10月 012003
 

18世紀のイギリスの哲学者、デイビット・ヒュームは、因果関係の客観性を疑った懐疑論者として有名である。しかし、原因と結果の結びつきだけでなく、原因と結果の分割自体が主観的であり、その主観的動機を考えるならば、事象を原因と結果に分割した段階で、既に両者の関係は不確定になっていると言うことができる。

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1. 因果結合の客観性に対するヒュームの懐疑論

ある出来事Cがある出来事Eの原因であるための必要十分条件は何であろうか。デイビット・ヒュームは、CとEが近接していること、CがEに時間的に先行していること、そして最も重要な条件として、CとEの間に必然的な結びつきがあることを挙げている[David Hume:Treatise of Human Nature,1.3.2]。

ヒュームは、因果関係は客観的に存在するという当時の常識に反して、因果関係が心の中にあると考えた。実際、原因と結果は知覚できるが、原因と結果を結びつけている因果関係を直接知覚することはできない。CとEとの因果関係は、Cの後にEが頻繁に現れるために、想像力が習慣的に二つの観念を結合させることで形成される[David Hume:Treatise of Human Nature,1.3.14]。

したがって、因果についての信念は、蓋然性の域を出ない[David Hume, An Enquiry Concerning Human UnderstandingSection IV. PART I.]。因果結合は主観的だから、必然性はないとするヒュームのこの見解は正しいだろうか。

2. なぜ因果結合は必然的ではないのか

私は、結合が必然的であることは、因果関係であるための必要条件ではなくて、因果関係ではなくなるための十分条件であると考えている。原因と結果の結合は、主観的であるがゆえにその必然性が疑われるのではなくて、必然性が疑わしいからこそ、主観は、出来事を原因と結果に分割するのであって、原因と結果の結びつきが必然的になると、原因と結果は、原因と結果ではなくて、一つの出来事になってしまう。

例を挙げて説明しよう。リモコンのボタンを押すと、それが原因となってテレビ放送の開始という結果をもたらす。しかし、通常、私たちは、この因果連鎖を「テレビをつける」という単一の行為として記述する。では、どのような時にこの行為を二つに分割し、「リモコンのボタンを押すと、テレビがつく」というような因果関係として記述するのだろうか。

それは、リモコンのボタンを押しても、テレビがつかず、「リモコンのボタンを押す」という出来事と「テレビがつく」という出来事の結合が、必然的ではない時である。すなわち、私たちが「リモコンのボタンを押すと、テレビがつく」というような因果的表現を用いるのは、リモコンにまだ慣れていない時やリモコンの故障を修理した後など、不確定性の楔が、出来事を二つに分割している間だけである。

分割が二つでは不十分な場合もある。ヒュームによれば、原因と結果は近接的でなければならないので、原因と結果が離れている時には、因果関係を細かい連鎖に分割しなければならない。

Tho’ distant objects may sometimes seem productive of each other, they are commonly found upon examination to be link’d by a chain of causes, which are contiguous among themselves, and to the distant objects; and when in any particular instance we cannot discover this connexion, we still presume it to exist.

離れた対象の一方が他方を生み出すように見えることも時々あるかもしれないが、よく吟味してみると、それらは、通常、相互に、そして当の離れた対象に近接する諸原因の連鎖によってつながれていることがわかる。この結合が発見できない特殊な場合でも、依然として、私たちはそうした関係があるものと推定する

[David Hume:Treatise of Human Nature, 1.3.2]

もしそうならば、最小の因果関係の単位は、どのぐらい近接的であればよいのだろうか。私としては、こうしたスコラ学的な迷路に入ることはせずに、原因と結果の分割は、何を動機としているかという原点に立ち返って、因果連鎖の問題を考えたい。

リモコンのボタンを押しても、テレビがつかず、テレビを意のままに操作できなくなることは、ユーザーにとって不確定性の増大であり、「リモコンのボタンを押す→テレビがつく」という因果連鎖を「リモコンのボタンを押す→半導体に電気が流れる→発光ダイオードが信号を発信する→テレビが信号を受ける→ICが信号を処理する→テレビがつく」というように、さらに細かな因果連鎖に分解するのは、ちょうど伝染病が発生すると、当局が感染者を見つけて隔離し、感染の拡大を防ごうとするように、因果連鎖を細かく分割し、不確定性を閉じ込め、全体の不確定性を縮減するためである。

不確定性とは、「予期とは他のようでありうること」である。知性と呼ばれる私たちの情報システムは、この増大した不確定性を縮減するために、「予期とは他のようになった」出来事を、細かく因果連鎖へと分解し、各因果結合が「他のようではない」ことを確認しつつ、「他のようになる」結合を見出し、「他のようではありえない」ようにしようとする。例えば、ダイオードが断線していることに気が付けば、ダイオードを取り替えることで、リモコンの機能を正常に戻すことができる。そして、「予期とは他のようではありえない」ようになれば、因果連鎖は消滅し、「テレビをつける」という自明な単一性が復活する。

3. 不確定性は要素の分割に先立つ

結論を要約しよう。因果関係は、必然性ではなくて、不確定性から設定されるのであり、そして因果関係の設定自体は、不確定性の縮減を目指している。一般的に言って、自明さゆえの単一的全体は、不確定性の増大によって、複数の要素に分解されるのであり、そして要素への分解を通して、システムは当の不確定性を縮減しようとする。

システム論研究者たちは、伝統的に、不確定性を複雑性(要素の組み合わせの数)によって説明しようとする。例えば、ニクラス・ルーマンも、複雑性の増大を次のように説明している。

[…]bei Zunahme der Zahl der Elemente die Zahl der zwischen ihnen abstrakt möglichen (denkbaren) Beziehungen überproportional ansteigt und sehr rasch Größenordnung erreicht, die nicht mehr nutzbar, nicht mehr realisierbar sind.[…]Demnach ergibt sich aus Größenzunahme für jedes System der Zwang, aber auch die Chance, mit eigenen Möglichkeiten der Relationierung selektiv zu verfahren und sich bei Bedarf zu differenzieren.

要素の数が増えるにつれて、それらの間で抽象的に可能な(思考可能な)関係の数が急増し、あっという間に、もはや利用不可能で、実現不可能な大きさにまで到達する。[…]それゆえ、数の増大から、それぞれのシステムには、それぞれの関係化の諸可能性に対して選択的に振る舞い、必要とあらば、自己を差異化するよう促す圧力が、しかしまた同時にチャンスが生じてくる

[Niklas Luhmann: Komplexität, Soziologische Aufklärung2,S.206.]

私も、以前は、複雑性を、要素および要素を変数とする関数の数と種類から説明しようとしていた。しかし、その後、こうした要素から出発するシステム論の伝統的説明が、認識論的には、本末転倒であると考えるようになった。すなわち、要素が増えるから、複雑性が増大し、システムはその複雑性を縮減しなければならなくなるのではなくて、増大した複雑性を縮減することを余儀なくされるからこそ、システムは複雑な全体を多数の要素へと分割しなければならないのである。

かつて、中世ヨーロッパでは錬金術が流行した。錬金術の世界とは、硫黄と水銀と塩の合成から金やら不老不死の妙薬やらができたりする摩訶不思議なハリーポッターの世界である。もちろん、実際にはそのような反応は起きないわけだが、魔術で起きるかもしれないと信じている人にとって、世界の不確定性はきわめて大きい。

この不確定性を縮減したのが、近代化学である。近代化学は、化合物を元素(element 要素)に分解し、錬金術師が行っている錬金作業では、元素の組み合わせが変わっても、元素自体は変化せず、したがって、金を含まない物質から金が生じることはないという結論を下した。この認識が定着するにつれて、錬金術は衰退していった。物質を元素へと分割することで、私たちは、化学反応を予測する不確定性を縮減することができるようになった。

要素の数と種類が増えるにつれて、複雑性が増大することは事実であるが、その複雑性は、縮減された不確定性であり、要素が決まらない時よりも小さいな不確定性しか持たない。それは、システム成立以前の複雑性ではなくて、システム成立以後の複雑性である。だから、システムを論じる時には、「はじめに要素ありき」ではなくて、「はじめに不確定性ありき」でなければならない。

読書案内
書名Treatise of Human Nature (Classics S)
媒体ペーパーバック
著者David Hume 他
出版社と出版時期Penguin, 1969/10
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  4 コメント

  1. 因果律を求める動機の解明により、まず要素ありきではなく、不確定性ありきだというところは、全くその通りだと思いました。ヒュームとルーマンに対する永井さんの本質的批判のように感じました。スケープゴート、あるいは裏切りといった社会現象についても、同じ動機が働いていると考えられますか?それとも、まったくレベルの違う現象なんでしょうか?

  2. 自己と他者とを区別するのも不確定性の楔です。常識的には、皮膚的に画された身体が自己だと思念されていますが、自分の意のままに従う忠実な部下は、拡大身体の一部ですし、脳梁が分断されると、同じ身体に二つの人格が存在することになります。自分の社会か否かも、選択のあり方が同じであるか否かで決まります。

  3. 永井さんは「要素の数と種類が増えるにつれて、複雑性が増大することは事実であるが、その複雑性は、縮減された不確定性であり、要素が決まらない時よりも小さいな不確定性しか持たない。」と言われています。逆に言えば、何を要素として選択するべきかという、不確定性の大きな仕事があるということだと思います。環境の変化に対して、従来の要素の組み換え、新たな要素の付加で済む場合があります。免疫系ではそうなっていると思います。この前の講義のトランスポゾンは遺伝子への付加の例だと思います。ただ、ここで永井さんが言われている不確定性は、そういった組み換えとか付加とは、違う気がします。
    要素を決めるという仕事について、錬金術から近代化学への移行の例をあげられています。周期表の発見などを思い浮かべました。物質を分離し、純化する技術の進歩と関係があるぐらいにしか考えていませんでした。永井さんは分離し純化するという技術の進歩に先立って、近代化学の誕生には、要素自体をどう確定するかという大きな不確定性が存在していたと考えるのでしょうか?
    有機物と無機物の区別がつかない状態の不確定性を想像すると、うまくすれば鶏が金の卵を産むことになるわけで、これは確かにハリーポッターの世界です。ただ、こういった世界が、不確定性が大きいと言うことに違和を感じます。それは、近代から見てそうだというだけであって、それなりに、安定した世界のように思います。不確定性というのは、当の主観にとっての不確定性なのですか?それとも後世から帰納的に定義されるものなのですか?

  4. 不確定性とは、常に、システムにとっての、システムを維持することを脅かす不確定性です。近代以前の人々が、不確定性に対して、平気でいられたわけではありません。要素への分解による複雑性の縮減は、近代以前から行われていました。例えば、アリストテレスは、この世の質料を、火・風・水・土の四つの元素へと分解しました。しかし、そうした元素に基づく説明が、うまくいかなくなるなると、違った元素への分割が試みられることになります。

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