6月 252006
 

聖徳太子とは誰のことか」には読みにくい漢字があるので、振り仮名付き版を分割して作成しました。このページは、「聖徳太子とは誰のことか(仮名付き3)」の続きです。

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3. なぜ聖徳太子は作り上げられたのか

日本書紀(にほんしょき)』の編者(へんしゃ)は、舎人親王(とねりしんのう)であるということになっている。しかし、本当(ほんとう)編集(へんしゅう)責任(せきにん)(しゃ)は、藤原不比等(ふじわらのふひと)だという(せつ)有力(ゆうりょく)である。『日本書紀(にほんしょき)』では不比等(ふひと)(ちち)である鎌足(かまたり)功績(こうせき)がことさらに粉飾(ふんしょく)されていること、最初(さいしょ)は「フヒト」に「不比等(ふひと)」ではなくて、史書(ししょ)編集(へんしゅう)とのつながりを(しめ)す「(ふひと)」という()()てられていたこと、『日本書紀(にほんしょき)』が編集(へんしゅう)されていた(ころ)不比等(ふひと)が、その()のごとく、(ほか)(なら)ぶものがないほどに権力(けんりょく)絶頂(ぜっちょう)にあったことを(かんが)えると、不比等(ふひと)が、『日本書紀(にほんしょき)』の内容(ないよう)(くち)をはさまなかったと(かんが)えることは()現実(げんじつ)(てき)である。

では、藤原不比等(ふじわらのふひと)は、なぜ『日本書紀(にほんしょき)』の編集(へんしゅう)責任(せきにん)(しゃ)であることを名乗(なの)らなかったのだろうか。(じつ)は、これは(きわ)めて藤原(ふじわら)()らしいやり(かた)なのである。藤原(ふじわら)一族(いちぞく)というのは、現代(げんだい)日本(にほん)政界(せいかい)()えば、経世会(けいせいかい)のような、(みずか)らは権力(けんりょく)(おもて)舞台(ぶたい)()つことなく、傀儡(かいらい)背後(はいご)(あやつ)るキングメーカー(がた)政治家(せいじか)集団(しゅうだん)である。鎌足(かまたり)不比等(ふひと)も、生前(せいぜん)最高(さいこう)()太政大臣(だじょうだいじん)になっていない。しかし、それ以上(いじょう)に、不比等(ふひと)には、『日本書紀(にほんしょき)』の編集(へんしゅう)責任(せきにん)(しゃ)であることを表立(おもてだ)って名乗(なの)ることができない事情(じじょう)がある。

日本書紀(にほんしょき)』によれば、馬子(うまこ)(まご)入鹿(いるか)は、人望(じんぼう)(あつ)めていた聖徳太子(しょうとくたいし)()山背大兄(やましろのおおえの)(おう)一族(いちぞく)殺害(さつがい)した。そのため入鹿(いるか)は、(ちち)蝦夷(えみし)とともに、乙巳の変(いっつしのへん)において、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)鎌足(かまたり)たちから、正義(せいぎ)報復(ほうふく)()けて、(ころ)された。(わたし)たちは、この勧善懲悪(かんぜんちょうあく)のストーリーをそのまま()()れてよいだろうか。

日本書紀(にほんしょき)』をもっと(くわ)しく()もう。そこには、山背大兄(やましろのおおえの)(おう)直接(ちょくせつ)襲撃(しゅうげき)したのは巨勢徳太(こせのとこだ)だと明記(めいき)されている。もしも乙巳の変(いっつしのへん)が、聖徳太子(しょうとくたいし)子孫(しそん)絶滅(ぜつめつ)させたことに(たい)する正義(せいぎ)報復(ほうふく)ならば、入鹿(いるか)とともに、巨勢徳太(こせのとこだ)乙巳の変(いっつしのへん)処罰(しょばつ)されてもおかしくないはずだ。ところが、この巨勢徳太(こせのとこだ)は、大化(たいか)改新(かいしん)で、処罰(しょばつ)されるどころか、左大臣(さだいじん)にまで昇進(しょうしん)している。これは一体(いったい)どういうことなのか。

日本書紀(にほんしょき)』と(どう)時代(じだい)史料(しりょう)(ふじ)()家伝(かでん)』によると、入鹿(いるか)は、「(しょ)皇子(おうじ)」とともに(はか)って山背大兄(やましろのおおえの)(おう)殺害(さつがい)したとあるが、この(しょ)皇子(おうじ)とは(だれ)のことなのか。一人(ひとり)は、入鹿(いるか)が、山背大兄(やましろのおおえの)(おう)()えて、天皇(てんのう)にしたいと(かんが)えていた古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)であろうが、「(しょ)皇子(おうじ)」は複数(ふくすう)(かたち)であるから、(すく)なくとも、もう一人(ひとり)必要(ひつよう)である。巨勢徳太(こせのとこだ)が、軽皇子(かるのみこ)側近(そっきん)であることを(かんが)えるならば、軽皇子(かるのみこ)一味(いちみ)であったはずだ。

上宮(じょうぐう)聖徳太子(しょうとくたいし)(でん)()(けつ)()』は、蘇我蝦夷(そがのえみし)入鹿(いるか)軽皇子(かるのみこ)巨勢徳太(こせのとこだ)大伴(おおとも)(うま)馬甘連(みまかいのむらじ)中臣塩屋牧夫(なかとみのしおやのひらふ)主謀(しゅぼう)(しゃ)として列挙(れっきょ)している。『上宮(じょうぐう)聖徳太子(しょうとくたいし)(でん)()(けつ)()』は、平安(へいあん)時代(じだい)前期(ぜんき)()かれた(ほん)だが、『日本書紀(にほんしょき)』や『四天王寺(してんのうじ)聖徳(しょうとく)(おう)(でん)』に疑問(ぎもん)()った匿名(とくめい)著者(ちょしゃ)が、古書(こしょ)調査(ちょうさ)して()いた(ほん)であり、無視(むし)できない。このリストを()ると、蘇我(そが)()以外(いがい)は、大化(たいか)改新(かいしん)権力(けんりょく)()についた人物(じんぶつ)であることがわかる。(すなわ)ち、大化(たいか)改新(かいしん)によって、軽皇子(かるのみこ)孝徳天皇(こうとくてんのう)として即位(そくい)し、大伴(おおとも)(うま)馬甘連(みまかいのむらじ)は、巨勢徳太(こせのとこだ)左大臣(さだいじん)になった(とき)右大臣(うだいじん)となった。

中臣塩屋牧夫(なかとみのしおやのひらふ)は、中臣(なかとみ)藤原(ふじわら)()であること以外(いがい)(なに)もわからないが、この(おとこ)正体(しょうたい)(なに)か。大化(たいか)改新(かいしん)で、軽皇子(かるのみこ)天皇(てんのう)になることができたということは、軽皇子(かるのみこ)中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)双方(そうほう)(した)しくしていた媒介(ばいかい)(しゃ)がいたということである。そのような人物(じんぶつ)は、中臣(なかとみの)藤原(ふじわらの)鎌足(かまたり)以外(いがい)(かんが)えられない。だとするならば、中臣塩屋牧夫(なかとみのしおやのひらふ)は、鎌足(かまたり)ということになる。

鎌足(かまたり)は、『六韜(りくとう)』を愛読(あいどく)したマキャベリストで、蘇我(そが)()内部(ないぶ)(あらそ)いを利用(りよう)しながら、蘇我(そが)()弱体(じゃくたい)()させ、蘇我(そが)()()わって権力(けんりょく)()にした。(すなわ)ち、入鹿(いるか)味方(みかた)にして蘇我(そが)(けい)山背大兄(やましろのおおえの)(おう)一族(いちぞく)殺害(さつがい)し、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわのまろ)味方(みかた)にして入鹿(いるか)蝦夷(えみし)殺害(さつがい)し、蘇我(そがの)日向(ひむか)讒言(ざんげん)させて、石川(いしかわの)()()謀叛(むほん)(うたが)いをかけ、自殺(じさつ)()()み、(のち)にこの讒言(ざんげん)(うそ)であるとして日向(ひむか)筑紫(つくしの)大宰師(だざいのそつ)へと左遷(させん)する。この鎌足(かまたり)謀略(ぼうりゃく)により、蘇我(そが)()完全(かんぜん)没落(ぼつらく)する。

その(なか)でも、クライマックスは蘇我入鹿(そがのいるか)暗殺(あんさつ)である。石川(いしかわの)()()(さん)(かん)貢進(こうしん)()だと()って入鹿(いるか)内裏(だいり)(おび)()せ、石川(いしかわの)()()上表(じょうひょう)(ぶん)()()げている(とき)に、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(みずか)らが、入鹿(いるか)()りつけた。鎌足(かまたり)弓矢(ゆみや)(たずさ)えて、暗殺(あんさつ)参加(さんか)した。『日本書紀(にほんしょき)』は、そう()いている。しかし、これは、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)鎌足(かまたり)英雄(えいゆう)印象(いんしょう)()けるための脚色(きゃくしょく)ではないだろうか。

もし本当(ほんとう)に、当日(とうじつ)新羅(しらぎ)百済(くだら)高句麗(こうくり)使者(ししゃ)()ていたならば、(かれ)らは目撃(もくげき)したこのショッキングな事件(じけん)本国(ほんごく)報告(ほうこく)するはずだが、(さん)(かん)歴史(れきし)(しょ)はどれもこの事件(じけん)記録(きろく)していない。それならば、(さん)(かん)使者(ししゃ)()たというのは、入鹿(いるか)(おび)()せるための(うそ)で、入鹿(いるか)は、(さん)(かん)使者(ししゃ)(よそお)った刺客(しかく)によって(ころ)されたと(かんが)えることができる。こう(かんが)えれば、従来(じゅうらい)不可解(ふかかい)とされてきた古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)目撃(もくげき)証言(しょうげん)(かん)(じん)鞍作臣(くらつくりのおみ)入鹿(いるか)のこと)を(ころ)しつ」を理解(りかい)することができる。

日本書紀(にほんしょき)』の執筆(しっぴつ)(しゃ)は、政治(せいじ)(てき)思惑(おもわく)()たない官吏(かんり)である。編集(へんしゅう)責任(せきにん)(しゃ)である不比等(ふひと)は、自分(じぶん)都合(つごう)()いように、部分(ぶぶん)(てき)修正(しゅうせい)(くわ)えただけに(ちが)いない。部分(ぶぶん)(てき)捏造(ねつぞう)()整合(せいごう)()()す。その()整合(せいごう)解消(かいしょう)するべく、整合(せいごう)(てき)歴史(れきし)解釈(かいしゃく)(さい)構成(こうせい)する(とき)不比等(ふひと)がどのような思惑(おもわく)歴史(れきし)歪曲(わいきょく)しようとしたかが()えてくる。

不比等(ふひと)目指(めざ)したのは、大化(たいか)改新(かいしん)正当(せいとう)()である。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)鎌足(かまたり)功績(こうせき)美化(びか)するためには、二人(ふたり)によって排除(はいじょ)された蘇我(そが)()悪玉(あくだま)にしなければならない。蘇我(そが)()悪玉(あくだま)にするには、入鹿(いるか)によって殺害(さつがい)された山背大兄(やましろのおおえの)(おう)兄弟(きょうだい)子供(こども)たちを、したがってその()である厩戸皇子(うまやどのみこ)聖徳太子(しょうとくたいし)として善玉(ぜんだま)にしなければならない。こうして、おなじみの勧善懲悪(かんぜんちょうあく)のストーリーが()まれた。

しかしながら、この説明(せつめい)は、なぜ『日本書紀(にほんしょき)』が、聖徳太子(しょうとくたいし)という人物(じんぶつ)捏造(ねつぞう)し、それを(かみ)のごとく(あが)めるのかという()いに(たい)する(こた)えとしては、不十分(ふじゅうぶん)である。聖徳太子(しょうとくたいし)信仰(しんこう)萌芽(ほうが)は、712(ねん)完成(かんせい)した『古事記(こじき)』に登場(とうじょう)する「上宮之厩戸豊聡耳命王(うえのみやのうまやどのとよとみみのみこと)」という言葉(ことば)()()れる。それゆえ、712(ねん)から『日本書紀(にほんしょき)』が成立(せいりつ)する720(ねん)にかけて、不比等(ふひと)がどのような状況(じょうきょう)()かれていたかを()なければならない。

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  One Response

  1.  能のことは良くわからないが、金春流というのがあるようですが、どかかによく出てくる金春秋と似ていると思うのは、私だけではないような気がします。
     それにしても、日本史は面白いですね。明智光秀が生きていたと思われるとか、まだまだ隠されている事実が多いように思えます。
     昔の天皇の古墳が、早く公開される日が待ち遠しいです。

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