3月 092005
 

不合理ゆえに我信ず: 意識とは何か」に対するコメント。「意識がある」ということと「生命がある」ということと「自己がある」ということの違いについて。

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アラン・チューリング(Alan Mathison Turing, 1912年6月23日 – 1954年6月7日)の像。彼が考案したチューリング・テストは、ある機械が知的かどうかを判定するためのテストとして有名である。

私は、生命とは「自己を持つもの」のことだと考えています。(死は自己の消滅です。)「意識がある」とは、この「自己」が覚醒の状態にあることを言うと思います。コンピュータシステムで言えばオンラインが立ち上がっていて、外部の入力(刺激)を検知して、その応答行動ができる状態と似ていますが、決定的に違うのは、コンピュータには「自己がない」のと「迷わない」ことです。

ここでは、

生命がある=自己がある

意識がある=自己が覚醒の状態にある=迷う

という区別がなされていますが、しばらくすると、

「自己がある」というのと「迷う」というのは、本質的に同じことを言っているのではないかという気がしてきました。(前者は静的な言い方で、後者は動的な言い方。)それは「自由である」ということとも同等です。

という言い方がなされています。これは最初の引用文と矛盾していないでしょうか。意識を覚醒で定義すると、トートロジーになります。また《生命がある=自己がある》というのも疑問です。自己と他者、システムと環境の区別はあるが、生殖機能がない存在者を生物といえるでしょうか。

追記

例えば永井氏は、生殖能力のないものは生命ではないかのように言っている。チューリング・テストに落第するヒトの個体のことだって眼中にないのでしょう。でも、「するとうちのばあちゃんは生命ではないらしい」と結論したら、これはカテゴリーの誤りでしょう。

チューリング・テストは、意識(さらには知性)があるかどうかを試すテストであって、生命があるかどうかを試すテストではありません。生命があるからといって意識があるとは限らないし、意識があるからといって生命があるとは限りません。この点を混同しているように思えます。生命はないが、意識はあるという存在者を作ることは、理論的には可能です。

また、意識や知性を失う人間がいる以上、チューリング・テストに落第する人も当然いるでしょう。「意識」「知性」「人間」といった概念を厳密に定義すれば、「チューリング・テストに落第する人」は形容矛盾ではないことがわかるはずです。

最後に申し上げますが、私は哲学者であって、宗教家ではありません。もしも宗教的関心から私の著作を読むならば、必ずや失望するでしょう。「不合理ゆえに我信ず」とありますが、私は無神論者であり、合理的なものしか信じないからです。

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  6 コメント

  1. mori夫です。とりあげていただいてありがとうございます。
    > 意識を覚醒で定義すると、トートロジーになります。
    その通りだと思います。しかし意識や覚醒をトートロジーにならないように説明するのも非常に困難です。意識の説明の難しさは、他人の自我の存在証明ができないという問題(他我問題の困難)と似ている気がします。(自分の自我も存在証明できないですが)
    > 《生命がある=自己がある》というのも疑問です。
    > 自己と他者、システムと環境の区別はあるが、
    > 生殖機能がない存在者を生物といえるでしょうか。
    私は生命を厳密に定義したいのではなく、生命の本質に迫りたいと考えています。それが思想や哲学の役目だと思っています。
    手元にある高校生向けの生物の参考書を見ると、生物について次のような説明がなされています。
    (1)特有の物質からなり、特有の構造を持っている。
    (2)外部から物質をとり入れ、体の構成物質をつくりあげ《同化》、体物質や貯蔵物質を分解して体物質を合成したり生活のエネルギーをとり出す《異化》(物質交代)。
    (3)物質交代の結果生じた物質の一部を放出する(排出)。
    (4)自己増殖を行う(繁殖、遺伝――生命の連続性)。
    (5)刺激に感じ反応する(刺激感受性)。
    (6)自発的に運動する(運動性)。
    (7)環境の変化に適応する能力がある(適応性)など。
    これは「特徴」であって「定義」ではないようです。それにしても私には、外面から観察した現象面の記述にすぎず、生命というものの本質に迫れていないと感じられます。(4)と(6)で「自己」とか「自発的」という言葉が使われていますが、まさにこれこそが、問うべき生命の本質だと思います。
    ある掲示板で工学系の専門家の方に「科学の世界に”本質”という概念はない」というようなお話を聞きました。ということは、科学では方法論的な前提において、「自我」や「自己」というものの存在を認めていないということではないでしょうか。(←こういう断定をしてしまって、いつもたしなめられていたのですが。)
    現代の情報科学・情報工学・ロボット工学の力をもってすれば、上記の特徴を満たす人工生命を作ることが可能であるかのように考える人も少なくない。(アシモとティエラの研究成果は、今後どんどん接近するのかも知れない)
    しかし私は、生命(自己を持つもの)は、物質や法則やシステムには還元されない実在だと考えています。そのidentityは、宇宙で唯一無二で、一回限りのものです。「自己」の再生はあり得ない。死んだ「自己」は二度とよみがえらない。「自己」が子孫に継承されることもない。
    ロボットや人工生命は、コピーも部品取換えも可能な、非生命です。ただの機械です。
    自己の再生や子孫継承があり得るとする考え方は、その自己の覚醒である心が、再生したり継承されたりすることを意味します。これだと神秘主義になってしまう。(そうだといいなという願望も、あると言えばありますが。)
    生命の誕生は自己の出現で、その死は自己の消滅です。そう考えています。

  2. “私は生命を厳密に定義したいのではなく、生命の本質に迫りたいと考えています。それが思想や哲学の役目だと思っています。”
    アリストテレス以来、哲学とは、“…とは何か”と問う学問となりました。宗教でではなくて、哲学で生命の本質に迫るということは、生命を厳密に定義するということです。私の生命の定義については、
    ◎ 生命とは何か
    https://www.nagaitoshiya.com/ja/2000/life-definition-criteria/
    をご覧ください。
    本質という言葉が古いのであれば、必要十分条件と言い換えても同じことなのですが、この概念は、学問的にはいまだに重要です。
    “意識や覚醒をトートロジーにならないように説明するのも非常に困難です。”
    そうでしょうか。要は、どういう条件の下で、かつその時のみ、意識があり覚醒しているかをつきとめればよいのですから、近代的な実験科学の手法を使うこともできます。
    “ロボットや人工生命は、コピーも部品取換えも可能な、非生命です。”
    人間も、クローン技術でコピーできるし、臓器移植だってできます。
    私が察するところ、mori夫さんは、生命、意識、自己などの言葉で、実存主義的な意味での実存のことを念頭においているのではないかという気がします。もしそうなら、言いたいことはよくわかります。私も、実存が再生可能だとは主張していませんので。

  3. コメントありがとうございます。
    非常に思索意欲を刺激されるテーマをいくつもいただいた気がします。拙文をとりあげていただいたご好意にあまえて、順次私の考えを述べさせていただこうかと思います。(私は専門的な研究をしたことのない、ただの素人なのですが、どうぞお許しください。)
    まず意識の究明可能性について。
    「意識や覚醒をトートロジーにならないように説明するのも非常に困難です。」(mori夫)
    「そうでしょうか。要は、どういう条件の下で、かつその時のみ、意識があり覚醒しているかをつきとめればよいのですから、近代的な実験科学の手法を使うこともできます。」(永井様)
    認知科学やロボット工学が非常に発達して、将来「意識があると思われる」ロボットが完成したとします。でもこのロボットに、本当に「意識があるかどうか」は、判別不可能ではないでしょうか。
    チューリングテストのように、
    「人間から見て意識があるとしか思えないなら、それを意識があるとみなす」
    ということしかできないのではないでしょうか。
    私は意識は、定義も困難だし、その存在証明も困難だと思います。意識の問題は、そのものに「内的自我があるかどうか」「内的自我とは何か」という問題ときわめて同じだと思いますので。
    外部観察の結果を基にする定義や説明では、意識も内的自我も、その本質を取り逃がしてしまうと思います。そして意識や内的自我が、脳システムなどの理論に還元されてしまう。そうすると意識や自我の”実存”性が損なわれて、「意識や自我など実在しない虚構だ」などということを言う人も出てきてしまう。
    近代科学は、われわれの民族的・宗教的・伝統的諸概念を崩壊させました。
    私はこの自我の問題、そして自我による世界解釈であるところの哲学を、真正面から考えることで、近代における文理の断絶(その結果人々に巣くっているニヒリズム)を克服できる道が開けるのではないかと思っています。

  4. “チューリングテストのように、「人間から見て意識があるとしか思えないなら、それを意識があるとみなす」ということしかできないのではないでしょうか。”
    それでよいのではないですか。ロボットに限らず、通常の人間の場合でも、他者に意識があると判断する時には、外側からしか判断できませんから。
    所謂「他者の心」の問題については、
    ◎ 他者は存在するのか
    https://www.nagaitoshiya.com/ja/2000/solipsism-other-minds/
    をご覧ください。

  5. 「他者は存在するのか」と「ヒューマノイド・ロボットは必要か」を拝読しました。
    >他者認識はあいまいな類推で十分なのである。(永井様)
    「意識の正体は何か」というのは、科学的にも哲学的にも、興味のつきない問題です。
    >(ロボットの意識の有無については)チューリングテストのように、「人間から見て意識があるとしか思えないなら、それを意識があるとみなす」ということしかできないのではないでしょうか。(mori夫)
    >それでよいのではないですか。ロボットに限らず、通常の人間の場合でも、他者に意識があると判断する時には、外側からしか判断できませんから。(永井様)
    私は、生と意識と心の関係を次のように考えます。
    生きている>意識がある>心がある
    「>」は右辺が高次進化形であることを表しています。(進化という言葉をこのように使うのは不適切かも知れませんが)
    もし未来において、あるロボットに意識があると見なされたら、それを安易に壊す(殺す)ことは、許されない倫理違反になると思います。それ以前に、意識のある(心を持つ可能性のある)ものを人工的に作ってはいけない、という法律ができるような気がします。
    しかし私は、心を持つロボットを作ることは絶対的に不可能だと考えています。命のないものが意識を持つようになることはあり得ない。だから、どんなに意識があるように見えても、「本当は意識がない・生物ではない」のだから、古くなったら壊してしまうことに、倫理問題を考えなくてもいいだろうと思います。
    なぜ、「心を持つロボットを作ることは絶対的に不可能」と言えるのか。それこそが、「意識とは何か」「心とは何か」の本論につながるものと思います。それをはっきりさせることで、現代が科学文明によって失ってしまったものを、回復できると考えています。

  6. もしも、同害報復するようにプログラムされたロボットがあったら、私たちは、そのロボットを人間扱いしなければならなくなります。それは、ロボットに意識や心があるからではなくて、たんに自分を大切にしたいという動機からなされます。倫理や法は、こうして生まれてくるものです。

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