意識とは何かについて

2018年8月25日

不合理ゆえに我信ず: 意識とは何か」に対するコメント。「意識がある」ということと「生命がある」ということと「自己がある」ということの違いについて。

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アラン・チューリング(Alan Mathison Turing, 1912年6月23日 – 1954年6月7日)の像。彼が考案したチューリング・テストは、ある機械が知的かどうかを判定するためのテストとして有名である。

私は、生命とは「自己を持つもの」のことだと考えています。(死は自己の消滅です。)「意識がある」とは、この「自己」が覚醒の状態にあることを言うと思います。コンピュータシステムで言えばオンラインが立ち上がっていて、外部の入力(刺激)を検知して、その応答行動ができる状態と似ていますが、決定的に違うのは、コンピュータには「自己がない」のと「迷わない」ことです。

ここでは、

生命がある=自己がある

意識がある=自己が覚醒の状態にある=迷う

という区別がなされていますが、しばらくすると、

「自己がある」というのと「迷う」というのは、本質的に同じことを言っているのではないかという気がしてきました。(前者は静的な言い方で、後者は動的な言い方。)それは「自由である」ということとも同等です。

という言い方がなされています。これは最初の引用文と矛盾していないでしょうか。意識を覚醒で定義すると、トートロジーになります。また《生命がある=自己がある》というのも疑問です。自己と他者、システムと環境の区別はあるが、生殖機能がない存在者を生物といえるでしょうか。

追記

例えば永井氏は、生殖能力のないものは生命ではないかのように言っている。チューリング・テストに落第するヒトの個体のことだって眼中にないのでしょう。でも、「するとうちのばあちゃんは生命ではないらしい」と結論したら、これはカテゴリーの誤りでしょう。

チューリング・テストは、意識(さらには知性)があるかどうかを試すテストであって、生命があるかどうかを試すテストではありません。生命があるからといって意識があるとは限らないし、意識があるからといって生命があるとは限りません。この点を混同しているように思えます。生命はないが、意識はあるという存在者を作ることは、理論的には可能です。

また、意識や知性を失う人間がいる以上、チューリング・テストに落第する人も当然いるでしょう。「意識」「知性」「人間」といった概念を厳密に定義すれば、「チューリング・テストに落第する人」は形容矛盾ではないことがわかるはずです。

最後に申し上げますが、私は哲学者であって、宗教家ではありません。もしも宗教的関心から私の著作を読むならば、必ずや失望するでしょう。「不合理ゆえに我信ず」とありますが、私は無神論者であり、合理的なものしか信じないからです。