本の年配の女性に席を譲ったところ、
>その女性が、深々と頭を下げてお礼を言った後、
>彼女のいい年した息子を座らせたのを見て仰天したといった類の話もよく聞く。
こんな話は”よく聞く”はずがありません(苦笑)
イスラムの方と乗り合わせて、席を譲られて、さらに息子を座らせる
果たしてどれほどの確率でしょうか。
私は仕事上、イスラエルの方と同席させていただくことがありますが
このような場面にはでくわしたことがありません。
さらに言えば、妻を手ぶらで座らせておくほど男性的なイスラムの方が、
「老母と息子」に出会う日に限って、
毎回座席に座っていたというのもおかしな話です。
一度はあるけど二度は無い、都市伝説の域を出ない話だと思います。
こういった例え話は、実証にあたるとても重要な部分です。
実証がいいかげんでは、どんなに素晴らしい仮説も認められることはありません。
永井先生にはぜひとも新たな実証を添えた「日本人幼稚論」を
語っていただきたく存じます。
台湾でも、親はいい年した子供に(乗り物の)座らせるのは、普通ですよ。でもなぜでしょう?
台湾ではかなりジェンダーフリー化しています。上司が女性であることは、しょっちゅうです。年齢も関係ありません。
台湾は仏教より、土着の道教的宗教が普遍的ですが、ものの考えからとしては、どちらかというと「罪の文化」という感じはします、何でもはっきり聞きますし。でも結構幼稚なところもあって、日本にかわいらしいアニメキャラクターに夢中な人は多くいます。恋愛ごとで、相手にこれだけしてあげたから、相手もそうしてくれるだろうと過度に期待する様子は、日本人以上で、私からみれば、そうとう幼稚な感じはします。でもこれって「give and take」の大陸的な契約概念にもとづいているだけなんでしょうか?
私個人としては、してはいけないことをしなければ非難されない社会でいきるほうが楽です。年齢ごとにしていいこととよくないことの暗黙的なよくわからない決まりごとがある社会(特に学術関係はかなり縦社会な感じがします。)は、優秀な人材を無駄にしているようにおもえます。
ですが、縦社会で育ったほとんどのひとは、それになれているようで、それが自分に身にあっていれば、別にそれもいいのだと思います。社会全体がそれでうまくいけば一番いいのではないかと思います。無理にかえようとしてシステムを変えても、実態が付いてこないというのは、日本の法律と同じと思います。ただしそういう社会が他の先進国を相手に外交するのをみているとなんだか幼稚だな~と思ってしまいます。
まとまりのない文ですみません。
前文に続きますが、永井先生のおっしゃることは理論的には理解できますが、日本人に「もっと大人になろう!」と呼びかけて本当に人々が自覚するのかはちょっと疑問です。人の思考方法を変えるのは相当大変だと思います。新しく”導入”された陪審制など、欧米の殻(システム)を思考回路の違う日本に当てはめようとして日本人は困惑していると思います。一般の人々が裁判は陪審制であるべきという観念が通用している社会でこそ、陪審制はうまく働くわけで、日本のようにお上が採決を下してくれるという観念が普及している社会では、単に迷惑モノのように思えます。私個人は「恥の文化」的社会は肌にあわないのですが、それを批判するつもりはなく、変えなくてはならないとも思いません。日本国内はそれでうまくいっているのですし、今の文化的概念は日本経済の成功のもとなのですから、それを変えてしまうのも、失ってしまいかねないこともあるかもしれません。「恥の文化」にもとづいた幼稚な観念がいやな人はわたしみたいにアジアやヨーロッパ、アメリカに出て行って自分に合うところを見つければいいのです(私は決してたいした人間ではありませんが、日本は優秀な人物を流失してる可能性は結構あるかもしれませんね~)。それよりも、日本の「恥の文化」的思考は海外では通用しないことを自覚したうえで、外交の際には、そういった点をわきまえているスペシャリストを雇って、そのスペシャリストに日本の希望や条件をしっかり伝えて協議に力を尽くしてもらうほうが、ちんぷんかんぷんな外交にならなくてすむような気がします。
思いつくままに書いてしまってまとまりなくてすみません。誤字脱字あると思います。
日本が、日本文化のネオテニー的性格を維持しているのは、それが必要であるからという見方はないのでしょうか。何でも欧米が良いという見方でしか、世の中を捉えられないとしたら、もし、欧米が人のあるべき姿から逸脱していたとしたとき、リカバリできる要素を摘むことになるような気がします。大人になる必要が本当にあるのか。大人にならないのに、大人とつきあえる存在が、必要とされているから、日本が存在しているという見方もあり得るような気がします。甘えの構造である日本社会は、基本的には、そのままで良いようが、対外的な部分で、補完できる人材を育成し配置できるシステムが整っていればそれで充分であるという考え方もあるのかなという気がします。
「イスラムの男性が、日本の年配の女性に席を譲ったところ、その女性が、深々と頭を下げてお礼を言った後、彼女のいい年した息子を座らせたのを見て仰天したといった類の話」という表現における類(たぐい)に注意しましょう。これと全く同じ内容の話を何度も聞いたということではありません。
例が足りないというのなら、もう少し付け足しましょう。欧米では、主人(ホスト)が、料理や飲み物をふるまうのが習慣ですが、こういう光景を見慣れている人からすれば、座ったまま、奥さんから与えられた食べ物や飲み物を口にしている日本の主人は、まるで母親に食事の世話をしてもらっている子供のようで、幼稚に見えるそうです。
こういった「類」の話は、よくあるでしょう。
大陸から海によって隔てられ、大陸の強大な軍事力によって奴隷になった体験の少ない島国民族には、去勢以前の文化が淘汰されずに温存されていることが多いです。台湾人は、日本と同様に、島国民族なので、大陸から来た中国人を除けば、幼児性を残しているのでしょう。なお、同じ島国といっても、イギリスのように、大陸からの移民によって何度も征服され、原住民がほとんど残っていないようなところは、日本とは異なります。
主体性の欠如がもたらす弊害は、外交にのみ限定されるわけではないと思います。フォーディズムの時代が終わった以上、国家や大企業に甘えて依存する国民の意識を、今後は変える必要があると思います。
お返事ありがとうございます。楽しく読ませていただいてます。ちょっと気がついたことがあるので投稿させてください。
台湾は清朝時代から福建省から移民してきた漢人が人口の大多数を占めているので、感じとしては台湾は”イギリスのように、大陸からの移民によって何度も征服され、原住民がほとんど残っていない”という感じはします。原住民は山地地方に多く住んでいますが、漢人による保護政策で守られているという感じで、居住地帯の地形と政策で事実上隔離されているようなものです(隔離は決してされていませんが)。台湾の主な言語は漢人の言語である北京語と台湾語(ミンナン語)ですが、どちらも文法的には同じ(発音はぜんぜんちがいます。ミンナン語は古文に近い)ですし、それらの言語の文法的な構造はかなり英語に近い感じがします。台湾の男性は一般的に女性に服従している感じで、日本の男性のように「女は三歩下がってついてこい」という、永井さん言葉をお借りすれば日本人の男性にありがちな”幼稚”な夢は毛頭も持っていない感じがします。かとはいえ、西洋人の男性が女性を”ペット”扱いするようでもないのです。どちらかといえば、「女にはかなわないから、服従する」というような、女性に降参しているような感じです。台湾の歴史をかんがみると、いろいろな国から征服されていますが、大してどの統治者にも大して反抗しないで受け入れているといった感じで、韓国人が持つ過去の統治者(国)への反感感情もほとんどなく、どちらかというと私にも理解できないほど日本の文化にかなり親近感があるような感じです。それから叙情的に流されやすいと言った感がよく見受けられ、その点では日本人にかなり似た感じはします。台湾語や北京語は、かなり無駄のない、英語よりもかなりロジックな言語であるのに、そういう言葉を操る人たちが、叙情的に流されやすい性格をしているのは、なかなか理解できません。とはいえ、西洋人のように「何でもはっきりさせないと相手は理解しない」という考えが基本的で、あうんの呼吸で通じるという考えはないようです。不思議な国ですね。またまたまとまりのない文ですみません。。。
記事を読み
筆者自身がどのような人間なのか少し気になりました。
実際に自分が体験したこと、聞いたことではないことも
自身の頭の中で勝手に決めつけ記事を書いているような印象を強く受けました。
真剣勝負は一瞬で決まる
短くて当然なのです
エロい人にはそれがわからんのです
よく日本人は「短命の人に惹かれる」と聞きますが、これは「源義経の判官びいき」が起源でしょうか?これも幼児的の1つと捕らえると、若い人に惹かれる事(現代風に言うと「萌え」の概念)が幼児的でしょうか?また「老害」と言う侮辱言葉があるように、日本人は昔から高齢者に冷たい部分があります。最近では「若害」と言う言葉もあり、また「若害を撒き散らした人は老害を撒き散らす事はない」と言う新しい格言もあります。日本での幼児的文化は古来からありました。
最後に「幼児的」と「幼稚的」の違いはどこにあると感じますか?
「短命の人に惹かれる」という話は聞いたことがありません。「老害」という言葉はよく耳にしますが、これは、年齢とともに地位が高くなる年功序列社会においては、地位と能力のギャップが生じやすくなることが原因でしょう。「幼稚」には侮蔑的なニュアンスがありますが、「幼児的」は一般にはそうでないし、少なくとも、本稿では、価値中立的な意味で使っています
先日「短命の人に惹かれる」と書いたのは、本文中の「(日本は)長く咲く梅より、すぐに散る桜を愛する美学」の部分と、若くして非業の死を遂げた戦国武将や、幕末の勤皇の志士や新撰組の隊士のファン(その生き方に惹かれるという意味。最近では若くして死んだ名優や人気歌手が該当)が近年増えているという事を踏まえての事で、社会全体が必ずしもがそうであるとは言えません。
また経済・社会情勢も踏まえて、少々うがった風に言い換えると「日本社会が長寿を嫌う傾向にある」とも言えます。
比較的早く自立できるかできないのかが、幼児的発想の終焉のカギでしょうか?
平均寿命の短い時代は成人年齢が若く(就学期間が短い)初婚年齢・出産年齢が早いです。幼児的からの卒業が昔はできていた時期がある思います。
男性と女性とでの認識の差はあるでしょうか?
短命そのものが尊重されていることはないと思いますが、不幸な死を遂げた者に対する憐れみの情に厚いという傾向ならあるでしょう。その起源は、日本に特有な怨霊慰撫の文化にあります。古代の日本人が、怨霊の報復を恐れたのは、それを禁止する父なる神が不在だったからでしょう。その意味では、このこともまた、日本文化が去勢以前的段階にあることの特徴の一つといえます。
判らないことがあります。
教えていただけませんか?
罪の文化から見れば、恥の文化は幼児的に見える。アリストテレスも、『ニコマコス倫理学』の中で、恥は「若年者にふさわしい感情」だと書いている。についてですが、
まず、罪の文化とは何ですか?
また恥の文化が何故、幼児的に見えるといえるのでしょうか?
罪というのは、法が罪だと定めているから罪となるのではないでしょうか?
それに比べ恥とは、自己の言動に対しての責任を罪よりも重く捉えているように思えます。人から悪いと言われるよりも自ら悪いと感じ謝罪などの行動に移すことは、とても素晴らしいものだと思います。
そんな恥が、罪の文化よりも劣り幼児的だと言われていることに違和感を覚えます。
一神教の文化圏において、罪とは、神の掟を破ることであって、人が作った法に違反することではありません。非宗教的に言うと、罪の文化において重要なことは、自分の良心に従って行動することであって、他人の顔色を伺って行動することではありません。「人から悪いと言われるよりも自ら悪いと感じ謝罪などの行動に移すことは、とても素晴らしいものだ」というのは、罪の文化の価値観です。なお、幼児的であるからといって、劣っているとはかぎりません。パブロ・ピカソは、子供のような絵を理想としました。子供が大人になることによって、得るものがある半面、失うものもあるのです。
空様
>>菊と刀といえば、この随筆を思い出しました。
こんな主張もあります。
『菊と刀』注解 目次
本分に関係がなくて申し訳ないんですが、「戦国時代から明治維新にかけての権力の集権化・・・」とコメントされてるところについて。
江戸時代は集権的というより地方主権的であったように思います。
中央に従うのは公共事業とか参勤交代くらいで、あとは基本自由だったような気が・・・
江戸時代は、明治時代と比べると地方分権的ですが、戦国時代と比べると中央集権的です。戦国時代→江戸時代→明治時代という時代の変遷を通じて、日本の政治は中央集権化されました。「戦国時代から明治維新にかけての権力の集権化」というのは、そういう意味で、間違っていないと思います。
中世に十字軍を送り込んでアラブを侵略し、近世にアフリカ、オーストラリア、南北アメリカを植民地支配した高貴な野蛮人である白人は植民地支配した国々に対して一切謝罪と補償をしていません。大人とはきちんと責任を取るものではないでしょうか? 白人こそが子供です。日本は中国に対して29回も謝罪していますしODAによる多額の援助を行っています。また、韓国に対しては日韓基本条約を結んで謝罪と補償を行っています。日本人が大人で白人が子供だと私は思います。
ミニチュアを作るというのは小さいものを作るという事ではなく、今まで8個の回路を使用していたものを1つの回路で同じ効果を出せるようにし、さらに上回る性能を作り上げるというような感じですよね。
それが出来るのは大和民族の脳の構造、つまり先天的な能力ではないでしょうか。
これは日本人の幼児性やら胎内回帰願望などの後天的な思考形態で事を成し遂げられるほど簡単なことではないです。
現に中国人には真似出来ないですし、そっくりそのまま他の民族を日本と同じ環境で育て同じ教育をしても、きっとできないでしょう。
新しいものを生み出す(発明する)能力は無いですが、それ自体が思考回路云々ではなく、もともとの脳の構造の違いだと思います。
日本人が何故幼児的かというと、個人があまり責任を取らなくて良い社会だからです。例えば、部下の失敗は上司が謝る。一人の責任は連帯責任といったように個人ではなく、集団が優先されがちで、個人の意思決定が弱いからです。未だにこれらの通念は根強いです。また、親が主体的に子供を守るといった感じではなく、社会が子供を守るといった意識に近いとも感じられます。
日本では5歳位だと、子供をまだ甘やかしたりしていますが、
欧米圏では5歳にもなれば、自分の意見や考えを主張することを教えます。これは将来自分を守るために必要な事だからです。
日本の場合、問題についてポイントを明確にした
ディベートや論理立てて議論するという対立型のコミュニケーションが育っていませんし、議論は喧嘩に発展しやすいですが、欧米圏の場合、様々な民族が暮らしており、個々の意見が違うのは当たり前なので、意思を確認するため、伝えるため、トラブルを避けるためにはコミュニケーションが必要なのです。日本人同士のように、ある程度育ってきた環境が同じ、言わなくてもわかるという事があまり無いからです。
日本人が幼稚なのは、日本人の遺伝的や人種的な問題ではなく、環境的な問題だと思います。社会のシステムが幼稚な人間を作っているのです。現に、欧米社会で生活すれば、日本人のふるまいも欧米的になってきます。個々が自分の頭で考えることが余儀なくされるからです。
個人の主体性があるか無いか、という点においては、日本人が幼稚とみなされても仕方が無いと思います。何故なら、上司が権威主義的で威張り、部下が何も発言できずに萎縮してしまうという状況は日本では未だにあると思いますが、欧米ではそのような事は少ないです。
欧米ならそのような上司は人権の侵害、自由平等の侵害、年齢差別等で訴えられる可能性があるからです。どう考えても欧米のほうがルールの制約の中で個人が伸び伸びと生きられる大人な社会でしょう。
農耕民族による集団主義と狩猟民族による個人主義では根本的な考え方が異なる傾向にありますからね。
例えば、砂漠を歩いて渡って、大事な宝石を違う町に届けに行く場合に、
グループの中で一人死にそうな怪我人が出た場合の傾向として、
モンゴロイドは 怪我人に食料や薬を分け与え、足手まといでも連れて行きますが、目的を達成しにくくなります。
コーカソイドは 目的を優先させる為に、死にそうな仲間を見殺しにし、置いていきます。
優勝者一人に賞金1000万円といったような一般人をオーディションして対決させるようなアメリカの番組を見ればわかりますが、始めはチーム戦で、チームの絆が生まれるんですが、ラストでは今まで同じチームメイトだった人間と本気で個人が賞金を奪い合います。
こういった考えは、なかなか日本人にとっては残酷に感じる人もいるのでは無いでしょうか。
しかし、残酷で過酷な状況に耐えて、卑怯と見なされない範囲で駆け引きを駆使して勝利するのが狩猟民族が考える強い大人なのです。日本のように「和を以て貴しとなす」という考えはある意味大人ですが、そういった性善説で動いている国は世界に少ないですから、グローバルスタンダードの中では必然的に騙されてしまうか、主張や個で負けてしまいます。縮んでいる場合ではありません。
余談ですが、今のサッカー日本代表に日本の幼児性がよく現れている気がしますね。
私がここで言っている、幼児的文化とは、去勢前の文化であり、去勢後の文化と去勢前の文化の区別は、コーカソイドとモンゴロイドという人種上の区別とは合致しません。例えば、中国人(漢民族)は、モンゴロイドだけれども、中国文化は幼児的ではありません。
なお、コーカソイドの圧倒的大部分は狩猟民族ではなく、牧畜民族です。去勢制度と奴隷制度は、人間が家畜に対して行っていたことを支配者が服従者に行ってできた制度で、牧畜民族でない日本民族にとっては、なかなか受け入れがたい制度です。
欧米では、上司と部下の関係は、主人と奴隷の関係です。部下は上司の命令どおり動かなければいけません。命令を聞かない部下は、道具のように棄てられます。だから、優秀な個人は、自分で起業して、主人になろうとするものなのです。
日本では、上司と部下の関係が母子関係に近似しています。上司は、主人が奴隷に対してするように、気に入らないから、市場で他の奴隷と交換するというようなことはしません。両者は情動的な運命共同体を形成し、子供にわがままを許しながら、「子の責任は親の責任」ということになるわけです。
成人ってなんだろうね?
幼児的ってなんだろうね?
日本人がよく使う言葉で
「食べ物を粗末にするな」「もったいない」
というのがありますが、それらの言葉も甘えで説明できるのでしょうね。
母なる自然から恵んでもらったものを捨てることは贈与関係を断ち切ることになり、
そうなると甘えることができなくなるからでしょう。
1952年生まれなので、高度経済成長期という「神風」の中で育ってまいりました。歴史上、地理上、四方を海に囲まれ、自然にも恵まれ、極悪な侵略にも遭わずに来た国ですが、愚かなマネーゲームに、個人も企業も翻弄され続けてきた20年であったかと思います。その間、世界に冠たるモノ作りの精神も、そのリーダーの創出もないがしろにしてきた国ですから、お世辞にも経済は大人、政治は子供とは言えませんね。まぁ、今日までは運が良かっただけの話で、オタク文化の世界のメッカと、いかにもお気楽な民族です。それは長い歴史と暗くて重い欧米と経済では肩を並べたような発言は慎むどころか、国家廃業に近い状態の国をどうするんでしょうか。個人、ひとつの家庭・家族、ひとつの社会から国家は形成されているにもかかわらず、その細胞ひとつひとつが破綻に向かっている現状をなんとも思わないのでしょうか。「グローバルスタンダード」なんて、どうでもいいんですよ。もう一度、一人一人が鏡の中の自分と対話してみることだと思います。村人が自分を守ってくれる社会の終焉です。
日本人は、幼児的だ。という偏見に基づいて書かれているように思います。
日本と欧米の上司と部下の関係についても
日本が子供にわがままを許しながら、「子の責任は親の責任」という関係に対し、
欧米が、命令を聞かない部下は、道具のように棄てられます。
といった件も見方を変えれば、
日本は、教育まで含めて会社を運営しており、より自律的であるのに対し、
欧米では、自分の思い通りにならない部下を子供がおもちゃを捨てるように捨てる。
と見ることもできる。
そもそも幼児的だとか成熟しているとかの性質が、より根源的な性質である「自律性、母子的愛情の尺度、等々」たくさんの性質を含んでおり、ケースに応じてそれらを自分のいいように持ち出すことによっていかようにもとれる場合がある。
恥の文化、罪の文化に関する論述も
欧米におけるshame、schamなどの意味が、恥ずかしがり屋や引っ込み思案的な意味合いが中心であるのに対し、
日本における恥は、公に対する自らの不徳を中心にしているという違いが明確に区別できていないわけで、
『菊と刀』における恥と『ニコマコス倫理学』における恥を同列に扱うのは明らかにおかしい。
持ち出す性質の尺度が統一されていないように感じます。
ランボーさんのコメントに共感します。そもそも、欧米社会や文化を我々と比較すること自体、無理があると思います。
経済的に、欧米に追いつき追い越せとハッパをかけられ、我々の先輩諸氏が猛烈に働いてきたからこそ、今の繁栄があることは否定しません。しかし、その繁栄の裏の「繁栄」もこの社会に根深く生息してきたことも否めません。欧米社会の過酷な歴史、暗くて重い文化を知る術はなく、我々の計り知れないそして相容れないその「血」をのぞくことは無意味です。我々の真の意味の繁栄が果たしてやってくるのかは神のみぞ知るですが、個々の細胞が腐りきった今、取り返しがつくうちに、我々日本人は、日本人同士で我々と我々を取り巻いている現状を見つめ直すべきではないでしょうか。幼児的かどうか、という議論の前に。
「幼児的」という言葉は日常用語なので、様々な意味があります。生物学者によると、モンゴロイドは、ネグロイドやコーカソイドと比べて、形態学的に幼児的特性を強く持っているのだそうですが、本稿では、そうした意味での幼児性は取り扱っていません。ここでは、「幼児的」という言葉は、「去勢以前的」という意味で使っているので、他の意味は捨象して、もう一度読み直してみてください。
日本文化の特性を知ろうと思ったならば、欧米と比較するだけでは不十分です。自然民族の文化を含めた様々な文化と比較して、日本文化がどのようなものかを考えてみてください。
返信わざわざありがとうございます。
しかしながら、、「幼児的」という言葉を、「去勢以前的」という意味で使っているとしても永井さんが偏見に基づいて書いているように見ることができます。
私は、「去勢以前的」という状態は、
母からの愛情を独占し、その愛情におぼれていたいという欲望と自立しなくてはならない自分が葛藤し、いまだに愛情への渇望が勝っている状態であると認識していますが、そうだとしても永井さんが出す例は見方によってどちらとも取れる例ばかりです。
「去勢以前的」という状態を明確に定義し、もう少し証明に近い形をとっていただかないとただの思いをいきなり前提条件にしているように思います。。
”日本の特攻隊員が死ぬ直前に叫んだ言葉は、「天皇陛下万歳」ではなく、「お母さん」だった。勇ましい武士も、死ぬ直前に口にした言葉が「おっか(お母さまのこと)」だったりする。自ら死を選んだサムライは、その深層心理において、胎内回帰願望によって動機付けられていた。”
ほとんどあったこともない天皇陛下よりも一番お世話になった母親に最後に感謝の言葉を述べることが、
どうして胎内回帰願望につながるのかまったくもっていきなりのこじつけです。
日本では、親よりも早く死に成長した姿を見せられないことが悪いことだと一般的に思われています。ただの恩と感謝の関係です。当然でしょう。
また、去勢以前的という言葉は、フロイトのエディプスコンプレックスからきていると思いますが、エディプスコンプレックスはユングから一部の人たちにしか当てはまらない成長過程だと指摘されていますし、
フロイトは、ほとんどの人が近親相姦欲求を持っていることを前提とし、エディプスコンプレックスを膨らませましたが、それが、フロイト自身の特別な精神状態からそのように結論づけたとも批判されていますよ。
「お母さん」と叫ぶ特攻隊員は、母親に対して感謝の言葉を述べているわけではありません。日本人にとって、死ぬということは、土に返る、すなわち、母なる大地に回帰することであり、胎内回帰そのものなのです。キリスト教などの父権宗教は、自殺を禁止していますが、これは胎内回帰の禁止、すなわち去勢です。これに対して、日本の文化では、自殺の許容度が高く、しばしば、切腹が賞賛されさえします。これは、去勢が弱い証拠です。
フロイトの理論の特殊性は、フロイト個人の特殊性というよりも、フロイトが生まれ育ったユダヤ文化の特殊性だと思います(ちなみに、ユングは、フロイト学派内では例外的に非ユダヤ人です)。ユダヤ文化は、父権宗教的色彩が強く、その結果、フロイトは、父の役割を過大評価する一方、母の役割を過小評価してしまいました。私は、ここがフロイトの限界だと考えています。
日本文化においては、父の存在は希薄ですが、だからといって、去勢がまったくないわけではありません。去勢は母によっても行われます。それまで、泣けば母乳をくれた母が、あるときから冷淡になり、離乳食を強制するようになります。弟や妹が母乳を独占すると、長子はそれに激しい嫉妬心を抱き、自分も母乳をもらおうと幼児後退を始めますが、母は相手にしません。これも、一種の去勢です。
年長者は、こうした去勢体験ゆえに、年少者に対する恨みを抱きます。日本が、長幼差別を行い、今日に至るまで年功序列という非合理なシステムを温存しているのも、このためと考えることができます。これに対して、去勢が父によって行われる父権宗教の文化では、長幼の相対的な差異は、父の超越性のもとで消滅するので、重要ではなくなります。ヨーロッパの言語は、兄弟・姉妹を区別することさえありません。
またまた返信ありがとうございます。
ここでも幾重にも根拠のない断定や真偽の疑わしいものがありますので、指摘させていただきます。堂々と返信してくださる永井さんにしつこい、敵対的であると思われるのもいやなので、この件に関してはこれを最後にさせていただきます。
1 ”日本の特攻隊員が死ぬ直前に叫んだ言葉は、「天皇陛下万歳」ではなく、「お母さん」だった。”
とありますが、このソースはどこからきたものでしょうか?死ぬ直前とありますので、まさに敵艦に突撃するもしくは打ち落とされる間際かと思いますが、そのような状況でしゃべる言葉をどのようにして後世のものが知りえたのでしょうか?ちなみに通信機は周波数の探知や傍受を警戒するため、常時つけているものではなく通信の必要性があるときだけスイッチを入れるものなので、まさに、操縦桿を握っているときに通信機がついていることはないと思います。
2 ”「お母さん」と叫ぶ特攻隊員は、母親に対して感謝の言葉を述べているわけではありません。”
とありますが、この文を普通の感性で読み解くならば、母が恋しいという意味合いであったというように解釈しますが、もし特攻隊員がそのような言葉を言ったとして、そのように断定される根拠をお示しください。(私は、言ったとしたならば、お母さん今まで育ててくれてありがとうだと思いますが・・・)
私は、知覧の特攻平和記念館に行き、展示してある遺書全て(100以上)をを見ましたが、皆、天皇陛下万歳や日本の勝利、残してきた親、妻、子供の健康や成長を願うものばかりでした。
3 ”日本人にとって、死ぬということは、土に返る、すなわち、母なる大地に回帰することであり、胎内回帰そのものなのです”
これもいきなり断定しているだけですし、特攻隊員に適用するのは、無理があります。特攻隊員が、「ああ、母なる大地に回帰できる」と思って、特攻に志願したのでしょうか?その根拠は?
私の意見は、「死ぬのはいやだけど、大きな戦果を上げ、日本に貢献できるのでやろう」です。
実際、特攻はかなりの戦果をあげています。爆弾や雷撃では、1,2発ではびくともしない艦艇が特攻1発で大破、撃沈していたり、
ランチェスターの原理というものがあって、勢力が劣勢のまま攻撃を仕掛けるとほとんど相手に損害を与えられずに全滅するというものですが、特攻ではかなりの損害を与えることができた。特攻による日本軍戦死者4379人 米軍戦死3916人戦傷3572 人艦艇沈没53損傷379とあります。劣勢なのにもかかわらず特攻だけの戦果なら勝ってしまう勢いですね。
4 さすがに去勢以前的という状態を明確に定義したほうがよいのではないでしょうか?フロイトは、子供が母に甘えていると、ある時期が来ると父から「ずっと甘えていると去勢するぞ」という圧力を感じる。といったのであって去勢以前的という言葉を明確に定義したわけではありません。誰か定義したものでもいるのでしょうか?死=母体回帰=去勢以前的と恥=去勢以前的が同じ基準であるとはどうにも思えない。
さすがに長すぎるのでここら辺にしときます。
1.
2. 私は、特攻隊員が、祖国、故郷、家族に対する感謝の念を持っていたであろうことは否定しません。遺書などには、そのようなことが書かれるでしょう。精神分析学は、しかしながら、そうした超自我によって検閲されたディスクールではなくて、夢、言い間違え、錯誤行為などに、無意識の欲動を読み取ります。もしも、超自我が検閲していたならば、無電室に送られるメッセージは、「我、突入ス」とか「天皇陛下万歳」だったでしょう。しかし、死の直前という限界状況で、思わず口にしてしまった言葉が「お母さん」であったとするならば、そこに無意識の欲動を読み取るべきでしょう。
3. ここでも、意識レベルでの話と無意識レベルでの話が混同されています。特攻は、もちろん、敵に損害を与えるために行われました。しかし、このことと、無意識において死がどのように直観されていたかという問題は分けて考えるべきでしょう。
4. 乳房の遠ざかりが去勢であるという解釈は、ラカンなどによって行われています。去勢に関しては、『ファリック・マザー幻想―学校では決して教えない永井俊哉の“性の哲学”』で詳しく論じたので、そちらを参照してください。
何度も返信ありがとうございます。
根拠を示してほしいと迫っている私に対して、意識・無意識では話が違いますよ程度の内容では、あまりに弱すぎませんか?これから導き出されるのは、去勢以前的でないとは言い切れないですよ。これは、根拠を示せなかったとうけとられてもしょうがないように思います。
死の直前に「お母さん」といったといっても、
突入の1秒前くらいに叫ぶようにして言うのと
突入の5秒前とかそれ以上の余裕を持って、明確な決意に満ちた物言いで「お母さん」と言い、その後正確な照準をし、突入するのとでは、だいぶ違いますよね。
最後まで理解することはできませんでしたが、永井さんの活発な議論を好む姿勢は賞賛に値します。どうもありがとうございました。
あなたの解釈は、無電の聞き手が母親なら、成り立ちますが、当直や補助員に向かって「お母さん」と叫ぶことは無意味であり、冷静に考えれば恥ずかしいことです。おそらく、特攻隊員は、聞き手のことなど完全に忘れて、本能的に叫んだのでしょう。そして、無意識の欲動は、そういうときに顔をのぞかせるものなのです。
日本文化が去勢以前的性格を帯びていると考える根拠は、他にもたくさんあります。特攻隊の話は、あくまでもその一つにすぎません。『ファリック・マザー幻想―学校では決して教えない永井俊哉の“性の哲学”』は有料だから無理には勧めませんが、代わりに『浦島伝説の謎を解く』でもよいから、他のものも読んでみてください。
多分書き間違いだと思うけれども、この二重否定の命題は、去勢以前的であることを肯定する内容となっていますね。
死の直前1秒前と5秒前とで大きな違いがあるでしょうか。普通の人なら、5分後に死ぬという状況で、冷静ではなくなるでしょう。
日本で、女性の社会進出がなかなか進まないのは、日本文化が去勢前の文化だからですか。
日本人男性が未だに男らしさに拘るのは、母親に甘えたいという幼児的な願望が残っているからだと思っています。
日本の男性が妻に求めているものは第二の母であり、日本の男性が共働きの容認に消極的だった理由の一つとして、妻が働きに出ると、家庭内で母としての役割を、子供に対してのみならず夫に対しても果たしにくくなるということが考えられます。もっとも、高齢化社会の進展に伴い、働き盛りの女性の社会進出は経済的に不可避になっており、男性の意識も変化するでしょう。
ところで、専業主婦は、本来夫に寄生している存在なのに、日本では、財布の紐は妻が握っていて、まるで母が息子にお小遣いをあげるように、夫にお小遣いを手渡しています。もしも日本の男が、欧米的な意味での男らしさにこだわっているのなら、このような屈辱的な家庭内配分のありかたに甘んじているはずはないと思います。
“専業主婦は、本来夫に寄生している存在なのに、日本では、財布の紐は妻が握っていて、まるで母が息子にお小遣いをあげるように、夫にお小遣いを手渡しています。もしも日本の男が、欧米的な意味での男らしさにこだわっているのなら、このような屈辱的な家庭内配分のありかたに甘んじているはずはないと思います。”
それは、幼児的な依存心による自己欺瞞が原因だと考えられます。幼児は親に頼らないと生きることができないので、親に屈辱的な扱いをされても、親ではなく自分が悪いと思い込んで、親に対する怒りを抑圧します。
日本の男性は、家庭だけではなく、恋愛関係においても奴隷のような扱いを受けます。バブル期では、その傾向が顕著でしたが、今では、屈辱的に扱われることに不満を持つ男性の声が大きくなってきています。
基本的に日本人が幼稚で外交下手なのは周知ですし異論はありませんが
狭いところ縮こまるから日本人は幼稚だというのは少し飛躍があるのでは?
小型化が得意であるという日本人の特性は俳句や和歌にその源泉があると思いますよ
五七五の短いセンテンスに小宇宙を見つけようという心意気が
幼児性と関連しているというのは納得できかねますね
「狭いところ縮こまるから日本人は幼稚」というのは逆で、日本人には胎内回帰願望があるので、狭い胎内に縮まろうとする文化が育ったと考えるべきでしょう。
どうしたら日本人は大人になれるのでしょう。
永井さんは、幼児性の克服の例の一つとして、隷属経験説をあげましたが、日本人が大人になるには中国や韓国やアメリカなどの隷属を経験するしかないのでしょうか。
どうせ、いつかは、日本は国際競争に負け、デフォルトに追い込まれ、経済が破綻するのですから、日本人が奴隷になって、幼児的な嫉妬心を捨てて大人になる可能性があると思いますが、どうでしょうか。
隷属する必要はありませんが、隷属することになるかもしれないという危機感は持つべきでしょう。周囲を海で囲まれているという自然的特性が意味を持たなくなるにつれて、日本人も、やがては、ボーダレスなグローバル社会に適応していくものと私は期待しています。
今、尖閣諸島の領土問題が話題になっていますが、私は日本人はかつてのユダヤ人のようになると思います。
つまり、日本は中国に侵略され、ユダヤ人がエジプトの圧政やバビロン捕囚といった隷属経験を通じて一神教を信じるようになった事と同じように、日本人は中国共産党の圧政や朝鮮捕囚といった悲惨な隷属経験を通じて、一神教を信じるようになると思います。民主党は中国のシンパですし、アメリカが日本を助けてくれるとは思いませんので、日本人が漢族の奴隷になる可能性は十分にあると思いますがどうでしょうか。
日本は、ちょうど我が身を母の庇護に全面的に委ねる幼児のようなもので、安全保障を全面的に米国に委ねています。一方で、沖縄の米軍基地を減らせとか、思いやり予算を減らせと要求しながら、他方で、有事の際には日本を守れといっています。こういう幼児的なわがままは、大人の世界では通用しないでしょう。
同じことは、沖縄についても言えます。尖閣諸島周辺での中国漁船衝突事件を受け、2009年11月に米軍普天間飛行場の県外・国外への移設を求める意見書を可決した那覇市議会が、2010年9月には、日本政府に中国側への毅然とした対応を求める意見書を可決しました。那覇市議会は、米軍がいなくても、日本単独で中国から沖縄を守ることができると思っているのでしょうか。
幸い、中国の軍事的脅威を感じている周辺諸国は、日本だけではありません。日本は、米国のみならず、南沙諸島領有権問題を抱えるASEAN、国境問題を抱えているインドと共に、アジア版NATOを構築し、集団安全保障の体制を整えるべきでしょう。
社会に出てから30年以上経ちますが、日本の社会、というよりは日本人の不思議な精神性に大いに悩まされ続けてきました。私は極く一般的な普通の日本人です。学生の頃より、我が社会は当然のように欧米のような個人主義に基づく自由な社会へと進歩を遂げるものであり、今はただ未熟で個人主義が浸透していないだけなのだ、と信じていました。ところが、いくら、世代が交代しても、若い世代が欧米的な個人主義を標榜する気配も見えず、逆に以前よりも日本的な甘えの世界に落ち込んでいく様を見て唖然としてしまいました。戦後の民主的な教育を受けて育ち、価値観の多様性や個人の尊厳の重要性を十分に理解しているはずなのに、どういうことなのか?これは単に遅れているということでは済まされないものである、ということに気付き、私なりにいろいろ、読み漁り、岸田秀氏の「ものぐさ精神分析」とかいう著作に出会うことによりようやくその糸口を見いだしました。それは、永井さんが仰っている言葉と同じ、日本人の「幼児性」なのだということです。この幼児性という仮説は日々遭遇する日本人の不思議な精神性を見事に説明できるとても優れた仮説だと思っております。「幼児性」こそが「個」の脆弱さや集団主義、甘え、恥の文化等々、日本社会と日本人の精神性を解き明かすキーワードなのではないのでしょうか?この「幼児性」は自他未分離の全能感の達成こそが最終的な目的であり、その手段として和という閉鎖的な集団主義を必要とし、最も忌み嫌う分離不安を回避するための情緒的な様々な精神文化を生み出しているのだと思います。何故このような幼児性を温存する社会が形成されたのかについては仰るとおりなのだと思います。やはり、去勢という巣離れの儀式なくしては成熟した個体としての自己肯定はあり得ないのではないのかと思います。この自己肯定の在り方は生物としての根元的な欲求であり、巣離れしない鳥は外の世界で自由に羽ばたく喜びと恐怖に苛まれながら永遠に巣に引き籠もるしか道は残されていないという類の話なのだと思います。日本が世界に冠たる引き籠もり社会であるのは、日本社会の精神性がもたらした必然と言っても過言ではないのではないでしょうか?失礼ながら、ここで反論をなさる方々を見ると、幼児性を否定する訳ではなく、日本の特殊性として一種の開き直りのような意見が多いと思われるのは絶望の裏返しとも思えるのですが?尖閣諸島の問題も冷酷な打算に基づいた中国外交に対して、領土問題は存在しないことを示す手段として取った「国内法に基づく粛々とした対応」という自他未分離の自閉的で独りよがりの幼稚な外交(?)により自滅しました。日本人の幼児性という仮説は正しいと思います。これからの中国、韓国等の国際社会での振る舞いにより気付いたのでは手遅れです。私のような素人が無駄な時間を浪費することがないよう、是非ともこのことを明らかにされますことを期待いたします。
うーん
1と2は同意
3と4はたしかに幼児性が関わっているような気はするけど
説明が苦しいのでなんか納得できなかったです
もっと旨い説明を説明を求む。
5は歴史的ところから答えを求めるより
家庭やもっと個人に身近な制度の所から答えを模索すべきでは?
確かに歴史的なことで説明したくなるけど
歴史的イベントに触れた日本人はほんの一つまみなわけです。
とくに、マスコミや教育がない当時、多くの日本人は何が起こったか感知すらしてない場合が多かった。
となると日本人全体の普遍性を表すにはちょっとツライかな。
アニメ漫画についてはたしかに子供っぽい人もいますが
ちょっと反論させてもらうと
漫画アニメの従事者は業務委託の雇用形態がほぼ95%を占め、
完全実力主義で海外の雇用形態に寧ろ近いんです。
そんな制度ですから物凄く殺伐とした人が多いです。甘い人は心壊して離脱が多いし。外からの印象とはちょっと違うかなと思います。
漫画アニメは子供っぽい人が描いてるから子供っぽいというより
子供を引っ掛けるつもりで書いているから子供っぽいのかと思います。
だから子供っぽい人に受けるのです。
読者受けを狙うというのも甘えかも知れませんが・・
日本のコミックでは印税率10%という低さと原稿料の低さが問題で
アニメでは広告代理店が何個も連なり搾取するのでクリエイターに殆ど金が残りません。同じ職業でも海外と賃金が一桁違うとか。
少しでも数を売らないと殆ど利益が残りません
それで受け狙いが当たり前となります。
これは幼児的かどうか微妙?
むしろその周りで利益をむさぼっている人たちは子供かもしれませんが。
「目指す人」と「残る人」で精神性に差があるかなと思います。
アニメ監督やアニメーターに実際に会ってみるといいかも知れません。
彼らは雇用保険も社会保障もなにもないなか活動してます。
参考までに。
幼児は、外界から遮断された擬似胎内空間を作ろうとします。アニメや漫画が、実写である映画や写真と比べて幼児的といわれる所以は、外界の現実をそのまま受け入れるのではなくて、外界とは切り離された自分たち独自の小宇宙を作ろうとする点にあります。少女たちのままごとも、大人の世界から切り離された、自分たち独自の模造世界を作ろうとする点で、幼児的です。盆栽は、幼児的に見えないかもしれませんが、自然の大木を模写して、自分だけの小さな模造世界を自宅内に造ろうとしているから、やはり去勢以前的な胎内回帰願望の現われと解釈できます。
つまり90年代ハリウッド映画も幼児的ということですよね。
スターウォーズも祭り上げられてはいるけど大変にチープ。
スターウォーズのような実写の映画とアニメ、写真と漫画という対比で言えば、後者の方が、より去勢以前的ということです。もちろん、アメリカにもアニメや漫画はあるけれども、視聴者、読者が子供に偏っている点が日本とは異なるところです。
うーんそうかな?
なんか論理の詰めが甘い気がする。
アメリカ人にとってスターウォーズはお祭り的な認識で
本当の紳士はもっとしっとりした映画を観てますよ。
要するにやっぱり大人になってもはまってるような奴はオタクです。
またアメリカ映画の大半はコメディタッチのB級キャラ物です
人形劇みたいな物ですね。アメリカ人は典型的な日本の漫画のような茶番を実写でやっているだけともいえます。
逆に日本人に限らずアジア人は「平面表現」に惹かれるという性質がありますからアニメは関係なくはやり受け入れられやすいのです。
アニメも作品によっては子供より大人しか見ないものが多いですし。
AKIRAや甲殻機動隊などの作品は殆ど大人が観ますね。
さらにポルノアニメ(いやゆるHENTAIって奴です)が80年代から現代にかけて欧米でニッチに流行っています。
それが昨今の日本アニメの輸出規模の増大に間接的に関わっていたという話は中の人たちの中では常識といっていいほどです。
こういった事例を包括して例に上げないと論理が飛躍して乱暴になってしまうと思います。輸出規模なども比較してどういう分布があるかも調べるべきかと。
幼児性にはなんの反論もないですが、日曜の朝にやってる幼児用のものだけしか想定していないと少し無理があると思いました。
アニメは絵ですから実写映画以上に表現の可能性が広いので裾野は何倍も大きいものです。アニメと一くくりにしても無理がありますよ。
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因みに最近のCGを多用した実写映画は実写とアニメのハイブリットであって
専門的な人から見ると実写ではないです。作業の大方がアニメーションと変わりませんから。3DやSFXに俳優という人形を貼り付けるアニメといいますか。
ただこれを実写と呼んでいるのはこのジャンルが最新だったので明確な区別がまだされていないからです。日本では特にアニメの分類が適当ですからね。
実は今やアニメと実写はグラデーションのような緩やかな分類しかできないです。
日本人の幼児性は脚本に現れるのです。
白人にとって脚本は「闘争」ですが
日本人にとっての脚本は「タナぼた」がもっとも多いです。
箱庭性を語るより
日本人などのモンゴロイドの間では「ドラえもん」が流行っているのに対して
白人社会では「自立を阻む有害アニメ」にされていることの方がこのことを大きく示していると思います
ピンチになると助けに来てくれるウルトラマン。もそうです。
主人公がなんの努力もなしに突如何らかの才能に目覚めモテまくるというハーレム物。
日本人の脚本には闘争と破壊があまりないのです。
作るための闘争も奪うための闘争もあまりよしとはされません。
仲良く皆で作り奪うのが良しとされるわけです
これは実は日本だけの感覚ではなくアジア人全体の感覚なのかな?と思います
中国が尖閣列島を取りに来ていますがこの根底にはやはり国家という母体があり
皆で仲良く奪おうとしてるのです。
白人からはとても理不尽で滑稽に見えるでしょう。
3DCGなどのアニメーション技術発展にともない
アニメをどういう風に定義づけていくかという研究もされていますよ。
アメリカの映画がチープでB級であるということは、それが幼児的であることを帰結しません。私が言っている「幼児的」は「去勢以前的」という意味であって、「稚拙」という意味ではありません。筋骨隆々のマッチョな主人公が、艱難辛苦の冒険の末、無力な美女を救うといった筋書きのアメリカの作品は、チープでありますが、去勢された(自立した)男らしい男を理想としている点で、幼児的ではないのです。CGを駆使した映画が、実写かアニメかという問題に関しては、「現実的に見えるほど優れている」という価値観を持って映画を作っているか否かで考えてくればよいかと思います。現実を拒否し、空想の世界に安住しようとすることは、胎内回帰願望の一つの特徴です。
“幼児は、外界から遮断された擬似胎内空間を作ろうとします。アニメや漫画が、実写である映画や写真と比べて幼児的といわれる所以は、外界の現実をそのまま受け入れるのではなくて、外界とは切り離された自分たち独自の小宇宙を作ろうとする点にあります。”
“筋骨隆々のマッチョな主人公が、艱難辛苦の冒険の末、無力な美女を救うといった筋書きのアメリカの作品は、チープでありますが、去勢された(自立した)男らしい男を理想としている点で、幼児的ではないのです。CGを駆使した映画が、実写かアニメかという問題に関しては、「現実的に見えるほど優れている」という価値観を持って映画を作っているか否かで考えてくればよいかと思います。現実を拒否し、空想の世界に安住しようとすることは、胎内回帰願望の一つの特徴です。”
そういえば、以前、永井さんは「萌えアニメを見ているオタクは幼児退行した存在だ。」と言いましたよね。萌えアニメの特徴は主人公が自分から動かないことです。ヒロインと主人公の関係が母親と子供のように見えます。
萌えオタが幼児退行してしまうのは、幼児期または児童期の発達課題が未解決だからだと思います。親に責め立てられたり、周りの人間に侮辱されたりしながら育った人は、人を信じたり、自分から動いたりすることができません。だから、萌えオタにとって、二次元は本物で三次元は偽者なのです。
最近、若者が極端に幼児化しているように感じます。その理由は、SNSのプロフィールやブログで絵文字や舌足らずな言葉を多用している若者が多いことと、草食系男子という内向的な男性が多いからです。
それは、日本社会は部分的に女尊男卑で家庭内における母親の権力が強い、つまり、日本における女性と男性の関係が女王と家来だからだと考えています。
[“あんた、ママのお人形で終わるぜ?” – シロクマの屑籠(汎適所属)]
しかし、その一方でイクメンと呼ばれる子育てに熱心な男性も増えてきています。私はイクメンたちは、家事を全て妻に任せて父親になろうとしない男性より大人であると思います。
ひきこもり系のおたくや草食系男子が増えている主要原因は、デフレでしょう。子供を産むというのは将来への投資であり、期待インフレ率が低いデフレの時代には、将来への投資が減ります。浮世絵のような萌え文化が花開いた江戸時代後期も、人口がほとんど増えない、つまり独身の多い停滞の時代でした。ただ、顔文字とかアスキーアートの多用とかに関しては、日本の民族性が出ていると思います。
ひきこもりや草食系男子の増加のデフレ原因説を江戸後期の事例のみで説明するのは弱すぎるのでは?
デフレ状況にあった社会には同様の現象が普遍的に見られ、かつそのことについて論理的に証明されなければならないではないでしょうか?
おたくや草食系男子の心理を将来への投資不安に結びつけるのは短絡的では?人生の選択に関わるような個人の価値観の形成が短期的な経済情勢に起因するとは考えにくいですね。
それと、浮世絵と萌え文化とは全く異なるものであり、美人画でモチーフとなったのは成熟した女性ばかりですよね。
同様に本論においても幼児性温存が自然の豊かさや他民族との歴史的な経験に起因するということについて、それらのことがどのようにして幼児性という個人の心理を形成させるに至ったかについての論理的な説明がなされておらず、現象面の類似性を述べているだけのように見えるのですが。
デフレが投資を抑制するというのは、古今東西に普遍的に見られ、かつ理論的に論証可能な現象です。
高度成長期には、2を超えていた合計特殊出生率が、低成長時代になって、2以下となり、バブル崩壊後、1.5を切るようになったのだから、経済成長率に対する期待と合計特殊出生率の間に相関性があると見るべきでしょう。バブル崩壊後のデフレは、すでに20年以上続いており、さらに今後も続くと多くの人が予想しているのだから、「短期的な経済情勢」とは言えないでしょう。
浮世絵の美人画に描かれた成熟した女性は、理想化された母の姿であり、それは母の視点から見た、理想化された幼児の姿と鏡像的な反転関係にあります。美人画の巨匠は、歌麿ですが、彼の作品『山姥と金太郎』を見れば、彼の芸術的モティーフが何であるか理解できます。だから、浮世絵文化と萌え文化は、あなたが考えているほど異なるものではないのです。
それは、生物学で島嶼化ルール(island rule)あるいはフォスターのルール(Foster’s rule)と呼ばれているものの応用なのですが、これについては、また別の機会に詳しく論じることにしましょう。とりあえず、本川達雄著『ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学』17-23頁をご覧ください。
デフレが投資を抑制することが普遍的で出生率の低下に高い相関性があることには疑いのないことですが、そのことと、極めて特異で今日的な現象であるひきこもりや草食系男子の出現との因果関係について充分な説明がないのでは?というのが質問の趣旨です。
長期的な経済の停滞が出生率の低下をもたらすことは当然のことですが、その出生率の低下は婚姻率の低下や少子化等の極く一般的な社会現象として現れるのであって、出産という将来への投資を抑制するために引き籠もりや草食系男子の選択をするわけではなく、やはりデフレとはあまり因果関係はないのでは?
ひきこもりや草食系男子は現代日本の極めて特殊な現象であり、古今東西の数多のデフレ期に同様の社会現象が見られたというのであれば別ですが。
美少女、メイド等に代表される未成熟性を重要な要素とする萌え文化に対して、遊女、花魁、それと山姥もそうですが、成熟しきった女性を性の対象とした浮世絵とは、成熟性という基準で見れば対照的な文化だということが出来るのではないでしょうか?
経済が成長していて、収入の見通しがよくなると、男たちは、妻子を養う自信を持ち、結婚相手を求めて、家から外に出て、女たちに積極的にプロポーズします。デフレになると、これとは逆のことが起きます。「引きこもり」とか「草食系男子」とか、言葉自体は、現代日本に限定されるのかもしれませんが、この言葉が指している事態はそうではありません。
もしも前回の回答を読んでも、理解できないというのであれば、拙著『ファリック・マザー幻想』をお読みください。未成熟なな女の子に惹かれる未成熟な男の子とファリック・マザー幻想は、コインの表と裏の関係にあります。歌麿の作品『山姥と金太郎』に相当する現代アニメの代表作は、『銀河鉄道999』で、メーテルは、明らかに、ファリック・マザーです。
引きこもり系オタクと草食系男子が増えた一方で、恋愛に積極的な肉食系女子が増えましたが、永井先生はどう思いますか。
肉食系女子は、結婚できないことに対して、深刻な焦燥感を抱えているように見えます。
「肉食系女子」とか「婚活」とかいった言葉が流行する背景には、専業主婦に対する男性たちの需要が減少し、専業主婦になりたくてもなれない女性が大量に溢れているという現実があります。共働きでないと結婚は困難という傾向は、今後も続くでしょう。要は、新しい時代に対応できていない女性が多いということです。
“ひきこもり系のおたくや草食系男子が増えている主要原因は、デフレでしょう。”
では、最近の若者が内向的になって、留学しなかったり、大企業に甘えたり、○○離れが進んでいたりしているのもデフレが原因ですか。
そうだとすれば、中高年世代や老人世代が若者を責め立ててもどうしようもないと思います。
1990年代にパラサイト・シングルという言葉をはやらせた山田昌弘とかは、精神論で終わらせているけれども、こういう「近頃の若者は」式の皮相な精神論は、その原因がまだよく理解されなかった90年代にはもてはやされていましたが、現代ではむしろ少数派になっているのではないでしょうか。
それはどうでしょうか。
精神論はネットでは非常に嫌われていますが、企業は体育会系を採用面で優遇するため、まだもてはやされているでしょう。
精神論者は他力本願で向上心がないように見えます。問題を自分で改善しようとせず、「俺は悪くない。お前が悪い。」という論理で、他人のやる気のせいにしますから。
私が言っていることは、精神論は、個人レベルのミクロな問題を解決するのには有効ですが、社会レベルのマクロな問題を分析するのには使えないということです。
というよりも、「近頃の若者は、他力本願で向上心がないから、パラサイト・シングル、引きこもり、ニート等々になる」というように「他人のやる気のせい」にするのが、精神論者の主張でしょう。
すいません。「精神論」と聞いて、少し感情的になってしまいました。精神論者に対するネット住民の不満に同情できるからです。
池上正樹によりますと、そもそも引きこもりの問題は、若者だけの問題だけではないようです。引きこもりが増える原因は、永井先生が先ほど仰っていたデフレの他に、日本社会特有のコミュニケーション至上主義が原因になっているようです。日本人がコミュニケーション至上主義に陥るのは、幼児性ゆえに猜疑心が強く、相手との一体感がないと不安になるからでしょう。
参考: 「引きこもり」する大人たち – ダイヤモンドオンライン
話題が変わりますが、日本人は、「理系は優秀で、文系は馬鹿。」とよく言われます。これは、日本人の幼児性と深い関係があると思います。理系的な仕事は幼児的な好奇心があればうまくいきますが、文系的な仕事(芸術的な分野以外)は大人の責任感がないとうまく勤まりません。
理系と文系というのは、本来日本における大学受験の試験科目による区分ですが、日本の大学自体、人文社会科学系と自然科学系では、国際競争力が大きく異なります。後者では、国際学会でプレゼンテーションを行ったり、英語で論文を書いたりということが頻繁にありますが、前者では稀で、業績に対するチェックも甘い。准教授から教授への昇格時の審査も、後者は厳格ですが、前者ではそうではありません。
理工系のエリートが、技術者として、国際的な競争に晒されている製造業で働くことが多いのに対して、人文社会科学系のエリートは、官庁、金融、マスコミ、教育といった、規制によって保護された内需依存型産業に就職することが多い。近年、理工系大学への志望者が減りつつありますが、それは、人文社会科学系の方が楽だという意識を高校生たちが持っているからでしょう。
日本における理系と文系という区分は、英米における science vs. humanity あるいはドイツにおける Naturwissenschaft vs. Geisteswissenschaft の区分に近いのですが、欧米で後者が前者と比べて特に甘やかされているということはありません。日本も、内需依存型産業に対する排他的保護を止めて、すべての産業を国際競争に晒すべきでしょう。
日本人には、乳離れが必要だと思います。日本人がグローバル化や雇用規制緩和を拒むのも乳離れができていないからでしょう。正社員や労働組合、保護産業に従事している人にとって、企業と政府は母親に見えます。
“幼児は、外界から遮断された擬似胎内空間を作ろうとします。アニメや漫画が、実写である映画や写真と比べて幼児的といわれる所以は、外界の現実をそのまま受け入れるのではなくて、外界とは切り離された自分たち独自の小宇宙を作ろうとする点にあります。少女たちのままごとも、大人の世界から切り離された、自分たち独自の模造世界を作ろうとする点で、幼児的です。盆栽は、幼児的に見えないかもしれませんが、自然の大木を模写して、自分だけの小さな模造世界を自宅内に造ろうとしているから、やはり去勢以前的な胎内回帰願望の現われと解釈できます。”
去年の12月、東京都の青少年健全育成条例の改正案が可決され、漫画やアニメやゲームが表現の自由が規制されました。『マンガはなぜ規制されるのか – 「有害」をめぐる半世紀の攻防』のレビューを見ますと、次の文が印象に残りました。
“「マンガはこどもにとって有害」というテーゼは普遍的だという事実に驚きます。 “
このテーゼが普遍的なのは、世間が漫画やアニメの幼児性を軽蔑しているからだと思います。永井先生はこの規制についてどう思いますか。
それに対する答えは、「萌えと少子化の関係」のコメントに書きました。東京都側の言い分は、以下の通りです。
これに対するあなたの反論は?
欧米男性にとって女性はペットってw どこがww
永井先生は、長い間、市場原理を導入した小さな政府を望んでいますが、幼児的な日本人には社会主義を代表する大きな政府がお似合いだと思います。小さな政府を基にする社会は、自由と責任で成り立つ大人の社会で、幼児的な日本人には受け入れられません。逆に、大きな政府を基にする社会は、母親が子どもを守るように、政府が国民を守ってくれます。日本は表面上では資本主義社会ですが、雇用規制などから最も成功した社会主義国家といわれています。
また、個性を尊重することが重要な情報社会は、横並び志向の日本人には不向きです。人と違う事をすると社会から抹殺されます。日本人が横並び志向である理由も、自分たちが嫉妬深いからであり、その嫉妬深さも社会主義は日本人の国民性と相性がいい証左でもあります。
正直言って、日本人は自分たちの幼児的な国民性を反省しなければ、いつまで経っても構造改革が行われず、日本は負け組のままでしょう。実際、文部科学省の科学技術振興機構は、同機構が保有する新型半導体技術に関する特許を、韓国サムスン電子に供与する契約を結びました。つまり、日本はすでに韓国に負けているのです。
“文部科学省所管の科学技術振興機構は20日、東京工業大の細野秀雄教授が開発し、同機構などが保有する新型半導体技術に関する特許を、韓国サムスン電子に供与する契約を結んだ。液晶テレビや有機ELテレビの高解像度化のカギとなる国産技術で、サムスン電子は1~2年後を目標に、新型液晶表示装置(LCD)を商品化するという。
国の研究費で開発した先端技術を海外企業に先行して供与することに関し、細野教授は「研究開発や実用化に最も積極的に取り組んだのがサムスン電子。日本企業を排除したわけではない」と説明した。”[日経新聞: 国産の新型半導体技術、サムスンに先行供与 科学機構]
興味深く拝読させていただきました。確かに幼児的な部分は多々あると思います。がしかし、それが全てに該当するとは思いにくい部分もあります。例えば「日本人の隠蔽体質」は幼児的か?否か?となると、判断に悩みます。幼児的という定義をもう少し限定する必要があるのでは・・・と感じます。自立できないことを幼児的と定義するのであれば、日本人の自立は先進国の中では平均的、昔の日本や発展途上の国と比較するとやや遅め、ぐらいのものでしょう。厳しい環境であるが故に子孫を残す作業のサイクルを速めなければならない。とか、労力として自立が必要である。など、環境によって精神的肉体的成長速度は異なってきます。
確かに、急速な発展をとげた現代の日本は精神的な成長の鈍化が著しい。というのは正しい見解だと思います。しかしそれは精神的な成長をしなくてもよい環境によるものであり、日本人が古来よりそうであったかは疑わしいと思います。また、寿命の観点から見ると長寿である日本人は、ある程度幼児期が長くても、それを許容しなくてはならないのではないかとさえ思うのです。
日本の仏教が母性的であることについては肯定的に判断します。衆生済度の概念は父性母性に関係なく、誰しもが共感できるものであり、共同作業が必要な環境においての仏教の母性的解釈は「甘え」ではなく「必然」の事であったのではないかと想像します。仏教と平行して信仰された神道の日本書紀や古事記においては、母性の象徴であるイザナミが「一日に千人を殺し」父性の象徴であるイザナギが「それでは一日に千五百人生ませる」とあります。(幼命を含め)命のカギを握るのが女性であるため、男性は手当たり次第に子孫を残す概念です。それは原始農業や狩猟を生活の礎にした役割分担(男女の分権)を示すものであったと解釈できます。
また他民族からの襲撃が極端に少ない環境であったために、隷属的ではなく協調的な共同作業をおこなう方が効率的であったため、日本人が「幼児的」で「甘えのある」依存的な体質になったのは当然であり、それは否定的も肯定的にもとらえられる特質として認めることが寛容であると思います。一時的な諸外国への対応として、それを否定的な立場で臨まなければならない場合もありますし、日本人の良い特質としてうったえることも出来ると思うのです。この問題を解決するためには、これから数百年に渡って(諸外国がそうしてきたように)他民族との折衝を続けなければならないのではないかと感じました。
まずは、蔦内さんへの返信。「日本人の隠蔽体質」というのも、個人が自立できない、あるいは個人を自立させない日本の体質の表れと解釈できます。2011年3月に起きた福島第一原子力発電所事故で見られた政府や東電の隠蔽体質は、本当の情報を即座に流して、国民の不安を煽ってはいけないという老婆心(母親が幼児を無垢の状態に保つために余計なお世話をする時に典型的に見られる去勢以前の社会のメンタリティ)からでしょう。
おかずさんはあいかわらずですね。私は、本文でこう書きました。
幼児性を脱却したいのであれば、運命に身を委ねず、自らこれを主体的に克服する努力が必要です。
死の美学のあたりとか話をこじつけすぎワロタwww
言葉遊びに見える。
運命が女神のイメージであることと(そんなものは人類共通ではなく西洋の一部のイメージでしかなく、たまたま日本に定着しただけだと思うが)、運命に身を預ける文化を繋げて、「日本人は母性に甘える民族」だと我田引水、長大な連想ゲームであり、呆れる。そもそも個人としての性質である「幼児的」という性質をたまたま文化を考えるたとえとして当てはめたにすぎないのに、文化を考察するのに当然のように人間の成長の原理を基準としているのに違和感を抱かざるを得ない、文化と人間とは違う。
科学者の文章としても、悪戯に扇情的で安易な文が多すぎる。縮み嗜好があったとして、それは外から見たときの結果論であって、その縮み嗜好という、日本文化を一面的に捉えた表現でしかないものを、胎児のイメージにくっつけたり、同じく日本列島を海という胎盤に守られた胎児にたとえたり・・・。こういった文学的な連想は科学的でないのはもちろん、科学者の文章としても失格ではないか。著者の素養を疑う。
どうしても胎児のイメージが日本人に根強くあったのだと主張するなら、心理学を学んだ上で、人間の精神面がどのような形で表に現れるのか、その関係をもっと掘り下げるべきだろう。
私は、こういうコメントをなさる方に対しては、精神分析学(心理学とは異なる)を学ぶことをお勧めします。精神分析学は「人間の精神面」が言語表現に現われると考えます。だから、あなたが非科学的だとして軽蔑している言葉遊びや連想やメタファーは、精神分析学では、重要な分析対象であると同時に分析手法でもあるのです。
もちろん実証主義者や唯物論者など、精神分析学は科学ではないと主張し、行動主義的心理学を支持する人もいます。行動主義的心理学とは、心の存在を認めず、刺激に対する反応を外面的に観察することに終始する心理学のことで、その手法のわかりやすさから、補助金で研究をしている官僚的科学者の間で幅広く支持されていますが、このことはそれが依拠する哲学的前提の正しさを保証するものではありません。
もちろん欲動が行動となって表われることを否定はしませんが、外的に観察可能な行動だけでは十分ではなく、言語表現の意味も考察するべきでしょう。唯物論者は、世界が物質とエネルギーから成り立っていると考え、意味を主観的として排除しようとしますが、意味はエントロピーの低さとして、同等の客観性を持ち、したがって、精神分析学は、意味の科学として成り立つと私は考えています。
昭和16年、日本の戦力の900倍に及ぶ米国に、日本は戦争を仕掛け、日本人300万人が死んでも戦争を中止する事ができず、広島・長崎の原爆投下により、やっと終戦を迎えた。それも、天皇が自ら終戦工作を行い、それに反抗する反乱近衛兵の妨害に遭いながら、である。笑えるのは、それまで散々”天皇陛下の御為”と戦争の理由を説いてきた旧日本軍が、終戦に反対し、天皇に銃を向ける。正に、本書が指摘する所の”幼児性”全開の事態である。
時代を遡って、日清戦争・日露戦争に於いては、欧米の常識である概念ー得られる利益よりも被害が大きくなった時点で戦争は終わるーが機能した。特に、日露戦争では、日本の破局的結末であるロシア軍との全面戦争に至る寸前で終戦工作を行い、利益を得た事だ。
ところが、昭和5年から始まった日中戦争・昭和16年から始まった太平洋戦争に於いては、前述の戦争常識が全く姿を消し、狂信的な振る舞いが急増する。(敵性英語の禁止・鹿鳴館の破壊命令・特攻など)
日本に於いて、狂信的な振る舞いが始まったのは、昭和5年頃である。この年は、江戸時代の武士が死に絶えた時代である。(概念的な死ではなく、武士の教育を受けた者が絶えた)
”武士”と言うと、必ず武士道を言い出す輩が多いが、江戸後期に古来の武士道は、存在しない。農民から搾取するバカ殿様、という構図は、島原の乱までの話であって、島原の乱以降の幕府は、”武士と農民の共生”が進められており、”一揆”と言えども、話し合いで解決する様になったのが、江戸の後期である。
実は、江戸後期の武士は、世界に稀に見る才能の持ち主であった。文武両道はおろか、絵画の才、書の才、詩歌の才、それら全てを体得した者が、実在した武士の姿であった。例えば、江戸時代の日本でライプニッツ・ニュートンに先んじて、微積分を発見したのは、日本の武士、関孝和であった。
そして、諸藩の取り潰しに伴い、市井に溢れた武士達が開いた寺子屋により、日本人の識字率は、7割以上という世界一の水準に達した。
明治維新が成功を遂げたのは、江戸時代が築いた”武士”というスーパーエリートであって、農民でも商人でも無かった。
彼らスーパーエリートは、欧米に学ぶまでもなく、”戦争の終結方法”を熟知していた。日清戦争・日露戦争の終結は、正に、武士だからこそ可能であった。
戦争を起こしても止められる叡智、それが武士の能力であった。彼らこそは、連綿と続く母系文化の中で、唯一存在した、”大人”であった。例えば、西郷隆盛は、城主にすら本心を進言してはばからず、投獄されてもそれを変えなかったという。つまり、主君にすら依存せず、孤高の存在を貫いたのである。
明治維新の成功は、武士達によるものであったが、彼らは寿命と共に姿を消し、昭和5年頃には、明治維新の平民教育で育った人間達だけになった。
明治維新以降の平民教育は、”ひたすら上の言う事を聞く”という修身であり、江戸時代の武士教育とは対極の、”上に依存する”、即ち、”幼児”が完成形の教育であった。当然、年齢が成人を超えても、大将に出世しても、精神は幼児のままである。
昭和5年に日本の指導層であった武士は死に絶え、政治家・軍部の全ては、幼児然とした人間が占めるに従い、”狂人の様な戦争”が始まった。日本は、幼児がピストルを持った存在そのものであった。
その結果は明らかで、日本人300万人が殺された。日本人にそう強いたのは、当時の軍部であり、政治家であった。
さて、戦後、日本人の幼児化が断罪されたであろうか?
それは、ほんの一時期、アメリカ軍による東京裁判により、数千人の幼児的日本人が罰を受け、絞首刑となった。戦後日本の発展は、幼児的な指導層の抹殺、という処分が原点である。
ところが、昭和27年のワシントン講和条約以降、日本政府はA級・BC級戦犯をあっけなく釈放してしまった。ここで、再び、日本の幼児化が進行して行く事となる。
唯一の救いは、昭和20年~27年までの間に、占領軍であるGHQが基本法整備を全て実施した後であったので、幼児に戻った日本人は、法を遵守する事で、理想国家へと進んでいった。戦後日本の高度経済成長は、GHQの法整備と幼児的な日本人の法遵守により、達成されたのである。
しかし、戦後50年、理想国家は崩れ始める。それが、森・小泉・安倍と続く、法改正の嵐である。累進課税の廃止・大規模店舗の規制緩和・消費税の導入により、理想国家は終焉を迎えた。幼児である国民は、それを理解する事も、止める事もできず、政治家の宣伝に踊らされ、利用され、終わる。
そして、戦後70年。憲法を無視した最初の内閣である安倍政権は、集団的自衛権を行使し、戦争の準備を始めた。
原発も、国の借金も止められない幼児的国民に、戦争が止められる訳がない事を知る国民は、少数派である。その証左として、安倍政権の支持率は40%を超えている。
大人、即ち、男性の存在しない日本では、主婦が夫に座り小便を強要し、オカマがテレビで活躍する。日本が再び終わる準備は、整った様である。
日本が長い平和を保ったのは、男性たる武士が存在した江戸後期、そして、男性たるGHQが作った平和法制下の戦後70年間であった。
その西郷隆盛も西南戦争を止めることができずに自滅してしまいました。
小泉がやろうとした経済における自立や安倍が今やろうとしている国防における自立は、幼児的とは言えません。むしろ逆の試みです。憲法九条は、あなたが大人と絶賛するGHQ(実質的には米国)が占領していた時代にできましたが、その「戦争の放棄」を放棄させ、日本に集団的自衛権を行使させたのも、米国でした。
だから、礒崎首相補佐官の認識とは異なり「法的安定性」は、朝鮮戦争の時以来維持されているのです。歴代内閣が否定してきた集団的自衛権の行使とは、個別的自衛権としての性格を持たないものと解釈するなら、個別的自衛権としての性格を併せ持つ「限定的な」集団的自衛権の行使を容認することは、従来の答弁とも矛盾しません。
男性が存在しない国家である戦前の日本について書いたつもりあった。つまり、日本人の幼児性について、全面的にブログ主殿に賛意を示しているのである。
ちなみに、私は政府の集団的自衛権行使については、何も書いていない。”安倍が戦争の準備を始めた”と書いただけである。法解釈は、専門家が行うべきものであって、私はそれにタッチしないし、する気もない。
さて、昭和5年以降、日本は男性が存在しない国となった。それが、日中戦争・太平洋戦争の悲劇の根幹である。子供が銃を持った結果が太平洋戦争の悲惨である。
一方、歴史が作った、国の男性性とは、法律である。法治国家とは、人に依らず、法に基準を求める事で、平等な社会を実現するものである。
安倍総理が行った、集団的自衛権行使容認は、憲法学者の99%が違憲を表明している。
これを全く無視する安倍は、正に幼児と言える。専門家(大人)の意見を無視するのは、幼児の特権である。
昭和5年に始まった日中戦争・太平洋戦争もまた、多くの専門家の意見を無視し
、当時の法律を全く無視した幼児的日本人が起こした産物である。
最後に、昭和5年から終戦までの15年間は、”法の無視”のオンパレードだった事を記しておこう。国民は、旧日本帝国により完全統制されていたが、政府自体は、統制が破綻し、幼児の軍部がそれぞれ勝手に戦争を繰り広げていたのである。
無法者の特出すべきは、東条英機の狂った作戦である。中国国内全土で、阿片と覚醒剤を勝手に生産し、阿片を中国人に売りさばいていた。(天皇は、この事実を全く知らなかった)当時の国際連盟は、この事態を憂慮し、国際連盟を脱退した日本代表にも懸念を伝えていたが、一向に日本政府が改善の意向を示さないので、業を煮やした連盟が、日本への貿易制裁を決断した。これがABCDラインである。
このABCDラインで、米国からの輸入石油が入って来なくなり、日中戦争が継続困難になった。当時のガソリンのほとんどは、米国依存であり、戦闘機・車両のほとんどはガソリンで動いていた為、相当の打撃であった。
普通の人間なら、これで日中戦争を諦めるのだが、驚くべき事に、当時の日本政府は、米国に戦争を仕掛けた。(太平洋戦争)正に、当時の日本政府は、幼児然であった。
日中戦争・太平洋戦争の悲劇は、正に、”法の無視”によってもたらされたものと言えよう。
その端緒たる、日華事変は、法の無視の始まりであった。即ち、僅かな数の”派兵”である。それも、”国民の安全が危機にさらされたから”と理由が付けられた。どこかで聞いた様な話である。(笑)
日本国憲法は、集団的自衛権のみならず、個別的自衛権まで否定しています。つまり、自衛隊の存在自体が違憲ということです。憲法改正時に、吉田茂首相(当時)は次のように答弁しています。
吉田が「自衛権の発動としての戦争」を放棄する前提としたのが「国際平和団体の樹立」でした。
もしも国際平和団体が樹立され、それが日本の安全を守ってくれるのなら、自衛権は不要になります。吉田は日本を、ちょうど父母によってその安全が守られている無防備な幼児のような状態にしようとしたのです。吉田は国連に幼児を守る父母としての役割を期待したのでしょうが、冷戦の始まりとともに、安全保障理事会は機能麻痺に陥り、日本は無防備な幼児ではいられなくなりました。朝鮮戦争勃発を契機に米国は吉田に改憲要求を出しましたが、吉田は改憲を拒否し、解釈改憲で朝鮮戦争に対する協力、警察予備隊の設立を行いました。本音と建て前の乖離を放置するのは日本文化の特徴の一つですが、憲法九条にもそれが出てしまっています。
日本は幼児的な無防備さから脱却しなければなりませんが、他方で「自衛のため」と称して見境もなく戦争をすることはあってはなりません。憲法を改正し、法に基づいた国防を行うべきであり、それが大人の国がするべきことです。その意味で「法の無視」があってはならないという意見には賛成です。
日本人は希望を捨てない民族であって幼児的ではありません。
欧米では、組織に服従する飼い犬を作るために、希望を捨てるよう洗脳されてきたのです。
その結果が今の悲惨な状況を作り出しています。
指示しないとできない者が多くなってしまったのは、上記のせいです。
論理的思考しか持たない人にとって、情緒の大切さは、非効率という言葉で捨て去られ、
人として人間に成長せずに一生を終えると考えます。
論理的思考の持ち主より、幼児的であると思われても良いと考えております。
その人々が真の目的を達成できるのであれば、それで構わないです。
私には、論理的思考だけであると目的を達成できないと考えます。
私達が「生」を承けた目的は、「心からの幸せ」になる事ですから、
目的を達成すれば良いことです。
これは具体的に何を念頭に置いて書いているのですか。
国際平和団体の樹立については賛成です。
その組織が、世界一の軍事力を持ち、戦争をしないように見張るのであれば、自衛隊は必要ありません。
国連の常任理事国は、戦争を続けるために戦争をしないという事を国連憲章に組み込まないのではないですか? どうしても北朝鮮も踊らされている気がしています。
早く平和で幸せ溢れる世にしたいのです。
日本人は幼児的ではなかったと謝罪して下さい。
欧米では、組織に服従する飼い犬を作るために、希望を捨てるよう洗脳されてきたのです。その結果が今の悲惨な状況を作り出しています。
これは、現在のサラリーマンを念頭に書いています。
永井さんの家族はずっと日本人ですか?
サラリーマンが「組織に服従する飼い犬」になっているのは、むしろ終身雇用制の日本でしょう。これに関しては「どうすれば労働者の待遇は良くなるのか」を御覧ください。
日本人は幼児的ではなかったと謝罪して下さい。
永井さんは、労働者の待遇を良くする為に何か活動をされていますか?
日本を愛していますか? 愛していないなら出ていって下さい。
それとも愛情の裏返しですか? 歯がゆいのですか?
永井さんに大切な事を伝えます。
言葉は気持ちの補足的な手段です。
生き残る為に必死に駆使している人がいますが、哀れに感じます。
気持ちが伴わない言葉の言霊はあまりありません。弱いのです。
逆に気持ちのこもった言葉の言霊は強いのです。
言葉が通じなくても気持ちが通じればコミュニケーションが可能なのはそのためです。
信用は気持ちで判断されます。
言葉に騙されてしまう場合もありますが、気持ちを確認できれば、
間違った判断をしなくなると考えます。確認は難しい場合もあります。
日本人が幼児的でないと主張するのなら、万人が納得するように、それを論証してください。
もしも日本がどうなってもよいと思っているのなら、政策提案をすることはしません。
感情で動くことは危険であって、「非効率」で済む話ではありません。このサイトは学術研究を目的としており、論理的思考を軽視する人が来ても、得るものは少ないでしょう。
永井さんが、万人に日本人が幼児的であると論証したと考えている項目と端的な説明をして下さい。
タイトルを変更した方が良いと考えます。例えば、下記のようにです。
永井さんは日本人が欧米人に幼児的と見られているのが歯がゆいのですよね?
今のままでは、日本人より多くの反感を受ける事になります。
「日本人が欧米人に幼児的であると見られる要素と対処法」
永井さん、せっかくの研究を多くの民に活かすには共感を持たれないと難しいです。
永井さんの投稿を確認できるのが、HPを更新した後なので、自分の意見が先になっています。
今後は、更新してから投稿しますね!
永井さん、ここまで詳しく説明しなくとも伝わると思っていましたが、
念のために説明をしておきますね
私は、論理的思考しか持たないと、と前提を述べておりまして、
決して、情緒だけで判断しなさいとは申しておりませんよ
論理的思考と情緒と両方が組合さることにより共感を得られるので、
今の状態では、このサイトのタイトルが日本人より非難を浴びる状態ですから、共感をえられません。
それが故に、タイトルの変更を提案致しました。
私は共感を得るためにこのサイトを運営しているのではありません。私と井上さんとでは、求めているものが違うので、これ以上話をしても意味はないかと思います。
欧米の学者は建設的な理論的批判を歓迎するが、日本の学者にはこれと感情的非難との区別ができない人が多い。レスポンスを共感かそれとも反感かという感情的な二者択一でしか解釈できないことは、それ自体日本人の幼児性を示している。
私が言いたいのは、多くの時間を費やしてしている研究を活かすべきであると考えております。
永井さんの研究の苦労を世に活用したいのです。
日本人が対外的に大きく成長する手助けになると思われます。
建設的な提案ですよ!一緒に新しいページを作りませんか?
自分の事を卑下しているのですか?
論理的批判をしようとも考えましたが、永井さんが論証を端的に表現できない様なので諦めましたよ
しかも、友好的提案をしましたが、どうして、求めているものが違うと思うのでしょうか?
私の批判をしたかったのですか? それとも、私に気がつかせる為ですか?
永井さんは、何を求めているのですか?
何のためにこのサイトを運営しているのですか?
まさか、言葉で勝つ自己満足の為ではないですよね?
研究にどれだけの時間を費やしているのですか?
その時間を日本国民の為に役立てましょう!
学問が求めているのは、真理です。真理は「気持ちのこもった言葉」で「共感」するようなものではなく、理性的に納得するべきものです。私の主張はこれまで述べてきた通りだから、これ以上繰り返す必要がありません。納得しない人には、納得するように返信するように努めていますが、井上さんは求めているものが違うので、話が噛み合いません。これ以上続けても時間の無駄だからもうやめましょう。
永井さん、大発見です。本日、真理に気がつきましたよ!
気がついた時に嬉し涙が溢れてきました。
そしてまた、日本人に生まれて良かったと再認識しました。
日本人は幼児的ではなく、「無邪気」なのです。
ですから、謝罪して下さいね!
日本人が幼稚なことはここでコメントを残している人たちが証明しているじゃないか笑
議論のすり替え、議論の内容そのものが幼稚じゃないか笑
匿名さん
永井氏に変わってその論証を箇条書きと端的に説明して下さい。
それに反対の論証をしたいと考えております。
日本や日本人に役に立たない研究は時間とお金の無駄遣いです。
ですから、題名の変更を提案したのにそれも受け入れないのは、
永井氏が日本人に敵対心を持っている証拠であると考えます。
日本人を蔑む愚か者は日本で活動する資格がないと考えます。
もし、永井氏が外国人2世や3世で日本に敵対心を持っている場合、
改善するなら日本にいても良いですが、そのままの気持ちでいるなら
祖国に帰って欲しいと考えます。
議論を摩り替えているのではなく、元々の精神が天使か悪魔かどうかの問題です。
記事を読ませていただきました。
・・・と言いたいところですが、コメントのやり取りがとんでもないことになっていたのでそれについてコメントさせていただきます。
申し訳ないのですが井上さん・・・これはいたずらなのでしょうか?
物事の真理とは「感情」の一切を除いた「理性」によって解いていくものであり、その感情をも理論付けて逝くものであります。即ち純情とゆう相反するモノで以て説明する事ができないんです。
第一、日本人が幼稚でないと思うのであれば、それを理論付けるための根拠が必要であり、考察が必要です。
反対賛成問わず、それを井上さんは示さなくてはなりません。
永井さんは恐らくでは有りますが、敵対心云々ではなくクリティカルシンキングにおいて発言されているのだと思います。それらをただ批判ととるのであればそれは語弊であり、物事の真理、事実、現実的側面を普遍的に捉えるには客観的視点というものが不可欠になってきます。
記事に触れますが、「幼稚」という一見ネガティブワードとも取られかねない言葉にもメリットとデメリットの両方が存在する事が示されています。恐らく井上さんは幼稚という言葉を極端にマイナスとして捉えてしまっているのだと思います。
その上で、「幼稚」事実として観たとすれば、政治的に二流となっているがデメリットとなる反面、島国等の事情を含んだ独自の発展を遂げる事ができ、独特な経済(アニメなど)を築く事が出来たとも捉える事ができます。
それらは決して「悪」と一概にできるものではなく、むしろ現段階で決めてしまうのは早合点です。
「善悪」の概念についてはややこしくなってしまう為、ここでは省きます。
ここからは私のただの文句になります。
幾度か日本人という言葉を強調されており、井上さんの愛国心は大変強いのかと思われます。
別にそれが悪いかどうかは私の決める事ではありません。しかしながら、あくまで日本人を
強く意識しての発言であれば、その日本人としての最低限の節度は必要になってくると思いますよ。
ここはウェブ上であり、世界とも繋がっています。
政治や倫理に大変関心があるように受け取れる為、今回を機により深みへ漸進出来るよう願っております。
偉そうに語りましたが、この時期この時間にこんなことをしている私もたかが知れていますね・・・。
永井先生、初めまして。とても面白いサイトですね。
主張なさっていることも興味深いですし、反論に対して丁寧に答えられていてすごいと思います。
なので、私からも一つ質問したいと思います。10年以上前の記事なのにすみません。
質問したいことは日本文化の特殊性が幼児性だけで説明できるのかです。
まず、本記事の序文の”発達が未熟であったから、日本文化は、特殊であるように見える”という主張は、
1節の”日本文化の特殊性がネオテニーの属性(=幼児的)である”と主張を前提にしています。
しかし、この1節の主張は誤りだと思います。なぜなら、文化というものを集団の価値観や行動様式の総体とすると、
諸外国からみた日本文化の特殊性は、冷静さや礼儀正しさ、仕事に対して妥協しない精神性などの性質に関しても含まれているはずだからです。
これらの性質が、比較するならば、幼児性でなく”大人性”であるのは明らかです。
これらに関しては、もはや一般的に認められている事実だとは思いますが、
1例をあげると、東北地方太平洋沖地震での避難民の冷静さなどを乗せたAFP通信(*1)の記事がありました。
また、旅行客のマナーランキングで高順位なのは有名ですし、日本の工業製品の一部は諸外国ではまねのできない精度で作られています。例からすると、日本がほかの国より大人であり、諸外国は幼児的であるという主張もなりたつと思います。(もちろん、これらの例が大人でなければできないということはないので例としては弱いです)
したがって、少なくとも日本文化の特殊性が発達が未熟だっただけとは言えないのではないでしょうか?
また、日本文化の特殊性は諸外国とは異なる(幼児性を保ったまま、素養は大人になる)発展を遂げたためとも言えるのではないでしょうか?
長文すみません。回答楽しみにしています。
(*1)http://www.afpbb.com/articles/-/2790613?pid=6951747
個人の個性であれ、民族の気質であれ、それらは人類の多様性を高め、総倒れのリスクを低減します。だからすべての個人あるいは民族が「標準的な」モデルと完全に同じになる必要はない。特性が善となるか悪となるかは、その都度の環境との相性やその利用の仕方によるので、特性それ自体の良し悪しを論じてもあまり意味はないでしょう。
海外で東日本大震災のような大震災が起きると、火事場泥棒や強奪が起きます。そうした現象がほとんど起きなかった日本は海外の記者には特異に映るから、「悲劇の中、日本に集まる世界の称賛」のような記事が書かれるわけです。震災の時だけでなく、平時においても、日本では犯罪発生率が低い。これは日本の社会がゲマインシャフト型だからだと思います。「なぜ都会には犯罪が多いのか」では、“農村/都市”という対比で説明しましたが、この対比を“ゲマインシャフト/ゲゼルシャフト”と置き換えて読んでもらえればと思います。
これに関しては「日本人はなぜ学力が高いのに生産性は低いのか」をお読みください。そこでは、日本の製品と組織の在り方を「擦り合わせ」と表現しましたが、「擦り合わせ」もまたゲマインシャフトの特徴です。ゲマインシャフトの典型は家族です。家族のメンバーは以心伝心的なコミュニケーションによって密接に結びついており、各メンバーは外部の人間と置換可能ではありません。これに対して、ゲゼルシャフトは組み合わせ的であります。
家族や地域社会がゲマインシャフトであるのは世界的に同じですが、企業や学校はゲゼルシャフトであるのが普通です。日本では、社会全体がゲマインシャフト化しているため、企業や学校までがゲマインシャフト化しています。業績を伸ばすことよりも、コミュニティへの帰属意識が重視されます。また、国家全体がゲマインシャフトのようなもので、それゆえ外国人移民に対してきわめて消極的です。
ゲゼルシャフトは、打算に基づく冷酷な世界で、犯罪を防ぐには、重罰とルールの明示が必要です。これに対して、ゲマインシャフトは、温かい人間関係に基づいており、犯罪は、法以前の道徳のレベルで、恥の文化によって抑止されています。恥をかくまいとして外面を取り繕う習性が、冷静さや礼儀正しさなどとして特徴付けられているのでしょう。恥の文化がなぜ幼児的なのかは、本文で書いたとおりです。
通常、人間は家庭や地域社会といったゲマインシャフトで育ち、やがて学校や職場といったゲゼルシャフトに順応し、大人になっていくものです。学校や職場でもゲマインシャフトを求め続ける日本人は、その点で幼児的と言えるでしょう。
永井さんはどこの国の人ですか?
悪いことをやりすぎて、見た目幼い無害の自分を偽装し、自己保護の状態だけと思います。(ちなみに、中国人です)
中国共産党は悪いことをやりすぎて、見た目無害の自分を偽装するという自己保護のために、日本人を極悪人に仕立て上げているだけと思います(ちなみに、日本人です)。
永井さんの心は日本人ですか?
私は、本当の日本人を認定したいと考えております。
世がゲマインシャフトの方が人々が幸せになると考えます。自分の名に恥じぬ様に生きると自ずと犯罪はしなので、犯罪は少なくなると考えます。
日本人は協調を重視し、皆仲良くして過ごすのが普通なのです。短期でみると生産性が低くなる原因かもしれません。しかしながら、10年、20年等の長いスパンで考えると仕事が上手に回るのはどちらかという事を考えてみて下さい。
永井さん
以前に言った「日本人が欧米人に幼児的であると見られる要素と対処法」の本を作りましょう!
という問いへの回答はないのですね、永井さんはどう考えていますか?
永井さんに作る気持ちがないなら、私が作ります。
日本人が1番精神的に成長している民族であると考えます。
永井先生、
日本の文化と対比されている、他の文化についての質問です。他の文化、特に欧米文化において、家父長的な社会システムの脱構築化が議論されていますが、その脱構築化思想によって、先生の論証された欧米文化・社会モデルから外れていくものだと思われますか?もしくは、また違う形で繰り返すものだと思われますか?
もし、繰り返すものである場合、どのように繰り返されるのかをご教授下さい。宜しくお願い致します。
個体発生は系統発生を繰り返すという仮説に基づいて、十年以上前のコメントに以下のように書きました。
現在が、男女が対等に付き合う思春期に相当するのなら、今後はどうなるかと言えば、これもまた個体発生が参考になります。人は思春期以降、子供を産み、育て、やがて子供たちに次世代を任せて、現役を引退して老衰期を迎えます。人類のレベルでも同じことが起きると予想されます。人類が作り出した子供たちとはロボットであり、人工知能です。人類が生み、育てている人工知能は将来人間の頭脳を超え、ポスト・ヒューマンとして、私たちの文明の後継者になるというわけです。これについては、レイ・カーツワイル の『ポスト・ヒューマン誕生―コンピュータが人類の知性を超えるとき』を御覧ください。
私も日本人は幼児的だと思います。
20代半ばの女ですが、私も幼児的で理由があって引きこもりなのですが・・・凄い当てはまってます!
キャラクターは基本的好きで国別問わず漫画やアニメ等が好き、音楽も好きです。
しかし、脱却したいという思いまあります。海外に触れだしてからです。
ものすごく精神的に大人になりたいと思いました。
そして・・・最近、徐々に海外関連の物や動画や色んなサイトにたくさん触れるので、永井さんの言ってることが理解できます。
日本と海外を比較してしまうくらい何で日本人はこうなんだろうと最近、常に思っているからです。
そして、なぜ・・・日本の社会システムもおかしいかと感じているのも、海外のこと知るように(触れるように)なって来てからですが・・・
日本ってほんと・・・幼稚な人が多いと思います。
大人が子供みたいにはしゃいでるのを見て恥ずかしいと感じたぐらい。
海外のロケ番組あるじゃないですか、芸能人たちよりも外国人注目しちゃいます。
なぜかというあまりにも芸能人たちがはしゃぐから恥ずかしいという思惑があって外国人がどう見ているか、
観てしまいます。案の定、芸能人たちに冷ややかな視線を送っていました。
それが印象的に残っています。
私は日本の恥だと思っていますよ。
芸能人たちのおかげ、こんなはしゃぐ騒ぐ人たちになりたくないと思いましたよ。
最近は海外が素晴らしく日本貶し気味になってしまい、精神的におかしいくらいです。
そうなってはいけないのに・・・
日本のいじめも陰湿で特殊
そして、子供のしつけができていない。
日本の親がする教育的指導がしつけがしっかりとできていない。
しつけが海外とものすごく違います。
これらも幼児的な要因でしょうか?
それとも違うのでしょうか?
そして欧米のような芯から大人になるにはどうしたらいいでしょうか?
意味不明なら指摘しください。
私はコメントするのが文にするのが不得意なのでよく指摘されます。
読者に対して論拠を明確に提示しないことは、甘えには当たりませんか。
本文で書いたことと同じことをなぜコメントで繰り返さなければならないのですか。本文での説明に反論があるなら、それに対して学問的に答えますが、井上恵美子さんが求めていることはそういうことではないから、井上恵美子さんとのやりとりは打ち切ったということです。
確かに日本人は幼児的だと思う。それはアメリカと違って18歳になっても親と同居し、結婚する際にも親同士で話し合い、
男が妻の父に「娘さんを僕に下さい」と土下座する。まさか社会人になって結婚する際にも親の了承がいるのは稀なんじゃないですか。
イスラム圏や中国には親の許しを得る必要があるのですが、アメリカでは親に結婚式に出てほしいと言うだけで、結婚前に親同士が
話し合うのは聞いた事がありません。これは親離れできないアジア人やアラブ人の文化と関係している気がします。近年、中国や
インドの留学生がアメリカの大学生からこう言われているのを英語の提示版Redditで知りました。彼らは二十を超えても親に逆らえず、
まるでアメリカの高校生の様な振舞いをしていると。イスラム教徒に至ってはイスラム国の影響からか、アメリカ人の大半は彼らを
イスラム教に依存する甘ったれたガキと言っています。ここら辺が永井先生と違ってアメリカ人の傲慢さかも知れないのですが、
アメリカ人からすれば日本人だけではなく、発展途上国にいる全ての非白人がネオテニーとして思われているらしいです。
あくまで一部のアメリカ人の意見なので戯言かも知れませんが、近年の中国やイスラム国に賛同する若者を見ると、やはり
日本と違った幼児性があると感じました。そう言えば最近の中国やアラブ圏では日本のアニメや漫画が人気らしいですし。
前近代社会では、どこでも結婚は親が決めるもので、中世ヨーロッパでも自由恋愛は基本的には認められていませんでした。映画『タイタニック』に、親が決めた許嫁に満足できない女が登場していることからも推測できる通り、前近代の風習は近代になってもヨーロッパに残存しました。日本でも長らく結婚は親が決めるものでしたが、最近はそうではなくなりました。親の元にあいさつに訪れることが習慣となっていますが、成人同士が結婚する際、法的には親の同意はいりません。ですから、御指摘の件は、社会が近代化する時期が地域によって異なることによって起きている現象で、文化的な違いとは異なると思います。なお、最近米国でも、学費高騰が原因で、多額の教育ローンを負った若者が、大学卒業後、生活費を切り詰めるために親と同居するケースが増えているそうです。
「健全なる精神は健全なる身体に宿る」とユウェナリウスは言いましたが、私はこれが全面的に正しいと思っております。
言うなれば精神のありようはその持ち主の肉体に引っ張られるということです。
そして先生の仰る通り、日本人(というより黄色人種)は所謂ネオテニー的という扱いを受けています。
ということは大人の成熟した精神というものは日本人が獲得するのは難しいのでは無いでしょうか
大なり小なりアジア圏は日本と同様の問題を抱えておりますし、一神教のキリスト教を信仰している韓国も明らかに日本と同じタイプの母系社会です。
話は変わりますが、私はペット・ショップで働いていたことがありました。
犬やネコというのは種によって物凄く性格に差があります。
例えばシーズーは大抵大人しく、無駄に吠えることの少ない犬種です。
鼻が低く、よく猫に例えられるこの犬種は実際猫に最も性格の近い犬種だと思います。
私は正直に言うと人種間にも犬種と同じように、絶対的な物ではなくとも傾向があると考えています。
だから日本は大人になるべきだ!成長すべきだ!と言っても、これが日本人が成長しきったネオテニーとしての正しいありようなのでは?とも思います。
成熟しない姿が成熟した姿なのです。
お初お目にかかります
それこそ人間以外の動物を観察していれば、まさに自発性のあるものの自立の過程、試行錯誤から他者との関係の構築までが容易く学べるのに、
日本ではいまだに大人こそが他人が救いを求める時に限って、甘えと断じて試行錯誤と自立の誘導ではなく、無関心と突き放しを行う姿を目にします
それも、しばしば公的状況において
このような者達は対等な互助ではなく、またそれを行う気力さえなくしているが故に扶助を求める者に対して、なぜこうも容易く扶助行為のみを甘えと責めるのでしょうか
確かに扶助、世話を焼く行為こそは甘えの集約そのものですが、おっしゃる通りの甘えベースで構築されている日本社会でこの最後に他者に甘える機会を剥奪してしまえば、
心の弱って退行を起こした者はまずもって、生きる縁を持たない子供として深く傷つけられるのではないでしょうか?
上記の書き込みの中に幼稚な嫉妬心というものを見ましたが、現日本の大人とはやはり親に甘えて育った、親の手の届く範囲での生活を継承しただけの者ではないでしょうか
大人の総体たる社会からしてそのような大人の集合積であるために畢竟問題解決能力の幅に乏しく、またそれが故に自分と異なる大人の境遇に対して、
これほど容易く嫉妬から、正に甘えというその正鵠だけは嗅ぎつけて甘えだと糾弾や横槍を入れるのではないでしょうか?
私はいわゆる自立支援を仕事にしているのですが、部外者も、そして残念なことにしばしば利用者にさえ、他者に対して嫉妬としか言いようのない、
不幸な境遇に対する憎悪と絶望ではない、奇妙なまでの突き放した考えと羨望の執着を見せるものがいることが気にかかっていました
彼らは互いにあまりにも中立・客観性には程遠い、周囲のみを引き合いに出す正当化の理屈を口にするのですが、これは日本の大人という名の子供同士の嫉妬でしかないと
見て取ってよいものでしょうか
正義だと口にはするものの、一向に成育環境という文化の枠も自然環境の在り様さえも考慮に入れないまま、最低限という名の過不足を延々非難し合っている彼らの姿に、
そろそろ厭世観が沸いてきてしまっています
公の立場さえこのような現状で、私たち以降の日本では、誰が生き永らえていけるのでしょうか
ユウェナリウスは「健全なる精神が健全なる身体に宿ることを願う」というお祈りをしたのであって、「精神のありようはその持ち主の肉体に引っ張られる」ということを法則として定立したのではありません。そういう法則が成り立つなら、身体障害者には健全なる精神が宿らないことになりますが、それは私たちの経験に反します。
北欧のように、日本以上に公的扶助に力を入れている国もあるので、公的扶助が日本の甘えを象徴しているとは思いません。ただ北欧の福祉国家は財政規律を重んじており、日本は次世代につけを残しているという点で甘さがあると言うことはできます。
>中国共産党は悪いことをやりすぎて、見た目無害の自分を偽装するという自己保護のために、日本人を極悪人に仕立て上げているだけと思います(ちなみに、日本人です)。
まさに幼児的な返事そのものですな。残念ながら世界中の大人たちはまったく逆な見方と行動をしていますが。
己だけ見境なく世界の流れに逆行する哀れな日本くんよ、つい数十年前まで大本営発表に散々騙され続けてきたのにも関わらず、いまだドルに操られてるマスゴミくらいで簡単に洗脳されて疑わないから幼児なんだぞ?もういい加減に属州島から出て自分の目で世界を見て物事を一から考えなさい(とうぜん、日本人ではない)。
「世界中の大人たち」でもって中国共産党幹部を念頭に置いているのなら、その通りだと思います。
共産党によって情報統制されている中国と比べるなら、自由にインターネットができる日本の方がましです。
中国の属州になるぐらいなら、米国の属州になる方がまだましだと思っています。
自覚がまったくないんだから幼児というんだよ、他の幼児と大して変わってないのにまるで他人事のように言ってるなんて皮肉なもんです。
>共産党によって情報統制されている中国と比べるなら、自由にインターネットができる日本の方がましです。
世界中に溢れててあっちこっちに繋がる14億人を「情報統制」か、幼児向けのおとぎ話みたいな冗談をこうもやすやすと、「情報統制されてる」島国的発想はいつも驚きね。
そんなやり方じゃ、そちらへんの「専門家」たちが崩壊論を書く前にとくに崩壊してたよ。
いいか、のほほんな幼児日本とは違い、朝鮮戦争以来中国はいつも世界の覇権に賭けてる米国の最大の敵として大人の最前線で戦ってるから、「情報防御」くらいはするさ。
そもそも大人のスノーデンさん曰く「情報統制」は西の十八番よ?しかもうまく洗脳・統制されてるのに当の幼児たちは「我々こそは自由だ、民主主義最高」って、まったく笑えない冗談を言う。
いいんですか、大人の世界では「正義の米国様」の「民主主義」=「売国主義」なんですよ?
たとえ童話の世界でも「善良なリンゴ売り」様のリンゴは毒を仕込んでたようにね。
Q.なぜ今時の日本人はこうも幼児なのか?
A.アメリカ様がそう仕上げたから。
Q.どんなことをした?
A.日本を征服し、例の「民主主義」リンゴを与えた。
Q.なんで「民主主義」なのか?
A.財団様にマスゴミを買収し民衆を簡単に洗脳し操る自由と、官僚を傀儡化してうまく売国する便利を与えるためだ。
なに、別に日本だけの話じゃない、米国は世界のあっちこっちでやってるよ、だからこそ「自分の目で世界を見て物事を一から考え直せ」って。
常識だろ?大人たちは自分の目で事実を確かめて自分の頭で物事を考えるくらい。
まさかワタクシのアメリカ様は正義のヒーローなんだから世界のいい子たちに優しい民主主義を優しい戦争で輸出してるとでも?さすがにそこまでウブな年頃な白雪姫じゃないでしょ?
残念、どっかの非常識に相手しない世界の大人常識は
「ドルによって情報統制されて迷走してるアメポチ日本と比べるなら、自由に思考行動ができる中国の方が遥かに自由です。」
当然ながら中国の大人たちは「自由にインターネットができる」、なにせ幼児向けの規制しかしてないから。
中国人は自分で選んだ制度、自分の政党(15の中国人に一人が共産党入党、さて政治関心の日本人はどのくらい?)で大国を管理し大人たちの戦いに自分の意志で参加しているわけだ。
もちろん、押し付けた在中米軍・売国制度など己の意志に反する毒リンゴは一切許しません、これぞこそ自由である、大人の自由ってもんさ。
こんな完全な自由を有する大人に、民主主義に毒された傀儡幼児が束になっても敵わない、敵うわけがないと米国が一番これを分かってる、だからこそいろいろ必死であるわけだ。
いいですか、「情報」も「自由」も「民主」も全てが自分で努力してこそ手に入れるもの、他力本願なリンゴではありませんよ?
>中国の属州になるぐらいなら、米国の属州になる方がまだましだと思っています。
またまた幼児の物真似を。まるでこの数千年間、中国が日本に興味あったような錯覚を起こすじゃない。
原爆を落とされても原発を爆発されてもいまだ敵はどの方向かすらわからないとは見上げた幼児ぶりだ。
幼児よなにに怯えてる、まあいろいろ「大本営出鱈目」が吹聴されるから無理もないか、せめて「独立します!戦います!」くらいな心構えでないと将来立派な大人になれないよ?
まあ、21世紀の日本幼児教育には何の責任も義務もないし、逆上され反発されるだけでなんの意味もないので、さすがにここまでにします。
「中国共産党は悪いことをやりすぎて、見た目無害の自分を偽装するという自己保護のために、日本人を極悪人に仕立て上げているだけと思います」と最初に書いたとおり、、私は中国共産党批判をしているのであって、中国人(特に海外で生活している中国人)を批判しているのではありません。老婆心さんはその点を誤解していませんか。
もっと徹底した情報統制をやっている北朝鮮ですら崩壊していないのだから、中国も徹底した情報統制で崩壊することはなかったでしょう。
ちなみに日本では所謂「中国経済崩壊論」が盛んですが、これは日本人のたんなる希望的観測だから、私は信用していません。他方で、このまま中国が成長を続けて、米国を凌ぐ覇権国になるとも考えていません。一番ありそうなのは、中所得国の罠にかかって、低迷するというシナリオです。
これに関しては、8年前にこの投稿欄でも議論しましたがも、中進国レベルで低迷するという予想は現実味を帯びてきました。習近平政権は国有企業への介入を強めるなど、改革開放路線とは逆の反動的な動きを強めています。後進国が中進国になる上では、開発独裁体制の方が有利ですが、中進国が先進国になるには、開発独裁体制が妨害になります。
中国が中所得国の罠から抜け出して先進国化するには、自由な市場経済とそれを可能にする自由な民主主義政治への移行が必要ですが、民主化はアメリカの陰謀とか言って自由化と民主化を拒否し続けるなら、中所得国の罠から抜け出すことは困難でしょうね。
朝鮮戦争以来米国の最大の敵であったのはソ連であって、中国ではありません。2015年に統合参謀本部議長になったジョゼフ・ダンフォードも、公聴会で「最大の軍事的脅威はロシア」と証言しています。中国の方がより大きな脅威ではないかと認識されるようになったのはごく最近になってからです。
スノーデンは、亡命先のロシアや中国にとって不都合な情報を出さないことからもわかる通り、政治的に中立な立場になく、現在の彼はロシアの工作員と同じと見て大過ありません。私は、ロシアのプロパガンダを鵜呑みにするほどナイーブではありません。
老婆心さんが言っている「大人の世界」というのは、中南海やクレムリンの世界のことでしょう。なぜ日本がそういう世界から出てくるプロパガンダに耳を傾けなければならないのですか。
米国が日本を占領するよりもはるか昔から、日本は幼児的です。国民気質は、そう簡単に変わるものではないということです。
米国が日本を占領するよりも前から、日本は西洋式の議会制民主主義を導入しています。
これは中国網の「大財閥に牛耳られている日本のマスコミと世論」と同じ主張ですね。老婆心さんは「自分の目で世界を見て物事を一から考え直せ」と他人に説教する言う前に、自分自身が自分の目で世界を見て物事を一から考え直す必要があるのではないですか。そもそも、もしも米国が財閥を通じて米国に有利な洗脳をマスコミにさせることができると考えていたなら、どうして占領時代に日本の財閥を解体し、弱体化させたのですか。
たしかにVPNを使えば、ネット検閲を回避することはできますが、VPNみたいな遅くて不安定な通信を使わなければ金盾を翻墻できないこと自体がおかしいと思わないのですか。権力にとって不都合なことを書き込めば消され、場合によっては逮捕されるような国で、「これぞこそ自由である、大人の自由ってもんさ」と言えるのですか。
老婆心さんも「朝鮮戦争以来中国はいつも世界の覇権に賭けてる米国の最大の敵」といった夜郎自大の錯覚は持たない方がよいですよ。
日本が日米安保を破棄して、軍事的に「独立」したら、どの国の利益になるかということを日本は分かっているから、そういうことはしないのです。
そもそも、幼児的であることは、必ずしも悪いこととは限りません。幼児的であるということは可塑性に富み、謙虚に学ぶ姿勢があるということです。大人になるほど自我が固まり、傲慢で保守的になり、謙虚に学ぶことが難しくなります。
日本が中国よりも先に近代化に成功した理由も、日本人の幼児性にあると私は考えています。日本が欧米の優れた近代文明に接した時、ちょうど古代において優れた中国文明に接した時のように、謙虚に学んだことで、いち早く近代化を遂げました。ところが、中華思想の中国は四夷から何かを学ぶという伝統がなかったので、欧米文明の吸収が遅れてしまいました。
中所得国の罠にはまっている現在の中国に必要なことは、そこから抜け出した先進国から学ぼうとする幼児的な謙虚さではないですか。
ほらみろ、まったく違う次元の世界に住んでるような幼児様がまた逆上しましたよ。
さすがに時間が惜しいので、かなりに適当になりますが我慢してね。
>後進国が中進国になる上では、開発独裁体制の方が有利ですが、中進国が先進国になるには、開発独裁体制が妨害になります。
ほう、「底層から中層になるまでは、頭一つの方が有利ですが、中層から貴族になるには、頭一つの方が妨害になります」か、実にいい作り話ねぇ、まるで理にかなったような。
つまりね、結論は「米:私みたいな偉い人になりたいだろ?だったらまずその頭を切って「民主化」しなさい♪」
うむうむ、私もそういう話が大好きだよ、それで日本・インドみたいな幼児くんたちはご自分の頭を切ってくれれば、ただの傀儡死人に成り下がるからもう脅威もなにもない。
たしかにアメリカの傀儡として踊るのは少々邪魔だけと、頭のないピエロちゃんがどう足掻こうとダメージに高が知れるから何のことはない。
しかし残念ながら絵本から出れば、そもそも地球のアメリカは民主ではないし中国も独裁ではありません、みんな「プロパガンダ」という絵本にしかない子供騙し的な作り話ですが。
そんなことを真っ受けして本質を追及としないから、幼児たちは成長できないよ。
と、もうすでに頭は残ってないから、言っても分からないでしょうか。
で、朝鮮特需から謙虚に学ぶ夜郎様はそこの先進国席で横になってください、「開発独裁体制」の傲慢たる後進国がどうやって美しい童話作者・米国を倒すのかを、よく見届けてください。
と言っても無理な注文なんでしょう、幼児はどうしても目先しか見えないので。
なに、その暁には新しい童話絵本を作って差し上げましょう、お題は「人民民主共和制の暁」とか。
>朝鮮戦争以来米国の最大の敵であったのはソ連であって、中国ではありません。2015年に統合参謀本部議長になったジョゼフ・ダンフォードも、公聴会で「最大の軍事的脅威はロシア」と証言しています。中国の方がより大きな脅威ではないかと認識されるようになったのはごく最近になってからです。
2015年になっても米国様は私たちと同じ短視的な幼児である~だって本人様がそう証言してるじゃん、よし証明完了!
すごい~これが幼児マジックじゃなくて幼児ロジックだね、ネトウヨ並にすごい幼児ぶりなんから本来は指摘もしたくなかったれど。
しかし残念な一言、50年代から米国はすでに「ソ連は当面の敵・中国は最大の敵」と考えはじめいろいろ戦略を立てたくらいは周知の事実。大人たちを侮るなかれよ。
友人のサムさん曰く、日本くんが事後だからあんな図々しいこと言えてるんじゃ、朝鮮特需の天国モードじゃなく本来の琉球独立地獄シナリオでお仕置きしてたよ?
>老婆心さんは「自分の目で世界を見て物事を一から考え直せ」と他人に説教する言う前に、自分自身が自分の目で世界を見て物事を一から考え直す必要があるのではないですか。
少なくともこちらは日本を自分の目でよーく見てきましたけど?だからこうして日本語で「説教」することもできます。
しかしそちらはどうかな?マスゴミの中の「CHINA」「シナ」しか知らないくせに「中国??」云々とか言われてもどう笑うべきか反応に困るけど。まあどうぞ現場に馴染んだ中国語でなんなりとご教示ください。
>権力にとって不都合なことを書き込めば消され、場合によっては逮捕されるような国で、
米国の話か?そんな温い手じゃなく人間ごとに交通事故で消すとの常識ではないの?いやいや大人の事情で、聞き流してください。
ああ、あの独裁チュウゴクのことね。さてこれもまた幼児向けの「プロパガンダ」絵本に溢れがちな「邪悪なるシナ王国」のやり方か、しかし実際でそんなガス抜きごっこくらいにイチイチ反応して構うほど、中国の権力様々も暇なツンデレだな。せめて日本のオウム真理教くらいな規模まで事を構わないとね~やはりBBC・CNN・NHKの御用系はちょっとアレね、視点がずれてるていうかシナリオが幼児向けっていうか、道理でこないだ在中外人の成長ぶりが凄まじくて、ほとんど空港から出ればすぐにも絵本の逆効果が働きたちまち幼児卒業くらいなペースで。
>日本が日米安保を破棄して、軍事的に「独立」したら、どの国の利益になるかということを日本は分かっているから、そういうことはしないのです。
そんな次元その程度の認識で国の「利益」を語るとはな~救いようがないていうか。
まあこっちの国じゃないしどんどんその調子で逆行してください、安保が破棄「される」まで大人になれればいいが、多分その際もう取り返しがつかないかと。
>そもそも、幼児的であることは、必ずしも悪いこととは限りません。幼児的であるということは可塑性に富み、謙虚に学ぶ姿勢があるということです。大人になるほど自我が固まり、傲慢で保守的になり、謙虚に学ぶことが難しくなります。
>日本が中国よりも先に近代化に成功した理由も、日本人の幼児性にあると私は考えています。日本が欧米の優れた近代文明に接した時、ちょうど古代において優れた中国文明に接した時のように、謙虚に学んだことで、いち早く近代化を遂げました。ところが、中華思想の中国は四夷から何かを学ぶという伝統がなかったので、欧米文明の吸収が遅れてしまいました。
いやいや、そもそも話が逆なんでしょう。ネットでお世辞して時間を無駄する非効率な「謙虚」を弄ぶくらいなら、もっと「傲慢的」な幼児になって物事の本質を論じたら?
前者が謙虚の形にした「傲慢で保守的」で、後者が傲慢な形にしてる「謙虚に学ぶ姿勢」である。
形は重要ではない、肝心なのは本質だ、違うか?大人はつねに本質を見抜けよ。
で、本質的なところ、日本人は謙虚ではなく傲慢で保守的で、しかもそのせいか学ぶことに非常下手だと見受けますが。
中国文明からも欧米文明からもほとんど表面的なものしか学べなかった、だから毎回「いち早く転んだ」わけなんだが。
たとえいまになってさえ、「中国文明は何かを学ぶという伝統がない」と平然に語るというのも、中国文明の本質なところを何一つ分かってない証だ。
本来のところ言うまでもなく、大きな文明は「吸収」が得意だから大きく発展したのだ。
だめじゃないか、それくらい謙虚に考えられないと、表面的な形ばかり拘って肝心な本質を何一つ学んでなくて何になるや。
>中所得国の罠にはまっている現在の中国に必要なことは、そこから抜け出した先進国から学ぼうとする幼児的な謙虚さではないですか。
「幼児的な謙虚さ」とえば、まず地球に降りて現在の中国に行うことだな。「自分の目で見る」くらいの謙虚さがないとね。
最後にいい話をして締めよう、この世はね、二つの次元がある、幼児の表面次元世界と大人的本質次元世界がね。
例えば幼児たちの表面世界では、日本は礼儀正しい国のようだ。
ところで本質が見える大人的な世界では、逆に日本ほど失礼な国がないように批判が交ざったことも。
表面的世界ではいろんな制度があるようだが、しかし本質な世界では事を運ぶのはいつもエリート大人たちです。
で、例えば表面世界では「平和を愛する」インドは1962年の一件で「二枚舌前進政策侵略ゲーム」の化けの皮が大人たちの前で剥がれたら、ああ悪い、それまでだ。
各々の利益のために表面世界では西のメディアがいくら中国を批判しても、一方大人的な世界では逆にインドの幼児ぶりを冷笑し、歴史学者などが論文でインドの手口を暴れてしまう。
結局インドは幼児世界のプロパガンダを勝ち得るが大人世界の信用を負け失ったわけ、似たようなやり方が多い日本と同じ、国際世界の大人たちにまともに相手されなくなる。
逆にプロパガンダの世界で西側の国々は普段中国にどんな嘘八百な攻撃しても、外交で国益の話になると一転する、あら不思議あの中国をすぐに信用してしまうだと!
別に日本が格別に外交下手だったわけではない、それ以前の話である。
大人たちの間では、中国という国には大人の「礼儀」があって日本にはない、中華文明から「免許皆伝」のつもりで学んだはずなのに形だけの幼児作法ではな。
正真正銘の「大人の事情」である、これくらい察して。
で、住む世界が違うので話にならないのはもとより、同じ土俵にたつのもこれまでだ、ではでは。
私は日本語以外に、英語、ドイツ語、フランス語の文献が読めます。これらは学術先進国の言語で、その文献から学ぶことが大きいと期待しているからです。
中国語に関しては、古典を日本の方式(所謂「漢文」方式)で何冊か読みました。古典ギリシャ語やラテン語の文献と同様に、敬意を以ってできるだけ原文を参照して理解しようと努めています。
簡体字の現代の中国語は勉強していません。簡体字の中国語の文献から何かを学ぶということはありそうにない話だからです。国防研究とかになら必要かもしれませんが、将来勉強するにしても、それは先進国の言語を学ぶ時とは違う動機からということになりそうです。
私の語学的知識の話はこれぐらいにして本題に戻りましょう。「自分の目で世界を見て物事を一から考え直す」上で最も重要なことは、世界の様々な国の言語を習得すること(それは手段に過ぎない)ではなくて、常識にとらわれることなく、客観的な証拠と論理に基づいて理性的に考えることです。
いくら老婆心さんが外国語に堪能でも、中国共産党が作ったイデオロギー通りのことを言うだけなら、自分の目で世界を見て物事を一から考え直したことにはなりません。感情的なアジテーションではなくて、先進国の学術界がやるように、客観的な証拠と論理に基づいた理性的な議論をしてください。
「周知の事実」ということは、せいぜい、そういうプロパガンダが中国人の間で定着したということを示すだけで、「朝鮮戦争以来中国はいつも世界の覇権に賭けてる米国の最大の敵として大人の最前線で戦ってる」という最初の命題を証明したことにはなりません。50年代から米国が中国を最大の敵と考えていたと言うのなら、それを示す客観的な証拠を示してください。
1969年に中ソ国境紛争が起きたために、70年代になって中国とソ連の関係が悪化しましたが、その時米国(ニクソン政権)は、中国と国交を樹立し、中国を応援する側に回りました。もしも米国が中国を最大の敵と考えていたならば、中ソの対立を好機ととらえ、ソ連の応援に回っていたはずです。そうしなかったのは、米国が最大の敵はソ連と認識していたからでしょう。
70年代のニクソン政権から現オバマ政権まで一貫して国防総省の中国軍事動向を調べる要職にあったマイケル・ピルズベリーが、2015年に、The Hundred-Year Marathon: China’s Secret Strategy to Replace America As the Global Superpower 100年のマラソン:米国と交代してグローバル超大国になろうとする中国の秘密戦略(邦訳:China 2049)という本を出版し、「過去100年に及ぶ屈辱に復讐すべく、中国共産党革命100周年にあたる2049年までに、世界の経済・軍事・政治のリーダーの地位をアメリカから奪取する」という計画を暴露して、米国内で大きな反響がありました。
ピルズベリー自身も含め、かつての米国人は、最大の敵はソ連と認識しており、中国は自分たちの味方になるという錯覚に陥っていて、それが間違いであるとピルズベリーが気付いたのは2013年のことです。他の米国人の認識はそれよりも遅れており、2015年でもダンフォードが「最大の軍事的脅威はロシア」と証言していたことは既に述べた通りです。米国が中国を最大の敵と考えるようになったのはオバマ政権の末期で、本当に最近のことなのです。
計画経済に対する市場経済、独裁政治に対する民主主義政治が、頭のあるシステムに対する頭のないシステムというのは間違いで、むしろ無数の頭があるシステムと言うべきでしょう。一つの頭が考えるシステムと無数の頭が考えるシステムとどちらが良いかという問題です。
後進国が中進国になる時は、意思決定は一つの頭で十分です。なぜなら、その頭はたんに外資の参入を認めることだけをすればよいからです。むしろ、排外主義の反対派を抑えるためには、頭は一つの方がよいぐらいです。外資は安い労働力を求めて後進国に来て、資本を投下し、現地の経済を成長させてくれます。でも労働者の賃金が高くなると、外資はもう魅力を感じなくなって、他の後進国に行ってしまいます。
そこから先、中進国がするべきことは、自分たちで創意工夫を凝らして技術開発をし、新しい商品を作って世界に売り込み、先進国へと移行することなのですが、それに成功するには、各個人に自由に考えさせ、意思決定させ、行動させなければなりません。だから先進国化するには、自由な市場経済と民主主義政治が必要なのです。
中国は、特に習近平体制になってから、それをしようとはしません。おかげで、中国ではイノベーションが進みません。中国が世界で最初に発明した先端技術はどれぐらいあるでしょうか。全く無いとは言いませんが、人口規模と経済規模に比すれば、極めて乏しいと言わざるをえません。他の先進国の先端技術を盗んで模倣することは熱心にやっているようですが、そのような略奪を続けている国が世界のリーダーになれるわけがありません。
米国にとって日米安保を破棄することは、太平洋の覇権を危うくすることになるから、中国のように太平洋の覇権を狙っている国がいる間は、自発的にする確率は非常に低い。実際、選挙戦中に日米同盟を見直す発言をしていたトランプ大統領も、就任後堅持を明言しました。
万一、将来、米国が日米安保を放棄した場合でも、日本には、インドと軍事同盟を結んで中国の膨張に備えるという方法があります。実際、安倍総理とモディ首相の時代になってから、「日印新時代」と呼ばれるほど、日本とインドの関係は深まっていて、経済だけでなく、US-2をはじめとする防衛装備などの面での技術協力が進んでいます。もちろん、これは中国を念頭に置いた提携です。
これ以外にも老婆心さんは何やらいろいろ書いていますが、今回のコメントはもうこの程度でよいでしょう。中国人民解放軍は、2008年に政治工作として、世論戦、心理戦、法律戦の三戦を任務として加えたそうで、そのうち世論戦とは、「中国の軍事行動に対する大衆および国際社会の支持を築くとともに、敵が中国の利益に反するとみられる政策を追求することのないよう、国内および国際世論に影響を及ぼすこと」を目的としているそうです。老婆心さんがそういうプロパガンダ作戦の一翼を担っているとは言いませんが、こうした情報戦が行われているということに対して日本人は警戒をしなければなりません。
>「自分の目で世界を見て物事を一から考え直す」上で最も重要なことは、世界の様々な国の言語を習得すること(それは手段に過ぎない)ではなくて、常識にとらわれることなく、客観的な証拠と論理に基づいて理性的に考えることです。
いいことを言えてるじゃない、しかしやってることがまったく逆なのがいささか可笑しいかと。
西・日本の「プロパガンダ作戦の一翼を担っている」方でなけれぱ、先進国筆頭のトランプ大統領の孫さんみたいに中国語についても勉強しなさい、世界が見えてくるって。
さて、「学術先進国の言語」ができるじゃ話×冗談〇が早い。
あっ、言い忘れたかも、「客観的な証拠と論理に基づいた理性的な議論」でネトウヨとまともに歴史議論出来れば誰も苦労しない、そんなものでは異次元幼児中毒症に何の効用もないことくらい客観的に理解してるから、意味のないことをするつもりは最初から毛頭ないがね。
https://www.youtube.com/watch?v=Xsoc4-QnplY
https://www.youtube.com/watch?v=l2TvRYPthPo
はい、先進国の学術界の方が暴く、幼児だけが知らない嘘八百なプロパガンダの手本:「フリーチベット王の帰還」である。
ほら、こうも世界が違う常識が違うんだぞ、不毛な議論は時間の無駄であって意味ないわけだ。
https://www.youtube.com/watch?v=VAesMQ6VtK8
こちらニューヨーク・タイムズです、2016年の大ニュースだ。
悪いお知らせだ、東のイーサネットにあったのはプロパガンダ幼児様が主張する「情報統制」ではなく、やはり大人の「国家戦略」でした。
中国くんがまたしてもニュータイプ・モンスターを作りました、いや作れません模倣しました!連邦の白いヤツを模倣、模倣!
シリコンバレーくん、速やかに創意工夫を凝らしてWechatを「COPY」して対抗しなさい!NONONO I mean “an intellectual exchange”!
われら西側の「情報統制」いやいや「先端技術」が遅れを取ってしまうと、良い子たちのインターネット社会がこれから、中国が標準を制定する暗黒時代に突入してしまうぞ!
このままじゃせっかくのPRISMが台無しじゃないか!プロパガンダくん、この敗戦にどう責任を取るつもり?
トランプ:だから言っただろ、すべては中国の「貿易保護」のせいだ!中国人め、日本人のようにfacebookなどを素直に使えばいいものを。
しかし陛下…お言葉ですが、中国は大人であって幼児ではありませんので一筋縄では…
>老婆心さんがそういうプロパガンダ作戦の一翼を担っているとは言いませんが、こうした情報戦が行われているということに対して日本人は警戒をしなければなりません。
ごめんなさい、これは本当に噴飯してしまった。そのような世界に住んでるなら日本人はもう警戒をしなくていいよ、とくに終戦してるから、いろんな意味で。
冗談抜きで、中国は大人の世界にしか興味がありません、米国が別次元送り済みのシニビトには情報戦もなにも仕掛けません。
そんな面倒で無意味なことするくらいなら、直接に当の米国を倒して魔法を解くほうが手早いから。
>米国にとって日米安保を破棄することは、太平洋の覇権を危うくすることになるから、中国のように太平洋の覇権を狙っている国がいる間は、自発的にする確率は非常に低い。実際、選挙戦中に日米同盟を見直す発言をしていたトランプ大統領も、就任後堅持を明言しました。
中国デーモンズと米国ヒーローズの間にはもうほとんど消化試合しか残ってないから、トルコやフィリピンは観るのをやめてチャンネルを変えたわけだが、日本くんはそもそも別次元なのでタイムラインがずれてるところか放送内容自体を好きなように脳内改ざんしてた。
で、これからの流れを幼児君にどう説明しろと?いやヒーローたちは不老不死ではないぞ100%確率で引退するって!マジ解散だってありえるぞ?
調子狂うな、今日は何年何月何日だっけ。やはり危険すぎる、もう続けるとこっちがタイムスリップしそうなので退散するよ。
米国のインスタント・メッセンジャー・アプリ、WhatsApp がサービスを開始したのは2009年で、2011年には、アップルのトップ20アプリにランクインするほどの人気サービスになりました。これに対して、中国のインスタント・メッセンジャー・アプリ、微信(WeChat)がサービスを開始したのは、2011年です。どっちがどっちのコピーをしたのでしょうか。
中国は国内からシリコンバレーのサービスを締め出し、その模倣品を国内で作らせ、共産党の管理下に置いていますが、いくらユーザー数が多いからといって、それでもって中国のIT企業はワールド・クラスとは言えないでしょう。
他の日本人はどうか知りませんが、少なくとも私は、エビデンスとロジックに基づいた理性的な議論があるなら、定説とは異なる異端の説でも受け入れる用意はあるし、実際、私が開設しているこのサイトはそういう趣旨で運営しています。
ところが、老婆心さんは、私が「50年代から米国が中国を最大の敵と考えていたと言うのなら、それを示す客観的な証拠を示してください」と言ったのにもかかわらず、そうすることなく、チベット問題という別の話題に話をそらし、議論から逃げようとしました。これは老婆心さんには、客観的な証拠と論理に基づいて理性的に考えることができないということです。
それで、老婆心さんは、私を「まったく違う次元の世界に住んでるような幼児様」と評するのですが、もしもプロパガンダを一方的に叫び続けるだけなのが「大人の世界」だとするならば、そういう世界とは「まったく違う次元の世界に住んでるような幼児様」であることは、私にとっては光栄なことです。
先進国においても、嘘やデマが流布することがあるというのは事実ですが、そこから先は、頭が一つしかない社会とたくさんある社会とで違います。頭がたくさんある社会では、ある頭が何かを言っても、他の頭が異論を唱え、議論が起きます。そして、それを見ている無数の頭がそれぞれ判断を下します。
つまり、自由な言論マーケットでは、商品としてのコンテンツは、多くの消費者の支持を得られれば生き残り、支持を得られなければ淘汰されるという市場原理が働くのです。政府が作ったコンテンツ商品を一方的に消費者に押し付ける配給経済的な言論界とは異なり、市場経済的なメカニズムが働く先進国の言論界では、プロパガンダによる洗脳はより困難になるのです。
市場原理が機能する言論マーケットで多くの消費者の支持を得るためには、エビデンスとロジックに基づいた理性的な議論をする必要があります。でも、老婆心さんはそういう世界が嫌いなのでしょう。それならば、無理は言いません。このまま中国共産党のプロパガンダに洗脳され続け、習近平が謂う所の「中国の夢」を見続けるという幸せな人生を送ってください。
>米国のインスタント・メッセンジャー・アプリ、WhatsApp がサービスを開始したのは2009年で、2011年には、アップルのトップ20アプリにランクインするほどの人気サービスになりました。これに対して、中国のインスタント・メッセンジャー・アプリ、微信(WeChat)がサービスを開始したのは、2011年です。どっちがどっちのコピーをしたのでしょうか。
>中国は国内からシリコンバレーのサービスを締め出し、その模倣品を国内で作らせ、共産党の管理下に置いていますが、いくらユーザー数が多いからといって、それでもって中国のIT企業はワールド・クラスとは言えないでしょう。
なに偉い勘違いしているw日本幼児のユーモアなセンスはいつも飛び抜けてるな。
この時代になってこんなもので中国の「先端技術」を誇ってるとでも?いやいやいや、邪悪たる共産党の恐ろしい「情報統制」の小さな成果を見せてみただけだよ。
そちらから言い出したんたんでしょ、「情報統制」っていう冗談話、そのファンタジーに便乗りしたのさ。
てか思った以上に幼児的な反応をしてくれますね、暇つぶしにもってこいわけだ。
http://digiday.jp/platforms/wechat-mobile-commerce/
http://www.nihon-kotsu.co.jp/about/release/170124_1.html
同盟国のPRISMはともかく、敵国のこんな危険なものをタクシーにあっさり導入してはいかがなものか?度が過ぎた不用心だぞ。
気をつけろよ「情報戦」とやらを。「日本人は警戒をしなければなりません。」ってもっともっと言ってあげてくださいな、この調子じゃWWⅡの二の舞いだぞ。
>先進国においても、嘘やデマが流布することがあるというのは事実ですが、そこから先は、頭が一つしかない社会とたくさんある社会とで違います。頭がたくさんある社会では、ある頭が何かを言っても、他の頭が異論を唱え、議論が起きます。そして、それを見ている無数の頭がそれぞれ判断を下します
だから何度も言ったろ?ネトウヨ相手に歴史議論しないしないって、幼児に対しては皮肉をしても議論しない主義でね、でないと無駄に時間使った末「やはりが無限の頭を持つヒドラが最強にかっこいいじゃん、頭一つのダサい人間なんて時代遅れだよ、GODってバカはシステムデザイン分かってないっつうの!センスはサタン様以下だ」っていう笑えない展開にw
>ところが、老婆心さんは、私が「50年代から米国が中国を最大の敵と考えていたと言うのなら、それを示す客観的な証拠を示してください」と言ったのにもかかわらず、そうすることなく、チベット問題という別の話題に話をそらし、議論から逃げようとしました。これは老婆心さんには、客観的な証拠と論理に基づいて理性的に考えることができないということです。
ごめんよ、「サムさん曰く、日本くんが事後だからあんな図々しいこと言えてるんじゃ、朝鮮特需の天国モードじゃなく本来の琉球独立地獄シナリオでお仕置きしてたよ?」を歴史的にそらした時点、こっちはドン引きしました、そちらのあの程度の脳内ファンタジー世界にどうしても興味沸かないもんね、悪しからず。せめてあの田中宇さんくらいなアメリカ自滅希望だぁ~みたいなシナリオのあるファンタジーレベルにでもなれたら、一つ二つ突っ込みしてもいいと思いますが。
http://xizang.is-mine.net/index.html
この台湾の大人のように
「このサイトで真実をしっかりお勉強して、ファンタジーによる洗脳をしっかり完治させてくださいねカルト信者の日本人の皆様w 」は言いませんよ?
暇だなこの人、日本みたいなニセ民主主義社会はプロパガンダ洗脳でこそ衆愚システムが成立して運転できるのを知ってるでしょうに、一つだけ暴いてどうするんだよ。
しかしまあ考えてみてください、なぜ日本語を堪能できるようになったら台湾人までがこんなマジメな狂い姿に。中国のプロパガンダに洗脳か?まさか。日本の毎日毎日嘘嘘ばかりのプロパガンダの成果です、本当にありがとうございました。大陸側が直接プロパガンダなんかしたら、逆効果で台湾人は何も信じようとしなかったよ。ありがとう日本くん、大本営発表万歳!
最後の最後に、武士の情けに現実大人世界からお土産の玉手箱を残しておこう、「大人になってから」開けてね、そのうち現実逃避できなくなる日が訪ねてくるから。
「中国を地獄のように描く西・日本の自画自賛プロパガンダ洗脳に対して、こちらは逆手を取ってましたよ。中国のプロパガンダにあった嘘と言えば、それは海外への度が過ぎたほどの美化です。まあシステムが違うからその程度の絵本しか必要としなかったがね。なあに期待外れな顔しない、これ案外肝心ですよ?孫子の中華文明の醍醐味だ、そのメカニズムさえ理解すればあなたもやがて中華文明研究者卒業だ」
近代中国は人口過剰でね、だから外は素晴らしいからどんどん移民でもなんでもして世界に出ていてくださいねという大きい態度でした~どっかのすぐに精神論を走る者たちとは違いこっちは冷徹なまで現実実務主義だよ、百年計画くらいは立つよ。*
しかしあら不思議、幼児は出ていっても大人は逆に戻る。人口削減人材回収計画にご協力、ありがとうございました♪
*ああ駄目だ、ここまできてやはり一つは突っ込んでおこうw米国だって数十年くらいの見通しは作るさ、WWⅠ以前から漁夫の利戦争財計画を練って覇権を狙ってた国を2015になってようやく中国が敵?!という冗談はいまの情報過剰な時代では小学生も受けないぞ。いくらご自分が自己中無戦略自滅幼児だからって世界をもこう舐めては地球人が困る。まあそんなこと言っても台湾の暇人のようにサイトまで作って延々と歴史が!真実は!とか語るつもりは毛頭ないので、面白いインパクトを一つだけ:
50,60年代アメリカ風舞台で核戦後の世界を描く核の味というヌカ・コーラなどのブラックユーモアが盛んだ米国で名高いPCゲーム「Fallout シリーズ」がありました。Fallout では、ソビエト連邦は崩壊せずに2077年まで存続するにも関わらず、アメリカの最後の核大戦相手はなんと中国軍です、アメリカ大陸に上陸したのも中国軍の解放軍戦士で、ソ連・ロシア軍ではありません。また興味深いことに、中国軍の戦術本についても登場し、なんとプロパガンダで散々煽った西の公式言い訳の「人海戦術」ではありません、れっきとした隠蔽浸透戦術でした。つまり嘘八百のプロパガンダを散布する一方、アメリカの大人たちは「忘れた戦争」の塗り消した真相をもちゃんと頭の中で覚えている、これはさすが、要注意だ。
http://blog.livedoor.jp/m-10_33288/archives/51513955.html
もっと興味深いは、この世界にはなんと、米国の国家プロジェクトの一環として、ブラウン博士による仮想現実の世界がVault112に存在しました、のち博士の現実逃避の楽園世界に成り下がった「アメリカン夢」です。
で、この仮想現実にはフェイルセーフ・プログラムがあります。
そとプログラムのお題は…
「中国軍の侵略」です。
なんと、「アメリカン夢」の終焉は「中国軍の侵略」によって導きます。
「
「フェイルセーフ管理装置が起動しました」というメッセージが!
調べてみますと、「中国軍侵略プログラム」をロードすれば、精神と肉体が直結され、仮想現実での死がそのまま現実世界にも適応されるとか。これが老婦人の言っていた「解放」の意味。
しかし、自ら死を望むとは……その理由も、コンソールの中にありました。
」
つまり、「中国軍侵略」プログラムをロードすれば、博士の現実逃避空想エデンはお仕舞、現実世界に戻れます。
なんか意味深いシナリオだな…はさておき、で、ここもやはり、フェイルセーフプログラム・「ソ連・ロシア軍侵略」ではありませんでした。
今時少々「時代遅れ」な50年代のアメリカが大好きな米国のおっさんたちが作った一時代前のアメリカ人の色んな面の精神世界を映すロールプレイングゲームです、中国共産党の自意識過剰な自画自賛プロパガンダではありません、はい悪しからず。
ああ、例の話についてなんか肝心なことを一つ言い落しちゃったような…
そうそう、「Fallout 」は二十年も前からの名作シリーズで、設定上1988年発売した前作の続きだから、シナリオ書いたのは一時代前のアメリカ人で、そのときにはソビエト連邦はまだ崩壊してなかった。
よって、この世界では最後までソ連は崩壊しない、2077年まで存続します。
が、あくまでその米国の「好敵手」は中国との設定です。きっと、これもまたプロパガンダのため中共が差し金したんでしょうね、うむむむなんと恐ろしいよ中共の手段は、尖閣危うし~
老婆心さんに、客観的な証拠と論理に基づいて理性的に議論する意思がないことは十分わかりました。当サイトは学術サイトであって、罵倒する場所ではありません。口汚い書き込みでサイトの品質を下げてほしくないので、もうこれ以上書き込まないでください。
ああ悪い、すっかり忘れてたよ、謙虚に学ぶ幼児としてそちらには「学術先進国の言語」で書いた「客観的な証拠と論理に基づいて理性的」学術品質のあるお土産でなければならなかった。
プレゼントを変えよう、謝罪の意を込めて。
あっ、今回のはすぐに開けていいよ、3月19日の生ものなんだから賞味期限内にお召し上がりくださいね。
http://www.thetimes.co.uk/article/how-do-we-stop-net-giants-mugging-us-china-will-tell-us-for-a-bitcoin-7kkq2d6sl
http://www.straitstimes.com/opinion/how-china-took-on-the-internet-and-its-fang-and-won
じゃんじゃん、お好みの「情報戦」というテーマで、NYタイムズと同期に中国共産党が買収しましたイギリスの「サンデー・タイムズ」という老舗に頼みまして鋭意製作した「プロパガンダケーキ」です!
パティシエは世界名人の、歴史学者の副業もしてるニーアル・ファーガソンさんですので、「客観的」「論理に基づいた」味は保証できる上「歴史的な」渋い大人の味までするかもしれない。
これで少々お分かりいただけましたかな、なぜそちらが口してる「情報統制」というファンタジー話や冗談話には乗りますが、「情報戦」などの「客観的な証拠と論理に基づいて理性的に議論」には参加する意思がないことを。
品質のある議論できなかったことには遺憾の意を表すよ、もしそちらがニーアルさんのようなこっちの世界の話が通じる世界の常識を持つ大人だったら、きっと楽しい会話ができたと思うのに残念です。
ではでは、もうそちらの世界に踏んで空気読めない邪魔はしないよ、御無礼つかまりました。
なんか中国の余裕のないところを見た気がしますね。幼児的だと書かれたこのブログに過剰反応して、反日の人も集めてしまうのかなと思いました。
個人的には若者が過去の戦争や人種差別を乗り越えて、もっと色々な考えをシェアしてほしいなと思います。それこそ国家によって操られた若者は見たくないです。
うん、なかなかあってるね。
まぁしかし、これら全ては個人ではどうにも出来ない事なんだけど、日本の問題は、その個人すらきうすだって事かな。国って言うのはさ、どんな国でも国民てのはある種自由なようで、一つの箱の中での自由を自由と認識してるだけでしょ?
個人を作るのは、家庭的なものもそうだけど、社会的なものも大きい。教育とかテレビとかね…
国民とは、国に作られるもので、国にとっては財源であり、いわば工場で動いてるロボットやマシンとおんなじ価値。今の日本の人間性は、非常に作られてる感があるんだよね。まあ、ヤケになってる感じもするけど、日本の歴史なんか読んでても、今と何が違うの?ってモノばかりだしね。先進国的ではぜんぜん無いのだよ。
飴やって甘やかして、牙を削いで、普通とか世間とか言って型にはめて行かないと。国として成り立たない現実があると思う。国にとって危険なのは、ヤクザや暴力団でも、突発的殺人に走る人でもなく、強い思想を持ち行動が出来て正しい方向性を決められて、人をさらに導ける真のリーダーが存在する事なんだよ。国民とは国によって作られると言ったけど、それらがこの国の意思なのかどうかも怪しい。
他所でも見たのですが、アブラハムの宗教を砂漠の宗教と形容することに些か違和感を覚えます。
そもユダヤ教の起源をシナイの荒野に求めるのは伝説に立脚しているのであって、科学的事実として認められた物ではありません。聖書を合理的に解釈して導かれた仮説なのでしょうが、全ての事象、特に人間の行動に合理性が認められるわけではないので、合理的解釈を行ってもそれが事実であるかは確認のしようもありません。つまり、ユダヤ教は砂漠の宗教かどうかはわからないです。
キリスト教の現れたのはパレスチナですが、この地域は砂漠のみならず、それなりに豊かな地域も存在します。伝説ではキリストは砂漠地帯より、ヨルダン川の方で動いていますし、砂漠で生まれたという論拠もありません。なのでキリスト教も砂漠の宗教とは言い難いのではないでしょうか。
イスラム教は確かに砂漠で生じた宗教です。しかし、アブラハムの宗教では最も遅く生まれた宗教でもあります。果たして、本当に砂漠が砂漠の宗教を作る大きな一因となるのであれば、どうして砂漠の境界付近で生まれたキリスト教やそもそも砂漠で生まれたかどうかが怪しいユダヤ教より、イスラム教が最も遅く、キリスト教より更に数世紀遅れて生じたのでしょうか。
更に言うと、砂漠の宗教とは7世紀以来の勢力図しか見てない人が使う言葉といえます。ミラノ勅令以来ローマはキリスト教の国となりましたが、その時代は過酷な唯一神を求めるとされる砂漠こそが多神教の地であり、豊かな帝国は一神教の地とされていました。
以上のことから僕は砂漠という形容に疑問を抱くのですが、永井さんは砂漠の宗教は砂漠が生んだとお思いになりますか。
私は確かに「キリスト教も、もともとイスラム教と同様に、砂漠の宗教であり、純粋な男性宗教だったのだが、豊かな森に恵まれたヨーロッパでは、女性宗教と妥協した」と書きましたが、ここでの記述からもわかるように、私は「砂漠の宗教」を「森林の宗教」と対比させています。だから、あまり狭く考えずに、湿潤地域の宗教に対する乾燥地域の宗教ぐらいに認識してもらった方が良いかと思います。『旧約聖書』の記述から考えると、当時の人たちは遊牧を営んでいたようで、少なくとも、家畜に食ませる草ぐらいは生えていたと考えられます。
ローマ帝国において、キリスト教は最初乾燥気候や地中海性気候(降雨量の少ない温帯気候)の地域で普及し、より森林が多い西岸海洋性気候の地域(現在の英独仏が存在する、降雨量の多い地域)で普及するようになるのは、後の時代においてです。
乾燥地域の自然は湿潤地域の自然よりも過酷ですが、一神教の成立という点でもう一つ重要な属性は、見通しがきくということです。森林が存在しない平原では見通しがきくので、一者が大勢を支配する中央集権的な政治システムができやすい。これに対して、見通しの悪い森林地域では、分権的になりやすい。宗教でも、後者の方がアニミスティックな多神教が温存されやすいということが言えます。
自然環境説に限界があることは、本文でも書いたとおりです。自然環境は人間に影響を与えるけれども、それがすべてということはありません。
日本の場合、女性の方が情けない。
男性はまだマシな方。
日本人が幼稚なのはまだ深刻な分断が起きたことがないから
サイコパスと自己愛性人格障害ではどちらが大人考え方ですか
これは大人の考え方ですか
サイコパスで凄まじい拝金主義で合理主義で認知的共感が極めて高いが協調性はなく建前主義
これはネテオニーが低いと言えますか
大人になると必ずサイコパスになる
サイコパスという言葉は濫用されていて、定義があいまいになっていますが、精神病患者のこと指すとするなら、それは完全な発達によってではなくて、むしろ発達障害によってなる人々と理解した方がよい。
机上の空論ですがネテオニー性は低ければ低いほど良いのですか
男性は全て共感性無しで全員筋肉質
またネテオニー性は
高すぎるとどうなりますか
なぜ人はネテオニー性が高くなる進化をしたのですか
普通進化は雄の場合、共感性が非常に低くなる方に進化するはずです
実は男性ホルモンには共感性を下げる作用がある
進化は、環境を無視して一方向に進むものではなく、それぞれの環境に応じた適応を行うことで多様に進むものです。
多くの言葉や例でカモフラージュし、ごまかす。
あたかも自分が知的で正当性があるように見せかけ、主観でめちゃくちゃなことを言う。
「日本人」と1つにまとめて幼児呼ばわりしている著者が最も幼児的。
ま、あえて言うなら日本人の幼児的な部分といえば、しょせん中国人の台湾を日本と似てて親日な人が多いと勘違いしてるバカぐらい。中国語話す中華圏の漢民族だろ。
台湾が親日的という時、台湾原住民(オーストロネシア語族の言語を話す漢民族とは異なる民族)や日本統治を経験した本省人といった台湾人を念頭に置いているのであって、反日的な外省人が一部いるからといって、台湾が大陸の中国よりも親日的であるという命題を否定することにはなりません。
原住民、外省人、本省人といった台湾を構成する人々の多様性を無視し、「台湾」と1つにまとめて中国呼ばわりしているあなたも、あなたが言う意味で「幼児的」ということになりますね。
ちなみに2016年3月14日に発表された聯合報民調によると、73%の台湾人が「中国人ではない台湾人」と答えております。こうしたデータを無視して、「しょせん中国人の台湾」と「主観でめちゃくちゃなことを言う」のはやめましょう。
一般に民族気質について論じる時、その民族の多数派に見られる傾向について論じているのであって、全員に同じことが当てはまるということは想定されていません。この点で自然科学と異なって厳密ではないと思うかもしれませんが、自然科学も単純化された理論ではなくて、複雑な現実を相手にする時には、統計学的手法を取らざるをえないのです。
実は合理的だがヒトの気持が解らないのはリベラルの傾向?
相手の政治的立場を想像させると興味深い結果になる。
保守主義者にリベラルの賛成しそうな政策を推測せよ、という課題を出すとかなりの好成績を出すが、リベラルは保守主義者が弱者への保護政策に反対するだろうという誤った推察をした。
正義感の6軸は実運用上は相反するものもあるから、自分の重視しない他の軸を重視している保守主義者を見るとリベラルは自分の軸が軽視されたように感じる。しかし、これは誤った認識。
永井様いろいろ言われて大変ですね。
アタシが思うに「日本人が幼児的」(幼児性が劣る)という「あたかも価値の上下」を含んだような用語で論ずるのはちょっと不適当かと。仮に日本人が「幼児的」であろうと、状況によっては自立主義的態度よりも合理的な適応的態度ということになります。そして戦後体制はそうだった。1、米国庇護の安定した世界貿易体制の下で軍事に無駄な金を使わない軽武装国家として、2、「他人の真似をする」「出る杭は打たれる」「寄らば大樹の陰」(異端者や天才を忌避する)依存社会は、均質で品質にこだわった物作りを可能にし、戦後の日本の成功を支えました。
現今の政治的問題に引き寄せれば、「アメリカに依存せず独立する」というやり方はアリだと思いますが、それを単に心理的態度の成長に絡ませる考え方はまずいと思います。ある心理的態度が「大人」であるのと、日本が今直面している国際問題でどういう政策をとるのが現実的かというのは、全く別の問題だからです。といった上で、首相がヒラリーにもトランプにもおべっかを使うのは、実に無様だと思いますが。
気になるのは、将来の日本のことです。過去の日本は自分の「依存的性格」を物作りと世界貿易体制に立派に生かしていた。ところが今後はそれができるかという点です。最近読んだセラピーの本によると、「依存性」「自虐性」「強迫性」のセットが旧日本人の典型的な性格だそうです。ところが、自立が重要といいながらいまだに「KY」等という言葉がはやり、ゼンゼン依存性を脱却していません。他方で「ブラック企業」たたきがはやっていて、「自虐性」「強迫性」の方は失いつつあるのでは。これは、日本の物作り品質の劣化や大企業の劣化にも反映しているのではないでしょうか。仮に日本が米国や中国のように、自立個人を前提にした「圧倒的な個人が作り上げる優れた業績」で勝負するシステムに生まれ変わればそれでもいいのですが、それも無理でしょう。今の状態だと、過去の日本にもなれず、といって中国のように新たな分野にチャレンジし発展し続けていくことも不可能でしょう・
gkrsnamaへ
私は日本人を世界中間気質に持って行けば良いと思う
全ての気質を世界平均
これはネテオニーが低いと言えますか
シリコンバレーの経営者のように情動的共感性が極めて低いか完全に無いのか男性の基準人格で自我は強ければ強いほど良いとする民族
実は中国人はアメリカ人より外向的で強欲だが反社会的発想は低い
プロパガンダ自体は各国みんながやってるし、イギリスも、アメリカも、日本も。イラク戦争の報道を見ればわかる、BBC、CNN、NHKとも報道したが、自国の視点からのもので、自国視聴者にあう、時に捏造までする。イラク戦争の大義名分とした大量殺人兵器はいまだに見つかてないまま。先進国の研究は先進なものとは限らず、現場に足を運べず、資料とデ-タだけの集まり、旧来の理論によっての研究は所詮 書斎研究だ。日々変る実体からかけ離れるのはしばしばだ。先進国の研究で、他国の状況を誤って判断されたケ-スは数え切れないほど。イギリス人は今も日本に侍がいると思う、アメリカ人は今も中国は自転車大国だと思う。自由は自分自身が得られもので、アメリカにも情報検閲、日本にも記者クラブによる自粛。情報得るのはあくまでも自分次第。民主主義などとそんなに関係ないと思う。台湾人は自由にアクセス出来るが、自主性がなくて、大陸のことは日本より知識が乏しい。さって、情報収集より、自分からの判断力はもっと大事なこと。他人の研究に惑わず、現場自身の研究に基くべき。
自由からの逃走 エーリッヒ フロムが書かれるように、日本人は権威主義であり、民主主義には馴染めません。長い時間 村社会で共同体の顔色を伺って自己を抑制し、そこからはに出たものは村八分で虐待するシステムが、江戸時代何百年と続いてきたのです。インドのカースト制に等しく遺伝子レベルまで改造された民族が、たかだか数十年の民主主義の価値観に沿った性質を手に入れれるとは思わない。
日本人の共同体意識は、周囲の顔色を伺うものであり、非常に小さな枠の中にあります。 対して民主主義の基本は自立であり、自立とは、個の持つエゴを主張し、そのエゴを社会(相手)に受け入れさせるプロセスの中で、自身にエゴがあるのと同様に相手にもあるエゴがる事に気付き、自身と相手とのお互いのエゴの妥協点を模索する行為です。 そのやり取りの中でお互いへの尊重を学び、お互いが持つ共通的な部分 ひいては普遍性も学びます。つまり個人主義(民主主義)は、共同体と対局にあるスタイルではないのですよ。むしろ、普遍的な価値観と相手への尊重を自立の中で自然に学んだ人だけが理解できる価値観なんです。
対して日本人は、普遍的倫理観が無いと言う大人が多いような国で、人類が持つ普遍性(共通する意識 共同する必要性)を自立のプロセスの中で、人間がお互いの関わりから自然に気付いて行くと言う事を、村社会と言う枠の中の抑制の中で村社会も小さな共同体に与えられ(強制され)るルールとして、個の尊重無く組み込まれる社会システムです。
自立は、そのプロセスにおいてタフな精神力が必要ですので、自立しなくてもいい社会では、自分の考え(思考)を放棄し、人に意思決定や責任を丸投げできるので楽です。 そして、そう言う人間は得てして権威主義になります。お上に依存すれば意思決定も責任も不要になるので、依存して楽をしたい人に向く制度です。 自然権威主義者は、その価値観から男尊女卑になり、女性も権威のある男性を好むようになります。
https://jp.vice.com/lifestyle/what-its-like-to-grow-up-with-elite-neo-nazis
上記はネオナチの社会を書いた記事ですが、現在の日本に類意するように感じます。
こういう社会では、自立した自ら思考し自らの価値観を持つ人間は、大人(自立)とはなりません。 権威的価値観に迎合する人間が持ち上げられるんでは無いでしょうか? 自立したに人間にしか理解し得ない人間に共通する普遍性を理解できていないので、アイヒマンのような人間やスノッブな人が大人扱いされ、本人もその価値観を疑う事は無いのでしょう。 自立した経験者は、人間の普遍性を根ざしているので、人間はロボットでは無く感情も含めて人というものを理解した価値観を知っています。理屈や論理性だけで人や社会が成り立っているわけでは無いのですが、アイヒマン的思考者やスノッブな勘違いを払拭できない 無意識化で本質的に権威主義の日本人には、スノッブなだけで、 真の自立も 自立した人間だけが得る普遍性を理解できないし そこから生まれる価値観(民主主義)を語る資格を得る事もできません。
日本に民主主義を語れる人間がいるのでしょうか? それは、日本以外で暮らして来た人間か日本人以外ではないでしょうか?
伝統的な共同体が解体してばらばらになった個人が、自由の重圧に耐えきれなくなってファシズムに走るというのがフロム的説明で、これはドイツのナチズムの誕生を説明する理論としても間違っていると私は考えているのですが、それはともかくとして、もともと共同体のしがらみが強い日本での同調圧力をフロムの理論で説明するのは適切ではないかと思います。
実際、同じ全体主義とされた日本とドイツとイタリアですが、日本には、ヒトラーやムッソリーニのようなリーダーはいませんでした。形式的には天皇ですが、実質的な権力は天皇にありません。ドイツとイタリアでは、ヒトラーとムッソリーニの死亡とともに戦争が終わりましたが、日本は、東條内閣が退陣した後も戦争を続けました。リーダーなき共同体というのが日本社会の特徴です。
今後確立するであろうai時代においては、aiが人間の面倒を見るので、人間の幼稚さの一切が肯定される。問題はそれまでの数十年間だね。
あなたの理論に共感します。
私も、やはり幼児性の強い人格ですが
日本人は、極端に幼児的で、変に古代てきたなのです。
それが、政治にも、学校のイジメ問題にも責任
が持てない所だと、思います。
やはり、社会に生きると言うことは、
それなりに責任を持って孤立して生きなければならないと思うのです。
私は、成人した幼児なので、結婚も子供も
作りませんし、孤立してもそれが私はだと思います。
責任を持つために実名で残します。
かなり古い記事ですが、興味深いと思いました。帰国子女として、もう一つの祖国である国についてなんか分かった気がします。ままだおられるでしょうか?
しかし、日本は母中心的とはやはり意義があります。女性は男性のために身を尽くすべきのような文化は、日本には昔からあるではないか?家族のために働くのも主に男性だし、昔から女性が権力のある社会だとは言えないのではないか。西洋でも、国を女性的な、多くの場合は母のような存在と考えたり、聖母マリアを讃えたりするではないか。しかも、イギリスのエリザベス、オーストリアのマリア・テレージア、やロシアのカトリーヌなど、日本にはありえない女王が歴史に数々いてるではないか。ここは違いはそれほどあるのでしょうか。
まだ日本語能力が未熟なので、表現が貧しければすみません。「じゃないか」を使いすぎたのに気づきました。
しかし、今の時代、日本を批判する声を読めるのは珍しいですね。英語で言えばRefreshingです。日本でもナショナリスト右翼に攻撃されずにこんな事を言える時代が来たらいいですね。
日本にもかつて卑弥呼という女性のカリスマがいたし、女性が天皇となったこともあるので、その点はヨーロッパとそれほど異なることはないと思います。
典型的な日本の萌えキャラクター。目を大きく描くことでその幼児性が強調されている
>>こじつけもいい所。論理的な議論がしたいならまず、あなたが偏見を捨てねばならない。
日本のアニメや漫画は星の数ほどあれど 萌え が売りの作品など一部でしかない。
そのキャプションは、この絵が典型的な日本の萌えキャラクターと言っているだけで、萌えキャラクターが日本のアニメや漫画のキャラクターの典型であるとは言っていません。論理的な議論がしたいならまず、文章を論理的に理解することから始めましょう。
初めまして。
興味深く拝見させて頂きました。
全てのコメントを読むことはできませんでしたので、もし既出でしたらご容赦下さい。
日本はネオテニー国家であり大人にならなければならないとありますが、冒頭にて類人猿の中では人類/人類の中ではモンゴロイド、がネオテニーともございます。
これを踏まえますと、ネオテニー国家である日本/日本人は進化系であり、大人(男性国家)になるということはむしろ退化することではないのかな、と思いましたがいかがでしょうか。
これまでの私の経験(イギリス(長期滞在)・オーストラリア(長期滞在(現在進行形))・中国(仕事)・韓国(仕事))を踏まえますと、イギリス人の考え方は日本人に近く、オーストラリア人は宗主国のイギリス人や同盟国である日本人よりもむしろ中国人に近い気がします。アメリカに行ったことはありませんが、日本で会ったアメリカ人の考え方はやはりオーストラリア人や中国人に近い気がします。アメリカ・オーストラリア・中国のような広大な土地で多民族国家を支配するためには強い男性的な思考回路が必要かと思いますが、それは短期的な利益を追求するのみであり、長期的な安定性には資することがないように思います。
イギリス人もはっきりと決断をせずに他人頼りの傾向があります(歴史上の二枚舌外交や現在のBrexitを見て頂ければわかると思います)。
素早く決断し実行力にあふれる大陸的思考回路は魅力的に見えますが、一方で大きな失敗や挫折をするリスクもあります。歴史的に大陸は革命や内戦を多く経験しています。
世界的な評価として、日本人もイギリス人も物静かでオブラートに包んだような表現を好み不気味な存在であるとされています。(共に典型的なイメージが酔っぱらった出っ歯のメガネ)
しかしながら共に長期間に渡って一貫性のある社会システムの構築に成功しております。
戦争で大勝することも少ないですが、大負けすることもあまりありませんでした。
大きく文化歴史が異なるユーラシア大陸東西端に位置する日本とイギリスで共通点を見つけたことは大きな衝撃でした。
大人になる(男性的な思考回路になる)ということは、島国で独自の進化をとげてきた日本人の特徴を捨ててしまうような気がするのですが、いかがでしょうか。
よろしくお願いします。
日本と英国の共通点は、島国であることです。生物学の分野では、島嶼化と呼ばれる現象があります。小さな島では、大きな動物は小さくなり、小さな動物は大きくなり、大きさが同じようになるという現象です。これは、捕食者から身を守るために、体を大きくしたり、小さくしたりする必要がないからであると考えられます。
人間の社会でも同じような現象があり、大陸では、外敵と戦うために、強いリーダーとそれに従う無力な部下という二極化が起きやすいが、小さな島国では、独裁者が生まれにくい反面、個々人の能力は高くなるという分権的な政治体制になりやすい。本川達雄さんもこう言っています。
既に述べたように、日本と英国との間には違いもありますが、分権志向が強いという点では共通点があります。英国で17世紀という早い時期に市民革命が起き、独裁政治が誕生しにくく、Brexitを決断するなど分権的な政治志向を持つのも、島嶼化のためと考えられます。
ご返信誠にありがとうございます。
島嶼化との現象初めてお聞きしました。非常に勉強になりました。
実は現在ニュージーランドに旅行で来ておりますが、不思議なことに地理的に近いオーストラリアよりもやはり同じ島国のイギリスや日本に似た雰囲気を感じています。
本題とはずれてしまうかもしれませんが、さらに2点ほどお聞きしてもよろしいでしょうか。
①島国は大陸からヒト・モノ・情報の面で隔絶しており、ご教示頂いた分権志向を含めて大陸と比較して独特の文化があると思いますが、一方で逃げ場がないため一度外国に支配されると言語を含めて統合されてしまう恐れもあると考えております。(歴史的には、韓国の済州島・アメリカのハワイ・地中海のシチリア島やコルシカ島等)
基本的な国力で劣る島国の大陸国家に対する戦略とはどのようなものがございますでしょうか。
②正確な参考文献を失念してしまいましたが、「人類の移動/文化の伝達は東西では素早く南北だと時間がかかる」との言葉を記憶しております。個人的にも時差より気温/季節差の方が調節するのが難しいと実感しております。そのため南北での考え方/文化の差異は東西以上に非常に大きいと考えています。寒い国では農耕にしろ牧畜にしろ食糧を生産するためには協力し合う(組織的)である必要があり、温暖な国ではその必要がなく比較的個人主義的(勝手気ままという意味で)かと思います。ただ温暖な国(アフリカ・中東・インド・東南アジア等)は一人当たりGDP等のいわゆる経済指標では劣っているものの、個々人のパワフルさは北国の人間が到底太刀打ちできないとも実感しています。
地球規模でみたときに、このような気候や自然環境を含めた「南北の差」が日本・日本人に与えてきた影響また今後どのような影響を与えていくかご教示頂ければ幸いです。日本より温暖な国に対する戦略と冷涼な国に対する戦略を別途明確に定める必要があると考えております。
島国は天然の濠で守られているがゆえに、外敵の防御が比較的容易なのですが、そうであるがゆえの油断もあって、いったん外敵が天然の堀を克服すると、簡単に征服されてしまうということがあります。現在は航空技術の発達により、天然の堀があまり機能しなくなっているので、日本人も平和ボケを治して、有事に備える必要があると思います。日本人は、まるで母にすべてを委ねる子のように米国に安全保障を委ねていますが、トランプ大統領の時代ではこうした一国依存は危険です。インドやベトナムといった中国に対して日本と同じ状況に置かれている国と提携するという遠交近攻の策を安全保障のバックアップとして築く必要があると思います。
近代の工業革命は、小氷期のヨーロッパで始まりました。熱帯は、豊かであるため、工業革命を起こす必要がなかったし、寒帯は、人口が少なくて、工業革命を起こすことができませんでした。工業革命を起こす能力があり、かつ必要があったのが、小氷期に苦境に陥った温帯地帯だったということです。今でも、日米欧といった先進国は、温帯に存在します。先進国は、アフリカのような後進国を軽視していますが、中国はアフリカ支援に力を入れています。これは毛沢東以来の辺境革命の精神を受け継いだものと考えられます。辺境だからといって軽視していると、世界の覇権を中国に奪われてしまいます。
しかし、先生は女性を大事にするのは悪いとでも言っているのでしょうか?
そして、アメリカで育った女性として、西洋の方が女性を平等に見ていると思います。
男女平等に基づいて「女性を大事にする」ということと女性をペットのように大事にすることは同じではありません。
極端になりすぎて滅んだ国はありますか
国が滅んでも、また別の国ができて、民族気質自体は簡単には変わりません。
欧米人の性行為は一際激しいイメージがあります。具体的には髪の毛を引っ張ったり、スパンキングをしたりです。
私もそういうプレイが好きなので、日本にそういうメーカーがないか探しましたが欧米程のものはありませんでした。
欧米の男にとって、妻はペットなのであるという永井先生の発言を見て、なるほどと思いました。
欧米の主従関係をはっきりさせるような激しい性行為はそういうことだったんですね。
また話は変わりますが、なぜアメリカ人はレズビアンが好きなんでしょうか。
超人気アダルトサイトが2017年をまとめた統計レポートを公開、日本人ユーザーのフェチも明らかに
性的倒錯なら日本にも存在します。
「よーし、どこでも生きていけるために大人になるぞ!」と思って努力してたら病んじゃった。なんてこともあると思いますが、これはその人が精神的(潜在的に?)に幼児的だから起り得ることなのでしょうか?もしそうだとしたら、この人が大人になるのはもはや難しいような気がします。
また、周囲の人間はそのように努力する人間を「無理している人」と見て、「いい加減、大人になりなよ(落ち着きなよ)」と言う事もあると思いますが、これらについてどう思いますか?
「先天的幼児」という言葉はアメリカのプロパガンダのせいで全く良い印象がありませんね
文化帝国主義の負の産物です
上に書かれた内容については間違ってはないと思いますが実際に欧米の文化帝国主義に洗脳された方々が日本に関するものすべてを悪と決めつけるために都合よく使っているのを目にします
まあどんな学術的用語ですら蔑称になる時代ですしその学問自体も間違っている(優生学など)こともあるので仕方ないですが
幼児的であることを悪と決めつけている空白さんのほうが「欧米の文化帝国主義に洗脳され」ているのではないのですか。それぞれの文化にはメリットとデメリットがあり、どちらに転がるかは環境次第です。重要なことは、人類文化が、多様性を持つことで、全体としてリスク分散されていることです。
性犯罪だらけのイスラムなんかより日本がいいですわ…
>>幼児は、外界から遮断された擬似胎内空間を作ろうとします。アニメや漫画が、実写である映画や写真と比べて幼児的といわれる所以は、外界の現実をそのまま受け入れるのではなくて、外界とは切り離された自分たち独自の小宇宙を作ろうとする点にあります。少女たちのままごとも、大人の世界から切り離された、自分たち独自の模造世界を作ろうとする点で、幼児的です。盆栽は、幼児的に見えないかもしれませんが、自然の大木を模写して、自分だけの小さな模造世界を自宅内に造ろうとしているから、やはり去勢以前的な胎内回帰願望の現われと解釈できます。
昨今どうぶつの森と呼ばれるゲームが発売されています。まさに外界から切り離された自分たち独自の小宇宙を作るゲームのように思えるのですが、これは幼児的なゲームという認識で良いのでしょうか?
このゲームを作ったのは調べるまでもなく日本で製作されているのでしょうが、意外と海外のゲーマーにも人気があるようなのですが、海外で日本文化を好むそのような層は一般的な人々に比べて大人になりきれていないのでしょうか?
そのゲームが小宇宙と呼べるほど小さいかどうかが問題です。もちろん、小さいというのは物理的な大きさのことを言っているのではなくて、社会的な大きさのことです。自分だけあるいは少数の友人だけが浸れる世界なら、小宇宙と言えるでしょうが、誰でも参入して、影響を与えることができる世界なら、実社会と変わらないから、「自分たち独自の小宇宙」とは言えないでしょう。
「あつまれ どうぶつの森」がどのようなゲームか詳しくは知りませんが、かつて、Second Life(セカンドライフ)と呼ばれる米国のメタバース・サービスが流行しました(今でもまだあるらしい)。これなども誰でも参入可能で、「自分たち独自の小宇宙」と言えるほど小さなものではないと思います。
確かに、高齢者に対してまるで幼児であるかのように話しかける介護者、看護師、近親者を見たことがある。その多くは女性で他人であるか、義理の家族が多いように思う。その人らを分類するならば、
A. 認知機能が衰えた高齢者にわかりやすく話す人(敬語あり)
B. 子ども扱いをする人(敬語なし)
とに分けられるように思う。どうやら、責任が介助者側に問われる施設・病院のような場所ではBの言動をとる人が多そうだ。Bについては、差別的なエイジズムだとして問題視されているようだ。
映画プライベートライアンのノルマンディー上陸の場面でも兵士が死ぬときはママー!と叫んでましたよ。
その映画見たことがないのですが、ママと叫んでいたのは、主人公ですか。
日本人の幼児性は知能主義や精神主義ではどうにもならない、言語や意識ではどうにもならない事を認知できた時にこそ、まさに成熟が訪れているのであろうし、私の認知の範囲で人間の成熟とは社会での個の存在の豊かさそのものであり、その個の連帯によってこそ成熟社会が実現するのである。
つまり急務として、自我を異形化させたり自己喪失したりする事無く、自分の人生を生きられる人間が増えなくてはならない。
それなら幼児的でなく母権社会的と呼ぶべきなのでは?
段階に留まってるって正しい方向があってそちらに向かうのだ!ってラマルクというか定向進化論ぽくて嘘くさ。
人もしょせん生物であって進歩など幻想、進化だけですよ実在するのは。進化に正しい解、方向生などなく適応あるのみ。
フロイトが説くリビドー発達段階を進むことが正しいとは言っていません。だから、結論で「幼児的であることは、必ずしも悪いことばかりではない」と書いたのです。
哲学なんてただの言葉遊びだよ、
ずーっと延々とキリがないでしょ?
そのキリが無い思考状態は何かが欠けている証拠なんだよ。
つまり人間は人間である以前の土台として動物であって生き物であって、その生き物としての健全性を考えなくては駄目なんだよ。
ある識者は、日本はかつて性的弱者の国であったと述べた、全てはそこに由来するのだと思える。
島国の日本人は中世ヨーロッパの人間のような人種問題や人災の歴史を経ていない為に社会秩序としての個人の成熟に無頓着でいられたのであって、中世のあらゆる災厄の中を生きた人間がどれほどまでに社会の秩序を切望したのかを理解すれば、現代の世界の均質化における日本人の後進性、つまり幼児性の問題も明らかになるはずである。
”このように、日本人は、先進国が作った物のミニチュアを作ることに熱心なのだが、これもまた、きわめて幼児的な現象である”
先進国の作ったものを模倣し、その改良版を安価に製造・販売するというのは多くの発展途上国が自国の経済を成長させる過程で通る道ではないでしょうか。
日本人は、たんに改良するだけでなく、小さくします。
Googleで、「American childishness」と検索すると、「アメリカ人は幼児的だ」という趣旨の論文や記事、また「西洋文化の幼児化」に関する記事や論文も多数ヒット。
「한국인 유아적」と検索すると、「韓国人は幼児的だ」という趣旨の論文や記事が、「中国人很幼稚」と検索すると、「中国人は幼児的だ」という趣旨の記事が…。
どこの国の人間も、同じようなことを思っているのでしょうか。
「幼児的」という言葉は多義的なので、どういう意味で使っているかによります。私も、ここでは、精神分析学的な特殊な意味で使っているので、日常的な意味での「幼児的」とは少し異なります。
幼児性を考えるなら、まず何が成熟なのかを考えるほうが早い
成熟とは多義的な意味での存在の美しさだと思う、決して現代の病的なルッキズムの事ではない、正しくルッキズムも幼児性の一環である。
ルッキズムに囚われた人間の、その社会的存在はもれなくグロテスクである。
そしてそれへの客観性を持たない事が幼児的なのである。
これはあらゆる価値観にも言える事で、それに囚われるが余りに自己への客観性を失っていないか、社会性の貧困に陥っていないか、常に意識していられる事が成熟した社会的に豊かな人間の「個」の姿である。
日本人同士で戦争してたから隷属経験説は違うのでは
日本人同士の戦争の場合、勝者は敗者の部下を引き受けるので、民族全体が異民族の奴隷になるような悲惨な体験とはまた違うと思います。
幼児的であると言う事は、社会秩序の構成員として「期待されていない」と言う事である
成熟した人間とは、社会秩序の構成員として
その行動や存在への期待にたり得る人物のことである。ここで交わされる知識も、その行動や存在へ集約されていなければならない。
なぜなら社会秩序への貢献とは 行動と存在 による責任でしか成し得ないからである。
その自覚を避けただ議論に終始し、自尊心を満たしているだけである事もまた、「幼児的」なのである。
マッカーサーの「日本人12歳説」
https://www.jice.or.jp/tech/columns/detail/31
日本人の幼児性とは、幼体的外観からも示される動物的尊厳の不全であり、人間としての根幹的な幸福度の低さを孕んでいる。
これが社会においての他者への他罰的性質を生み全体主義的傾向へと繋がるのである。
つまり動物的不具感の克服として日本的精神文化が生まれたのであるが、その根底には常に拭いきれない慢性的不全感とその恨みの感情が二面性として流れているのである。