9月 302005
 

Toki Pona: 永井俊哉氏について」に対するコメント。システムの超領野的研究が必要なのは、部分について知るには、全体を知らなければならないからであり、また、部分を改善するには、全体を変えなければいけないからです。

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私がシステム論の研究でやろうとしていることは、古代においてアリストテレス(左)が、中世においてトマス・アクィナス(中央)が、近代においてヘーゲル(右)がやろうとした学の統一を現代において行うことである。

長沼さん曰く、「彼の理論は正しい点もありますけど、正誤以前に面白くないですね」とのことです。

多分長沼さんは、私が書いた『無形化世界の力学と戦略』の書評の部分だけをお読みになって、そうおっしゃったのでしょう。私自身、あの書評が面白いものだとは思っていません。

吉岡さんも不満そうながら永井氏のルーマンの理論の解釈に一定の評価を与えていることからも明らかなように、横断的な知識が豊富な人だと思います。問題は「で、結局何がやりたいの?」というところに尽きると思います。長沼さんが「面白くない」と言われたのは多分そういう意味だったのではないかと想像します。

私の研究の目標はシステムについての包括的研究で、その目的は、抜本的かつ整合的な社会システム変革のための理論的基礎を提供することです。

システムは、一つをいじると、他が狂ってくるというように、相互依存性が高いので、社会システムを変革する時、専門家が、一面的な知見に基づいて、部分的な修正を加えるやり方は、しばしば好ましくない結果を帰結したり、一時的な弥縫策に終始することがあります。同じことは、変革されるべきシステム(社会システム)についてだけでなく、変革するシステム(知のシステム)についても言えます。社会システム、さらにはシステム一般についての包括的(システム的)知識が必要なゆえんです。

追記(2005年10月11日)普遍的理論を構築するにはどうすればよいのか

Toki Pona: 永井氏の自分の評論への応答について」に対するコメント。普遍的で包括的な理論を構築するにはどうすればよいかという質問に対する答え。

永井氏のサイトに記述されているほど豊富な知識が、システムの包括的研究に必要不可欠なものなのでしょうか? そして、もし必要不可欠なのであれば、それらの知識をどのように利用してシステムの包括的研究を行なうべきなのでしょうか?永井氏の各文章を読むと、逆にシステムの包括的研究成果を通して各分野を分析されているように感じます。自分自身様々な知識を吸収することにより(もちろん永井氏の知識の脚元にも及ばないほど狭量で稚拙な知識ですが)何か包括的な成果を得たいと思ってきましたが、具体的にどうすればよいのか悩んでいる故の疑問です。

システム論を研究するとき、システム論を研究しているという意識をまず捨てることが重要です。目標を立てて、計画通り進める研究ほどつまらないものはありません。むしろ、計画通り行かないところが学術研究の醍醐味です。

ある成果を得ようと実験をしたところ、思わぬ発見をしたり、ある知識を得ようと本を読んだところ、別のテーマで新しいアイデアが閃いたりするということがよくあります。

学校教育がガイド付きのパッケージツアーだとするならば、在野での自由研究は、ジャングルの中の冒険といったところです。興味のおもむくまま、縦横無尽に冒険しながら、後で包括的な地図を描けばよいのです。前者では、不確定性が小さい分、それを縮減する価値も小さくなるのに対して、後者では、不確定性が大きい分だけ、それを縮減する価値は大きくなります。

方法としては、哲学を勉強することをお勧めします。哲学それ自体は、抽象的で無味乾燥ですが、具体的な経験科学をいろいろ勉強することと哲学の勉強をすることとを交互に繰り返しているうちに、普遍的な理論を作ることができるようになります。

追記(2005年12月17日)システム一般をどう定義するべきか

数学屋のメガネ:機能としてのシステムの定義」に対するコメント。システムの定義において、機能が先か、構造が先かという問題を取り上げます。

僕は、システムのイメージを宮台氏の説明で頭に描いていた。それは、部分要素を持った集合体で、その部分の間に「互いの存在の前提を供給する」というループの構造を持ったものとして登場してきた。これは集合体としての実体に構造がプラスされて考えられていると受け取った。実体と機能の両方が統一されているものがシステムという感じがしていた。

たしかに、宮台さんは、

「システム」とは複数の要素が互いに相手の同一性のための前提を供給し合うことで形成されるループ(の網)です。最単純にはAがBのための前提を供給し、BがAのための前提を供給する「前提循環」ないし「交互的条件」づけがあるときシステムが存在します。

と言っています。しかし、これは「社会システム理論がシステムをどう概念化しているのか」に関してのルーマンの「有機体的システム概念」の紹介という文脈で出てきています。そして、前後を読んでわかることは、ここで謂う所の「有機体的システム概念」とは、ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・ヴァレラのオートポイエーシスのことであって、システム一般の定義ではありません。

ただ、宮台さんの説明を読むと、この定義は、有機体的なオートポイエーシスというよりも、むしろ、ダブル・コンティンジェントな社会システムのあり方の説明ではないかと思います。オートポイエーシスというのは、「三つ子の魂百まで」というような、自己準拠的な自己再生産であって、環境との相互作用とは逆の概念ですから。

そう断った上で、「複数の要素が互いに相手の同一性のための前提を供給し合うことで形成されるループ」の最単純なケースを数学的な対応例で考えてみましょう。

y=2x
x=2y+1

という二つの関数では、x=1とすると、y=2となり、y=2とすると、x=5となり、x=5とすると、y=10となり…というように、いつまでたっても関数の値が決まりません。変数によって関数が一意的に決まるがゆえに、一意的に決まらないというパラドックスが生じます。

もちろん、時系列にそって、x1=1, x2=5, x3=21… というように、番号振って、差別化すれば、矛盾もパラドックスも生じなくてすむのですが、xやyが人間の場合、超時間的な同一性が社会的責任として要求されます。約束を破った人が、自分の言動に番号を振って、「それは“私1”の発言であって、今の“私2”とは関係がない」などとは言えません。ですから、社会学においては、相互に相手の選択が自己の選択の前提となっているダブル・コンティンジェンシーは、パラドキシカルな様相を呈して、学問的関心を惹きます。

私は、以上のようなダブル・コンティンジェントな社会システムを「他者準拠型の複雑系」と名付けました[複雑系としての社会システム]。それは、複雑系全体を包括するわけでもなければ、ましてや、システム一般と同一視することはできません。相互に相手を変数として含むことが、関数一般の特徴でないように、「複数の要素が互いに相手の同一性のための前提を供給し合うことで形成されるループ」は、システム一般の特徴ではありません。

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  2 コメント

  1. 今私は『政党の将軍学strategology of party』という試論を書いています。戦略・戦術概念によって政治体の存在と当為を統合できると思ったからです。現状の日本政治の批判でもあります。私は大学中退者なので何かの新人賞にでも応募しようかと思っていますがこの国は「オリジナルな」論は日の目を見ることは非常に困難です。
    永井先生のウェブ活動は非常に尊いことだと思います。下手な大学より教育的効果が高いのではないか。私は日々啓蒙されています。

  2. フィクション系以外の分野での新人賞はあまりないでしょう。どこに応募するつもりなのですか。

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