「土俵の違い」と「立場の違い」の違い

2018年8月25日

Doblog – 現代思想の泉・社会哲学 -“議論の「土俵」について”」に対するコメント。立場の違う者とのネット上での論争をやめて、土俵から降りるにはどうすればよいのかについて。

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土俵上で睨み合う朝青龍と白鵬。”Asashōryū and Hakuhō, both yokozuna glare at each other after the match (25 May 2008)” by Morio is licensed under CC-BY-SA

わたしは永井俊哉さんに疑念を呈し、それによってかれの着目点を探る。その結果、かれの土俵とわたしの土俵との違いをはっきりさせることができた。そしてかれの土俵に上がるかぎり、わたしはかれと「対決」する必要をまったく感じなかった。だから「相互了解もできている」として、土俵を降りたのだった。したがってその後のわたしの考察は、対決として、反駁として書いたものではない。

どうやら「立場の違い」と「土俵の違い」を混同しているようです。論争を止める時、「立場に相違があるから、議論するのは止めよう」というセリフがよく使われますが、これはおかしな話です。そもそも立場に相違があるからこそ論争が起きるわけで、立場に相違がなければ、以心伝心のコミュニケーション、あるいは同じパラダイム内のパズル解きで合意に達することができます。

これに対して、土俵が異なるなら、論争が起きることはありません。もしも、もんてすQさんが、自分のプライベートな日記に、「末は博士かホームレスか」に関する「疑問点」を書いたとするならば、あるいは自分のブログに本人にしか分からない暗号で書いたならば、私が反論することはありません。しかし、インターネットという共通の土俵で、日本語による理解可能な文で「疑問点」を書けば、もうその段階で、同じ土俵に上ったことになります。

主題が異なる時にも、論争は起きませんが、私ともんてすQさんは、同じ余剰博士問題について語っているのだから、これは関係がありません。

まとめましょう。もしも立場が同じならば、論争は不要であり、もしも土俵が異なるならば、論争は不可能です。土俵が同じで立場が異なる時にのみ、論争が必要かつ可能になるということができます。進化論と創造論も、立場は異なるけれども、土俵が同じだから、論争するわけです。

私は、正直言って、他人の批判に反論することは好きではありません。泥沼の論争に時間を使うよりも、自分の研究に使ったほうが生産的です。ただ、ネット上に存在する批判を放置しておいて「永井は、自分の間違いに気付きながら、訂正せずに無視している」と思われるのが嫌だから、反論しているだけです。

ブログの管理人の中には、自分に批判的なコメントやトラックバックをすべて削除する人がいます。本人は、そうすることで、論敵を土俵から排除しているつもりなのでしょう。しかし、そういうことをしていると、2ちゃんねるとかに悪口を書かれ、よりいっそうたちの悪い非難に晒されることになります。私は、それが嫌だから、批判に対して、オープンにしているのです。

もしも、他人から批判されることが嫌いならば、ネットで公表した自分の主張をすべて回収し、それを自分のプライベートなメモに書けばよい。そうすれば、他人の批判を書いても、反論を受けることはありません。それが、本当の意味で、「土俵を降りる」ことになるのです。

もしも、もんてすQさんが、たんにもうこれ以上議論をするのを止めようと言っているのだとするならば、私は歓迎します。こういうことに時間を浪費することは、お互いのためにはなりませんから。