アマテラスの起源は何か
アマテラスは、太陽の女神にして、天皇家の祖先であり、現在は伊勢神宮で祭られている。筑紫申真は、『アマテラスの誕生』で、アマテラスは、『記紀』が編集された頃、持統天皇をモデルにして作られた新しい神にすぎないと主張している。しかし、私は、アマテラス=卑弥呼説に基づいて、この説を批判したい。[1]

1. アマテラスは蛇だったのか
筑紫申真は、鎌倉時代に書かれた『通海参詣記』の記述から、アマテラスが男の蛇だったと言う。
八世紀よりももっとむかしのこと、わが国ではカミさまは一年に一度、海から、または海に通じている川をとおって、遠いところから訪問してくるものと考えられていました。[2]
私は、蛇崇拝が母神崇拝に起源を持つという点で日本は世界の例外ではないと考えている。川の流れに従えば、母なる海へと導かれる。だから、川の流れそっくりである蛇は、母神の使者あるいは化身である。川と蛇は、その形状から、ファリック・マザーのファルスとみなすことができる。ファルスは男性の象徴であるから、蛇を男性とみなすことができる。そして、蛇が男性であるからこそ、縄文時代から存在する蛇巫と呼ばれるシャーマンは、女性であったと考えることができる。ただし、蛇巫も蛇憑きにおいては蛇と同一になる。蛇憑きの習俗は、最近まで中国地方や四国地方に残っていた。『古事記』は、ヒナガヒメの正体を蛇としているが、これも蛇憑きを通しての自己同一から生まれた観念なのだろう。
『記紀』が成立する時期には、海崇拝よりも太陽崇拝の方が強くなった。西洋では、地母神崇拝の没落と天父神崇拝の高まりとともに、蛇が邪悪視され、鳥が神聖視されるが、東洋では、男性原理が女性原理を弾圧するという現象が見られず、陰と陽は調和する。では、日本では、どのように海崇拝から太陽崇拝へとスムーズに移行することができたのだろうか。答えとなる鍵は、太陽船という観念にある。
船がその上に太陽をのせて陸地をめざして訪れるという太陽船の信仰は、東南アジアにひろくみられる信仰であり、そしてまたそれは日本でも古墳時代にはあきらかに信じられていました。そのことは、古墳の壁画にそのような太陽をのせた船、つまり太陽船が描かれていることでわかります。[3]
太陽船という観念は、古代エジプトにも存在した。青い空をよぎる太陽は、青い海をよぎって航行する船に乗っているかのようである。
縄文時代に母なる海に仕えていた蛇巫は、弥生時代になると、そのまま太陽に仕える日巫女(卑弥呼)になり、それがアマテラスの原型になったのではないだろうか。そう考えれば、アマテラスが蛇でも不思議はない。
2. アマテラスとイエスの類似性
筑紫によると、アマテラスは、その神格を三転させている。日本版三位一体の教説である。
はじめ“太陽そのもの”であり、つぎに“太陽神をまつる女”となり、それから“天皇家の祖先神”にと転々して完成しているのです。[4]
『日本書紀』では、複数の名称が見られるが、筑紫は、日神→オオヒルメノムチ→アマテラスという順序で変遷したと考える。日神は、もともとアマテルという名の男性神で、オオヒルメノムチという巫女によって祀られていた。では、いつどのようにして、オオヒルメノムチは、皇祖神であるアマテラスとなったのだろうか。
私は、卑弥呼は、殺害されることで、日巫女から日御子あるいは日神子へと祭り上げられたと考えている。この点で、アマテラスという神は、もともとは神ではなかったが、十字架で処刑されることで神へと祭り上げられたイエスとよく似ている。「三位一体とは何か」では、媒辞であるイエスの抹殺と、その結果である聖霊降臨を以下のような三段論法で説明した。

これになぞらえて、卑弥呼を抹殺することでヤマトに太陽が復活することは、以下の三段論法で示すことができる。

太陽がヤマトの国土を隅々まで照らすように、天皇の威光は、ヤマトの民の隅々にまで行き渡る。
3. アマテラスはいつ誕生したのか

筑紫は、アマテラス信仰が、天武・持統時代にできたと考えている。
大化の改新以前には、天皇家はいっこうにアマテラスをまつっていません。神武天皇が皇祖天神をまつり、崇神天皇がアマテラスをまつったことが、それぞれ一回ずつだけあり、それがアマテラスをまつったすべてです。[5]
筑紫によると、『日本書紀』の古い時代の記述は信用できないから、アマテラスを祀ったことは、大化の改新以前には一度もなかった。確かに、もともと地方神にすぎなかった伊勢の神を皇祖神であるアマテラスに格上げしたのは、天武・持統時代のことであろう。「アマテラス」という言葉が出来たのも、この頃かもしれない。しかし、だからといって、天皇家に、太陽神の子孫というトーテム意識がなかったとは言えない。『記紀』よりも信用度の高い史料である『隋書』によると、日本の国書には「日出づる処の天子」という表現が記されている。これは、大化の改新以前にも、天皇が太陽にアイデンティティを持っていたことの証拠である。
大化の改新以前に、天皇家がアマテラスを祀らなかったのは、天皇家とアマテラスが一体となっていたからである。天皇は天皇自身を祀ることができない。『日本書紀』が語るように、もともと大和の地にいたアマテラスが、大和から見て太陽が昇る方向である伊勢の地に赴任し、天皇とアマテラスの間に距離ができて初めて、アマテラスは天皇にとって祀られる対象になった。私はそう解釈している。
筑紫によれば、アマテラスとは、持統天皇をモデルに作られたフィクションにすぎない。
天皇家の始祖の太陽神としては、男性とみなしておくのが普遍的で、いかにも自然なのです。それなのに、あえてアマテラスを女と決めてしまったのは、アマテラスが持統女帝の治世に持統女帝をモデルにしてつくられたからなのだ、と理解するとき、もっともすなおに納得できるのです。[6]
たしかに、アマテラスは、持統天皇をモデルにしている。しかし、同時に、神功皇后も持統天皇をモデルにしていることにも注意しなければならない。以下の表に示されているように、『日本書紀』執筆当時の政界における権力者間の関係を、神功神話とアマテラス神話に見出すことができる。
モデル | 3世紀への投射 | 日本神話 |
---|---|---|
持統天皇 | 神功皇后 | アマテラス |
天武天皇 | 仲哀天皇 | スサノヲ |
聖武天皇 | 応神天皇 | ニニギ |
藤原不比等 | 建内宿禰 | タカミムスヒ |
神功神話では、香坂皇子と忍熊皇子という応神天皇とは腹違いの皇子が反乱を起こし、神功皇后に殺される話が出てくるが、香坂皇子と忍熊皇子は、持統天皇によって消されたと考えられる大津皇子と弓削皇子という草壁皇子とは腹違いの皇子に相当すると見てよい。
『日本書紀』は、『魏志』を引用し、神功皇后と卑弥呼を同一視している。ということは、アマテラス=持統天皇=神功皇后=卑弥呼という等式が成立し、結局のところ、アマテラス=卑弥呼ということになる。
なお、表に記されている対応関係には、若干のずれがあることを指摘しなければならない。持統天皇とアマテラスの重ね合わせに関して言えば、アマテラスの息子であるオシホミミとタカミムスヒの娘であるヨロヅハタトヨアキツシヒメがニニギを産むことになっているが、不比等の娘である宮子との間に聖武天皇をもうけるのは、持統天皇の息子である草壁皇子ではなくて、元明天皇と草壁皇子が生んだ文武天皇である。
また、持統天皇と神功皇后との重ね合わせに関して言えば、応神天皇は神功皇后の息子であって、孫ではない。しかし、『日本書紀』は、卑弥呼の次の世代である台与までを神功皇后と同一視しているので、その点では、応神天皇は孫に当たるのかもしれない。
ところで、アマテラス=卑弥呼ならば、なぜ『日本書紀』はそのように書かなかったのだろうか。それは、もしもアマテラス=卑弥呼ということにしてしまうと、天皇家の歴史は3世紀頃にまでしか遡れないことになり、日本の伝統の権威が、中国の伝統の権威と比べて著しく低くなってしまうからである。そこで、卑弥呼の時代に神功皇后という架空の女帝を置くことで『魏志』との整合性を保ちつつ、アマテラスを、中国の神話時代にまで遠く投射したわけである。
この時間的遠方投射は、アマテラスの伊勢神社への移転という空間的遠方投射とアマテラス信仰の明文化に対応している。そして、この遠方投射を、ハイデガーの術語を用いて、“Ent-fernung”と呼ぶことができる。日本語で言うと、「距離」とは「距-離」、つまり離れることをふせぐから、近づけることになる。遠ざける=遠さを避ける=近づけることにより、身近すぎて意識されなかった太陽神が、信仰の対象として意識されるようになったのである。
4. フィクション説批判
筑紫に限らず、多くの研究者は、アマテラス=卑弥呼説を否定し、アマテラスを、持統天皇の権威付けのために作られた純粋なフィクションだとする。しかし、もともと男の自然神だったアマテルを、持統天皇の権威付けのために女の人格神にしたという説には説得力がない。私は、以前「天照大神とは誰か」のコメント欄で、この通説を次のように批判した。
そこで、アマテラス神話のもととなった古い神話はどのようなものだったかが問題になるわけですが、それを考える前に、アマテラス神話が、持統天皇のいかなる行為を正当化しようとしていたかを考えてみましょう。候補は二つあります。
- 女性が天皇であること
- 子ではなく、孫が皇位を受け継いだこと
2は違うと思います。草壁が生きているならともかく、草壁が死んだ以上、天智天皇の正当な血を受け継ぐ文武天皇が15歳で即位することには、問題がありません。問題は、それまでの間、女性が天皇の位についでいてよいのかということです。記紀が作られていた頃、文武天皇の後を、文武天皇の子である聖武天皇が継ぐまでの間、元明・元正という二人の女性が天皇の位にありましたが、ここでも問題となるのは、2ではなくて1です。
持統天皇は、同じ年に即位した中国の則天武后の真似をしていました。ここからもわかるように、持統天皇は、自分が女性であることを意識していました。「中国の皇帝ですら女がなれるのだから、日本の天皇が女で何が悪いのか」と言いたかったのでしょう。
持統天皇は、同時代の外国の権威だけでは不十分と考え、過去の権威を活用することも忘れませんでした。そこで引き合いに出されたのがアマテラスです。もしも、アマテラスがこの当時男として表象されていたならば、持統天皇の正当化には役に立たないはずです。アマテラスは、この時代、既に女神として意識されていなければなりません。
持統天皇が、則天武后と自己同一をしようとしたのは、日本の天皇より中国の皇帝の方が、権威があるからです。権威が低ければ、正当化には役立ちません。持統天皇がアマテラスとの自己同一を試みたということは、アマテラスの方が、持統天皇よりも権威があったということです。日本では、生前の身分が同じならば、持統天皇のように、自然死を迎えた人よりも、非業の死を遂げたスケープゴートの方が、神格が高くなるので、アマテラスは、非業の死を遂げた女帝ということになります。その条件に一番合うのは、卑弥呼というわけです。[7]
現在も女性天皇を認めるかどうかで、論争があるが、「愛子様」を天皇にするために、初代天皇の神武天皇は実は女性だったとか、神武天皇の父であるフキアヘズが妻のタマヨリビメの身を案じて「八百万の神々の間に、タマヨリビメのキャリアや人格を否定する動きがあったことも事実です」と「御発言」されたとか、現在の皇室状況を反映したフィクションの歴史を捏造することで、女性天皇に抵抗している反対派を納得させることができるだろうか。
『日本書紀』が編集された当時、人々が過去の記憶を何も持っていなかったということは考えられない。様々な伝承が残っていたからこそ、『日本書紀』は、「一書に曰く?」という形で、様々な異伝を併記したのであり、神話時代の話でさえも、当時の編集者による純粋な創作ではない。卑弥呼の伝説は、当時の人たちの記憶にまだ残っていた。だからこそ、卑弥呼を神話化することは、持統天皇にとって権威付けになった。
キリスト教の三位一体説が確立したのは、325年のニケーア公会議においてである。しかし神の子イエスに対する信仰は、宗教会議で作られたわけではない。信仰は、政治的に恣意的に作り出されるものではない。同様に、アマテラス信仰が確立されたのが天武・持統時代だとしも、アマテラスのモデルとなった日巫女=日神子というイエス的存在は、それ以前に実在したと考えるべきである。
5. 参照情報
- 筑紫申真.『アマテラスの誕生』. 講談社学術文庫. 講談社 (2002/5/10).
- 溝口睦子『アマテラスの誕生 ― 古代王権の源流を探る (岩波新書)』岩波書店 (2009/1/20).
- 武澤秀一『伊勢神宮の謎を解く ― アマテラスと天皇の「発明」』筑摩書房 (2011/3/10).
- ↑本稿は、2005年4月17日に公開した書評「アマテラスの誕生」に加筆を行い、2021年4月15日に「アマテラスの起源は何か」と解題したものである。初稿に関してはリンク先を参照されたい。
- ↑筑紫申真.『アマテラスの誕生』. 講談社学術文庫. 講談社 (2002/5/10). p.12.
- ↑筑紫申真.『アマテラスの誕生』. 講談社学術文庫. 講談社 (2002/5/10). p.205.
- ↑筑紫申真.『アマテラスの誕生』. 講談社学術文庫. 講談社 (2002/5/10). p.14.
- ↑筑紫申真.『アマテラスの誕生』. 講談社学術文庫. 講談社 (2002/5/10). p.71.
- ↑筑紫申真.『アマテラスの誕生』. 講談社学術文庫. 講談社 (2002/5/10). p.266.
- ↑永井俊哉.「天照大神とは誰か」2005年2月28日コメント.
ディスカッション
コメント一覧
日本古代史に興味がありまして、ネットにて検索しておりましたらここへ辿り着きました。
素人なので難しい事は分かりませんが、記載されている中で間違っているのではと思うのがあったので書き込みさせて頂きます。
→草壁が死んだ以上、天智天皇の正当な血を受け継ぐ文武天皇とありますが、「天智」では無く、「天武」なのではないでしょうか?
持統天皇は、天武天皇の血を事の他、大事に思っていたと。
最も、持統天皇は天智天皇の娘になるのでその辺りから天智天皇と記載されているのであれば正しいのでしょうが、少々混乱を招くのではないかと思えました。
感想として、色々と参考になりました。
このように持論を沢山の方々が公開されておりますが、特に「天皇とアマテラスの間に距離ができて初めて、アマテラスは天皇にとって祀られる対象になった。」と言うのはなるほどと思えました。
但し、自分にとって「卑弥呼」や「神功皇后」は一個人ではないと思っておりますのでそう言う意味では実在の人物とは言い難いのではと感じております。
文武天皇の父は、天武天皇の息子である草壁皇子ですが、母は、天智天皇の娘の阿陪皇女(元明天皇)です。よって、文武天皇は、天武天皇の孫であると同時に、天智天皇の孫でもあります。
卑弥呼=アマテラスが女性なのに、なぜ天皇は男系男子でなくてはならないのでしょうか。男系男子の正統性はY染色体の継承を根拠とするものですが、始祖が女性であるならばナンセンスと云はざるを得ません。
皇祖神の天照大神が女性であるのに、なぜ天皇は男系男子でなければならないのかという疑問はよく耳にします。天照大神の男の孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が降臨して天皇(大王)の祖になったというのが、記紀神話に基づく説明ですが、これだけで納得する人はあまりいないでしょう。
古代日本における男女の役割を理解するには、ヒメ・ヒコ制と呼ばれる姉妹と兄弟(姫と彦)による二重支配体制について知っておく必要があります。ヒメ・ヒコ制においては、女性が祭祀を司り、男性が軍事を担当し、二人で政治を行います。この体制が顕著に表れてたのは古代の沖縄で、祝女(ノロ)と按司(アジ)が各共同体を統治していました。最高位のノロは聞得大君(きこえおおきみ)と呼ばれ、最高位のアジである国王以上に権威を持っていた時代がありました。
ヒメ・ヒコ制は日本本土にもあったと考えられています。魏志倭人伝は、邪馬台国では女性の卑弥呼が祭祀を行い、男弟が卑弥呼を補佐して政治の実務を行ったと伝えています。卑弥呼は、天照大神に比定されることもある重要人物です。古代の沖縄と同様、本土でもかつてはヒメ役の方が権威があったのですが、時代とともにアニミズムの宗教が衰え、次第にヒコ役の方が権力を持つようになったようです。
邪馬台国にいたとされる卑弥呼の女性後継者たちがその後どうなったのかに関して定説はありません。名前が知られているのは、卑弥呼の宗女、台与だけで、台与の後継者に関しては、そもそもいたかどうかも含めて何もわかりません。これは私の推測ですが、斎宮(いつきのみや)という形で、ヒメ役が引き継がれたという可能性があります。
『日本書紀』によれば、崇神天皇が皇女豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に命じて天照大神を大和国の笠縫邑に祭らせたのが斎宮の始まりとされています。斎宮は、未婚の内親王から任命され、任期中結婚が禁止されるなど、卑弥呼や台与と似た属性を持っています。しかし、南北朝時代に斎宮の制度は終わってしまいました。ヒメ・ヒコ制は、沖縄では長く続いたけれども、本土では早々と廃れたということです。
ヒメ・ヒコ制を前提とするなら、ヒコ役である天皇は原則として男性が就任するということになります。歴史上女性が天皇を務めたことはありますが、それはあくまでもピンチヒッターとしてであり、男系の血統が維持されてきました。
ヒメ・ヒコ制は、少なくとも本土では過去の遺物であり、男系の血統に固執することは現代的な価値観にそぐわないから、女系天皇を容認してもよいのではないかという意見が出るのは自然なことです。しかし、現在の天皇には政治的実権は何もなく、天皇制から伝統的権威を取り除くと何も残らないのですから、伝統の否定は天皇制の廃止を帰結することになります。
この点、天皇制は無形文化遺産のようなものと言うことができます。世界遺産は、現代的な改築を行うと、ユネスコが認定を取り消すことがあります。無形文化遺産も同じで、伝統を放棄したら、無形文化遺産は無形文化遺産でなくなってしまいます。
女系天皇を拒否すると、男尊女卑だと言われることがあります。しかし、伝統を守ることと男尊女卑は必ずしも同じではありません。伝統を守るという観点からすると、斎宮や聞得大君を復活させるなら、女性に限定するべきだということになりますが、この主張は、男尊女卑ではありません。
現代的な価値観を持ち込むかどうかという問題は、結局のところ、伝統的正当性と機能的合理性のどちらを選ぶかという問題です。観光資源の場合、前者が重視されます。岐阜市は、今でも昔ながらの方法で観光鵜飼をやっています。篝火を焚くのは現代的ではないからといって、LED電球を使うことは、漁法としては合理的かもしれませんが、観光資源としての価値は台無しになってしまいます。
女系天皇容認派は、男系血統に固執することは、現代的な価値観にそぐわないと言いますが、現代的な価値観という観点からするなら、男系どころか血統に固執することすらおかしいということになります。現代的な価値観を徹底的に持ち込むなら、血統も無視して、選挙で立候補者から選び、「天皇」という古臭い呼称に代わって「大統領」という名称を採用するべきだということになります。言うまでもなく、これは天皇制の廃止です。
女系天皇を認めないと、後継者がいなくなって、天皇制が途絶すると主張する人もいますが、継体天皇のように非常な遠戚(5世王)が天皇に就任したという前例があるので、この点、心配する必要はないと思います。
日本は民主主義国家であり、日本国憲法では、天皇は「主権の存する日本国民の総意に基く」と規定されていますから、天皇制を廃止することは理論的には可能です。しかし、天皇制は世界的に見てもかなり希少価値の高い伝統であり、どのような判断を下すにせよ、その伝統的価値を十分に認識してからにするべきだと思います。
>天皇制は世界的に見てもかなり希少価値の高い伝統であり、どのような判断を下すにせよ、その伝統的価値を十分に認識してからにするべきだと思います。
そうです。
国際的には、天皇= the Emperor であり、そのように認識されている。
反日・反伝統派は、これが癪に障るのか、やたら民主的でないという。
だが、このような近代民主主義なるものは、フランス革命に起因する欠点でもある。
先帝も今上も、妃となるべき女がなかなか決まらず、一生独身かもしれない、といはれたものです。こんな王室は空前絶後でありますが、解決策としては、宮内省のホームページで公募すればよい。応募条件としては、TOEIC○○点以上、大卒、両眼とも裸眼1.0以上、卓抜した生殖能力、24歳以下といったところだろう。
かつては側室が認められたから、男系の維持はそれほど難しくなかったようです。最近の例ですと、大正天皇は、明治天皇の典侍、柳原愛子の子です。
一夫一妻制だと皇后を慎重に選ばなければならないので、どうしても晩婚化してしまうのでしょう。
男系の維持に必要なものは、側室だけでなく、妃を供給する装置としての貴族制度です。しかし、現行憲法はその14条2項で貴族制度を廃止してしまいました。ただ、男系男子にこだわるにしても、126代のうちどこかで間男されていますよね。その点、女系相続ならば、分娩の事実に基づく血統が保持されます。
その可能性はゼロではないにしても、そもそも天皇制は神話に基づく文化的伝統なので、神話を信じている人にとっては、そうした生物学的問題は重要な問題にはならないでしょう。それは、ちょうど、聖母マリアの処女懐胎が本当かどうかという生物学的問題が、熱心なキリスト教信者にとって重要な問題にならないのと同じです。
中近東でも欧州でも、太陽神は男性のはずだが・・・インテリほどアマテラス=卑弥呼を信用しないかもしれない。