「冒険か日常か」について

2005年5月26日

Amazon.co.jp に投稿された『縦横無尽の知的冒険』のレビューに対するレビュー(3)。在野の学者による知的冒険は無意味なのか、普通の社会人は、常識的な日常を生きていればそれでよいのかについて。

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これはどこかのHPで連載していて、なんだあ?と思って気になったが、著者の経歴もまあよくわからんし、インターネットってこんなもんかな、こんなの読んでたら苦しいよな、と常識的な社会人の私は思った、その後偶然あのネットが本になったものを手にとってやはり同じ感想が抜けずやっぱり、なんだこりゃあと思ったらどうも自費出版みたいだ。それも一度書いたもの使いまわしてセコイやつめ、と思いそうになったがどうも推薦文など読むと意図的にやったんだなあと思って、なら成功してよかった。

要は自分の言いたいこと、やりたい事をやればいいんだ、なんて自分に言い聞かせて読んで、分かったが著者はそのとおりのことをやっている、これが。テツガク「など」とか言ってる奴はその「など」の部分ばっか肥大して当の部分はからっきし、そんなのばっかと思ったけど、再確認させられたなあ。日本の何かが悪いのかな。今はそうは思わないけど、よく言われているし自分も言っていたことがあるが大学せいなのかな。そんなことないと思う、だから今の若い衆、要は学生とか、元学生で今はヨクワカラン輩とかだが、人のせいにしたら、いかん。いずれにせよ今はもう、思想は単なるハッタリの道具かって、言い過ぎだが実際、そんなのばっかりだ、まさしく。今の世、黙って生きていくようなそんな、ニーチェのいう超人は、死んだ。

『縦横無尽の知的冒険』は、自費出版物ではありません。この本は、プレスプラン社が編集制作費、印刷、流通に関わる諸費用を全額負担し、印税契約に基づいて出版している企画出版物です。

私の経歴については、本でもウェッブでも公開しています。私は、以前、自分の経歴は、自分の著作を評価してもらう上で参考にはならないと思い、公開していませんでした。しかし、よくメールとかで読者から質問されるので、本の出版をきっかけに、公開することにしました。

ただし、本を評価するにあたって重要なのは中身であって、その本が自費出版物か企画出版物かとか、著者の経歴に権威があるかどうかで判断する人は、権威主義者と言わなければなりません。

この「ムカシ、いた、超人」氏は、権威ある哲学者、ニーチェの言葉を引用して、私の著作をハッタリと評しているようです。でも、もしもこのレビュアーがニーチェと同時代に生きていたならば、きっと「元員外教授で今はヨクワカラン輩」であるニーチェの本を手にとって、ハッタリと評したことでしょう。なぜなら、今では偉大な哲学の古典とされるニーチェの哲学書も、当時は、せいぜい10部しか売れない自費出版物だったからです。実際、当時ニーチェを評価した人はほとんどいませんでした。

権威主義者たちが、偉大な哲学者として崇拝する哲学者には、生涯、大学教授にはならなかった人がたくさんいます。哲学者として優れているかどうかと大学で職を得たか否かとは次元の異なる話です。

このレビュアーは、さらに「テツガク「など」とか言ってる奴はその「など」の部分ばっか肥大して当の部分はからっきし、そんなのばっかと思ったけど、再確認させられたなあ」と言っています。大学行政がそうするように、哲学を、言語学や文学や心理学などと並存する一つの専門領域と見なすなら、そういう感想を持っても不思議ではありません。しかし、哲学は、古代ギリシャで発生した頃は、学問全体を意味していました。学問の専門分化が進んだのは、後の時代になってからで、歴史的に見て、哲学は肥大化してきたのではなく、やせ細ってきたと言うべきでしょう。

「哲学とは何か」という問いに対する答えは、哲学者の数だけあります。ただ、私は、哲学で一番重要なことは、常識や先入観や権威にとらわれることなく、自らの頭で考えることだと思います。官僚的な縦割り行政の産物である専門領域に自らを限定し、そこから出て行こうとしないことも先入観にとらわれていることの一つです。お上から与えられた制約に甘んじて「黙って生きていく」だけの人が哲学者だとは思えません。もちろん、ニーチェが謂う所の超人はそのような人ではありません。

このレビュアーは、「日本の何かが悪い」と感じながらも、「人のせいにしたら、いかん」と言っているが、それはそのとおりです。思考停止状態の人が減らない限り、日本は良くならないでしょう。よく「日本が良くならないのは、日本の政治家が悪いからだ」と他人事のように言う人がいますが、その政治家を選んだのは、自分たち有権者だということを自覚しなければなりません。自らの頭でよく考えて投票することなく、お上にすべてを任せている人に、日本がいっこうに良くならないことを嘆く資格はありません。

学問に関しても同じことが言えます。人々が、学術研究を大学教授の仕事と決めつけ、お上にすべてを任せ、権威に盲従し、「黙って生きていく」だけになったならば、哲学は、そして学問は死にます。哲学(日本の大学で行われている哲学の訓詁学的研究とは違う)がどれだけ盛んであるかは、知の民主主義がどれだけ浸透しているかを測定するバロメータなのです。

追記

このレビューは、後に削除されました。