近代知と現代知

2018年8月25日

自遊日記: WEB.2と植物の認知システム」に対するコメント。なぜ近代知は生物を機械とみなそうとしたのに対して、現代知は植物にまで意識を見出そうとするのかについて。

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集権化(左)と分権化(右)。”Graphical comparison of centralized (A) and decentralized (B) system” by Kes47 is licensed under CC-BY-SA

近代西欧社会において理性に比べて低いものと見なされていた感情、人間(動物)よりの低級とされていた植物が、まさに理性の発現の一つである自然科学の発展によって、その構造が明らかにされてきたというのは、実に面白いパラドックスである。

近代においては、植物はもとより、人間をも含めた動物までもが、たんなる機械に成り下がりました。いわゆる人間機械論です。世界から精神的なものが剥ぎ取られ、デカルトにおいては、精神は、物体とわずかに松果腺(脳の一部)でつながっているにすぎません。

このモデルは、当時の王権神授説に基づく絶対王政の構図と同じです。中世では、分権的だったのが、近代になってから中央集権化が進みました。王国内の封建領主や僧侶から権利が剥ぎ取られ、神聖な権力は、臣民とわずかに国王でつながっているにすぎません。

その後、近代的な中央集権化は否定され、民主化が進みましたが、それと平行して、心身二元論が批判され、人間機械論も否定されるようになりました。現代の哲学では、心身は切り離せないという考えが主流です。その政治学版が主権在民の思想です。

最近の研究によると、人間の情報処理は脳だけがやっているわけではなく、心臓にも脳のような機能があるということがわかっています。そして、植物の情報処理のメカニズムも徐々に解明されています。このように、政治システムにおいて意思決定が分権化する一方で、情報システムの分権的な情報処理のあり方が発見されるという現象は、知識社会学的に興味深いものです。