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植物型情報システムの時代

2006年4月17日

動物の神経システムが求心的であるのに対して、植物の情報伝達システムは分散的である。従来のマスメディアが中央集権的に管理されているのに対して、インターネットは脱中心化されている。だから、マスコミに代わってインターネットが台頭しているということは、人類の情報システムが、動物型から植物型に移行しつつあるということである。なぜこのような現象がおきるのか、その時代背景を探ってみよう。

Image by LoggaWiggler + Gordon Johnson from Pixabay modified by me

1. 植物の脱中心化された情報システム

イタリアのトリノ大学とドイツのマックスプランク化学生態学研究所の生物学者たちによって、植物が害虫を撃退する巧妙な手法が報告された。アオイマメは、葉を食い荒らす害虫の存在を感知すると、ラべンダーのようなハチ好みの香りを発して害虫の天敵であるスズメバチを呼びよせ、彼らに害虫を食べさせたり、卵(孵化すると害虫を殺す)を注入させたりして身を守る。また、トウモロコシ、クランベリー、インゲンマメなども、同様の防御反応を示すとのことである[1]

米学会誌『植物生理学』の2004年4月号に掲載された彼らの論文によると、害虫によってかじられた部分では、カルシウムイオンが細胞内に急激に流入して、膜電位(細胞膜の内側と外側の電位差)の強い脱分極が起き、そしてこの脱分極の波動は、葉全体に等方に広がった。興味深いことに、葉に機械的な損傷を与えた時には、害虫が葉をかじった時と同じ反応は起きなかった[2]。このことは、アオイマメが、害虫による損傷を、他の損傷から区別して知覚しているということを意味している。

イチジクも自己防衛のためにユニークな行動をする。「イチジク(無花果)の実」と間違って呼ばれている「イチジクの花」には小さな穴があって、イチジクコバチはその穴から中に入り、卵を産みつけ、その代わり、受粉の手助けをする。ところが、イチジクコバチの中には、まだ花粉の準備ができていない未熟な花の中に入って、卵を産む不心得者がいる。イチジクは、こうした互恵関係を無視した不心得者に対しては、卵を産み付けられた花を早々と切り落とし、その子孫を全滅させるという報復を行うことが確認されている[3]

植物には、記憶力まであるという報告がある。植物にポリグラフ(うそ発見器)を付けた実験によると、一度火を近づけて脅すと、植物は、その人物がマッチに火をつけようとしただけでも同じ反応を示した。また2鉢の植物と6人の助手を使った実験では、ある助手が一つの鉢の植物を引っこ抜くと、目撃者のもう一つの鉢の植物は、その助手を目の前にした時だけ反応を示した[4]

多くの人は、神経がない植物には、刺激を知覚したり、記憶したり、それらに基づいて反応したりする能力はないと考えている。たしかに、植物には、情報の伝達機能に特化した神経も、入力と出力の中継と記憶に特化した中枢(脳と脊髄)もないのだから、植物が、刺激を知覚し、それに反応するという動物的行為を行うことはないと思っても無理はない。しかし、植物の葉の細胞で起きている出来事は、動物の神経の細胞膜で起きる興奮の伝導と同じであり、専門的な神経はないものの、葉の細胞全体が神経と同じような役割を果たしながら、情報を伝達し、その結果、植物は、刺激に対して立派に反応することができる。

植物には、刺激の伝達機能に特化した神経だけでなく、刺激の受容機能に特化した受容器もないが、刺激を受容する能力はあると考えられており、大場秀章(東京大学総合研究博物館教授)は次のように語っている。

現在少しずつわかってきたことは、植物には特定の感覚器官はないが、あらゆる部分が感覚器官になっていると考えざるを得ないということである。つまり、眼や耳、口という特定の感覚器官はないのだけれど、例えて言うなら、植物はあらゆる部分が目であり耳であり、口である。[5]

2. インターネットは植物的メディアである

人間社会を一つのシステムとして見た場合、その情報システムのあり方は、近代から現代に向かって、動物型から植物型へと変貌しつつあるように見える。近代の中央集権的な絶対君主制のもとで、情報から疎外されていた一般大衆は、民主化のプロセスで、しだいに情報の受発信に参加するようになっているからだ。

とりわけ、70年代後半から始まった情報革命では、動物型から植物型への脱中心化の流れが顕著である。大雑把に言って、この脱中心化の流れには、三つの大きな波があった。第一波は、1980年代における《情報処理の脱中心化》であり、第二波は、1990年代における《情報発信の脱中心化》であり、第三波は、2000年代における《情報編集の脱中心化》である。

1980年代における情報処理の脱中心化を象徴するのがメインフレームからのワークステーションやパソコンなどの小型コンピュータの独立である。ユーザは、かつては、処理装置や記憶装置を搭載しいない端末から中央のメインフレーム・コンピュータを利用していたが、パソコンの普及により、各個人が自分で情報処理をすることができるようになった。また、80年代には、家庭用ビデオデッキの普及のおかげで、それまでテレビや映画館といった中央主権的なメディアの受動的な消費者にすぎなかった視聴者が、自宅内で、好きな時間に好きなコンテンツを選択的に消費できるようになった。さらに、ワープロの普及により、個人が、従来の中央集権的な印刷所を経ずして、自宅で、印刷物を作成することができるようにもなった。

1990年代になると、パソコン通信が、続いてインターネットが流行し、自前の情報処理能力を獲得した個人が、自前の情報発信能力までを獲得する。それまで、不特定多数の人々に情報を発信しようとするならば、放送局や出版社といった中央集権的なマスメディアを媒介とせざるをえなかったのが、パソコン通信とインターネットの普及のおかげで、プロでなくても、あるいは高額な広告料を払わなくても、誰でも世界に向けて情報発信ができるようになった。パソコン通信では、文字情報しか送れなかったが、インターネットでは、自前の機器で製作した写真・音楽・動画まで自前で公表できるようになった。

従来のマスメディアが動物的なメディアであるのに対して、インターネットは植物的なメディアである。ちょうど動物では、専門の受容器から入力された刺激を感覚神経が中枢に伝達し、記憶され、そこでの選択が運動神経を通して体の各部分の反応として出力されるように、マスメディアでは、専門の取材スタッフによって収集された情報が本社に送られ、蓄積され、そこで編集されたニュースが一般大衆の各端末に向けて配信される。

これに対してインターネットでは、情報を発信している人のほとんどは非専門家であり、すべての情報の受信者が、同時に情報の発信者となることができる。さらに、端末から端末へ伝達される情報が特定の中心を経由する必要がないという点でも、植物とインターネットは似ている。

私たちは、植物を動物よりも下等と考えがちである。同様に、メディア界の専門家のなかには、インターネットを無秩序で素人くさいメディアとして低く見る人もいる。しかし、インターネットの住民は、しばしばそう考えられるような、たんなる烏合の衆ではない。インタネットの無名の住民たちは、特定のリーダーが中心的な役割を果たしているわけでもないのに、まるで、アオイマメのように、誰ともなく刺激に反応し、誰ともなく決断し、彼らにとっての「外敵」を駆除することがある。

一つ例を挙げよう。2005年10月に鳥取県で「人権侵害救済推進及び手続に関する条例」が可決されたとき、こうした言論の自由の否定が全国に広がることを危惧する匿名掲示板2ちゃんねるの住民たちが、反対のための署名活動や鳥取県の産物に対するボイコット運動を起こした。その結果、2006年3月24日に、鳥取県議会は、施行を無期限で停止せざるをえなくなった。もしも、動物的メディアしか存在せず、かつそのメディアの中枢が特定勢力に乗っ取られているならば、その特定勢力に有利な法律が、人々が知らないうちに、成立してしまうということもありうるが、植物やインターネットでの脱専門化された分散型情報伝達には、動物やマスメディアでの専門化された集中型情報伝達につきまとう、そうしたリスクを極小化するというメリットがある。

動物は、例えば、目をやられるだけで光の刺激を全く受容できなくなるとか、中枢が死ぬだけで情報処理を全くすることができなくなって死ぬなど、局所攻撃に弱いが、植物では、特定部位の損傷が全体の情報処理機能を麻痺させることは比較的少ない。動物は機動性を重視し、植物は安定性を重視していると言うことができる。

3. “Web2.0”という新たな脱中心化

第三の波では、さらに新たな脱中心化が起きている。2000年代になって現れた、“Web2.0”と呼ばれている動きである。“Web2.0”の名付け親である Tim O’Reilly は、この言葉に明確な定義を与えなかったが、通常“Web2.0”という言葉は、ネットバブル崩壊後の次のような新しいトレンドを指す言葉として使われている。

Web1.0 と Web2.0
Web1.0Web2.0
HTMLXML
静的ホームページ動的ブログページ
構造化されていないデータの分立データベース化されたデータの共有
メールマガジンによる配信RSS/Atomによる更新告知
過去検索未来検索
ブリタニカオンラインウィキペディア
パッケージソフトウェブサービス
クローズド・ソースオープン・ソース
ヤフーディレクトリグーグルサーチエンジン

“Web2.0”を象徴する最近の周知の動きとして、ブログの流行を挙げることができる。日本では、ブログというと、たんなる日記サイトとしてしか考えられていなかったりするが、日記サイト自体はブログが流行する前から存在した。だから、しばしばそう指摘されるように、コンテンツが時系列順に並んでいるとか、頻繁に更新されるといった特徴が、ブログを画期的なものにしているというわけではない。

ブログの画期的特徴は、それがXML技術を採用し、データが構造化されているところにある。ブログの各ページは、RDFファイルによって、ファイルのメタデータを送ることができ、そして、読者は、それを利用して、お気に入りのキーワードで、ブログ横断的に、関連のあるページを集めることができる。もちろん、特定のブログのRDFファイルを登録して、すべてのエントリーに目を通すということもできるが、それでは、メールマガジンのようなWeb1.0的なプッシュ型メディアと変わらない。

RSSリーダーによるキーワード検索は、従来の検索エンジンによる過去検索とは異なって、未来検索である。ブログは雑然としていて読みにくいという人がいるが、それは、ブログをWeb1.0的に読んでいるからであって、Web2.0的には、各ブログは材料のデータベースに過ぎないのだから、それでよいということになる。

ブログが登場する以前、コンテンツの編集権は、作者や出版社にあった。しかし、未来検索を使うと、各ブログをページ単位で分解し、関心のあるテーマのページだけを集めた自分専用のブログ雑誌を作ることができるわけだから、読者も編集権を持つようになったと言うことができる。さらにマニアともなれば、たんに集めるだけでなく、コンテンツをリミックスし、同人誌的に再配布するようになる。

この流れは、雑誌だけでなくて、音楽の分野でも起きている。かつてリスナーは、ビニール・レコードに収録されている曲を、収録されている順番に聞いていた。CDとMDが普及すると、曲の順番を変えたり、気に入った曲だけ集めてオリジナルMDを作るようになった。オンラインでダウンロードしたり、ピアツーピアでファイル交換をしたりするようになると、リスナーはもはやパッケージで購入することなく、シングルだけを入手し、自己流に編集するようになる。

編集権の脱中心化のわかりやすい例は、オンライン百科辞典である。ネットがブームになると、ブリタニカオンラインのように、既存の百科辞典出版会社がネットに進出したが、編集方針は、編集委員が専門家に依頼して各項目を執筆してもらうという旧態依然たるもので、当初は検索サービスが無料だったが、広告で十分な収入が取れないとわかると、有料化するようになった。これと前後して台頭してきたのが、フリーの百科辞典『ウィキペディア』である。素人がそれぞれ勝手に各項目を投稿したり編集したりしているだけという無秩序さにもかかわらず、ネットユーザの評価は高く、いまやウェブで最もよく利用されている情報源の一つとなっている。

編集権の脱中心化は、コンテンツだけでなく、ソフトウェアのプログラムにまでおよんでいる。パッケージに入ったクローズド・ソフトをパソコンにインストールして使うだけの時代からオープンソフトをウェブをプラットフォームにして自由に編集して使う時代へと移行している。プログラムもコンテンツも、もはや作者が独占的に管理するものではなくなりつつあるわけだ。

Webサイト、Webアプリケーションは紙ではなく、プログラムです。プログラムだったら、自分のためにそれを変更する手段があってもよいじゃないか、と世の中のギークたちは考え始めました。提供者の考えに縛られない、自分たちのためのWebサイト、Webアプリケーション。それを実現する考え方として、プラットフォームとしてのWebサイトやRemixという考え方があります。

プログラムをいじって思い通りにカスタマイズできる人は、プログラマーという限られた人間けですが、インターネットには、プログラマーが作った成果物をみんなで使うための流通基盤があります。Webサイト開発者はWebサイトをプログラマブルに開発し、プログラマーはそれを使ってそのWebサイトをより便利に作り変え、より便利になったものを使いたい人が使う、Web 2.0はそんな世界なんですね。[6]

従来のPC向けソフトもある程度カスタマイズして使うことができたわけだが、それをネット上にいる他の人にも使ってもらうということはできなかった。だから、編集権が脱中心化されただけでなく、編集生成物がネット上で利用されるようになったところが画期的なのである。

Web2.0では、編集作業だけでなく、編集の基準となる評価までが脱中心化されている。かつて、Yahoo!のディレクトリに登録され、メガネマークをつけてもらえることが、良質なサイトの証であった時代があった。しかし、今では、日本人を除けば、Yahoo!のディレクトリを使っている人はほとんどいない。世界で最も人気のある検索エンジンは、Googleである。そして、Googleは、検索結果の順位の決定に、ページランクとリンクの有意性を使っている。Yahoo!のディレクトリでは、専属のスタッフが、サイトの良し悪しを判断して、掲載を決めているが、Googleでは、リンクをはるという行為を人気度を決める投票と解釈し、民主的にGoogleRankを決めている。後者は、前者とは異なり、コンテンツの評価権を脱中心化している。

三つの脱中心化を経ることで、人類の情報システムは、あたかも細胞一つ一つが受容器であり、神経であり、脳であるような、植物的な分散型のシステムになりつつある。こうした分散型システムは、第2項で指摘したように、リスクに強いという長所を持つ反面、効率性を犠牲にしているという短所をも持つ。実際、植物は、動物のように、機敏に行動することはできない。植物は、また、専門的な受容器や専門的な中枢を持っているわけではないので、その情報のクオリティが低い。インターネットで、素人が情報発信に参加するようになったことで、コンテンツが多様化しているが、他方で、プロは、収入を減らし、それによってコンテンツの質を下げざるをえなくなる。多様化の代償として全体的に質が低下し、偉大さが消滅する。その意味で、分散化には、文化を「植物状態」にしてしまうという側面がある。

4. 植物化するポストモダン

東浩紀は、オタク文化を例に取りながら、70年代以降のポストモダンが動物化しているという[7]。かつて存在した「大きな物語」は「萌え要素」へと分解され、データベース化され、それらが同人誌的にリミックスされているだけのシミュラークル(二次的作品)を消費する、欲求充足の直接性を、人間的に対立させて、動物的と形容しているわけだが、私のメタファーで言うならば、そうした「大きな物語の終焉」は、動物的であることを通り越して植物的である。

情報システムが植物的になるということは、近代的な偉人の時代が終焉し、中世的な平凡な時代に逆戻りするということなのかもしれない。私は、『戦争学』の書評で次のように書いた。

近代工業社会から現代情報社会へ変化は、古代から中世への変化と同様に、集権社会から分権社会への変化である。それは、2500年周期で寒冷期から温暖期へと移行するプロセスで起きるシステムの構造変動である。[8]

中世は暗黒時代だといわれている。四大文明の時代とその2500年後の古代文明の時代の間の時代も暗黒時代である。それは、必ずしもその時代が悲惨だったということではなくて、外から見ると、めぼしい情報活動がないがないように見えるという意味で、暗黒なのである。ちょうど、植物や「植物人間」を外から見ていると、意識がなく、何も活動せずに、眠っているようにしか見えないのと同じである。

暗黒時代というのは、直線的進歩を信じる近代人が中世を軽蔑して使った言葉だから、あまり良いイメージを喚起しないが、良いように表現するならば、安定した時代であるということになる。そうした時代では、偉人が、人類を危機から救うべく、独創的で革命的な文化を創造する必要はなく、革命の時代に出尽くした要素を組み替えるだけのパズル解き的な文化しか生まれない。中世のヨーロッパ人は、アリストテレス哲学と聖書の訓詁学的な解釈に終始していたが、現代のアカデミズムに見られる引用だらけの学術論文は、良く言えば、相互参照による知のネットワーク化であるが、悪く言えば、独創性の欠如であり、自立性の喪失である。“Web2.0”と呼ばれる、情報のデータベース化は、独創性が、要素の組み合わせからしか生まれなくなっている時代を反映している。

現代が中世化するといっても、かつての中世へと後退するわけではない。歴史は繰り返すが、それは単純な循環ではなくて、螺旋階段を上るように、ポテンツを高めながら循環する。そうしたポテンツの違いは、古代エジプト文明、古代ギリシャ・ローマ文明、近代ヨーロッパ文明といった2500年周期の寒冷期文明で確認することができる。

5. 追記(1)近代知と現代知

WEB.2と植物の認知システム – Akihiko Morita」に対するコメント。なぜ近代知は生物を機械とみなそうとしたのに対して、現代知は植物にまで意識を見出そうとするのかについて:

近代西欧社会において理性に比べて低いものと見なされていた感情、人間(動物)よりの低級とされていた植物が、まさに理性の発現の一つである自然科学の発展によって、その構造が明らかにされてきたというのは、実に面白いパラドックスである。[9]

近代においては、植物はもとより、人間をも含めた動物までもが、たんなる機械に成り下がりました。いわゆる人間機械論です。世界から精神的なものが剥ぎ取られ、デカルトにおいては、精神は、物体とわずかに松果腺(脳の一部)でつながっているにすぎません。

このモデルは、当時の王権神授説に基づく絶対王政の構図と同じです。中世では、分権的だったのが、近代になってから中央集権化が進みました。王国内の封建領主や僧侶から権利が剥ぎ取られ、神聖な権力は、臣民とわずかに国王でつながっているにすぎません。

その後、近代的な中央集権化は否定され、民主化が進みましたが、それと平行して、心身二元論が批判され、人間機械論も否定されるようになりました。現代の哲学では、心身は切り離せないという考えが主流です。その政治学版が主権在民の思想です。

最近の研究によると、人間の情報処理は脳だけがやっているわけではなく、心臓にも脳のような機能があるということがわかっています。そして、植物の情報処理のメカニズムも徐々に解明されています。このように、政治システムにおいて意思決定が分権化する一方で、情報システムの分権的な情報処理のあり方が発見されるという現象は、知識社会学的に興味深いものです。

6. 追記(2)Web2.0の定義

経営計画を考えろ!:WEB2.0?(難しい話になってしまいました)」に対するコメント。「植物型情報システムの時代 」で論じた編集権の脱中心化とプロのクリエイターの没落について再び論じます。

Web2.0 の名付け親である Tim O’Reilly は“Web2.0:次世代ソフトウェアのデザインパターンとビジネスモデル”で、Web2.0 とは何かを論じています。

この概念の説明ですが、積極的な定義付けがなされず、あーでもない、こーでもないみたいな否定形での定義づけになっています。
なんか、釈迦がといた仏の定義に近いものがありますね(そこでも30数個あーでもない、こーでもないとして仏を定義づけしています)。[10]

Tim O’Reilly は、否定形で定義をしているというよりも、明確な定義を与えることなく、新しいウェブのトレンドを個別事例を挙げて、読者にわからせようとしているという感じです。名付け親による、このはっきりしない特徴付けにいらだつ人も多いようですが、実は、あの定義の仕方それ自体が、Web2.0 的なのではないでしょうか。

著名人が「Web2.0 とはかくかくしかじかである」と定義して、大衆たちがそれをそのまま受け売りするという定義の普及が中央集権的な文化のあり方だとするならば、Web2.0 的なものを、個別要素へと分解し、読者にそれを自由に組み立てさせ、その是非をネットワークを通じて相互に論評させるる Tim O’Reilly の方法は、私にとって、編集権の脱中心化という意味で、Web2.0 の一つの例です。

確かに、最近の文章は引用があることが前提のような気がします。それが信頼性の高い情報で、論理的なものだという評価されているのではないでしょうか。[11]

インターネットで素人が創作活動に参加して以来、オリジナルを作る著名人とそれを模倣する無名人という差異の関係が相対化されたような気がします。例えば、アスキーアート(日本の場合、Shift JIS art なのだが)とか、いつ誰がオリジナルを作り、いつ誰がどこを改作したのかよくわからないシミュラークルが掲示板とかに氾濫しています。そうしたオリジナルの不在が未来の著作物のあり方なのかなと思ったりします。

7. 参照情報

関連著作
注釈一覧
  1. John Hooper in Rome. “Plants give off the smell of fear." The Guardian, Monday 12 April 2004 20.33 EDT.
  2. Maffei, Massimo, et al. “Effects of feeding Spodoptera littoralis on lima bean leaves. I. Membrane potentials, intracellular calcium variations, oral secretions, and regurgitate components." Plant Physiology 134.4 (2004): 1752-1762.
  3. Richard Dawkins. The Selfish Gene. OUP Oxford; 4版 (2016/6/2). p. 230.
  4. 奇跡体験!アンビリバボー. 「植物の知られざる力 クリーブ・バックスターの驚異の実験記録」フジテレビ. August 12nd, 2005.
  5. 大場 秀章.『植物は考える―彼らの知られざる驚異の能力に迫る』河出書房新社 (1997/08). p. 13.
  6. 伊藤直也.「アルファギークのブックマーク」Impress Watch. 2005/06/16.
  7. 東 浩紀.『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』講談社 (2001/11/20). 第二章.
  8. 永井俊哉.「松村劭の戦争学」『永井俊哉ドットコム』2006年4月13日.
  9. Akihiko Morita. “WEB.2と植物の認知システム." 2006年4月30日.
  10. 壮. “経営計画を考えろ!:WEB2.0?(難しい話になってしまいました)." 2006年05月01日.
  11. 壮. “経営計画を考えろ!:WEB2.0?(難しい話になってしまいました)." 2006年05月01日.