韓国人の反日を鏡像段階論で解釈する
「竹島の日」制定をきっかけに、韓国人の反日感情が燃え上がった。なぜ韓国の反日活動家は、これほどまでに日本人を嫌い、被害妄想を膨らませるのだろうか。福原泰平の『ラカン―鏡像段階』を手掛かりに考えてみよう。

1. パラノイア的被害妄想
ラカンが、学位論文『人格への関係から見たパラノイア性精神病』で最も多くのスペースを割いて報告しているのが、ラカン自身が自ら診察し、治療した、エメ(仮名)という患者である[1]。エメは、幼少時代、母と親密な関係にあったが、就職と立身出世のため、故郷を離れる。エメは、母の代替物、すなわち鏡像的他者を、寄宿先にいる姉、さらには、職場の同僚で貴族趣味のあるC嬢、C嬢が口にしていた有名女優のZ夫人に求める。
エメは、最初の妊娠をしたとき、C嬢が新聞に悪口を書いたことでおなかの赤ちゃんが殺されるという被害妄想を抱き、実際に死産だったために、C嬢を強く憎しむようになる。小説を出版しようとして断られると、出版社を訴える。さらには、Z夫人が有名な小説家と共謀して、エメのことを小説の中で暴露しているとか、息子を殺害しようとしているといった妄想を抱き、Z夫人をナイフで襲って、逮捕された。
エメの病歴を見てくると、彼女の妄想の対象となる人は、上流階級の贅沢な暮らしをし、魅力的で世間から注目されている人々であり、実は彼女自身が憧れ、そうなりたいと思いながらなれなかった、彼女にないものを与える理想的な位置にある女性たちだったことがわかる。[2]
では、エメは、なぜ憧れの対象である鏡像的他者を憎しみ、殺そうとしたのか。
当然、エメは自らの権利を不当に侵されたと訴えはじめ、自己の主人性を奪った他者に攻撃の矛先を向けていく。[3]
エメの妄想は、逮捕から三週間後に消滅する。
2. 韓国人の日本コンプレックス
2005年03月16日、「竹島の日」をつくる条例案が、島根県議会本会議で採決され、賛成多数で可決、成立した。これに対して、韓国では異様な反日運動が起き、韓国政府は、「独島挑発など日本の行動に対しては、過去の植民地侵奪のと同じ枠内で認識し、対処する」「国際社会において、韓国の立場の大義と正当性を鮮明にし、日本の態度変化を促す」などの、「対日新ドクトリン」を発表した。
もっとも、韓国政府自身は、国際的な「韓国の立場の大義と正当性」にあまり自信がないようだ。
4月10日朝のフジ「報道2001」に出演した聖公会大学日本語学科のヤン教授は盧武鉉大統領の元ブレーンとのことだったが、竹島問題を巡り、元外務大臣の高村正彦から「国際司法裁判所で決着をはかってはどうか」と提案されると、国際的には韓国が不利だから国際司法裁判所に判断をゆだねるつもりはないと明言。[4]
国際司法裁判所で争って勝つ自信がないならば、黙って実効支配を続けた方が賢明なように思えるのだが、なぜだか韓国人の方が日本人以上に騒いでいる。韓国人は、過去に日本に領土を侵害されたという被害妄想を持っており、日本に報復するために、竹島を侵害し、そして、侵害することで侵害されたと訴えているかのようだ。
韓国にとって、日本は、鏡像的他者である。このことは、2005年3月1日に行われた盧武鉉韓国大統領の3.1節記念演説によく表れている。
私は拉致問題による日本国民の憤怒を十分に理解します。同様に日本も立場を替えて考えてみなければなりません。日帝36年間、強制徴用から従軍慰安婦問題に至るまで、数千、数万倍の苦痛を受けた我々国民の憤怒を理解しなければならないのです。[5]
日本が北朝鮮に対して拉致問題を指摘すると、日本も戦前に朝鮮民族を拉致したではないかと応酬する。しかし、鏡像関係はこれだけではない。
日本が戦前行った強制徴用は、北朝鮮が行った拉致とは異なり、当時は自分の国に相当する大日本帝国への奉仕だった。それは、韓国が徴兵制という形で、現在も自国民に対して実施している制度である。また、慰安婦制度は、韓国が主張するほど強制的な制度ではなかったし、朝鮮戦争の頃には、韓国軍も、日帝時代の制度を真似て、慰安婦制度を設けていた [6]。
日本の鳥取県議会が「竹島の日」を制定すると、韓国の馬山市議会は「対馬の日」を制定する。石原東京都知事が「三流のやり方」と盧大統領の政治手法を批判すると、李明博ソウル市長は「四流、五流」と言い返す。韓国人は、まるで鏡像のように日本を模倣する。
2004年9月の中央日報による世論調査によると、韓国人が一番嫌いな国として挙げたのは日本で、2位の米国の倍近くあり、最も見習うべき国も日本がトップで、2位の米国の倍以上の割合だった。韓国人は、日本に憧れているのだが、だからこそ、日本人が憎い。韓国は、日本のようなアジア最高の先進国になりたがっているのだが、だからこそ、日本が目障りなのである。
先ほど引用した、エメの症例分析での「エメ」を韓国、「他者」を日本で置き換えてみよう。
韓国から喪失や解体の恐怖を取り除き、その肯定的感情と統一性を与えてくれた日本への同一化が、今度は逆に韓国が自らの主人たろうとするその権利を不当に奪い、これが韓国の目には日本による韓国自身の主人性の略奪と映るのである。
当然、韓国は自らの権利を不当に侵されたと訴えはじめ、韓国の主人性を奪った日本に攻撃の矛先を向けていく。
日本は、朝鮮半島を、清の桎梏から解放し、ロシアの脅威から守り、近代社会へと育て、そして、朝鮮人たちは自らを大日本帝国臣民に同一化しようとした。それが、第二次世界大戦後、日本に同一化できなくなると、日本を攻撃するようになるのである。
韓国人の反日言動は、憧れと憎悪という、相反する感情の複合体(コンプレックス)に基づいているのだが、韓国には、このコンプレックスを表す固有の言葉がある。恨(ハン)がそれである。
理想的な状態、あるべき姿、いるべき場所への「あこがれ」と、それへの接近が挫折させられている「無念」「悲しみ」がセットになった感情が、「ハン」なのである。[7]
面白いことに、盧武鉉大統領の経歴は、エメの経歴とよく似ている。貧しい家庭に生まれ、商業高校を卒業した後、独学で司法試験の勉強をし、判事、さらには弁護士になった。
彼は、突然、金持ちになろうとしたのです。それまでは考えられなかった贅沢な趣味を、彼は始めました。ヨットです。大統領になる前に、たった一度、彼は外国を訪れていますが、それはヨットレースで日本に行ったのです。[8]
盧武鉉大統領の人生は、韓国の歴史そのものを表していないだろうか。
3. コンプレックスから抜け出すために
加害と被害の区別がつかない鏡像的な関係の中で、韓国人は、被害妄想をパラノイア的に膨張させ、自国の歴史を被害の歴史へと捏造し、そして日本が逆に歴史を捏造していると批判する。日本を攻撃する韓国に対して、日本はどう振舞えばよいのか。
日本人の中には、韓国人の挑発に乗って、感情的な反発をする人もいる。しかし、それでは、韓国人が仕掛ける鏡像的関係に引きずり込まれてしまうだけである。精神分析学では、分析家が、患者の鏡像的他者になってしまうことを転移というが、これは避けなければならない。
分析家がこうしないとき、二人はお互いの鏡像的自我で相手を映しあって対峙することになる。そうなると患者の要求はポトラッチ的にどんどん膨れ上がりエスカレートしていく。そして、両者は鏡像的な誘惑と憎悪の渦巻く情念の中にすっぽりと呑み込まれてしまい、結果、激しくぶつかりあうことになっていくとラカンは注意を喚起する。[9]
韓国人に限らず、コンプレックスは誰にでもある。精神分析学で一番有名なコンプレックスは、エディプス・コンプレックスである。息子は父との同一化を試み、それができないとわかると、父に殺意を抱く。息子をコンプレックスから救うには、自発的去勢が必要である。日本コンプレックスを持っている人に対しても同じ助言をしなければならない。
私は、韓国人の自我に向かって「未来志向の日韓関係」を呼びかける代わりに、韓国人のエスに向かって次のように語りたい。日本コンプレックスに固執する限り、いつまでたっても日本の劣化コピー以上のものになれない。日本など眼中にない独自の発展を遂げる国になって、初めて、韓国は自立した国になれる、と。
4. 追記:批判に応える
本稿に対する原名高正さんの批判に対する反論。5年前に私が提案した反日的韓国人パラノイア説の是非をめぐる議論。

■「朝鮮人たちは自らを大日本帝国臣民に同一化しようとした」っていう見解も、ご当人はご満悦のようだが、全然説得力がないとおもう。「親日派」とよばれる、日本につよい同化志向をもった一群がうみだされ、「日本臣民」になりきろうとした層が相当数にいたったことは事実だが、それが当時の朝鮮半島住民の大半などでないことははっきりしている。それだったら、当時の日本語おしつけ政策はもっと成功していたはずだし、「戦後、日本に同一化できなくなる」といった事態さえ、うまれなかったのではないか?
■当時の朝鮮半島住民を概観するなら、圧倒的な軍事・警察力でもって制圧している帝国日本にあからさまに抵抗しても、かちめがないので(実際、1919年の「3・1運動」など、反日デモや抵抗運動は、ことごとく鎮圧・抑圧された)、面従腹背していたに過ぎないというのが、妥当なところだろう。
■当時の朝鮮人が「自らを大日本帝国臣民に同一化しようとした」といった断定は、帝国日本による植民地支配を美化したい右派日本人、あるいは当時の「親日派」の動向を正当化したい層の願望による、ねじまがった総括であり、それこそ、ねぶかい妄言として「精神分析」にあたいする。[11]
もちろん、当時の朝鮮人は、自分たちだけで独立国を作ることがベストだと考えていたことでしょう。しかし、当時、それは現実的な選択肢ではなく、彼らは、日本の属国になるか、日本の一部になるか、どちらかを選ばなければならないという状況でした。その場合、(少なくとも将来的には)日本の内地と対等な立場になれそうな後者の選択肢を選ぶことは当然でしょう。私も、日本は、米国の属国という地位に甘んじるぐらいなら、米国の一部になった方がましだと思っています。属国化と併合は、似て非なるもので、後者の場合、朝鮮の経済的水準を内地レベルにまで引き上げなければならず、そのためには、膨大な財政支出が必要でした。このため、伊藤博文は、日韓併合に反対していたのですが、彼が暗殺されたことで、日韓併合が強行されてしまいました。日韓併合は、朝鮮の利益にはなったが、日本内地の利益にならなかったことに関しては、『歴史を偽造する韓国―韓国併合と搾取された日本』などに詳しく書かれています。
■ちなみに、韓国の戦後の諸制度のうち、おおくが日本のコピーであること、そのことを韓国民の相当部分がみとめたがらないことも事実だ。しかし、漢字文化からの自立をめざしたハングルなどをみればわかるとおり、韓国民のやることなすことが日本のコピーにすぎないなどという見解は、まさに妄言だろう。[12]
李氏朝鮮時代においては、訓民正音(後のハングル)は、朝鮮の公式な言語ではなかったし、体系的な言語でもなければ、大衆に広く普及した言語でもありませんでした。福沢諭吉とその門下生、井上角五郎は、朝鮮人を中国の文化的従属から独立させるために、日本語の仮名に相当するハングルに注目しました。そして、井上は、「漢城周報」という官報に、初めてハングルによる漢文訓読体の文章を用いました。要するに、福沢と井上は、日本が、平安時代に日本がやった中国からの文化的独立と同じことを朝鮮にやらせようとしたのでして、ハングルによる中国からの文化的独立も日本のコピーと言えなくはありません。
■ついでにいうと、韓国の軍隊文化とか、1980年代までは確実に残存していたらしい警察のとりしらべにともなう拷問などは、ほぼすべて、帝国日本の「おきみやげ」である。それは、帝国日本の陸軍士官学校などで育成された「親日派」の相当部分が戦後韓国の実権をにぎったエリート層にほかならないからだが、そういった野蛮な「負の遺産」が脈々と戦後もひきつがれたことこそ、めをそむけたくなるような、しかし直視すべき日韓関係・日朝関係の証拠ではないのか?[13]
目を背けたくなるような残虐な拷問をやっていたのは、むしろ李氏朝鮮時代の朝鮮人でしょう。日本は、朝鮮を近代化するために、1908年の法令改正で、拷問を禁止し、拷問した取調官に3年以下の懲役を科すことを決めました。ちなみに韓国の独立記念館が、蝋人形を使って展示している、日帝支配時代に行われていたとされる拷問の様子は、李朝朝鮮時代に行われていた拷問を再現したものです。自分たちの加害行為を被害行為へと鏡像的に反転させる彼らのパラノイア的思考が本稿の主題なのです。
■韓国人にかぎらず朝鮮人も(ま、民族はおなじだけど)、自覚できない次元でも日本のコピーをしてきたんでしょう。なにしろ、マルクス主義と理念的に矛盾するはずの個人崇拝とか世襲とかを天皇制からパクったんですから(笑)。
■でも、近代天皇制自体がキリスト教のパクりだし、日本民族にそんなオリジナリティがあるわけじゃない。
■いや、戦前戦後をとおして、アメリカのマネばっかりしてきましたね(笑)。
■アメリカ人は、日本人にむかって、「オレたち、うらやましいだろ。正直にいえよ。マネばっかりしてさ」などと、イヤミはいいません。日本語のなかにも、カタカナ語として、英米語が大量に流入しているしね。大和魂は風前のともしび(笑)。[14]
知的財産権の侵害にならないのなら、真似しても問題ないと思います。ただ韓国人が、剣道のような、実際には起源は日本で、韓国はそれを模倣したものの起源が韓国にあると主張し、日本はそれを模倣し、盗用したといった宣伝を世界に向けてするのは問題だと思います。こういう韓国起源説も、パラノイア患者に特有の鏡像的な反転から説明できます。
■この評論家氏、「韓国人は、日本に憧れているのだが、だからこそ、日本人が憎い。韓国は、日本のようなアジア最高の先進国になりたがっているのだが、だからこそ、日本が目障りなのである」と、きめつけているが、その根拠は「2004年9月の中央日報による世論調査によると、韓国人が一番嫌いな国として挙げたのは日本で、2位の米国の倍近くあり、最も見習うべき国も日本がトップで、2位の米国の倍以上の割合だった」という報道らしい。
■この統計データのあつかいについては、慎重にならねばならないが、同一の回答者が、日本を「一番嫌いな国として挙げ」、同時に「最も見習うべき国も日本」とこたえたという保障はない。こういったデータを、「愛憎なかばする意識」といったくくりかたをするのは、「精神分析」派のわるいクセで、完全に「メタファーとしての個体」の欠陥が露呈している。
■ハラナがおもうに、「最も見習うべき国も日本」というのは、日本がすきで同一化したいとねがっているというより、モデルとして欧米をえらぶのは非現実主義的であり、東アジアのモデルケースとして試行錯誤をつづけてきた日本を無視するのは得策でないという、知恵のあらわれにすぎない。評論家氏、やはり、韓国にすかれているとおもいたいらしい(笑)。[15]
たしかに、一番嫌いな国として日本を挙げた人と最も見習うべき国として日本を挙げた人は、必ずしも同じではありません。ただ、反日的な報道を繰り返す韓国のテレビ局が、日本のテレビ番組のアイデアを盗用した番組を大量に流しているとか、韓国政府が制作した竹島のCMに、「独島の守護神」として登場したテッコンVが、日本のマジンガーZそっくりであるとか、普段自国内では日本の悪口を言っている韓国人が、海外に行くと日本人のふりをするとか、反日的な人が日本の模倣をするという個別事例はたくさんあり、したがって、「日本は嫌いだけれども、見習うべきだ」と考えている韓国人は、確実にいるといってよいでしょう。
憧れの対象が憎悪の対象でもあるというのは、一見すると矛盾しているようで、実は、そうではありません。例えば、今、あなたが男性だとして、ある女性に一目ぼれした後、彼女に彼氏がいることを知ったとします。その時、あなたはその彼氏に対してどのような感情を抱くでしょうか。一方で「あの男のように、彼女の愛を独占したい」という憧れの感情を持つと同時に、他方で「あんな野郎死んでしまえ」という感情も持つことでしょう。彼氏が死ねば、あなたが、彼女の愛を独占できるかもしれないから、この二つの感情は、同じものです。韓国人が、一方で「日本のような、アジア最大の先進国になりたい」という願望を持ちながら、他方で、「日本列島なんて沈没して無くなればよいのに」という願望をも持つのも同じ理由によります。
もちろん、韓国人が、日本の長所だけを取り入れるというのなら、問題はないでしょう。しかし、日本そのものになろうとすることはナンセンスです。本物の日本になることは、現在の日本が存在する限り不可能ですから、勢い、「日本人はみんな死んでしまえ」といった過激な反日思想につながってしまいます。だから、日本以外の様々な国の長所を参考にしながら、独自の国づくりをするというのが一番健全な方法でしょう。
原名さんが、「メタファーとしての個体」という言葉で何を言おうとしているのか、リンク先が切れているので、わかりませんが、たぶん、韓国と個々の韓国人は別で、韓国という国をあたかも一人の人間であるかのように精神分析するのはおかしいということだろうと思います。しかしながら、私がしようとしていることは、韓国という国と自己同一をしているナショナリストの精神分析ですから、この批判は当たりません。なお、断るまでもないことですが、韓国人が全員反日的というわけではないし、ナショナリスティックであるというわけでもありません。あくまでも反日的な韓国のナショナリストに対象を限定した分析です。
最後に、原名さんは、私の精神分析までしてくれているけれども、なんだか、ストーカー被害を訴えに来た女性に向かって、「お前は、本当は、自分がもてる女だということを自慢したいだけなんだろう」と言う警官みたいで、かなり的外れです。もちろん女性なら、男性にもてたいと思うでしょうが、だからといって、ストーカーに追い回されるといったことは、表層でも深層でも欲望していないでしょう。私も、日本が韓国が憧れるような国になること自体は、好ましいことだとは思いますが、だからといって、韓国が日本にストーカー行為をするといったことは、表層でも深層でも欲望していません。なお、「ストーカーは何を求めて付きまとうのか」でも書いたことですが、ストーカー行為は、パラノイア的な被害妄想に基づいており、反日的韓国人の日本批判も、ストーカー的性格が随所に見られます。
■さて、この「書評」の結論部は、こうむすばれる。
「……私は、韓国人の自我に向かって「未来志向の日韓関係」を呼びかける代わりに、韓国人のエスに向かって次のように語りたい。日本コンプレックスに固執する限り、いつまでたっても日本の劣化コピー以上のものになれない。日本など眼中にない独自の発展を遂げる国になって、初めて、韓国は自立した国になれる、と。」
■最後の「日本など眼中にない独自の発展を遂げる国になって、初めて、韓国は自立した国になれる」という箇所は、一片の真理はかたっているとおもう。
■しかし、「自分たち日本人が韓国人にいつも優位にたち、韓国人が劣等感にねざした愛憎なかばする意識にとらわれている」といった独断こそ、「精神分析」にあたいするとと、ハラナはおもう(笑)。[16]
本稿を書いてから、すでに5年以上が経ちました。当時と比べると、日本と韓国の差は、かなり縮まりました。分野によっては、韓国が日本を上回っています。そのため、今年は、日韓併合条約の締結100周年ですが、反日感情は高まっていません。
日韓併合条約の締結から100年となった22日、韓国の聯合ニュースは、サムスンやLGなど韓国を代表する企業が世界市場で日本企業を追い抜いたと指摘、「過去の対日コンプレックスを乗り越え、世界市場で日本企業を負かしたという朗報が、国民に希望を与えている」と伝えた。
韓国では、100年を機にした反日感情の高まりは、特段見られず、関心の対象が日韓間の過去の問題より、未来に向き始めているように見える。
背景には、経済やスポーツが好調なほか、今年11月の主要20か国・地域(G20)首脳会議や、2012年の「核安全サミット」開催国となるなど国際政治における地位も向上、国民の自尊心が満たされていることがある。[17]
韓国が日本を凌駕した事例として、世界最大の電機メーカーとなったサムスン電子や東アジアのハブ空港となりつつある仁川国際空港などを挙げることができます。これらは、たんなる日本の模倣ではないからこそ成功したのであり、韓国人は、将来、こうした成功により、パラノイア的な反日病から脱却できるようになるでしょう。
5. 参照情報
- 福原泰平『ラカン―鏡像段階』講談社 (1998/2/1).
- 山野車輪『マンガ嫌韓流』晋遊舎 (2005/7/26).
- 李栄薫『反日種族主義 ― 日韓危機の根源』文藝春秋 (2019/11/14).
- ↑Jacques Lacan.
De la psychose paranoïaque dans ses rapports avec la personnalité. Points (1980/4/1). - ↑福原 泰平.『ラカン―鏡像段階』. 現代思想の冒険者たち. 講談社 (1998/02). p.42.
- ↑福原 泰平.『ラカン―鏡像段階』. 現代思想の冒険者たち. 講談社 (1998/02). p.44.
- ↑「韓国大統領の元ブレーンが仰天発言」. チェ・ゲリラのメッタギリ時事評論. Accessed Date: 4/12/2005.
- ↑「政府報道資料」. Korean Missions Abroad A, Ministry of Foreign Affairs. Accessed Date: 4/12/2005.
- ↑「朝鮮戦争時の韓国軍にも慰安婦制度 韓国の研究者発表」.『朝日新聞』. 2002/02/23.
- ↑「あこがれと無念の情動 ハン」. 小倉紀蔵の私家版・韓国思想辞典.『統一日報』. Accessed Date: 4/12/2005.
- ↑櫻井よしこ. “「個人的怨念」で反日左翼路線を突き進む「盧政権」.”『櫻井よしこ オフィシャルサイト』. Accessed Date: 4/12/2005.
- ↑福原 泰平.『ラカン―鏡像段階』. 現代思想の冒険者たち. 講談社 (1998/02). p.81-82.
- ↑Sakaori. “Japanese Embassy in Seoul and watched from behind a bronze statue of comfort women" Licensed under CC-BY-SA.
- ↑原名高正「現代思想の悪用(韓国論・論)」『タカマサのきまぐれ時評』2005年04月14日.
- ↑原名高正「現代思想の悪用(韓国論・論)」『タカマサのきまぐれ時評』2005年04月14日.
- ↑原名高正「現代思想の悪用(韓国論・論)」『タカマサのきまぐれ時評』2005年04月14日.
- ↑原名高正「現代思想の悪用(韓国論・論)」『タカマサのきまぐれ時評』2005年04月14日.
- ↑原名高正「現代思想の悪用(韓国論・論)」『タカマサのきまぐれ時評』2005年04月14日.
- ↑原名高正「現代思想の悪用(韓国論・論)」『タカマサのきまぐれ時評』2005年04月14日.
- ↑読売新聞(2010年8月23日)日本企業負かしたから…韓国で反日感情高まらず
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私が言っている「自己去勢」は、コンプレックスを持っている人が、コンプレックスから解放されるためにするべきことであって、今回の例では、日本人ではなくて、韓国人がするべきことです。
現在、中国で反日運動が盛んになっていますが、これと、韓国での反日運動は少し異なるような気がします。日本統治時代に対する評価が、韓国人と台湾人の間で異なることからわかるように、中国人には、韓国人に顕著な、恨と呼ぶべきコンプレックスの意識がありません。これは、かつて超大国だった中国と、中国への服従を余儀なくされた朝鮮半島の間にあった格差を反映しているのかもしれません。
中国の反日運動は、政府の腐敗から、人民の目をそらすために行っているスケープゴーティングの性格が強いのではないかと思います。中国人も日本人も、怒るべきは、自分たちの腐った政府なのに…
永井さん、はじめまして。ラカンを日韓関係に援用されたこの文章に接しその方法があまりに乱暴なのでちょっと述べさせていただきます。
俗にも「他人はあなた自身の鏡だ。」といいますが精神分析にあっても例外ではありません。日本人が韓国人にとっての鏡像だとしたらその二者関係において日本人にとって韓国人が鏡像となります。だからこそ「転移」も起こるのです。少なくともラカンは分析者と被分析者の関係においてあなたのような固定的な想定はしていません。
「狂気は自由に対して《侮辱》であるどころか、そのもっとも忠実な同伴者でありますし、その動きに影のようについてまわります。そして人間の存在というものは、狂気なしには理解されないばかりでなく、人間がもしみずからの自由の極限として狂気を自分のうちに荷なわなかったら、それは人間の存在ではなくなってしまうでしょう」(ラカン、「心的因果性について」)
事実ラカンはあなたが触れている「ラカンの学位論文『人格への関係から見たパラノイア性精神病』の表題を後に人格とパラノイアが同じものだとの結論に到り自ら批判しています。つまりラカンの鏡像段階を援用するのであればまったく逆のベクトルからも論じなければ不完全でしょう。たとえば日本人はなぜ先の戦争で韓国人(あなたの論理展開に従えば当時は同じ大日本帝国臣民という同国人)に残虐行為をなしえたのかということを同じようにラカンの鏡像段階論を援用して論じることも可能であることは聡明な永井さんなら容易に想像がつくでしょう。要するにあなたのラカンの援用の仕方はあまりにも恣意的である、ということです。
ラカンは一般に難解だといわれています。自らの短時間セッションを論理化するためにラカンが提起したすこぶる興味深い『3人の囚人』の寓話にしろ、精神分析で主に「糞便、乳房、まなざし、声」として現出する『対象a』が黄金数であり、人間の現存在を鮮やかなフィボナッチ数列で説明するなど確かに一筋縄ではいかない思想家ですが日々の精神分析の経験のなかからその思想を育くんでいったラカンにとっては『他者』が終生のテーマであったとわたしは思います。(『大文字の他者』『人間の欲望は他者の欲望である。』)
永井さんのウェブ上のほかの試論編もいくつか読ませていただきました。(たとえば『他者は存在するのか』で永井さんはいきなり「自分に意識があるということは確実な事実である。」と恐らくは故意に挑発的に書かれていますが、遠くは荘子の胡蝶の夢からウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』にいたるまで自分に意識があるということはそれほど自明ではないというところから出発しています。そもそも自明ではないからこそデカルトがコギトについて思いをめぐらした意味があるわけです。そしてこの「我思う、ゆえに我あり」は、と思う「我あり」と思う「我あり」とどこまでも果てがなく、自分自身の存在根拠をその内部には持ちえません。ラカンもまた実践的精神分析の過程でこの自己言及の不能という人間存在のあり方に思いをめぐらし人間が人間になるためには他者を内在化するしかない、そういう存在として人間存在は規定されているということを人間の象徴化能力として明らかにしていったのだと思います。哲学者を自認される永井さんには釈迦に説法かもしれませんが。)
永井さんは「私は、韓国人のエスに向かって次のように語りたい。日本コンプレックスに固執する限り、いつまでたっても日本の劣化コピー以上のものになれない。民族単位の団体戦を止め、個人戦に切り替え、日本人など眼中にないと言えるようになって、初めて自分自身の主人になれる、と。」と結論付けられていますが言葉を言い換えれば韓国人に向かって国民国家観に縛られるな、と主張しておられると思います。ところがこの永井さんの論考自体が国民国家観にすこぶる縛られたものとなっているのではないでしょうか。これでは韓国人ならずとも「余計なお世話、あんたにそんなことを言われる筋合いはない。」と不毛な議論に陥るのが関の山でしょう。これではラカンが目ざした黄金数としての『対象a』をお互いに見出すことなどできません。
また永井さんは恨(ハン)についても触れられていますが、あまりにも皮相です。朴政権時代に死刑判決を受け抵抗派詩人と呼ばれた金芝河(キム・ジハ)にとても優れた恨(ハン)についての論述があります。ここでは長くなりますので詳述しませんが彼が描く恨(ハン)という思想の豊かさとあなたがこの論考で援用されている「ハン」の内容的貧しさについてぜひ思いをめぐらしていただきたいものです。
多くの日本人にとって、鏡像的他者は、韓国ではなくて、アメリカです。例えば、石原慎太郎の反米感情は韓国人の反日感情と構造的に同じです。石原慎太郎は、本当はアメリカに憧れています。彼は、日本をアメリカのような世界最大の覇権国家にしたいからこそ、アメリカが邪魔で、アメリカを攻撃します。最近では、彼は中国叩きをやっています。これは、日本を中国のような「将来の超大国」にしたいという願望の表れです。しかし、彼は韓国叩きはあまりしません。これは、韓国には憧れていないということを意味しています。
ラカンは、当初大文字の他者Aを超越的に考えていたようですが、後にはAに斜線を引いて、それを否定しました。私も、自分が超越的な存在であるとは、全く思っていません。しかし、だからといって、転移を推奨するわけにはいきません。転移性治癒は本当の治癒にはなりません。
経験的意識と超越論的意識を混同しているようですね。自分が荘子なのかそれとも胡蝶なのかといった問いは、経験的自我に関する問いであって、超越論的自我に関する問いではありません。超越論的意識が自己同一性を持たなければ、そもそもこうした問いそのものが発生しません。
ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』で「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」(5.6)と言っています。あれは一種の超越論的哲学です。
また、デカルトは、自我の自明性を疑うことから思索を出発させたわけではありません。自我以外の物を疑い、自我の自明性によって懐疑を否定しました。
なお、超越論的意識は、超越的意識ではありません。超越的であるならば、意識など不要のはずですから。
他者とコミュニケーションする時、いったん他者の立場に立って、相手を理解し、それから自分の意見を述べなければなりません。自分と他者が異なる以上、他者の立場に立つ段階で矛盾をおかすことになります。しかし、その矛盾を嫌って、悟性的自己同一性に固執し、自分の考えを外側からぶつけていては、コミュニケーションが成り立ちません。自己を否定して、相手を理解し、それからそれをさらに否定して自分の意見を述べるという弁証法的運動が必要なのです。
armadilloさん自身は、恨をどのように認識しているのですか。
永井さんはじめまして、よく読ませていただいてます。
私は、armadilloさんの「永井さんは恨(ハン)についても触れられていますが、あまりにも皮相です。」には、同じ意見です。
恨とはもちろん字義通りの”恨み”ではなく、むしろ、恋愛や生活の困難などの障害を苦しんだ、耐え忍んできたということへの苦労や煩悶の感情を、共感を呼び起こすような、涙を誘うような情感を指すといえます。ですから、恨は歌や詩、あるいは文章などの表現のなかで表出されることがほとんどです。また、特定の他者に対するコンプレックスを前提とした恨み、ねたみ、そねみではありません。生活感ある庶民的なもので他者への攻撃的な感情ではないです。概念として拡張されていく可能性もありうるでしょうが政治や他国への非難に向けられるのはほとんどないのではと思います。小倉紀蔵先生の恨の定義が引用されてましたが、内容はそのとうりですが、実際にどういう場面で使われる概念かを知らないと正確に把握できません。
>>日本は、朝鮮半島を、清の桎梏から解放し、ロシアの脅威から守り、近代社会へと育て、そして、朝鮮人たちは自らを大日本帝国臣民に同一化しようとした
その同一化には日本を憧れ・理想の対象と捉えたうえで、ということですか?日本には憎しみを持っていながら生きるために従うのが得だから同一化したというのが本当でしょう。
憧れをもっているなら日本も憧れを持つ国であるアメリカに被害妄想的発言をしているはずですがそんなことはないですね。憧れをもつといえば、明治期の日本の西洋への憧れは今の韓国から日本への憧れと比べ物にならないくらい大きいでしょう。となると、当時日本は西洋諸国に被害妄想的対応しているはずですが今の韓国のようなことはしていません。
また、コンプレックスは憧れと憎しみの相反であり、これは鏡像関係にあるからということでしたが、ここで憎しみに相当するハンがあるとありましたが、日本への憧れによって憎悪がでてくるのですから、憧れによってハンがでてくるということですか。ハンは日本との関係だけで用いられるものではないでしょう。鏡像関係におけるコンプレックスのなかでハンを論じるならハンは対日本での概念に限られることになってしまいます。
どうも鏡像関係で論じるのは無理があるとおもいます。なぜ、被害妄想が発生するのか。被害妄想は被害を受けたのち、別原因の被害も同一犯と決めつけるものといえます。それだけ前の原因が反復・強烈ならよりそうなるでしょう。韓国は秀吉に侵略され、併合されています。併合時代の出来事がどうあれ、大きな被害でしょう。被害の歴史があるためまたかと思います。さらに、負けてばかりの日本に勝ちたいと思っておりそれが強いライバル心を生んでいます。だから、被害妄想が生じます。
また、発生したとしても、なぜ被害妄想を主張し続けるのか。私は、弱者の特権だからだと思います。韓国は被害の歴史から平和時の現在でも大国の日本を攻撃できるという特権をもちます。大体弱者のほうが強くでられることが往々にしてあります。債務者が債権者より強い、とかいろいろ見られます。そして、弱者はその特権を捨てようとしません。弱いままの地位を保とうとします。なぜなら、強者に攻撃材料を失った弱者はむき出しの弱者になるからです。したがって、竹島問題などや多くの戦争被害と直接関係しない問題に戦争被害を絡めて非難してくるのはそういうことだと思います。日本への憧れはあるのは間違いないですが、それだけで解ける問題ではないでしょう。憧れは台湾・中国の若者も持っています。しかし、日本への被害妄想はないです(共産党の反日教育により被害妄想的な主張も見られますが、憧れからではない)。そして、日本が、憧れを持っていた(いる)西洋文明やアメリカに被害妄想を持たないのは圧倒的差がある強者なので被害妄想を言っても通用しないからです。また、中国や台湾が憧れを持つ日本に被害妄想を言わないのは、中国は大国で日本より強者だし、台湾は歴史の経緯から親日的だから日本と弱者・強者の対立関係に無いからだとおもいます。翻って、韓国は日本に対して弱者だが両者に圧倒的な差はなく、近年は発展して差が以前より埋る方向にあるので、力関係から文句が通用しうるからです。さらに、日韓は地理的に上記国々よりも近くそれ自体が緊張感を生み出し弱者である韓国は日本ウォッチし続けるのは当然でしょう。要するに、一方的かつ圧倒的な被害体験とそれによるライバル心、今も弱者である、両国の地理的な近さ、が韓国の他国には見られない被害妄想の原因でしょう。
同一化したいほどの憧れという鏡像関係がそもそもあるでしょうか。ライバル心による日本への異常な執着心のほうがよく説明できます。国際問題も擬人化して精神病理学で考えるのは否定しませんが、イメージ的かつマクロ的にしか捉えられないのではないでしょうか。鮮やかに説明できるために理解できたと決めつけに陥る恐れがあると思います。永井さんの理解では憧れを持っているからごちゃごちゃいってくるんだ。自分の道を進めよと聞こえます。そういう理解では韓国から非難されたとき日本は非難する口実を減らそうとするんではなく、軽蔑的にみて余計に韓国を挑発しより解決しない方向になるかもと危惧します。
長文すいません。非常に勉強になるサイトです。
「恨」によって指し示されている感情は文学の世界にのみ登場するような「皮相な」感情ではありません。それは、韓国人にとってもっと根源的で、基礎的な感情です。ですから、政治やナショナリズムの分野でも「恨」は無関係ではいられません。
引用した小倉紀蔵さんの文章の続きには、こう書かれています。
この「他者に転嫁する怨恨」としての「黒い恨」をどう説明しますか。
憧れることが必ずコンプレックスを生むとは限りません。単純に憧れるというケースもあります。
そうです。長い間、朝鮮人にとっての憧れの対象は、中国の高い文明でした。近代以降、ハンの対象が、中国から日本に変わってしまいました。
秀吉の文禄・慶長の役は侵略戦争だったと思います。しかし、あの時代には、強者が弱者を征服するのが当たり前だったわけですから、現在の基準で非難するのは意味のないことです。日本人も、元寇の被害にあったからといって、モンゴル人に対して被害者意識を持つことはありません。
日韓併合は、韓国にとって被害ではありませんでした。少なくとも合併によるメリットの方がデメリットよりも大きかったのが事実です。もしも、私が当時の朝鮮人ならば、日韓併合に賛成していたでしょう。同様に、もしもアメリカ合衆国が日本を51番目の州として併合すると言うのなら、私は賛成します。強国の植民地となるよりも、強国の一部となったほうがメリットが大きいからです。
単純に憧れている場合には、被害妄想など生じません。しかし、憧れがコンプレックスになると、生じることがしばしばあります。例えば、石原慎太郎は、アジアの通貨危機がアメリカの陰謀だというようなことを言っていました。
私は「民族単位の団体戦を止め、個人戦に切り替え、日本人など眼中にないと言えるようになって、初めて自分自身の主人になれる」と書きました。憧れは努力目標として必要であり、捨てるべきではありません。私が言っていることは、韓国を日本並みにするという、個人の努力では実現しない(だからコンプレックスになる)ことを努力目標とせずに、個人の努力で実現できる、個人単位の憧れを持つべきだということです。
日本人は、欧米人と比べると集団主義的ですが、韓国人と比べると個人主義的です。以下は、日本に留学した韓国人の感想。
まず、私は永井さんの結論には賛成です。ただ、韓国が憧れは持っているものの、同一化したいほどの憧れが日本に対して果たして持っているのか疑問に思うわけです。ですから同一化したいほどの憧れとそれゆえのコンプレックスからなる鏡像関係はないんではないかと思ったわけです。そして、韓国の特異性は鏡像関係ではなく、地理的関係と民族的な近さと一方的被害の歴史という関係性が原因で強烈なライバル心や敵対心が生じそれが被害妄想となると考えました。
なるほど、勉強不足でした。ただ、日本に対する強くでてくる、こちらからは被害妄想的にみえる政治的な主張や賠償などの主張はハンによるものなんでしょうか。
彼らはまっとうな主張をしていると思っているのではないでしょうか。まさか自分で被害妄想的だと思ってはないのでは。こちらからみて主張が被害妄想的に見えハンによるものだと思えても、あちらは正当な主張と思っておりハンではなく敵対心ではないかと思いますがどうでしょう。
もちろんそうですね。
鏡像関係は同一化したいほどの憧れとその反動からくるコンプレックスという関係で、憧れが強ければ強いほど成立する関係と理解しました。日本は豊かになったのでアメリカに特段の強い憧れはないでしょうが、明治期の日本は西洋に対し今の韓国の日本に対する憧れよりはるかに強かったのではないかと思いますが被害妄想は無かったですね、なのに韓国はあるということは鏡像関係での説明が妥当してないと思われます。
文禄・慶長の役は元寇の被害とは比べ物にならないと思います。現在の基準で非難するのは意味のないことですが、被害者意識を持ってもなんら不自然ではないと思います。それ一回なら被害者意識も消えるでしょうがまた併合もあったので、この二つは相乗効果として被害者意識を持っているのだと思います。つまり上でも述べたように一方的被害の歴史から被害者意識をもつのだと思います。ハンやコンプレックスではないと思います。
他国に国を取られることは被害ではないのですか。実利だけでは語れない事柄だと思います。
私は永井さんのおっしゃる同一化したいほどの強い憧れがあるのだろうかと疑問に思います(憧れはもっていますが)し、被害の歴史に関わらず依然として力関係の差があるということで説明可能ではと思います。鏡像関係で説明するのは単純化しすぎているような気が失礼ながらするのです。
憧れが強いかどうかということとコンプレックスになるかどうかは関係がありません。むしろ、その人のパーソナリティーによります。
日韓併合については、例えば、これでも読んでみてください。
当時の大韓帝国は、1997年の韓国と同様に、経済的に破綻しており、日本は、IMFが1997年以降やったのと同じような仕事をしたのです。韓国を被害者というのはいかがなものでしょうか。
日韓併合に賛成していた朝鮮人たちは、大日本帝国の一部となることで「世界の一等国」の仲間入りができると喜びました。彼らは、たんに実利だけを求めていたのではありません。長い間中国に朝貢していたマイナーな民族、朝鮮人にとって、「世界の一等国」であることが「理想的な状態、あるべき姿、いるべき場所」なのです。ところが、戦後、大日本帝国が解体され、韓国が日本から分離独立すると、彼らの国は、再び世界の二等国へと転落し、「世界の一等国」という「理想的な状態、あるべき姿、いるべき場所」から疎外されます。そして、小倉さんが言うように、「理想的な状態、あるべき姿、いるべき場所」から離れることが、彼らのハンを積もらせるのです。
韓国人が、世界の一等国というもとの状態に戻るには、日本を乗っ取らなければなりません。世界の一等国である日本から日本人を追い出し、自分たちのものにしてしまえば、自分たちは世界の一等市民になれる。これが韓国人たちの願いです。彼らは、中田英寿や稲本潤一が世界のメディアから注目されると、在日認定を行い、サムライ、剣道、折り紙、盆栽などが海外で注目されると、起源は朝鮮半島にあると言い出します。世界的に評価される日本のものは、すべて自分たちのものにしたいのです。そして、これも彼らのハンが成せる業なのです。
世界の一等国としての日本になりきろうとするあまり、韓国は日本の鏡像的他者となり、韓国が日本に対してしていることが容易に日本が韓国に対してしていることへと鏡像的に反転してしまいます。先日起きた韓国漁船逃走事件でも、韓国人は、違法操業を行った上で、乗り込んできた海上保安官を羽交い締めにして拉致しましたが、こうした加害行為を鏡像的に反転させ、自分たちは被害者だと主張し、謝罪と賠償を求めています。フロイトは、ぶった子がぶたれたといって泣き叫ぶという事実を指摘していますが、韓国人の行為もそれにぴったり当てはまります。
もう一つ例を挙げましょう。韓国人は、日帝時代に、民族文字であるハングルを禁止されたと主張していますが、これは間違いで、むしろ、韓国人の方が、独立後、日本語の使用を禁止しました。言語抹殺をしている側が、言語抹殺をされたと主張しているわけです。一般的に言って、韓国人の主張は、「韓国」と「日本」を入れ替えると正しい命題になります。これを鏡像的関係と言わずして、何というのでしょうか。
『八幡愚童訓』によると、「百姓等は男をは或は殺し、或は生取りにし、女をは或いは取り集めて、手をとおして船に結付、或は生取りにす、一人も助かる者なし」。対馬や壱岐に上陸した元寇は、武士はもちろんのこと、無垢の百姓までを殺害し、生き残った人の手に穴をあけ、そこにひもを通して、船のへりに鎖のように結び、助かった人は一人もいなかったそうです。
なお、元に日本遠征を勧めたのは、当時朝鮮半島の属国だった高麗でした。「高麗王は、元寇の日本侵略に率先して荷担していた」
興味深く読ませていただきました。
エメに象徴されるような「幻想」に見られるような非対称な関係が、なんらかのかたちで「韓国」と「日本」の間にある、という点についてはうなずけました。
ラカンについてそれほど知っているわけではないのですが、ぼくは「同一化」というイメージよりも「他者のまなざし」といったイメージから理解しました。
たとえば、永井さんが書かれた文脈での「韓国」と「日本」でいえば(様々な文脈での「韓国」と「日本」があるので)、「韓国」は「日本」に同一化しているというよりは、「日本」というものが「韓国」にとってつねに自分自身を正当化しなければならない「他者」として設定されている、という印象を受けました。
ぼくはラカンの文脈での「他者」という言葉を、ある人間が自分自身の境遇に責任を取ってくれるはずの誰かとして指定する幻想的な位置、といった風に理解しています。
ということから、僕は「同一化」ということばを、幻想的に指定された他者を対象とするものではなく、「責任を取ってくれるはずの他者」と自分自身との関係という、その総体としての「幻想」を対象とするものとして考える方がいいのではないか、と感じたのでした。
もちろん解釈の仕方によっては、どちらも同じことだ、といいうるわけですが、このように言い換えることで見えてくるものもあるような気がします。
このような「幻想」において存在し始める「他者」と主体との関係にはたぶんいろいろあるのだと思います。
そのうちの一つが、エメあるいは「韓国」において永井さんが見出したもので、つまり「他者が私から大事なものを奪っている」といった形の幻想なのだと思いました。
また別の形においては、「他者」がより内面化され、超自我のような形で自己に命令を下してくる、という場合もあると思います。
この場合、たえずある「疚しさ」というものが生じると思います。
つまり、「他者」の要求に応じることのできない自身の不完全さに関する意識(無意識)です。
この意識は抑圧されることになり、どこかに投影されることになるのだと思います。
このことは、自分自身でははっきりと意識化していない自分自身の欠点をもっている他者を過剰に憎む、というよく見られる事態に現われるという気がします。
これはかなり恣意的なイメージなので適当に聞き流してもらってかまわないのですが、大日本帝国時代における「日本」とっての「アジア」(「韓国」、「中国」など)は、西洋という「他者」のまなざしをとおして生じた疚しさ(抑圧された非開化の感情)が外部に投影される際の落ち着き先になった、というイメージを僕はもっています。
前に朝日新聞で、いつの時代のものかは忘れましたが日本軍が「開化石鹸」というもので「遅れた」中国人(毛のはえた動物の形象で表現されていました)を洗い流している、という昔の風刺マンガが掲載されていたのを見た記憶があります。
そして、この「中国人」像は、抑圧された自己像なのだろうと僕は理解したのでした。
という理解があって、もちろんそれに還元はできないのだとは思いますが、「韓国」あるいは「中国」に向けられる「日本」の憎しみのうちには、上に述べたような「疚しさ」の外部への投影、という部分がいくらかは入り込んでいるのでは、と考えています。
言い換えれば、「韓国」と「日本」のそれぞれ別の「幻想」がいわば構造的なカップリングを形成している部分もあるのではないか、と。
まあこれはいくらか妄想みたいなものかもしれませんが。
あと、永井さんは「自分自身の主人」になることの必要性というものを強調されています。
そしてその過程として、「自発的去勢」というものに可能性を見出されているように思えました。
この言葉で正確にどのようなことをイメージされているのか僕にはつかみかねたのですが、「自分自身の主人」になるということについては別のイメージも可能かと僕は思いました。
ここでまた、「他者のまなざし」というイメージが生きてくるわけですが、「自分自身の主人になっていない状態」というのは、「幻想」のうちで設定された「他者のまなざし」に従属していることだと僕は理解しました。
そしてラカンがこの「幻想」にたいする「治療」として想像しているのは、「自発的去勢」というよりは、「幻想の横断」というものなのだと僕はおもっていました。
これがどういうことなのかというと、つまり「自分のすべてをまなざしてかつ責任を取ってくれる他者などどこにもいなかったのだ」、あるいは「他者のまなざしは自分で作り上げた幻想であったのだ」といった「現実」と直面していくことだ、と僕はなんとなく抽象的に理解しています。
そのための過程として精神分析医への「転移」が利用されるのだとおもっていたので、永井さんがそのような「転移」による治療は無意味だとおっしゃられていたのを読んで少し意外に思いました。
「幻想の横断」についてのイメージは、たとえばスラヴォイ・ジジェクという人がすごく強調していた覚えがあります。
あと、永井さんは哲学(特にドイツの)についての造詣が深いようなので、アレンカ・ジュパンチッチという人の『リアルの倫理』という本などが、「幻想の横断」としての「倫理」に近いことを語っているものとして、すごく近くに感じられるのかもしれません。
と勝手な想像を長々と書いてしまい失礼いたしました。
日頃から、感じる日本に対する鬱屈した感情に対してどうしても自分自身に説明が出来なかったことに関して、“鏡像”は“一つの理論的な”説明を与えてたと思います。関係する皆さんの活発な意見の交換も、色々な考え方があるなあと思って読みました。
このコメントに対しても、“貴方の意見は云々”と、又、コメントを頂くこともあるのかもしれませんが、良いじゃないですか。私は“鏡像理論”が納得行く説明だと思ったのですから。
これまでの仕事で、個人的に韓国の方、中国の方、本土ではないけれどもアジア諸国に暮らす華僑の方、華人の方・・仕事をする上で、そもそも違う表面的な商道徳・習慣に差が有りますが、どちらが良い・悪いではなく
気を使ってやってきましたが、個人的に皆その立場で努力をされていて、
(こちらもそうですが)何とか良い関係を、それも永く続けたいという気概でやっていますよ。だけど、個人レベルを超えてしまうと、“日帝何年の・・”となってしまうんですよね。事実として。商売上こじれてくると、少しでも優位に立つ材料が欲しくなってしまうのでしょうか?
悪人は、どこの国にも居ますよ。日本では殺人事件や、猟奇的な事件が全く無いわけではないし、逆に増えていますよね。
今これを書いているのが、北京五輪の前ですが、韓国と北朝鮮は協働で応援団を送るというような報道を見て、南と北の関係(捻れていると思うのですが)を分かり易く説明してくれる人いないかなあと期待しています。
蜂谷某の記憶や、ラングーンでの工作やの記憶は、秀吉の記録よりも遠くに行ってしまっているのでしょうか?
金烈圭の区別を援用するならば、北朝鮮に対しては「白い恨」、日本に対しては「黒い恨」ということでしょう。