有性生殖はなぜ必要なのか
地球で最初に誕生した生物は、無性生殖により増殖していたと考えられるが、進化史上のどこかで、有性生殖が始まり、それが今日生殖の方法の主流となっている。だから、有性生殖には、デメリット以上のメリットがあるはずなのだが、そのメリットとはなんだろうか。

目次
1. 有性生殖は無性生殖よりもコストがかかる
イギリスの遺伝学者、メイナードスミスは、有性生殖には、“性の二倍のコスト the two-fold cost of sex”があることを指摘して、この問題を提起した[1]。有性生殖では、一つの個体を作るのに二つの個体が必要であり、一つの個体が一つの個体を作る無性生殖よりも、倍非効率である。したがって、他の条件を同じにしてシミュレーションしてみると、世代を重ねるうちに、有性生殖をする種は遺伝子プールから淘汰される。

単為生殖ができる性はメスに限られていることからもわかるように、生物の基本はメスである。哺乳類の胚は、性染色体構成がXXであれXYであれ、メスになるようにできており、Y染色体上のSRY遺伝子が働いて始めて、メスになるはずのものがオスに作りかえられる。だから、問題は、なぜメスは、メスだけを作らずに、ほとんどの種において子育てに協力しない、つまり、精子を提供することを除けば種の存続に貢献しないオスという余計で無駄なものを作るのかということである。オスという性を作ったばかりに、オスを生み育てるコストに加え、オスを探すコストまでがメスに重くのしかかる。いったいオスの存在理由は何か。
2. 有性生殖は自然環境への適応力を高めるのか
有性生殖においては、染色体の交叉、すなわち遺伝子組み換えのおかげで多様な個体が作られ、自然選択や性選択(雌の選り好み)により、環境に適応した個体が生き残り、進化が促されるというのが古典的で標準的な説明である。この説は、「ブレイ村の牧師」仮説と呼ばれる[2]。君主の交代があるたびに、それに合わせて、プロテスタントになったり、カトリックになったりする、ある小説に登場する牧師にちなんでそう呼ばれる。
しかし、実際には、環境への適応という点でも、多倍体の有性生殖よりも一倍体の無性生殖のほうが効率的である。無性生殖は、同じ遺伝子を複製し続けるだけだから、変異は生じないと考えられがちであるが、実際には、突然変異その他の理由で、個体間に差異が生じる。無性生殖は、たいがい一倍体(半数体)であるから、遺伝情報がそのまま表現型として表れる。したがって、有性生殖と比べると、環境に適応的でない遺伝子は急速に排除され、他方で、環境に適応的な遺伝子は、急速にその数を増やすことができる。
有性生殖では、ある個体に環境適応的な表現型がたまたま現れたとしても、その個体と他の個体との間にできた次の世代では、その表現型が消えてしまうことがあるし、環境に適応的でない遺伝子が、劣性ゆえに淘汰されることなく残存することもある。環境適応という点でも、有性生殖は非効率的である。無性生殖の生物は、多くの有性生殖の生物が住む居心地のよい場所よりも緯度や標高が高い苛酷な場所に住む。だから、有性生殖は、厳しい自然環境を生き抜くための工夫ではない[3]。
3. 有性生殖は遺伝子修復のための機構か
性の誕生を、進化を促進させるための進化としてではなく、逆に進化を否定するための進化として解釈する立場もある。多倍体のゲノムで有性生殖を行う生物は、DNAのバックアップを持って、一本のDNAにエラーが生じると、DNAポリメラーゼという複製酵素が、変化していない方を原本にして、塩基対合の誤りを修復する。だから、もともと無性生殖の生物よりも遺伝情報の変更に対して否定的なのである。そして、配偶子の接合は、バックアップごと損傷を受けたDNAを修復するために行われるというわけだ。
この説にもいろいろなバージョンがあるのだが、有名なものに「ミュラーのラチェット」仮説がある[4]。無性生殖だと、コピーミスが不可逆的に蓄積していくので有害だという説である。なお、ラチェットとは、逆転止めの爪と組み合わせて、一方向だけに回転するように作られている歯車のことである。情報の不確定性が不可逆的に増大するという点で、エントロピーの法則の一つの例と言える。
しかし、この仮説も、無性生殖に対する有性生殖の優位を説明できているとは思えない。一倍体のゲノムで無性生殖を行う生物では、有害なコピーミスは、直ちに排除され、子孫を残さない。だから、有害な遺伝子がどんどん蓄積するということはない。むしろ有利な「コピーミス」までが「修正」されないだけ、有性生殖よりも優れていると言えるかもしれない。
そもそも有性生殖のようなコストのかかる方法が、遺伝子修復だけのために必要なのだろうか。たんに、修復を確実にするというためだけならば、二倍体を三倍体、四倍体 … にする、つまり、バックアップの数を増やすなど、もっとコストのかからない修復方法が普及してもよさそうなものである。また、もしも性の目的が遺伝子修復だとするならば、なぜ多くの種は、異系交配を好むのかが説明できない。近親であればあるほど、そのDNAは自分のDNAと近い、つまりバックアップとして理想的であるはずなのに、なぜ、近親相姦は回避されるのか [5]ということになる。
性は、DNAのエラーの修復といっても、解読不可能な損傷を解読可能な情報で置き換えることしかできず、解読可能な遺伝子間の不一致を是正することはしない。異質な染色体をどちらか一方に同化させることなく、むしろ交叉させて新しい組み合わせの子を作り出す性が、遺伝情報の保守だけのためにあるのではないことは明白である。問題は、性が作り出す多様性が何のためにあるのかということである。
4. 有性生殖は寄生者対策か
最近注目を浴びている説として、性は、ウィルスなどの寄生者対策として機能しているとする「赤の女王」仮説がある[6]。なぜこの仮説がそう呼ばれるかは、後で説明しよう。この仮説は、性を、自然環境ではなくて、社会環境への適応の産物と位置付けるところに特色がある。苛酷な自然環境で有性生殖が行われないのは、ライバルが少なくて、社会環境への適応に力を入れなくてよいからだ。
良好な自然環境の下では、ライバルがたくさんいるので、社会環境への適応が重要となる。生物は多様な寄生者から身を守るために、自らを多様にしなければならない。そうすることで、種全体が滅びることを防ぐことができる。例えば、アフリカには、多くのエイズ感染者と交わっても、全くエイズに感染しない売春婦がいたりするが、そうした、エイズに感染しない遺伝子をたまたま持った人は、有性生殖のおかげで生まれてくるわけだ。
無性生殖でも多様性を作ることはできるが、致死率が高いので、多産多死になってしまう。大きな生物ほど少産少死の戦略をとらざるを得ないので、機能的に等価な部分だけを組み替える、より安全な方法、すなわち有性生殖が好まれる。コンピュータ・ソフトに喩えると、突然変異が、プログラムの任意のコードを書き換える危険な多様化策であるのに対して、有性生殖は、パスワードのような安全なところだけを書き換える安全な多様化策だと言うことができる。パスワードを多様にするだけでも、外部の侵入者を阻止する上でかなりの効果があるものだ。
5. 宿主は寄生者のスピードに勝てるのか
この説に対しては、寿命の長い宿主よりも寿命の短い寄生者のほうの世代間変化が速いのだから、寄生者対策にならないという批判がある。しかし、どの宿主の免疫システムをも突破できるほどに寄生者の変身が速いとしても、宿主には、寄生者をかわす方法があるのではないかと私は考えている。
またコンピュータの比喩を使おう。世界で最もウィルスの被害を受けているのは、マイクロソフトの製品である。だが、それは、マイクロソフトの製品が世界で最もウィルスに対して脆弱なソフトであるからではない。もっとセキュリティが甘いソフトがあっても、ユーザ数が少なければ、ウィルスにとっては魅力がない。マイクロソフトの製品のように、ユーザ数が多ければ、コンピュータを破壊しながらも、次々と他のコンピュータに感染することで子孫を増やすことができるが、ユーザ数が少なければ、他へと子孫を増やすことなく、壊したコンピュータと一緒に心中してしまうだけということが多いからだ。
ということは、レアなソフトを使うことには、ウィルスに狙われにくいという利点があるということであって、そのためなのか、少し前までは九割以上のシェアを誇ったマイクロソフトのインターネット・エクスプローラも、最近ではシェアを下げている。蓋し、マイクロソフトによるブラウザ独占を阻止した最大の功労者は、インターネット・エクスプローラのバンドルを反トラスト法違反で提訴した連邦政府司法省ではなくて、コンピュータ・ウィルスである。
話を生物に戻そう。たとえ寄生者に対する免疫がある個体があっても、それが少数派であるならば、寄生者は、あえて侵入のために変身しない。寄生者が多数派全部に感染するにはかなり時間がかかるので、その間、抵抗力を持つ少数派は、少数派ゆえのモラトリアムを利用して、数を増やすことができる。そしてかつての少数派が多数派になり始めると、寄生者はその多数派に感染するために、変貌を遂げる。その間、宿主は、有性生殖を通じて、新たな組み合わせを模索する。
これではいたちごっこではないかと思うかもしれない。その通り。それがこの仮説に「赤の女王」仮説という名前が付いている所以なのである。「赤の女王」は、『鏡の国のアリス』で、「同じ場所に留まるには、全速力で走らなければならない[7]」と言っている。生き残るには、寄生者とのレースに勝たなければならないが、それによって、寄生者がいない時と比べて、何か改善されているわけではない。
6. オスはなぜ存在し続けるのか
ウィルスは、ともすれば、たんなる破壊者としてしかみなされないが、ウィルスの本命は、宿主と一緒に死ぬことではなく、宿主を殺さずに、自分の遺伝子を組み込むことである。もともと地球上の生命は、RNAウィルスで、逆転写酵素によって、自らの情報をDNAに安定的に保存することに成功して以来、そのDNAに割り込もうとする寄生的なレトロウィルスの攻撃を受けることになる。
生物を支配する遺伝子をメスと餌場を支配するアルファオス(ボス)に喩えるならば、ウィルスは放浪オスで、放浪オスがメスと餌場を乗っ取ろうとアルファオスに戦いを仕掛けるように、ウィルスは、細胞の支配権を奪い取ろうと、既にボスのいる細胞に侵入する。放浪オスが、アルファオスの放逐に失敗したり、あるいは成功しても、メスまでを殺してしまったり、メスから交尾の同意を得られなければ、子孫を残すことができず、再び新たなハーレムを求めてさまようしかないように、ウィルスも、新たな感染先を探すしかない。
多くの生物学者(特に利己的遺伝子の仮説を信じている生物学者)は、自分の遺伝子を後世に伝えることが生物の究極の目的だと考えている。そうだとするならば、寄生者対策としての有性生殖は、きわめてパラドキシカルである。ウィルスによって遺伝情報を変えられることを防ぐために、有性生殖によって遺伝情報を変えるということは、暴力団から店を守るために暴力団を用心棒として雇うようなものだからだ。暴力団に金を渡さないためには、暴力団に金を渡さなければならない。お望みとあらば、雇った暴力団に「警察」あるいは「軍隊」、上納金に「税金」といったもっともらしく聞こえる名前を付けてもよい。
冒頭で、オスの存在理由を問うたが、子育てをせずに戦争ばかりしているオスは、メスにとって余計な負担以外の何物でもないのだが、見知らぬオスに支配されるよりも馴染みのオスに支配されている方が、リスクが低いから、メスたちは既存のオスを用心棒として養うしかない。
軍隊のない平和な世の中のほうが理想的であるように、無性生殖のほうが有性生殖よりも理想的である。だが、実際には、軍隊を廃止したり性を廃止したりすることはできない。ある国が軍隊を廃止しても、他の国の軍隊が侵入してくるだけだし、自主的に遺伝子を改変することを止めても、寄生者によって不本意な改変をされるだけだ。但し、資源のない砂漠だらけの国なら、侵略するだけの魅力がないので、軍隊を置く必要はない。同じ理由で、苛酷な自然環境の下では、生物は性を放棄することができる。
7. 赤の女王の疾走は無意味か
宿主と寄生者との競争は、しばしば軍拡競争に喩えられる。隣国がミサイルの開発に成功し、自国が迎撃ミサイルの開発に成功したとしても、それによって国民の生活が以前より向上するわけではない。赤の女王の疾走は、生物全体に何の利益をももたらさないように見える。
しかし、軍拡競争が、科学技術の新分野の開発という思わぬ副産物を生み出すように、宿主と寄生者との競争も、何か思わぬ利益を生命全体にもたらすことはないのだろうか。性の誕生により、生物が多様になり、それによって、生物全体の、変化適応力が向上したと言うことはできないだろうか。
軍拡競争の本来の目標が技術革新ではないように、性の本来の機能も、自然環境の変動に対する適応力の向上ではないが、結果としてはそれをもたらすことになる。以前、「環境適応と変化適応」で書いたように、環境適応と変化適応は似て非なる適応であって、しばしば対立関係にある。有性生殖を行う多倍体の生物では、環境適応に有利な表現型が次の世代で失われたり、不利な表現型が劣性遺伝子として温存されたりするが、これらは、環境適応的ではないにしても変化適応的であると言える。今有利な形質も将来は不利になるかも知れず、逆もまた然りだからである。
資産運用に喩えるならば、一倍体の無性生殖は、最も有望な金融商品にすべての資産をつぎ込む方法で、多倍体の有性生殖は、より魅力のない運用先にも分散投資する方法ということになる。意外な事態に対して強いのは後者の方法である。その意味で、赤の女王の疾走は、必ずしも無意味ではない。
8. 参照情報
- ↑Smith, J. Maynard. “What use is sex?." Journal of theoretical biology 30.2 (1971): 319-335.
- ↑Graham Bell. The Masterpiece of Nature: The Evolution and Genetics of Sexuality. Univ of California Pr (1982/06).
- ↑Ridley, Matt. The Red Queen: Sex and the Evolution of Human Nature. Harper Perennial; Reprint版 (2003/4/29). Chapter 2.
- ↑Muller, Hermann Joseph. “Some Genetic Aspects of Sex." Symposium: The Biology of Sex. The American Naturalist 66.703 (1932), University of Chicago: 118-138.
- ↑Ridley, Matt. The Red Queen: Sex and the Evolution of Human Nature. Harper Perennial; Reprint版 (2003/4/29). Chapter 2.
- ↑Leigh Van Valen. A new evolutionary law, Evolutionary Theory, No 1. p.1-30.
- ↑Lewis Carroll. Through the Looking-Glass: And What Alice Found There. Oxford Univ Pr (Sd); 3rd Revised版 (2007/12/31). Chapter 2.
ディスカッション
コメント一覧
1,”無性生殖は、同じ遺伝子を複製し続けるだけだから、変異は生じないと考えられがちであるが、実際には、突然変異その他の理由で、個体間に差異が生じる。”
とありますが、その他の理由とはなんですか。
2,”無性生殖は、たいがい一倍体(半数体)であるから、遺伝情報がそのまま表現型として表れる。したがって、有性生殖と比べると、環境に適応的でない遺伝子は急速に排除され、他方で、環境に適応的な遺伝子は、急速にその数を増やすことができる。” とありますが、逆に環境に適応でない遺伝子が潜在的に生き残るために(絶滅しないために)多様性が必要で、多様性を増やすために有性生殖をしているとは考えられないでしょうか。
例えば、ある生物Xから何かしらの要因で生物Aと生物Bが生まれたとして、ある生物Aは遺伝子aを、ある生物Bは遺伝子bを持っていて、ある場所に住んでいたとします。その場所はpとqという環境を持っていて、遺伝子aはpで、遺伝子bはqで生き残れるための遺伝子だとします。
生物Aと生物Bが無性生殖で増える場合、環境が短い期間(子供が何人かできる程度)でp→q→pと移り変わった時点でこの生物AもBもその子供も絶滅します。(突然変異が起こる確率の低さから新しい遺伝子は生まれなかった)
生物Aと生物Bが有性生殖で増える場合、環境が短い期間(子供が何人かできる程度)でp→q→pと移り変わっても生物AとBの子供で2つの遺伝子aとbを持っているものが最終的に生き残ります。一番最後の環境pになると生物AもBも死んでいますが、自分たちの遺伝子は高いコストを払って作ってうまく表現系に現れた子供のどれかに遺伝子は残ります。
こう考えると、自然淘汰的な考えからでも有性生殖のほうが遺伝子の保存に適していて、結果的にわざわざ有性生殖をしてもおかしなところはない。と考えられるのではないでしょうか。
そもそも生物Xの生殖方法や”何かしらの要因”とはなんなのかは謎ですが、その辺りは柔軟に辻褄が合うように変えればどちらのストーリーも問題なく進むと思います。
エピジェネティックな遺伝子発現制御を念頭に置いています。
私も本文で、「性の誕生により、生物が多様になり、それによって、生物全体の、変化適応力が向上した」と書いております。
有性生殖でも無性生殖でも、種が滅びない限り、遺伝子は保存されます。「有性生殖のほうが多様な遺伝子の保存に適している」と書くべきでしょう。
大変に遅くて恐縮ですが、とても興味深い貴ブログ「有性生殖はなぜ必要なのか」を拝読いたしました。
実は先般zoomで、大きなシンポジウムを開催いたしました。
タイトル:「種問題(生物学)から見える人類の道 利他が人類を救うー相模原障害者殺傷事件を発端に、鬼滅の刃を切り口に」
コメンテーターに、進化心理学者(生物行動学者)、社会学者など幅広くお呼びし「人類の道」についての総合論になりました。
私自身はリタイアした分子系統学者ですが、「種問題」に大きな関心を持ち、それが有性生殖それ自体と重なります。それで、貴ブログを拝読し感銘を受け、投稿させていただきました。「種問題」は「有性生殖の意味」と「人間の利己・利他」とまるで重なっていると私は感じています。
以下少し長くなりますが、その趣旨を述べさせていただきます。
コメントを賜れば誠に幸甚に存じます。
「生物の種」は、例えば犬とか猫とか、誰が見ても明らかに実在します。犬とか猫はもともと神様が作ったものだから、本質があって区別ができる。神ならぬ人間にはその本質を知る由もないが、観察や実験でそれに近づくことはできる。これが最初です。次にダーウィンの時代ですが、この世に実在する生物は個体だけだ。その個体を人間がグルーピングしたものが種だ。この世には個体だけが実在し、種とか属とか科とか分類群は全て人間の作った架空の理念だ。これが唯名論で、現代の一般的なダーウィニストの考え方です。そのグルーピングの方法(種概念)は20以上もあって1950年台から現在まで生物学者、哲学者などで侃侃諤諤の議論がありますが、答えは見出せていません。例えば、形態の類似性でグルーピングする形態学的種概念、妥当性が高いものは生物学的種概念があります。交配して次世代を生み出すことのできる個体、これが生物学的な種です。しかしこのグルーピングには大きな欠点があって、無性生殖生物には適用できないのです。ここで有性か無性か根本的な大差があることが分かります。他にも系統学的種概念とか、生態学的、進化学的、いくらでもあります。
1950−2000年にGhiselin (1974, 1997)やHull (1976)ら欧米の生物学者、生物哲学者が種こそが実体(個体)であると言い出しました。時空のある一点で他種から新種が種分化する。最初はごく少数、そして大きく広がり、絶滅の時はまた収束する。このような固定した形を時空にもつ。これは個体であると言ったのです。今まで個々の生物個体が唯一の実体だとし、種は人間の頭の中の架空のものだった。今度は種こそが実体。では、個々の生物(人間)は何なのか?個々の個人は、種という一つの実体の部分になります。論理的には、そう帰結されます。個々の人間こそが唯一の実体なのか、それとも個々の人間は種という実体の部分なのか、構成員か構成部分か、この問題も未可決です。
ギセリンらは、生物の種を個体とし、ならば個々の個体はと、上から下に降りて論理的に帰結しました。私はその逆です。今を生きる個々の個体は構成メンバーか構成部分か。個々の個体は部分であることに気がつきました。なぜって、個々の個体は次世代を生み出せません。オスは半分の機能、メスも半分の機能しか持っていない。必ず融合して1細胞になり、それが次世代になる。半分の機能しか持たないんじゃ部分じゃないか。そうすると部分を抱合した一つの個体がいることになる。私の説明は下から上に上がって行ったのです。ただしギセリンらと違って、全ての生物じゃない。これは、有性生殖生物だけだということです。
これがなぜ利己と利他に関係するのか。
生物とは、自身(遺伝子)のコピーを作るもの。自分の遺伝子を現代まで永らえてきたものです。その意味で生物は本来利己です。じゃあ利他とは何か?利他という真逆の仮面を被った利己。
ハミルトンの包括適応度の方程式があります。彼はこれで京都賞を受賞しました。
Fi = Fd + B x r – C
Fiは包括適応度です。我が遺伝子が次の代に生き残る比率です。Bは他人の適応度、Bに我の遺伝子と同じ遺伝子である比率を掛けます。ハミルトンの方程式は血縁適応度と呼ばれますが、この方程式からは血縁は出てきません。血縁の近い個体がrが大きいというだけです。rをかけたものが自分の遺伝子と同じ遺伝子になります。他人に我の適応度(エネルギー)Cを与えます。故に我の持つ総適応度FdからCが減少しますが、B x r>Cになれば、B x r はCより大きいのだから自分の適応度がFd以上になります。利他が成立するのは、この場合だけだとハミルトンは喝破しました。つまり、利他とは利己の仮面であり、純粋利他は理論上存在しない。すべからく、利他とは利己である。どのように利他に見えようとも、結局は自分自身のプラスになっている。個別の個体が激情にかられ、あるいは伊達酔狂で行うことはある。溺れる子どもを助けるために沼に飛び込んで自分が死んでしまったなどなど・・。しかし、種やそこに住まう個体群がそのような極性を持っていたらそれは存在し得ない。情けは人のためならず。これが現代進化心理学者(ダーウィニスト)の結論です。
そうなると、近代ではカント以降の倫理学者、社会学者、哲学者・・全ての研究命題である「善」。これが、善の仮面を着けた利己(私欲)ということになります。ものすごい結論です。
私はこのシンポジウムでこれがとんでもない話だと指摘しました。なぜとんでもないのか。それが、有性生殖の仕組みから出てきます。そこを見落としているのです。
有性生殖生物では自分の遺伝子を全身全霊をもって育てているように見えて、半分は他人の遺伝子を育てているのです。そこを見落としています。純粋利己と純粋利他の融合物を育てるのです。ここに有性生殖の意味があります。
これがどのように人間社会の効用になるのか。
私の講演に関して進化心理学者のコメントはきついものでした。純粋利他は天動説である。そう思いたいという気持ちが見させる夢まぼろしとまで言われました。
Youtubeにあげたばかりですが、もしお差し支えなければ見ていただきたく存じます。
種問題(生物学)から見える「人類の道」利他が人類を救うー相模原障害者殺傷事件を発端に、鬼滅の刃を切り口に
そしてコメントをいただければとても嬉しいです。
そうした思想の持主は、ラ・ロシュフコー(La Rochefoucauld;1613年-1680年)など、むしろカント以前に存在していました。ハミルトンの包括適応度論やドーキンスの利己的遺伝子論など、生物の行動を部分的要素の利己的行動で説明しようとする還元主義的な理論が生物学者の間で主流となっていますが、これは一面的な見方です。私は、むしろ利己的に見える行動が、実際には全体の利益になっているという逆ラ・ロシュフコー的な見方をしています。
森中さんは、利己か利他かという問題を、実体は個体か種かという問題や無性生殖か有性生殖かという問題と関連付けていますが、後者は関係のない問題であると思います。とりわけ、動画に登場する「有性生殖生物のマジック」という主張(15:22)は、不可解です。有性生殖生物では種が実体であるのに対して、無性生殖生物では種が架空というのは、むしろ逆という気さえします。
細胞を一つの生命体とみなした場合、多細胞生物は、複数の生命体の集合とみなすことができます。一つの受精卵が分裂を繰り返すことで成長する多細胞生物の体細胞分裂は、無性生殖と原理的に同じです。だからといって、多細胞生物という集合体が「架空」と言えるでしょうか。有性生殖が、その都度新たな遺伝的多様性をもたらすのに対して、無性生殖は、遺伝子の自己同一を維持します。
実体というのは、変化する現象の背後にある自己同一を持った不変の基体という意味の哲学用語で、本来生物のような現象界の個別の存在者に適用するべき概念ではありませんが、たとえ非哲学的な応用をするにしても、無性生殖を行う生命体の方が実体という概念はふさわしいと思います。
実体が種で、個体はその部分という表現が適切かどうかは疑問ですが、もしも、個体は種の存続のために存在しているという意味でそう表現しているというのなら、言わんとするところは理解できます。しかし、だからといって、個体が利己的に振舞うべきではないという結論は出てきません。利他的行動の方が利己的行動よりも種全体の利益になるというのが世間の常識ですが、私はこの常識を疑っています。
人間をはじめ、多くの生物の種では、個体は利己的に振舞います。利己的行動が種全体の利益に反するというのなら、なぜ人間のように個体が利己的に振舞う種が、今日に至るまで淘汰されるどころか、繁栄をしているのか、その理由を考えてみてください。私は、個体の利己的行動が、むしろ種の存続に貢献しているからだと思っています。
一般的に言って、種が長期的に存続するためには、環境適応と変化適応という二律背反的な二つの要求を満たさなければなりません。現在の環境に種が適応しすぎると、環境が変化した時に、種が全滅するリスクが高まります。このリスクを低減するためには、個体を多様化させる必要があります。現在、環境適応力が低いように見える個体も、環境が変われば、むしろ環境適応力が高くなって、種の絶滅を救うかもしれないからです。
もしも種の個体に利己心がなく、皆が協力して滅私奉公するなら、種は現在の環境に適応できるでしょうが、全個体が一丸となるため、多様性が失われます。反対に、個体がめいめい利己的に勝手に振舞うと、種全体のまとまりがなくなり、環境適応力が低くなる反面、多様性が増えます。種の存続には、環境適応と変化適応の両方が必要ですから、個体が完全に利他的ということもなければ、完全に利己的ということもなく、両者をバランスさせるのが普通です。
森中さんは、動画で、相模原障害者殺傷事件を取り上げています。この犯人は、事件によって個人的な利益を何も手にしていません。障害者を殺すことが社会の利益になると信じて、殺害に及んだのです。つまり、本人は、主観的には、利他的行動のつもりだったのです。この犯人や優生学の支持者は、社会には能力の高い人だけがいればよいという考えなのでしょう。しかし、能力が高いというのは、あくまでも現在の環境への適応力が高いということであって、社会がそうした人ばかりになると、多様性が失われ、人類という種の変化適応力が低下します。
ヒトラーは、ドイツを強国にするために、多くの障害者を「安楽死」させました。全国民がナチスに滅私奉公するファシズムは、一見強そうですが、個人主義と自由主義を重んじる英米との生存競争に敗れました。ソ連の共産主義も、ファシズムと同様、全体主義で、個人主義と自由主義を否定しています。一見すると全体主義は全体の利益になるように思えますが、実際には全体の利益にはならず、だから、ソ連も、米国との生存競争に敗れたのです。
米国も、もちろん、完全な個人主義、完全な自由主義の国ではありませんが、他の国と比べて、個人の自由を尊重している分権国家ということができます。米国が、人的資源の質が高くないのにもかかわらず、世界最強国家であるのは、その自由主義と個人主義が高い変化適応力をもたらしているからでしょう。
森中さんは、動画で、世界統一国家建設を主張していますが、これには反対です。なぜなら、全体主義は、個人の利益にならないだけでなく、全体の利益にもならないのです。個人の利益と全体の利益の両方を求めるなら、全体主義は否定しなければなりません。
貴重なコメントを有難うございます。ざっとみさせていただきましたが、別件があれこれあって、今すぐには十分にコメントできません。
基本的に全く同じ理念を持っていると感じました。
私自身も、個人を損なわないように、同時にまた人類そのものを損なわないように賢く分割すると、動画の徴税の部分で述べました。両者があることを明示的認識する必要があるという考え方です。この認識から明示的な利他が出てくるのであって、私欲による行動が社会をよくするというレッセフェールでは、すでに人類が成り立たないところまでそのステージが来ているということです。
細かくはもう一度議論させていただきます。ハミルトンの方程式は、生物の宿命を現したと思っていましたが、すでにちょっと問題があるのではないかと気づきました。私自身も少しずつ変化しています。純粋利他は天動説といった小田先生のコメントのYoutubeをこれから公開しますので、ご紹介させていただきます。8月に生物学基礎論研究会(生物哲学)があって5月末にはその要旨を出さねばなりません。どういう内容にするか、小田先生への反論にするのかどうか、私もそんなにゆっくりしてはおられないので早めにコメントさせていただきます。
とても嬉しいコメントをいただき深く感謝申し上げます。
シンポジウム動画では、リバタリアニズムが、税金をすべて拒否するような思想として紹介されていましたが、そういう極端な思想は、リバタリアニズムというよりも無政府主義と呼ぶべきです。日本はもとより、自由の国と言われる米国でも無政府主義者はほとんどいません。
無政府ではなくて、「小さな政府」を信奉するリバタリアニズム、あるいはもっと広く言って保守主義者なら、米国にたくさんいます。共和党の支持者の大半は、そういう意味での保守主義者です。共和党の支持者たちは、福祉を充実させようとする民主党を批判しているので、弱者保護に否定的と思われがちですが、実際はそうではありません。
2019年に発表された米国のリサーチ結果(Paarlberg, Laurie E., Rebecca Nesbit, Richard M. Clerkin, and Robert K. Christensen. “The Politics of Donations: Are Red Counties More Donative Than Blue Counties?” Nonprofit and Voluntary Sector Quarterly 48, no. 2. April 2019. pp. 283-308.)によると、共和党に投票する人は、民主党に投票する人よりも、より多く慈善団体に寄付をしています。これは、共和党の支持者の方が熱心に教会に通う人が多いからとも言われていますが、その点を考慮に入れても、「リベラルは弱者にやさしい利他主義者で、保守は弱者に冷たい利己主義者」というステレオタイプ化された社会通念が間違いであることがわかります。
しばしばリベラルは「新自由主義は弱者切り捨ての思想」と主張しますが、「小さな政府」の信奉者は、「弱者は飢えて死ね」と主張しているのではありません。政府が「弱者を救済する」という口実の下に、非効率な官僚組織や官製ビジネスを肥大化させることを懸念して、「小さな政府」を主張しているのであって、弱者救済そのものを否定しているのではないのです。政府が余計なことをしなくても、自分たちが民間レベルで弱者を救済するというのが共和党の支持者にしばしば見られる考えなのです。
寄付だけだと、弱者救済が不完全になるという異論もあるでしょう。そこで、リバタリアンの中には、ベーシック・インカムを提案する人もいます。日本でも、竹中平蔵さんがベーシック・インカム(実際には、負の所得税)を提唱して、話題になりました。これも、「大きな政府」には反対だけれども、弱者救済には反対ではないというスタンスゆえのことです。
森中さんは、シンポジウム動画(20:18)で、共産主義を「誰一人も見捨てない」思想として好意的に紹介していますが、現実に存在した共産主義国家は、そのような国家ではありません。ソ連のスターリン、中国の毛沢東、カンボジアのポルポトは、おびただしい数の人間を粛正しました。共産主義のような全体主義では、部分(個人)よりも全体(革命の大義)が優先されます。だから個人の人権が容易にないがしろにされるのです。
左の全体主義が共産主義であるのに対して、右の全体主義はファシズムなどの国家主義です。国家主義も、個人よりも国家という全体を優先させます。神風特別攻撃隊は個人軽視の象徴的な事例です。祖国を守るために自分の命を捨てる特攻隊員は、利他主義者と言えますが、森中さんが理想視する利他主義とはそのようなものではないと思います。
純粋利他とは天動説であり、そうあってほしいと願う人の夢まぼろしと言った小田先生のYoutubeを添付いたします。
種問題(生物学)から見える「人類の道」利他が人類を救うー相模原障害者殺傷事件を発端に、鬼滅の刃を切り口に 論評:小田亮(名古屋工業大学教授)
彼はこの中で、ハミルトンの方程式よりもプライスの方程式の方が汎用性が高いとして紹介しています。私にははっきり分かりませんが、ある形質がグループの中でドミナントであり、外のグループに優位であればどんな形質であれその形質は広がるという意味の方程式のようです。それなら、もし純粋利他がドミナントであれば広がるのではないか(外部との戦いには純粋利他集団は利己集団に勝つと想定できる)と質問したら、ご返事がありませんでした。
プライス方程式は、個体を細胞に、集団を個体に置き換えて考えれば、理解しやすいと思います。多細胞生物の細胞は、利己的に振舞いません。アポトーシスと呼ばれる特攻隊のような自己犠牲的利他行為までします。多細胞生物の細胞は、すべて同じ遺伝子であるため、集団内のばらつきが小さい一方で、他の多細胞生物は遺伝子が異なるので、集団間のばらつきは大きいということになります。だからこそ、多細胞生物の細胞は、集団内では利他的に振舞うけれども、集団間では利己的に振舞うのです。
私は前のコメントで「有性生殖生物では種が実体であるのに対して、無性生殖生物では種が架空というのは、むしろ逆という気さえします」と書きましたが、それは、プライス方程式によっても正当化できます。無性生殖の種は、多細胞生物と同様、集団内の遺伝子が同じであるから、集団内では利他的に進化できるけれども、集団間では利己的になりうるということです。
細胞を個体に、個体を個体の集団に置き戻すと、集団内の同類化と集団間の異類化という利他行動の進化の条件は、集団の疑似個体化であると言うことができます。政治思想的には、国家を最も疑似個体化しているのはファシズムです。ファシズムは、国民に対して滅私奉公を要求する一方、他の国家に対しては利己的に振舞うからです。
小田さんは、純粋利他は幻想と言っていますが、これはかならずしも森中さんの主張を否定する主張ではないと思います。それを理解するためにも、「人は純粋利他行動をするのか」という事実問題と「人は純粋利他行動をするべきなのか」という当為問題を区別しなければなりません。もしも事実として、人が純粋利他行動をしているのなら、「人は純粋利他行動をするべきだ」という当為は意味を成しません。人が純粋利他行動をしないからこそ、「人は純粋利他行動をするべきだ」という当為は、当為たりうるのです。おそらく、森中さんは、当為としての純粋利他を説いているのでしょうから、純粋利他が幻想という小田さんの主張と矛盾するものではありません。幻想だと悪く聞こえるというのなら、理念と言い換えてもよいと思います。
森中さんは「もし純粋利他がドミナントであれば広がるのではないか」と問うていますが、どの種、どの集団も利己的である中で、私たちだけが純粋利他を実践しても、フリーライドされて、私たちが滅ぶので、純粋利他が広がることはないでしょう。そもそも、これまで述べてきたように、利己的であることは悪ではなく、むしろ種あるいは集団のサバイバルに貢献していると私は考えているので、純粋利他は、当為や理念としても受け入れることはできません。
ラ・ロシュフコーは知りませんでした。インターネットで見ますと「われわれの美徳は、ほとんどの場合、偽装した悪徳に過ぎない」と出てきました。人間は本来悪であって、最終的には自分に都合よくことを運ぶために善の仮面をつけているだけだと言えば、私はマキャベリが思い浮かびました。
生物は、自分のコピーを次世代に残した結果、現在の生物が存在します。自分のコピーとは自分自身の金型で作られます。生物の誕生は自分自身の金型ができた時です。この金型は時とともに複雑になって現代の遺伝子になりました。
自然科学者(とりわけダーウィニスト)が生物は究極的には遺伝子が基盤にあると考えるのは、私にはよく理解できます。ただし、考えが足りないと思います。なぜかというと、私が考えるのは人間であって、その人間が現在どうあるのかという視点を持つからです。私の研究対象が、生物ではないからです。
ご指摘の通り、多細胞生物は受精卵が分裂を繰り返すことで生物体ができ上がります。でも髪や、爪、皮膚などの細胞は「生きる物」ではあるけれども、「生物」ではありません。それらは未来に生命をつなぐ術を持っていません。無性生殖生物は、たとえ単細胞であっても次世代に生命をつなぐ術を持っています。生物とは自分のコピーを未来につないでいくものです。有性生殖生物、例えば人は60兆個の細胞を持っていると言われますが、未来に生命をつなぐ術は0.5です。単細胞生物は1個の細胞ですが、未来に生命をつなぐ術は1持っています。人間は遺伝子を次の世代につなぐために一時的に多細胞の身体になるという見方もできます。あくまでも一生物としての視点ですが。
無性生殖生物に種はありません。それぞれ1個体から次世代が生まれますから、それをどのようにグルーピングしようとも人為的、作為的なまとまりです。コレラ菌は、形が似ているから同種なのか(形態学的種概念、微妙な差はいくらでも)、同じ毒素を産生し同じ病気を引き起こすから同種なのか(生理学的、病理学的種概念?)、系統的にまとまるから同種なのか(系統学的種概念、隣接する系統とどう区切るのか)・・。
有性生殖生物は違います。犬の個体と猫の個体が次世代に生命をつなぐことはありません。犬も猫もそれぞれの個体は生命を次世代に繋ぐための半分の機能しか持っていないことがミソです。それゆえ、他個体と融合せねばならない。人間の視覚的な視点からあえて言えば、網目状と言えるでしょうか。時空に網目状の一つの塊があります。人間は、それを認知する五感を持ってはいませんので、網目状というのは例えです。
生物の世界は多様で、有性生殖と無性生殖の両方を持つ生物もいます。生物学的な詳細を議論することが目的ではなく、人類の役に立てたいのです。
我々人類は、それぞれが切り離され、独立した代謝系を持ち、固有の意志を持つ現代社会の独立した構成員であり、同時にまた人類という一つの個体の部分であると考えます。
そこから、Youtubeで述べた徴税原理が出てきます。この世には個々の個人しかおらず、従って個々の個人の意志こそが最も尊く、徴税は他人の富を侵害するものであり、なるべく減らすべきと考えるゆえに、5%の富裕層が全人類の富の50%を所有する現代となって、それはさらに加速します。奴隷階層が生まれ、過去に戻ります。その潮流を原理的に止めることができません。
なるほど、実体という言葉は使わない方がいいですね。変化する現象の背後にある自己同一を持った・・といえば、神が創造した種の背後に隠れている不変の本質などと、私の頭には浮かびます。貴重なご助言を有難うございます。
徴税は暴力で個人の富を奪う行為であり利己的(個人の意志を尊重する)行為ではない。徴税で集めたお金を、自らでは生きていけない人、身寄りもなくお金もない老人や障害者、貧困者、弱者の福祉に使ったりします。
Youtubeで示しましたが、「そうだ難民しよう!」のはすみさん、上智大学の卒業式で謝辞を述べた最優秀の学生、相模原障害者殺傷事件の植松も同じです。自分で生きていけない赤の他人に、無関係の自分の富が使われることを嫌悪し、しれは我慢できないと考える人が増えています。赤の他人の弱者を助けるなというのではありません。助けたいと思う人が助ければよい。税金には、それを望まない人の富も入っているんだ。助けることが当たり前??そう思うならそう思う人たちがそうすればよい。私はまっぴらだ。なぜ税金を使うのか!!
こういう人たちが大多数になることと、1%富裕者が全人類の富の半分を所有することとが無関係どころかバインドしていると私は思います。世界的にその傾向がますます強くなっていると思います。現代は、アダムスミスの時代ではないです。
確かに人は利己的に振舞います。でも利己的に振る舞う人の心に、貧しい人を助けて当たり前だという意識が湧き上がってきます。いつも、どこでもそういう団体ができてきます。なぜでしょうか。
永井さんは上で「なぜ人間のように個体が利己的に振舞う種が、今日に至るまで淘汰されるどころか、繁栄をしているのか、その理由を考えてみてください」とおっしゃいました。利己的な振舞いでその結果貧富の格差が開いても、それを止めようとする意識が自然発生的に(無意識に)湧き上がってくるのです。人間がいる限り、いつでもどこでもです。この両方のバランスが取れていたのです。だから「人間のように個体が利己的に振舞う種が、今日に至るまで淘汰されるどころか、繁栄をしているのです」。
自然科学(生物学)では、進化心理学者(ダーウィニスト)ですが、基盤は全て利己(自分自身の遺伝子)にあり、私がいつでもどこでも潜在意識から湧き上がってくると述べた利他は、あくまで利己のための仮面だと考えます。例えばチャリティーなどに大金を投じれば利他とみなされ評判が上がり、名声を呼びます。それが後には自己利益につながります。結果として全て自分のため、利己ゆえです。それ以外はない(純粋利他は夢まぼろし)と考えます。偽善が、結果的に社会の役に立ってきたと考えるのだと思います。間違っていると思います。肝心なことを見落としていると思います。
社会科学者(心理学者、哲学者、文学者など)は、全ては遺伝子に帰趨するなどとは考えません。動物としての生物学的な視点とは全く無関係の脳や心の別の体系があると考えるように私には思えます。東工大の中島岳志先生らが、利他プロジェクトを立ち上げました。
利他プロジェクト | 未来の人類研究センター
ここには遺伝子のイの字も出てきません。このシンポジウムに論評をお願いしたのですが断られ、では一般参加はいかがですかとお誘いしてもご返事がありませんでした。
この二つの道はなかなか交わり難いです。我々のシンポジウムで京都大学の藤井聡先生(心理学)や宮台真司先生(社会学)、松尾匡先生(経済学)などが加わってくれてよかったです。
この二つの道の他に第3の道があります。有性生殖の道です。有性生殖生物は半分他人を育てます。その意味で純粋利他です。それを我が子だとして親は生命に代えても守ろうとします。しかし、半分は他人を守っています。純粋利他が宿命の生物です。本人がどう考えようと関係ありません。仕組みがそうなっているのです。
この意味では無性生殖生物は100%利己です。この視点を持つと、無性と有性のものすごい大きな違いがわかります。
個人は自分自身を捨て、部分として種のために生きよと言っているのではありません。永井先生は私の主張で、ここを最も強く懸念されていると思いました。
余りにも個人が強くなり、他人を顧みず、その結果極端な大金持ちが生まれそれがもっと強くなっている現代に、どうすればよいのかという視点があります。誰もその視点を捨てようとしません。自分は独立した個人、他人を助ける必要はないと考えます。はすみさん、最優秀の卒業生、植松、難民を拒絶する世界中の人・・。それがそれぞれが個人であるということです。今の世界はそうなりつつあります。
個人(自分)を捨てればロボットです。カリスマか、あるいは聖書や資本論のような教義のために個人の意志を封印せよと言っているのではありません。個は大切です。よくわかっています。大義のためには大勢の人が死ぬのもやむを得ないとなります。ポルポト、大躍進でマルクスの大義のために何千万という人が死んだ。わかっています。永井先生と同じく私もよくわかっています。
その個が自ら他人を思うには、独立し固有の意志を持つ構成員であると同時に、部分でもあるという考え方、この両方が個人の中に備わっているという明示的な理解せねばならない時が来ていると、私は思います。
上記(略)に同意します。両方をバランスさせるにはどうしたらよいでしょうか。
現代は利己が圧倒的に強いのです。なぜか。個人は独立し切り離されていることが誰にも見えるからです。誰にもわかるからです。だから自由主義社会になります。でも自由主義社会のその教義(目に見える当たり前のことでも、それ一つでは教義でしょう)ゆえに、貧富の差がますます開いていくことがわかります。
でも貧しい人を見殺しにするな、血縁に関わりなく、いつでもどこでもそのような声が必ず湧き上がってきます。
なぜでしょうか。
それは、究極には人類が一つであること、もう一つ手前には他人の遺伝子を育てねば自分の遺伝子を次世代に繋ぐことができないという有性生殖生物の宿命から来ていると、私は考えます。一つのストーリーですが、理念や観念のストーリではありません。生物学のストーリーです。
構成員であることと、部分であることの両者が明示的に意識され、それゆえに常に両者がせめぎ合う。そういう人類社会にせねば、どちらか一方が隠れていて、なぜかわからないが湧き上がってくるでは、もはや対処ができない人類史上のステージに来たと考えます。
私の有性生殖に対する考えを全体主義というなら、国家や民族やあるグループのための部分になること、そういう主張ではなくて、人類です。たった一つしかありません。争う他集団はありません。争う他集団がなければ戦争がなくなります。世界統一政府とはそういうところへ視点を当てています。
話は変わります。
ハミルトンの方程式です。
Fi = Fd + B x r – C
この方程式で、集団遺伝学者、進化心理学者がころっと引っかかったのですね。これもひとつの教義のように見えます。自分個人の意志を抑えた全体主義者どころか、科学を重んじる自由主義者も教義に殉ずるじゃありませんか。
私自身も、この方程式は生命のあり様そのものを表している本源的なものだと感じました。ころっと引っかかりました。
Bは他人ですから、Bに我の持つ適応度Cを投入することは利他です。
Bのうちの自分と同じ遺伝子の比率(掛ける r)の適応度がCを越えれば全体では自分の遺伝子が自分自身が減らしたC以上に増えるのだから、Fiは十分に未来に存続します。自分の遺伝子の適応度が減らないこと、利他とはその範囲においてのみであるという結論が出てきます。・・・だ か ら純粋利他は存在しない!
今、私はころっと引っかかったその目が覚めました。
他人に投入する適応度Cが曲者です。Fdをほとんど減らさなくて、つまり自分の適応度を下げずに、Bを助けることができます。
人間の生存には、動物蛋白が必要です。ビーガンもいますが、子どもの時から生涯ビーガンでは健康上の問題が出るでしょう。動物蛋白の摂取のためにAさんは100g300円の豚肉を概ね毎日食べるとします。一方Bさんは、100g3000円の牛肉を食べるとします。Bさんが牛肉を止めて豚肉に切り替えたとしたらどうでしょうか。動物蛋白は今まで通り100gとっています。しかしお金が2700円浮いてきます。このように牛を豚に替えればいくらか食べるものの質は落ちるかもしれませんが、食うや食わずの人、餓死が迫っている人に毎日2700円の食料を与えることができます。
これって、自分の適応度を落としましたか?
Bさんは、もともと3000円平気で使っていたのだから、2700円を自分の遺伝子とは無関係の他人に投入しても何ら自分の適応度は落ちません。自分の適応度を落とさないでBを助けることができます。
ハミルトンの方程式は、現実を表していないと私は思います。
ハミルトンの方程式にはトリックがあるように思います。
これはもう少し考えてみたく思います。
ダーウィニストは科学の教義に引っかかった全体主義者のような気がします。
ここ数日、Youtubeに上げたものは以下の通りです。
相模原障害者殺傷事件について
2022年4月9日(土)午後、長谷川眞理子先生をお迎えして、この利他と利己について総合論をzoomでもう一度やるつもりです。
もしよかったらいらっしゃいませんか。
たしかに、私たちの体の細胞にはヘイフリック限界があり、無限に分裂できませんが、無性生殖を行う多細胞生物もいて、その場合、多細胞生物内の細胞は、無制限に「未来に生命をつなぐ術」を持っている生命体であると言うことができます。どちらの場合でも、多細胞生物では、全体の利益が個々の細胞の利益よりも優先されるので、細胞を生命体と考えるなら、「無性生殖生物は100%利己」とは言えないと思います。
では、個体レベルなら「無性生殖生物は100%利己」と言えるかというと、これも怪しいのではないかと思います。無性生殖生物が他の生物と共生関係にある場合を考えてください。身近な例では、人間が作物を栄養生殖(無性生殖の一種)で育てる場合です。植物は人間に食物を与えるという利益を与え、人間は植物に繁殖の持続という利益を与えています。もちろんそれは純粋利他ではありませんが、利他であると言うことはできます。
種とは、交配により子孫を残すことが可能な個体のグループというのが一般的な定義なので、完全な無性生殖生物は交配を行わない無性生殖生物には、この定義からすれば、種はないということになります。無性生殖を行って遺伝的は同じ生物個体のグループは、種というよりも一つの個体といった方が適切かもしれません。この点でも、「種は個体である」という森中先生のテーゼは、有性生殖生物の個体グループよりも無性生殖生物の個体グループに当てはまると思います。少なくとも「架空」と言うほど実体性のないグループではありません。
アダム・スミスは、税金や政府を全否定した無政府主義者ではありません。軍事、司法、その他公共財の供給は政府によってなされるべきだから、税金は否定されるべきではないというのがスミスの考えです。無政府主義者を除く自由主義者は、基本的にこの考えです。
富裕層が税金を支払って貧困者を救済することは、純粋利他行為ではありません。貧困者を救済しないことは、富裕層に対して強盗をしようとする貧困者のモチベーションを高めます。富裕層の子供の誘拐も増えるでしょう。富裕層は、治安という公共財を手にするために、税金を支払っていると考えるなら、それは利己的な行動と言えます。金持ちほど狙われるリスクは高くなるので、受益者負担の原則から言って、金持ちほど税金が高くなるというのは、合理的なことなのです。
リバタリアニズムや新自由主義が弱者切り捨ての思想ではないことは既に説明しました。それでも、森中先生はまだ納得していないようです。おそらく、寄付やベーシック・インカムでは、富の格差がなくならないからなのでしょう。しかし、そもそも富の格差は、解消するべき悪なのかということをよく考えてください。富の格差が小さくなればなるほど、個体の多様性も少なくなります。私は、それが良いことだとは思いません。
一方で個人の生存権を保障する最低限のセーフティネットを提供しつつも、他方で自由経済がもたらす格差の拡大を容認するという自由主義のスタンスは、中途半端に見えるかもしれませんが、これは多様性を増やすという点では一貫した政策です。貧困者が餓死すれば、多様性が減るし、反対に福祉に力を入れすぎて、格差をなくしてしまっても、多様性は減ります。
種の存続には、環境適応と変化適応の二つが必要であることは既に述べました。自由主義的な競争は、イノベーションを促し、人類の環境適応能力を高めます。他方で、多様性も増やすので、変化適応能力も高めます。生存権の保障付き自由主義は、環境適応と変化適応という二つの適応への能力を高めるという点で、種の存続にとって最善の政策であると私は考えます。
私にどのような役割を期待されているのでしょうか。