6月 052005
 

Doblog – 現代思想の泉・社会哲学 -“議論の「土俵」について”」に対するコメント。立場の違う者とのネット上での論争をやめて、土俵から降りるにはどうすればよいのかについて。

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土俵上で睨み合う朝青龍と白鵬。”Asashōryū and Hakuhō, both yokozuna glare at each other after the match (25 May 2008)” by Morio is licensed under CC-BY-SA

わたしは永井俊哉さんに疑念を呈し、それによってかれの着目点を探る。その結果、かれの土俵とわたしの土俵との違いをはっきりさせることができた。そしてかれの土俵に上がるかぎり、わたしはかれと「対決」する必要をまったく感じなかった。だから「相互了解もできている」として、土俵を降りたのだった。したがってその後のわたしの考察は、対決として、反駁として書いたものではない。

どうやら「立場の違い」と「土俵の違い」を混同しているようです。論争を止める時、「立場に相違があるから、議論するのは止めよう」というセリフがよく使われますが、これはおかしな話です。そもそも立場に相違があるからこそ論争が起きるわけで、立場に相違がなければ、以心伝心のコミュニケーション、あるいは同じパラダイム内のパズル解きで合意に達することができます。

これに対して、土俵が異なるなら、論争が起きることはありません。もしも、もんてすQさんが、自分のプライベートな日記に、「末は博士かホームレスか」に関する「疑問点」を書いたとするならば、あるいは自分のブログに本人にしか分からない暗号で書いたならば、私が反論することはありません。しかし、インターネットという共通の土俵で、日本語による理解可能な文で「疑問点」を書けば、もうその段階で、同じ土俵に上ったことになります。

主題が異なる時にも、論争は起きませんが、私ともんてすQさんは、同じ余剰博士問題について語っているのだから、これは関係がありません。

まとめましょう。もしも立場が同じならば、論争は不要であり、もしも土俵が異なるならば、論争は不可能です。土俵が同じで立場が異なる時にのみ、論争が必要かつ可能になるということができます。進化論と創造論も、立場は異なるけれども、土俵が同じだから、論争するわけです。

私は、正直言って、他人の批判に反論することは好きではありません。泥沼の論争に時間を使うよりも、自分の研究に使ったほうが生産的です。ただ、ネット上に存在する批判を放置しておいて「永井は、自分の間違いに気付きながら、訂正せずに無視している」と思われるのが嫌だから、反論しているだけです。

ブログの管理人の中には、自分に批判的なコメントやトラックバックをすべて削除する人がいます。本人は、そうすることで、論敵を土俵から排除しているつもりなのでしょう。しかし、そういうことをしていると、2ちゃんねるとかに悪口を書かれ、よりいっそうたちの悪い非難に晒されることになります。私は、それが嫌だから、批判に対して、オープンにしているのです。

もしも、他人から批判されることが嫌いならば、ネットで公表した自分の主張をすべて回収し、それを自分のプライベートなメモに書けばよい。そうすれば、他人の批判を書いても、反論を受けることはありません。それが、本当の意味で、「土俵を降りる」ことになるのです。

もしも、もんてすQさんが、たんにもうこれ以上議論をするのを止めようと言っているのだとするならば、私は歓迎します。こういうことに時間を浪費することは、お互いのためにはなりませんから。

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  2 コメント

  1. まず、「立場」および「土俵」という言葉の意味づけに、おたがいに食い違いがあるようです。
    ご存知のとおり、言葉の意味が論者によって違うのは、じつに良くあることです。これ自体は悪ではなく、またどちらか一方につねに合わせるべきだということもないと思います。問題なのは差異を認識しないまま議論がかみ合わなくなることでしょう。
    当該記事で問題にしたのは、議論の力点がまるで違うのに、おたがいに攻撃だけをおこなうのは、不毛な≪すれ違い≫しか生み出さないということです。引用された箇所は、これを踏まえて、永井さんには永井さんなりの視点で、わたしにはわたしなりの視点で、おなじ問題について別の角度から論じればよい、ということです。どちらか一方が正しくて他方が間違っていることを、無理に決める必要はないということであります。
    わたしの場合、≪立場≫というのは、議論の着目点、力点、重視する点に影響を与える各個人の「考え方」とでもいえるでしょう。そして≪土俵≫というのは、そうした考え方に基づいて展開された実際の議論であって(その議論にはかならずなんらかの「方向性・着眼点」がある)、基づいている論点をつかまえずに的外れなことを言い合っても無駄である、ということです。それ以上に深い意義はありません。もちろん、それをつかまえるために疑問を提示することはあるでしょうが、それなら延々と続ける理由はなくなります。
    それだから、「おなじプラットフォームで理解可能」なら即座に土俵といえる、という意味合いを持たせていません。また、持たせる必要もないと思います。永井さんにとっては必要なようですが、わたしにとってはその必要はありません。
    それから、立場が違うと、かならず論争になるのですか。しかもその論争は「必要」なことなのですか。わたしは、立場が同一か違いがあるかのどちらかしかないとは考えません。「どう違うか」がポイントになります。
    まず、立場が違うことを認識し、相手の立場や力点がどこにあるのかを探り、それが自分の議論にとってきわめて重要である場合、その場合にのみ、「対決」すればよい。当該記事にもそのように書いていたはずです。
    「自分の議論にとってきわめて重要」なのは、相手の立場が自分の立場と真っ向からぶつかる時に限られるでしょう。そもそも誰であれ、立場が違うのは当然のことであり、立場が違うだけで必然的に論争になるのなら、それこそ世界は論争だらけになり、誰一人として日常のコミュニケーションをとれなくなります。現実には、「真っ向からぶつかり、どうしても譲れない」部分など、たかが知れていると思います。じっさいの論戦も、どうしても譲れないように思い込んでいて、じつは真っ向からぶつかっていないのではないかと思えるものも、少なくないのです。
    「再論」でわたしが「あえて批判」をしたのは、わたしなりの「課題」を探るため、よりいっそう永井さんのお考えを(わたしに)明瞭にする必要を感じたからです。その課題とは、結局、はじめから一貫して「民間企業の博士嫌い」の問題になるのですが、そのために永井さんの議論をもっとよく踏まえる必要を感じたからです。だから反駁や対決というよりはむしろ、より突っ込んだ掘り下げということになります。批判が否定とは違うことは説明を待ちませんね?
    今回、永井さんのブログにて、「再論」の6つの問題についてご解答いただきました(わたしは永井さんの反論とは受け取っておらず、あくまで解答だと思っています)。これにコメントをなんら行わなかったのは、これ以上の議論を打ち切るということではなくて、まったく逆に、納得のできるところとできないところを、わたしなりに「整理」し、これを自分の考察として自分のブログに公開するつもりだからです。本日発行したメルマガにも、「ひきつづき考察する必要がある」と書きました(現時点で半分程度はできていますが、全体を俯瞰してから記事をアップしたいので、まだ公表しません)。
    納得できない部分、といいましたが、それは、永井さんが間違いでわたしのほうが正しいということではなく、「永井さんの議論に全面的に依拠して、自分自身がこれ以上考察する必要はない、というわけにはいかない」という意味です。わたしが依拠しない部分については、あなたが間違っているというより、わたし自身の観点にとって「本質的に重要なのはこの点だ」ということを見出すということなのです。
    したがって、もちろん、永井さんにとって、わたしの言っていることが「どうしても譲れない」部分を含むなら、ご自身のお考えをあきらかになさればいいし、わたしの言っていることに誤解が含まれるなら、それを正せばよいでしょう。無視したければすればよろしい。すくなくともわたしは、無視することが悪だとも思いません。訂正の必要を感じた場合にのみ、動けばよいのであって、たとえ言及が攻撃的な内容でも、自分が「どうでもいい」と思っているものにたいして、いちいち反応する必要はないと思います(じっさい、わたしはあなたに「答えろ」とは言ってません)。もっとも、それは各人の志向によりますが。
    ちなみに、わたしも論争は好みません。恐らくおなじ経験を経ているでしょう。
    この余剰博士の問題については、「泥沼の論争」にするつもりは毛頭ありません。こちらの「整理」がつけば、あとは永井さんによる「訂正」の可能性を残すのみで、そこから先は違う議論になるはずです。なぜなら、余剰博士のうち、すでに生じたひとたちの民間企業への就職の問題、およびこれとニートやフリーターなどとの共通点、こういった問題が、その先のわたしの「土俵」(あえて土俵といいます)になるからです。
    話を戻しますが、「土俵」とか「立場」といった言葉の意味に差異があることは確認できました。そしてわたしは、永井さんの使っている意味に自分の概念を正す必要も、永井さんにわたしの意味づけを押し付ける必要も、ないと考えます。永井さんは永井さんなりに、ご自分のお言葉として、自分なりに定義した言葉で引き続き「別の研究」を続ければいいし、わたしも同様です。したがって、「「土俵の違い」と「立場の違い」の違い」という問題にかんしては、『余剰博士』と違って、「もうこれ以上議論をするのを止めようと言」うことにします。すくなくともわたしにとって、無意味だからです。そもそも当該記事は永井さんにたいして書いたものでさえもないので(部分的に引き合いには出しましたが)。

  2. 長文のあとで恐縮ですが、ちょっとだけ補足させてください。わたしが「無意味」と書いたのは、「これ以上論争すること」が無意味なのであって、永井さんがこの記事を書いたことには充分な意義があると思っています(そうでなければ無視します)。なぜなら、「問題なのは差異を認識しないまま議論がかみ合わなくなることでしょう」という困難をあらかじめ回避できているからです。以上補足。

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