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プラトンの正義論

2005年6月18日

プラトンは、主著『国家』で、正義とは何かを探求した。身体以外の所有物の否定、妻子共有制、民主主義を否定する哲人政治など、プラトンが思い描く理想郷は、現代の私たちには受け入れがたい共産主義的独裁体制なのだが、正義とは何かに関する彼の哲学的考察は、現代人が正しい国家を考える上でも、参考になる。

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プラトン(左)とアリストテレス(右)[1]。ラファエロの「アテナイの学堂」の一部。

1. 正義に関する諸説

プラトンの対話編『国家』の主題は「正義とは何か」である。対話編の主人公で、プラトンの立場を代弁するソクラテスは、「それぞれの人に、借りているものを返すのが、正しいことだ」というシモニデスの説に対して、友人から武器を借りた場合、たとえその友人が発狂しても、その武器を返すことが正しいのかと問題提起をする[2]

友には良いことをし、敵には悪いことをするのが正義という当時のギリシャの社会通念に対しても、ソクラテスは、敵に悪いことをするためなら、盗むことすら正義なのかと反論する。エゴイズムを個人から集団へ拡張しても、普遍性を持たないことにはかわりがないので、正義に反する。

友か敵かは、相対的な区別なのだが、トラシュマコスは、「強い者の利益になることこそが、いずこにおいても同じように<正しいこと>なのだ[3]」という、もっと絶対的な定義を与える。

これに対して、ソクラテスは、支配者(強い者)は時々、間違いを犯して、自分たちの利益にならないことをするから、支配者の利益にならないことも<正しい>ということになると反論している。どうやら、著者のプラトンは「正しさとは何か」という問いと「正しいことは何か」という二つの問いを混同しているようだ。概念を正しく定義できるにもかかわらず、概念の適応で間違うことはある。「馬」と「鹿」の概念的な違いを理解しながらも、ある状況では「馬」を「鹿」と見誤る人はいる。だからといって、「鹿もまた馬である」という結論を導くことはできない。

トラシュマコスは、さらに次のように言う。

最も完全な不正こそは、不正を犯す当人を最も幸せにし、逆に不正を受ける者たち、不正をおかそうとしない者たちを、最も惨めにするものだからだ。独裁僭主のやり方が、ちょうどこれにあたる。それは、他人のものをだまし取るときにも、力ずくで採るときにも、狙うのが神物であれ、個人のものであれ公のものであれ、少しずつ掠め取るようなことをせず、一挙にごっそりと奪い取るのである。[4]

ヒトラーは「大衆は小さな嘘より、大きな嘘の犠牲になりやすい」といったが、それをもじって言うと、「大衆は小さな不正より、大きな不正の犠牲になりやすい」ということだ。これに対して、ソクラテスは、こう反論する。

もしもわれわれが、不正な人々がかつて何ごとかを共同して強力になしとげたというようなことを主張するとすれば、それは決して全面的に真実を語っていることにはならない。なぜならば、もしもそういう人々が純粋一途に不正な者ばかりだったとしたら、お互いに手を出し合わずにはいなかっただろうからね。彼らのうちには何ほどかの<正義>こそが彼らをして、自分たちが襲う相手に対して働く不正を、同時にお互いに対してまでも向けることを控えさせ、かくしてこの<正義>のおかげで彼らは、当面の行動を果たすことができたのだ。[5]

ソクラテスは、「正義とは強者の利益になることである」というトラシュマコスの最初の命題を忘れている。強者どうしが不正をし合って、仲たがいをすれば、強者たちの支配体制が崩れ、彼らの利益が損なわれる。だから、強者どうしが、不正をせずに協力し合うことは、トラシュマコスの正義論にとって、矛盾ではないのである。

では、ソクラテス、すなわちプラトンは、正義をどう考えているのか。プラトンによれば、個人には、欲望的な部分、気概の部分、理知的部分の三つがあり、それに対応して、国家にも、一般大衆、戦士、統治者の三つの階級がある。それぞれが、節制、勇気、知恵という徳を守り、全体として調和がとれているとき、すなわち、「金儲けを仕事とする種族、補助者の種族、守護者の種族が国家においてそれぞれ自己本来の仕事を守って行う場合[6]」に、正義が実現する。

それでは<不正>とは、こんどは、三つあるそれらの部分の間の一種の内乱であり、余計な手出しであり、他の分をおかすことであり、魂の特定の部分が魂の中で分不相応に支配権をにぎろうとして、魂の全体に対して起こす叛乱でなければならないのではないか-その部分は本来、支配者の種族に属する部分に隷属して使えるのがふさわしいような性格のものなのにね。思うに、何かそのようなこと、すなわちそれらの種族の混乱や本務逸脱が、不正、放埓、卑怯、無知、一言で言えばあらゆる悪徳にほかならないのであると、われわれは主張すべきだろう。[7]

要するに、被支配者階級が支配者階級になろうとすることが不正であるというわけだ。プラトンにとって、無知な大衆が支配者となる民主政治や無知な個人が支配者となる僭主独裁政治好ましくない。哲学者が支配者とならなければならない。

しかし、政治を一人の個人に任せるとしても、その人が理想的な哲学者であるのか、それとも賢人の皮をかぶっただけの僭主なのかはどうやって区別するのだろうか。もしもその判断をも哲学者に任せるとするならば、無限後退に陥る。もしも被支配者が無知で、軍人は統治者に命令されるままに勇敢に戦うだけであり、大衆は統治者に命令されるままに節制をするだけならば、彼らは、自分たちの国家で正義が実現されているのか、それとも単に搾取されているだけなのか分からないことになる。

そこで、プラトンは、誰にも分からずに不正を働いても、死後、超越的な神によって裁かれるから、正義の方が不正よりも多くの報酬を得ることができるという安易な宗教的解決を図る。しかし、もし神という超越者の視点を想定しないならば、プラトンが理想とする哲人政治は、権力者が無知な被支配者を搾取するトラシュマコス的な政治を阻止することができないことになる。

2. メディアの限界が正義の限界である

ここで、正義とは何かについての私の考えを述べたい。「正しい」あるいは「善い」は、「良い」とは異なる。「良い」は、目的に対する手段の適合性であり、その目的が「正しい」/「善い」という保証はない。ナイフよりもピストルの方が、そしてピストルよりも機関銃の方が、多数の人を殺す上で効率が良いが、ホロコーストは善いことではない。

では「よい」から区別された「正しい」/「善い」はどのように定義されるべきか。私は、脱人称的に普遍化可能である行為が「正しい」/「善い」と呼ばれるべきであると考える。もしも、私が、他者を殺したい以上に他者から殺されたくないと考えるならば、私は、他者と相互に殺人の自由の放棄を交換し合わなければならない。利己主義は、個人レベルであれ、集団レベルであれ、普遍化不可能だから、「正しい」/「善い」とはみなされない。

私たちが、立場の交換により、相互に重要でない自由を放棄することで重要な自由を獲得できるのは、言語の地平においてのみである。すなわち、正義の交換媒体は言語記号である。私たちは誰でも「私」であったり、「あなた」であったりしうるが、それは、言語の普遍性に基づく。普遍的な言語の地平において、普遍的な規則に従って、他者と立場を交換できる主体のみが「正しい」/「善い」行為を行えるのであって、この地平の外部の存在者に「正しい」/「善い」行為を求めることは無意味である。

ここで、友人から武器を借りた場合、たとえその友人が発狂しても、その武器を返すことが正しいのかという最初の問題提起に戻ることにしよう。発狂した人は、普遍的な規範に基づく交換の相手でありえないから、正義の地平の外部へと放り出されることになる。猛獣が人を殺しても、罪に問えないように、狂人が人を殺しても罪に問うころはできない。狂人は、責任を免ぜられる代わりに、自由も認められない。だから、狂人の自由を尊重しなくてもよい。もしも狂人を管理する、責任能力のある後見人がいるのなら、武器はその後見人に返すべきである。

私たち人間は、人間以外の生物を、もしもそれが人間であれば、不正と言われるに違いない方法で利用している。私たちが家畜に餌をやるのは、乳や肉を取る代償を支払うという正義の実現のためにやっているわけではない。かつて、私たちの祖先は、野生の動物を捕まえて肉を食べていた。飼育するようになったのは、そのほうがより安定的に多くの人口を養うことができるからであって、動物との間に正義を実現するためではない。私たちは、例外的な場合を除いて、人間以外の存在者とコミュニケーションしないので、それらは正義の地平の外部にとどまる。

次に、トラシュマコスの問題提起を考えよう。トラシュマコスが主張していることを要すると、権力者が自分の支配を維持するためのことはすべて正義だというものである。では、権力とは何か。権力とは他者を意のままに動かす力のことである。それはたんなる暴力ではない。暴力も交換媒体の一つではあるが、交換媒体のすべてではない。

私は、先に、正義は、言語という交換媒体を通して、立場を交換することで実現されると述べた。そして、権力は、貨幣、暴力(刑罰)、言語(記号)という三つの交換媒体を通じて発動する。この三つの交換媒体は、欲望的な部分、気概の部分、理知的部分というプラトンの区分に対応している。

ルーマンの用語では、交換媒体は、コミュニケーション・メディアと呼ばれる。私は、三つのコミュニケーション・メディアを以下の図のように位置付けている。

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コミュニケーションメディア(CM)の分類

最も基礎となるコミュニケーション・メディアはどれだろうか。プラトンは次のように言っている。

<勇気>と<知恵>の場合は、どちらも国家のある特定の部分のうちに存在することによって、一方は国家を知恵のある国家とし、他方は勇気ある国家とするということだったが、<節制>はそうではない。それは国家の全体に、文字通り絃の全音域に行きわたるように行きわたっていて、最も弱い人々にも最も強い人々にも、またその中間の人々にも、完全調和の音階のもとに同一の歌を歌わせるようにするものなのだ。[8]

確かに、大衆であれ、兵士であれ、統治者であれ、みんな物質的消費を行っており、節制はすべての人に必要な徳である。同様に、貨幣は、すべての人にとって必要なコミュニケーション・メディアである。しかし、人間にとって最も基礎的なコミュニケーション・メディアということではなくて、交換にとって最も基礎的なコミュニケーション・メディアということで言うならば、言語をおいて他にはない。私が、記号を表の一番下に書いたのは、それだけ基礎的であるということを表すためである。政治システムを一番上に書いたのは、この四番目のシステムが、より基礎的な下の三つのシステムの複合から成り立っているからである。この点で、私は、正義を節制と勇気と知恵の調和で考えるプラトンと近い立場にある。

貨幣を媒介にした快の交換でも刑罰を媒介にした苦の交換でも、情報が共有されているからこそ、等価交換としての正義が成り立つのであって、一方の当事者に情報が与えられていなければ、他方の当事者から見て等価交換が成り立っていたとしても、両者の間に交換が成立したとは言えない。だから、言語的メディアが最も基礎的なコミュニケーション・メディアなのである。

正義が等価交換の等価性のことであり、そして等価交換の制約が言語メディアだとするならば、正義は言語メディアの内部にのみ存在し、言語メディアの外部で、不正な行為を行っても、不正にはならない。言い換えるならば、言語メディアの内部で盗みを行うと、不正として非難され、罰せられるが、言語メディアそのものを盗むことは、不正として非難され、罰せられることはない。

不正な手段で金を稼いで、その金でマスメディアのスポンサーとなり、政治家を買収すれば、その不正を摘発されることも報道されることもないから、不正な金儲けをさらに大規模に行い、そして稼いだ金をさらに … というように不正を繰り返すことで、少数の寄生者は国家の多数派を搾取し続けることができる。三つのメディアさえ掌握すれば、国家を乗っ取ることができるのだ。

「大衆は小さな嘘より、大きな嘘の犠牲になりやすい」というヒトラーの逆説も「大衆は小さな不正より、大きな不正の犠牲になりやすい」というトラシュマコスの逆説も、コミュニケーション・メディアの限界が正義の限界であることから説明することができる。小さな嘘は、周りとの不整合が目立つので、すぐばれる。しかし、大きな嘘の場合、大衆は、嘘内部の整合性に目を奪われ、それの虚偽性を疑おうとはしなくなる。小さな不正は警察に摘発され、マスコミで報道されるが、国家権力による警察ぐるみ、マスコミぐるみの不正なら、大衆は気付くことはない。

3. 洞窟から抜け出すために

プラトンの寓話で一番有名なのは、『国家』に出てくる洞窟の寓話である。プラトンは、善のイデアを光に喩え、「思惟によって知られる世界において、<善>が<知るもの>と<知られるもの>に対して持つ関係は、見られる世界において、太陽が<見るもの>と<見られるもの>に対して持つ関係とちょうど同じなのだ[9]」と言う。イデアと太陽は、本物と偽物(似せ物)の関係にあるが、イデアと太陽のそれぞれの内部にこの関係があるという比喩のフラクタル構造をプラトンは指摘する[10]

プラトンによれば、洞窟に閉じ込められた囚人たちは、太陽の光を直接見ることなく、洞窟に映し出された影ばかりを見て、これが本当の世界だと思い込んでいる。そしてその影の判別をめぐってくだらない口論にうつつをぬかしている。

洞窟の寓話画像の表示
洞窟の寓話[11]。洞窟に映し出された影しか見ない人々、光源を見る人々、本物の太陽を見る人々の三群が描かれている。ヤン・センレダムによる1604年の作品。

中には、後ろを振り向いて、真実の存在を見ようとする者も出てくるだろうが、太陽の光はまぶしすぎて、直視できない。

だから、思うに、上方の世界の事物を見ようとするならば、慣れというものがどうしても必要だろう。 ―― 最初に影を見れば、いちばん楽に見えるだろうし、つぎには、水にうつる人間その他の映像を見て、後になってから、その実物を直接見るようにすればよい。そしてその後で、天空のうちにあるものや、天空そのものへと目を移すことになるが、これにはまず、夜に星や月の光を見るほうが、昼間太陽とその光を見るよりも楽だろう。[12]

洞窟は子宮の、太陽は父の隠喩である。母との鏡像関係において、鏡に映る影に過ぎない理想自我に夢中になっていた子供は、やがてその虚像性に幻滅し、代わって、父の中に自我理想を求める。洞窟から抜け出す囚人は、胎内から抜け出し、去勢を行う男の子の姿のようだ。そして、イデアとしてのメディアはファルスに相当する。

洞窟の影が真の実在でないことに目覚めた囚人は、他の囚人にそれを告げようとする。

そのようなとき、彼は失笑を買うようなことにならないだろうか。そして人々は彼について、あの男は上へ登って行ったために、目をすっかりだめにして帰ってきたのだと言い、上へ登って行くなどということは、試みるだけの値打ちさえもない、と言うのではなかろうか。こうして彼らは、囚人を開放して上のほうへ連れて行こうと企てる者に対して、もしこれを何とかして手のうちに捕えて殺すことができるならば、殺してしまうのではないだろうか?[13]

ここでプラトンは、真実に目覚めながら、無知な人々によって殺害された恩師ソクラテスのことを念頭に置いているのだが、私は、映画『マトリックス』の主人公、ネオことトーマス・アンダーソンのことを考えてしまった。

マトリックス(matrix)はラテン語の母(mater)から派生した語で、子宮あるいは母胎という意味を持つ。プラトンの寓話では、洞窟に相当する。ネオも、洞窟内の囚人だったが、モーフィアス(Morpheus 夢の神)から、自分が生きているこの世は、実はコンピュータが作った仮想世界にすぎないという真実を教えられる。

その後、ネオは、真実を見ることができる赤い錠剤を飲むか、すべてを忘れて元に戻る青い錠剤を飲むかという選択を迫られる。『マトリックス』の製作者は、善悪を知ることになる木の実を食べたために、エデンの園という楽園から追放されたアダムの話を念頭においていたのだろう。あの木の実は、アダムのリンゴ(Adam’s apple)とも言われることから、リンゴだったと考えられている。赤い錠剤の赤色は、アダムが食べたリンゴの色である。

旧約聖書』に登場する楽園追放の話は、プラトンの洞窟の寓話と同じである。胎児は、真実の光に目覚め、無知の安逸から脱して、受難の道を歩む。青い錠剤は、胎内回帰のための錠剤で、その青さは、母なる海、羊水の色である。

ネオは、胎内回帰を拒否し、赤い錠剤を飲む。そして、マトリックスとの戦いが始まるわけだが、それは、『聖書』で言うならば、海の竜、ティアマトとの戦いである。ネオはいったん死ぬが、トリニティ(Trinity 三位一体)という女性に愛されることで復活し、新たな(neo)救世主となる。これは『新約聖書 』の話である。

話を正義論に戻そう。正義とは交換の等価性であるが、人々は交換される物に関心を奪われ、交換するメディアに注目することはない。洞窟の囚人は、光によって作られる影に関心を奪われ、影を作り出す光という媒体そのものに注目することはない。注目するのは、例外的な覚醒者だけである。

富と言語メディアと暴力という三つのメディアは権力の三源泉である。大衆は、誰が富と言語メディアと暴力を背後で操っているかまでは考えない。アノマリーな少数者は、マスコミが報道する常識を疑うが、真実を暴こうとすれば、暴力装置によって消されてしまう。そして、富を搾取する不正が温存される。

マトリックスも、富と言語メディアと暴力という権力の三源泉を掌握していた。マトリックスは、人間を発電機として利用し、その富を搾取する。そして、搾取を続けるために、マトリックスは、情報を完全に支配し、仮想現実の真実を人間に教えず、彼らを従順な電池のままにさせる。ネオのような覚醒者が生まれたり、ザイオンからアノマリーが侵入したりしても、エージェント・スミスやセンチネルといった暴力装置がこれを破壊しようとする。

ネオは、覚醒した時、一度も眼を使ったことがないので、眼が痛いと言っていた。太陽は、まぶしすぎるので、できれば直視したくはないものだ。しかし、メディアの限界が正義の限界なのだから、メディアから眼をそむけるわけにはいかない。私たちは、家畜に正義の原則を適用しないが、私たち自身が家畜に成り下がっていないかを考えなければならない。

プラトンは、正義の限界であるメディアの限界を広げようと、神という超越的な視点を持ち出した。私たちは、このような安易な解決策に満足してはいけない。宗教を信じても、己を洞窟に閉じ込めるだけである。神の絶対的メディアを信じない以上、メディアは常に相対的にならざるをえない。そして、メディアの相対性を自覚することが、自分を家畜にしないために必要である。

4. 参照情報

関連著作

『国家』の日本語訳を安く入手するには、岩波の文庫がお薦めです。Kindle版なら合本もあります。

  • プラトン『国家』岩波書店 (1979/4/16).

田中美知太郎と藤沢令夫の編集による『プラトン全集』では、第11巻に収録されています。

注釈一覧
  1. Raphael. “ The School of Athens (Cropped).” Licensed under CC-0.
  2. プラトン. 『国家〈上〉』. 藤沢 令夫 (翻訳). 岩波書店; 改版 (1979/4/16). 331C.
  3. プラトン. 『国家〈上〉』. 藤沢 令夫 (翻訳). 岩波書店; 改版 (1979/4/16). 339A.
  4. プラトン. 『国家〈上〉』. 藤沢 令夫 (翻訳). 岩波書店; 改版 (1979/4/16). 344A.
  5. プラトン. 『国家〈上〉』. 藤沢 令夫 (翻訳). 岩波書店; 改版 (1979/4/16). 352C.
  6. プラトン. 『国家〈上〉』. 藤沢 令夫 (翻訳). 岩波書店; 改版 (1979/4/16). 434C.
  7. プラトン. 『国家〈上〉』. 藤沢 令夫 (翻訳). 岩波書店; 改版 (1979/4/16). 444B.
  8. プラトン. 『国家〈上〉』. 藤沢 令夫 (翻訳). 岩波書店; 改版 (1979/4/16). 432A.
  9. プラトン. 『国家〈下〉』. 藤沢 令夫 (翻訳). 岩波書店; 改版 (1979/6/18). 508C.
  10. プラトン. 『国家〈下〉』. 藤沢 令夫 (翻訳). 岩波書店; 改版 (1979/6/18). 509-510.
  11. Jan Saenredam. “Plato’s Allegory of the cave.” Licensed under CC-BY-SA. 1604, Albertina, Vienna.
  12. プラトン. 『国家〈下〉』. 藤沢 令夫 (翻訳). 岩波書店; 改版 (1979/6/18). 516A-B.
  13. プラトン. 『国家〈下〉』. 藤沢 令夫 (翻訳). 岩波書店; 改版 (1979/6/18). 517A.