聖書を読みとく
予備知識なしで『聖書』を読んでも、ほとんどの日本人には、その意味が理解できない。具体的な、わかりやすい話も出てくるが、その寓話を通して、どのようなメッセージが送られているのかまでを読み取らなければならない。『聖書を読みとく―天地創造からバベルの塔まで 』を参考に、聖書の本質がどこにあるのかを考えよう。

1. ティアマトの切断
『聖書』は、次のような書き出しで始まる。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。[1]
この天地創造神話は、ユダヤ人が、バビロンに捕囚された時、バビロニアの創造神話の影響を受けて、作られたものである。
「深淵」と訳したヘブライ語(聖書の言語)の「テホーム」は、原始の海を意味する。バビロニアの創造神話で神格されている「塩水」(ティアマト)と同語源の単語である。したがって、天地創造以前は大水だったと想定するところまでは、両者、同じであるが、バビロニア人がもろもろの生命を生み出した「生命力(神)」の存在を考えたのに対して、生命を含む天地が神によって創造されたと考えるユダヤ人は、深淵を覆っていた暗闇を「神の霊風」が、(鷲のように)舞い駆けていたと想像した。[2]
ティアマトは、バビロニア神話に登場する、上半身は女性、下半身が蛇の姿をした原初の地母神である。日本語で、「海」と「産み」の音が同じであることは偶然ではない。海水は羊水のメタファーなのである。
バビロニア神話では、ティアマトの息子で、バビロニア人の都市の守護神であるマルドゥクが母親を、天の水と地の水に分割したことになっている。ユダヤの神話では、息子ではなくて、父なる神が、母なるティアマトに先立って登場し、ティアマトを切り分ける。
ここからも分かるように、ユダヤの神話の方が、バビロニアの神話よりも父権的なのである。また、地母神のイメージが、水の中や土の上でのたうちまわる蛇あるいは竜であるのに対して、父なる神が、上空を飛ぶ鳥のイメージであることにも注意しよう。
神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。 [3]
切断の結果、大空の下のみならず、上にも水があるということになる。『詩篇』にも「天の上なる水」という表現が出てくる。だから、『旧約聖書』での宇宙は、次のような図で示される。

この図を見ると、この世は、まるで羊水に囲まれた胎児のようだ。胎児が生まれ出るためには、第二の切断が必要である。
母の胎にあるときから
あなたに依りすがって来ました。
あなたは母の腹から
わたしを取り上げてくださいました。
わたしは常にあなたを賛美します。[5]
「あなた」とはヤハゥエのことである。共同訳では「取り上げる」となっているが、岩波版の翻訳では「切り離す[6]」となっている。乳幼児が乳離れをし、独り立ちするときにも、父による「切り離し」が必要である。
『旧約聖書』では、母なるものは、自然、海、川、水、蛇、竜として表象されていた。メソポタミアの地母神、イナンナ/イシュタルは、アシュトレトと呼ばれ、母権宗教の象徴として、その崇拝は、ヤハウェの怒りをかった。他方で、「主人」「所有者」の意味を持ち、父権的な性格を持った土着の神、バアルは、ライバルとして、排除された。
彼らは主を捨て、バアルとアシュトレトに仕えたので、主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らを略奪者の手に任せて、略奪されるがままにし、周りの敵の手に売り渡された。彼らはもはや、敵に立ち向かうことができなかった。[7]
『旧約聖書』では、母なるものと姦淫をする息子としてのイスラエルの民に対して、父なる神が厳しい罰を下すという話が何十回、何百回と繰り返されている。『聖書』の本質は去勢であるといって過言ではない。
「ティアマト」は、「レビヤタン」あるいは「ラハブ」とも言われていた。
[…]主は、厳しく、大きく、強い剣をもって逃げる蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、また海にいる竜を殺される。[8]
あなたは、御力をもって海を分け
大水の上で竜の頭を砕かれました。
レビヤタンの頭を打ち砕き
それを砂漠の民の食糧とされたのもあなたです。
あなたは、泉や川を開かれましたが
絶えることのない大河の水を涸らされました。[9]
ラハブを切り裂き、竜を貫いたのは
あなたではなかったか。
海を、大いなる淵の水を、干上がらせ
深い海の底に道を開いて
贖われた人々を通らせたのは
あなたではなかったか。[10]
最後の箇所は、モーセが率いるイスラエルの民が、葦の海を割って出エジプトを果たしたことを言っているのだが、羊水の中から産道を通って、胎児がこの世に生まれるさまを描写しているというようにも読める。
2. ユダヤ教の反自然的性格
父なる神は、母なる自然を越えたロゴス的存在である。
[…]神が言葉を発するだけで天地を創造したという物語は、神がその考えに従って、すなわち、計画通りに宇宙を造ったという主張であり、宇宙が「自然」から自然に生じたと考えるバビロニアの創造神話に対する強烈な反論であることが分かる。[11]
括弧付きの「自然」は、地母神のことである。母の自然よりも父の言葉に優位がある。それはユダヤ教徒が世界に広めた週といういう単位によく表れている。
私たちは、日、週、月、年というサイクルで生活をしている。このうち、日と年は、地球の自転と公転の周期であり、月は、もともと29.5日の月の満ち欠けの周期であった。日、月、年が、自然の周期であるのに対して、週だけは自然の周期ではない。
[…]六日間労働して七日目に休息する安息日という週の暦は、自然現象とは無関係なリズムである。広く古代オリエント全域において、七を聖なる数字とみなす慣習があったことはわかっている。しかし、古今東西の聖書以外の文化を調べても、七日ごとに休息する暦の起源は、いまだに発見されていない。[12]
バビロニア人は、太陽系には7つの星があると考えて、7という数字を神聖視したようだが、ユダヤ人が、7番目の日を安息日とした根拠は、そうした「自然」現象ではない。すなわち、神が、6日で天地を創造し、7日目に休息をしたという神話による。そして、神の天地創造が6日間で完成したのは、6が最小の完全数だからである。完全数とは、その数自身を除く正の約数の和が、その数自身と等しい自然数のことで、6=1+2+3 であるから、6は完全数ということになる。また、6=1×2×3でもある。このように、ユダヤ人の周期の根拠は、ロゴスにあって「自然」にはない
3. なぜカナン人は呪われるのか
『創世記』は、次のようなエピソードで、イスラエル人によるカナン人の支配を正当化する。
カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。
セムとヤフェトは着物を取って自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、父の裸を覆った。二人は顔を背けたままで、父の裸を見なかった。
ノアは酔いからさめると、末の息子がしたことを知り、
こう言った。
「カナンは呪われよ
奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ。」
また言った。
「セムの神、主をたたえよ。
カナンはセムの奴隷となれ。
神がヤフェトの土地を広げ(ヤフェト)
セムの天幕に住まわせ
カナンはその奴隷となれ。」[13]
石田は、これに対して、次のような解釈を行う。
ワインに酩酊したノアの姿は大量飲酒による狂乱祭儀を暗示し、それを見たハム(カナン)の行動は男根を崇拝する豊穣祭儀を表していることになる。セムとはヤフェトが父の裸を見ないようにしてそれを覆った行動は、カナン人の豊穣祭儀の否定を意味している。[14]
たしかに、カナン地方(現代のパレスティナ)をはじめとする東地中海沿岸は、ワインの特産地であり、カナンの人々が、ワインに酔って、騒々しい音楽で踊り狂いながら、バッカス的なオルギアに興じていたであろうことは想像に難くない。「大量飲酒による狂乱祭儀」は、父権宗教が支配的になる前の社会ではごく普通に見られ、日常世界では禁じられていても、祝祭空間でなら大目に見られたものである。
『新約聖書』の「ヨハネの黙示録」にも「淫行の葡萄酒を飲む[15]」という表現が出てくるが、父権宗教は、こうした性的狂宴を許さない。しかしそれは、豊穣祭儀が男根を崇拝しているからではない。豊穣祭儀は、地母神崇拝であり、人々は、オルギア的なエクスタシーで、地母神との神秘的交わりを体験する。そして、父権宗教がオルギアを許さないのは、子を母から切り離す、つまり去勢のためである。去勢はファルス崇拝を帰結するから、父権宗教が男根崇拝を禁止するというのはおかしい。
ユダヤ教は、男根崇拝を禁止していたというよりも、男根崇拝そのものだった。『聖書』には、固い誓いを立てるときには、男根の上に手を置くという習慣が、イスラエル人にあったことを伝えている。
アブラハムは家の全財産を任せている年寄りの僕に言った。「手をわたしの腿の間に入れ、
天の神、地の神である主にかけて誓いなさい。あなたはわたしの息子の嫁をわたしが今住んでいるカナンの娘から取るのではなく、
わたしの一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れて来るように。」[16]
「手を腿の間に入れる」という婉曲的な表現が使われているが、これが何を意味するかは明白である。カナン人が呪われるのは、父のペニスを崇拝したからではなくて、酔っ払って裸になることを否定しなかったからだ。
4. 関連著作
キリスト教徒や日本人は、旧約聖書と新約聖書の総称として「聖書」という言葉を使う。しかし、ユダヤ人にとって「聖書」とは旧約聖書だけを指す概念である。彼らにとって、旧約は、古くなった契約ではなく、今なお、遵守しなければならない契約である。そして、石田が使っている「聖書」という言葉は、ユダヤ人的な使い方を踏襲している。
聖書からの引用に際しては、以下の翻訳を利用した。
- 『聖書―新共同訳』
5. 参照情報
- ↑「創世記」01:01-02.『聖書』. 新共同訳. 日本聖書協会 (1998/1/1).
- ↑石田 友雄.『聖書を読みとく―天地創造からバベルの塔まで』. 草思社 (2004/11). p.28.
- ↑「創世記」01:06-07.『聖書』. 新共同訳. 日本聖書協会 (1998/1/1).
- ↑『旧約聖書〈11〉詩篇』. 旧約聖書翻訳委員会 (著), 松田 伊作 (翻訳). 岩波書店 (1998/6/15). p.416.
- ↑「創詩篇」71:06.『聖書』. 新共同訳. 日本聖書協会 (1998/1/1).
- ↑『旧約聖書〈11〉詩篇』. 旧約聖書翻訳委員会 (著), 松田 伊作 (翻訳). 岩波書店 (1998/6/15). 71:06.
- ↑「士師記」02:13-14.『聖書』. 新共同訳. 日本聖書協会 (1998/1/1).
- ↑「イザヤ書」27:01.『聖書』. 新共同訳. 日本聖書協会 (1998/1/1).
- ↑「詩篇」74:13-15.『聖書』. 新共同訳. 日本聖書協会 (1998/1/1).
- ↑「イザヤ書」51:09-10.『聖書』. 新共同訳. 日本聖書協会 (1998/1/1).
- ↑石田 友雄.『聖書を読みとく―天地創造からバベルの塔まで』. 草思社 (2004/11). p.34.
- ↑石田 友雄.『聖書を読みとく―天地創造からバベルの塔まで』. 草思社 (2004/11). p.40-41.
- ↑「創世記」09:21-27.『聖書』. 新共同訳. 日本聖書協会 (1998/1/1).
- ↑石田 友雄.『聖書を読みとく―天地創造からバベルの塔まで』. 草思社 (2004/11). p.199.
- ↑「ヨハネの黙示録」14:08; 18:03.『聖書 』. 新共同訳. 日本聖書協会 (1998/1/1).
- ↑「創世記」24:02-04.『聖書』. 新共同訳. 日本聖書協会 (1998/1/1).
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