6月 292006
 

聖徳太子とは誰のことか」には読みにくい漢字があるので、振り仮名付き版を分割して作成しました。このページは、「聖徳太子とは誰のことか(仮名付き4)」の続きです。

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3. なぜ聖徳太子は作り上げられたのか(続き)

鎌足(かまたり)は、得意(とくい)権謀術数(けんぼうじゅっすう)により、晩年(ばんねん)天智天皇(てんぢてんのう)のもとに強大(きょうだい)権力(けんりょく)(にぎ)る。ただ、鎌足(かまたり)にとって、(ひと)計算(けいさん)(がい)のことが()きる。壬申(じんしん)(らん)である。天武天皇(てんむてんのう)勝利(しょうり)により、天智(てんじ)(がわ)(むす)びついていた藤原家(ふじわらけ)一時(いちじ)没落(ぼつらく)危機(きき)(さら)されたのだ。しかし、鎌足(かまたり)()不比等(ふひと)は、()()草壁皇子(くさかべのおうじ))を(つぎ)天皇(てんのう)にしたいと(ねが)鵜野讃良(うののさらら)皇女(のひめみこ)天智天皇(てんぢてんのう)(むすめ)天武天皇(てんむてんのう)(きさき))に接近(せっきん)し、権力(けんりょく)中枢(ちゅうすう)(むす)びつくことに成功(せいこう)した。天武天皇(てんむてんのう)()翌月(よくげつ)有力(ゆうりょく)天皇(てんのう)候補(こうほ)だった大津皇子(おおつのみこ)が、冤罪(えんざい)により自殺(じさつ)させられている。(あき)らかに不比等(ふひと)謀略(ぼうりゃく)である。ところが、草壁皇子(くさかべのおうじ)は、天武天皇(てんむてんのう)()()ける(まえ)に、28(さい)(わか)さで死亡(しぼう)する。

そこで、鵜野讃良(うののさらら)は、草壁皇子(くさかべのおうじ)遺児(いじ)である軽皇子(かるのみこ)成長(せいちょう)するまでの時間(じかん)(かせ)ぐために、(みずか)持統(じとう)天皇(てんのう)として即位(そくい)する。4(ねん)()藤原(ふじわら)(きょう)遷都(せんと)しているが、これも()()(きら)ってのことである。不比等(ふひと)は、皇位(こうい)継承(けいしょう)確実(かくじつ)にするために、689(ねん)飛鳥(あすか)(きよ)()(はら)(れい)において皇太子(こうたいし)制度(せいど)(つく)り、軽皇子(かるのみこ)最初(さいしょ)皇太子(こうたいし)にした。『日本書紀(にほんしょき)』が、立太子(りったいし)制度(せいど)神武(じんむ)以来(いらい)存在(そんざい)したように()いているのは、立太子(りったいし)制度(せいど)既成(きせい)事実(じじつ)()するためである。天武天皇(てんむてんのう)(だい)(いち)皇子(おうじ)で、持統(じとう)(ちょう)太政大臣(だじょうだいじん)(つと)めていた、つまり有力(ゆうりょく)天皇(てんのう)候補(こうほ)だった高市皇子(たけちのみこ)死亡(しぼう)した(暗殺(あんさつ)された?)翌年(よくねん)持統(じとう)天皇(てんのう)皇位(こうい)(まご)軽皇子(かるのみこ)(ゆず)った。これが文武(もんむ)天皇(てんのう)である。ところが、文武(もんむ)天皇(てんのう)は、25(さい)(わか)さで()んでしまった。

そこで、やむなく文武(もんむ)天皇(てんのう)(はは)が、文武(もんむ)天皇(てんのう)遺児(いじ)である首皇子(おびとのみこ)成長(せいちょう)するまでの時間(じかん)(かせ)ぐために、元明(げんめい)天皇(てんのう)として即位(そくい)する。3(ねん)()平城京(へいじょうきょう)遷都(せんと)しているが、これも()(けがれ)(きら)ってのことである。この(とき)不比等(ふひと)は、こう(かんが)えたはずだ。自分(じぶん)(まご)首皇子(おびとのみこ)病弱(びょうじゃく)で、(さき)不安(ふあん)だ。持統(じとう)(けい)皇族(こうぞく)外戚(がいせき)となって、権力(けんりょく)掌握(しょうあく)しようとする自分(じぶん)計画(けいかく)は、なぜこうもうまくいかないのか。これは、きっと怨霊(おんりょう)のたたりがなせる(ごう)相違(そうい)ないと。

不比等(ふひと)(ちち)鎌足(かまたり)で、持統(じとう)(ちち)天智天皇(てんぢてんのう)中大兄皇子(なかのおおえのおうじ))である。鎌足(かまたり)中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、蘇我(そが)一族(いちぞく)滅亡(めつぼう)させた。だから、「子孫(しそん)断絶(だんぜつ)となった蘇我(そが)一族(いちぞく)怨霊(おんりょう)は、鎌足(かまたり)中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)子孫(しそん)断絶(だんぜつ)させることにより、復讐(ふくしゅう)をしている。白村江(はくすきのえ)(たたか)いや壬申(じんしん)(らん)での敗北(はいぼく)草壁皇子(くさかべのおうじ)文武(もんむ)天皇(てんのう)夭折(ようせつ)も、すべて蘇我(そが)()のたたりだ」と不比等(ふひと)(かんが)えたに(ちが)いない。

怨霊(おんりょう)(わざわ)いから(のが)れるには、遷都(せんと)のような消極(しょうきょく)(てき)方法(ほうほう)ではなくて、鎮魂(ちんこん)という積極(せっきょく)(てき)方法(ほうほう)必要(ひつよう)である。歴史(れきし)(しょ)執筆(しっぴつ)し、蘇我(そが)()功績(こうせき)絶賛(ぜっさん)し、(かれ)らの(たましい)(なぐさ)めなければならない。だが、そうすれば、蘇我(そが)()(ほろ)ぼした鎌足(かまたり)中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)悪玉(あくだま)になってしまう。そこで、蘇我(そが)()悪玉(あくだま)善玉(ぜんだま)分割(ぶんかつ)し、善玉(ぜんだま)(なか)に、蘇我(そが)()全体(ぜんたい)象徴(しょうちょう)する架空(かくう)人物(じんぶつ)()れ、その(ひと)(かみ)として(あが)(まつ)ろう。そうすれば、一方(いっぽう)藤原(ふじわら)()面子(めんつ)をたてながら、他方(たほう)蘇我(そが)()供養(くよう)をすることができる。不比等(ふひと)は、こう(かんが)えたわけだ。

かくして、聖徳太子(しょうとくたいし)伝説(でんせつ)誕生(たんじょう)する。聖徳太子(しょうとくたいし)伝説(でんせつ)誕生(たんじょう)したのは、文武(もんむ)天皇(てんのう)死没(しぼつ)の5(ねん)()にあたる712(ねん)(ごろ)である。法隆寺(ほうりゅうじ)再建(さいけん)されるのもこの(ころ)である。梅原(うめはら)(たけし)は、法隆寺(ほうりゅうじ)聖徳太子(しょうとくたいし)怨霊(おんりょう)鎮魂(ちんこん)するための(てら)であると主張(しゅちょう)したが、この見解(けんかい)(たい)しては、従来(じゅうらい)、なぜ山背大兄(やましろのおおえの)(おう)入鹿(いるか)ではなくて、厩戸皇子(うまやどのみこ)怨霊(おんりょう)とされなければならないのかという批判(ひはん)()げかけられてきた。だが、もしも、聖徳太子(しょうとくたいし)厩戸皇子(うまやどのみこ)という特定(とくてい)個人(こじん)ではなくて、蘇我(そが)一族(いちぞく)全体(ぜんたい)(まつ)った(かみ)(かんが)えるならば、そうした疑問(ぎもん)氷解(ひょうかい)する。

(ふる)くから日本(にほん)には、子孫(しそん)断絶(だんぜつ)となった政治(せいじ)(てき)敗者(はいしゃ)は、たたりをなすと(かんが)える怨霊(おんりょう)信仰(しんこう)がある。その(さい)複数(ふくすう)被害(ひがい)(しゃ)が、(ひと)つの(かみ)へと(まつ)()げられるという現象(げんしょう)がしばしば()きる。(たと)えば、『古事記(こじき)』や『日本書紀(にほんしょき)』は、大和(やまと)三輪山(みわやま)のオオモノヌシと出雲(いずも)のオオクニヌシを同一(どういつ)(しん)としているが、両者(りょうしゃ)本来(ほんらい)別々(べつべつ)(かみ)だったはずだ。それが、邪馬台(やまと)東征(とうせい)()征服(せいふく)(しゃ)という共通(きょうつう)(こう)によってくくられ、同一(どういつ)()されてしまった。

藤原(ふじわら)()怨霊(おんりょう)(たい)する恐怖(きょうふ)(しん)は、不比等(ふひと)()(にん)()相次(あいつ)いで死亡(しぼう)するという737(ねん)劇的(げきてき)出来事(できごと)(さかい)に、エスカレートしていく。その(ころ)になると、怨霊(おんりょう)(たい)して、(はじ)外聞(がいぶん)もなく自分(じぶん)たちの()(みと)め、高位(こうい)高官(こうかん)追贈(ついぞう)するなど、怨霊(おんりょう)鎮魂(ちんこん)のサービスも過大(かだい)になる。だが、不比等(ふひと)時代(じだい)には、藤原(ふじわら)()はまだ面子(めんつ)にこだわっていたので、聖徳太子(しょうとくたいし)伝説(でんせつ)怨霊(おんりょう)信仰(しんこう)産物(さんぶつ)であることが非常(ひじょう)にわかりにくくなっている。

日本書紀(にほんしょき)』は、天皇(てんのう)(いのち)()けて、舎人親王(とねりしんのう)編集(へんしゅう)したことになっている。しかし実際(じっさい)には、『日本書紀(にほんしょき)』は、中立(ちゅうりつ)(てき)立場(たちば)から編集(へんしゅう)された歴史(れきし)(しょ)ではなく、藤原(ふじわら)()政治(せいじ)(てき)思惑(おもわく)によって、歪曲(わいきょく)されている。不比等(ふひと)は、それをもカムフラージュするために、自分(じぶん)を『日本書紀(にほんしょき)』の編集(へんしゅう)(しゃ)であることを公言(こうげん)しなかった。

(わたし)たちは、藤原(ふじわら)()による歴史(れきし)歪曲(わいきょく)怨霊(おんりょう)信仰(しんこう)のからくりを理解(りかい)し、聖徳太子(しょうとくたいし)正体(しょうたい)(ただ)しく認識(にんしき)しなければならない。(とく)にこれまで極悪(ごくあく)(にん)(あつか)いされてきた蘇我馬子(そがのうまこ)(さい)評価(ひょうか)するべきだ。蘇我馬子(そがのうまこ)は、野蛮(やばん)だった日本(にほん)を、国際(こくさい)(てき)通用(つうよう)する文明(ぶんめい)(こく)にした有能(ゆうのう)政治家(せいじか)だったのだから。

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