仏教はなぜ女性を差別するのか
仏教は、カースト制度による伝統的な差別を否定し、万人の平等を説く宗教であるにもかかわらず、女性を蔑視するのはなぜか。この問いに答えるには、そもそもなぜ、仏教の開祖であるガウタマ・シッダールタが出家をしたのか、その動機を理解しなければならない。

目次
1. 女性を蔑視する仏教言説
仏教は女性蔑視の宗教であると言われている。例えば、『増一阿含経』には、以下のような、女性を蔑視する記述が見られる。
お釈迦様は、長老に「女には、九つの悪い属性がある」とおっしゃった。その九つの悪い属性とは何か。女は、1、汚らわしくて臭く、2.悪口をたたき、3.浮気で、4.嫉妬深く、5.欲深く、6.遊び好きで、7.怒りっぽく、8.おしゃべりで、9.軽口であるということである。[1]
仏教の開祖、ガウタマ・シッダールタは、女性(彼の養母であるマハーパジャーパティー)が教団に加わることを歓迎せず、八敬法を遵守するという差別的な条件付きでようやく許可したと『パーリ律』は伝えている。さらに、五障説[*]・変成男子説によると、女性は、どんなに仏道修行に努め励んでも、女身のままでは仏となることは不可能で、成仏するには男の姿に転じなければならない。仏教が、カースト制度による伝統的な差別を否定し、万人の平等を説く宗教であることを考えるならば、仏教の女性差別を軽視することはできない。
[*] 五障説とは、女性は、梵天王・帝釈天・魔王・転輪聖王・仏陀の五つにはなれないという説。妙法蓮華経提婆達多品第十二には、女は成仏することができないというシャーリ・プトラ長老に対して、竜女が、女の身を転じて、男の姿となって成仏するという竜女成仏譚がある。竜は本来女であることについては、「浦島物語の起源は何か」を参照されたい。
もとより、こうした女性差別の言説が見られる経典は、比較的後の時代に成立したものである。初期の文献でも、「女人は《清らかな行い》の汚れであり、人々はこれに耽溺する[2]」というような、女性蔑視と受け取れる発言があるものの、ガウタマ本人には、女性に対する偏見がなかったと考えることができる。しかし、後に教団内に生じることになる女性差別の萌芽を、ガウタマの思想の中に見出すことができる。すなわち、ガウタマは、女性を差別することはなかったが、女性原理を拒絶していた。

2. 人類史の男根期
女性原理の優位から男性原理の優位へという思想・宗教上の変化は、枢軸時代と呼ばれる、ガウタマが生きた時代の世界的潮流であった。ガウタマが仏教を興した頃、バビロン捕囚を契機としたユダヤ教の誕生(BC586)、ザラスシュトラ(BC628-551)によるゾロアスター教の創唱、孔子(BC551-479)による儒教の成立、プラトン(BC427-347)によるイデア論の提唱など、世界同時多発的に精神革命が起きた。
中国では、孔子と老子の時代で、すべての中国哲学の方向性が打ち出され、孟子・荘子・荀子その他無数の思想家が現れた。インドでは、ウパニシャッド哲学が成立し、仏陀が登場し、中国と同様に、懐疑論から唯物論まで、詭弁学派からニヒリズムに至るまで、あらゆる哲学的可能性が発展した。イランでは、ザラスシュトラが、善と悪の戦いという挑戦的世界像を説く。パレスチナでは、エリヤ、イザヤ、エレミヤ、第二イザヤといった預言者が現れた。ギリシャでは、ホメロス、パルメニデスやヘラクレイトスやプラトンといった哲学者、悲劇作家、ツキディデス、アルキメデスが現れた。[4]
「天にまします父なる神」と「母なる大地の神」と人類との三角関係が重大な変容を被るこの時代を、フロイトのリビドー発達段階の用語を用いて、人類史における男根期から潜伏期への移行期と位置付けたい。
男根期とは、エディプス・コンプレックスが生まれ、そして消滅する、3歳から5歳の間の時期である。男の子は、当初、ライバルである父親を殺害し、母親と性交したいという、ギリシャ神話のエディプス王と同じ欲望を持つが、去勢不安から、この欲望を断念し、父親との自己同一と禁止の内在化を始める。母親を欲望するのではなくて、母親の欲望の対象であるファルスを欲望する。すなわち、父親を自我理想として超自我を形成し、母親を、去勢された、劣った性として軽蔑するようになる。
これと同じことが枢軸時代に起きた。この時代は、サブアトランティック寒冷期の谷間にあたる。母なる自然が冷たくなって、子供の母離れが促進される時期である。母子一体の安逸をむさぼっていた人類は、今や、天罰という名の去勢におびえつつ、父なる神から与えられた禁欲的な戒律を遵守することで、死後の魂の救済を願うようになる。ちょうど、男の子が、母との性交を断念し、父との同一化を続けて、結婚によって形成される次の世帯で、母の代替(妻)との性交が可能となるように、当時の人々は、現世での幸福を断念し、父なる神の教えに従うことで、来世で幸福となることが約束されたのである。
フロイトは、西欧の文化で育った人だから、彼の理論をユダヤ-キリスト教に適用することは容易である。しかし、仏教への適用となると、容易ではない。仏教、すなわちガウタマの教えは、本来は、これから説明するように、自発的去勢を勧める処世術であり、父なる神の崇拝を否定する反宗教だからである。にもかかわらず、仏教は、最終的には、キリスト教やイスラム教と同様に、父神崇拝の宗教となった。それはどのようにしてであるかが、この論文の主題である。
3. 自発的去勢としての自傷行為
ガウタマの本来の教え(根本仏教)とは、結論を非常に簡単に言ってしまうならば、苦から逃れるためには、苦の原因である執着を捨てろというものである。欲望を満たそうとするから、不満になるのであって、欲望を自ら根源的に捨てれば、つまり、自発的に去勢すれば、不満(苦)から根源的に解放される。ガウタマは、苦行という自傷行為を通して、この自発的去勢の真理に到達した。苦行といっても、ジャイナ教的な、肉体を極限状態に追い込む、一見ラディカルなようで、実は中途半端な方法によっては、ガウタマは最終解脱の境地に達することはできなかった。涅槃の境地に達するために必要なことは、肉体への自傷行為(例えば、ペニスを切り捨てるなど)ではなくて、欲望への自傷行為(性欲そのものを切り捨てるなど)である。
神聖な修行を自傷行為と形容して病気扱いするのはけしからんと仏教徒から叱られそうだが、出家と自傷行為には、その動機において、共通点がある。例えば、失恋した女性が髪の毛を切るという軽微な自傷行為を例にとって考えてみよう。女性は、元彼という「後ろ髪を引かれる思い」を切り捨てるために、髪の毛を切り捨てる。ふられるということは、プライドが傷つくショッキングな体験である。だから、「私は彼から切り捨てられたのではない。私が彼を切り捨てるのだ」と自分に言い聞かせるように、髪を切り捨て、自分のプライドを守って、失恋という苦から逃れようとする。
手首や腕や足を傷つける場合も同様である。自傷症は、しばしばそう誤解されているような、自殺願望の病気ではない。自傷症は、通常「自殺するためではなくて、筆舌に尽くしがたいほど苦痛に満ちた感情を処理する一つの方法として、身体もしくは身体の一部を意図的に傷つけること[5]」と定義されている。
実際、自傷行為が自殺につながることはまれである。それは失われた主体性を取り返し、傷ついたプライドを癒す行為であって、結果として自殺の防止に役立っている。逆説的な表現を用いるならば、自傷症患者は、自らを傷つけないために自らを傷つけるのだ[6]。この逆説は、欲望を満たすために欲望を満たさないという仏教の逆説に対応している。
失恋した女性は、普通、髪の毛をすべて切り落とすことはしない。それは男に対する未練をすべて捨ててはいないことの証拠である。これに対して、すべての執着を捨てて、出家する人は、髪の毛をすべて切る。ガウタマも、出家の後、剃髪した。そして、断食もおこなった。断食を行うことは、拒食症の症状と似ている。そして、拒食症も自傷症の一種である。拒食症患者は、本当は愛に飢えているにもかかわらず、「(愛・食事等を)得ることができずに飢えているのではなくて、欲しくないから得ないだけだ」ということを体をもって示すことで、主体性のプライドを守ろうとする。拒食症患者は、しばしば誘惑に負けて過食症になるが、ガウタマは、拒食でも過食でもない、禁欲主義でも快楽主義でもない中道を歩んだという点で、迷える並みの拒食症患者とは異なる。
4. ガウタマの出家動機
では、ガウタマは、何かプライドを傷つけられる挫折体験があって、出家したのだろうか。ガウタマの出家に関しては、四門出遊という伝説がある。ガウタマが東の門から出ると、老人に出会った。南の門から出ると、病人に出会った。西の門から出ると、死者の葬列に出会った。こうして彼は、老・病・死という苦に満ちた人生の現実を目の当たりにした。ところが、北の門から出ると、輝かしい出家修行者に出会い、自らも出家しようと決意したというのである。ガウタマの出家の真相を知ろうと思うならば、こうした類の、後の時代に作られた仏伝は無視して、最も古い経典、『スッタニパータ』に収められている「出家経」を手掛かりに、当時の時代状況を考慮に入れて推論しなければならない。
「出家経」には、「出家して身による悪行を離れ、言葉による悪行を捨て、生活をすっかり浄めた[7]」とあるだけで、出家した経緯が詳しく書かれていない。その代わり、出家した後、ガウタマが、故郷から遠く離れたマガダ国の首都、王舎城(ラージャグリハ)まで托鉢のために来たところ、マガダ国王が、彼に注目し、彼が隠遁する山窟にまで赴いて、軍事力の提供を申し出たが、断られたという奇妙な話が長々と書かれている。これは、今で言うと、出家を決意した中国のある田舎者が、日本の永田町まで托鉢のために来たところ、日本の総理大臣が、「立派なお坊さんだ」と感心して、彼に注目し、彼が隠遁する富士山の山窟にまで赴いて、自衛隊の指揮権を委ねようと申し出たが、断られたというのと同様の、荒唐無稽なストーリーである。
しかし、ここに、ガウタマの隠された願望を読み取ることができる。フロイトは、『夢判断』で、夢を願望充足の表現とみなし、次のように述べている。
ある夢の意味がどうしてもわからないような場合には、その夢の顕在内容の特定諸部分を、試しに逆にしてみるとよい。そうすると一挙に解決のつくことがある。[8]
「反対物への転化」を元に戻すならば、この話の原型は、ガウタマがマガダ国王に軍事力の提供を申し出たところ、断られ、出家したというようのものだったはずだ。そして、このストーリーなら、歴史的なリアリティがある。
ガウタマ・シッダールタの父は、釈迦族の政治的指導者であった。釈迦族はコーサラ国王の支配下にあったが、釈迦族は独立心が強く、南のマガダ国と同盟を結び、南と北からコーサラ国を挟撃しようと企んだ。ガウタマは、この外交工作のため、王舎城に赴いた。ところが、当時のマガダ国は、ベンガル湾に進出しようと、ガンジス川下流のアンガ国と戦争している最中で、背後の安全を確保するために、コーサラ国と政略結婚をするなどして、平和な関係を築くことに努めていた。だから、マガダ国王は、ガウタマの軍事援助の要請をにべもなく断った。こう推測できる[9]。

後に、コーサラ国は、釈迦族を滅ぼすことになるのだが、先見の明があるガウタマは、この時既に釈迦族の運命を悟り、意のままにならない政治的現実を前に、出家したと考えることができる。ガウタマは、「クシャトリヤの家に生まれた人が、財力が少ないのに欲望が大きくて、この世で王位を獲ようと欲するならば、これは破滅への門である[11]」と述べているが、これは彼自身のことを言っているのに違いない。
釈迦族は、カピラヴァストゥ(現在のインドとネパールの国境付近にある城郭都市)に住んでいた部族である。彼らが自分たちの土地を望んだということは、母なる大地を我が物としたいという欲望を持っていたということである。そして、コーサラ国王が、軍事力で脅して、釈迦族の独立を認めなかったことは、権力者(父)が、母子相姦を禁止し、去勢の威嚇をしたということである。ガウタマの出家はこれに対する防御反応であった。ちょうど、失恋した女性が、「自分は捨てられたのではなくて、自分から捨てたのだ」と自分に言い聞かせて髪を切り捨てるように、彼は、「自分は去勢されたのではなくて、自ら去勢したのだ」、「自分は、マガダ国王に軍事援助の要請を申し出て断られたのではなくて、マガダ国王が申し出た軍事援助を断ったのだ」と自分に言い聞かせて出家した。こうした願望を充足するために、史実に二つの逆転を施し、件の『スッタニパータ』の「出家経」が生まれた。私はそう解釈したい。
5. 死の欲動と涅槃の境地
ガウタマが行った自発的去勢は、フロイトの分類を使うならば、死の欲動の産物である。フロイトは、『快感原則の彼岸』で、涅槃原則というバーバラ・ロウの仏教的表現を借用し、涅槃原則と快感原則を死の欲動と生(性)の欲動に対応させている。
私たちは、刺激に対する緊張状態を減らし、一定に維持し、終結させようとする努力を、心的生、神経的生一般の支配的傾向として認識した。これは快感原則が現れる時と似ているが、こちらは、バーバラ・ロウの表現にしたがって、涅槃原則と名付けよう。この認識こそは、私たちが死の欲動の存在を信じる最も強固な動機の一つである。[12]
しかし、性的快感は死の欲動に属するのではないだろうか。この点をはっきりさせるために、快感と享楽というラカンの区別にしたがって、快感原則を享楽原則と名付け、生の欲動は、現実原則に従う欲動とすることにしよう。
フランス語の享楽“jouissance”には、「性的快楽、オルガスムス」という意味もあって、無制限な快感を表す言葉として使える。それは、バタイユが謂う所のエロティシズムの快楽であり、エロティシズムにおいて、人はエクスタシーという擬似的な死を体験する。これに対して、涅槃原則に基づく自発的去勢は、エロティシズムの快楽を断念することなのだから、両者は全く異なる。エロティシズムが主体性を放棄して母なる大地に戻ろうとする胎内回帰の欲動であるのに対して、自発的去勢は、母子相姦を自主的に断念することで、主体性を回復しようとする欲動なのである。ガウタマは、「諸々の汚れと執着のよりどころとを断ち、智に達した人は、母胎に赴くことがない[13]」と言っている。これは輪廻としての胎内回帰から解脱したことを宣言したものと解釈できる。
生物学的には、現実原則と涅槃原則と享楽原則は、次のように区別される。現実原則は、個体保存のための個体保存の行為を、涅槃原則は、個体保存のための個体破壊の行為を、享楽原則は、種保存のための個体破壊の行為をもたらす。現実原則が、純粋な生の欲動で、享楽原則が、純粋な死の欲動であるのに対して、涅槃原則は死の欲動のような外観を持った生の欲動である。すなわち、自傷行為は、自殺行為のように見えて、実は自殺を防止するための行為である。これに対して、享楽では、人ははめをはずしすぎて死に至ることがしばしばある。
死の欲動 | 涅槃原則 |
---|---|
生(性)の欲動 | 現実原則(快感原則) |
種保存(死の欲動) | 快感原則(享楽原則) |
---|---|
個体保存(生の欲動) | 涅槃原則 |
現実原則 |
フロイト以来、二つの死の欲動が混同されてきた。仏教の密教的解釈も。二つの死の欲動の混同から起きる。中沢新一によると [14]、チベットには、ガウタマが母と近親相姦をしたとか、降魔成道の際、セックスをしまくって悟りを開いたといった、とんでもない仏伝があるそうだが、セックスのエクスタシーで体験される幽体離脱を解脱と曲解し、その絶頂に涅槃の境地があるとする、チベット密教的・タントラ的・ヨーガ的・立川流真言的・中沢新一的な仏教理解では、仏教のどこが歴史的に画期的なのかがわからなくなる。中沢新一が、チベットで修行して見出したものは、原始仏教でもなければ、ましてやポストモダンでもなく、仏教以前の原始宗教に過ぎない。
タントラやヨーガの起源はインダス文明にまで遡ることができるが、ガウタマの時代に、インドで支配的だった宗教は、バラモン教である。バラモン教もまた、涅槃原則よりも享楽原則に基づく自然宗教としての色彩が強かった。バラモンが司るヴェーダ祭式にその特徴を見ることができる。祭官(バラモン)は、犠牲獣を屠り、ソーマを供物として祭火に注いだ後、残りを飲む。ソーマの原料には、幻覚作用のあるキノコが使われていたと考えられている。一種のドラッグである。それを服用することで、トランス状態となり、そのエクスタシー体験で得られたインスピレーションから、多くのヴェーダの詩句が生み出された。祭火が据えられたアグニ祭壇は、大鷲の形をしていたが、それは、天地の間を自由に飛び、祭主を天界まで送る鷲をイメージしたものだった。
祭祀での神秘的霊感を哲学的に説明した『ウパニシャッド』では、梵我一如、すなわち、大宇宙(自然界、ブラフマン)と小宇宙(個人、アートマン)との合一の真理を悟って輪廻から解脱することが説かれている。ブラフマンは、元来は「神聖な知識」という意味で、女神ヴァーチとして神格化された。ブラフマンは、現在のインドの神話では、ヴィシュヌ、シヴァとともに三大主神を形成するブラフマーに相当するのだが、男性神としてのブラフマーは、非常に抽象的な神で、存在感がない。それもそのはずで、ブラフマンは本来女で、ブラフマーの妻にして娘ということになっているサラスヴァティーが本当のブラフマンだからである。
ブラフマンが女だとするならば、梵我一如という神秘的合一(unio mystica)は母子相姦で、解脱とはエクスタシー(脱我)のことであると解釈できる。こうした、エロティシズムを神秘的な体験とする自然宗教は、去勢コンプレックス以前の時期には、世界のいたるところに存在していた。サブアトランティック寒冷期という去勢不安の時代に自発的去勢を行った仏教やジャイナ教は、バラモン教のような自然宗教に対するアンチテーゼとして、歴史を画期する意義を持つ。
6. 仏教のディレンマ
ガウタマは、自発的去勢により、涅槃の境地に達した。しかし、ガウタマの悟りには一つ問題があった。煩悩を捨てるといっても、食欲を完全に捨てるわけにはいかない。ガウタマは、「およそ苦しみが起こるのは、すべて食料を縁として起こる。諸々の食料が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない[15]」と言っているが、何も食べなければ、餓死してしまう。そうかといって、食糧を生産するために、土地を耕すと、土地(地母神)に対する執着が生まれる。そこで、当時の慣習に従って、ガウタマは、在家信者から托鉢してもらうことで、生き長らえた。
在家信者に布施や托鉢をしてもらう対価として、ガウタマは何をしたのだろうか。自分が悟った真理を教えたのだろうか。これは原理的にはありえない。もしも在家信者が、ガウタマと同様のブッダ(覚者)になろうとするならば、出家して修行をしなければならず、布施や托鉢をするだけの生産能力を失ってしまう。ガウタマの教えをすべての信者が実践しようとすると、全員が餓死して、仏教もそれとともに消滅してしまう。その意味で、ガウタマが悟った真理には、普遍性がなかったと評さなければならない。
そこで、ガウタマは、功徳を積んだ在家信者に、来世での果報を約束しなければならないはめになった。ガウタマは、在家信者に「彼[聖者]に対して眉をひそめて見下すことをやめ、合掌して彼を礼拝せよ。飲食物をささげて、彼を供養せよ。このような施しは、成就して果報をもたらす[16]」と言っている。反対に、聖者をそしったり、悪意を抱くものは、地獄に落ち、気の遠くなるような年月の間、筆舌に尽くしがたい苦しみを味わうことになるとも警告している[17]。
ガウタマ自身は、来世や魂の不滅や輪廻を信じていなかったようで、その意味で、新しい宗教の開祖になるつもりはなかったと考えることができる。しかし、世俗の人たちは、仏教の出家僧に、来世での幸福の保証人の役割を期待した。こうして大乗仏教が成立するわけだが、実は、在家信者を救済するという点で、上座部仏教も大乗仏教も違いがない。上座部仏教が信仰されている東南アジアには、福田思想と呼ばれるものがあって、在家信者が自分の子供を出家させたり、托鉢の僧に食事を寄進したりして、功徳を積めば、来世における幸福な再生が保証されると信じられている。タイのように、寺院に金品を寄進する在家信者に、「祝福の証し」という領収書を発行しているところもある。蒔いた種が間違いなくプンニャ(功徳)となって実る田という意味で、福田なのだ。
仏教発祥の地であるインドで、仏教がすたれたのは、ガウタマとその教えに忠実だった後継者たちが、大衆の低レベルな宗教的欲望を満たすことに熱心でなかったからだと考えることができる。インドの仏教僧たちは、王侯・貴族・地主・豪商など社会の特権階級からの布施や土地の寄進に依存しており、一般民衆からは遊離していた。ジャイナ教は、在俗信者にも十二の小誓戒を厳守させ、彼らの宗教的救済をしたために、インドでも今日まで生き残っているが、インド仏教は、在俗信者の救済に熱意がなく、彼らに戒律の遵守を強制することもなかった。イスラム側の史料『チャチュナーマ』によると、8世紀の前半にイスラム帝国がインドに侵入した時、仏教僧たちは進んでイスラム教に改宗し、仏教寺院をモスクにしてイスラム式の祈りを取り入れた [18]。インドの仏教僧は、崇拝するべき神を持たなかったから、異教の神を容易に受け入れることができたのであろう。インド仏教は、1203年に最終的に消滅した。
7. 仏教におけるファルス崇拝
インド以外の地では、ガウタマが、自発的去勢により、父神との同一化を拒否したにもかかわらず、後世、上座部仏教でも大乗仏教でも、大衆によって神の如きファルス的存在へと祭り上げられたのは皮肉なことのように思える。だが、この点で、仏教が、父権宗教の典型であるキリスト教と大きく異なるということはない。
ファルスは、社会システムにおいて、ダブル・コンティンジェントな複雑性を縮減するコミュニケーション・メディアとして機能する。この機能を果たすためには、ファルスは、私的特殊性を捨てて、普遍的存在者とならなければならない。貨幣商品が、使用価値を捨象することで、貨幣という純粋なコミュニケーション・メディアになることができるように、宗教家は、自らの私的所有物を捨象することで、神という宗教的なコミュニケーションのメディアとなることができるのだ。
イエス・キリストは、十字架で死に、肉体という私的で特殊な所有物を捨てることで普遍的な神となった。同様に、ガウタマは、命こそ捨てなかったが、私的で特殊な所有物に対する執着を捨てることで、死後、神に等しい普遍的な存在者となった。《預言者→罪人→神》というイエスがたどった三段階と《王族→苦行者→覚者》というガウタマがたどった三段階は、ともに《ケ→ケガレ→ハレ》というスケープゴートの弁証法として理解することができる。
8. 仏教が女性を嫌う理由
最後に、「仏教はなぜ女性を差別するのか」という最初の問題提起に答えることにしよう。これには、二つの理由が考えられる。
まず、ガウタマが行った自発的去勢は、母子相姦の自発的断念であるから、性欲は最も忌諱しなければならない煩悩の一つである。『転女身経』には、次のような、極めつけの描写がある。
女のからだのなかには、百匹の虫がいる。つねに苦しみと悩みとのもとになる。[…]この女の身体は不浄の器である。悪臭が充満している。また女の身体は枯れた井戸、空き城、廃村のようなもので、愛着すべきものではない。だから女の身体は厭い棄て去るべきである。[19]
このように、仏教が女性を不浄視するのは、「もしも女が臭くて汚いなら、性欲が起きなくてよいのに」という願望をみたすためである。仏教の教義には、こうした、実現の願望を願望の実現に摩り替えるトリックがたくさんある。
もう一つの理由は、ガウタマ本人の意思に反して、ガウタマが「仏様」という、来世での幸福を保証するファルス的存在へと祭り上げられ、仏教が父権宗教になってしまったことである。世界宗教は、キリスト教もイスラム教も、すべて男尊女卑の父権宗教であり、仏教だけが女性差別をしているわけではない。
9. 参照情報
- ↑“世尊、長老に告げて曰く、女人に九つの悪法あり。云何が九つと為すや。一に女人は臭穢にして不浄なり。二に女人は悪口す。三に女人は反復なし。四に女人は嫉妬す。五に女人は慳嫉なり。六に女人は多く遊行を喜ぶ。七に女人は瞋恚多し。八に女人は妄語多し。九に女人は言うところ軽挙なり。”『増一阿含経』第41巻. 馬王品.
- ↑『ブッダ神々との対話―サンユッタ・ニカーヤ1』. 中村 元 (翻訳). 岩波書店 (1986/8/18). p.43
- ↑“Buddha with Cincamanavika" by Sacca~commonswiki. Licensed under CC-BY-SA
- ↑“In China lebten Konfuzius und Laotse, entstanden alle Richtungen der chinesischen Philosophie, dachten Mo-Ti, Tschuang-Tse, Lie-Tse und ungezählte andere, – in Indien entstanden die Upanischaden, lebte Buddha, wurden alle philosophischen Möglichkeiten bis zur Skepsis und bis zum Materialismus, bis zur Sophistik und zum Nihilismus, wie in China, entwickelt, – in Iran lehrte Zarathustra das fordernde Weltbild des Kampfes zwischen Gut und Böse, – in Palästina traten die Propheten auf von Elias über Jesaias und Jeremias bis zu Deuterojesaias, – Griechenland sah Homer, die Philosophen – Parmenides, Heraklit, Plato – und die Tragiker, Thukydides und Archimedes.” Karl Jaspers. Vom Ursprung und Ziel der Geschichte. Piper Verlag GmbH; Neuausgabe.版 (1994/02). p.20.
- ↑“[…] the deliberate mutilation of the body or a body part, not with the intent to commit suicide but as a way of managing emotions that seem too painful for words to express.” Karen Conterio, Wendy Lader, Jennifer Kingson Bloom. Bodily Harm: The Breakthrough Healing Program for Self-Injurers. Hyperion Books (Adult Trd Pap) (1999/09/01). p.16.
- ↑朝日新聞が得意とする、いわゆる自虐史観も、自発的去勢の結果生まれた歴史解釈である。自虐史観の提唱者は、他の民族から戦争責任を指摘される前に、自ら懺悔することで、民族の主体性を取り戻そうとしているのであって、民族の誇りを失うことを恐れている点で、いわゆる自由史観を提唱する国粋主義者たちと大きく異なるわけではない。朝日新聞の購読者には高学歴のインテリが多いが、高学歴の人には、自発的去勢により禁欲的に勉学に励んだ人が多いから、自虐史観に共鳴する傾向がある。
- ↑『ブッダのことば―スッタニパータ』. 中村 元 (翻訳). 岩波書店 (1958/1/1). No.407.
- ↑“Man darf darum, wenn ein Traum seinen Sinn hartnäckig verweigert, jedesmal den Versuch der Umkehrung mit bestimmten Stücken seines manifesten Inhaltes wagen, worauf nicht selten alles sofort klar wird.” Sigmund Freud. “Die Traumdeutung.” Gesammelte Werke in achtzehn Bänden mit einem Nachtragsband Herausgegeben von Anna Freud, Marie Bonaparte, E. Bibring, W. Hoffer, E. Kris und O. Osakower. 2001/11. Bd.2/3. p.60.
- ↑磯部 隆.『釈尊の歴史的実像』. 大学教育出版 (1997/4/20). 第一章第三節.
- ↑Avantiputra7. “Map of places mentioned in Vedas, Ramayana and Mahabharata.” Licensed under CC-BY-SA.
- ↑『ブッダのことば―スッタニパータ』. 中村 元 (翻訳). 岩波書店 (1958/1/1). No.114
- ↑“Daß wir als die herrschende Tendenz des Seelenlebens, vielleicht des Nervenlebens überhaupt, das Streben nach Herabsetzung, Konstanterhaltung, Aufhebung der inneren Reizspannung erkannten (das Nirwanaprinzip nach einem Ausdruck von Barbara Low), wie es im Lustprinzip zum Ausdruck kommt, das ist ja eines unserer stärksten Motive, an die Existenz von Todestrieben zu glauben.” Sigmund Freud. “Jenseits des Lustprinzips.” Gesammelte Werke in achtzehn Bänden mit einem Nachtragsband. Herausgegeben von Anna Freud, Marie Bonaparte, E. Bibring, W. Hoffer, E. Kris und O. Osakower. 2001/11. Bd.8. p.60. 『フロイト著作集 第6巻』. p.187.
- ↑『ブッダのことば―スッタニパータ』. 中村 元 (翻訳). 岩波書店 (1958/1/1). No.535
- ↑中沢 新一.『ブッダの方舟』. 河出書房新社 (1994/05). p.39-40.
- ↑『ブッダのことば―スッタニパータ』. 中村 元 (翻訳). 岩波書店 (1958/1/1). No.747.
- ↑『ブッダのことば―スッタニパータ』. 中村 元 (翻訳). 岩波書店 (1958/1/1). No.80.
- ↑『ブッダのことば―スッタニパータ 』. 中村 元 (翻訳). 岩波書店 (1958/1/1). No.657-678.
- ↑保坂 俊司.『インド仏教はなぜ亡んだのか―イスラム史料からの考察』. 北樹出版; 改訂版 (2004/05). p.142-143.
- ↑田上 太秀.『仏教と性差別―インド原典が語る』. 東京書籍 (1992/10).
ディスカッション
コメント一覧
この傾向は阿弥陀信仰に顕著ですね。しかし、後の仏教がすべて父権的になったかというと、そうでもなく、たとえば、観音などは、中国で女性化していますね。また、インド大乗仏教の如来蔵思想では、衆生は如来の胎児であり、かつ、如来の胎児を宿していると説かれます。密教についてはご指摘の通りですね。つまり、バラモン=ヒンドゥー的母権宗教に侵食された側面が大きい。つまり、ガウタマは母権も父権も拒絶したが、後の仏教は母権と父権に分裂したのではないか。
また南伝上座部では、仏陀をある程度神格化したことは確かですが、かれらは仏陀を「大いなる母」と呼ぶそうです。彼らにとっての仏陀が、天なる父なのか、大地なる母なのか、混在しているような印象を受けます。スリランカではかつて一妻多夫制があったと聞きますが、そのせいかもしれません。地獄は地下、神々は天とするところは父権宗教的ですが、結局在家にも、そのいずれでもないニルバーナを目指せというわけで、テーラワーダが一概に父権宗教であると割り切れない感じがしますが・・・。
追記:父権宗教的阿弥陀信仰が、日本において女性差別を強化する方向でなく、僧侶の妻帯や女人成仏を主張したのはなぜか?
それは、日本文化が前エディプス的、父権的ではないからです。「なぜ日本人は幼児的なのか」を参照してください。
永井さんが引用された増一阿含経の文で「汚くて臭い」以外は女について当てはまるような気がします。女の人には怒られてしまいますが、「そのとおりだ」とつぶやいてしまいました。ただそれが必ずしも悪性だとは思いませんが。「汚く臭い」は現代人はシャワーを毎日取っているので当てはまらないでしょう。アメリカ式に言えば女は「ビッチー」ということですかね。もしそうだとしたらシッダールタにはユーモアがあったと思います。
シッダールタは若いときは女と宮廷で遊びまくってたのに、そんなことしといてほかの男に「女に触るな」というのはひどいですね。出家までは快楽の限りを尽くしてたそうじゃないですか。
まあ出家した理由は、このような贅沢三昧な生活に嫌気が差したのでしょう。アメリカでも元々金持ちだった人がすべての財産を投げ出してホームレスになったとか、そんなこともあります。ビン=ラデンもテロリストになるまでは放蕩家みたいだったようで、あるとき目覚めたのでしょう。私はスーパー金持ちに一度もなったこともないし、今の状況では快楽に浸ることもできないので、シッダールタや彼らの心境はわかりませんが。私が思うにはたぶん極端なことをやると極端なことで補おうとする、それでバランスを保とうとするのでは。シッダールタも快楽に浸り過ぎたから六年もの長い苦行でそれを相殺しようとした。そして苦行を尽くし切ったことによって自分のバランスが取れたときに悟ったのだと思います。中道の原理ってやつですかね。だから今は快楽の絶頂にある金髪碧眼で超セクシーなパリス=ヒルトンがある日突然頭を丸めて出家したら面白いと思います。
それに男にとって女に触られないほど苦しいことはありません。私には出家は無理ですね。また女なしの人生なんて、セックスなしの人生なんて絶対に考えられません。いつの時代もセックスをコントロールするという宗教と政府があるものですね。たしか「1984」もそうだったのでは。スターローンの「デモリションマン」もそうだったと思います。
ブッシュも結婚前のセックスはいけないと言っていますし。人口中絶に反対する最高裁判所判事も選んでしまいましたし。なんで至高の快楽を権力者はコントロールしようとするのか、もっともコントロールされたくないところをコントロールしようとするのが権力者の性質なんですかねー。もっとも嫌がることを強制できるのが権力って感じで嫌ですね。シッダールタも王になれなかったら偉大な哲学者になると予言されたといわれてますが、結局は権力を行使する側に回ったことには変わりありませんからね。
もろに自由でないからです。
差別は、自由の対極にあるのですから。
歴史の解釈は、その時の隔たりが大きくなるほど、推測の域を出るものではなく、仮説でしかなくなってしまうということでしょう。文字に残されたものは、それの真偽とは無関係に存在することで意味を持ち、読み手によって自由に解釈できるものになってしまいます。その限界を知っていたのか、イエスにしろ、ブッタにしろ、自ら書いたものは残していません。性を、どのように考えるのかは、人が何故存在するのかとも関係するところです。そして、この世における継承の位置づけと、この世を含めた存在の世界における魂の成長のプロセスとの関わりを、どう考えるのかによって意味が異なってきます。女性が忌むという立場になることが多いのは、この世における肉体の継承を中心として担っていることと無関係ではなかったりします。女性として生まれた魂を守るという意味合いがその背後にあったりしますが、その視点での解釈はあまりされていないようです。差別が必ずしも悪ではないということでしょうか。守るために差別するということもあるということでしょう。ブッタの歩みについては、弟子たちの記載のなかにも、弟子の想いからの作り事が含まれている可能性があり得るので、正しいとは言い切れません。膨大な弟子たちの記録のなかのどれが正しいのか、どれが虚構なのか、判断する基準は、読み手にあるわけですから、読み手が何を基準に捉えるのかで、大きくことなるのは仕方のないことでしょう。そして、それは、解釈論としては、間違っているとは言い切れません。真実はブッタに直接聞く以外にはないのですから。
イエス・キリストは、その実在すら疑われているぐらいですから、ましてや本人の正確な思想など、知るすべもありません。しかし、思想史的に重要なことは、実在したナザレのイエスやゴータマ・シッダールタの本当の思想が何であったかではなくて、後世に影響を与えたイエス・キリストや仏陀の教えが何であったかであり、なぜ彼らの思想が、後世の人々によって支持されたのかということです。
女性差別性は、キリスト教の方がひどいと思いますが、それに触れないのは意図的なのでしょうね。
ペテロによるマグダラのマリアの排斥、中世の魔女狩り、米国においての女性差別も人種差別も公式にはほんの40年前頃に改善の一里塚があったに過ぎず、マイケルジャクソンは人種差別で白人より白い肌になって亡くなりました。
結局、メジャーなものにはそのパワーを寄生により奪い利用しようという勢力が入り、悪貨が良貨を駆逐してしまうのでしょう。
そういえば、大東亜戦争の建前は、人種差別反対の日本と民主主義自由主義の米国でしたが、どちらもお題目は建前で、インチキなものでした。まだ、人種差別を受けていた日本の動機の方が、真実を内包していたようにも思いますが、頂上の指導者は両側とも、偽装人格による支配の操り人形であったように思います。
結局、大きな戦争の陰に、寄生虫による内部撹乱要因により、好むと好まざるとに関わらず、金融資本家が儲かるようになっているようですね。
寄生虫による戦争学を考察していただきたいですね。楽しみにしています。
人から利子を取って、搾取するという行為が寄生虫の技だとすると、一番寄生虫を排除しているのはイスラム教になるのでしょうか。印象操作で必要以上にイスラム教を貶めたり、寄生虫の別働隊を侵入させて本来の姿でないものが表に見えるようになっていたりと、世の中は大変ですね。
マトリョーシカ人形 あるいはマルコビッチの穴なのですね。
キリスト教による女性差別に関しては、「地動説はなぜ迫害されたのか」や「なぜキリスト教はダーウィンを非難するのか」をご覧ください。
利子を取ることは寄生行為ではありません。「なぜ貨幣は利子を生むのか」をご覧ください。
西洋的主観から逃れられてませんね
近代になって、キリスト教文化圏が世界のリーダーとなり、仏教文化圏が没落した事実をどう考えますか。あるいは、あなたは、仏教が、近代の行き詰まりを打開してくれる考えているのでしょうか。もし、そう考えているなら、その根拠を示してください。
私は、日本人は、将来、古代のユダヤ人のようになると思います。
永井先生は、「日本人はなぜ幼児的か」のコメントで、草食系男子の増加はデフレによるものだとおっしゃっていましたが、私には草食系男子の増加は本格的な男性革命を示唆しているように見えます。若者の「○○離れ」が呼ばれて久しいですが、これは自発的去勢だと思います。
まず、「父親」である中年・高齢者は、財産・権力、そして、女性までをも独占しています。
“学習院大学経済学部教授の鈴木亘先生と、年金についてお話しました。
現状、20代、30代の人は、払い込んだ年金のうち6割ほどしか貰えません。
若いうちから貯金しとけばいいと言われても、不況やらリストラやらです。
金融広報中央委員会によると、20~29歳の若者の4割は貯蓄残高が0円です。
サラリーマンや公務員などの場合は、年金は給料から自動的に引かれるので、年金を払わないという選択肢は無いです。
ちなみに、現在60代以上の人は、払い込んだ年金の額の6倍ぐらいもらえるそうです。
ついでに言うと、日本全体の金融資産の6割は、60歳以上の人が保有しています。
ちなみに、8割の金融資産は、50代以上が所有しています。
39歳以下の人が所有している金融資産は、6%です。
貧乏な若者が、裕福な高齢者に貢ぐという構造になっているわけですね。” [負けが決まってる勝負を死ぬまでやらされる若者世代。 : ひろゆき@オープンSNS]
“40歳代の男性が若い女性にモテるらしい。「年の差恋愛」はいまに始まったことではないが、最近、その傾向が強まっている。20歳代女性の4割が「年上」の恋人を希望し、5人に1人が10歳以上、年上でもいいという。
一回り以上も年が離れている40歳代の男性も「恋愛対象」になる。恋愛に消極的な「草食男子」が目立つ同年代よりも、40男は包容力があって、男としての魅力があるのだとか。” [J-CAST ニュース: 「草食男子」にあきたらない 20代女は「40男」が好き]
一方、「息子」である若者は、出世して、財産を築き、女性を手に入れたいがために、中年・高齢者に対してエディプスコンプレックスを抱きます。ネットでよく見かける「老害」という攻撃的な言葉が、若者のエディプスコンプレックスを象徴しています。
また、ニッポン放送を買収しようとした堀江貴文さんが逮捕されたことは、「コーサラ国王が、軍事力で脅して、釈迦族の独立を認めなかったこと」とよく似ています。つまり、堀江さんの逮捕は「権力者(父)が、母子相姦を禁止し、去勢の威嚇をしたということ」でもあります。
そして、堀江さんの逮捕をきっかけに、若者たちは、女性や財産、そして権力を手に入れることを断念することで象徴的に自発的去勢を行い、「○○離れ」を起こして、従来の価値観を否定し始めます。丁度いいことに、草食系男子が流行し始めるのは堀江さんが逮捕されてしばらく経った頃です。そう考えると、草食系男子が「女性はめんどくさい。」という言葉をよく放つことと、ガウタマが女性を不浄視することは、自発的去勢の実現願望という共通点を持っていると思います。
いずれ日本は財政破綻を起こして、日本人はIMFに隷属すると思いますから、それをきっかけに日本人は他者に対するに対する甘えや嫉妬心を捨てて、ユダヤ教徒と似た、日本人特有の厳格の一神教を信じるようになるでしょう。
こうして、ようやく、日本にも本格的な男尊女卑社会が到来するかもしれません。よく男尊女卑社会が問題視されることがよくありますが、男尊女卑社会の到来が必ずしも悪いことではありません。なぜなら、ジェンダーフリーが進んでいる社会は、本格的な男尊女卑社会を経験したからです。つまり、男尊社会の到来は、ジェンダーフリー社会へ一歩近づくことでもあります。
今の若い男性が、かつてのガウタマと同じ境遇にあって、ガウタマのような悟りの境地にあるから草食系男子になっているというのですか。そのわりには、若い男性の間で仏教がブームになっていませんね。むしろ、現在、仏教に対する関心が増えているのは、30-40代の女性で、仏女(ぶつじょ)とか仏像ガールという言葉があるぐらいです。仏教ではなくて、仏像に関する意識調査ですが、こういう結果がでています。
もとより、彼女たちが仏教の教理を十分に理解した上で、ファンになっているのかどうかは不明で、たんに癒しを非宗教的に求めているだけかもしれません。
永井先生が「自発的去勢」という語で用いている意味を、防衛機制に当てはめると、反動形成だけですか?
自発的去勢には、胎内回帰願望の断念、精神的な乳離れというポジティブな面もあります。しかし、自立に失敗すると、拒食症をはじめとする自傷症はネガティブな結果をもたらすことになります。ガウタマは、伝説によれば、最初のうち自傷症に近かったが、そこからさらに抜け出すことに成功しました。
拝啓
突然の書き込み、失礼いたします。
貴殿の論の組み立てとして、カール・ヤスパースの『枢軸時代』の概念、無神論者であった「フロイトのリビドー説」、「原始仏教経典」、「仏教における女性についての文献」を骨子としていると思われます。
19世紀末から20世紀初頭に欧州に仏教思想に関する文献が伝わったが、ユングと異なり、フロイトは決してそれらの文献を積極的に研究対象にはしませんでした。
仏教自体を研究対象としなかったフロイトの言説を用いて、仏教やブッダの女性観を考察するのは脱構築的な分析として興味深いものがありますが、仏教を積極的に考察対象としたユングの文献を引用し、フロイトの言説を用いた分析と比較考察しなければ片手落ちのように感じます。
大乗仏教においてサンスクリット語で女性形名詞である「智慧/prajñā」と、男性形名詞である「方便upāya/」の円満な成就を父母に例える例は散見されます。
あるいは「智慧/prajñā」を尊格化した「般若仏母」なども登場します。
それが密教経典である『理趣経』では個の欲望から空無自性の状態での利他行の高度な暗喩へと転じ、『秘密集会タントラ』以降(8世紀以降のインド仏教後期)では高度な暗喩として性的なヨーガが説かれる「タントラ」系経典が作られる様になります。
この様な仏教の思想と言語と比喩や暗喩の展開への考察を十分になされていない様に感じました。
またチベット仏教ニンマ派にはマチク・ラプドゥンなどの女性修行者で悟りを得たという行者が複数、存在します。
大乗経典に話を戻せば『妙法蓮華経』の変男子しての「女人成仏」の例だけでなく、『勝鬘経』の様な在家の女性信者である勝鬘夫人が「如来蔵」の教えをき、それを仏陀が認める形式の経典も存在します。
ブッダの生きた時代の仏教(原始仏教)、ブッダ入滅以降の南伝仏教、北伝仏教、チベット仏教を分節し、各時代と各地域の仏教の思想と教団における女性の位置付けを考察しなければ、「仏教」における女性像〜差別の問題をフロイトの説を用いて考察する試みは強引な「我田引水」な論に陥ってしまうように思われます。
PS
イスラームの侵攻によるインド仏教の消滅に関しては「カーラチャクラタントラ」の内容と関係文献が当時のイスラームに対する仏教徒とヒンズー教徒の共闘〜混交化を知ることができます。
またイスラームの侵攻を逃れた仏教徒のバングラディシュ〜ミャンマー地域への移住、チベットやスリランカ方面への僧侶の移住などが記録に残っています。
厳密な意味での仏教は原始仏教であり、その後現れた様々な宗派の仏教は本来の仏教と区別して考える必要があります。同じことは、キリスト教についても言えます。ユダヤ教と初期キリスト教は、本質的に父権宗教ですが、キリスト教が地母神を崇拝している地域に普及するにつれて、マリア崇拝のような地母神崇拝と妥協するような要素が付け加えられました。仏教も普及するうちに、従来の地母神崇拝と妥協していったと考えられます。ユングについてはまた別の機会に詳しく論じたいと思います。
「厳密な意味での仏教は原始仏教であり、その後現れた様々な宗派の仏教は本来の仏教と区別して考える必要があります」という言説はかって、古典を重視する傾向の強い欧州の研究者に見られた傾向です。
しかし現在の世界的な仏教学では部派仏教から生まれた大乗仏教とその中から生まれた「般若空観思想」「唯識思想」がインドの仏教全体の歴史の中の二大学説であることが通説です。
原始仏教至上主義は現在の仏教学では何ら意味を持たないディスケルである事も留意された方が「仏教」の女性観をフロイトの「Todestrieb/死の欲動」説を踏まえて再考する上ではよろしいのではないでしょうか。
また、後に加えられた伝承という部分が強いとはいえ「梵天勧請」のエピソードに関する考察もフロイトの「Todestrieb/死の欲動」説を踏まえて仏教を再考するならば見逃すべきか疑問です。
悟りを得て、そのまま無余涅槃に達しようとした釈尊をバラモン教の三大神(ブラフマー/ヴィシュヌ/シヴァ)のうち梵天(ブラフマー)が引き止め、教えを広めることを求めた事はパーリ語経典『サンユッタ・ニカーヤ』にも見出す事ができます。
PS
【〈厳密な意味での仏教は「「原始仏教である」〉とすることの問題点】
〈厳密な意味での仏教は「「原始仏教である」〉ならば、その後の “部派仏教 “、部派仏教の流れを受ける南伝仏教(スリランカ、タイなど)も「真の仏教」ではないという事でしょうか?
原始仏教を推測するには、早い時期に成立したと伝えられる「スッタニパータ」「ダンマパーダ」などのパーリー語で伝わる経典によらなければなりません。
現在の南伝仏教のパーリ語の大蔵経が編纂されたのは紀元前1世紀にスリランカにおいてですが、正式に原典の校正出版等がなされるのは19世紀末に英国でパーリ聖典協会が設立されるまで待たなければなりません。
その間にスリランカでは12世紀まで部派仏教の流れを組む大寺派と、密教を受容した無畏山寺派、祇多林寺派が栄えました。
8世紀には真言八祖の一人不空三蔵がスリランカとインド南部に金剛頂経系の密教(のちのチベット仏教となるインド後期仏教/密教の源流)の教えを求めています。
しかし9世紀〜13世紀には南インドに出現したタミル人系のチョーラ王朝によりスリランカの仏教寺院は壊滅的なダメージを受け、ヴィジャヤバーフ1世(1153〜1186)がミャンマーから僧侶を招き再興しますが、再び16世紀にはポルトガル、オランダ、イギリスの植民地支配で仏教が衰え、タイやミャンマーから再び僧侶を招き仏教を再興させます。
余談ですが、上記の様な歴史背景の中で民衆の中で現世利益はスリランカの仏教寺院内で今では護法身となり祀られているヒンズー教由来の神々を祀る祠に参拝する習合思想がみられます。
現在、校正され世界的に出版されているパーリ語の大蔵経は先述の様な歴史を経て19世紀末に英国で校正出版されたものを底本としています。
〈厳密な意味での仏教は「「原始仏教である」〉と断言してしまう事は、原始仏教以降の部派仏教とその流れを組む上座部仏教の文献や口伝、戒律などしか資料が残されておらず、その上座部仏教を代表するスリランカですら前述のような複数回の仏教の衰退と復興が行われており、本格的な校正と出版がなされたのは近代以降というところからしか憶測する事が出来ない「原始仏教」に、過多の正当性を求める、ある種の古典ロマン主義的ファンダメンタリズムに陥るように思うのですがいかがでしょうか?
私は「通説だから正しい」とは考えません。通説を鵜呑みにせずに、自分の頭で考えるというのがこのサイトでの私の方針です。
私は本文中では「ガウタマの本来の教え(根本仏教)」という書き方をしました。「厳密な意味での仏教」という表現が気に入らないのであるならば、「ガウタマの本来の教え」や「根本仏教」といった表現でも構いません。私にとっては同じことです。根本仏教とその後現れた様々な宗派の仏教とを区別するべきだという私の主張に問題があるとは思えません。
もちろん、「スッタニパータ」や「ダンマパーダ」などの最古の仏典ですら、ガウタマの本来の教えをどれだけ正確に伝えているかはわかりません。しかし、他に手掛かりがない以上、歴史的人物としてのガウタマの思想を推定する上で、初期の仏典を手掛かりにすることは合理的です。なお、南伝仏教の文献を読むと、ガウタマの本来の教えと矛盾すると論理的に判断できる伝承を見出すことができます。そうした後世の捏造を排除しながら、ガウタマの本来の教えが何であったかを探求する必要があります。
もう一つ誤解して欲しくないことは、私が問題にしているのは、「仏教は本来どうあるべきか」ではなくて「仏教は本来どうであったのか」にすぎないということです。日本で普及しているのは大乗仏教ですから、前者の意味で「ガウタマの本来の教え」を語ると、反発が起きることは必至ですが、私は後者の意味で語っていることを理解してください。
根本仏教以降現れた様々な宗派の仏教も、それが現実に人々の信仰を集めた以上、歴史学的に無視できるものではありません。しかし、根本仏教とそれ以降の仏教を概念的に区別しないと、普及に伴って従来の地母神崇拝とどう妥協していったのか、そのプロセスが不明確になってしまいます。本文にも書きましたが、チベット密教は根本仏教からの逸脱が大きく、根本仏教以前の母権宗教に性格が近くなっているので要注意です。
丁寧なご返答に感謝しております。
私は根本仏教の釈迦、仏教の開祖としての生身の釈迦に、フロイトの精神分析を適応する永井先生の視点に非常に知的スリルを感じております。
その上で愚鈍な私が永井先生の論説を読んだ上で疑問として思いついた事をお尋ねさせていただいております。
「パーリ語経典経蔵小部」に収録されている『テーリーガーター(「長老尼偈経」)』(中村元は『尼僧の告白-テーリーガーター』として翻訳)では尼僧が「わたしの心は解脱しました」
「私はブッダの教えを成し遂げました」など、自らの(阿羅漢としての)悟りの体験を語る描写があります。
〈「ガウタマの本来の教え」や「根本仏教」〉の時代に女性出家者が「悟り」を得ていた事を考えた時に、その時代の仏教は「父権宗教」であったと言えるのでしょうか。
御茶ノ水女子大で初めて男性として2002年に博士号を取得した植木雅敏博士は博士号取得論文『仏教におけるジェンダー平等の研究──『法華経』に至るインド仏教からの考察』で、上記のパーリ語経典の記述から『法華経』の女人成仏までを紡ぎ、女性が成仏できないという女性蔑視的な視点は原始仏教教団では見られなかったのが、釈迦入滅後の部派仏教時代の教団の中で形成され、大乗仏教の中で改めて克服されたと説いています。
寧ろ、”原始仏教教団”では女性出家者が「(阿羅漢としての)悟り」を得られたのに、”部派仏教”の時代になりそれが困難なものへと、「父権主義的宗教」へと転じてしまったのではないでしょうか。
この”部派仏教教団による「父権化」 “は釈迦の義母マハーパージャパティーとヤショーダラが釈尊在命中に出家し尼僧の集団を作り上げた功績の評価の低さからも伺えるように思います。
〈”原始仏教教団では女性出家者が悟りを得る事が可能だった “のに、釈迦入滅後の部派仏教の時代になり「父権主義的宗教」に仏教が転じてしまった事〉
この方がフロイトの「リビドー説」「死の欲動説」あるいは、ユングの元型の概念の「グレートファザー」「グレートマザー」あるいは「母親殺し」と照らしあわせても整合性が見出せるように思うのですが。
あるいは永井俊哉氏の【《ケ→ケガレ→ハレ》というスケープゴートの弁証法】を植木雅敏博士の論を元に引用させていただくと以下のようになります。
ケ
《悟る事が可能な「原始仏教」教団の女性出家者》
↓
ケガレ
《悟る事が困難とされた「部派仏教」教団の女性出家者及び女性信者》
↓
ハレ
《悟りや如来蔵を有する事が説かれる「大乗仏教」経典『法華経』『勝鬘経』などの女性像》
《女性出家者が悟る事が可能だった原始仏教》から、釈尊亡き後の部派仏教教団では女性が「穢れ」として扱われるようになり、大乗仏教経典の時代になりそれらが克服されたのではないでしょうか。
『テーリーガーター』は初期の経典ではありますが、最古の経典ではありません。最古の経典という点では、『スッタニパータ』の「アッタカヴァッガ」や「パーラーヤナヴァッガ」が重視されるべきです。これらを読む限り、最初から尼僧がいたとは考えられません。
また、後に尼僧が現れたとしても、それは仏教が父権宗教であることを否定することにはなりません。イエス・キリストにはマグダラのマリア(母のマリアとは別人物)という女性の弟子がいましたが、だからといってキリスト教が母権宗教であるということにはならないのと同じことです。
母権宗教では、神(あるいは教祖)と信者の関係が、象徴的に母と子の関係であるのに対して、父権宗教ではそれが父と子の関係になっています。イエス・キリストとマグダラのマリアの関係が、象徴的に父と娘の関係である限り、それはキリスト教が父権宗教であることを否定することにはなりません。ガウタマと弟子たちとの関係についても同じことが言えます。
マハーパジャーパティーに関しては、本文で既に書いたとおり、ガウタマは教団に加わることを歓迎せず、何度も断った挙句に八敬法を遵守するという差別的な条件付きでようやく許可したと伝えられています。養母だと、いくら象徴的にとはいえ、父と娘の関係に置くことが困難であったからでしょう。
永井先生の質問に対する丁寧な解説、誠にありがとうございます。
『スッタニパータ』や『ダンマパダ』を久々に読み返しておりました。
『ブッダの言葉/スッタニパータ』中村元訳の後書き部分p.434で『スッタニパータ』に尼僧が登場しない事が指摘されています。
しかし同時に中村博士は同p.434でa.「西暦紀元前300年のギリシア人メガステネースが尼僧に言及している事」を述べ、p.437ではb.「北伝仏教の伝説を元にブッダが説法を行った期間を紀元前428年〜383年」としています。
a.b.二つから考えると仏滅後83年の後の時代にはインドで尼僧が存在していた事になります。
しかし仏滅後に尼僧が認められたとは考え難いのでブッダの在世中に、仏伝通り尼僧の集団が形成されたと思います。
これと先に指摘したc「.尼僧が自らの阿羅漢としての悟りを述べる『テーリーガーター/長老尼偈経』の存在」は《d.「結集」 https://ja.wikipedia.org/wiki/結集 での暗唱と仏弟子による承諾で経典が口伝で伝えられ、後にパーリ語経典として編纂された事》と合わせると、ブッダ在世中から仏滅後の部派仏教の時代のある時期、a.b.d.を合わせると仏滅後100年にヴァイシャーリーで行われた第2回結集の頃までは尼僧の集団と尼僧の阿羅漢としての悟りが仏教教団内で認められていたのではないでしょうか。
しかしその後、部派仏教はスリランカでもタイでも正式な出家者としての尼僧の集団が現在に至るまで部派仏教以降の南伝仏教では正式には認められなくなります。
《仏教はなぜ女性を差別するのか》と《仏教が父権宗教であること 》、それらが象徴的に《神(あるいは教祖)と信者が父子関係であること》によるものであるとして、
以下の
e.『ダンマパダ/ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳p.56
e1「世に母を敬うことは楽しい。
e2 “また “父を敬うことは楽しい。
e3 世に出家者を敬うことは楽しい。
e4 世にバラモンを敬うことは楽しい。」
対応する漢訳『法句経』では
e5「人の家に母あるは楽しい。
e6 父有るも”斯れまた楽し “。
e7 世に沙門有るは楽し。
e8 天下に道有るは楽し。」
上記に続いて説かれるのが
老いた日に至るまで戒めを保つ事は楽しい。
信仰が確立している事は楽しい。
明らかな知慧を体得する事は楽しい。
もろもろの悪事をなさない事は楽しい。」
とあります。
まず第一に”母”を敬う事や存在が楽しいと説かれ、そして等価としてではなく、 “ また “という言葉を挟んで” 父“を敬う事や存在が楽しいと説かれています。
原始仏教経典では複数の名詞が「等価」で「並列関係」にあるものは大抵、e3,e4あるいはe7,e8のように箇条書きされます。
「母」という存在が「父」よりも先に〈楽しい存在〉として説かれています。
そしてその〈楽しい存在〉である「母」は、「父」だけでなく「持戒」や「悟り」の “楽しさ”とも併記されています。
原始仏教が本来「父権宗教」であったという永井先生の説は私の質問に対する丁寧なご説明のおかげで理解と納得をすることができました。
ただ、ブッダ在世の時代から仏滅後の第二結集辺りの時代まで、後に説かれるほど仏教が《女性が悟りを得にくいという認識であった〜女性に対し差別的であった〜ある種のコンプレックスの対象であった》のかは、c.『テーリーガーター/長老尼偈経』やe,『ダンマパダ/ブッダの真理のことば 感興のことば』の記述から疑問です。
《仏教はなぜ女性を差別するのか》と《仏教が父権宗教であること 》は、ある範囲に置いては重なるが、完全には一致しないのではないでしょうか。
『ダンマパダ』から引用されているその文章は、内容から判断して、在家信徒のためのものと考えられます。出家修行者は、父母を捨てるのですから、父母を敬うことにはならないし、出家者が出家者を敬うというのも変です。そして相手が在家信徒ならば、ブッダは、方便の説教をしていると受け取ることができます。実際、引用されたパッセージには、「世にバラモンを敬うことは楽しい」とありますが、仏教はカースト差別を否定する宗教だから、本当はこういうことを言うのはおかしい。でも相手が在家なら、常識と妥協した方便もありえます。「世に母を敬うことは楽しい」というのも、同様に、たんに当時の常識に合わせただけのものと考えられます。
ブッダは、出家信者と在家信者とに対して違うことを言っていました。対機説法は理解力の度合いに応じたものというよりも、原始仏教が抱える根本的な矛盾によるものと私は考えています。仏教の無我の考えからすれば、死後の世界での魂の持続ということは考える必要はありません。でも在家信者に供養してもらうためには、そうしないと地獄に行くというような、常識と妥協した俗受けするようなことを言わなければなりません。大乗仏教は、こうしたダブルスタンダードゆえの矛盾を解消するために成立したものと私は考えています。
『スッタニパータ』にしても『ダンマパダ』にしても、バラモンに関する記述が多く登場します。
私は引用した『ダンマパダ』の「バラモン」という表現に関して中村元博士はブッダゴーサの註釈に従った事、ナーラダ長老もそれに従っていると訳注で述べています。
あるいは『スッタニパータ』の小さなる章における「バラモンにそうおうしいこと」(『ブッダのことば〜スッタニパータ』中村元訳p.62~p.67という項目では在家信者であるコーサラ国の富豪のバラモン達の「今のバラモンは昔のバラモンたちの守っていた定めに従っているのでしょうか ?」という質問に関して、釈迦がバラモンが禁欲的でヴェーダを友とした生活を送っていたのに、財産を所有し甘薯王に牛を供儀の為に屠らせてから「祖霊と帝釈天と阿修羅と羅刹たち」の怒りを買い、さらに隷民と庶民とが分裂し、諸々のの王族が分裂し、「王族も、梵天の親族(バラモン)も、並びに種姓(の制度)によって守られている他の人々も、生まれを誇る議論を捨てて、欲望に支配されるに至った。」と説いています。
また中村元博士の(ブッダゴーサの註釈)に従った翻訳で登場する原始仏教経典の釈迦のいう「バラモン」に関しては、狭義のバラモン教の祭祀を司るバラモンを指すだけではなく、当時のバラモン教のバラモン階級を踏まえて、理想の出家者像を述べている事も少なくないと、私は大正大学仏教学部の授業で『スッタニパータ』(中村元訳)をテキストに授業を受けた時に習いました。
《仏教の無我の考えからすれば、死後の世界での魂の持続ということは考える必要はありません。でも在家信者に供養してもらうためには、そうしないと地獄に行くというような、常識と妥協した俗受けするようなことを言わなければなりません。》
仏教は原始仏教(釈迦の時代の仏教)から、大乗仏教、さらに後期インド仏教の流れを組むチベット仏教まで「輪廻転生」の概念を、仏教以前のバラモン教から引き継ぎました。
バラモン教では「梵我一如」に至ったバラモンや以外は固定カースト内からの輪廻から抜け出せないと説きます。
対して仏教は元々の出自、カーストに関係なく〈出家者は固定カースト内の輪廻から「解脱」できる〉と説きます。
あるいは篤信の在家信者は地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天界の六道輪廻の中から「天界」に生まれ変わる事ができると説きます。
また仏教信者になれば、バラモン教~ヒンズー教社会の中のヒエラルキーとして存在するカースト制度に関係なく生きる事ができます。
また〈出家者のみが輪廻から「解脱」し成仏できる〉という認識は原始仏教から大乗仏教まで共通します。
誤解されやすいですが浄土教における「極楽往生」は、「成仏することの容易な極楽浄土への往生(生まれ変わり)」を説くもので輪廻からの解脱を説くものではありません。
日本仏教ではほとんどの宗派が葬儀の引導作法の中で導師を勤める僧侶が故人と師弟関係を結ぶ事(血脈授与)を行い戒名を授ける事で「出家者しか解脱できない(成仏できない)」という問題を克服しています。
また仏教は原始仏教の時代から「死後の世界での魂の持続」言い換えればバラモン教における「アートマン(梵)」の存在を否定しています。
現世への輪廻は過去世の「業(カルマ)」によって生じ、現世の「業(カルマ)」が来世を決定するというのが仏教全体で共通する認識です。
キリスト教のような「魂」の救済と「地獄」の概念の提示により信仰心を喚起したり在家信者に布施を喚起させる様な布教方法は本来、仏教では行いません。
部派仏教の中から現在の上座部仏教の流れと大乗仏教の流れとが分裂した「根本分裂」に関しては、前述の様に〈出家者でなくては輪廻から解脱できない〉という概念は上座部仏教、大乗仏教ともに共通であり《対機説法における「無我論」と「死後の世界での魂の持続」が出家者と在家信者にはダブルスタンダードでそれが大乗仏教を生み出す要因になった》という永井先生の仮説には疑問です。
PS
対機説法の概念の重要性はインド仏教の後期に当たる密教まで受け継がれています。
ちなみに私は真言宗の僧侶です。
そういう二義性があるからこそ、「常識と妥協した方便」と言ったのです。「バラモン教の祭祀を司るバラモン」と「理想の出家者」が違う以上、本来別の言葉を使うべきですが、従来からある常識と妥協した方が受け入れられやすい。フランシスコ・ザビエルは、布教当初「神 Deus」を大日如来に由来する「大日」と訳し、「大日を拝みなさい」と言ったため、日本の信者に抵抗なく受け入れられました。また母マリアに抱かれる子イエスというイメージも、母権宗教の影響が色濃く残る日本では好評でした。常識との妥協は布教を行う上でプラグマティックな重要性があるとはいえ、それを本来の教義と混同してはいけません。
ブッダが輪廻転生や来世を信じていたかどうかに関しては、「煩悩からの解脱は可能か」のコメント欄でも議論になりました。ブッダは「毒矢のたとえ」等で、形而上学的な問題に対して無記の立場を採っており、こうした問題にコミットすることは修行にとってむしろ障害になると考えていたようです。それに対する異論もありますが、これに関して論じ出すと、本題から逸脱することになるでしょうから、それこそ「無記」ということにしておきましょう。
私が前回のコメントで言いたかったことは、
は、在家信者向けの「常識と妥協した方便」であり、仏教の奥義を表したものではないということです。これに関して同意していただけるでしょうか。
はじめまして、よろしくおねがいいたします。
ここに来たのは、「女性蔑視は何処からきたのか」 という疑問から、たどり着きました。
私は無学な一般の女性なので、宗教や歴史、難しい事は分かりませんが、色々な文献を私なりに読んで
感じた事を申し上げます。
男尊女卑の元凶は「男性は女性より上」という「男性の本能(食欲や性欲と同じ)」の一つではないかと
思うのです。が、先生は男性として、深層心理にそのような感情は全く無いと断言できますでしょうか?
大変失礼とは存じますが…お許しください。どうしてもその事だけ確かめたかったので
コメントさせて頂きました。
私はどちらかと言うと「男脳」なので、もし男で生まれたなら きっと女性を下に見るだろうと…
これは想像ですが、そんな風に思っています。
「男性は女性より上」と先天的に思い込む「男性の本能」なるものは存在しません。人類200万年の歴史において、男尊女卑の風潮が定着したのは、約1万年前に起きた農業の開始以来のことで、歴史が浅いからです。それ以前は女性のステータスが高かったのです。
農業生産革命が起きる以前の狩猟採取経済では、男は動物の狩猟をし、女は植物の採取を行っていました。食料生産能力という点でそれほど大きな違いはなかったのです。だから、この時代には両性偶有の神(ファリック・マザー)が信仰の対象になっていました。所謂地母神崇拝です。
ところが、氷河期が終わるころから、人類は自ら食糧を生産するようになりました。男は野生の動物を狩る代わりに、それを家畜として飼うようになりました。さらに男は、自分たちが管理していた家畜を農耕や農作物の運搬の道具として使うようになりました。その結果、植物から動物に至るあらゆる食料の生産を男が手掛けるようになり、女の仕事は子育てや機織りといった家の中で行われるマイナーな仕事に限定されるようになりました。
このように農業生産革命以後、男と女の間に生産能力に大きな格差が生まれるようになり、男尊女卑という価値が形成されるようになりました。それで、農業革命の後、男神崇拝を行う宗教革命が起きたのです。ユダヤ教、キリスト教、仏教などの宗教はそういう背景から生まれたのです。
白人による有色人種差別も、白人が世界でいち早く産業革命を起こし、高い生産能力を獲得するようになったことが原因で起きましたす。今でも米国では白人の平均収入が黒人の平均収入を上回っているので、黒人が大統領になったところで、黒人差別は容易にはなくならないのです。このように差別の背後にあるのは、生産能力の違いです。
ですから、「女性蔑視は何処からきたのか」という御質問にお答えするなら、女性の方が男性よりも平均的な収入が低かったからということになります。真の男女平等を実現するために必要なことは、「輝く女性」といったキャッチフレーズで啓蒙活動を行うことではなくて、今なお存在する男女間の平均的な収入の格差を縮小することなのです。
こんばんは。早速お返事を頂き、嬉しく存じます。
何度も読み返して頷いております。
稚拙な私の質問に対して、詳しく分かるような丁寧なご説明を、
誠にありがとうございました。また時々 拝読させて頂きますので
どうぞよろしくお願い致します。
真実だけかけば、
イエスはこう仰った。
女は男に成れば天国に入るだろうからと。
聖書でも似たようなもの、ほぼ同じですね。
聖書のどの箇所にそう解釈できることが書いているのかがわかるように出所を明記してください。
最近話題になったミニマリストは自発的去勢をしたがる人たちだと、この記事を読んで連想しました。最低限のもので満足することは裏を返せば物欲を削って最低限にするということだと思います。不景気で所得格差も広がって欲しいものが手に入らないのも要因だと思います。永井さんはどういう風に考えますか?
そういえば、クーラーを捨てたら暑くて死にそうになったというミニマリストのブログを読んで、少し病気だと思いました。
ユダヤ人は自分の国を持たず土地に縛られない生き方を長くしてきましたが、それは母なる土地からの分離と対応すると思います。ユダヤ人は迫害された苦痛をひっくり返して、自分たちはそういう生き方を自発的に選んでいるんだと思っているのでしょうか?逆にイスラエルの建国は精神的な母胎回帰でしょうか。
出家経は悟った後のブッダが話す内容だとは思えません。「女人は清らかな行いの……」について、悟った人間がなぜこういったレトリック?を使うのかが理解できないです。
貧乏が原因でミニマリストになっても、それが自発的去勢であるとは言えません。もてる男があえて彼女を作らないなら、禁欲的と言えるけれでも、まったくもてない男が彼女を作らないことを禁欲的とは言わないのと同じことです。
ユダヤ教は父権宗教です。約束の地は父なる神に与えられたもので、彼らにとって、イスラエルへの帰国は胎内回帰ではありません。詳しくは、「先住民族の聖絶としての初子奉納」をご覧ください。
仏典はほとんどすべて後世の捏造です。歴史的人物としてのガウタマ・シッダールタが何を言っていたのか、今となっては、正確なことはわかりません。しかし、仏教がどのような宗教であるのかを理解する上では、仏典は手掛かりとなるテキストです。
私の個人的な考え方の癖なんですけども、貧乏にかぎらず多くの悩みは、周りが自分をそういう風に追い込んだんだという被害妄想的なものがあります。だから、彼氏に振”られた”女性が、自分を振ったことの被害者意識を持っているのではないかと類推しました。同様に、出家前のゴータマシッダルタについても「軍事提供を断”られた”」から逆に今までの地位を捨てたんだと(これはブッダの言葉ではないにしても)。つまりは、自分が被害者という意識があってそれをひっくり返すことが主体性を取り戻すことにつながると、永井さんの記事を解釈しました。
元から地位、能力、魅力などを持っている人間がそれを捨てるのが自発的去勢だとしても、奪われたり与えられないという体験がきっかけになっています。だから、最初から持たざるものが自分から欲しいものを断念するときも心理としては同じだと思います。ただ持たざるものが酸っぱいブドウ論法をつかっているだけではないと思います。
ルサンチマンと自発的去勢の違いがよく分からなくなりました。並みの迷える拒食症患者と違うブッダにしても同じことをしているようにみえます。
私は「まったくもてない男が彼女を作らないことを禁欲的とは言わない」と書きましたが、まったくもてない男というのは実は少数派で、一番数が多いのは、ある程度もてる男です。ある程度もてる男が、たまたまある女性にふられ、その気になれば別の恋人を手に入れることができるにもかかわらず、それをきっかけに、恋人を持つこと完全に断念するようになるなら、それは自発的去勢と言えるでしょう。ガウタマ・シッダールタも、挫折体験があったとはいえ、その気になれば、俗世で一定のステータスを維持できたはずなのに、それらをすべて捨てて出家したのだから、自発的去勢と言うことができるのです。
極端な持てるもの持たざるものという1か0かの思考は、不自然か実態にそぐわないのかもしれません。確かに、ある程度持っている人間でも、べつの部分では満ち足りずルサンチマンをいだいたりします。
上の引用で語られたルサンチマンというのが単純に束の間の出来事でありきっかけでしかなく、それ以上に踏み込んですでにある自分の可能性まで捨て去るから自発的去勢だというので納得しました。一方で、相手から拒否されてルサンチマンを抱いても、自分に捨てるものがなかったら自発的去勢にならないですね。
話が横道に逸れて、一般的になりすぎる気がしますが、とはいえ自分の可能性を信じていない人間はうつにでもならない限りそうそういない気がします。勘違いでも自分には将来があると思う人間が、現実に直面して思い込みを矯正するのは、どう説明すればいいのだろうかと思います。
昔『「捨てる!」技術』という本がベストセラーになり、今でも、ヨーガの行法を元にした断捨離がブームになっていますが、これらはあくまでも不必要なものだけを捨てようということですから、必要なものを含めてすべて捨て去る仏教における本格的な出家とはまた違うと思います。もちろん必要かどうかというのは主観的な基準で、絶対的なものではなく、ルサンチマンが動機になっているかどうかも程度の問題でしょう。
女性がが枢機卿やローマ教皇になったことが歴史上無いでしょ。
そんな連中が仏教は女性差別なんて吹聴するのは自己矛盾。
とコメントを書いたら、日ユ同祖論者な久保有政のウエブサイトでは管理者権限での強制削除。
GotQuestionsに問い合わせてみたら「非キリスト教徒が聖書の本質を理解せず勝手な解釈をしてはならない」って定型文を送り返すだけ。
そして神は偉大で絶対的に正しく、浅はかな人間ごときが神を諮ることなど出来ないと思考放棄をしていて全く理解できず。
キリスト教は他の宗教を認めないし、信仰の自由は信仰しない自由も認めているけれど、
「人間ごときが作った法律など神の前では無価値」と罵倒してくるんだよね。
こんな人たちで構成されているキリスト教徒ってやっぱり異常な集団にしか見えない。
ちょっと少し。断捨離ブームは「必要なもの」から捨てさせて断捨離本とかは大量に買わせます、必要無いものを捨てる訳でも全てを捨てる訳でもありません。この場合捨てるのは「自分で考える」という行為そのものです、考えることを完全に放棄すれば迷いも苦しみも全部無くなるという考え方。
このような利他主義は来世利益を求める世俗派の在家信徒とは別の在家信徒の思想的根幹になってませんかね?
母体回帰願望の究極系と禁欲主義の「統一」宗教として、具体名は避けますが在家側から成立した宗教は多々あります。
たいていは先鋭化していき個人の救済レベルでの自殺や人類救済と称する大量殺戮に走って消えていきますが、すぐにまた生えてきます。
我が国の社会に根強く蔓延るジェンダー問題の根源としての日本国民の集合的無意識を考察するにおいて、近代では、明治時代から戦後まで続いた軍国主義の社会システムの影響が最も強固であることは語るまでもないことですが、
しかしながら、昨今の国連からの度々の勧告にも関わらず、これほどまでに、先進国・経済大国である日本が、新興国にも増してジェンダー問題の後進国であり続けている異常な現状の原因には、武家社会や武力政権の時代に面々と利用された儒教は言うまでも無く、時の権力により人間心理の奥底を洗脳する為に利用されてきた仏教解釈にも影響があるのではないか?と言う仮説を持ってググっていると、偶然こちらのブログに出くわしました。
各時代において、仏教や各種宗教が男女差別肯定であるかの如くに利用されてきた根源を、心理学を利用して読み解こうとされている解釈を誠に興味深く拝読しました。
エディプスコンプレックス、夢占いの登場は実に面白い!自発的去勢、自虐行為という観点も新鮮です。
(今時、失恋した女性が髪を切る?という固定観念はナイですが、これは筆者ご自身が如何に数多くの女性の心を翻弄してきたかを物語る武勇伝として拝読することに(笑)。)
なるほど!
仏教が発祥した時代は、現代とは違って人間の脳をトランスさせるものはごく僅かであった。
宗教的トランスと、祭りのトランスと、恋愛トランス、酒などのドラッグトランス程度のものであったでしょう。
これらのトランスの中で、最も甘美で強烈で永続的で、誰にも止めることができないどころか、下手に止めると馬に蹴られる程の被害を被る最も強烈なトランスは、まさに恋愛トランスです!
そして、ガウタマもそうであったように、当時の仏教伝道者は、男性であった。
と、なると、そこで創られた説法であるのだから、当然、女性の色香に迷って、宗教者が宗教以外で人間の脳に至高の幸せホルモンを満々とあふれさせる効果的な恋のトランスに浸られては、その宗教自体が成り立たなくなる。
つまり、「男女差別」以前の問題として、宗教の創始者にとっても、その伝道者の教育に際しても、彼ら自身に、徹底的に女性を忌み嫌わせ、遠ざけようと洗脳しなければならなかったのは自明の理です。
男女の色恋だけは、もう何が何でもどんな手段を講じてでも、排斥しならなければ宗教そのものが成り立たないほどの必要不可欠な重大問題であったろうことは容易に推測できます。
そもそも、女性原理から男性原理への移り変わりは、当時の人類のコミニティーにおいて、人類が、自然の変化を読み解く感性の必要性よりも、人類という同族を支配する武力の必要性を認識できるようになるような、地球上の環境或いはホモサピエンスの遺伝子的変化があったことが強く推測されます。
従って、感性よりも、武力=腕力の強弱がものを言う時代において男性が主体となる社会システムが構成されるのは当然のことであり、そのような社会情勢の中で発生したり、利用される宗教的説話もまた、同様の原理に支配されて当然のことです。
いやはや、実に面白い!
参考になる楽しい話をありがとう!
更に、思考を進めると、各種宗教における「男人禁制」や「女人禁制」もまた、さにありなん。男人禁制の修道院に男性が立ち入るのが破廉恥と感じるのと同様に、女人禁制の修験の山道に女人が立ち入るのも破廉恥と感じる我々は、人的依存を生む甘美でクレージーな恋愛トランスから隔絶した世界で、個人として自立した境地で精神を研ぎ澄まし自己沈潜し人間性の根本に触れることが本来の宗教心の発芽には欠かせないことを、本能的に認識しているのでしょう。
本題に関しては、仏教や各種宗教の端っこにくっついている女性談議は、あくまでも修行上女人禁制を強いる為の男性の痴話と解釈する方が、『男女差別』という視点で語るよりも、適切であろうかと存じます。
以下は私論ですが、現存する神道或いは仏教における葬儀から法事に至る一連の葬送の儀式は、近年広く語られ始めた西欧のメンタル・ケアとしての「グリーフケア」以上に綿密な心理ケアーであることをはじめとして、日本の宗教は、人間の精神や意識という分野において、現代科学が追いつかないほどの精緻なシステムを構成し終えていることは素晴らしいことであると拝察しています。
20世紀に発達してきた西欧の心理学のパラダイムと、日本の仏教などの宗教的パラダイムに、大いなる類似点があることを私は大変興味深く感じています。ユングが晩年易占いに傾倒していたとされることにも、彼は最終的な思考の到達点において何らかの共通点を見出していたのではないかと想像します。これらの共通点に架け橋をかけ呼応させる論者が現れれば、21世紀において、人類は、画期的な意識の進化を遂げる礎となるように思えてならないのですが。。。
最後に一つ質問をお許し頂けるなら、以下について、ご教示お願いいたします。
これも、哲学に無知であることを顧みない私論に過ぎませんが、20世紀において、現代における人類の宗教心の発芽は、実存主義の哲学やキルケゴールの神的実存への段階で略語られているかのように私は捉えていますが、筆者は、哲学と宗教との関係をどのように捉えられておられますか?
宗教とは、死後の世界について語ることで魂を救済する活動です。ここでいう魂の救済とは、安心させるとか希望を抱かせるとかといった広い意味で理解してください。仏教は、もともと宗教ではありませんでしたが、仏陀の死後、来世について語る宗教になりました。
死後の世界は経験できない以上、実証科学の対象になりません。哲学は思弁の学問なので、実証科学とは異なりますが、デカルト以降の近代哲学は、あらゆるものを疑うことから始めるので、盲目的で権威主義的な宗教とは異なります。
もちろん、宗教哲学と呼ばれるジャンルの哲学はありますが、それは宗教的な概念を理論的に考える学問であって、大衆の魂を救済するために活動することはありません。そこまでやれば、その活動自体は宗教活動ということになります。
ご返信、誠にありがとうございます。
厚かましいことですが、もう1つ、
哲学と心理学の違い、と、心理学と宗教の違い、を、どのように捉えておられるか、ご教示頂ければ幸甚です。
心理学は実証科学の一つであり、心を対象として科学的に研究します。多くの大学で、心理学者が動物実験をしているのもそのためです。もちろん人間も研究対象になりますが、心理学者が問題にするのが≪観察される側の心≫であるのに対して、哲学者が問題にするのは≪観察する側の心≫であるという違いがあります。哲学は心理学とは異なり、真理の制約条件としての認識主体を問題とするがゆえに、存在一般や真理一般について議論するのです。
心理学と宗教の違いは、宗教学と宗教の違いを考えるとよくわかります。宗教学は宗教を対象として研究する学問であって、それ自体は宗教ではありません。国立大学の宗教学の研究者が宗教を信じていないのもこのため、つまり、宗教を信じていると客観的な研究ができないからです。心理学が宗教を対象として選ぶ時も同じで、宗教を信じている人の心は、研究者の対象であって、研究者自身の心ではありません。
当時は気がつかなかったけどmarsさんのコメントを読みこう思いました。それは、断捨離は思想と言うよりビジネスですね。必要なものを捨ててしまったらまた買わなければいけないですし、さらには自分で考えることを放棄した人は物を買わされ搾取されます……。つまり、利他主義とは言えないです。消費サイクルを早める仕組です。人に禁欲を強いてお布施させ自分の欲を満たすことは、宗教にも見られます。
下らない哲学ごっこに基づくひねくれた妄想はやめて、現実社会に適応しなさい。
「現実社会に適応」するためには哲学が必要なのです。
本サイトの仏教を中心とした質問ではなく、しかもサブカル知識からで申し訳ないんですが、質問させていただいてもよろしいでしょうか?
エジプトの神様の中にはメジエドと言う神がいるそうです。エジプトの壁画たちの中で唯一、横向きではなく、正面から描かれている特別な位置ずけの神だそうです。しかも、姿は無いとされていて、誰にも見えないそうです。壁画ではオバQみたいな感じです。
もし、世界中の宗教が父性的か母性的かで説明できるのだとして、永井先生的にはこのメジエドのようなものはどう分類されると考えますでしょうか?
また、エジプトの信仰の対象の多くは人ですらなく、みんな動物なんですが、こういう精神文化はどういう社会から生まれるんでしょうか?これはエジプトには女尊男卑も男尊女卑もなく、第三の形態、畜尊人卑?みたいな現れなんでしょうか?
メジェドについては、情報が少ないので、何もわかりません。「オバQみたいな感じ」の外観も、不可視の存在であることを示すためにベールを被せて描いているだけのことかもしれません。
お早い返信有難うございます。
なるほど、そうなんですね。
他にも古代エジプトには面白いエピソードがあって、ローマとの戦争の時、ローマ軍が盾に生きている猫を括り付けてエジプトに戦争をしかけたことが有って、その時のエジプト軍は戦う事も出来ず敗走したそうです。
軍人が戦場で自分の命がかかった状況でも猫の命を優先するとなると、生類憐みの令があったころの日本よりも、いっそ滑稽なほどの畜尊人卑な精神文化だったんでしょうかね。
そこまで動物を持ち上げた社会にあって、なお姿が無いとされるメジエドって古代エジプトにとってなんだったのかな?と思いました。
古代エジプト人は、動物一般を尊重していたわけではありません。その証拠に、古代エジプト人は、ベジタリアンではなく、狩りをし、動物を殺して、肉を食べることをしていました。尊重していたのは、神として崇拝されていた一部の動物に限られます。
古代エジプトで一部の動物あるいは半人半獣が崇拝されていたのは、古代エジプトに地母神崇拝の影響が残っていたことと関係があります。古代の思想では、
男:女=人:自然
という比例関係があり、地母神崇拝は自然崇拝としての性格を持ちます。
「ファルスは、社会システムにおいて、ダブル・コンティンジェントな複雑性を縮減するコミュニケーション・メディアとして機能する。この機能を果たすためには、ファルスは、私的特殊性を捨てて、普遍的存在者とならなければならない。貨幣商品が、使用価値を捨象することで、貨幣という純粋なコミュニケーション・メディアになることができるように、宗教家は、自らの私的所有物を捨象することで、神という宗教的なコミュニケーションのメディアとなることができるのだ。」
この文章の部分を読んで連想したことは、ビットコインの創始者とされているサトシ・ナカモト
という人物(団体?)が本名、性別、経歴、国籍、個人か団体かなどが一切不明な点などがまさに当てはまることなんじゃないかと思いました。
もしかしたら本人(達?)はそのことを意図して何も語らないのかもしれません。
永井先生いつもありがとうございます
差別はなぜだめなのでしょうか
「差別がダメ」というよりも「ダメだから差別」ということにして、差別と区別を区別しているのです。
ユダヤ教、イスラム教、モルモン教ならともかくマリア崇拝で女性原理を入れてるカトリックが大勢力なキリスト教を父権宗教の典型って言われても納得しがたい。
三位一体の論理を超越したとこも女性原理くさいし。
幼児洗礼も胎内回帰的な儀式で女性原理ぽいですけどユダヤ教にもあるから一神教化=父権化前の多神教的な古代ユダヤ教の残滓でユダヤ教との差別化のために消せばいいのに残してるのはキリスト教とまでは言わずともカソリックが女性原理が強い宗教だからでは。
これも逆のすり替えで軍人として大成できないなら宗教家として大成したかった裏の意思があったのでは。
キリスト教が母権宗教との妥協の産物であることは、「男社会はいかにして成立したのか」で既に書いたとおりです。それでも、仏教と比べれば、キリスト教の方が父権宗教的と言えます。仏教は、本来宗教とすら呼べないような実践哲学にすぎないからです。
なお、今日、先進国の大部分がキリスト教徒の国であり、それゆえ、キリスト教は、圧倒的な文化的支配力を持っています。「典型」という言葉を使ったので誤解を招いたようですが、それは、「最も有名な父権宗教」あるいは「父権宗教の代表格」という意味で書いたまでのことです。
ガウタマ本人はあの世を信じていなかったし、その意味で、あの世での魂の救済を説く宗教を目指していなかったということです。