5月 262005
 

Amazon.co.jp に投稿された『縦横無尽の知的冒険』のレビューに対するレビュー(2)。先に証明しておくべき命題を前提とする論点先取は虚偽なのか、それとも不可避的でやむをえないことなのかについて。

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先に証明しておくべき命題を前提としてしまっている議論がちらほらと見受けられます。こういうのを「論点先取の虚偽 assumptio non probata」というのだと思いますが。内容は面白いです。ただ論理的に厳密でないと思います。

[カスタマー:面白いが]

他の著作物で説明したことを省略した箇所があるので、「先に証明しておくべき命題を前提としてしまっている」と感じる読者もいることでしょう。論証上の厳密さを重んじる読者には、本書を読んだ後、『エントロピーの理論』を読むことをお薦めします。

とはいえ、前提となる命題を先にすべて証明しておくなどということは不可能です。例えば、このレビュアー自身、「論点先取は虚偽だ」という「先に証明しておくべき命題を前提としてしまっている」ではないですか。しかし、この前提は疑ってみるべきでしょう。

すべての証明には、証明の前提があり、その前提をさらに証明する無限後退を阻止しようとするならば、前提と結論の連鎖を円環で閉じるしかありません。この円環状の証明は、循環論法と呼ばれ、しばしば「論点先取の虚偽」として非難されます。だが、すべての正しい証明が、究極的には循環論法に基づくとするならば、この非難は当たらないことになります。

「循環論法」だとか「論点先取の虚偽」というと、聞こえは悪いですけれども、議論が整合的であることは真理の基準であり、むしろ、矛盾を孕んでいる「証明」こそ虚偽として非難されるべきです。そもそも真理とは何かという哲学的問題に関しては、本書には収めなかった私の論考「真理とは何か」を参照してください。

ところで、真理の証明が、究極的には循環論法にならざるをえないにもかかわらず、多くの人は、循環論法に陥らずに証明ができると思い込んでいるのはなぜでしょうか。それは、その人たちが、常識や定説を疑わず、そこからの演繹が証明だと信じているからでしょう。そういう人たちからすると、私がよくやるような、新説に基づいて新説を唱えるという行為が、論点先取の虚偽にみえるに違いありません。

このレビュアーが“assumptio non probata”とわざわざラテン語表記を併記したのは、伝統的権威に訴えれば、みんな納得してくれると期待したからでしょう。しかし、権威ある定説も、時代とともにめまぐるしく変わることからも明らかなように、真理として無条件に信用できるものではありません。常識や定説を疑う姿勢がなければ、「知的冒険」はできません。「知的冒険」が嫌な人は、私が書いたものなど読まずに、権威ある先生が執筆した教科書でも読んでください。

追記

このレビューは、後に削除されました。

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  5 コメント

  1. 反証された自説を詭弁で正当化とはドグマチックで見苦しいです。
    自説の論点先取を指摘されればこう言い抜ければいいという典型例です。

  2. 私は「論点先取」は虚偽ではないと主張しています。「論点先取」が虚偽であることを認めたうえで、言い抜けをしているわけではありません。

  3. 解釈学的循環ということですか?

  4. そうです。

  5.  循環論法に基づく公理系の論証がさもできたかのように偉ぶって論ずる人間の態度・感情が消滅すればそれで宜しいのですよ。この程度のお話で納得する人が多ければお気楽でいいですね。

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